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青い顏
三島霜川
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)ぶらつ[#「ぶらつ」に傍点]いても
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)べと/\する
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古谷俊男は、椽側に据ゑてある長椅子に長くなツて、兩の腕で頭を抱へながら熟と瞳を据ゑて考込むでゐた。體のあいた日曜ではあるが、今日のやうに降ツては何うすることも出來ぬ。好な讀書にも飽いて了ツた。と謂ツて泥濘の中をぶらつ[#「ぶらつ」に傍点]いても始まらない。で此うして何んといふことは無く庭を眺めたり、また何んといふことはなく考込むでボンヤリしてゐた。此の二三日絲のやうな小雨がひツきりなしに降續いて、濕氣は骨の髓までも浸潤したかと思はれるばかりだ、柱も疊も惡く濕氣て、觸るとべと/\する。加之空氣がじめ/\して嫌に生温いといふものだから、大概の者は氣が腐る。
「嫌な天氣だな。」と俊男は、奈何にも倦んじきツた躰で、吻ツと嘆息する。「そりや此樣な不快を與へるのは自然の威力で、また權利でもあるかも知れん。けれども此樣な氣候にも耐えてゐなければならんといふ人間は意久地無しだ。要するに人間といふ奴は、雨を防ぐ傘を作へる智慧はあるが、雨を降らさぬやうにするだけの力がないんだ。充らん動物さ、ふう。」と鼻の先に皺を寄せて神經的の薄笑をした。
何しろ退屈で仕方が無い。そこで少し體を起して廣くもない庭を見※[#「廻」の「回」の部分が「囘」、230-上16]して見る。庭の植込は雜然として是と目に付く程の物も無い。それでゐて青葉が繁りに繁ツてゐる故か庭が薄暗い。其の薄暗い中に、紅や黄の夏草の花がポツ/\見える。地べたは青く黒ずむだ苔にぬら/\してゐた………眼の前の柱を見ると、蛞蝓の這ツた跡が銀の線のやうに薄ツすりと光ツてゐた。何を見ても沈だ光彩である。それで妙に氣が頽れて些とも氣が引ツ立たぬ處へ寂とした家の裡から、ギコ/\、バイヲリンを引ツ擦る響が起る。
「また始めやがツた。」と俊男は眉の間に幾筋となく皺を寄せて舌打する。切に燥々して來た氣味で、奧の方を見て眼を爛つかせたが、それでも耐えて、體を斜に兩足をブラり椽の板に落してゐた。
俊男は今年三十になる。某私立大學の倫理を擔任してゐるが、講義の眞面目で親切である割に生徒の受が好くない。自躰心に錘がくツつい[#「くツつい」に傍点]てゐるか、言にしろ態度にしろ、嫌に沈むでハキ/\せぬ。加之妙にねち/\した小意地の惡い點があツて、些と傲慢な點もあらうといふものだから、何時も空を向いて歩いてゐる學生等には嫌はれる筈だ。性質も沈むでゐるが、顏もくすむでゐる、輪廓の大きい割に顏に些ともゆとりが無く頬は※[#「※」は「炎」に「りっとう」、230-下13]けてゐる、鼻は尖ツてゐる、口は妙に引締ツて顎は思切つて大きい。理合は粗いのに、皮膚の色が黄ばんで黒い――何方かと謂へば營養不良といふ色だ。迫ツた眉には何んとなく悲哀の色が潛むでゐるが、眼には何處となく人懷慕い點がある。謂はゞ矛盾のある顏立だ。恐らく其の性質にも、他人には解らぬ一種の矛盾があるのではあるまいか。
彼は今別に悲しいとも考へてゐない。然うかと謂つて勿論嬉しいといふやうなことも思ツて居らぬ。たゞ一種淋しいといふ感に強く壓付けられて、妄と氣が滅入るのであツた。
「何故家は此うなんだらうと、索寞といふよりは、これぢや寧ろ荒凉と謂ツた方が適當だからな。」と呟き、不圖また奧を覗いて、燥ツた聲で、「喧しい! おい、止さんか。其樣なもの………」と喚く。
返事は無くツて、バイヲリンの音がバツタリ止む。
俊男はまた頽默考込むだ。絲のやうな雨が瓦を滑ツて雫となり、霤に落ちて微に響くのが、何かこツそり囁くやうに耳に入る。
少時すると、
「貴方、何を其樣なに考込むでゐらツしやるの。」
此う呼掛けて、ひよツくり俊男の前に突ツ立ツたのは妻の近子で。
俊男はヂロリ妻の顏を見て、「別に何も考へてゐやしないさ。」
「でも何んだか妙な顏をしてゐらツしやいますのね。」
「そりや頭が重いからさ。ところへ上手でもないバイヲリンをギコ/\彈られるんだから耐らんね。」
近子は些と嫌な顏をして、「それでも貴方、何うかすると彈れツて有仰ることがあるぢやありませんか。」
「そりや機嫌の好い時のことさ。」と輕く眞面目にいふ。
「まア。」と近子は呆れて見せて、「隨分勝手なんでございますね。」
「當然さ。恐らく近頃の人間で勝手でない者はありやしない。」
「然うでせうか。」と空恍けたやうにいふ。
「然うさ。お前だツて俺の大嫌なことを悦んで行ツてゐることがあるぢやないか。現に俺が思索に耽ツてゐる時にバイヲリンを彈いたりなんかして………」
「それは濟みませんでしたのね。私はまた此樣な天氣で氣が欝々して爲樣が無かツたもんですから、それで。」と何か氣怯のする躰で悸々しながらいふ。
「然うかね。併し然う一々天氣にかこつけ[#「かこつけ」に傍点]られちや、天氣も好い面の皮といふもんさ。」と苦笑して、「だが幾ら梅雨だからツて、此う毎日々々降られたんぢや遣切れんね。今日は日曜だから、お前と一緒に何處へか出掛けやうと思ツてゐたんだが、これぢや仍且家で睨合をしてゐるしかないな。」
「私と一緒に? ま、巧いことを有仰るのね。」と眼に嘲む色を見せる。
「何故?………俺だツて其樣なに非人情に出來てゐる人間ぢやないぞ。偶時には妻の機嫌を取ツて置く必要もある位のことは知ツてゐる。」
「何うですか。隨分道具あつかひされてゐるんですからね。」
「そりや無論道具よ。女に道具以上の價値があツて耐るものか。だがさ、早い話が、お前は大事な着物を虫干にして樟腦まで入れて藏ツて置くだらう。俺がお前を連れて出やうといふのは、其の虫干の意味に過ぎないのさ。解ツたかね。」と無意味な眼遣で妻の顏を見てニヤリとする。
近子は輕くお叩頭をして、「何うも御親切に有難うございます。」と叮嚀に謂ツたかと思ふと、「ですが、其樣なにおひやら[#「おひやら」に傍点]ないで下さいまし。幾ら道具でも蟲がありますからね。」
「おい/\、何を其樣なに膨れるんだ。誰もおひやり[#「おひやり」に傍点]はしないよ。」
「だツて貴方、此の雨を見掛けて、見透くやうなことを有仰るんですもの。ま、然うでせう、貴方と御一緒になツてから、もう三年にもなりますけれども、何時の日曜に散歩でも仕て見ないかと有仰ツたことがあツて? 何時だツて家にばかり引込むで他を虐ツてばかりゐらツしやるのぢやありませんか。」
全く然うでないとも謂はれぬので、俊男は默ツて、ニヤ/\してゐたが、ふいと、「そりや人には氣紛といふものがあるさ。」
「ぢや、氣紛で私を虫干になさるんですか。」
「然うさ、氣紛でもなけア、俺にはお前を虫干にして遣る同情さへありやしない。正直なところがな。」と思切ツていふ。感情が昂ツて來たのか、瞼のあたりにぽツと紅をさす。
「其樣なに私が憎いんですか。憎いなら憎いやうに………」と嚇とした躰で、突ツかゝり氣味になると、
「いや、誰も憎いとは謂はんよ。憎いんなら誰に遠慮も義理もあるもんか、とツくに追ン出して了ふさ。俺のは憎いんでもない[#原文まま]ければ可愛いといふんでもない………たゞしツくり性が合はんといふだけのことなんだ。趣味も一致しなければ理想も違ふし、第一人生觀が違ふ………、おツと、またお前の嫌な難しい話になツて來た。此樣なことは、あたら口に風といふやつなのさ。」
「ぢや、すツぱりとお暇を下すツたら可いでせう。」
「そりや偶時には然う思はんでも無いな。併しお前は俺には用のある人間だ。」
「用なんか、下婢で結構間に合ひますわ。」
「大きに御尤だ。だが下婢は下婢、妻は妻さ。下婢で用が足りる位なら、世間の男は誰だツてうるさい[#「うるさい」に傍点]妻なんか持ちはしない。」
又かと思ふと氣持が惡くなつて胸が悶々する。でも近子は熟と耐えて、
「然う有仰れば、女だツて仍且然うでございませうよ。出來る事なら獨でゐた方が幾ら氣樂だか知れやしません。」と冷にいふ。
「然うよ、奴隷よりは自由民の方が好いからな。」
「然うですとも。」
「其んなら何故、お前は俺のやうな所天を擇んだんだ。」
「誰も貴方を擇びはしませんよ。」と謂ツて、少し顏を赧め、口籠ツてゐて、「貴方の方で、私をお擇びなすツたのぢやありませんか。」
「然うだツたかな。」と空ツ恍けるやうに、ちらと空を仰ぎながら、「とすりや、そりや俺がお前を擇んだのぢやない、俺の若い血がお前に惚れたんだらう。」
「それは何方だツて可うございますけれども、私は何も自分から進むで貴方と御一緒になツたのぢやございませんから、何うぞ其のお積でね。」
「可いさ、俺もそりや何方だツて可いさ。雖然是だけは自白して置く。俺はお前の肉を吟味したが、心は吟味しなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇望が充されて、お前に向ツて更に他の望を持つやうになツた。而るとお前は中々此の望を遂させて呉れるやうな女ぢやない、で段々飽いて來るやうになツたんだ。お前も間尺に合はんと思ツてゐるだらうが、俺も充らんさ。或意味からいふと葬られてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家の淋しいことは何うだ。幾ら人數が少ないと謂ツて、書生もゐる下婢もゐる、それで滅多と笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰で冬の野ツ原のやうな光景だ。」
「其は誰の故なのでございませう。」
「誰の故かな。」
「私は貴方に無理にお願をしてバイヲリンの稽古までして、家庭を賑にしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。」
「其のバイヲリンがまた俺の耳觸になるんだ。あいにくな。」
「それぢや爲方が無いぢやありませんか。」
「眞個爲方が無いのさ。」
「ぢや何うしたら可いのでございませう。」
「解らんね。要するにお前の顏は紅い、俺の顏は青い。それだから何うにも爲樣のないことになつてゐる。」
爲樣があらうが有るまいが、それは私の知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近子はぷうと膨れてゐた。そして軈て所天の傍を離れて、椽側を彼方此方と歩き始めた。俊男はまた俊男で、素知らぬ顏で降濺ぐ雨に煙る庭の木立を眺めてゐた。
此の突ツ放すやうな仕打をされたので、近子は些と拍子抜のした氣味であつたが、何んと思つたのか、また徐々所天の傍へ寄ツて、「貴方は、何んかてえと家が淋しい淋しいツて有仰いますけれども、そりや家に病身の人がゐりや、自然陰氣になりもしますわ。」
別に深い意味で謂ツたのでは無かツたが、俊男は何んだか自分に當付けられたやうに思はれて、グツと癪に障ツた。
「フム、其ぢや何んだな、お前は俺が此の家を陰氣にしてゐるといふんだね。」と冷靜に謂ツて、さて急に激越した語調となる。「成程一家の中に、體の弱い陰氣な人間がゐたら、他の者は面白くないに定ツてゐる。だが、虚弱なのも陰欝なのも天性なら仕方がないぢやないか。人間の體質や性質といふものが、然うヲイソレと直されるものぢやない。俺の虚弱なのと陰鬱なのとは性得で、今更自分の力でも、また他の力でも何うすることも出來やしない。例へばお前の頬ツぺたの紅いを引ツ剥がして、青くすることの出來ないやうな。」と細に手先を顫はせながら躍起となツて叫ぶ。
「ま、貴方も大概にしときなさいよ。私は貴方の體の虚弱なことや氣難しいことを惡いとも何んとも謂ツたのぢやありません。ただ貴方が家が淋しくツて不愉快だと仰有ツたから、それは誰の故でもない、貴方御自身の體が惡いからと謂ツたまでのことなんです。男らしくもない、弱い者いぢめも好い加減になさるものですよ。」とブツ/\いふ。其の態度が奈何にも冷で、謂ふこともキチンと條理が立ツてゐる。
俊男は其の怜しい頭が氣に適はぬ。また見たところ柔和らしいのにも似ず、案外理屈ツぽいのと根性ツ骨の太いのが憎い。で、ギロリ、其の横顏を睨め付けて、「然うか。それぢやお前は、俺は馬鹿でお前が怜悧だといふんだね。宜しい、弱い者いぢめといふんなら、俺は、ま、馬鹿になツてねるとしやう。俺の方が怜悧になると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖然近、斷ツて置くが、陰欝なのは俺の性分で、書を讀むのと考へるのが俺の生命だ。丁度お前が浮世の榮華に憬てゐるやうに、俺は智識慾に渇してゐる………だから社交も嫌なら、芝居見物も嫌さ。家を賑にしろといふのは、何も人を寄せてキヤツ/\と謂ツてゐろといふのぢやない。お互の間に暖い點があツて欲しいといふことなんだ………が、俺の家では、お前も獨なら、俺も獨だ。お互に頑固に孤獨を守ツてゐるのだから、從ツてお互に冷ツこい。いや、これも自然の結果なら仕方が無い。」
「何故お互に獨になツてゐなければならないのでせう。」
「色が違ふからさ。お前は紅い、俺は青い。」
「それぢや何方がえらいのでせう。」
「そりや何方だか解らんな。何方でも自分の色の方にした方がえらいのだらう。」
「恰で喧嘩をしてゐるやうなものですのね。」
「無論然うさ、夫婦といふものは、喧嘩をしながら子供を作へて行くといふに過ぎんものなんだ。」
「では私等は何うしたのでせう、喧嘩はしますけれども、子供は出來ないぢやありませんか。」
「恐らく體力が平均しないからだらう。お前からいふと、俺が虚弱だからと謂ひたからうが、俺からいふとお前が強壯過ぎると謂ひたいね。併し他一倍喧嘩をするから可いぢやないか。夫婦の資格は充分だ………他人なら此樣なに衝突しちや一日も一緒にゐられたものぢやない。」
近子は成程然うかとも思ツて、「ですけども、私等は何んだツて此樣なに氣が合はないのでせう。」と心細いやうに染々といふ。
「お互にスツかり缺點をさらけ出して了ツたからよ。加之體力の不平均といふのも重なる原因になツてゐる。自體女は生理上から謂ツて娼妓になツてゐる力のあるものなんだ、お前は殊に然うだ!」
近子は眥の長い眼を嶮しくして、「何んでございますツて。」
「ふゝゝゝ。」と俊男は快げに笑出して、「腹が立ツたかね。」
「だツて其樣な侮辱をなさるんですもの。」
「侮辱ぢやない、こりや事實だ。尤も女の眼から見たら男は馬鹿かも知れん。何樣な男でも、丁度俺のやうに、弱い體でもツて一生懸命に働いて、強壯な女を養ツてゐるのだからな。」
「其の代り女にはお産といふ大難があるぢやありませんか。」
「そりや女の驕慢な根性に對する自然の制裁さ。ところで嬰兒に乳を飮ませるのがえらいかといふに、犬の母だツて小犬を育てるのだから、これも自慢にはならん。とすれば女は殆ど無能力な動物を以て甘ンじなければならん。ところが大概の男は此の無能力者に蹂躙され苦しめられてゐる………こりや寧ろ宇宙間に最も滑稽な現象と謂はなければならんのだが、男が若い血の躁ぐ時代には、本能の要求で女に引付けられる。此の引力が、やがて無能力者に絶大の權力を與へるやうなことになるのだから、女が威張りもすれば、ありもせぬ羽を伸さうとするやうになる。そこでさ、女は戀人として男に苦痛を與へると同時に歡樂を與へるけれども、妻としては所天に何等の滿足も與へぬ、與へたとしても其は交換的で、而も重い責任を擔はせられやうといふものだから、大概の男は嬶の頭を撲るのだ。簡明に謂ツたら、女といふやつは、男を離れて生存する資格のない分際で、男に向ツて、男が女を離れて生存することが出來ないかのやうな態度を取ツてゐるのだ。現にお前だツて然うぢやないか。俺が幾ら體が虚弱だからと謂ツて、お前といふ女は、女といふ男を離れて、而も妻として立派に生存して行かれるか。ま、考へて見ろ、俺が死んだら何うする? 其の癖お前は、俺の體が虚弱だとか、俺の性質が陰氣だとか謂ツて、絶えず俺のことを罵倒してゐる、罵倒しながら、俺に依ツて自己の存立を安全にしてゐるのだから、こりや狐よりも狡猾だ。何うだ、お前はこれでも尚だ、體の強壯なのを自慢として、俺を輕侮する氣か。青い顏は、必ずしも紅い顏に壓伏されるものぢやないぞ。」と言訖ツて、輕く肩を搖ツて、快げに冷笑ふ。
近子は唇を噛みながら、さも忌々しさうに、さも心外さうに、默ツて所天の長談義を聽いてゐたが、「ですから、貴方はおえらいのでございますよ。」と打突けるやうに謂ツて、「それぢや、これからもう、家が淋しいの冷だのと有仰らないで下さいまし。無能力な動物に何も出來やう筈がございませんわ。」
「フム、他の言尻を攫へて反抗するんだな。」
「いゝえ、反抗は致しません。女に反抗する力なんかあツて耐るものですか。」と澄ましきツて謂ツて、「時にもうお午でございませうから、御飯をお喫りなすツては?………」
「俺は尚だ喰ひたくない。」
「でも私はお腹が空いて來たんですもの。」
「ぢやお前勝手に先に喫べれば可いぢやないか。」
「だツて、然うは參りません。」
「妙なことをいふね。お前は何時もお午をヌキにして、晩の御飯まで俺を待ツてゐる次第でもあるまい。」
「そりや然うですけれども、家にゐらツしツて見れば、豈夫お先へ戴くことも出來ないぢやありませんか。加之ビフテキを燒かせてあるのですから、暖い間に召喫ツて頂戴な。ね、貴方。」と少し押へた調子でせつく[#「せつく」に傍点]やうにいふ。
「ビフテキが燒いてある?………ほ、それは結構だね。お前は胃の腑も強壯な筈だから、ウンと堪能するさ。俺は殘念ながら、知ツての通り、半熟の卵と牛乳で辛而露命を繋いでゐる弱虫だ。」と皮肉をいふ。
「ま、何處まで根性がねぢくれてゐるのでせう。」と思ひながら、近子は瞥と白い眼を閃かせ、ブイと茶の間の方へ行ツて了ツた。遂々むかツ[#「むかツ」に傍点]腹を立てゝ了ツたので。
俊男は苦い顏で其後を見送ツてゐて、「俺は何を此樣なにプリ/\憤ツてゐるんだ。何を?………自分ながら譯の解らんことを謂ツたもんぢやないか。これも虚弱から來る生理的作用かな。」
と思ツて、また頽然考込む。
薄暗いやうな空に午砲が籠ツて響いた。
「成程お午だ。」と呟き、「近の腹の減ツたのが當前で、俺の方が病的なんだ。一體俺の體は何故此樣なに弱いのだらう。」
俊男の頭の中には今、自分が病身の爲に家庭に於ける種々なる出來事を思出した。思出すと其が大概自分の病身といふに基因してゐる。
「俺は何故此樣なに體が弱いのだらう。」と倩々と歎息する。
「一體俺は何うして何樣なに意固地なんだらう。俺が惡く意固地だから、家が何時もごたすた[#「ごたすた」に傍点]してゐる。成程俺は妻を虐り過ぎる………其ンなら妻が憎いのかといふに然うでもない。豈夫に追ン出す氣も無いのだから確に然うでない。雖然妻に對して一種の反抗心を持ツてゐるのは事實だ………此反抗心は弱者が強者に對する嫉妬なんだから、勢憎惡の念が起る………所詮俺は妻が憎いのでなくツて、妻の強壯な體を憎むでゐるのだ。」
俊男は見るともなく自と庭に蔓ツた叢に眼を移して力なささうに頽然と倚子に凭れた。
底本:「明治文學全集72 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集」筑摩書房
1969(昭和44)年5月25日第1刷発行
入力:小林徹
校正:山本奈津恵
1999年6月17日公開
2001年2月23日修正
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