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解剖室
三島霜川
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#木へんに「解」、第3水準1-86-22、223-中段10]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゾロ/\
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これ、解剖學者に取ツては、一箇神聖なる物體である、今日解剖臺に据ゑられて、所謂學術研究の材となる屍體は、美しい少女の夫であツた。此樣なことといふものは、妙に疾く夫から夫へとパツとするものだ、其と聞いて、此の解剖を見る級の生徒の全は、何んといふことは無く若い血を躍らせた。一ツは好奇心に誘られて、「美しい少女」といふことが強く彼等の心に響いたのだ。中には「萬歳」を叫ぶ剽輕者もあツて、大騷である。
軈て鈴が鳴る、此の場合に於ける生徒等の耳は著しく鋭敏になツてゐた。で鈴の第一聲が鳴るか鳴らぬに、ガタ/\廊下を踏鳴らしながら、我先にと解剖室へ駈付ける。寧ろ突進すると謂ツた方が適當かも知れぬ。
解剖室は、校舍から離れた獨立の建物で、木造の西洋館である。栗色に塗られたペンキは剥げて、窓の硝子も大分破れ、ブリキ製の烟出も錆腐ツて、見るから淋しい鈍い色彩の建物である。建物の後は、楡やら楢やら栗やら、中に漆の樹も混ツた雜木林で、これまた何んの芬も無ければ色彩も無い、恰で枯骨でも植駢べたやうな粗林だ。此の解剖室と校舍との間は空地になツてゐて、ひよろり[#「ひよろり」に傍点]とした※[#木へんに「解」、第3水準1-86-22、223-中段10]の樹が七八本、彼方此方に淋しく立ツてゐるばかり、そして其の蔭に、または處々に、雪が薄汚なくなツて消殘ツてゐる。地は黝ずんで、ふか/\して、ふとすると下萠の雜草の緑が鮮に眼に映る。此の空地を斜に横ぎツて、四十人に餘る生徒が、雁が列を亂したやうになツて、各自に土塊を蹴上げながら蹴散らしながら飛んで行く。元氣の好い者は、ノートを高く振※[#「廻」の正字、223-中段18]して、宛態に演習に部下でも指揮するやうな勢だ、てもなく解剖室へ吶喊である。何時も自分で自分の脈を診たり、胸をコツ/\叩いて見たりして、始終人體の不健全を説いてゐる因循な醫學生としては、滅多と無い活溌々地の大活動と謂はなければなるまい。
其の騷のえらい[#「えらい」に傍点]のに、何事が起ツたのかと思ツたのであらう。丁ど先頭の第一人が、三段を一足飛に躍上ツて、入口の扉に手を掛けた時であツた。扉を反對の裡からぎいと啓けて、のツそり[#「のツそり」に傍点]入口に突ツ立ツた老爺。學生はスカを喰ツて、前へ突ン※[#あしへんに「倍」のつくり、第3水準1-92-37、223-下段8]ツたかと思ふと、頭突に一ツ、老爺の胸のあたりをどんと突く。老爺は少し踉いたが、ウムと踏張ツたので、學生は更に彈ツ返されて、今度は横つ飛に、片足で、トン、トンとけし[#「けし」に傍点]飛ぶ……そして壁に打突ツて横さまに倒れた。
老爺は、其には眼も呉れない。入口に立塞ツて、「お前さん達は、何をなさるんだ。」
と眼を剥き出して喚く。野太い聲である。
ガア/\息を喘ませながら、第二番目に續いた學生は、其の勢にギヤフンとなツて、眼をきよろつかせ[#「きよろつかせ」に傍点]、石段に片足を掛けたまゝ立往生となる。此う此の老爺に頑張られて了ツては、學生等は一歩も解剖室に踏入ることが出來ない。
老爺は、一平と謂ツて、解剖室專屬の小使であツた。名は小使だが、一平には特殊の技能と一種の特權があツて、其の解剖室で威張ることは憖ツかの助手を凌ぐ位だ……といふのは、解剖する屍體を解剖臺に載せるまでの一切の世話はいふまでも無い。解剖した屍體を舊の如く縫合はせる手際と謂ツたら眞個天稟で、誰にも眞似の出來ぬ業である。既に解剖した屍體をすら平氣で而も巧に縫合はせる位であるから、其が假何樣な屍體であツても、屍體を取扱ふことなどはカラ無造作で、鳥屋が鳥を絞めるだけ苦にもしない。彼が病院の死亡室に轉ツてゐる施療患者の屍體の垢、または其の他の穢を奇麗に洗ひ、または拭取ツて、これを解剖臺に載せるまでの始末方と來たら、實に好く整ツたものだ、單に是だけの藝にしても他の小使には鳥渡おいそれ[#「おいそれ」に傍点]と出來はしない。恐らく一平は、屍體解剖の世話役として此の世に生れて來たものであらう。それで適者生存の意味からして、彼は此の醫學校に無くてならぬ人物の一人となツて、威張もすれば氣焔も吐く。
一平の爲る仕事も變ツてゐるが、人間も變ツてゐる、先づ思切ツて背が低い、其の癖馬鹿に幅のある體で、手でも足でも筋肉が好く發達してゐる、顏は何方かと謂へば大きな方で、赭ら顏の段鼻、頬は肉付いて、むツくら[#「むツくら」に傍点]瘤のやうに持上り、眼は惡くギラ/\して鷲のやうに鋭い、加之茶目だ。頭はスツカリ兀て了ツて、腦天のあたりに鳥の柔毛のやうな毛が少しばかりぽツとしてゐる。何しろ冷ツこくなつた人間ばかり扱ツてゐる故か、人間が因業に一酷に出來てゐて、一度此うと謂出したら、首が※[#手偏に「止」、第3水準1-84-71、224-上段24]斷れても我を折はしない。また誰が何んと謂ツても受付けようとはせぬ。此の一平が何時ものやうに青い筒袖の法被に青い股引を穿いて、何時ものやうに腕組をして何時ものやうに大きな腹を突出し、そして何時ものやうに上眼遣でヂロリ/\學生の顏を睨※[#「廻」の正字、224-中段1]して突ツ立ツてゐるのであるから、學生等は、畏縮といふよりは些か辟易の體で逡巡してゐる。一平は内心甚だ得意だ。
間もなく學生は殘らず石段の下に集ツて、喧々騷立てる。一平は冷然として、
「幾らお前さん等が騷いだツてな、今日は先生がお出なさらねえうちは、何うしたツて此處を通す事ツちやねえ。一體お前さん等ア今日に限ツて何んだツて其樣なに騷ぐんだ……人體解剖ツてものア其樣なふざけた[#「ふざけた」に傍点]譯のものぢや無からうぜ。いくら綺麗な娘だツて、屍體が何んになるんだ……馬鹿々々しい!」と大聲に素ツ破拔く。
是に反しては、各自に體面を傷ツけるやうなものだ。で何れも熱ツた頭へ水を打決けられたやうな心地で、一人去り二人去り、一と先づ其處を解散とした。中には撲れと叫ぶ者も無いでは無かツたが、議案は遂に成立しなかツた。取分け酷目な目に逢はされたのは、先頭第一に解剖室へ跳込むでそして打倒れた學生で。これが一平に出口を塞がれて了ツて。まご/\してゐるうちに、遂々一平に襟首を引ツ攫まれて、
「さ、出るんだ、出るんだ。」と顎でしやくられ[#「しやくられ」に傍点]、そして小突※[#「廻」の正字、224-中段24]すやうにして外に突出された。餘の事と學生は振返ツた……其の鼻ツ頭へ、風を煽ツて、扉がパタンと閉る……響は高く其處らへ響渡ツた。學生は唇を噛み拳を握ツて口惜しがツたが爲方が無い。悄々と仲間の後を追ツた。
灰色の空から淡い雪がチラ/\降ツて來た。北風が時々頬に吹付ける。丁ど其の時、職員室の窓から、長い首を突出して、學生と一平との悶着を眺めてゐた、若い職員の一人は、ふと顏をすツこめ、
「また雪だ。」と吐出すやうに叫ぶ。
「然うかね。」と振返ツて、「何うも今日の寒さは少し嚴しいと思ツたよ。」
と熱の無い口氣で謂ツて、もう冷たくなツた燒肉を頬張るのは、風早といふ學士で。彼は今晝餐を喰ツてゐるので、喰りながらも、何か原書を繰開げて眼を通してゐる。其の後の煖爐[#底本では「煖燼」の誤り]には、フツ/\音を立てなが石炭が熾に燃えてゐる。それで此の室へ入ると嚇と上氣する位煖かい。
「風早さん、何んですな。」と若い職員は、窓を離れて、煖爐[#底本では「煖燼」の誤り]の方へ歩寄りながら、「近頃は例の、貴方の血の糧だとか有仰つた林檎を喫らんやうですな。」
「いや、近頃何時も購ふ林檎賣が出て居らんから、それで中止さ。」
「だが、林檎は方々の店で賣ツてゐるぢやありませんか。」と皮肉にいふ。
「そりや賣ツとるがね。」と風早學士は、淋しげに微笑して、
「ま、喰はんでも可いから……加之立停ツて何か購ふといふのが、夫の鳥渡面倒なものだからね。」
と無口な學士にしては、滅多と無い叮嚀な説明をして、ガチヤン、肉叉と刀を皿の上に投出し、カナキンの手巾で慌しく口の周を拭くのであツた。
「然うですか、甚だ簡單な理由なんで。」と若い職員は擽るやうにいふ。
「然うさ、都て人間といふものは然うしたものさ。眞ンの小ツぽけな理由からして素敵と大きな事件を惹起すね。例へば堂々たる帝國の議會ですら、僅か二三千萬の金の問題で、大きな子供が大勢でワイ/\大騷を行るぢやないか。」
と細い聲で、靜に、冷笑的に謂ツて、チラと對手の顏を見る。そしてぐい[#「ぐい」に傍点]と肩を聳す。これは彼が得意の時に屡く行る癖で。彼の傍には、人體の模造――と謂ツても、筋肉と動靜脈とを示せる爲に出來た等身の模造が、大きな硝子の箱の中に入ツて、少し體を斜にせられて突ツ立ツてゐる。それで其の飛出した眼球が風早を睨付けてゐるやうに見える。此の眞ツ赤な人體の模造と駢んで、綺麗に眞ツ白に晒[#底本では「洒」の誤り]された骸骨が巧く直立不動の姿勢になツてゐる。そして正面の窓の上には、醫聖ヒポクラテスの畫像が掲げてあツた。其の畫像が、光線の具合で、妙に淋しく陰氣に見えて、恰で幽靈かと思はれる。天氣の故か、室は嫌に薄暗い。雪は、窓を掠めて、サラ/\、サラ/\と微な音を立てる……辛うじて心で聞取れるやうな寂な響であツた。
風早學士は、此響を聞いても何んの興味を感ずるでも無ければ、詩情に動かされるといふことも無い。それこそ空々寂々で、不圖立起ツて、急に何か思出したやうに慌しく書棚を覗き※[#「廻」の正字、224-上段29]る。覗き※[#「廻」の正字、224-中段1]りながら、ポケットから金の時計を出して見て、何か燥々するので、頻にクン/\鼻を鳴らしたり、指頭で髮の毛を掻※[#「廻」の正字、224-中段3]したり、または喉に痰でもひツ絡むだやうに妄と低い咳拂をしてゐた。風早學士は、此の醫學校の解剖學擔任の教授で、今日の屍體解剖の執刀者だ。年は四十に尚だニツ三ツ間があるといふことであるが、頭は既う胡麻鹽になツて、顏も年の割にしなび[#「しなび」に傍点]てゐる。背はひよろり[#「ひよろり」に傍点]とした方で、馬鹿に脚が長い。何時も鼠とか薄い茶色の、而もスタイルの舊い古ぼけた外套を着てゐるのと、何樣な場合にも頭を垂れてゐるのと、少し腰を跼めて歩くのが、學士の風采の特徴で、學生間には「蚊とんぼ」といふ渾名が付けてある。さて風采のくすむだ[#「くすむだ」に傍点]學士が、態度も顏もくすむだ[#「くすむだ」に傍点]方で、何樣なる學士と懇意な者でも學士の笑聲を聞いた者はあるまい。と謂ツて學士は、何も謹嚴に構へて、所故に他に白い齒を見せぬといふ意では無いらしい。一體が榮えぬ質なのだ。顏は蒼ツ白い方で、鼻は尋常だが、少し反ツ齒である。顏のうちで一番に他の注意を惹くのは眼で、學士の眼の大きいことと謂ツたら素敵だ! 加之其が近眼と來てゐる。妙に飛出した眼付で、或者は「蟹の眼」と謂ツてゐた。頭髮は長く伸して、何時櫛を入れたのか解らぬ位。其が額におツ被さツてゐるから、恰で鳥の巣だ。
學士の顏や風采も榮えぬが、其の爲る事も榮えぬ。教壇に立ツても、調子こそ細いが、白墨の粉だらけになツた手を上衣に擦り付けるやら、時間の過ぎたのも管はずに夢中で饒舌ツてゐるやら、講義は隨分熱心な方であるが、其の割には學生は受ぬ。尤も學士には、些と高慢な點があツて、少し面倒な、そして少し得意な説を吐く時には、屹度「解るか。」と妙に他を馬鹿にしたやうに謂ツて、ずらり學生の顏を見※[#「廻」の正字、224-下段6]したものだ。見※[#「廻」の正字、224-下段7]して置いて、肩を搖ツて、「だが、此の位のことが解らんやうぢや、諸君の頭はノンセンスだ。」といふ。これが甚く學生等の疳癪に觸ツた。それで其の講義は尊重してゐたけれども、其の人物に對しては冷ツこい眼で横目に掛けてゐるといふ風であツた。雖然學士の篤學なことは、單に此の小ツぽけな醫學校内ばかりで無く、廣く醫學社會に知れ渡ツた事柄で、學士に少しのやま[#「やま」に傍点]氣と名聞に齷齪するといふ風があツたならば、彼は疾に博士になツてゐたのだ。勿論學校からも、屡ゝ彼に博士論文を提出するやうに慫慂するのであツたけれども、學士は、「博士論文を出して誰に見て貰ふんだ。」といふやうなことを謂ツて、頭で取合はうとはしなかツた。學士は一元哲學の立場からして、極端な死滅論者で、專ら新ダーウイン派の説を主張してゐる。で、一般は彼のことを解剖學者と謂ツてゐるけれども、學士自身は、所謂解剖學は一種の術に屬すべきもので、學問では無い、自分は生物學を研究してゐるのであると謂ツてゐた。事實然うかも知れない。學士は、生物……と謂ツても、上は人間から下は蚯蚓の類まで、都ての動物に多大の興味を持ツて研究してゐる。彼は單に科學的に實驗するばかりで無い。哲學的に思索もする。要するに彼は、形而下から、また形而上から自然の本體を探ツて、我々人類生存の意義を明にしようと勤めてゐるのであツた。されば風早學士は、自然哲學者として甚だ説が多い。また研鑚も深い。雖然學士は尚だヘッケル氏の所謂「熟せる實」とならざる故を以て其の薀蓄の斷片零碎をすら世に發表せぬ。彼は今のところ自ら高く持して默ツて考へてゐる人だ。そして其の爲ることでも言草でも、頭の冷ツこい人であることは爭はれぬ事實だ。
彼は、解剖學者として、是迄殆ど百に近い屍體を解剖した。彼に解剖された人を一時に集めて見たら、立派な人生の縮圖が出來て、其處に小社會小國家が作られ、そして我々人間が祖先から傳へられた希望も欲望も習慣も煩悶も疑惑も歸趣も、そして運命をも、殆ど殘らず知悉することが出來たかもしれぬ。解剖臺に据ゑられたんだからと謂ツて、人間が變ツて生れたのでも何んでも無い。矢張我々が母の胎盤を離れた時のやうに、何か希望を持ツて、そして幾分か歡喜の間に賑に生れたものだ。そこで其の最後は、矢張我々の先代が爲したやうに、何の意味も無く、また何等の滿足も無く、淋しい哀な悲劇であつた。彼等のうちには、戀に燃えて薄命に終ツた美人もあツたらう、また慾に渇いて因業な世渡をした老婆もあツたらう、それからまた尚だ赤子に乳房を啣ませたことの無い少婦や胸に瞋恚のほむらを燃やしながら斃れた醜婦もあツたであらう。勿論小さな躓跌から大なる悲劇の主人公となツて行倒となツた事業家もあツたらうし、冷酷な世間から家を奪はれて放浪の身となツた氣の好い老夫もあツたらう。また活きてゐる間溌溂たる意氣に日毎酒を被ツて喧嘩を賣[#「廻」の正字、226-中段6]ツた元氣な勞働者もあツたらうし、空想的の功名に※[#足扁に「宛」、第3水準1-92-36、226-中段7]いて多大の希望と抱負とを持ツて空しく路傍に悲慘なる人間の末路を見せた青年もあツたであらう。更にまた一夜に百金を散じた昔の榮華を思出して飢と疾とに顫きながら斃れた放蕩息子の果もあツたらうし、奉ずる主義の爲に社會から逐はれて白い眼に世上を睨むでのたうち[#「のたうち」に傍点]※[#「廻」の正字、226-中段13]りながら憤死した志士もあツたであらう。中にはまた、堅い信仰を持ツて泯然として解脱した宗教家もあツたらうし、不靈な犬ツころの如く生活力が盡きてポツクリ斃れた乞食もあツたらう。是等種々に異ツた性質と境遇と運命とを持ツた人間が、等しく「屍體」と名が變ツて生物の個體として解剖臺の上に据ゑられる、冷たくなツて、素ツ裸にされて。繰返していふが、此の人等は決して變ツた人間でも何んでも無い。疑も無く我々と同じ種族で、甚だ小しやまくれた[#「しやまくれた」に傍点]、恐ろしく理屈ツぽい、妄とえらがツてゐる人間で、巧く打當たら、何れも金モールの大禮服を着けて、馬を虐待して乘※[#「廻」の正字、226-中段25]すだけの資格があツたのだ。
併し風早學士は、些とも其樣なことに就いて考へなかつた。其が設や何樣な人であツたとしても、彼の心に何んの衝動も感覺も無かツた。勿論其の人の運命や身分や境遇や閲歴に就いて想像を旋らすといふやうなことも無い。また其が貴人の屍體であツたとしても、賤婦野人の屍體であツたとしても、彼は其處に黒犬と斑犬との差別を付けようとしなかツた。要するに都て人間の屍體で、都て彼に解剖されるのを最後の事蹟として存在から消滅するものと考へてゐた。で解剖される人に向ツて、格別儚ないと思ふやうなことも無ければ、死の不幸を悲しむといふやうなことも無かツた。彼の人の死滅に對する感想は、木の葉の凋落する以上の意味は無かツたので。
そこで或る生ツ白い學生などが、風早學士に向ツて、此樣なことを訊ねたことがあると假定する。
「何んですな、解剖學者といふものは、恐ろしく人間を侮辱してゐるものですね。死者の尊嚴を蹂躙して、恰で化學者が藥品を分析するか、動物學者が蟲けらでも弄くるやうな眞似をするのですから。」
而ると、風早學士は、冷に笑ツて、
「そりや人間靈長教や靈魂不滅説の感化から來た妄想さ。我々の祖先に依ツて廣く傳播された宗教といふ迷信的の眞理では、我々人類が甚だえらい[#「えらい」に傍点]者のやうに説かれてゐるから、人間の靈性だとか、死者の尊嚴だとかいふことを考へて、解剖することが、解剖される個體に對して甚しい侮辱……だと、ま、思ふのだらうが、そりや思ツたことで、考へたことぢやないな。僕は、屍體に對して特別に尊敬も拂はぬが、また侮辱もし無い。何時も出來るだけ有用な材を得ようと考へて、出來るだけ親切に解剖する。其がまた刀を執る者の義務だからね。併し其が假に死者に對する侮辱だとしよう。然らば君等に人間靈長の迷信を鼓吹したクリストは何うだえ……活きてゐる人に向ツて罪惡の子と謂ツてゐるぢやないか。罪惡の子とは、平ツたくいふと惡い奴だといふことだ……君等は此の大侮辱には歡喜して、解剖學者の侮辱でも無い侮辱に憤慨するのかえ。」
そこで片一方が躍氣となつて、
「そりやクリストは救世主ですから、其位の侮辱をする權利があるでせう。」といふと、
「其んなら解剖學者だツて、宇宙の研究者なんだから、其位の……、侮辱でも無い侮辱をする位の權利がある譯ぢやないか。」
此樣な事で、風早學士は何處までも人間の本體を説いて、解剖は決して死者に對する禮を缺くものでは無いと主張するのであツた。
されば風早學士が、解剖臺に据ゑられた屍體に對する態度と謂ツたら、冷々たるもので、其が肉付の好い若い婦であツても、また皺だらけの老夫であツても、其樣な事には頓と頓着せぬ。彼の眼から見た其の屍體は、其の有脊椎動物で眞の四足類で、また眞の哺乳類で、そして眞の胎盤類である高等動物の形態に過ぎぬので。それで魚屋が俎の上で鰹や鯛を切るやうに、彼は解剖臺の屍體に刀を下すのであツた。其の手際と謂ツたら、また見事なもので、法の如く臍の上部に刀を下ろす。人間の血は、心臟の休息と共に凝血して了ふから、一滴の血も出ない。先づ腹部を切開して、それから胸腔に及んで、内臟の全くを露出する……膓でも、胃でも、腎臟でも、膀胱でも、肺でも、心臟でも、または動脈でも靜脈でも、筋でも骨でも、神經でも靭帶でも、巧に、てばしこく[#「てばしこく」に傍点]摘出しまた指示して、そして適宜に必要な説明を加へる。幾ら血が出ぬからと謂ツても、我々人間の内臟は、色でもまた形でも餘り氣味の好いものでは無い……想像しても解る。人間の筋肉は、鮮麗な紅色を呈して美しい色彩のものではあるが、何故か我々人間に取ツて何等の美感を與へられる性質のもので無い。理窟は別として、人間の生活慾は、牛肉を快喫する動物性はあツても、人間の感情は、ただ一片の同胞の筋肉を見ても悚然とする。況して其の筋肉を原形のまゝで、筋肉と混同になツて、白い骨を見たり、動脈を見たり靜脈を見たり、また胃の腑の實體や膓のうじや[#「うじや」に傍点]/\したところを見ては、奈何に氣強い者でも一種嫌惡の情に打たれずに居られない。されば始めて實驗解剖を見た者は、大概二三度食を斷つといふことである。雖然風早學士は、カラ平氣で、恰で子供がまゝ[#「まゝ」に傍点]事でもするやうに、臟器を弄ツたり摘出したりして、そして更に其の臟器を解剖して見せる。固より些も無氣味と思ふ樣子もなければ、汚ないと思ふ樣子も無い。眞個驚くべき入神の妙技で、此くしてこそ自然の祕儀が會得せられようといふものである。奈何に頭を熱らせて靈魂の存在を説く人でも、其の状態を眼前見せ付けられては、靈長教の分銅が甚だ輕くなることを感得しなければなるまい。
風早學士は、單に此の屍體解剖の術に長けてゐるばかりで無い。比較解剖の必要、または其の他の必要から、生體解剖の術にも長けてゐる。併し國家は、法律を以て、人間の生體解剖は禁じてある。それで生體解剖の材料は、兎とか猫とか犬とか鷄とか豚とか猿とか、先づ多くは小ツぽけな動物ばかりだ。此の意味からいふと、風早學士は、屠殺者の資格も備へてゐると謂はなければならぬ。で或人が此の慘忍な行爲を攻撃すると、
「成程こりや矛盾した行爲かも知れない。人間以外の動物を輕侮して、そして虐待するクリスト及びクリスト教徒を攻撃する僕等の爲ることとしては、或は矛盾した行爲かも知れない。雖然僕等はピュリタンで無いことを承知して貰ひたい。僕は人間なんで、人間には矛盾の多いものだから、從ツて矛盾の行爲も敢てするのさ。併し生體解剖が慘忍だといふならば、都ての肉類を食ふ人は皆慘忍ぢやないか。況して僕等の先輩が、生物を善用して比較解剖をしたればこそ、成熟期に達した人間の女に月經があると同時に、猿の牝にも月經があるといふ、宇宙の一大事件が發見されたのぢやないか。」
と辯駁する。
要するに風早學士は、其の爲る仕事が變ツてゐるばかりで無い。人間も頗る變ツてゐて、世間でいふ變物であツたのだ。それで尚に妻も娶らず、こつ/\として自然哲學の爲に貢獻しようとしてゐる。一面からいふと、無味乾燥な、極めて沒趣味な生活をしてゐるものと謂はなければならぬ。彼の住ツてゐる家は、可成廣いが、極めて陰氣な淋しい家で、何時の頃か首縊があツたといふ嫌な噂のある家だ。其處に彼は、よぼよぼした飯焚の婆さんと兩人きりで、淋しいとも氣味が惡いとも思はずに住ツてゐる。そして家へ歸ると直に、澤山の原書を取ツ散かした書齋に引籠ツて、書を讀むとか、思索に耽るとか、設五分の時間でも空に費やすといふことが無い。他から見れば、淋しい、單調な生活である。
此の沒趣味な變人が、不圖たツた[#「たツた」に傍点]一ツ趣味ある行爲を爲るやうになツた。といふのは去年の冬の初、北國の空はもう苦りきツて、毎日霰の音を聞かされる頃からの事で。風早學士は、毎日林檎を一ツポケットへ入れて來て、晝餐の時には屹度其の林檎の皮を剥いて喰ツてゐる。寒さの嚴しい日などは煖爐[#底本では「煖燼」の誤り]に※[#火偏に「共」、第3水準1-87-42、228-上段22]ツて喰ツてゐることもあツた。唯喰ツてゐると謂ツては、何んの意味も無ければ不思議も無いが、其が奈何にも樂しさうで、喰ツてゐる間、氣も心も蕩々してゐるかと思はれた。子供ではあるまいし、誰にしたツて舌に快味を感ずるばかりで其樣な眞似が出來るもので無い。そこで其の事件が職員室で「林檎の謎」といふ問題となツた。
「自然の謎」を探る生物學者は其の同僚から「林檎の謎」を探られるやうになツた。さて此の謎は、風早學士が外部から受けた刺戟の反應で、此の反應に依ツて、風早學士の内部に非常な變動があツた。實をいふと學士は、此の町に來てから、其の峻烈な寒氣も、其の莊重な自然も、また始終何か考へてゐるやうな顏をしてゐる十萬に近い町の民も、家も樹も川も一ツとして彼の心を刺戟する物が無かツた。彼の心は、例に依ツて淋しくも無ければ、賑でも無かツた。で讀書と思索とが彼の友となツて格別退屈もせずにゐた。
然るに或る霧の深い朝のことで。風早學士は、外套の襟を立て、肩を竦め白い息を吐きながら、長い脚に靴を穿いて家を出た。そして何時ものやうに、「人間の爲ること考へてゐることに要領の得ぬことが多い。」などと考へながら、泥濘ツた路をベチヤンクチヤン、人通の少ない邸町から==[#2文字分のつながった2重線]其處には長い土塀が崩れてゐたり、崩れた土塀の中が畑になツたりしてゐる==[#2文字分のつながった2重線]横町へ出て、横町から大通へ出る。大通へ出ると、毎朝屹度山の手の方の製絲工場の汽笛が鳴ツて、通は朝の雜沓を極めてゐる。市場へ急ぐ野菜車の響やら近在から出て來た炭と柴とを付けた駄馬の鈴の音やら、頭に籠を載せた魚賣の女の疳走ツた呼聲やらがたくり[#「がたくり」に傍点]車の喇叭の音やら、また何やら喚く聲叱る聲、其等全く慘憺たる生活の響が混同になツて耳に入る。其と同時に、土方や職人や商人や百姓や工女や教師や吏員や學生や、または小ツぽけな生徒などが、何れも憔た姿、惶々とした樣子で、幻影のやうに霧の中をうごめいて[#「うごめい」に傍点]行くのが眼に映る。誰の顏を見ても、恍けてもゐなければ笑ツてもゐない、何か物思に沈むでゐるのでなければ、一生懸命になツてゐるか威張ツてゐるか、大概此の型に定ツてゐるから、何れも何か目的と意味を持ツて大眞面目であるに違ない。其の眞面目な人間の動いて行く中を、痩ツこけた犬が大地を嗅ぎながら、また何うかすると立停ツて人の顏を瞶めながら、ヒヨイヒヨイ泥濘を渉ツて行く……さもなければ、薄汚ない馬が重さうに荒馬車を曳いてヒイ/\謂ツて腹に波を打せてゐるのが眼に映る。彼が毎朝大通で見るものは大概此樣な物に過ぎぬ。雖然人間生活状態の縮圖である。
偶時にはまた少し變ツた物や變ツた出來事にも打突からぬでは無い。鳥屋の店先で青ン膨の若者が、パタ/\※[#足扁に「宛」、第3水準1-92-36、228-下段18]《あが》いてゐる鷄を攫で首をおツぺしよる[#「おツぺしよる」に傍点]やうに引ン捩ツてゐることや、肉屋の店に皮を剥がれたまゝの豚が鈎に吊されて逆さになツてゐることや、其の店に人間の筋肉よりも少し汚ない牛肉が大きな俎の上にこて[#「こて」に傍点]/\積上げてあることや、其の中の尚だ活きてゐる奴が二匹ばかりで、大きな石を一ツ大八車に載せて曳いて行くことや、其の後から大勢の人足がわい/\謂ツて騷いで行くことや、または街頭に俥に挽かれて板のやうにひしやげ[#「ひしやげ」に傍点]た鼠の骸や、屋根の上に啼いてゐる鴉や電信柱に垂下ツて猿のやうに仕事をしてゐる人や、其をまたさも感服したやうな顏で見物してゐる猿の子孫に相違が無いと思はれる人や、それから犬の喧嘩や人の諍。手錠を箝められた囚人や其を護送する劍を光らせる巡査や、または肥馬に跨ツた聯隊長や、其の馬の尻にくツつい[#「くツつい」に傍点]て行く馬丁や、犬に乘つた猿や、其の犬を追立てて行く猿※[#「廻」の正字、229-上段6]や、それからまた妄と鞭で痩馬をひツぱた[#「ひツぱた」に傍点]くがたくり[#「がたくり」に傍点]馬車の馭者や、ボロ靴で泥を刎上げて行く一隊の兵卒や、其の兵隊を誘致して行くえら[#「えら」に傍点]さうな士官や、犬を嗾かけながら犬の先になツて走る腕白小僧や、或は行路病者、※[#「廻」の正字、229-上段11]國巡禮、乞食僧侶、或はまた癩病患者、癲疳持、狂人、鼻ツかけ、眼ツパ、跛、蹇、または藝者や素敵な美人や家鴨……引ツ括めていふと、其等の種々の人や動物や出來事が、チラリ、ホラリと眼に映ツてそして消えた。
雖然其等の物の一つとして、風早學士の心に何んの刺戟も與へなかツた。風に搖れるフラフ、または空を飛ぶ鳥を見るやうな心地で、冷々として看過した。
其の朝も其の通で。
霧は深かツたが、空は晴渡ツて、日光は燦然として輝き、そして霧と相映じて鮮麗な光彩を放ツてゐた。彼は二三度空を見上げたが、ただ寒さは感じたばかりで、朗な日光にも刻々に變化して行く水蒸氣の美觀にも少しも心を動かされなかツた。初冬の雨上りの朝には、屡く此樣な光景を見るものだと思ツただけである。そして何時か、此の市の東の方を流れてゐるS……川に架けられた橋の上まで來た。此の橋の近傍は此の市の一方の中心點となツてゐるので、其の雜踏は非常だ。何處からと無く腥いやうな溝泥臭いやうな一種嫌な臭が通ツて來て微に鼻を撲つ……風早學士は、此の臭を人間の生活が醗酵する惡臭だと謂ツてゐた。
彼は此の臭を嗅ぎながら橋を渡りかけた。流は寒煙に咽んで淙々と響いてゐた……微な響だ。で、橋板を鳴らす大勢の人の足音に踏消されて、大概の人の耳には入らなかツた。雖然悠長な而して不斷の力は、ともすると人の壓伏に打勝ツて、其の幽韻は囁くやうに人の鼓膜に響く。風早學士は不圖此の幽韻を聞付けて、何んといふことは無く耳を傾けた。それからまた何んといふこと無く川面を覗込むだ。流は橋架に激して素絹の絡ツたやうに泡立ツてゐる。其處にも日光が射して薄ツすりと金色の光がちら[#「ちら」に傍点]ついてゐた。清冽な流であツた。
川面の處々に洲があツた。洲には枯葦が淋しく凋落の影を示せてゐて、埃や芥もどツさり[#「どツさり」に傍点]流寄ツてゐた。其の芥を二三羽の鴉が啄き※[#「廻」の正字、229-中段21]し、影は霧にぼか[#「ぼか」に傍点]されてぽーツと浮いたやうになツて見えた。流の彼方此方で、何うかすると燦爛たる光を放つ……霧は淡い雲のやうになツて川面を這ふ……向ふの岸に若い婦が水際に下り立ツて洗濯をしてゐたが、正面に日光を受けて、着物を搾る雫は、恰で水晶のやうに煌く。其の影はカツキリと長く流に映ツてゐた。兩岸の家や藏の白堊は、片一方は薄暗く片一方はパツと輝いて、周圍の山は大方雪を被ツてゐた。
此の光彩ある朝景色も、風早學士に取ツて、また何等の意味も價値も無いものであツた。それで機械的に一とわたり、ざツと其處らを見※[#「廻」の正字、229-下段4]して、さツさ[#「さツさ」に傍点]と橋を渡ツて了ツた。
何處でも市中の橋際には、大概柳と街燈とを見受けるものだ。此の橋際にも其がある。柳はもう一とひらの葉も殘してゐなかツた。其の柳の下に、十五六の年頃の少女が林檎を賣ツてゐた。林檎は、背負籠の上に板を置いてコテ[#「コテ」に傍点]を並べてあツた。
其は偶然の出來事ではあツたが、風早學士は不圖此の少女に眼が付いた。少女は、北國の少女に屡く見受ける、少し猫背のやうな體格ではあツたが、色の白い髮の濃い、ふツくりした[#「ふツくりした」に傍点]顏立であツた。細い美しい眉も、さも温順に見えたが、鼻は希臘型とでもいふのか、形好く通ツて、花びらのやうな唇は紅く、顎は赤子の其のやうにくびれてゐた。眼はパツチリした二皮瞼で、瞳は邪氣無い希望と悦とに輝いてゐるかと見られた。
風早學士は妙に此の少女に心を引付けられた。で、其の飛出したやうな眼で、薄氣味の惡い位ヂロ/\少女の顏を見ながら、其の儘行き過ぎて了はうとして、ふと立停ツた。立停ると、慌しくポケットを探りながら、クルリ踵を囘して、ツカ/\と林檎を賣る少女の前に突ツ立ツた。そして、
「林檎を呉ンか。」と聲を掛ける。
少女は、紺のつツぽ[#「つツぽ」に傍点]の袖の中へ引ツ込めてゐた手を出しながら、「幾個ね」
と艶ツ氣なしに訊く。
「幾個ツて……」を風早學士は、鳥渡まごツき[#「まごツき」に傍点]ながら、「一ツで可いんだ。」
「一ツかね。」とケロリとした顏で、學士の顏を瞶りながら、「大きいのが可いかね、それとも小さいのになさるだかね。」
「大きいのを呉れ……一番大きなのを一ツ。」
「お擇ンなツたが可い!」
と投出すやうに謂つて、莞爾する。片頬に笑靨が出來る。
「ま、何でも可いから好ささうなのを一ツ呉れ。」といふと、
「然うかね。」と少女は、林檎を見※[#「廻」の正字、230-上段15]して、突如一つ握ツて、「此らが、ま、好いとこだね。」
「宜からう。」と頷いて、風早學士は林檎を一ツ購ツた。そして彼は、此の少女に依ツて、甚だ強く外部からの刺戟を受けたのであツた。
此の朝からして、その橋際は風早に取ツて無意味な處では無くなツて了ツた。そして此の朝を始めとして、風早は毎日此の少女の林檎を購ツた。何故か其數は一ツと定ツてゐた。それからといふものは、風早は毎朝其の橋を渡りかけると、柔な微笑が頬に上る。氣も心も急に浮々して、流の響にも鳥の聲にも何か意味があるやうにも感じられ、其の冷い心にも不思議に暖い呼吸が通ふかと思はれるのであツた。此くして以後三月ばかりの間、天氣さへ好かツたならば、風早は其處に林檎を賣る少女の顏を見たのであツた。唯顏を見て心を躁がせてゐたばかりで無い、何時か口を利き合ふことになツて、風早は其の少女が母と兩人で市の場末に住ツてゐる不幸な娘であることも知ツた。
處が一週間ばかり前から、不圖此の少女の姿が橋際に見えなくなツた。風早學士の失望は一と通で無い、また舊の沈鬱な人となツて、而も其の心は人知れぬ悲痛に惱まされてゐた。彼は其の惱を以て祖先の遺傅から來た熱病の一種と考へ、自ら意志を強くして其のバチルスを殲滅しようと勤めて而して※[#足扁に「宛」、第3水準1-92-36、230-中段12]いてゐた。
* * *
解剖室に入るべき時間は疾うに來たのであるが、風早學士は何か調べることがあツて、少時職員室にまご[#「まご」に傍点]/\してゐた。軈て急に思付いたやうに、手ばしこく解剖衣を着て、そゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]と職員室を出て廣ツ場を横ぎツて解剖室に向ツた。其の姿を見ると、待構へてゐた學生等は、また更に響動き立ツて、わい/\謂ひながら風早學士の後に從いて行く。
雪は霽ツて、灰色の空は雲切がして、冷な日光が薄ツすりと射す。北國の雪解の時分と來たら、全て眼に入るものに、恰で永年牢屋にぶち込まれた囚人が、急に放たれて自由の體となツたといふ趣が見える。で其處らの物象が、荒涼といふよりは、索寞として、索寞といふよりは、凄然として、其處に一種人を壓付けるやうな陰鬱な威力があツた。暗澹たる冬から脱却した自然は、例へば慘憺たる鬪に打勝ツた戰後の軍勢の其にも似てゐる。其處に何んの榮も無く、全てが破壞されて、そして放ツたらかされて、そして取ツ散かされて亂脈になツて、尚だ何んにも片付けられてゐない。見るから無慘な落寞たる物情である。早い話が、雪といふ水蒸氣の變換は、森羅萬象を全く眞ツ白に引ツ包むで了ツてこそ美觀もあるけれども、これが山脈や屋根に斑になツてゐたり、物の陰や家の背後に繃帶をしたやうに殘ツてゐては、何んだか醜い婦の白粉が剥げたやうな心地もする。要するに雪解の時分の北國の自然は都て繃帶されてゐるのだ。丁ど戰後の軍勢に負傷者や廢卒や戰死者があるやうに、雪解の自然にも其がある……柵が倒れてゐたり垣が破れてゐたり、樹の枝が裂けてゐたり幹が折れて倒れてゐたり、または煙突が崩れてゐたり小屋や小さな物置が壓潰されてゐたり、そして木立や林が骸骨のやうになツて默々としてゐる影を見ては、つい戰場に於ける倒れた兵士の骸を聯想する。其の林や木立は、冬の暴風雨の夜、終夜唸り通し悲鳴を擧げ通して其の死滅の影となツたのだ……雖然鬪は終ツた。永劫の力は、これから勢力を囘復するばかりだ。で蕭然たるうちに物皆萠ゆる生氣は地殼に鬱勃としてゐる。
風早學士は、其の薄暗い物象と陰影とを※[#眼偏に「句」、第4水準2-81-91、230-下段26]して、一種耐へ難い悲哀の感に打たれた……彼自身にも何んの所故か、因が解らなかツたけれども、其の感觸は深刻に彼の胸を※[#「削」の偏は肖でなく炎、第3水準1-14-64、230-下段29]る。彼は其の或る空想の花に憧れて、滅多無性と其の影を追[#「廻」の正字、231-上段2]してゐた。而も彼の心は淋しい! そして眼に映る物の全てに意味があツて、疑が出て來て、氣が悶々してならぬ。
「俺は生れ變ツたのぢやないか。」と彼は頭を振ツて考へた。
「一體俺は何んだえ?」といふ疑も出て來る……而ると熱りきツてゐた頭が急に冷めたやうな心地もする。で、吃驚したやうに、きよときよとして其處らを見※[#「廻」の正字、231-上段10]しながら、何か不意に一大事件にでも出會したやうに狼狽へる。妄と氣が燥ツき出す。
「何んだ? 何んだツて、俺は此樣なことを考へる……人間は智識の他に何も意味も無い價値も無い動物ぢやないか。人間の生活は、全く苦惱で而も意味は空ツぽだけれども、智識は其の空ツぽを充して、そして種々の繋縛をぶち斷ツて呉れるのだ。で俺は出來るだけ智識を求め、馬より少し怜悧な人間にならうと思ツて、其を唯一の快樂ともし、目的ともしてゐたのだが。」と考へて來て、忌々しさうに地鞴を踏みながら、
「何うして?……え、何うして林檎が喰ひたいのだ。そりや林檎は、血の糧だ! 血の糧には違ないが、其の血が脈管に流動するといふことが、軈て人間の苦惱を増進させるのぢやないか。」
氣が付くと彼は何時か、解剖室の入口から少し外れて傍の方へ――其のまゝ眞ツ直に進むだら、楢や櫟の雜木林へ入ツて了ふ方向に、フラ/\と、恰で氣拔でもした人のやうに歩いて行く。一平は、解剖室の窓から、妙な顏を突出して、不思議さうに風早學士の樣子を眺めてゐた。學生等は、大概其樣な事には頓着しないで、ヅン/\解剖室へ入ツて行く。
人が足を踏入れぬところは、何處でも雪の消えるのが後れるものだ。風早學士は、何時の間にか其の雪の薄ツすりと消殘ツてゐる箇所まで來て了ツた。管はず踏込むで、踏躙ると、ザクザク寂な音がする……彼は、ふと其の音に耳を澄まして傾聽した。ふいと風が吹立ツて、林は怯えたやうに、ザワ/\と慄へる……東風とは謂へ、尚だ雪を嘗めて來るのであるから、冷ツこい手で引ツぱたくやうに風早の頬に打突る。風早學士は、覺えず首を縮めて、我に返ツた。慌てて後へ引返さうとして、勢込むで踵を囘す……かと思ふと、何物かに嚇されたやうに、些と飛上ツて、慌てて傍へ飛退き、そして振返ツた。
其處には斑猫の死體が轉ツてゐたのだ。眼を剥き、足を踏張り齒を露出してゐたが、もう毛も皮もべと[#「べと」に傍点]/\になツて、半ば腐りかけてゐた。去年から雪の下になツてゐたものらしく、首には藁繩が絡みつけてあツた。
一目見ただけで、風早學士は竦然とした。そして考へた。
「此の猫だツて、誰かに可愛がられて、鼠を踏んまへて唸ツたことがあるのだ……ふゝゝゝ。」と無意味に、冷に笑ツて、
「ところが、ふとした拍子で此樣な死態をするやうになツた……そりや偶然さ。いや、屹度偶然だツたらう。何んでも生物の消長は、偶然に支配されて、種々の運命を作ツてゐるのだ……俺が此樣な妙なことを考へてゐるのも偶然なら、此樣な事を考へるやうになツた機會も偶然だ。※[#「人」偏に「尚」、第3水準1-14-30、231-下段7]俺が此處で頓死したとしても、其も偶然だし!……」
と、考へて來て、ふと解剖室の方を見る。破れた硝子に冷い日光が射して、硝子は銅のやうな鈍い光を放ツてゐた。一平は尚だ窓から顏を出して、風早學士の方を見詰めて皮肉な微笑を漂べてゐた。
風早は其と見て、「一平か。いや慘忍な奴さ。金さへ呉れたら自分の嬶を解剖する世話でもするだらう。だが學術界に取ツては、彼樣な人物も必要さ。一箇人としては、無意識な、充らん動物だけれども、爲る仕事は立派だ……少くとも、此の學校に取ツては無くてはならん人物だ。」
此くて彼は解剖室へ入ツた。
解剖室の空氣の冷い! 解剖臺==[#2文字分のつながった2重線]其は角の丸い長方形の大きな茶盆のやうな形をして、ツル/\した。顏の映るやうな黒の本塗で、高さは丁どテーブル位。解剖臺のテーブルの上には、アルコールの瓶だの石炭酸の瓶だの、ピンセットだの鋸だの鋏だの刀だの、全て解剖に必要な器械や藥品が並べてある。解剖臺には、解剖される少女の屍體が尚だ白い布を被せたまゝにしてあツた。學生等は解剖臺を繞ツて、立ツて、二人の助手は何彼と準備をして了ツて、椅子に凭れて一と息してゐる。處へ風早學士がノソリと入ツて來た。
彼は直に解剖臺の傍に立ツた。一平は、つツと立寄ツて白い布を除る……天井の天窓から直射する日光は、明に少女の屍體を照らす……ただ見る眞ツ白な肌だ! ふツくりとした乳、むツつりした肩や股、其は奈何に美しい肉付であツたらう。少女は一週間ばかり腹膜炎を病むで亡くなツたといふのであるから、左程衰弱もしてゐない。また肉も※[#「削」の偏は肖でなく炎、第3水準1-14-64、232-上段12]けてゐなかツた。濃い、綺麗な頭髮は無雜作につくね[#「つくね」に傍点]てあツて、眼はひた[#「ひた」に傍点]と瞑れてゐる。瞼、生際、鼻のまはり、所謂死の色を呈して、少し蒼味がかツて、唇の色も褪めてはゐるが、美しい顏は淋しく眠ツてゐるかと思はれるやうだ。齒が少し露はれてゐるのが、妙に他の心を刺すけれども、それとても悲哀や苦難の表徴ではない。兩足をも眞ツ直に、ずツと伸し、片手は半ば握ツて乳の上に片手は開いて下に落してゐた。※[#「人」偏に「尚」、第3水準1-14-30、232-上段21]も、ふいと此の屍體を見たならば、誰にしたツて、穩に、安に眠ツてゐるものとしか思はれぬ。
室内は、寂然靜返ツてゐた。
風早學士は、此の屍體の顏を一目見ると直に、顏色を變へて、眼を※[#目偏に「爭」、第3水準1-88-85、232-上段26]り息を凝らし、口も利かなければ身動もせぬ。そして片手の指頭を屍體の腹部に置いたまゝ、宛然に化石でもしたやうに突ツ立ツてゐた。此くして幾分間。風は絶えず吹き込むで、硝子戸は恰で痙攣でも起したやうに、ガタ/\、ガタ/\鳴る……學士の手先は顫き出した。軈て風早學士は、ぷいと解剖臺を離れて、たじ/\と後退した。そして妄と頭を押へて見て、また頭を振つて、ふら/\と其處らを歩※[#「廻」の正字、232-中段6]ツてゐた。……かと思ふと、突如に、
「僕は、何んだか頭の具合が惡くなツて來たですから……」
と謂捨て、眞ツ蒼になツた顏で、一度ズラリ室内を見※[#「廻」の正字、232-中段10]して、さツ/\と解剖室を出て行ツて了ツた。解剖臺に据ゑられた少女の屍體は林檎賣の娘の其であツた。助手や學生は呆氣に取られて、互に顏を見合はせながら、多分腦貧血でも起したのであらうと謂合ツてゐた。
(明治四十年三月「中央公論」)
底本:現代日本文學全集84「明治小説集」筑摩書房
1957(昭和32)年7月25日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:小林徹
校正:関延昌夫
1998年9月29日公開
2001年3月3日修正
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