青空文庫アーカイブ

青い顏
三島霜川

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)古谷《ふるや》俊男《としを》は

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)お前と一|緒《しよ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぶらつ[#「ぶらつ」に傍点]いても

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)べと/\する
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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古谷《ふるや》俊男《としを》は、椽側《えんがは》に据《す》ゑてある長椅子に長くなツて、兩《りやう》の腕で頭を抱《かゝ》へながら熟《じつ》と瞳《ひとみ》を据《す》ゑて考込むでゐた。體《からだ》のあいた日曜ではあるが、今日のやうに降ツては何《ど》うすることも出來ぬ。好《すき》な讀書にも飽《あ》いて了《しま》ツた。と謂《い》ツて泥濘《ぬかるみ》の中をぶらつ[#「ぶらつ」に傍点]いても始まらない。で此《か》うして何《な》んといふことは無く庭を眺めたり、また何《な》んといふことはなく考込むでボンヤリしてゐた。此の二三日|絲《いと》のやうな小雨《こさめ》がひツきりなしに降續いて、濕氣《しつき》は骨の髓《ずゐ》までも浸潤《しんじゆん》したかと思はれるばかりだ、柱も疊も惡く濕氣《しつけ》て、觸《さは》るとべと/\する。加之《それに》空氣がじめ/\して嫌《いや》に生温《なまぬる》いといふものだから、大概《たいがい》の者は氣が腐《くさ》る。
「嫌な天氣だな。」と俊男は、奈何《いか》にも倦《う》んじきツた躰《てい》で、吻《ほ》ツと嘆息《ためいき》する。「そりや此樣《こん》な不快を與へるのは自然の威力で、また權利でもあるかも知れん。けれども此樣《こん》な氣候にも耐えてゐなければならんといふ人間は意久地《いくぢ》無《な》しだ。要するに人間といふ奴《やつ》は、雨を防《ふせ》ぐ傘を作《こしら》へる智慧《ちゑ》はあるが、雨を降らさぬやうにするだけの力がないんだ。充《つま》らん動物さ、ふう。」と鼻の先に皺《しわ》を寄せて神經的の薄笑《うすわらひ》をした。
何しろ退屈《たいくつ》で仕方《しかた》が無い。そこで少し體を起して廣くもない庭を見※[#「廻」の「回」の部分が「囘」、230-上16]して見る。庭の植込《うゑこみ》は雜然《ざつぜん》として是《これ》と目に付《つ》く程の物も無い。それでゐて青葉が繁《しげ》りに繁《しげ》ツてゐる故《せい》か庭が薄暗い。其の薄暗い中に、紅《べに》や黄の夏草の花がポツ/\見える。地べたは青く黒ずむだ苔《こけ》にぬら/\してゐた………眼の前の柱を見ると、蛞蝓《なめくぢ》の這《は》ツた跡《あと》が銀の線のやうに薄《う》ツすりと光ツてゐた。何を見ても沈《しづむ》だ光彩《くわうさい》である。それで妙に氣が頽《くづ》れて些《ちつ》とも氣が引《ひ》ツ立たぬ處へ寂《しん》とした家《うち》の裡《なか》から、ギコ/\、バイヲリンを引《ひ》ツ擦《こす》る響が起る。
「また始めやがツた。」と俊男は眉《まゆ》の間に幾筋《いくすぢ》となく皺《しわ》を寄せて舌打《したうち》する。切《しきり》に燥々《いら/\》して來た氣味《きみ》で、奧の方を見て眼を爛《きら》つかせたが、それでも耐《こら》えて、體を斜《なゝめ》に兩足をブラり椽《えん》の板に落してゐた。
俊男は今年《ことし》三十になる。某《ぼう》私立大學《しりつだいがく》の倫理《りんり》を擔任《たんにん》してゐるが、講義の眞面目《まじめ》で親切である割《わり》に生徒の受《うけ》が好《よ》くない。自躰《じたい》心に錘《おもり》がくツつい[#「くツつい」に傍点]てゐるか、言《ことば》にしろ態度にしろ、嫌《いや》に沈むでハキ/\せぬ。加之《それに》妙にねち/\した小意地《こいぢ》の惡い點があツて、些《ちつ》と傲慢《ごうまん》な點もあらうといふものだから、何時《いつ》も空を向いて歩いてゐる學生《がくせい》等《ら》には嫌はれる筈だ。性質も沈むでゐるが、顏もくすむでゐる、輪廓《りんくわく》の大きい割に顏に些《ちつ》ともゆとりが無く頬《ほゝ》は※[#「※」は「炎」に「りっとう」、230-下13]《こ》けてゐる、鼻は尖《とが》ツてゐる、口は妙に引締ツて顎《あご》は思切つて大きい。理合《きめ》は粗《あら》いのに、皮膚の色が黄ばんで黒い――何方《どちら》かと謂へば營養不良《えいやうふりやう》といふ色だ。迫《せま》ツた眉には何《な》んとなく悲哀《ひあい》の色が潛《ひそ》むでゐるが、眼には何處《どこ》となく人懷慕《ひとなつこ》い點《とこ》がある。謂《い》はゞ矛盾《むじゆん》のある顏立だ。恐らく其の性質にも、他人には解《わか》らぬ一種の矛盾があるのではあるまいか。
彼は今別に悲しいとも考へてゐない。然《さ》うかと謂《い》つて勿論嬉しいといふやうなことも思ツて居らぬ。たゞ一種淋しいといふ感に強く壓付《おしつ》けられて、妄《むやみ》と氣が滅入《めい》るのであツた。
「何故《なぜ》家は此《か》うなんだらうと、索寞《さくばく》といふよりは、これぢや寧《むし》ろ荒凉《くわうりやう》と謂《い》ツた方が適當だからな。」と呟《つぶや》き、不圖《ふと》また奧を覗《のぞ》いて、燥《いら》ツた聲で、「喧《やかま》しい! おい、止《よ》さんか。其樣《そん》なもの………」と喚《わめ》く。
返事は無くツて、バイヲリンの音《ね》がバツタリ止む。
俊男はまた頽默《ぐつたり》考込むだ。絲のやうな雨が瓦を滑《すべ》ツて雫《しづく》となり、霤《あまおち》に落ちて微《かすか》に響くのが、何かこツそり囁《さゝや》くやうに耳に入る。
少時《しばらく》すると、
「貴方《あなた》、何を其樣《そん》なに考込むでゐらツしやるの。」
此《か》う呼掛けて、ひよツくり俊男の前に突ツ立ツたのは妻《さい》の近子《ちかこ》で。
俊男《としを》はヂロリ妻の顏を見て、「別に何も考へてゐやしないさ。」
「でも何《な》んだか妙な顏をしてゐらツしやいますのね。」
「そりや頭が重いからさ。ところへ上手《じやうず》でもないバイヲリンをギコ/\彈《や》られるんだから耐《たま》らんね。」
近子は些《ちよい》と嫌な顏をして、「それでも貴方《あなた》、何《ど》うかすると彈《や》れツて有仰《おつしや》ることがあるぢやありませんか。」
「そりや機嫌の好《よ》い時のことさ。」と輕《かろ》く眞面目《まじめ》にいふ。
「まア。」と近子は呆《あき》れて見せて、「隨分《ずゐぶん》勝手《かつて》なんでございますね。」
「當然《あたりまへ》さ。恐らく近頃の人間で勝手でない者はありやしない。」
「然《さ》うでせうか。」と空恍《そらとぼ》けたやうにいふ。
「然《さ》うさ。お前だツて俺《おれ》の大嫌《だいきらひ》なことを悦《よろこ》んで行《や》ツてゐることがあるぢやないか。現《げん》に俺《おれ》が思索《しさく》に耽《ふけ》ツてゐる時にバイヲリンを彈《ひ》いたりなんかして………」
「それは濟《す》みませんでしたのね。私《わたし》はまた此樣《こん》な天氣で氣が欝々《うつ/\》して爲樣《しやう》が無かツたもんですから、それで。」と何か氣怯《きおそれ》のする躰《てい》で悸々《おど/\》しながらいふ。
「然《さ》うかね。併《しか》し然う一々天氣にかこつけ[#「かこつけ」に傍点]られちや、天氣も好《い》い面《つら》の皮といふもんさ。」と苦笑《にがわらひ》して、「だが幾ら梅雨《つゆ》だからツて、此《か》う毎日々々降られたんぢや遣切《やりき》れんね。今日は日曜だから、お前と一|緒《しよ》に何處《どこ》へか出掛けやうと思ツてゐたんだが、これぢや仍且《やつぱり》家《うち》で睨合《にらみあひ》をしてゐるしかないな。」
「私と一緒に? ま、巧《うま》いことを有仰《おつしや》るのね。」と眼に嘲《あざ》む色を見せる。
「何故《なぜ》?………俺《おれ》だツて其樣《そん》なに非人情《ひにんじやう》に出來てゐる人間ぢやないぞ。偶時《たま》には妻《さい》の機嫌を取ツて置く必要もある位のことは知ツてゐる。」
「何《ど》うですか。隨分|道具《だうぐ》あつかひされてゐるんですからね。」
「そりや無論《むろん》道具よ。女に道具以上の價値《かち》があツて耐《たま》るものか。だがさ、早い話が、お前は大事な着物を虫干《むしぼし》にして樟腦《しやうなう》まで入れて藏《しま》ツて置くだらう。俺《おれ》がお前を連れて出やうといふのは、其の虫干の意味に過ぎないのさ。解《わか》ツたかね。」と無意味な眼遣《めづかひ》で妻《つま》の顏を見てニヤリとする。
近子は輕くお叩頭《じぎ》をして、「何《ど》うも御親切に有難うございます。」と叮嚀《ていねい》に謂《い》ツたかと思ふと、「ですが、其樣《そん》なにおひやら[#「おひやら」に傍点]ないで下さいまし。幾ら道具でも蟲がありますからね。」
「おい/\、何を其樣《そん》なに膨《ふく》れるんだ。誰もおひやり[#「おひやり」に傍点]はしないよ。」
「だツて貴方《あなた》、此の雨を見掛けて、見透《みえす》くやうなことを有仰《おつしや》るんですもの。ま、然《さ》うでせう、貴方《あなた》と御一緒《ごいつしよ》になツてから、もう三年にもなりますけれども、何時《いつ》の日曜に散歩でも仕《し》て見ないかと有仰《おつしや》ツたことがあツて? 何時《いつ》だツて家《うち》にばかり引込むで他《ひと》を虐《いび》ツてばかりゐらツしやるのぢやありませんか。」
全く然《さ》うでないとも謂《い》はれぬので、俊男《としを》は默ツて、ニヤ/\してゐたが、ふいと、「そりや人には氣紛《きまぐれ》といふものがあるさ。」
「ぢや、氣紛《きまぐれ》で私《わたくし》を虫干《むしぼし》になさるんですか。」
「然《さ》うさ、氣紛《きまぐれ》でもなけア、俺《おれ》にはお前を虫干にして遣《や》る同情さへありやしない。正直なところがな。」と思切《おもひき》ツていふ。感情が昂《たかま》ツて來たのか、瞼《まぶた》のあたりにぽツと紅《べに》をさす。
「其樣《そん》なに私《わたし》が憎《にく》いんですか。憎いなら憎いやうに………」と嚇《かつ》とした躰《てい》で、突ツかゝり氣味《ぎみ》になると、
「いや、誰も憎いとは謂《い》はんよ。憎いんなら誰に遠慮《ゑんりよ》も義理もあるもんか、とツくに追《お》ン出《だ》して了《しま》ふさ。俺《おれ》のは憎いんでもない[#原文まま]ければ可愛《かあい》いといふんでもない………たゞしツくり性《しやう》が合はんといふだけのことなんだ。趣味《しゆみ》も一致《いつち》しなければ理想も違ふし、第一人生觀が違ふ………、おツと、またお前の嫌《いや》な難《むづか》しい話になツて來た。此樣《こん》なことは、あたら口《くち》に風《かぜ》といふやつなのさ。」
「ぢや、すツぱりとお暇《ひま》を下すツたら可《い》いでせう。」
「そりや偶時《たま》には然《さ》う思はんでも無いな。併《しか》しお前は俺には用《よう》のある人間だ。」
「用なんか、下婢《げぢよ》で結構間に合ひますわ。」
「大きに御尤《ごもつとも》だ。だが下婢《げぢよ》は下婢《げぢよ》、妻《さい》は妻《さい》さ。下婢《げぢよ》で用が足りる位なら、世間の男は誰だツてうるさい[#「うるさい」に傍点]妻《さい》なんか持ちはしない。」
又かと思ふと氣持が惡くなつて胸が悶々《もだ/\》する。でも近子《ちかこ》は熟《じつ》と耐《こら》えて、
「然《さ》う有仰《おつしや》れば、女だツて仍且《やつぱり》然《さ》うでございませうよ。出來る事なら獨《ひとり》でゐた方が幾ら氣樂《きらく》だか知れやしません。」と冷《ひやゝか》にいふ。
「然《さ》うよ、奴隷《どれい》よりは自由民の方が好《よ》いからな。」
「然《さ》うですとも。」
「其《そ》んなら何故《なぜ》、お前は俺《おれ》のやうな所天《をつと》を擇《えら》んだんだ。」
「誰も貴方《あなた》を擇びはしませんよ。」と謂《い》ツて、少し顏を赧《あか》め、口籠《くちごも》ツてゐて、「貴方《あなた》の方で、私をお擇びなすツたのぢやありませんか。」
「然《さ》うだツたかな。」と空《そら》ツ恍《とぼ》けるやうに、ちらと空を仰《あほ》ぎながら、「とすりや、そりや俺《おれ》がお前を擇《えら》んだのぢやない、俺の若い血がお前に惚《ほ》れたんだらう。」
「それは何方《どつち》だツて可《よ》うございますけれども、私は何も自分から進むで貴方《あなた》と御一緒になツたのぢやございませんから、何《ど》うぞ其のお積《つもり》でね。」
「可《い》いさ、俺《おれ》もそりや何方《どつち》だツて可《い》いさ。雖然《けれども》是《これ》だけは自白《じはく》して置く。俺はお前の肉《にく》を吟味《ぎんみ》したが、心は吟味《ぎんみ》しなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇望《かつばう》が充《みた》されて、お前に向ツて更に他《た》の望《のぞみ》を持つやうになツた。而《す》るとお前は中々此の望を遂《とげ》させて呉れるやうな女ぢやない、で段々《だん/\》飽いて來るやうになツたんだ。お前も間尺《ましやく》に合はんと思ツてゐるだらうが、俺《おれ》も充《つま》らんさ。或意味からいふと葬《はふむ》られてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家《うち》の淋しいことは何《ど》うだ。幾ら人數《にんず》が少ないと謂《い》ツて、書生もゐる下婢《げぢよ》もゐる、それで滅多《めつた》と笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰《まる》で冬の野《の》ツ原《ぱら》のやうな光景だ。」
「其《それ》は誰《たれ》の故《せい》なのでございませう。」
「誰の故《せい》かな。」
「私《わたし》は貴方《あなた》に無理にお願をしてバイヲリンの稽古《けいこ》までして、家庭を賑《にぎやか》にしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。」
「其のバイヲリンがまた俺の耳觸《みゝざわり》になるんだ。あいにくな。」
「それぢや爲方《しかた》が無いぢやありませんか。」
「眞個《まつたく》爲方《しかた》が無いのさ。」
「ぢや何《ど》うしたら可《い》いのでございませう。」
「解《わか》らんね。要するにお前の顏は紅《あか》い、俺の顏は青い。それだから何《ど》うにも爲樣《しやう》のないことになつてゐる。」
爲樣《しやう》があらうが有るまいが、それは私《わたし》の知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近子《ちかこ》はぷうと膨《ふく》れてゐた。そして軈《やが》て所天《をつと》の傍《そば》を離れて、椽側《えんがは》を彼方《あつち》此方《こつち》と歩き始めた。俊男《としを》はまた俊男で、素知らぬ顏で降《ふり》濺《そゝ》ぐ雨に煙る庭の木立《こだち》を眺めてゐた。
此の突《つ》ツ放《ぱな》すやうな仕打をされたので、近子は些《ちつ》と拍子抜《ひやうしぬけ》のした氣味であつたが、何《な》んと思つたのか、また徐々《そろ/\》所天《をつと》の傍へ寄ツて、「貴方《あなた》は、何《な》んかてえと家《うち》が淋しい淋しいツて有仰《おつしや》いますけれども、そりや家に病身の人がゐりや、自然《しぜん》陰氣《いんき》になりもしますわ。」
別に深い意味で謂《い》ツたのでは無かツたが、俊男は何んだか自分に當付《あてつ》けられたやうに思はれて、グツと癪《しやく》に障《さわ》ツた。
「フム、其《それ》ぢや何《な》んだな、お前は俺《おれ》が此の家を陰氣にしてゐるといふんだね。」と冷靜に謂《い》ツて、さて急に激越《げきえつ》した語調となる。「成程《なるほど》一家《いつか》の中《うち》に、體の弱い陰氣な人間がゐたら、他《はた》の者は面白くないに定《きま》ツてゐる。だが、虚弱《きよじやく》なのも陰欝《いんうつ》なのも天性《てんせい》なら仕方がないぢやないか。人間の體質や性質といふものが、然《さ》うヲイソレと直されるものぢやない。俺《おれ》の虚弱なのと陰鬱なのとは性得《うまれつき》で、今更自分の力でも、また他《ひと》の力でも何《ど》うすることも出來やしない。例《たと》へばお前の頬《ほ》ツぺたの紅《あか》いを引《ひ》ツ剥《ぺ》がして、青くすることの出來ないやうな。」と細《こまか》に手先を顫《ふる》はせながら躍起《やつき》となツて叫ぶ。
「ま、貴方《あなた》も大概《たいがい》にしときなさいよ。私は貴方《あなた》の體の虚弱なことや氣難《きむづか》しいことを惡いとも何《な》んとも謂《い》ツたのぢやありません。ただ貴方《あなた》が家《うち》が淋しくツて不愉快だと仰有《おつしや》ツたから、それは誰の故《せい》でもない、貴方《あなた》御自身の體が惡いからと謂《い》ツたまでのことなんです。男らしくもない、弱い者いぢめも好《い》い加減《かげん》になさるものですよ。」とブツ/\いふ。其の態度が奈何《いか》にも冷《ひやゝか》で、謂《い》ふこともキチンと條理《でうり》が立ツてゐる。
俊男は其の怜《さか》しい頭が氣に適《く》はぬ。また見たところ柔和《にうわ》らしいのにも似ず、案外《あんぐわい》理屈《りくつ》ツぽいのと根性《こんじやう》ツ骨《ぽね》の太いのが憎《にく》い。で、ギロリ、其の横顏を睨《にら》め付けて、「然《さ》うか。それぢやお前は、俺《おれ》は馬鹿でお前が怜悧《れいり》だといふんだね。宜《よろ》しい、弱い者いぢめといふんなら、俺《おれ》は、ま、馬鹿になツてねるとしやう。俺《おれ》の方が怜悧《れいり》になると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖然《けれども》近《ちか》、斷《ことは》ツて置くが、陰欝《いんうつ》なのは俺の性分で、書《しよ》を讀むのと考へるのが俺の生命だ。丁度お前が浮世《うきよ》の榮華《えいぐわ》に憬《あこがれ》てゐるやうに、俺は智識慾に渇《かつ》してゐる………だから社交も嫌《いや》なら、芝居見物も嫌さ。家を賑《にぎやか》にしろといふのは、何《なに》も人を寄せてキヤツ/\と謂《い》ツてゐろといふのぢやない。お互《たがひ》の間《なか》に暖《あつたか》い點《とこ》があツて欲しいといふことなんだ………が、俺《おれ》の家では、お前も獨《ひとり》なら、俺も獨《ひとり》だ。お互に頑固に孤獨を守ツてゐるのだから、從《したが》ツてお互に冷《ひや》ツこい。いや、これも自然の結果なら仕方が無い。」
「何故《なぜ》お互に獨《ひとり》になツてゐなければならないのでせう。」
「色が違ふからさ。お前は紅《あか》い、俺は青い。」
「それぢや何方《どつち》がえらいのでせう。」
「そりや何方《どつち》だか解《わか》らんな。何方《どつち》でも自分の色の方にした方がえらいのだらう。」
「恰《まる》で喧嘩《けんくわ》をしてゐるやうなものですのね。」
「無論|然《さ》うさ、夫婦といふものは、喧嘩をしながら子供を作《こさ》へて行くといふに過ぎんものなんだ。」
「では私等《わたしたち》は何《ど》うしたのでせう、喧嘩はしますけれども、子供は出來ないぢやありませんか。」
「恐らく體力が平均しないからだらう。お前からいふと、俺《おれ》が虚弱《きよじやく》だからと謂《い》ひたからうが、俺からいふとお前が強壯《きやうさう》過《す》ぎると謂《い》ひたいね。併《しか》し他一倍《ひといちばい》喧嘩《けんくわ》をするから可《い》いぢやないか。夫婦の資格は充分だ………他人なら此樣《こん》なに衝突《しようとつ》しちや一日も一緒にゐられたものぢやない。」
近子は成程《なるほど》然《さ》うかとも思ツて、「ですけども、私等《わたしたち》は何んだツて此樣《こん》なに氣が合はないのでせう。」と心細いやうに染々《しみ/″\》といふ。
「お互にスツかり缺點《あら》をさらけ出して了《しま》ツたからよ。加之《おまけに》體力の不平均といふのも重《かさ》なる原因になツてゐる。自體女は生理上から謂《い》ツて娼妓《しやうぎ》になツてゐる力のあるものなんだ、お前は殊に然《さ》うだ!」
近子は眥《きれ》の長い眼を嶮《けは》しくして、「何《な》んでございますツて。」
「ふゝゝゝ。」と俊男《としを》は快《こゝろよ》げに笑出して、「腹が立ツたかね。」
「だツて其樣《そん》な侮辱《ぶじよく》をなさるんですもの。」
「侮辱ぢやない、こりや事實だ。尤《もつと》も女の眼から見たら男は馬鹿かも知れん。何樣《どん》な男でも、丁度俺のやうに、弱い體でもツて一生懸命に働いて、強壯な女を養《やしな》ツてゐるのだからな。」
「其の代《かは》り女にはお産といふ大難《だいなん》があるぢやありませんか。」
「そりや女の驕慢《けうまん》な根性《こんじやう》に對する自然の制裁《せいさい》さ。ところで嬰兒《あかんぼ》に乳を飮ませるのがえらいかといふに、犬の母だツて小犬を育てるのだから、これも自慢《じまん》にはならん。とすれば女は殆ど無能力な動物を以《もつ》て甘《あま》ンじなければならん。ところが大概《たいがい》の男は此の無能力者に蹂躙《じうりん》され苦しめられてゐる………こりや寧《むし》ろ宇宙間に最も滑稽《こつけい》な現象と謂《い》はなければならんのだが、男が若い血の躁《さわ》ぐ時代には、本能の要求で女に引付けられる。此の引力が、やがて無能力者に絶大の權力を與へるやうなことになるのだから、女が威張《ゐば》りもすれば、ありもせぬ羽《はね》を伸《のば》さうとするやうになる。そこでさ、女は戀人として男に苦痛を與へると同時に歡樂《くわんらく》を與へるけれども、妻としては所天《をつと》に何等《なんら》の滿足も與へぬ、與へたとしても其《それ》は交換的で、而《しか》も重い責任を擔《にな》はせられやうといふものだから、大概の男は嬶《かゝあ》の頭を撲《なぐ》るのだ。簡明に謂《い》ツたら、女といふやつは、男を離れて生存する資格のない分際《ぶんざい》で、男に向ツて、男が女を離れて生存することが出來ないかのやうな態度を取ツてゐるのだ。現《げん》にお前だツて然《さ》うぢやないか。俺《おれ》が幾ら體が虚弱だからと謂《い》ツて、お前といふ女は、女といふ男を離れて、而《しか》も妻《つま》として立派に生存して行かれるか。ま、考へて見ろ、俺が死んだら何《ど》うする? 其の癖《くせ》お前は、俺の體が虚弱《きよじやく》だとか、俺の性質が陰氣《いんき》だとか謂《い》ツて、絶えず俺のことを罵倒《ばたう》してゐる、罵倒しながら、俺《おれ》に依ツて自己《じこ》の存立《そんりつ》を安全にしてゐるのだから、こりや狐よりも狡猾《かうかつ》だ。何《ど》うだ、お前はこれでも尚《ま》だ、體の強壯なのを自慢として、俺を輕侮《けいぶ》する氣か。青い顏は、必ずしも紅い顏に壓伏《あつぷく》されるものぢやないぞ。」と言訖《いひをは》ツて、輕く肩を搖《ゆす》ツて、快《こゝろよ》げに冷笑《せゝらわら》ふ。
近子《ちかこ》は唇《くちびる》を噛《か》みながら、さも忌々《いま/\》しさうに、さも心外《しんぐわい》さうに、默ツて所天《をつと》の長談義《ながだんぎ》を聽いてゐたが、「ですから、貴方《あなた》はおえらいのでございますよ。」と打突けるやうに謂《い》ツて、「それぢや、これからもう、家が淋しいの冷《ひやゝか》だのと有仰《おつしや》らないで下さいまし。無能力な動物に何も出來やう筈がございませんわ。」
「フム、他《ひと》の言尻《ことばじり》を攫《つかま》へて反抗《はんこう》するんだな。」
「いゝえ、反抗は致しません。女に反抗する力なんかあツて耐《たま》るものですか。」と澄《す》ましきツて謂《い》ツて、「時にもうお午《ひる》でございませうから、御飯をお喫《あが》りなすツては?………」
「俺《おれ》は尚《ま》だ喰ひたくない。」
「でも私《わたくし》はお腹が空《す》いて來たんですもの。」
「ぢやお前勝手に先に喫《た》べれば可《い》いぢやないか。」
「だツて、然《さ》うは參りません。」
「妙なことをいふね。お前は何時《いつ》もお午《ひる》をヌキにして、晩の御飯まで俺《おれ》を待ツてゐる次第《しだい》でもあるまい。」
「そりや然《さ》うですけれども、家《うち》にゐらツしツて見れば、豈夫《まさか》お先へ戴くことも出來ないぢやありませんか。加之《しかも》ビフテキを燒かせてあるのですから、暖《あつたか》い間《うち》に召喫《めしあが》ツて頂戴な。ね、貴方《あなた》。」と少し押へた調子でせつく[#「せつく」に傍点]やうにいふ。
「ビフテキが燒いてある?………ほ、それは結構《けつこう》だね。お前は胃《い》の腑《ふ》も強壯な筈だから、ウンと堪能《たんのう》するさ。俺は殘念ながら、知ツての通り、半熟《はんじゆく》の卵と牛乳で辛而《やつと》露命《ろめい》を繋《つな》いでゐる弱虫だ。」と皮肉《ひにく》をいふ。
「ま、何處《どこ》まで根性《こんじやう》がねぢくれてゐるのでせう。」と思ひながら、近子は瞥《ちら》と白い眼を閃《ひらめ》かせ、ブイと茶の間の方へ行ツて了《しま》ツた。遂々《とう/\》むかツ[#「むかツ」に傍点]腹《ぱら》を立てゝ了《しま》ツたので。
俊男は苦い顏で其後を見送ツてゐて、「俺《おれ》は何を此樣《こん》なにプリ/\憤《おこ》ツてゐるんだ。何を?………自分ながら譯の解《わか》らんことを謂《い》ツたもんぢやないか。これも虚弱から來る生理的作用かな。」
と思ツて、また頽然《ぐつたり》考込む。
薄暗いやうな空に午砲《ドン》が籠《こも》ツて響いた。
「成程お午《ひる》だ。」と呟《つぶや》き、「近《ちか》の腹の減《へ》ツたのが當前で、俺《おれ》の方が病的なんだ。一體俺の體は何故《なぜ》此樣《こん》なに弱いのだらう。」
俊男の頭の中には今、自分が病身の爲に家庭に於ける種々《さま/″\》なる出來事を思出した。思出すと其《それ》が大概《たいがい》自分の病身といふに基因《きゐん》してゐる。
「俺は何故《なぜ》此樣《こん》なに體が弱いのだらう。」と倩々《つく/″\》と歎息《たんそく》する。
「一體|俺《おれ》は何《ど》うして何樣《こん》なに意固地《いこぢ》なんだらう。俺が惡く意固地だから、家が何時《いつ》もごたすた[#「ごたすた」に傍点]してゐる。成程俺は妻《さい》を虐《いび》り過ぎる………其《そ》ンなら妻が憎《にく》いのかといふに然《さ》うでもない。豈夫《まさか》に追《お》ン出す氣も無いのだから確《たしか》に然《さ》うでない。雖然《けれども》妻に對して一種の反抗心を持ツてゐるのは事實だ………此反抗心は弱者が強者に對する嫉妬《しつと》なんだから、勢《いきほひ》憎惡《ぞうを》の念が起る………所詮《つまり》俺《おれ》は妻が憎いのでなくツて、妻の強壯な體を憎むでゐるのだ。」
俊男《としを》は見るともなく自《おのづ》と庭《には》に蔓《はびこ》ツた叢《くさむら》に眼を移して力なささうに頽然《ぐつたり》と倚子《いす》に凭《もた》れた。



底本:「明治文學全集72 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集」筑摩書房
   1969(昭和44)年5月25日第1刷発行
入力:小林徹
校正:山本奈津恵
1999年6月17日公開
2001年2月23日修正
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