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二つの家を繋ぐ回想
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)二月《ふたつき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)朝から様子を見に行って居たとり[#「とり」に傍点]が
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 厭だ厭だと思い乍ら、吉祥寺前の家には、一年と四ヵ月程住んだ。あの家でも、いろいろな事に遭遇した。此の家に移ってからも、二月《ふたつき》と経たないうちに、上野で平和博覧会が開かれた。続いて又、プリンス・オブ・ウェルスが四月十二日に来朝される。――
 福井から、Aの父が、一遍は我々の家に来て見たい希望のあることは、去年から知られて居た。丁度五月頃、自分が開成山に行って居る時、Aは、独りで寂しいから、来られませんかと云ってあげたのだそうだ。自分は其を知らず、一ヵ月許りの独居から戻って来た。Aは、直ぐ先方に断りを出した。切角決心をし、どんな鞄を持って行こうなどとさえ相談を始められたのに中止したと、夏休みに行って、始めて聴いたのであった。
 自分の為に、きっさきを折られて、折角の楽しい予想が裏切られたかと思うと、私は、七十になった老父の為に相すまなく感じた。
 十六年も別れて居た息子だ。生きて居るうちに、又とは会われまいと覚悟さえした息子だ。其が、思いがけない時に戻って来た許りでなく、東京で、地方人の心で云えば、立派に生活して居ることを思えば、一度は其有様を眼に見たいのは無理もない。
 今年の春休こそは、呼んで上げよう。それ迄に、どうか云うことはないように。自分は冬の中から願って居たのである。
 二月に引越せたと云うことは其為にも都合がよかった。三月に入るとすぐ、自分達の心構えを知らせ、上京を促した。私は、悦ばしく、自分の出来る限りを尽す気持で、派手になった十七八頃の銘仙衣類等を解いて、彼の使うべき夜着になおしたり何かした。
 彼も来られると云う。四月の始め迄居る積りで、三月の二十日以後に此方は出発しようと云って来た。それ等のことで仕事が出来なくなるのは眼に見えて居る。然し、自分にとって、今度、彼を迎えると云うことは、其不快以上の歓びと感じられた。自分は、それ迄にと思って、約束のある原稿は書き、心をからにして、老人を迎える仕度にかかったのである。
 処が、生憎、三月に入ると、とり(女中)の娘が病気にかかって、家に居られないことになった。
 上の娘は、三輪の郵便局の細君になって居る。二女が二十一二で、浜田病院に産婆の稽古をして居る。うちにもちょくちょく遊びに来る、色白な、下膨れの一寸愛らしい娘であった。先頃、学校を出たまま何処に居るか、行方が不明になったと云って、夜中大騒ぎをしたことがある。それも、病気を苦にして、休みたかったのだったそうだが、今度は、愈々腹膜になって、ひどい苦しみようだと云うのである。
 朝から様子を見に行って居たとり[#「とり」に傍点]が
「奥様、もう駄目でございますのよ!」
と云い乍ら、顔をかえて水口から入って来た時、自分は、ぎょっとした。
 彼女の息子二人は、結核で死んで居る。又、今度も! と云う感じが、忽ち矢のように心を走ったのである。
 生きるか死ぬか、母娘諸共と云うような場合、此方の困ることを云っては居られない。
 父の上京のことも思い合わせたが、自分等は、さっぱり彼女に暇をやった。
 一方には、漠然と、瞬間を利用した形跡がないでもない。Aは、先頃から彼女の、神経を疲らす甲高声と、子供扱いとに、飽きが来て居た。何処か性に合わない処もあるらしい。やめたいとは、前から云って居たことだが、此方から来ないかと云って来させ、もう帰れとは云えない。それが、此、刹那にすっかり位置が変り、相方の希望が一つの形に於て満されると云うことになったのではないだろうか。
 後の代りがないことは、少くとも、自分には判り過る程解って居た。が、いざと云う時にはどうか成ろう。
 正直に云うと此事より、自分にとっては、深い心懸りが他に一つあった。それは、林町と我々、寧ろAと母との間に不調和があり、去年の九月から、彼は、林町へ来ることを止められて居ると云うことなのである。
 老人に、云うべきことではない。彼が来れば勿論、林町へ挨拶に行こうと云われるだろう。Aの行かないのは変だ。
 彼の来られる前、何とか今の状態を換えることは出来ないだろうか。
 云わずとも、Aは勿論其事を思って居る。
 其為にも、又、老人の上京等と云うことを抜きにして考えても、彼と母との間が、あまり長い間、左様な有様で居るのは、不自然すぎる話である。何とか理解し合う機会にもと、Aは、二月の十一日から十三日迄、私の誕生日をよい折に、二人を晩餐に招こうとした。一月の中旬から考を定め、二人の気にさわらないようにフォーマルなインビテーションを書き、都合を問ねて置いたのである。
 けれども、何にしろ父上は、いそがしい。その一日か二日前にならなければ、はっきりした返事は出来ないと云う有様である。母上も、はっきりしない。私を呼び、切角云って来たのを、断るのも余りひどいからと、お父様もたって仰云るから[#「お父様もたって仰云るから」に傍点]、まあ行こうと思っては居るが、と云う程度である。
 私の心持では、Aが、自分から進んで、其丈の配慮をしたことに、深い慶びを感じて居た。其だのに、彼方では一向、此方ほどの熱意を示して呉れない。半分、いやいや恩にきせたような母上の口吻を、自分は下等に感じた。彼女が自分の口から、来るな、会わない、と迄云い切ったのを、今更取り消し、折れることが、如何に、性格として不可能かは判って居る。其故、彼女を立て、此方から、被来って下さいと云うのに、何故からりと、朗らかに、その譲歩を受けられないのだろう。
 いつまでも、ぐずぐずして定らず、自分も気が抜けたような処へ、丁度、此、青山の家が見付かった。
 前後して、元老の山縣公が、一般の無感興の裡にじりじりと死滅して、十日が、国葬であった。為に、確答がないから、繰り合わせてもよいものと思い、林町へ頼み、定ったら来て貰うべき日であった二月十一日に、引越しをしてしまったのである。
 落付いたら、来て頂こうと思い、又、手紙を出した。それも、父上の言葉では、いそがしく、いつがよいか決定しない。ついそのままとなって仕舞ったのである。事の直接原因は、私が昨年の九月、太陽に書いた「我に叛く」が基となって居る。
 兎に角、相互の間に、一脈の疎通が出来た今になっても、此一事は、自分に深大な考の酵母となって居る。つまり、芸術家と普通人との間には、如何に、物象の観方に純粋さの差異があるか、又、その差異が、一種常套的な道徳感のようなものと結合して、一般人の胸からは、如何程抜き難いものになって居るか、と云うことの反省である。
 事なら事を、其自体、人間の、或位置と位置との関係の間に生じた一つの現象として、平静に、理解と愛と洞察とを以て、観ることは出来ない。直ぐ、自分とか誰とか云う意識に遮られ、中流、上に足を入れかけた中流人の、貪慾に近い名誉心を傷けられ、又、おだてられる。
 苟且《かりそめ》にも、小説に書く場合には、私自身のことを書いて居ても、決して、私心を以て描くのではない。心持それ自身を、或圏境に於ける、或性格の二十何歳の女は、斯う思った、と、自ら観、書くのだ。本能が観察せずには居ないのですから、と云っても、其は通じない。「我に叛く」の場合では、此点が、一層、複雑にもつれた。母上は、自分が、完く仕様のない母として故意に描かれて居ると思い込み、始めは、Aが、私を教唆して、あれを書かせたと迄、思われたのだ。
 自分が如何《ど》う云う内的の動機で書いたか、説明は耳では聞かれる。が、心に些も入らない。
 九月の初旬、母は、憤って私を呼びつけられた。
 如何程、熱心と誠意とで説明しただろう。
 自分は、一大危機に面して居るのを覚えた。どうかして、彼女に理解し、納得して貰わなければならない。芸術家としての一生には、此から、猶此様なことが起らないとは限らない。その度に、斯程の誤解と、混乱があるのでは、どうしたらいいのか。又、彼女の威脅や涙に、創作を掣肘されては堪えられない。今まで、自分は充分、それを受けて来た。やっと、人間として生活し始め、独特な作品も出ようと云う時、又、再び、貧しき人々の群を書いた頃の、従順を期待されては、全く、一箇の芸術家として、立つ瀬がないではないか。
 これ程、自分の感情、よく云われる悪く云われる、世間体、体面を喧しく云われるのなら、何故、自分を仮にも芸術家として世に立たせて呉れた。何故、左様な天分を与えて生んで呉れた!
 涙が、押えても流れた。母と自分の為、一生の用意の為、自分は、心のあらいざらいの熱誠をこめて、話した。
 母も泣かれる。
 私なんかは、如何う云われようが、何と思われようがお前の芸術さえ、崇高なものになれば、構わない。けれども、そうは思えないのだもの、どうしたって、左様は思われないのだもの。
 あれから、考えて考えて、夜も碌々眠らない、と泣かれる。
 私の仕事を思って呉れられる愛、それをもう一歩、真個に、もう一重、ぽん! と皮を打ち破って、広い処へ、何故出られないのだろう。
 何故、出て見よう、とはされないのだろう。
 彼女の愛は身にこたえる。然し、不明な点は、一歩もゆずれない。一言、悪かったと云ったら、私は、少くとも、今度の恋愛、結婚、すべてを悪かった、と自認したごとくなるだろう。未来の一生を、彼女の、狭い、純潔だが、偏した、善悪の判断の下に、終始しなければならなくなるだろう。
 寒い日で、炬燵にさし向い、自分等は、長い間話した。
「解らない。どうしても、私とは一致しない処がある。お前はボルシェビキだよ。確に過激派だ」
 すっかり理解が出来たと云うのではなくても、思って居たこと丈は兎に角云って、少しは心も溶けたと云う風を見、其日は帰った。
 Aは、詰らない、何故そう判らないのか、と云って厭な顔をする。特に、彼にとっては、母が、陰で小細工をした等と思われた事が、ひどく不快なのである。
 その内に、九月も下旬になった。
 或日の午後、オートバイでK男が来て、今晩、是非二人で来いと、伝言を齎した。
 勿論、前の続きであるとは推察される。母はきっと、二人を並べて、もう一度、みっしり自分の考を明にされたいのだろう。物事を、或時、ぼんやりさせて置けない彼女の性格としては無理もない。然し、私は、如何うしたらよいのだろう。幾度、母の愁訴、憤怒にあっても、心の態度は、もう定って居る。一層解って貰えるように、一層、心に入り易いように、先日話した諸点を、又繰返すほかないのである。
 二人は陰気な心持で、夜店の賑やかな肴町の大通りを抜けた。
 H町の通りは、相変らず暗い。ずっと右手に続いた杉林の叢の裡では盛に轡虫が鳴きしきり、闇を劈くように、鋭い門燈の輝きが、末拡がりに処々の夜を照して居る。
 父上は、まだ帰って居られなかった。いつもの正面の場処から、母が、隔意のある表情で、
「いらっしゃい」
と軽く頭を下げられる。
 自分は居難い心持がした。彼女が何を思って居られるのか判らず、周囲の人も亦、知ったような、判らないような、何処となく不自然な雰囲気を以てかこんで居るのである。
「――じゃあ、一寸二階へ来てお貰いしましょう」
 やがて、自分等は、二階坐敷へつれられた。
 先に立った母が、改って坐布団などを出される。自分は、其那片苦しい待遇に堪えないで、縁側にある長椅子に腰をかけた。
 Aは、母と相対して坐らざるを得ない。
「貴方も、勿論、もう百合子からお訊きでしょうし、又斯う云う事になると云う位は、若い者でもないのだから前以て御存知だったでしょうが、一体、あの――何ですね、今度百合子が書いたものを、どうお思いです?」
 彼女は、強いて落付き、足場を踏みしめた態度で口を切り始めた。
「どうと云って、私の目から見れば、相当によく出来て居ると思います」
「小説としては、それは、よく書いてありましょう。然し、貴方は、あの中に、何か御気の付いたことはなかったんですか」
 Aが返事をしないうちに、彼女は、あとをついだ。
「若し、何か、世間に対して、如何うかと思うような点があったら、注意して、なおさせてやって下さるのが当然ではないでしょうか。御承知の通り、百合子はまだ若いんだし、世の中のことは知らないのだから、貴方が指導して、正しい道を歩かせて下さってこそ、私は、良人としての価値があると思うのです」
「それは、勿論」
 Aは、詰問的な母の口調にあって、少なからず、感情の自由な活動を遮られ、言葉がうまく自然に出ないと云う風に見えた。
「いろいろな日常生活のことでですね、僕も出来る丈忠告もし、いいと思う方に進めもします。けれども、書くものについて丈は、僕は、一口も挟まないことにして居ます、どこまでも、自由に、自分のものを現わさなければいけないと思いますから」
「だけれども、何も、悪い自分のものまでを、放縦に現わす必要はないではありませんか」
 母は次第に亢奮を押え切れなくなった。
「先達って、百合子が来た時にも、随分熱心に話したのだけれども、どうしても合わない、間違った処がある。自分の心に感じたことは、何でも書かずには居られないと云うが、親を苦しめ、夜もろくろく眠られないような思いをさせることを、何もわざわざ書くには及ぶまいと、私は思うのです。芸術の使命と云うものは、決して其那低い処にあるのではない」
 彼女は、私の説明も、Aの弁解も聞かれなかった。
 涙をこぼし、顔つきを変えて、云いつのる。そして、終に、
「斯うやって私達が会うからこそ、お互に不愉快なこともあれば、誤解することもある。それを一々百合子が書かずに居られないようでは、決して為にはならない。だから、斯うします。お互にもっと諒解し合えるまで、貴方にも百合子にも、決して御目にかかりません。私には、実際辛い。死んでしまうかもしれないけれども――その方が結局、百合子の幸福になれば仕方がありません。貴方も御安心でいいでしょう」
 私には、全く意外のことであった。
 会えば不愉快なことがあり、私が何か書くといけないと云って、絶交すると云うことが、親子の間にあり得ることだろうか。
 彼女の涙のうち、掻口説かれる言葉のうちに、自分は、明に其に堪えない執着、もうあんなことは問題にして居ない愛の熱を感じた。
 私は母の為に、其那感情の本質的な無理をすることが恐ろしく思われた。
 幾度も会い、話し合ってこそ、物は理解されるのではないだろうか。それを、辛い、苦しい、死ぬかもしれないと云う思いで私を拒け、而も半分Aへの面当てのように絶交して、それで何のサルベーションがあるだろう。
 私は若い。斯程不自然な苦しいことも、何かの途で活かすことが出来る。然し、母は、後に、涙ばかりを遺し、結局、最大の問題である芸術に対する理解の欠乏に何の発展もなければ、万事は只、破壊ばかりになってしまうのではないだろうか。
 Aが何か云おうとしても
「もう何も云わないで下さい。今夜は、私の考えたこと丈をきいて頂くためにお呼びしたのだから、何を仰云ってもききません」
と斥けられる。
「おかあさま、それでいいの? 何だか余り……」
 自分は、到頭泣き出してしまった。彼女が、何とも云えず狂暴に、何とも云えず苦しさに混乱して居る様子が、自分には、云いようなく辛かった。和らぎたい心持は、溢れる程胸に満ちて居る。而も、私は仕事のことを思うと、もう親にも良人にも代えられない献身を覚え、その、わが命を守る為に、涙も、苦悩も、総て堪えて行かなければならず思うのである。
 その心持から、自分は泣き泣き、彼女の求める唯一のもの――悪うございました、と云う詑言を唇に上せなかった。
 やがて父上が帰宅され、下でAと話し、二階に来られ、何とも痛ましい顔をして
「ああ困ったことだ。家庭の平和をすっかり攪乱する」
と、大きい暖い頭を振られる。
 自分は、悲しみで爆発してしまいたい心持がした。私は皆が可愛いのだ。皆に可愛がられたく思う。けれども、可愛がられ、可愛がる明るい、賑やかな団欒と、芸術とを釣代えに、どうして出来るだろう。それは自分は、偉大な芸術家ではないし、神のような人格者でもないから、人の心を傷けることはあるだろう。相すまなくは思う。が、どうぞ、私が窮極に於て何を目指して居るのか、何の為に毎日、此命を保って居るのか、それ丈は、判って貰いたい。母と自分との関係など、難しい、辛いものは少なかろう。
 彼女は、彼女自身の悦び希望を以て、私を、小さい時から、芸術的傾向に進ませた。そして、いよいよ少しはものになりかけ、自覚、良心が芽生えて来ると、私と彼女との芸術観の深さ、直接性に著しい差が生じ、自分が進ませた道であるが故に、彼女は一層失望や焦慮を感じ、私は、絶えず、自己の内的生活、制作に、有形無形の掣肘を加えられると云う意識から脱し切れない有様なのである。
 自分は、其動機の裡に、仮令《たとい》、或程度の世間的野心や慾望の遂行が含まれて居ようとも、兎に角、母が、自分の傾向を理解し、一生を生かせる道を与えて呉れられたことには、深い感謝を覚えて居る。思想上種々なコンフリクトがあったとしても、自分のその有難さ丈は一点の汚辱も受けないのである。
 母が、それをすっかり理解し、自分も其点で、希望と信頼とを持って呉れたら、どんなによいだろう。性格の異うこと、何と云っても、彼女は芸術家には生れ付いて居ないこと。それ等が実感として彼女の反省にのぼりさえしたら、或程度まで譲歩は出来得よう。自分には、すべき実に多くの感謝がある。美しい調和、いやしい妥協ではなく、真心からとけた協和が生れない訳はないのである。
 父と自分との間には、可なり迄、此点はよく行って居る。自分は、父の家庭的位置と云うことにも深い理解と同情とを感じて居る。
 それ等のことは、又いつかくわしく書く機会もあろうが、ちっとも苦しめたくない、懐しい父が、彼の顔に憂いを漲らせ、悵然とされると、実にたまらない。どうでもよい。早くやめたい、とさえ思ってしまう。
 今も、森とした夜の畳の上に、彼が、一日中疲れた丸い脚をすとんと延し、斜に手をついて
「困ったことじゃあないか、え?――まあ、今夜はおそくもなったから、帰るといい。よく考えなくちゃならんことだ。」
と云われると、自分は言葉に従うほかない。
 母は、Aが、「それでも」と彼女の言葉を押して、理解され愛されることを懇願せず、
「それならば仕方がありません。私は、謹んで引下って居ります。私もよく考えますから、どうぞ、おかあさまも、よくお考えになって下さい」
と云って、立ってしまった為、一層、傷けられて感じ、絶望したように見える。
 自分は、
「それじゃあ、左様なら。おやすみなさいまし」
と云って、下へ降りた。
 此で、少くとも当分、又此処へは来られないなどとは、自分に嘘にも真個にされなかった。而も、それが事実なのだ。
 帰る道々、自分は、余り、意外な大きな事が突然起ったので、あの、青桐の黒い梢の見える明るい二階の縁側も、激しく声をあげて泣いた自分も、皆、夢の中のことのような心持がした。事に関しては、麻痺してぼんやり平気になったように感じた。
 が、床に入り、四辺が静になると、自分は、激しい悲しみに捕われて、気が遠くなるほど歎いた。
 憎い、どうでもよい者に、誰が此程涙を流そう。母よ。貴女も、今、そちらの静かな闇の中で、斯様な悲しみに打れて居らっしゃるのですか。何と云うことだ。辛いことだ。然もそれが避けられない――。彼の家で育った二十幾年かが、津浪のような記憶で、自分の感傷を溺らせた。
 翌日、自分は心が寥しく病んだようになり、一日床についた。
 その夜から、十一月の四日迄、まる一箇月、自分は到頭林町に足踏みしなかった。
 今までの、何時、彼方から呼ばれるか判らないと云うような気分もなく、一寸、仕事がつかえても、行って見ようかな、と云う遊び心に動かされず、当分は、却ってさっぱりと、心が落付いたような気分がした。
 国男さん、英男、スエ子も時々遊びに来る。その度に母の様子を間接にきき、彼女が、あの時、逢わずに死ぬかも知れないと云われたような切迫した心持では居ないらしいのを聞いて、私《ひそか》に安心する。彼女の方でもきっと、皆に、それとなく自分の様子を尋かれるのだろう。
 始めの間は、皆が、事の内容を知らず、何かあったらしい位で居たらしい。然し、時が経つに連れ、祖母が私可愛ゆさから気付き始めた。
「何故、近頃は百合子もAさんも来ないのか。何かあったのか」
 しきりに気を揉み、私の家にも来、声をひそめ、眉をあげて、訳をきかれる。
 八十の老女に云ったとて、判ることでもなし、自分は只、微笑した。それでも満足されないと
「いつかゆっくり行きますから、安心していらっしゃい」
と云う。
 けれども、母が、自分の胸一杯にある感じに負け、会田さんに万事の輪廓を話してから、母と我々との不調和は、少くとも家内では公然なものとなった。
 子供のうちから私を知り、白浜の海岸や飯坂の温泉に長い旅行を一緒にしたことなどのある彼女は、私を、深く愛して居るように見える。母が、私の身の上を心配し、泣き乍らAの不満なこと、殆ど悪人に近いような観察を話されると、半信半疑になってしまうのだろう。
 スエ子を連れて来、
「如何うして、左様なんでしょうね、真個に、思うようではないもんですねえ」
と云って、小皺の多い口元を震わせ、慌てて涙を押える。
「おかあさまの仰云るのをきくと、Aさんは、まるで悪い方のようなんですものね。貴女が、そんな方と一緒に居らっしゃる筈はないと思っても、矢張り、何だか心配で。――其でも斯うやってお目にかかるといつも元気にして被居るから、安心のようだけれども。……」
 祖母や会田さんに、心配され、口説かれる程、自分に困ることはなかった。何と云ったらよいか、わからない。彼女等の力で、如何うして貰えることでもなし、一緒に歎けることでもなし。底には云い難い淋しさを沈め乍ら、自分の活力が、その打撃に堪えて居るいつもの快活さで彼女等に対すほか、自分には仕方がないのである。
 又、頭では、芸術に対する自分と彼女との、曖昧に出来ない理解の差が、はっきりと光って居る。
 けれども、十一月に入り、新年が近づくにつれ、自分のその冷静な頭脳の明るみは、次第に他の感情で包まれるようになって来た。
 仕方がない。彼女の解って呉れる迄、自分は自分の生活を、すっかり独りで営もう、と云う自足《セルフコンテンド》の感情は、やがて、此、淋しく離れ離れになった有様で、新らしい元旦を迎えなければならないか、と云う、淋しい孤独感となって来た。
 大晦日や元旦の朝を、自分は子供の時から、いつにも増して賑やかに、家族揃って歓び迎える習慣をつけられて居た。
 クリスマスの贈物も、大晦日まで繰のべられる。部屋部屋の大掃除、灯がついてから正月の花を持って来る花屋、しまって置いた屠蘇の道具を出す騒ぎ。其処へ六時頃、父上が、外気の寒さで赤らんだ顔を上機嫌にくずし乍ら、
「どうですね、仕度は出来ましたか」
と、何か紙包を持って帰宅されるだろう。
 私や父は、いつも、家中の者に、何か一つずつ、気に入りそうな贈物を買い調えた。自分は早くから、父はその晩、皆の歓声をあげさせるような何物かを持って居るのだ。
 御きまりの、然し愉快な晩餐。それがすむと、私が
「さあ、皆、眼をつぶって!」
と、大きな盆の上に、綺麗に飾った包物を盛りあげて、正面の大扉から現れる。その時の、罪のない亢奮!
 光景《シーン》が、活々と目に現れた。その団欒の裡から、あの、真に物を遣れる者を持つ悦ばしさ、共に歓ぶ嬉しさを味う歳末の夜から、自分がのけられ、小さい唯三人限りの家で、ひっそりと笑いもせずに其晩を送るのかと思うと、何とも云えない心持がした。
 林町へ行くことが出来なければ、兎に角何処へか行かずには居られない。到底、此家に、吉祥寺の一〇八の鐘を聞いて坐っては居られない。
 早くから、自分はAに
「大晦日には、吉田さんの処へでも行きましょう。紐育《ニューヨーク》の連中が皆、集ろうじゃあないの」
と提議した。
 Aも、黙ってこそは居るが、同じ心持らしい。早速承知をし、吉田さんの処へ行って相談をまとめた。大晦日の七時頃から、夜中まで、皆で賑やかに、笑い騒ごうと云うのである。
 それで先ず大晦日の苦しさから丈は逃がれられた。正月号の太陽に出そうと思うものがあるので、幾分か其仕事にまぎれたが、自分の心は、ちょいちょいそのことに関した感想を書かずに居られない程オキュパイされた。
 丁度その最中、祖母の八十の祝いが迫って来た。
 以前からその話はあった。が、祖母自身がやめろやめろと云われるのと、父上の多忙から、ついのびて居たのであった。
 今仕なければ余り寒くなる。それに来年の四月は(一九二三年)丁度父母の銀婚式にも当るので、その祝いをしたい時、つまらない気兼ねをするようではよくないと云うこともあったのであろう。急に紅葉館で親類だけを招くことになった。
 その事が定って間もなく、或朝、自分が未だ眠って居る時分、祖母自身、歩いて片町迄来られた。
 何事かと思って会うと、彼女は、祝いの記念に、何か私の欲しいものを作って遣りたい。裾模様の着物がよかろうと思って相談に来た、と云われるのである。
 私は、彼女の好意に感謝した。然し、折角記念に拵えていただくのに着物では一向つまらない。
「それじゃあ、私の欲しいと思って居た勉強机を買って戴こうかしら。裾模様のお金を出せば一つ位余分な卓子まで出来るわ。私はその方がいいな」
と云った。
「そりゃあ、お前の欲しいものなら、どっちでもいいが。阿母さんも、裾模様がよかろうと云って居たから、……一遍相談したらよかろう」
「そうね」
「そうするもんだ。親の家へも行かないってことがあるんでねえ」
 祖母は、国言葉を出し、今にも手を引いて立ちそうな顔をした。
「今日行くの?」
「そうよ!」
 愛情から来る独断で、自分は寧ろ愛を覚えた。深く逆らう気も起らない。今行く方が総ていい、と云う直覚に動かされ、半ば祖母に打ち負けた形で、自分は林町へ、薔薇新の傍から行った。
 母は台処に、女中と、安積から来た柿のことを話して居られた。自分が今朝行くことを知って居られたのだろうか、知らなかったのだろうか。
 玄関の敷居を跨いだ時から心に湧いた素直さで、自分は何気なく配膳室と台所との境の硝子戸を押しあけた。
「今日は!」
「まあ、お嬢様!」
 まつ(女中)が、懐しさの満ち溢れた声を出す。
 彼方を向いて居た母上は、素早く此方を振向いた。そして、自分のやや寂しく微笑んだ顔を認めると
「おや、まあ……」
と云うなり、何とも云えない表情をされた。胸の迫った面持である。可愛ゆさ、安心、悦びが、一時にぐっとこみあげ、涙となろうとするのを、危うくも止めた表情である。
 自分はそれを見、正視するに耐えなかった。眼を逸し、さりげなく
「安積から来た柿?」
と、まつに話しかけた。
「そうでございます。俵に一俵も来ましたの」
 母は、黙って食堂に戻って行かれた。暫くして、自分も行く。――
 祖母が、本能で思い付いた口実で、勿論彼女の贈物のことは、相談する迄のことはなかった。
 母は静かに、自分の深い感動を制し、一言も悦びは云い表わされない。然し、三人で、落付いた昼餐をし、立ち入らない話をする間に、自分は彼女の和らいだ心を、まざまざと感じた。それが、不安になり、不自然を覚え始めた自分の心にも、云い難い安息、流れると自覚し得ない程、身についたヒーリング・ウォーターとなって滲み通って行くのだ。
 私は、とり戻せた平静を感じて帰宅した。けれども、夕刻に近く帰って来たAに其、突然起った今日の出来ごとを告げる時、口吻には、自ら、迷惑げな響が加えられた。
 Aがそれを、何方かと云えば、だらしないこと、不快の分子の多いこととして感じるのを、心が、我知らず先廻りをして仕舞ったのであった。
 斯様にして、自分と林町との間に丈は、皮膚の傷が自ら癒着するように、回復が来た。
 一度、固執を離れ、自分の芸術と云うことを抜きにして逢って見れば、自分達母娘は、流石《さすが》に何と云っても血で繋ったものである。彼女も会うことは嬉しく、自分も、楽しい。平常ほど繁々ではないが、又、折々自分は林町へ行くようになった。西洋間に坐り、自分の家には、殆ど全然欠けて居る趣味的な圏境にゆっくり浸ること丈でも、自分を可成り牽くことなのである。けれども、切角林町で幸福に、深い感興を覚えて来ても、一歩家に入ると、Aの、何とも云えない険悪な、陰鬱な感情に充満されて居るのを見るのが、如何にも自分には苦しかった。
 彼には、私が独りで彼方に行き、独りで相当に楽しく愉快にして来るのが、云い難い不快であるらしい。厭な、狭い、暗い顔をして机に向い、気のない声で私の「只今」に応え、思い知れと云う風をされると、自分は失望や悲しみで、猛然と掴みかかりたい激情を覚えるのだ。
 若し自分が行くのが不愉快なら、何故フランクに行くな、と云って呉れないのか、
 行かせたなら、どうして、もう少し寛大に、自分の娯んで来たことを悦んで呉れないのか、
 其為に、行って来ても、受けた十の悦びを、一にも半分にも減して表情に顕す自分を自覚し、私は我ながらぞっとした。
 Aが愉快そうでなければ結局、自分もしんから楽しくはなれない。然し、林町での心持よさは忘られない。その内心の鼓動を、Aの傷かない程度に表現しようと無意識にもする為、時には、些か迷惑であったことを誇大したり、ハアティーに笑って過した数時間を、詰らなそうに話してきかせたりすることが起ったのである。
 此、相手の嫉妬心に制せられた状態が、自分の性格に、どれ程大きな嘘偽を作るか、思うと、一刻も、斯様な地位には安じて居られなくなった。切角自分の持って生れた正直さ、朗らかな子供らしさ、美しいもの、よいもの、楽しいものを愛す自然な要求を、どこまで虐げてよいのだろう、
 或晩、女中の居ない時、自分はAを捕えて、其ことを話した。
 自分に、強いて心をダルにする境遇は、とても辛棒することは出来ない。林町に対しての貴方の心持は判る。けれども、どうか自分の心持に丈は、もう少し寛大であって欲しい、陰険でなくなって呉れ、と願[#「願」に「ママ」の注記]んだのである。
 Aは、それは、余り、私が彼の気持を察しないことであると云った。
 自分は、米国から帰る時、父や母に対してどんな心持を抱いて来たか。三つの時、母に死に別れた自分は、林町の母に対して、真実我が母に再会するような期待、愛の希望を以て戻った。処が事実はどうだろう。彼女は、何から何までを批評的に見られる。決して打ち解けない。而も、自分にとっては、真に真に思いも設けない絶交まで申し渡される。――
「其は、百合ちゃんは、誰よりもよく自分の心を解って呉れるのは事実だ。けれども、正直に云えば、此心持は、僕にどれ程深いショックを与えたか、解らないのじゃあないかと思う。
 僕は、実際、長く別れて居た自分の親類の者よりは国男さんでも英男さんでも可愛いく思って居る。出来る丈行きもし、皆と一緒に楽しみたい。其を、来るなと云われ、然も百合ちゃん丈は、自由に出入りされるのかと思うと、どうしたって、僕は淋しく思わずに居られないじゃあないか」
 善悪を抜き、自分にはAの心持が気の毒に思われた。同時に又、其だけの心持、其だけの真実を、何故、母に、まともから話されないのだろう、と思わずには居られない。母は、所謂理性的で、理論から行かなければ合点をしない人のようでもあるが、決して、感動の出来ない人ではない。動かし得る、否、動き易い熱情を持って居るとさえ云えるだろう。彼が、真剣に、熱を以て、自分の真心を現しさえすれば、きっと、より広く彼自身を理解させることが出来るに、違いないのである。
 性格と性格の組合わせで、母のような人には、相手からフランクに出なければ永劫うまく行かない。処が、Aは、自分に観察的であるなと直覚した者に対しても、猶、朗らかで、構わず自分を表わす丈の、大きさはない。誘い出される好意がなければ出て来ない。一方、母は、客観的に、冷静に、如何う働くか、彼の心の様を観ようと云うのであるから、其間に、どうしても一種、渡り切れない氷河がある。
 私は、母に対して、何より先に、まず愛そう、と云う暖さのないものを歎くと共に、Aに対しては、彼の独善的な、小さい、大らかでない心情を、情けなく思わずに居られないのである。
 斯様な、デリケートなことは、仮令《たとい》一日一晩、私が泣き明したとて、一時に、どうなるものでもない。
 此事を話した時にも、自分は胸に迫り、涙を流さずに居られなかった。
 どちらもいとしいのだから、どちらも仲よく、心を開いて打ちとけて欲しい。睦しい団欒がしたい。虫のよい願いかもしれないが、自分は、父母良人、弟妹と、皆、一つ心で笑い、働き、楽しみたいのである。
 大晦日の晩、自分等は予定通り、吉田さんの処へ行った。人数は差程集まらなかったが、何と云っても、鍋から、おこげを分けて貰って食べた友達である。紐育時代のこと、結婚した友人の誰彼のこと。話したりカードを遊んだりして居る最中に、遠くの方で、百八の鐘が鳴り始めた。近所に寺が少ないと見え、あまり処々には聴えない。静に一つ一つ、間を置いては突き鳴らす音が、微に、ストーブの燃える音、笑い声を縫って通って来るのである。
 皆、他の人は心付かないように見えた。けれども、自分は、手に賑やかな骨牌《カルタ》を持ち、顔は明るく笑い乍ら、何とも云われない魂の寂寥を覚えた。
 去年の大晦日は林町で二三時頃まで過し、雪の凍ってつるつるする街路を、Aと小林さんと三人で、頼まれたペパアミントを探し乍ら、肴町を歩いたのを思い出す。彼方では何をして居るだろう。恐らく、あまり陽気ではない心持がする。両親は、スエ子を連れて、二十九日頃から、浜名湖に行くと云って居られた。家には祖母、弟達、働いて居る者きりだろう。自分にとって始めてであると同じ淋しい大晦日が、彼等にも来たと思われる。――
 二日の日、私共は二人で林町へ行き祖母に年始の挨拶をした。
 Aが発議をし、折角の心持にけちをつけるのを思ってやめたのだが、自分には一寸いやな心持がした。仮令父母は居ないでも、彼等の家であることに変りはない。その家へ来るなと云われたのに、留守の間に、祖母の為とは云え、入るのは、何処となく純粋でない。女々しさが感じられたのである。
 斯様な状態のままの処へ、国からAの父の来られたことは、我々にとって、明かに或苦痛である。
 何にも知らない老人は、一日も早く林町へ行き、謂わば、永い間の懸念になって居る公式の訪問をすませたい。それがあるうちは、見物も長閑《のどか》に出来ないと云われる。
 せっぱ詰った揚句であろう、Aは、突然林町へ電話をかけた。そして、父を呼び、二三日のうちに、行き度い意向を告げた。彼の心持で云えば、一寸客間で話しでもして帰る積りであったのだろう。けれども、林町では、折角来られたものだから、せめて夕餐でも一緒にしたい。それには、自分(父)の腹工合が悪いのをなおしてから。いずれ四五日うちに、と云うことになった。
 始めから、自分は不安を覚えて居る。Aの遣り方は、当を得て居ないと感じる。少くとも、母が、それで、それならと、云われるとは思わない。何かなければよい、と思って居るうちに、翌日、林町から電話郵便が来た。至急、私に来い、と云うのである。
 不快な、来るべきものが来たと云うような心持で、夜、自分は林町へ行った。
 父が、話があるからと云って、西洋間に呼ばれる。
「もう、どう云う用だか分って居るだろう? 何だと思って居る? 云って御覧、」
 穏やかに、然し父親らしい態度で切り出され、自分は三つか四つの子供に戻ったような、間の悪さを感じた。
「あれでしょう、おかあさまが、不満足でいらっしゃるんでしょう?」
「うむ。つまり、余り突然だと云うのだね、妻《さい》の心持で云えば、斯う云うことを云う前に、何とか、前からのことの定りがつくべきであると云うのだ。ずるずるべったりで、いきなり父親を連れて行くから、と命令されるようでは、甚だ心苦しいと云うのだ。
 切角、田舎から出て来られたのだし、お前の立場としても同情されるから、うちでは、出来る丈歓待してあげたい。然し、一方、そう云うことがあっては、何だか、まるで嘘偽で、実に辛い義務になって仕舞う。母は、若しそう云うことになれば、東京に居て会わないと云うことには行くまいから、何処へか旅行でも仕なければなるまい、と云うのだが――
 お前は、どうしたら一番いいと思うかね?」
 父の言葉で、自分は、その時まで心付かなかった、両親の、純粋な心持を、明らかに知らされた。Aの方では、とにかく形式にでも一度連れて来さえすれば好い。どうにかなるだろう、と云う心持で居る。然し、此方では、逢うなら、心から逢いたい、それでなければ一層会わない方がよいとさえ思うが、仲に入る私を思い、それも出来ず感じる。どうしたらよい、と云うのである。
 自分は、一応順序として、彼も其には心付いて居、前に二人に来て戴きたいと云ったのだと話した。
「然しだね。丁度、来い行こうと云うようになって居た時に引越などをして仕舞ったのは、実に失敗だったね。自分は、よくあの母が行くと云ったと思って居る。あの機会を逃したのは、実に手落ちだった。只、延びたと云うだけでなく、引越しより、自分達を招くことが重大でなかった証挙だと母などは思って仕舞った。それを第一に思って居れば、引越しなどは十日でも二十日でも、延して置ける筈だと云うのだ。
 延してもよいかときかれて、いけないとは云えない立場だろう?」
 父の、斯う云う場合の話しは、コンヴィンシングな、独特な情を持って居る。
 自分等として、決して、彼等を招くことを軽く考えたのではなかったが、行為の裡には、種々な矛盾が包まれて居たのが反省された。
 若し自分が、父や母に、各々独立した人間として立場、性格、仕事を認めて貰うことを、要求するなら、又此方も、彼等に対して、為すべき其だけの義務はあるのではないだろうか。
 友達を、仮令えば晩餐に招き、急に家があったからと云って、電話一つで延して呉れと云うとは思われない。
 自分等は、他人ではない親だから、と思って、其をした。それ程、子の我ままを認容すれば、又、親の子に対する我ままも、少くとも其程度迄、認めなければならないのではないだろうか。
 自分の勝手のよい時ばかり、親だもの、と振舞ったと云われても、自分等に確かな心の弁護が出来るとは思われない。
「自分は、今度は実によい機会だと思う。お父さんの上京されたと云うことで、必要からでも、我々は、もう一歩と云う処まで接近して居る。此処で調和する点を見つけ、ずっと工合よく行くように相方で理解することは、決して無駄なこととは思われない。そうじゃあないか? 今、若し、自分に悪いことはない、此方から折れては出られないとなれば、我々にも又、Aさんに対して持って居る種々な不満や何かで、一生別れ別れに暮さなければならないことになるからだ。」
 考えた後、自分は云った。
「Aに悪いことがないと云うのは、あの小説の動機についてで、引越しや何かの時した我々の手落ちや心持の反省の足りなかったことはよく判ります。それに、おかあさまのそう仰云る心持も、真個に愛があるからこそなのだから。――よくAに話して見ましょう。そして、一度私共で来、すっかりお話をし、それから、更めて、父親を招いて下さればいいから」
「そう出来れば、真個に結構なことだ。どうもそれは順序なのだからね」
 間もなく、スエ子を寝かして居た母が下りて来られた。父から、私の承諾をきき、深い悦びを面に漲らせた。然し、未だ、あの小説を根に持って居られるのは判る。

 父が、全然理解の一致しない点には些も触れず、而もちゃんと、快く、希望する結果に導き入れたには、驚きを覚えた。
 人と人との仲に入る者の話し振りなどと云うものが、如何程、相互の関係を簡単にし、複雑にするか。その実感も、今夜始めて得たようにさえ感じた。今までは、親、弟妹の間にだけ生活し、無邪気に、
「おかあさまがね、斯う仰云ってよ」
と云ったとしても、何等、愛の問題には関係ない状態にあった。一面から云えば、其丈、純粋で、根強い愛が皆を、しっかりと一つ枝に結びつけて居たのだ。
 自分には、そのあけっぱなし、無くなす必要もない筈の子供らしさが失せない。つい、受けた感じをそのままAに話す。若しAが、その話にも煩わされず、又直ぐ忘れ、笑うような天才的なら面倒はないのだ。然しそうではなく、皆、胸にたたみ込み、ある愛を殺いだり、つみあげたりする。
 恐らく母の方でもそうなのだろう。
 それを今まで、今夜ほど明らかに感知しなかったと云ってよい。自分の生活では、無心、女らしい可愛い浅はかさ、などと云うものが、決してあるがままでは存在し得ない有様なのだ。
 僅か一時間足らずの話の間に、其等、自分にとっては、意義ある多くのことに思い当り、静かな、然し底に淋しさを持った心持で、オートバイで帰って来た。十二時少し過て居ただろう。
 Aは床には入り、眼を覚して居る。
 自分は、出来る丈平静に、又、八畳の方に眠って居る老人の熟睡をも妨げないようにして、林町で話して来たこと、自分の考え等を述べた。
 Aにしろ、もっとよい状態にありたいと云う心は強い。彼はしきりに、今、急にそんなことをしても、真実の理解がなければ、又同じようなことを繰返すのではないかと云うことを危うんで居る。
 けれども、遂に、それでは明日、二人で午後から行って、おかあさまにも会い、よく話して見ようと云うことに定った。
 彼が内心、どれ丈の深さで、此事を承知したのか、自分にはよく解らず
「その方が百合ちゃんも幸福になり、おかあさまもいいと仰云るなら、そうしましょう、ね、それが一番いい」
と云う言葉で、寧ろ、無反省な、不快に近い感を受けた。
 明る日、晴れた日曜であった。自分等二人は、陰気な気分を紛らし得ず――Aが、心から歓んで和解を迎えたのではなく、如何にも已を得ず義務と云う感で承知したので――、肴町までの長い電車の間、私は殆ど一言も口を利かなかった。彼は思想に出た「犬」と云う面白い小説を書[#「書」に「ママ」の注記]み、自分は明星の色彩音楽について読んで居る。勿論、些も、楽しい読書ではない。本でも読まなければ、顔を見るのもいやな気分になって居たのである。
 父は、特に願って家に居て戴いた。入って行くと、西洋間へ、と云うのでAを其処に通し、自分は食堂に行く。
 母は、私の不快そうな顔を認め
「何も、お前が御不承知なら、来て貰うには及ばないのだよ」
と云われる。自分は、折角の気分を壊すことをおそれ
「疲れて居るのよ」
と、打ち消した。
「――それ丈ならいいがね。――」
 自分は、注意深い眼を、眉や口に感じた。
「ね、百合ちゃん、斯うしようじゃあないか。此から、何か百合ちゃんの書くもので、私のことが出るのは、一度前以て見せて貰うように。その方がいいと思うよ。何も、斯う云うことがあったからと云うばかりではなく、モーパッサンなんか、あんな大芸術家でさえ、先ず第一おかあさんに見せ、主人公を生そうか、殺そうかと云うこと迄相談したと云う美談がある位だものね。そうしようじゃあないかい?」
 自分は、母の心情を思いやる。けれども、即座に返事はしかねた。又、そこに困ることが起りはしないだろうか。
 自分は、彼女が、私との関係を、美談[#「美談」に傍点]的なものにしたく思う心持を、有難く又辛く感じた。
「出来る丈のことはするわ、ね」
 これが私の、嘘らない心からの返事であった。
 やがて、母も西洋間に行かれる。自分は暫く食堂に行き、後、入って行くと、Aは、背後から光線を受ける場所に坐り、グランド・ファザー・チェーアにかけた父上と並ぶようになって、泣き乍ら、何か云って居る。見ると、父上の手にも手巾がある。――母は、緑色のドンスを張ったルイ風の椅子に腰をかけ、輝やいた眼を彼方に逸せ、しきりに、白い足袋の爪先をピクピク、ピクピクと神経的に動かして居られる。
 自分は黙って、窓際の長卓子の彼方に坐り、正面から三人を見る位置になった。
 対等で、真面目に話し合わず、母は気位を以て亢奮し、Aは涙を出し、父が、誘われたようにして居られる光景は、充分私の心を痛めるものだ。
 Aが
「斯う云う風に思いかえして下されば、僕もどんなに嬉しいか分りません」
と云ったに対し、母が、語気に威をつけ
「私は、何にも思いかえしたのでもなんでもないんですよ。ちっとも、先に考えたことと、考えが変ったのじゃあありません。自分がわるかったとなどは、ちっとも思って居ないんです」
 自分は、ハッとした。其点で感情が齟齬しては、もうどうにもならないことになるだろう。
 幸、父の一言二言で、その危険な峠は越した。
 久しぶりで隠居所にも行き、兎に角、落着し、老人は一日置いた翌日呼ぶことと定ったのである。
 老人の呼ばれた日、林町では、家中で愉快そうにもてなして呉れた。自分はどんなに嬉しかっただろう。以来、ちょくちょくAも行き、相当にはゆきそうに見える。然し……。どうも、母とAとの間には、自分の描く理想のような関係は生れそうもなく思われる。Aが、
「むずかしい人だから、成たけ黙って居る方がよい」
と云う態度だから。
 人間の深みの違う点に至ると、殆ど、運命的な色彩を帯びる。近頃、自分の心には、実に深い、種々の懐疑がある。――



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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