青空文庫アーカイブ
職工と微笑
松永延造
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)心が行き達《とど》き
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)それは見|達《とど》けてないのですが
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序言
私は当時、単なる失職者に過ぎなかった。とは云え、私自身とは全体何んな特質を持った個体であったのか? 物の順序として、先ず其れから語り出されねばならない。
別段大きな特質を持たぬという点が私の特質であった故に、私は私自身に就いて、其れ程長い説明を此処で試みようとは思わない。正直と簡単とを尊重して、私は次の事丈を読者に告げ得れば、もうそれで満足である。
私は一時、小学校の教員であった。そして直きに免職となって了う事が出来た。何故免職となり得たか? 日本語の発音及び文典の改良策に就いてと、それから小児遊園地の設計に就いて校長と少し許り論争した結果、私自身が何かしら「思想」と言ったようなものを所持している事が発見されて了ったからである。実に其の思想がいけなかった。多くもない私の特性のホンの一部がいけなかったのである。断って置くが、私は何んな場合でも過激を遠慮する内気な人間の部類に属し、却って年老いた校長の方が進取的な気質に満ちて「堕落しても好いから、新しいもの!」と云う希求を旗印しに立てていたのであった。従って、此の場合では、世間に好くある新旧思想の衝突と云ったようなものが恰度逆の状態で醸成されたのである。
少し冗長になるが、それを我慢して話すならば、校長は恐ろしいエスペランチストで、幼稚園の生徒へ向って迄、此の世界語の注入に熱中したのである。光を受け入れる若芽のような学童たちは珍らしいものに対して覚えが早かった。彼等は花や樹の葉の事、又「嬉しい嬉しい。」なぞと云う事を皆エスペラントで話し初めた。そして皆が
「ボー、ボー。」と叫んだ。
此の「ボー。」が校長に取っては悪かった。彼も私が免職になってから直き、矢張り同じ運命になって了ったのである。
そんな事は何方でも構いはしない。話したいのは、もっと別の点である。私は一体それから何うしたのか? 勿論貯金があったので喰うに困りはしなかった。否、寧ろ充分な閑暇を利用して、少しばかり学問を初めさえしたのである。そうして、一年許りの内には、三流文士として、四流の雑誌へ、小さな創作を掲げて貰える程に出世をした。
私の創作が勝れたものか、それとも、極く平凡なものか、を私自身も未だ判定する事が出来なかった。そして勿論多くの一流批評家は私の作に目を通しては呉れなかったのである。彼等は悪いものには注意しなかった。そして恐らく良いものと同じ運命の下にあった。
私は試みに、私の作風の一例を此処に引き出して見よう。
其の人が通過した跡
其の人は自分の母親を連れて歩いていた。彼の足は真直ぐで、母の背は曲りかけていた。彼は少しもクタビレないけれど、然も母親のクタビレたのを察する事が出来た。
「心が行き達《とど》き、他の心を察する事」之がその人の特性だったのである。
「お母さん。私は一度丈貴方を自動車に乗せて上げたいと思います。」と子は云った。
「お前は私がクタビレたと思って、そんな風に云って呉れるが、私は未だ歩けますよ。それにお前の足は大変活撥で、もっと地面を踏みたがっていますよ。本当に若い中は高い山なぞを見ると、直ぐそれへ登った所を想像する程だもの。然し年をとると、そこを越さずに、向うへ行ける道はないかと探すようになるのだね。」と母が微笑んで答えた。
けれども其の人は自動車を呼んで、それから運転手に訊いた。
「B迄行くのですが、車の何方側へ多く日が当りますか。」
「右側ですよ。」と運転手が答えた。
「では、お母さん。私が右側へ座ります。お母さんは日影においでなさい。」
之は暑い日の出来事であった。眠相であった運転手は不図目を上げて、幾らか恨めし相に青年とその母を見やった。彼は吐息を一つすると、直ぐ車を動かし初めた。走って居る間中、運転手は故郷へ置いて来た自分の母親の事を、あれから之と懐い続けるのであった。十日程前、手紙で母親を騙し、十円の金を送らせて、全く無益な酒色の為めに費して了った事が、彼自身にも口惜しくて、彼は思うさま大きく警笛を響かせた。それから、態と行路を替えて、廻り道をし、車上の老いた人へ日光を当ててやろうかとさえ考えたが、不意に眼へ一杯の涙をためて了ったのであった。
親と子は車を降り去った。残った運転手は郵便局へ入って母へ宛てた為替を組んだ。それに添えて、「お母さん、丈夫かね。日中だけは畑へ出ず、体を大切にして下さい。」と下手な文字をも書きつらねた。
田舎で、息子の手紙と、いくらかの金を受けとった母親の喜びは何んな風であったか? まして、それが一度も子供から親切にされた覚えのない母親であって見れば、尚更の事である。
母親はよろけ乍ら、隣家の方へ駈けて行った。然し、此の喜びを、そうたやすく他人に打ち明けてはなるまい、と思ったか、再び我が家へ走って来て、声を上げて、息子の簡単な手紙を読んだ。声の終りの方は小鳥のそれのように顫えた。人が文字以外の文字を読むのは実にそんな時である。簡単は立派な複雑になり、ほんの西瓜の見張り小屋のような文章が、何だか有難く宏壮なお寺様のようになって了うのである。
母親は誰かしらに此の喜びを分け与えねば、自分の体がたまらないような気がして来た。それで又家を出て見ると、彼の女が貸した金を仲々返して呉れない男の何人目かの子が、直ぐその弟を背負うた儘、転んで了って、重い負担のために、起き上る事も出来ず、藻掻いているのに、行き会った。母親は急いで、子供を抱き起し、「可哀相に……」と繰返した。
「之は利息だよ。」と子供は帯の間から十銭の紙幣を二枚出した。
老いた女は少し顔を赤くして考えた。お金が哀れな人の所へ行って、利子と云うものを盗んで帰って来ると……
「そのお金は少いけれど、お前のお父さんと、お母さんが、暑い日中、畑へ出て、働いて出来たのだね。それは暑さの籠ったお金だね。ああ暑い日中丈は畑へ出ぬように……」と老いた人は独語とも祈りとも判明しない言葉を、天に向き、又地に向いて呟いた。
それから彼女は二十銭を可愛い子供に与え、子供はその半分で果物を買い、半分で鉛筆のような品を求めた。
さっき迄意地悪くしていた子供は大変嬉し相に飛び立った。そうして、自分の家の鳩へ、他所の犬をけしかけるのをやめた。
子供は何かしら三つ許りの歌を一緒に混ぜて歌い乍ら、庭に落ちている鳩の抜け羽を拾って遊んだ。
「斯んなにして、毎日羽をためたら、今に妹の枕が出来ようか?」と子供は母と覚しき女性に尋ねた。
「丹精にしていれば、出来相もないと思われた色々の事さえ、思いがけぬ程早く出来るものだ。」と母らしい人は答えた。
此の有様を巣の入口で眺めて居たのは年をとった一羽の鳩であった。
鳩……この小さい脳髄は何を考えて居たであろう。鳩は何度か首を傾け、あたりに犬の居ないのを確めて後、恐らく次のように鳴いた。
「自分の惜しく思う品を、思い切って人に与えても、その品を人が自分と同じように大切にしているのを知る事は、何とも云えない喜びである。」
我々は思い出す。自動車に乗った、さっきの母子は、唯街路の一角を通ったに過ぎなかった。けれども、その影は運転手の手紙と共に、田舎へ走り、老いた農民のもとに居り、転んで起きられぬ子供のそば近く歩み、鳩の巣のほとりに、思い深くもたたずんだのである。至極あたり前の深切、一寸した思いやりも、それが命を持って居る故に、水の輪のように、動いて他の方へ行くのは面白い事である。
(おわり)
読者は倦怠したであろうか? 振り返って云うが、私の小品というのは以上の如きもので代表されるのであった。それは簡単で、従って未熟であろうか? 私が教員時代に学童へ向って熱心に話した訓話の痕跡が取り切れて居ないと、読者は叱責するであろうか。
それは何うでも好い。話は実に之からなのである。
機縁とは何であるか? 何処が初まりで、何処が終りなのであろうか。私には何も分らないが、或る雨の日に、ある濡れた青年が、私を訪ねて来たのは確かな事実である。
彼は幾分か私を尊敬する風であったが、そうかと云って彼自身の傲慢を強いて隠す程でもなかった。彼は概して陰鬱であり、時に不思議な嘲りに似た笑いを洩らした。彼は一個の労働者であると告白したが、そんな低い階級に似ず、恐らく私も及ばぬ知見を持っていた。
彼は自身が経験した或る事件に就いて、一つの伝記風な小説を書きかけている事、それを順々に見て貰い、批評して貰いたい事を私に告げた。
「私が何んな奴だか、今に皆別って来ます。すっかり分って了います。」と少し気味悪い動作の青年は悲し相に舌をふるわした。
軈て私は何を見、そうして驚いたか!
私の嘗て知らない不思議な世界が此処から開け初めた。青年の文章は暗い光とでも云う可きものを以て私の胸を照らした。此処には「神聖なものへの反抗」があり、私の心の中には見出せない複雑な考えがあった。
「悪」それが主位を占め、そして君臨する所の精神を、私は単なる心理学的興味からでなしに、もっと異様な驚きと嘆きとで見入った。私はそれに引つけられ、又蹴はなされた。それにも拘らず、私は彼の青年へ何処迄も接触して行こうとする勇気の為めに立ち上った。ああ此の青年が何んなに私の平安な生活を破壊して呉れたか? それは後に皆明白となるであろう。
彼の青年は確かに私達とは別な性質を到る所で発露した。たとえば、彼は面識なき牛肉の配達夫へ、いきなり声を掛ける事が出来た。
「お前は、自分の配達してるものが喰いたくはないかい?」と彼は対手の肩をたたいた。
配達夫も亦、この行為をいぶからなかった。尤もそれが彼等の礼儀なのである。
「喰いたくもなるさ。けれど、私の厭に思うのは、自分の飢えている事じゃないよ。自分が何かを人に与え得ぬ事だ。」と配達夫は答えると、黒い表紙の書物で、青年の肩を打ち返した。その書物は聖書だったのである。(その頃は未だ下層者の間に多くのクリスチャンが居た。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
「ウム、そんな事もあるな。たしかにある。私の知っている貧乏な雇人は、ある大尽の家の子に、一銭を握らせて、大きな声を出し乍ら飛んで帰って来た事がある。奴は善い行いをしたのか……それとも復讐をしたのか……自分でも判らないのだ。唯、俺は与えたぞ、与えたぞと叫び乍ら、地面へ、へたばって了やがった。」と青年は厭な表情をして答えるのであった。
と思うと、青年は全く未知な他の労働者に肩を打たれる事がある。
「ヤイ、何をボンヤリしてるんだ。貴様、自分で立っているのか? それともそこに落っこちてやがるのか?」と未知の男は叫んだ。それが矢張り礼にかなっているようでもあった。
「落ちているんだとも。だが、そりゃ、上っちまうより安全なんだ。」と我が青年は答えた。
「洒落やがんない。俺が分らないのか。今俺の友達の奴はな。蒸し釜の蓋のネジがゆるんだんで、それを締め直しに、大きな釜の上に登ったんだ。それから、ネジを締めたんだ。すると、ネジの奴、金が古くなっているんで、ポサンと頭がモゲやがったんだ。おい。こっちをちゃんと向かねいかい。それで、釜と蓋との間から、蒸気が噴き出して来てな。その力で他のネジも皆一偏に頭がモゲて、パーンと云うと思うと、もう工場中は湯気で真白に曇っちゃったんだ。すると、上の方でポーンと云うんだ。ハッと思って見ると、屋根が吹き飛んで、大きな穴から青空が見えるじゃないか。そして、ああ、眼をつぶって呉れ! 俺の友達の奴……まるで吹き矢の矢のように、その穴から、空へと吹きっ飛ばされやがった。急いで外へ出て見ると、俺のすぐ前へ、ドサンと肉体が落ちて、弾みもしないで、タタキへのさばりやがった。グサッと音がしたんだ。おい。こっちを向けい! 友達はそれでも死ねないで、唸りやがった。『苦しい、苦しい、』と叫びやがった。当り前よ苦しくない訳が何処にあるんだい。」酔い痴れた未知の人は、そうして自分の道を歩いて行って了った。
青年は暗い顔になって呟いた。
「人がそんな風に鞠のようになって好いのか? 人が?」
けれども読者よ。人は色々な人間らしからぬ別のものになる虞れがある。現に此の青年も何かしら他の玄怪な存在になりかけているのであった。それを證明するため、私は彼の自伝をここに掲げたく思う。
次の章に於いて、今後「私」と云うのは、実に「彼」の事なのである。もしくは「何時か善良に帰る傷ついた霊」の事なのである。
玩弄さるる美
一番初めに云って置きたいのは、私が物質上の貧困者であるに拘らず、贅沢過ぎる心を持っているという悪い惨めな点である。斯んな外部条件中に投げ出された斯んな霊と云うものが、何んな変化を取って行くか。
単に空虚な妄想を追う事の他に、私はもっと現実に接近した慰安を求め得なかったであろうか。人々は次の言葉を何と思うか。
妄想と現実との中間に座って蠢めく私は、確かに又、仮定と実際とを折衷しつつ何かしら、諦め深い、そして優雅を通り越して、児戯に近附く類の慰安で自分を飾り得たと思っていた。例えば、何んな紙――物理的に汚れて鼠色になったのでも、化学変化の為めに黄褐色になったのでも構いはしない――でも自分の手に入って来ると、私は其れからエジプトのスフィンクスを切り抜き出したものである。成程、自分の前には平面なスフィンクスが幾匹か現れて来る、之は物質に形を借りている。唯平面である点に、多量な妄想と空想が盛られているのである。私は何うかせめてバスレリーフとしてのスフィンクスをセルロイドからでも刻み出したい。それは此の惨めで汚い貧困に聊かでも敵対する心の贅沢である。
「厭な人間だ!」私の聴き手は斯う私を舌打ちで鞭打つだろう。けれど、私は一人の病み患う子供の様なものである。肉を蝋にして燃しながら、空想の焔の糧にする程、静かに座っているのが持ち前の人間である。斯んな男に附き纏う貧困こそは悪性のものに相違ない。賭博者、ピストル丈を商売道具にする男、単純な無頼漢、彼等に絡《まつ》わる貧困の方が、まだまだ私の類よりは光明を持っている様である。
宜敷い。私は独りで居よう。昔式の巡羅兵が持つ蝋燭の灯の廻りを黒いガラスが護る様に、兎も角も、私の四壁は他人から隔てられている。私は此処で昔の朝鮮人でもした様な骨董的な空想を現実と妄想との中間的濃度を持つものとして味わう。
例えば、此の室の床が斜めに傾いているとすれば、それは悪い建築法の為めではなく、此処の地盤が、雪の為めに清透となったアペニン山脈中のある山腹に位すると考えて置こう。此の壁が破れている事には唯古典的な風雅丈を見出そう。人々はモーゼの書いた文書が破れていなければ、立派ではないと云うであろう。時と云う風雲は唯一の装飾法を知っている。それは物を少し許り破る事で、全体をメッキするのである。此の方法は私に依って「支那式美術」と呼ばれていた。何となれば、支那はその建国が古過ぎて、物を凝集する焦点を通過して了ったと云う様な点からではなく、あの国のものは凡て不足と欠乏で飾られているからである。彼の国で多過ぎるのは唯料理の数丈ではないだろうか。
「之は厭な云い廻しだ。」と聴き手は私の鬱陶しい衒気を瓦斯の様に嫌うに極まっている。其れに何の無理があろう。私も自分自身が随分厭なのだ。
それにも拘らず、いや、寧ろ、一層図々しく、私はウツラウツラと考え続ける。何を? 凡て外国の骨董品の事をである。メソポタミヤ人は三千年前に何んな頬髯の生やし方をしていたか? 斯んな考古学は厭世の一種であって、自分の汚さに困じ果てた人の息抜きに過ぎないのではあるが……
「私はもっと隅の多い室に住みたい。暗さは之で恰度好いから……」そして空想の中に於てではあるが、華麗な伊太利風の模様のある厚い布で白い光を屈折させ、銅の武具とか、古い為めに暗くなっている酒の罎とか、アラビヤ人のかつぎとかで、色んな色の影を造って見るのである。私は菱形の盆を大きくしたような寝台に平臥して、金縁の附いた天鵝絨の布団を鼻の下迄引張るのである。斯うするとまるで孔子の髯の様に長く、黒い布が私の足に達するであろう。
いや構わない。もっと妄想――即ち思想の膿を分泌せよ!
支那風な瑪瑙の象眼に、西欧風な金銀の浮彫りを施した一つ小箱には、自分の眼底迄が黒い瞳の闇を透して写り相な磨きが掛けてる。その中には暗中に生活した為めに、肉体の弱り切った子供の様に見える所の、或る秘密なミニエチュアを二枚合せにして蔵している。それは海の中にある極楽の様に冷や冷やとした画であるが、見ていると記憶が乱れ切って了う様に、四ツの焦点が注意を掻きむしる。自分が橋を渡っているのだと思わせて置き乍ら、実は泳がせていると云った様な訳の分らぬ画、私の言葉が人々に分らぬ程、比喩に満ちた画だ。之より分らぬものが又とあろうか。恐らく此の画には本質的な価値はないのである。唯何も分らぬ点が人々をして価値あるものの如くに眩視せしめるのである。斯んな例は世の中に沢山ある。
偖て、聴き手よ。貴方方が若しも犯罪心理学者であり、美と罪悪との不可思議微妙な関係に就いて研究しつつあるならば、私が上来書き来った所の文体を検査した時、必ずやその筆者が幾分か悪人であらねばならぬと云う推定を下す事が出来る筈である。
何故と云うに、骨董屋の店頭を見る時のような、まがいものらしい美(それは本統の美ではあるまい。)の併列と云い、その間をつなぐ幾分か意地の悪い暗怪と云い、之等は皆人間の悪心から流れ出す所の夢に他ならないからである。此の文体に表れた所は何等自然的な皮膚を恵まれていないボール紙へ塗った胡粉のような痛々しい化粧丈ではないか。
ああそう云う類の化粧を以てのみ悪心を抱くものは生活する。その化粧は彼が書く文章の上にも行き亘る。「何んな種類の殺人が、一番芸術的であるか?」と云うような云い廻しに於いて、彼は最も悪いものを優雅に見せようとする。或いは又、暗怪と虚言との中に、彼の理想(即ち人を殺す事)をうまく嵌め込んで、
「おい、君はB市の市長が床の上で死んだと思っているから、お芽出度いね。ウム、秘密を知っているのは私丈だよ。実はね。実は、R公園でグサッとやられたのさ。お供のやつが大急ぎでその死体を家へ運んで了ったんだ。それで……つまり……床の上……と云う事になるんだ。いや、検べてみると病気で死んだ積りになっている有名な人々が、随分非業な最後をやっているのさ。」
斯んな虚言程無気味なものがあろうか。斯んな虚言を吐く男の眼は何んなに上釣り且つ濁りつつ光っていることであろうか。
真に私自身も亦此の男の如くであろうか。おお、私は常に殺人の秘密な意図で心を波打たせている。私が殺してやろうと思っている或る人間の眼が、泥の中や水の上へ浮んで腐ったように赤くなっているのを見る事がしばしばある。けれど私は臆病な空想勝ちな燻ぶり返った一人のセルロイド職工に過ぎない。
支那人鮑吉
尊いものは稀である、と哲学者は云っている。成程、其れに間違いはない様だ。あったとしても取り立てて騒ぐ必要もありはしまい。如何にも、尊いものは稀である。だが、稀なものが必ずしも尊くはない。
その證拠として、私は今でも明瞭に思い出し得る一友人の日常に就いて語ろう。私は実を云うと、自分自身を語る目算なのだが、その目的の為めに、却って斯んな廻り道を取らねばならないのを悲しく思う。彼の事を話して置かぬと、私の話が出て来ない。だから、彼と云うのは煙火の口火に過ぎないのだが、実はもっと濡れて湿気の多い所のある男である。
「彼とは何んな男だ?」
世界には塵芥と同じ数丈の謎がある。一日中、人と会話しないでいてさえ「何?」が私の心の中で醗酵している。「彼? 何?」それを簡単に之から話そう。
私は一時自分が犬殺しをしていた事を全然忘却していた。其れを悲しく想起せしめたのは支那人の鮑吉である、そして、彼は私が犬殺し屋であったのを知ると、大変に悲嘆して私から段々遠退いた。其れは極めて自然の成り行きである。何故なら、彼は恐ろしい人間嫌いで、その代りに、動物植物の異常な偏愛者であったのである。然し、鉱物は彼の注意を少しも惹くことが出来なかった。奇妙である。
彼は竹が一番好きである。「竹と竹、コチコチ当る音、宜敷い。」と彼は好く云うのである。「竹の挨拶」と彼は其れを呼ぶ。
「世界で一番美しいものは何か。」と私が尋ねた時にも、彼は躊躇なしに答えた。
「雲雀! 雲雀、天の息を飲む。」
彼は自ら飼っている雲雀を朝早く空へ放ち、其れが帰って来て、彼の手の甲へ乗る時、嘴の先に附いている「天の気」――それは何かしら分子の様なもの――を自分の鼻孔へ吸い込むのである。何たる厭な形式であろう、然も此の形式を彼は仙人風に尊重し、何か魂の薬になる事だとさえ信じているのであった。
彼は又、日本趣味を多分に持っていて、色の殆どない様な朝顔、昼顔、芍薬、実につまらない断腸花、合歓、日々艸なぞを大層崇め奉って、その花や葉っぱを甞めて渋い顔をしたりする。彼は花を見ては好く感奮するが、然も実を云うと彼の霊は蓮根から出る糸の様に、冷たい、柔かい、青い、植物臭いもの、又ある種の虫の体臭も混入し、眠った、爬虫類の様にソッケなく、もし、何か光が出るとすれば、それは夜光虫のと同じで、水の中にある様なものでなくてはならない。それ程彼は沈み勝ちで、何だか、夜陰の川をゆっくりと流れる浮燈籠の様でもあった。
要するに、彼は一番真面目に生きていると信じ乍ら、然もやっている事が皆遊戯なのを知らぬ人間である。例えば、彼は蟻を夢中で見詰める。その夢中な有様は少し狂気を交えている。何も知らない蟻の方では、力一杯に腐った蛙の子を運んでいる。
「おお、何て一生懸命、可愛がってやらねば……」彼は涙ぐんで、蛙の腐肉を蟻の穴へと手伝って運んでやる。けれど、若し、街頭で子を背負い乍ら車の後押しをしている人間の女を見るならば、彼は眉をひそめて、態と眼を閉じて了う。「耐らない、汚い。」のである。彼は病気で歩けない雨蛙は好きであるが、本当の病人――私――なぞをあまり好かない。「此の蛙、風邪引いている。お湯飲まして、寝かしてやる。」之が彼の持ち前である。
或る男が、生きた竹を切っているのを見掛けた時、彼は額の上の方迄、眉毛を持って行って了った。実際、彼の眉毛は好く動く。そして、普段でも、眼から二寸位は離れているが、驚いたり、怒ったりする時は三寸五分位に隔たる。もっと驚いたら、後頭部の方へと廻って行って了い相な気さえする。西洋人は怒る時眼を瞠って、隠れていた白眼迄をも現すのであるが、支那人は主に、顔面へ既に現れているものを、頭巾を冠った頭部の方へ隠すのである。改めて云うが、彼は正直に怒って了ったのである。「それ、いけない。」
それにも拘らず、竹屋の前を通る時、死んで竿になって了っている竹が、亡霊の様に立っているのを見掛けたとて、彼は何とも思いはしないのである。「貴方、西瓜の果、食べる?」と掌へ乗せた黒い粒を私にすすめる丈である。
私は考えた。何故彼は人間の私よりも病気の蛙を愛し、人間の奴隷よりも働く蟻に熱中するのか。又切り掛けの竹を憐れがるのに、切られて了った竹を恐れぬのか。
最初の方の疑問は直きと解決される機会に到着した。彼が二寸方形位の写真のファインダーを、自分で造って持っている事から、私は気附いたのであるが、彼は自然大の自然物よりも、此のファインダーの擦り硝子へ映る小さい影像の方に、何れ程愛着しているか分らない。
「ああ、煙突からパーと煙出る。煙草よりももっと、小さい。それ可愛い。」
此処に於いて私は判定する。小さくなくては彼の愛を買う事が出来ない。蛙は人間を縮小したものとして彼の眼に映ずるらしい。
之は勿論全体を蔽う解決ではない。然し、重要な部分の様ではあるまいか。
次が、竹の生死問題である。彼は切られる竹を惜しむのに、死んで行く人を祝福する厭世家である。此の矛盾の為めに、私は彼の魂を握る事が出来ない。其処で直接彼に質問して見た。
「何故、生きている竹を切る時は、眉毛動かすか。そして何故死んだ竹が並んでいても眉毛、其の儘か?」
「何も不思議ない。死んだ竹、もう竹でない。石と同じ物質!」
此の答えを聞いて私は呆然として了ったのである。
彼が小さい物を愛する所から、私は彼を「玩具人」と呼ぼうと思っている。そして、凡て死骸を蔑視する点に於いては、彼を「蒙古の回々教徒」若しくは「神代に於ける日本の神々」と呼んで居るのである。
考え直して見れば、彼も大変可哀想な人間である。私は彼の造った汚いファインダーを借りて、彼の姿を覗いた事がある。彼の丈は高いが、弱い樹の様である。それより露西亜のボルゾオイとか云う犬が一層彼に似ている様に思われる。その犬の敏捷な点がではない……眠相にしている姿勢丈がである。
彼は外れた方向へ走る歪んだ球である。少し藪睨みで、その上愛の筒口が違う方を向いている。彼は人間を忌避し恐怖する。彼はあらゆる人間が意地悪く、拳で彼の腹を覘っていると想像する。彼はブツブツと呟き乍ら、花と虫とへ行く。そして春になっても尚、蓮根の様に冷たい穴だらけの魂を抱いているらしい。彼の魂は彼の肉体よりも先へ年とっている。千年も生きて了って、もう仕方なくなっている山椒魚が黒く湿気た落ち葉の堆積の下にうずくまって、五分若しくは十分間に一度づつ呼吸している有様に似ているのである。
犬殺しの考え
一寸した遠慮から、私は変態的な心理を持つ鮑吉を自分の友であると云ったが、実は、彼こそ私の友であると同時に、私の本統の父であったのを告白せねばならぬ。耻かしいけれども私はある靴直しの娘と此の変妙な支那人との間に出来た混血児なのである。だが私の心が曲って了った一番初めの原因は父の血のみに帰さる可きではない。私が道を歩く度に、近所の子供から侮辱され、石を投げられ、時にはつめられたりした事が皆その重要な元素であった。彼等は何時でも私を憎み乍ら、注視していた。そして私の汚い日本服の下に支那風な胴着をでも見ようものなら、彼等は犬のように吠えたてて、私の耻を路の真中へと曝け出した。
「お父さん。私ばかりを皆がいじめる。私許りを見詰めている。露路から抜けようとすると待ち伏せをしているし、大通りを歩くと皆が二階の窓から睨めて、唾で丸めた紙を投げるのです。」私は斯んなふうに子供らしい嘆きを洩した。けれども私を愛さぬ父は彼自身の少年時代が矢張り之と同じだったと答えた。そんな嘆きは段々と凝集して大きい塊りになって行き、ああ遂に全然別のものと変態して了ったのであった。
誰に向けられるのでもない漠然とした怨恨の情と、縁の下の蔓のようにいじけた僻みの根性とが、私の心を両方から閉ざす二つの扉となったのは極めて自然である。斯んな説明は誰も陳腐であるとして排斥する程、私の心の変化は普通の成り行である。
だが、私が十九才程に成長した時、一つの出来事が起って、其れが他の出来事をさそった。私の父は重い病気の後に死んだ。母は既に約束してあった男と早速何処かへ逃げて行って了った。遠く出稼ぎに出て居た私が駈け附けた時には、薄馬鹿の妹が小さく暗い家に足を投げ出して、何か考え事をしているのを見た丈であった。考え事と云っても別段分別の籠ったものではない。唯ウツラウツラとして時間のたつのを待っていた迄なのである。私も妹と一緒にウツラウツラとなって行った。何故か此の時私は自分が一年間でも、わざと犬殺しを家業にして来た事を深く後悔する事が出来た。私は泣いて妹に抱きついたが、妹は黙って足を投げ出していた。
「お前は奉公に行けるかい? 私も之から何かの職人になるから……」と私は兄らしい情をこめて囁いた。
「犬ころしは止すの?」と無邪気な妹が尋ねた。彼の女は丁度その時十七才であったが智恵は遅れていて、読書も算術も出来ない低能児であった。それにも拘らず、彼の女の体はもはや大人並の生理状態を持っていたのである。スペイン闘牛士のように美しい私は答えた。
「犬ころし! ウンそれはもう止そう。お父さんもいやがっていたからね。けれどだね。私は時々思うのだ。世間は態とムシャクシャ腹を立てさせて、一人の人間をもうすっかり自暴自棄にさせ、終いには残忍にさせる。そして、その残忍を何かしら世間の為めに有効に使おうとする。世間は残忍をも遊ばして置かない。斯うして依怙地な犬殺しが出来る。気狂い犬が減って、噛まれる人々が少くなる。うまいやり方ではないか。」
妹はノロく笑った。二人は父の死亡と母の遁走を一通り悲しむと、もう直ぐそれを忘れる事が出来た。いや結局此の方が好いようにさえ思われたのは何う云う訳だったであろう。
離散して了う事、かたがついて了う事、私はそれを喜んだ。が、元より悪魔の心を以てではない。あの恐ろしい諦めを持った印度の王子は彼の家系が散り失せるのを何んなに喜んだかを考えて貰い度い。彼は妃を尼にさせた。息子を独身の沙門にさせた。そうして汚辱が清め洗われたのである。此の虚無的な精神は悪へのみの加担者ではない。私が一家の飛散を快く思ったのも、寧ろ半分は善良な心からであり、汚穢を葬る必要からであった。私はその頃、決して子を造るまいと心を決めていた程であった。私は生前の父が母を始終流産させているのを見た。五人の子が流れ去ったのを、私は氷河を見る時のようにサッパリとした心で眺めやったものである。
「流れて行け、流れて行け。その方が何んなに仕合せだろう。」
その頃から私は水と生命との密接な関係を科学的にではなく、例の芸術的幻影として屡ば直観した。泡を吹く夕方の沼の泥に赤く腐った生物の眼を見出したのは一度や二度でない。霧が晴れかけている河の水面に、真青な怨めしそうな眼を見附けるのも造作ない事であった。私はスペイン闘牛士のように道楽半分の残忍性を以て云った。「あああれは人間の眼だ。今に私の手で殺される人間共の眼だ。」
此の予感は寂滅的思想で沈められた私の心へ、よく浮び上る所の恐怖であった。私は既に犬を殺しつけて居た。そうして、彼等の怨念は決して死後迄存続するものでないのを好く確かめていた。けれどむしろ彼等の死前に於て、怨念の予覚が私の心へ喰い入って来る事は度々あった。例えば私が仕事に出ようとして長靴を穿きかけていると、足が急にしびれて、靴へ密着して了う事なぞがその證拠である。私は靄の多い朝なぞ、随分と犬が死の予覚のために苦しがって鳴くのを聴いた。次手に云って置くが、犬は豚よりも死を厭うし、殺される時の苦痛が大きいようである。ある土人が犬を殺しては喰うのを見かねて、彼へ豚を代りに喰うようにと命令を下した西洋人は好い分別を持っている。豚を殺すのも犬を殺すのも同じ殺生だと考えてはならない。世の中には決して同じものはないのである。
犬を殺すのも、人を殺すのも同じ殺生だ。私は時々斯う叫んでは、それが誤った意見なのを悲しんだ。そうして水の上の眼、泥の中の眼を掻き消す事に努力したのであった。
けれども私は何うしてもあの疑いを捨て去る事が不可能であった。あの疑い? そうである。父は本統に床の上で自然に死んで呉れたのであろうか? おお私は此の上もなく惨めな人間ではないか。実際は床の上で胃癌の為めに死んだB市長の事を、公園で刺客にやられたのだと吹聴したのは確かに此の私であった。その時は自分が嘘を吐いているなどと云う一種の悲しく又喜ばしい意識を失っては居なかった。おおあのイライラとした口惜しいような歯痒いような然も体をじっとしてはいられないような虚言の快楽、私は確かにそれを享楽していたのである。所が今度は何うであったろう。母とその情夫とに向けられた疑惑の根は決して虚構の快楽から生え上っては居なかった。困った、と私は自分の額を打っては何度かたじろいだことであろう。之は殺人事件を仮想しては楽しむ私の悪癖が一層憎悪して来た結果に他ならないと云う決断を私は何んなにか要求したか? 然も要求したにとどまった。悲しい事に疑念は子を産み、蔓を伸ばすのを止めなかった。
その頃、私は又奇怪な話しに遭遇した。
「お前は知っているかね? スピノザは肺病で死んだことになっているが、実はアムステルダムの一医師に殺されたんだよ、デクインシーと云う人が其れを検べて、自分の著書へ公然と発表しているんだから、間違いはないのさ。それからカント……あの古手の大カントも例の散歩の道で殺されかけたのだぜ。刺客はジット大哲人の痩せた猫背をうかがったのだ。けれどその時ふと刺客は思いついたんだ。之はいけない。あの老人は、沢山の罪を背負っている。若し自分が殺すと、真逆様に地獄へ墜ちて行って了う。之はいけない。それで刺客はドンドン駈け出して了ったのだ。そして老哲人の身代りに、可愛い幼子をふんずらまえたのだ……」
「うむそれで何うした?」と私は暗い好奇心を以て前へ乗り出し、話し手の手首をしびれよとばかりに握りしめた。話し手は一寸たじろいた。
「それで……之から育つ果実のように生き生きとしていて可愛い幼な子の肉をぶちやぶり、小さい霊を天へ送ったんだ。刺客はもう感奮して声を立てて泣いたんだ。之であの霊は天国へ行けるって云ってね。」
「その刺客の心理が不明瞭だ、」と私は云った。
「不明瞭にきまっている。是非不明瞭でなくてはならないんだ」話し手は立ち去って行った。
私の疑念は憎悪して病気になって行きそうであった。私は話し手のあとを秘かに追って行った。彼は夜の細い道を右へ左へ折れた。
「おお、お前未だ私を追跡するか? 執拗い男だな。」話し手は無気味に云い放って、うしろから歩みよる私を忌み嫌った。
「話して呉れ! 何う云う訳なんだか。」と私は急に弱り切って、萎れながら口を開いた。
「何を?」
「何うして老人の身代りに幼児がなったのか。又何故その方が好いのか、と云う事だ。」
「もう好い加減に許して呉れよ。お前。その代り、此の本をやるから……」彼はデクインシーの本と云うものを私の手の上へ乗せた。
話し手と別れて帰って来た時、私はその本を読む勇気も出ない程労れ果てて居た。(次手に云うが、私は珍しく病的に利巧で、英語は、シェークスピアを巫術的に翻訳出来る程、直覚を以て会得していたのである。それから私は父の住む土地では犬殺しを働く事が出来ぬ程、教養のある友を持っていたのである。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
私はどうしてもデクインシーの著書を読む事が出来なかった。そして何故だか判らないが、本の表紙にあの話し手の体臭がこびりついているように思えて、態々近くの河へ、橋の上から本を投げ捨てて了ったのである。
私は時々発作的に悶えた。妹は足を投げ出して上眼でそれを見ていた。
「兄さん。私がいていけないなら、奉公に出るよ。奉公によ。」妹は眼に涙をためて足をいじっていた。
ああ闘牛士の様に道楽の混った犬殺し、不当な社会へ対する「復讐の代償」として、あの可愛らしいテリヤとセッターの混血児を殺す青年、之は確かに悪い、そして非常に悪いものに相違なかった。
手妻の卵
犬殺しを廃してから、私の収入は全く絶えて了った。私は時とすると、もう一度帽子を目深く冠るあの商売に入ろうかと思った。けれど結局他の考えが優越した。私は妹を奉公に出した。彼の女の行った先は郊外にあるやれ果てた病院であった。恐らく彼の女は、その病院の洗濯婦と、院長の宅の飯炊とを兼ねねばならなかったのである。此の激務に堪える事の出来る女は白痴か、さもなくば異常に体力の大きいものでなくてはならなかったので、院長は妹の白痴であることを少しも気に掛けぬ所か、むしろ其れを幸いにしているらしかった。私は妹の給料に就いて、何の要求もしなかったが、それにも拘らず、院長は六ケ月分の給料を前払いにしてやっても好いと申し出して呉れた。私は七円の六倍即ち四十二円を痩せこけた院長の手から受け取ると、妹の為めに幾枚かの着替を買いととのえ、新しい行李をも担ぎ込んでやった。
「では、働いてお呉れ。」私は涙をこぼして低能な妹を見やった。妹はもう子供のように泣いた。
本統に斯んな哀れな娘は生きていない方がよい。何うかして早く死んで了う方法はないであろうか、と私は可愛さ余って呟いた。妹は続けざまに泣いた。私が病院の裏口を出ると、追いかけてかじりついた。私は妹を抱き上げて門の中へ入れねばならなかった。けれど私が逃げ出すや否や、異常に太っている妹の腕はもう私の首へからんでいた。私はぞっとなった。その腕をもぎ離すと、今度は地面へ坐って、私の足へからみついた。私が構わずに歩き出すと、彼の女は平気で引き擦られて来た。私は又妹を抱いて病院の門内へ入れた。
「許して呉れ。」と私は泣いた。
「アア兄さん。」と妹は口を開いたまま涙を落した。
私は妹の執愛の深さを無気味に思って、「死んで呉れると好い。」と呟き乍ら大急ぎで妹から別れ去った。
四十二円の金は二十一円丈私の手に残っていたが、私はそれを少しずつ喰い減らして行った。最後の一円丈が軽い財布の底に見出された時、私は思い切って一つの商売を初めねばならなくなった。その商売は犬殺しよりも少し勝っているように考えられはしたものの、決して正当なものと云う丈の価値はなかった。
「大きい悪事よりも、小さい悪事を……」と私は云いつつ、知り合いの卵屋へ走り込んだ。私は其処で非常にまけて貰って五十銭丈青島卵を買い入れた。古くなっている為めに表面が象牙のように光沢を持って了った三十五の鶏卵を、私は悪い巧みで体中を顫わせつつ見入った。何故私はそんなにイジけた質なのだろう。
「この光沢がいけないんだ……」
残りの三十銭は一体何の為めに費されたであろう。私は薬種屋へ行って三種の薬品を買い入れた。それらを上手に調合し、薄い溶液にしたものへ、光沢のある鶏卵を浸すと、一時間程でツヤ消しが完了した。
「ハハハハ之で宜敷い。」と私は大哲カントのように独語した。おお何と云う好い器量の卵達であろう。ラフなブロマイト印画紙のような肌は、もう近在から出る地卵とそっくりであった。
軈て私は若い農夫のような出で立ちをした。そして父の土地から遠くさすらって、他の都市へと行った。
郊外には主人が留守で、美しく若い夫人丈が淋しく子供に添乳なぞをしている家が多い。私はそんな家の扉口へ立つと、大きな笊の上を蔽った手拭いを取り去り、丸顔の少女のような鶏卵を主婦達に見せびらかした。
「おかみさん! 地卵を買ってくんなんねえか。新らしいだよ。皆生れた日が鉛筆で印してあるだが、」と私は実直に云った。
「いやだ。いらないよ。」と若い女は答えるのが普通であった。
「でも此の上皮の工合を見て呉んろ。新らしいだよ。俺の爺さんが道楽に鶏を飼ってるんだからな。餌代丈になりゃ好いだよ。安くしとくだ。店で買えば七銭から八銭迄するだ。俺あ五銭で置いてくだ。」
夫人は何気なく起き上った。そして卵の肌へ手を触れて見た。彼の女は自分の可愛い子がもう卵を食べてもよい程に育ったのをつくづくと感ずるらしく、思いやりの深い眼で眠っている幼子の方を見やったりした。
斯うして卵は直きにかたがついて了うのであった。私は時々自分の身をツメって叫んだ。
「ああ罪だ。罪だ。あの卵の中、三分の一はもう腐敗してるだろうに……」
けれど私は何うしてもやめられなかった。それで、一日五十個以上は売らないと云う戒律を立てて、此の商売を続けて行くのであった。そして悲しい事に、こんな新らしい悪事が何でもない習慣に変じて行った。
初めが終り
ああ此の商売を何処迄も続けて行けたなら、私は何んなに都合よく暮せたろう。けれど例の通り遂に一つの支障が起った。私は一人の美しい娘に見惚れて了った。それ丈の事である。だが何と云う美しい娘であったろう。それを何う説明してよいかが分らないので私は苦しい。あの洗われたような娘はいつも苦しそうに肩で息をする癖があるが、決して妊娠をしているのではなかった。いや彼の女程に純真な処女が又とあって好いものだろうか。序でに云いたす事だが、私自身が大変に毛の薄い男であった為か、私は毛の多い女を此の上もなく好んだ。そして丁度その娘と来ては髪の毛が沢山で長かった。その癖、うす鬚なぞは一寸も生えていなかった。(実を云うと鬚が生えて居ても毛の多い女の方が私は好きであった。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]つまらなくとも聞いて下さい。
私は此の娘を毎日見ていないと悩ましい気持になった。私は娘の居る都市から他の都市へと移る勇気がなくなって了った。私は到頭一つの場所へ居据るようにさせられた。
何うしたらあの娘と関係をつけることが出来るだろう。それを思い廻らしては一日が早くのろく過ぎた。郊外の大部分を私はそんな風にして卵を売り歩いて了った。あんな卵を二度繰返して買って呉れる主婦は決してないであろう。
私は考え労れてはあの娘を見に行った。私はその時出来る丈上品な身なりをして、汚い卵屋とは似ても似つかぬしとやかな大学生風な青年になりすました。そんな事は私の得手なのである。
娘は私が毎日彼の女の家の廻りをまわるので、もう好く私を記憶し、注意していた。彼の女は私を悪い人間だとは疑っていないらしかった。何故ならば、彼の女は私の事を母親へ告げないでいるのが明らかだった。(娘と云うものは自分の好かない気味悪い男の事は直ぐ母親に告げて助けを乞うのが常である。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]娘は段々と私がしたい寄って行くのを待っているようになった。私が出掛けて行く時間を遅らすと、彼の女は心配して外の生け垣へもたれて立っていたりした。けれど私が近づくと彼の女は未だ恐れているように庭の中へ逃げ込んで、樹の葉の間から私を窺った。娘の息がはずんでいる事は、彼の女の眼が落ち着いていない事で直ぐ推察されるのであった。
「おおあの娘は私を思っていて呉れるのだ。何て世間は上手に出来ているのだろう。私達はもう思い合っているのだ。眼丈が体の他の部分より一足先に交際を初めたのだ。」
斯う云う野合の楽しみときては人生の中で最も大きいものに相違ない。自分の友人の妹とか、主人の娘とか、召使いとか云ったふうな女たちとの恋は未だ中々本統の恋と名附ける事は出来ない。そんなのはむしろいたずらな機会が生んだ無意識的な退屈しのぎに過ぎまい。
娘の方でも私に焦れている。二人が我慢して、眼を見交している。之は実に胸がつまる程嬉しい事件ではないか。何うしたらあの娘と関係出来るか? その謀みで私は夢中になり初めていた。大胆にやり過ぎれば娘を脅やかして了う。小胆にしていれば、何時迄もあの娘を手に入れる道がない。だのに娘はもう待ちぬいている。手に入れて呉れと嘆願している。そして運命もそれを要求している。神も微笑み乍ら見て見ぬふりをしている。私は何うしても思い切ってやり遂げねばならないのだ。そう思うのは何と嬉しい事ではないか。やり遂げれば成功するにきまっているのだ。
「畜生め!」と私はこみ上げるむず痒さを押しこらえた。もう嬉しくってたまらなかった。それが悪いと誰が云おう。
「よし今日こそは思い切ってやり遂げよう。」私は誰もがするように、手紙をかいた。それを一寸甞めて、大きな秘密のように業々しく胸へ抱き込むと、私は又娘の家へ近寄った。門口に立っていた娘はオドオドと慌てて、おくれ毛をかき上げたり、帯の形をなおすように、うしろへ手をまわしたりした。ああ若しも私を嫌っているなら何うしてあんな風にする事が出来よう。娘は私を偸み見ては、少しばかり恐ろしそうに天をふり仰いだり、地面の草を摘む真似をしたりした。然も草の方へは気が行って居ないので、その茎を指でおさえても、摘み上げる術さえ知らなかった。もう娘は慌て返っていた。草を手ばなすと、今度は庭の樹の幹へ顔を押しつけて、じっと私を見た。私は此処で微笑んで見せようかと思ったが、用心深くそれを控える必要を感ずると、態々悲しそうにうなだれて、生け垣の前を通り過ぎた。それから又、もう本統に恋の悩みで面やつれているように弱々しく歩み返し、吐息をついて、生垣の前へ戻ると、そこに転がっていた五寸位直径のある石の下へ手紙をはさんで、一寸娘へ哀願するような一瞥を投げ、思い切ったように立ち上って、早足に其処を遠ざかった。私はそっと振り向いて見た。娘はじっと私を見送って、小さい門の所に立って居た。けれども未だ手紙を石の下から出す勇気は起っていぬらしかった。何でも彼の女は胸を高く波打たせて思案しているらしかった。
「そうだ。私の姿が見える間、娘は決して手紙を取り上げはしまい。明日が楽しみだ。明日だ。明日行って見ると、もう石の下には何もない。唯娘の眼がユッタリと頷ずいているのだ。おお之はもうたまらぬ事だ。」
私はクスクスと笑ったり、又深い理由のない憂いに沈んだりして一夜を明かした。それから何時もの時刻に娘の家へ近附いた。娘はいくら見ても居なかった。悲しい落胆の予感が私の心臓を痛くしめくくった。何うしたのだろう。私は夢中になって生け垣の中をのぞいた。それから石を上げて見た。「アッ!」と私は早くも本式に落胆した。石の下には未だその儘で手紙が残っていた。悲哀と私一流の怨恨とが一時に私の意識を占領した。
私は手紙をやぶり捨てるために、それを指の先でつまみ上げた。ああその時、実にその時である。
私は烈しい心の動乱を覚えて、手紙を固く胸の上へ抱きしめた。鼓動は騒いだ。吐息が洩れた。ああ実に之は何たる不可思議であろう。私は手紙の表面へ「悲しいお嬢さん」と書いたのを記憶している。だのに、今私が抱いている手紙の表面にはそれらの字が消えて真白になっているのだ。インキ消しの薬が何時作用したと人は思うか。
「何て、うまい事だ。」と私は擽たそうに微笑した。その手紙は確かに娘からの返事であった。何と書いてあったか? 私はもう忘れて了った。けれど何でも、もう嬉しくて寒気がするような、有難い言葉が三つも四つも続け様に繋がっていたに相違ない、私は見えない娘へ何回もお礼を云って、生け垣を去った。半町も歩いて振り返って見ると、今迄姿を表さなかった娘が門の前へ淋しい水の精かなぞのように立っているのが分った。私は夢中になって、そのやさしい姿の方へ舞い戻ろうとした。娘は近寄る私を恐怖するように家の中へ逃げ込んだ。
「この位で丁度よいのだ。之が一番楽しい所なのだ。」と私は微笑んで呟くと、思い返して、その頃、宿にしていたある西洋人の家のキッチェンの屋根裏へと戻って行った。今日の楽しみが斯うして終りかけると、私はもう明日の楽しみを夢みる事に精を出し初めた。その時である。私が私服巡査につかまって了ったのは……
けれど、くりかえして云う。私は斯うしてつかまって了ったのである。何んな手掛りで捕えられたかは私自身にも分らなかったが……
新聞は私を嘲罵した。それで妹が世話になっている病院の院長に迄も私の暗い行為が知れ渡ったのである。其れが又私の仕合せの端緒となったのは何よりも不思議ではないか。刑を済ました私は院長に引取られた。とは云え何も病院内の職務に服さねばならぬ義務を課せられた訳ではなかった。遊んでいる苦しさから逃れるために、私はギブス繃帯掛りの役を与えて貰うように懇請した。それから平和な月日が無為と無事とをもたらしたのである。
あの娘は何うなったかと誰か尋ねて呉れないだろうか。ああ時間程いけないものが又とあろうか。私は口惜しさと悲しさに身を刺された。私が刑を済まして後、あの生け垣を再び訪れた時、娘はもう生きていては呉れなかったのである。聴けば肺病が重くなって急に死へ急いだと云う事であった。そう云えば、私が通いつめた頃も、透きとおるように白い肌がいくらか不健全に見えていたのであった。
あの娘を殺したのは此の私ではなかろうか。又しても暗怪な疑念が私の心に蔽いかぶさった。肺病には興奮や心配や落胆や悲哀が一番悪く影響するのを私は知っていた。私は彼の女を徒らに興奮させた。手紙を呉れた日から不意にたずねて行かなくなった為め、娘は何んなに気をもんだであろう。泣く為めに熱が出る。熱のために咳が出る。咳くたびに命が縮んで行ったのだ。私は何と云う悪いいたずらをして了った事であろう。あんな楽しみさえ殺人の一種であったのか? そして、それは何と云う殺人であったろう。(おお余りな事だ)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
私は愛らしい娘を殺した。愛らしいので殺して了った。此の考えが私の恋愛をさらに燃え上らせた。私は苦しく笑った「愛が死と結びついた所に、何だか至上の強さがあるようではないか。それは強い。そして緊密である。」
紫の室
何故院長は罪深い私を養って呉れるのであろう。思って見るに、それは彼が犯罪心理学や法医学の研究家であったからであろう。彼は私を利用して博士論文でも書こうと云うのではないだろうか。事実、彼はたえず私の挙動を監視し、又私を心理検査にかけ、あるいは感想を尋ねた。第三の場合に於いては、利巧な私は自分の罪悪を犯す心理状態や、制しきれない獣的な悪意、本能としての残忍性の発作なぞを説明してやった。
院長は感極まってそれを聞いていた。彼の顔は段々低くなって、しまいには机へ顎がついて了う程になった。彼は私を実際よりも以上な大悪人と推断して了った。私を尊敬した。彼はまるで遠ざかるような態度で益す私に近づいた。彼の眼は何時も「お前は偉い男だ。」と云うような讃嘆の色で光っていた。ある時はまるで私を崇拝さえしていたようであった。勿論皆馬鹿な事である。
「お前はどうしてそんな綺麗な顔をしているんだ。悪い奴と云うものは大概頭蓋が曲っていたり、顔が横の方へひねくれて、歯が大きくて長く、眼球が上釣って、ドロンと濁っていながら、然も何となくギロギロしているものなんだがなあ……」と彼は或る夕方嘆息して云った。
「先生は色魔に就いて何うお考えですか?」と私は初めた。「気性の悪い奴だのに、何処へ行っても女に好かれて了うような男がありますが、それは何故でしょう。」
「女にはそれ自身で悪を好む性向があるからだろう。」
「それに違いありませんが……然しその思想に依りますと女があまり可哀想ですね。何にせよ、悪が美と結合している事は一つの微妙な不可思議です。そして悪心と美貌とを持ったものの仕合せったら……それは比べるものがありませんね。女達は丁度それを愛慕します。女を得るには釣り道具も何も要らないんですからなあ。」
「成程……」と院長は気味悪相に顎を机に押しつけて了った。
「私の考えに依るとですね。強大な悪はそれ自身で病的なものです。しかし、或る程度の悪になりますと、それは生存上必須の要件なのですね。それで自然は斯う云う健康な正規的な悪を成可く絶滅させないために、随分と骨折っていると云う事が分ります。優秀な理性が一番遺伝しにくいものだと云う事実を先生は何う思いますか。」
私達は斯んな風に話したものである。私は先生の好い伴侶であり、思想上の相談役であった。院長は私に感化されないようにと思って、随分努力もし、体や頭を洗ったりしていた。けれども私の説明をその儘論文の中へ書き込むのは偽りのない所であった。
私はそれでも好い周囲を恵まれてから、段々と怨恨や不満を抑制するように努力し初めて居た。悪い心が起ると、静かに書見などをして気を散らす方法を覚えるに至った。私は自然、自分の幸福を感ずるようになり、古い悪事を想起する事で心を痛めるようにもなった。自分が精神上の片輪であると云う意識が眼覚めてからは、何うかしてその片輪を治そうとする欲求で心を一杯にしていた。だが一体何がその結果であったろう。
此処に又いけない支障が起って来た。私はあるアバずれな婦人患者に思いを掛けられ初めた。女の愛欲が私の心に響くと、その反応が浅間しく私を焼いた。私は恋を感じ初めた。それに伴随して残忍な気持がたえず行き来するのは一体何う云う訳であったろう。私はその年上の女が憎いように思われ、それをいじめてやろうとする欲望で一杯になって居た。私は興奮すると直ぐ残忍になった。その年上の女ばかりではない、院長の令嬢も私を大分好いているのが私の心へ響いていた。彼の女が色眼を呉れる事、肱を触れる事等が私に可笑しく思われた。けれど彼の女は未だ耐える力を失ってはいなかったらしく、又私が罪人である事や、妹が白痴であることから、私を恐れ嫌っている風でもあった。
「低能は筋を引くものだ。」彼の女が斯んな風に考えているのは私にも充分分っている。彼の女は風のない静かな夕暮なぞには妄想の深みへ入って、自分の胎内に低能な児が哺くまれている有様なぞを見て驚いたりするらしかった。彼の女は或る時私と一緒に病院の標本室へ入って見た事がある。アルコール潰になった長い男性の脛などが白くフヤけて、罎の底へ足の毛が抜けてたまっているのが私を大変不愉快にした。それから或る無頭児の罎詰の前迄行くと、令嬢の顔が不意に歪むのを私は早くも発見した。
「畜生! この女は低能児をはらむ恐ろしさを又しても妄想して悩んでいる。」と私は腹の中で叱言を洩らさなければならなかった。
二人の女性が私を注視しているために、私は何時も気が落ち着かなくなり、勢い挙動も荒くなり勝ちだった。勿論注意深い院長は私が心を労らせている原因を見て取らずには置かなかった。
「私は外囲が心へ及ぼす効果と云うものに就いて、大きな興味を持っているのだ。何うだね。お前はあの紫の室で少し暮して見ないか。きっとお前の心がよくなるから。」善良な院長は浮かぬ顔をして斯んな風にすすめた。紫の室と云うのはヒステリー患者を治すために院長が業々《わざわざ》造ったものであって、その中央に小さな噴水の出来ている静かな落ち着のある室であった。四方の壁も寝台の足もその他の装飾も全部紫色を以て塗られてあった。
私は元来紫色が大変にきらいであったから、此のすすめを何うかして逃れようと思案した。
「先生は紫色が人間の悪心を矯正するとお考えなのですか?」
「さあ……少くとも橙色よりわね……」
「子供の中に黒い部屋で育ちますと、その黒がしん迄沁み込みます。けれど大人になって紫の部屋に入っても、黒の上へ紫はそまらないでしょう。」と私は沈んで答えた。
「しかし、まあ、入って見なさい。何か効果があるかも知れないから……」
以上の会話はまるで虚言のように態とらしく見えるかも知れない。けれど全部事実であり、院長の呑気に近い優雅を證拠立てる好い材料の一つであろう。人々は如何に思うか。世間の学者達は熱心に悪人を矯正しようとして考え、骨を折っている。然も紫色の室以上のものを設計し得ないのは大きな悲しみではなかろうか。
私は何時も思っている。「幼いものをつまずかすのは、老人の足を切り取るよりも、もっと悪い事だ。」と。紫色の室が役に立つのは、其処へ入るものの頭蓋骨が未だ小さく柔軟な場合である。
私は紫色の室内に眠って深い悲しみに閉された。私はもう駄目である。此の静寂が身に沁みて痛い。私はしまいに耐え切れなくなって、理由もなく増大する涙の粒を落した。
夜の戯れ
多くの病気に向って、紫色が好い影響を働く事を、英国のスノーデン博士が考えていた。そして主唱者の墜りやすい通弊として、彼もその影響の効果を過大視していたようである。我が院長に至ってはまるで誇大が狂的に迄進んで、私を嫌いな色でせめさいなんだ。彼は私の悪心を紫色で包み隠そうとしたのである。けれど彼は本統にそんな馬鹿気た望みを三分でも持ち続け得たであろうか? 私には何うしても院長の心持を洞察する事が不可能であった。
私は不眠癖に苦しめられ乍ら、毎夜を紫色の室で大人しくしていた。同じ色の絹で蔽われた燈光が、同じ光に見える音のない小噴水の水しぶきを柔らかく照した。何一つ落ちていない床の上の広い淋しさが真夜中になると一層広がった。私は何うかして眠ろうと願って、あの観無量寿経の中にある一つの静視法、即ち落ちる日輪から水晶の幻影を生み出す事を考え耽るのであった。だが、話したいのは更に別の事である。
その時であった。実に、物静かな空気が鼓膜に感じない前に、皮膚へ感じる程度の振動を起したので、私は忽ち我に帰って耳を立てた。
足音である。人の来るけはいである。室外の廊下に思い余って、誰かが立ちすくむ様子らしい。だが、事件はもっと別の事である。
誰であろう。女であろうか? 女ならば誰であろうか? 之が私の無言の質問であった。
「あれかも知れない……」と私が推定した当の人物は矢張り女性であった。彼の女は何時も私の眼に何物かを読もうとして焦躁しているのが分っていた。私が一寸戯れにやさしい顔をすると、向うは却って真面目に怯えたりした事もあるその女と云うのは独身の看護婦長であり、女の癖に極く慎ましい方であった。従って幾らか物識りのように見えた。彼の女は何うかして私の口に「恋愛」と云う言葉を上させようとして骨を折り、色々の導火線へ火をつけて見ていたのである。彼の女は胸の中で「私達はもう恋を仄かに感じ合っているのだ。唯お互いに内気だから打ち明けずにいるのだわ。」と云う一人定めの思想を抱いているのが確かであった。女は早く私から「甘い苦しみ」と云う奴を打ち明けて貰おうとして、もう夢中になっていた。始終自分の服装を替えたり、歩きつきを誇張したり、つまらぬ事に驚きの声を発して見たり、フンフンと鼻を鳴らしたり、一人で海岸へ行くと云ったり、森へ行くと云って出掛けなかったり、態々犬を私のそばへ連れて来たり、鸚鵡にものを云わせて見たり、風呂に入って香水をつけて来たり、腕をまくってムク毛を口先で吹いたり、子供の時に出来たと云う小さく愛らしい腫物の痕を見せたり、生ぶ毛の話をしたり、或はもっと精神的な方へ材料を代えて、ラファエルの運命の三女神中何れが魅惑的かと尋ね、ゲーテの艶福を評したり、態と椅子をガタガタさせ乍らベトーヴェンが悲劇的な男である理由を聞いたり、(その癖答えなぞは聞いてはいない。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]その他あらゆる誘惑の機会を造り出そうとしていたのであった。そうだ。下らない事の極みである。
「そうだ。あの女に相違ない…‥」此の考えは私に取って甚だしく不愉快ではなかった。唯もう少しあの女が美しければ好いのだが、と云う嘆きがなかったならば……
扉の外では頻りに空気が動き、又留った。若しあの女ならば出来る丈からかってやろうと云う悪心から、私は寝たふりをして声なぞは決してかけてやらなかった。けれど年がさの女は大胆である。苦しい胸を打ち明けるために、此の離れて静かな室が最適なのを知るのであろう。そっと扉を動かして、中の様子を窺うのが私の背中へ感ぜられた。私は寝返りを打つ事も出来ず、息苦しい気分になって、顔を皺めた。私はもう戦いに敗けたようであった。
足音は静かに室内へと移った。そして私の寝台へ向ってゆっくりと進んで来た。私は心を締められるように緊張した。そして名状しがたい畏怖の念でガバと起き上った。振り返って、足音の主を見詰めた時、私は到頭、
「アッ!」と云う声を絞り出した。足音の主は四囲を見廻し、私の叫びが決して遠い室々へ迄は達《とど》かぬのを推察した。そして、
「静かに……」と手で制した。「驚くことはない、驚く事は……」けれどその声は少し慌て気味であり、自ら怯えているようであった。一体何事であったのか?
其処に立っているのは確かに院長であった。然も平常の院長ではない。その点が私を脅やかした大きな原因であった。彼は異人風の寝巻を長々と着、房を垂らし、それから哲学者が冠り相な夜帽を戴いていた。私は斯んな院長の姿を見るのは実に初めてであった。それ許りなら未だ何でもない。彼は片手に大きな壺を抱いて、平常は青い顔を真紅にし、私を眤っと見下していたのである。この妙な行動の半分が狂気から出来ていないと誰が云い得よう。
「何うなさったのです。先生……」と私は呆気に取られつつ小声で云った。小声にである。
「いや……」と院長は口を尖らして呟くと、抱えていた壺をゆっくりと床へ下し、再び私を柔和に打ち眺めたのである。
「その壺は……」と私は段々声を細めた。
「何でもない……」と院長は自分の身体で壺を隠すようにした。
「院長さん。貴方は私を何うかなさろうと云うんですね……」私は怖え乍ら辛うじて之丈を早口に云い終った。けれど未だ何も云わない様な気がしたので、もう一度少し声を力づけて、「院長さん! 貴方は私を殺す気じゃないんですか?」と本統の所を口走った。私は本当に死の予感に打たれたのである。
「お前の言葉は何時も誇張的で困るよ。私は本統に誤解されるのが苦しいのだ。」院長は之丈云うと歩き労れた旅人のように寝台へと崩れかかって来た。私は一層心を緊縮させて、院長がブカブカに緩い寝巻の下から毒薬でも出しはしないかと眼を見張った。ああ、此の紫色の室は他の人の居る室から遙かに隔っている。私は何よりそれを恐れた。そして院長が私を此の室へ寝るようにさせたのは矢張り未知の目的の為めであった事も察せられた。だが問題はそんな点にはないのである。
「しまった!」と私は歯を喰いしばった。私は一つの兇器をも此処へ運んではいなかったのである。いや、慌てた私は咄嗟の間に何も考えたのではなかった。
「それは確かに……」と院長は案外打ち萎れて何事かを語り出した。「確かにだね。二人の人間がずっと他の目から隔離された所で一緒に居るとだね。相手に何か害を加えてやろうなんて心を起し易いものなんだ。他の多くの眼からの隔離、それは実に驚く可き恐る可き悪化を齎らし易いものだ。」
「それで……」と私は力を入れた。
「いや、お前はいけない。殺すとか、殺されるとか、そんな動詞を容易《たやす》く使うのは好い事ではない。」
「そうです。そして云うのではなく、その行為を実行するのは更に悪い事です。」 と私は少し巫山戯《ふざけ》て云った。何故なら私は院長の挙動に何の悪意も見えないのが分って来たからである。とは云え私に何が分ったのであろう。
沈黙が続いた。院長は堪えがた相に頭を拳で叩きつつ室内を歩き廻った。私も静かに口を閉して、院長が何んな事をするか、じっと注目した。勿論、息のつまる注目である。
「……私は……」と彼は軈《やがて》て思い余るものの如く口走った。「私は此の頃、悪い悲痛に取りつかれている。お前にそれを察して貰いたいのだ。」
私は不思議に感じた。斯んな老人と云うものは、決して若い者へ自分の弱身を表わさないのが普通であるのに、何うして彼は斯んなに老人的高慢心をなくして了ったのであろう。
「ね、お前、私は妙な癖に落ちている。一つの悔恨を想起すると、直ぐそれに関連して他の悔恨が、又それに引っかかって、更に古い悔恨が出て来る。斯うして三分の間に一生の悔恨が塊りになって私の心を押したおし、何が何だか分らない総括的なつまり象徴的な悲痛であたりが真っ暗になって了うのだ。」
私は以上の言葉に正直な注意を向けた。そして院長が少しも偽りを云っているのではないと云う直覚で院長へ同情した。然し不思議ではないか。何故院長は不信用な私へ向って斯んな懺悔を敢てするのか?
私は一つの推定法を知っている。若し女が自分の悲しみや苦しみを一人の男へ訴える場合がありとすれば、その悲苦が何んな種類のものであろうと、結局彼の女自身の恋愛を打ち明けているのだ。
若しも院長が女性であったなら、彼は明かに私へ恋を打ち明けている事になる。彼は静かに足を忍ばせて私一人の居る室へ来た。そして、誰も聞かぬ所で、私に彼自身の悲しみを話しているではないか?
私には分らなかった。分る訳がない。
「先生は私にその悲しみを打ち明ける為めに、私を此の室へ眠らせたのですね。それが本統の目的で、私の頭を平静にさせるのなんか、二の次若しくは三の次なんですね。」私は快活に笑った。
「いや、そう思われては困る……」と痩せた老人は皺だらけな笑い方をした。そして泣き相に興奮して私を見詰めた。それらの行為は皆決して尋常ではなかった。何かしら秘密が影を造って、我々の間を暗くしていた。
「それは……お前は可愛らしい。それに相違ない……」と軈て彼は独語する如くに云い捨てた。「けれど、お前が可愛らしいから、私が悲しみを訴えると思い取っては困る。私は色々のものを恐れるが、その中でも一番誤解を恐れるのだ。」
此の言葉は私を一驚させた。他の目がない所で、一人の相手に悲しみを打ち明けるのは、恋を打ち明けるのと同じだと云う推定法を此の老人も心得ていたのである。
「奇態ですな……」と私は一人で云った。
「全く、奇態と云っても……まあ好いだろう……それに近い。」と院長は無茶苦茶に答えた。彼は又慌て出していたのである。
「例えば此の壺だが……」と老人は稍悲壮な表情になった。私も眤《じ》っと壺を睨めた。私の興味は俄かに動いた。何故なら私は骨董品が大好きであり、その為めに段々と奥深く入って、斯う云う趣味が矢張り悪と同じであり、又此の趣味が私の悪心から出ていることを悟るようにさえなったのである。(之は一般の骨董品愛好家には当て嵌まらぬ説であるが、私に丈は適切なものであり、又私自身が経験から割り出した思想なのであるから、私丈には間違いでない。モルヒネ中毒者や変態性慾者、精神病者、悪人それらの人は主に小さく部分的な人工美を愛する傾向があり、愛情の広い人、ゆっくりと落ち着いた博識の哲学者、農夫、健康の人等は遠く広く、やや粗雑な広角的な自然美を愛する性情を持つと云う点は私が態々主張する迄もなく一般の事実である。たとえ時々例外はあっても、その為めに如上の通則が全然破れる事は出来ないであろう。もう一度云う。悪人は近視的であるが、その眼球はアナスチグマットレンズのようにシャープである。善人は遠視眼である。それで、遠くの地平とか天空とか云う大まかなものをデテール抜きにしてぼんやりと鈍感に眺めやるのである。そして之等の規則は半分許り真実である。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
「此の壺を何う思う……」と老人は首を下へ向け、胃を縮めて貧相に尋ねた。
「奇態な壺ですな。」と私は改めて検べた。高さ二尺程の素焼である。其の他の何者でもない。
「此の唐草文をお前は何う思う。」
「それは飛鳥朝の時代のものですか?」私は此の方面に少し暗かった。
「之はアラビヤ文様だ……」
「先生はそんな事迄知って居るのですか。」
「検べれば分る。分らないものだって、分って来るさ。覚えて置きなさい。今に色々の事が分って来るから。」
「ですが、之には支那文様の趣きがないとは云えませんね。」
「それは寧ろ支那がアラビヤの感化を受けたのだろう。」
院長は壺に就いての説教でもう夢中になって来た。私は此の老人の心持が殆ど解せなくなった。何うして彼はそんなに夢中にならねばいけないのであろうか。彼は何でも、自分の家の庭で之を掘り出したと云っている。そして、彼が之を黙って自分の手に入れて了った事を誰一人知っていないと云っている。然も此の二尺程の器の中には人骨が入っている。彼は臆病な手つきで、それを拾い出して私に見せたのである。
最後に彼は思い出して云った。
「もう時間が過ぎた。」そうして壺を抱えると、悲痛な足どりをして紫色の室を去って行って了ったのである。
私は独りになってから一層興奮した。眠れぬ眼を大きく開くと、沈思しつつ室を歩いた。
「そうだ。あの壺には何の訳もないのだ。院長は恋を打ち明けそこなったら、あの壺でも見せて、それを室へ忍び寄った理由にしようと用心して来たのだ。」此の考察は正しい如くに見えた。何故なら、彼は帰りしなに斯う云ったからである。
「……此の壺は秘密にして蔵ってあるんだ。それでないと警察へ取り上げられて了うんだ。人の骨が入っているんだからね。それで誰にも見せないんだが、まあ、お前丈にはな……」
私はそんな壺を見せて貰える程に、院長から好意を持たれているのが、矢張り厭であった。壺の中の人骨を見た事、院長が室へ侵入した事、之等の不快な事実が私を粗暴な感情へと導かずには置かなかった。「畜生! 私は……あの婦人病患者と関係してやろう。」腹立ちまぎれに、そう決心したのは其の夜の明け方であった。私は割合臆病な人間であったので、私が一つ悪事を働く前には、必ずそれを起させる誘導的な凶事が先駆せねばならなかったらしい。院長に心を乱された事が私を再び悪い情熱へと追いやって行ったのである。考えれば、皆壺の骨に根本の罪が秘《ひそ》むのであった。
木偶流動
私はその後も出来る丈心を平静にして、むしろ沈鬱な日を過した。其の間に起った不慮な事件は幾つかを数え出される事が出来よう。けれどその中で一番大きな二つを選ぶならば院長の急死と、院長の子息の怪我であった。斯う並べると人間は全くヒ弱い構造を持ったものだと云う考えで悲しまされよう。だが其れに間違いがあろうか。大体の事を話せば、子息の方は今迄何処かの水産講習所や臨海実験場へ行って居たのであるが、最近に海岸の漁師達と知り合いになって、彼等が漁に出る時、その舟へ同乗させて貰ったのが悪かったのである。此の漁師達が或る魚の大きい群を見出した時、他の側に居た漁船も其れを見附けたので、両方の漁師は到頭舟を接して殴り合いを初めるに至ったのである。院長の子息は一緒になって、殴ったり殴られたりしたが、終いに頬骨を打たれて気絶したのだと云われている。斯う書いて来ると人間が全く木偶のように思えてならぬではないか。実際人間は振り子の調子につれて、カタカタと動きパタリと倒れる木偶《でく》のようではないか。私は自分が以前あの例の娘を見初めて通いつくした頃もそんな考えに苦しめられたものである。私が歩いて行くと、娘の方も表れる。私が近附くと向うが隠れ、私が遠のくと向うがバタバタとついて来たのではないか。
「畜生。」此の頃でも私は自分を木偶以上に進歩させたとは思えない。現にあの婦人病患者がバタバタとやって来る。私はそれが心に響く。ガタガタと動く漁師の喧嘩場が眼の前に浮き上がる。愛するために近づき合い、争うために吸引し合う其れ等の事象は意識もなにも持っては居ない自然現象のようではないか。
若い人達が内省的な心理学をきらって、唯表面の変化丈を観察し、検定する事で、外面的心理学を樹立させようといきまくのはきっと彼等も私と同じような「木偶感」に縛されているからであろう。一切の形容詞を抜き去り、出来る丈動詞を多く使って日記を書き、或いは小説のようなものを書こうとする人があれば、彼も亦「木偶感」に憑かれている事が直ぐ分る筈である。
院長は、バタバタと死んでしまった。この情景は唯スクリーンの上の映画に過ぎない。うしろへ廻っても霊なぞを踏みつぶすような危険もなにもありはしない。之は何だか厭な事実ではないか。ふり返って見ると、彼の残したのは莫大な借財丈であった。鼻柱の折れた子息は寝台の上で落ち着いては居られなかった。彼は振り子のように寝返りを打った。令嬢は兄を気づかったり、私を懐ったりして唯廊下を足音で響かせていた。
「何がバタバタだ。畜生共!」と私は時々独語せねばならなかった。
病院は愈よ維持の困難を感じていた。院長はあんなに大きな借財をして居乍ら、何うしてあんなに呑気にしていたか? 此の点は私の大きな疑問となって残った。ことによったら彼は自殺して了ったのではなかろうか? 此の疑念は死を残忍視する私にとって当然のものであらねばならぬ。
私は病院に飼われていた間中、遊び通していた訳ではなかった。へり下った心で受附け掛りもし、薬局へ入っては坐薬をねったり、消毒ガーゼを造ったりして働いていたのである。けれど院長が死んで、子息が暗い顔をしているのを見ると、もはや私が此処に留まる事はよくないように思われた。気の利いた私は半分無断で病院を去った。そして子息は大変にこの事を喜んでいたと私丈で推察した。
三ケ月後、私は到頭あの婦人病患者――もう治って太り返っているが――と関係して了った。けれど、それと同時に彼の女の妹とも関係する事が出来るようになったのは何と云う厭な廻り合せだろう。
其の初め終りを話すのは私に取って愉快であるが、此の事件を惹き起す為めに、用いられた所の計略は何も私の独創ではない。私は少し許り知り合になった或る男から教示された通りを応用した迄なのである。
私は妹の方を一目見ると、それが姉の方より、遙かに私の慾を吸引するのを知った。それで姉なぞの事は忘れて、妹の方へ夢中になって了った。私は例によってバタバタと行ったり来たりした。生け垣の傍の石も前の女の場合と同じような状態であった。
「生け垣が似ているのは好いとして、おお何故石迄がそこに転がっているのだ!」私は恐怖もし憤怒もした。自然が余り趣向をかえて呉れない事が私の怨恨をかり立てた。
「畜生め! お能の舞台みたいに、何時でも松の樹がありやがる!」
私は石と生け垣の為めに今度の恋愛を尠《すくな》からず破壊された。以前にはこの上もなく懐かしかった其れ等のものが、今ではもううるさいような気がしてならなかったのである。けれど斯んな小さい事を気にするのは未だ恋に慣れぬ男である。何故ならば、郊外なぞに立っている家々は初めから皆双子同志のように似ているのだ……。
或る暗い夜、悪い運命の橋が筋交いに十字を切る所の私の室から、私と云う一つの蝋燭が消えたとする。だが、私は死んだのであろうか。思って見て貰い度い。私は橋を何の方角に向って走ったか? 運河の真中を、時計台の鐘が十二時を打つ時、その音の余波で動いて行く一つの舟で、灯が消えたなら、何が起ったのであるかを考えよ。死ではない。唯、死に似た様な強さの情事が想起されぬであろうか?
暗い水面へと続く、黒い大きな石段の様で、私の罪悪は何時初まったかが分明していない。下の半分は寧ろ影に過ぎない。そして水の様に冷かなのである。残りの半分は、前の半分の影で出来、過去に依って漸く色附けられる無色の現在、それが私の持つ現在であった。昔の劇場が今牢獄に変更されたとすれば、それが私の心なのである。
いや、私はもっと燈火の届く所迄這い出して、聴き手に顔を視せよう。私は斯んな醜い人間である。だが、彼の女等は恐ろしく美しかった。実際、彼の女等の為めに、大理石さえが愛嬌を見せて凹む程であった。誇張ではない。私は石の笑靨を経験した。私は元石の様な冷たい人間だったのである。私の心はもうアカンザスの様にフワフワと浮いて来た。私の周囲にはナポリの暖風が漲って来た。スリッパから飛び出した足の様に、私の気持はスガスガした。だが、それもほんの一時である。
考え度くない幾つかの事を、私は話さねばならない。
彼の女等の顔は何んなであったか? それは美しかった。だが別れて来ると何うも思い出せない様な顔であった。彼の女等は何んの特長も消し去った美しさで輝く。彼の女等は鏡の様に光って然も「無」なるものであった、私が彼の女等に近附いたとせよ。私は唯私自身の姿を見るのに過ぎないのかも知れなかった。然も此処に二つの恋愛が成り立ったのを思えば、鏡は何かしら性を持っていたのである。
ああ彼の女等の顔には変化がない。余り定まっている整いの為めに、忘れられ易いのだ。定住は無に似ている。雪が積もり過ぎたとせよ。もはや写真機を持って出掛ける必要はなくなる。後ろも前も一色の平坦! 何処へでも、坐って居る所から、レンズを勝手に向けるが好い。一と云う字が撮影されよう。それだ! 彼の女等はその一なのである。後ろ姿も横姿も見て廻る必要はない。山や森はポンペイの市街の様に下層に隠されて了ったのである。
だから本統の彼の女等を知ろうと云うには、何でも骨を折って、廻旋階段を降りて行かねばならない。其処に初めて廃墟の様な彼の女等の冷たい心が見出されるのである。彼の女等は精緻の替りに純野を持つ埃及彫刻と丁度反対のものであった。仕掛けの細かい贋造紙幣印刷機と同じで、結果を見ない間は精巧な一つの価値で輝くのが彼の女等であった。
愚昧の過剰から、私は彼の女等の頬へ、非現実的、骨董的な磨きを掛けて、自分丈の置物にしようと試みたが、花瓶には罅が入って了ったのである。もう之等二人は私につまらないものであった。私にはそれが口惜しくてならなかったが、人の力で何うとも治す術は見つからなかったではないか。
「女は矢張り詰らないものだ」
私は段々遠ざかった。それもこれも私が「木偶」だからなのか? 私は振子の響きに合してカタカタと場所を変えて行くパンチと云う人形に過ぎぬのか。
私はぼんやり街を歩いた。そして少しばかり知り合いの人に会った。
「君は未だ健康なの?」と私は不健全な問いを発した。すると私の相手も亦乗り気になって答えた。
「私はある理学者の弟子になったがね。お蔭で随分達者過ぎるよ。ウムそれに、近頃面白い事があったのだ。私の体はその儘で磁石の働きをするんだ。面白いじゃないか。私の腕に依って磁針の方角を変化させることが出来るのだ。何でも両腕が恰度両極になってるんだ。いや足の方にも同じ性能があるんだ。試験をした理学者も驚いていたよ。私位い強い磁力を持った男は少い相だ。ね君。人間は一様でない、と云うのが私の理論なんだ。」
知り合いの男は何でもそんな風に話した。私は細かい点をもう記憶していない。私が知っているのは唯自分の淋しさ丈であった。私は海岸を歩き乍ら涙をこぼした。それから暗澹たる夜空を眺めた。遠くに火事が起っているらしく、空の一点丈が赤く色づいていた。
「人間は一様でない? 馬鹿な! 別々のものが一つに見える。姉と妹とは段々似て来る。此の頃では嫉妬の喧嘩もしない。却って彼の女等は二人で慰め合い、二人で心を合せて私を怨んでいるのだ。別々のものが一つになったのだ。」
私は向う見ずに歩いた。と云うよりは足に体が引きずられ、体に足が引きずられて行ったのである。
暗の中にはもう一人別の知り合いが立って考えていた。そして何時もの通り、私をさぐるような目つきで近づいて来ると
「例のバタバタは何うなっている?」と問いつめた。知り合いの眼には悲痛な色があった。
「依然としてバタバタだ。」と私はうなだれて答えた。
「ああ悲しい事ではないか。それは現象自身がバタバタなのではない。君の心! それが大変傷ついているから起るのだ。同情、……君分るかね、同情だよ、同情を以て朝顔の蔓を見てやり給え。蔓の先にはカタツムリのと同じ眼があるのさえ分るだろう。バタバタは同情の欠けた所に直ぐ起って来る一つの破壊的な渦流なのさ。それは恐ろしい。人間がべルトやシャフトや電球のフィラメントやセルロイドの切り屑に見えてよいものだろうか。」
「私を此の上苦しめるのか?」私は夢中になってその知り合いに刃向った。勿論唯斯う書き流すと、その知り合いはダイヤモンドのようなものに思い取られ勝ちであるが、実を云うと、私の周囲には私を何時も戒めて呉れるある免職教員が実在したのである。それは事実に於いてはもっと自然的に私の前へ表れて来るのであるが、私は彼を恐怖する余り、闇の中で彼の声を不意に聞くような錯覚的な記憶丈より他に何ももたないのであった。
「君は冷静なのでない、苛酷なのだ。君は自然主義の小説家のように唯一面的に苛酷なのだ。老子のように柔しく広く無関心なのではない。獄吏のように首斬り台の音丈を音楽だと主張しているのだ。悲しいではないか。バタバタは狂気の一歩前なのだよ。おお、そしてあの火事を見たまえ。病院の方ではないか。」
「そうだ。」私は萎《しお》れて答えた。何がそうだと答えたのか? 勿論両方の話し、即ち私が何うしても苛酷な事と、火事の方角が病院の近くである事の二つに対してである。
罪は常に他の罪から起る
急に新らしい事件である。
火事! そして燃え上っている。病院が焼けて倒れる。それが何よりも明らかな事実であった。
それは未だ良い。悪いのはもう一つの事であった。火事が厳密に検べられた時、私の妹丈が怯えて答えを曇らした。ああ、そして、何たる運命の狂いであるか。妹の行李が荷造り迄されて、病院から遠い物置に隠してあった事実が発見されると、眼の早い警官達は、妹に放火の疑いをかけた。
「妹! お前がやったのか? そして、昼間の中に自分の行李を焼けない所へ持って行って置いたのか? おお、それが低能の証拠なのだ! 何よりの印なのだ。」
私は悲愁と絶望と低能な妹の代りに受けねばならぬ責任感とで、体を折られるようなつらい思いを味わった。
「兄さん。仕事がつらくてね。病院を焼いたら家へ帰れるかと思って……」
「それが低能な女の考えなのだ、世間に好くある例の一つなのだ。」全く読者よ。低能な女は他の低能な女の精神をまるで模倣でもしているようではないか? 一ケ月新聞を読み続けた人は必ず如上の実例を二つ三つは見掛けるに相違ない。然も何うであろう。妹は全く独創的に此の犯罪を犯したのである。之が白痴に取って最大の発明なのか? そして、馬鈴薯からは馬鈴薯が出来ると云う悲しい事実を語っているのであるか?
妹の裁判は大変に厳しかった。そして精神鑑定係りと呼ばるる自痴に近い医師は彼の女が白痴と見なさる可きでない事を主張した。(之は東京から遠い地方の事である。東京の裁判所では多くの医学博士が何かしらをしていて、犯人が白痴であるか何うかを、色々と相談する。そして、彼等は博士なのである。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
妹は九年の懲役と極められた。
私は何んなに沈鬱な日を送ったろう。そして何んなに妹のための罪減ぼしとして、善良な仕事と行為とを望んだであろう。此の悲しい動機に依って、私は徐々に正しい道を踏む事が出来そうになって来た。
そして私は正直な人間に改まったか?
否又しても大きな障碍は持ち来された。
火事の際に焼け死んだ看護婦長の黒焦になった屍体を何時迄も記憶から除く事の出来ない私に取って、婦長の実弟である若い薬剤師と時々顔を合せるのは随分とつらい刑罰であった。私は彼を見ると釘附けにされたように血が凍り、冷たい沼の底へ落ちて行くような慚愧の念でなやまされた。ある時の如きは、狂気になったように、その弟へ縋り附いて、私は地面に坐った儘、許しを乞うた事もあったのである。
「あの白痴娘の責任は全部私に転嫁されているのです。あれを怨まずに、私を罰して下さい。私を……」
「いや、人を怨む必要はないのです。犯罪は常に一種の過失ですもの。」諦め深い若い薬剤師は人なつこく私を慰撫した。
「けれど、貴方は内心思っていらっしゃる、他の事を! 他の事を!」
「いいえ、之丈です。貴方の妹は寧ろ罪がなさ過ぎた。それが今度の過失の原因なのです。」
「貴方は何かしら私と別の考え方をしていますね?」
「そうです。探索している内に、段々と真相が別って来たのです。」
「真相?」私は直立して斯う叫んだ。
「そうです。もっと検べたら、一層真実となる所の真相です。……妹さんは単に仕事がつらい丈で火を附けたのでしょうか。え? 之は可笑しいです。いや、此処に何か秘密が隠れて居そうではないでしょうか。妹さんは力の沢山ある、そして労働をいとわない質の女であったのを私はよく知っています。それが急にナゲヤリな気を出し、仕事をなまけ初めたので、私も実は不思議に思っていたのですが、すると間もなくあんな大事をやってしまったんです。」と薬剤師は声をひそめた。
「何故妹は放火の以前、なまけだしたのでしょう。病気か過労かに依るのでしょうか?」
「其処です。勿論労れているようではあったが、病気とは見えませんでした。此の機会に貴方へ話して置きますが、妹さんは恋――たしかに恋のようなものをしていたと推定せねばなりませんよ。」
「それは過ちでしょう。第一相手になる男がないでしょう。」
「いや、男は意地の汚いものです。そして恐らく女だってね……」
「では妹は懊悩のために、仕事をなまけていたのですね。」
「恐らくそうです。」
「相手は……妹の相手は一体誰なんですか。」
「私は断言しますが……それは院長と、それから次には院長の子息ですよ。」
「え? 院長の子息! そして院長も?」
「私は此の眼で見たんですからね。」[#底本では「。」が抜けている]
「何を……いまわしい事をですか?」
「妹さんは紫色の室で寝た事があるんですよ。」
「え。あの小さい噴水のある室?」
「ハハハハ院長の大好きな室なんだ。あの室へ入って助かった女はないんだからな。」
「そして、院長の死んだ後には、その子息があの室を使ったのですか?」
「それは見|達《とど》けてないのですが。他の場所で、二人の立って居る所を私は一寸見掛けたのです。そして私は二人の間に何かしら恋愛の火花が行交うているのを感じたんです。勿論その時は感じた丈なんですが……」
「では……あとで、もっと委しく判明したと仰言るんですね。」
「不幸な事に、その通りなんです。」
「何を見たんです。云って下さい。何うか遠慮なしに……」
「貴方! 紫色の室の直ぐ隣りは未だ人の入った事もない不用の室ですが、知って居ますか。あの室は全く何の目的もなしに空いているんです。貴方の妹さんはあの室を一週間に一度丈掃除するのですが、それに掛る時間は何時も二十分なんです。薬局の前を通って行って、又帰って来ると二十分丈何時も過ぎるんです。それが或時、三十分たっても帰って来ないんです。(私はその時或る薬を煮ていて、一定の煮沸時間を知るため、時計に注意していたんですがね。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]可笑しいな、と私は考えました。一寸した戯れの心から、私はあの不用の室へ様子を見に行ったんです。すると何うでしょう。扉がしまっていて、私が押しても引いても動かないんですね。ははあ之は中から鍵がかけてある、そして、鍵がその儘、鍵穴へ嵌っている、と私は感づきました。そして室を掃除するのに、鍵を掛けると云うのは何より理に合わない話しではありませんか?」
「妹は……中に居ったのですか? 泣いてでもいたんですか?」兄である私は当然他人よりも熱心になって訊いた。
「私は悪い所へ来て了ったと思いました。唯それ丈です。勿論ハタキの音も何も聞えませんでした。それから、ずっと後になって妹さんに鍵を持っているのかと尋ねて見たんです。答えは私の予想通り、若い主人が持っているのだと云うことでした。私は単なる興味丈で、そう云う事を探るのは罪だと思いましてね、その先を突き詰めて聞くのを態と避けたのですが、今になって見ると、もっと深く知って置けばよかったと悔いているのです。と云うのは……」と薬剤師は悲しげに、私の方へ顔を寄せた。
「先へ伺って置きたいのですが、あの放火と、その恋愛とには、何か関係があるのでしょうか?」私は斯う念を入れた。
「あるからこそ、お話ししてるんです。」
「では、何故、判決以前に知らして呉れないんです。」
「その頃はね、何しろ、姉の非業な最期のために、私も反省や洞察の力を全然失って了っていたし、未だ、本統の急所は気附かずにいたものですからね。」
「そうです。貴方の姉さんの死の事を考えると、私はもう肋骨を引きはがされるようなんです。」と私は下を向いて呟いた。
「油で黒くなって、眼球から湯気の立っていた有様を私は何うしても忘れ去れないんです。」薬剤師は涙をためて私を怨めし相に睨め、それから又思い出して続けた。
「もう云いますまいね。貴方も私も不快になる丈ですから。……いや、それより、あの院長の子息が大変好色な事は死んだ姉からもよく聞きました。姉へも妙な話を持ち掛けたんだ相ですからね。それから貴方も姉に云い寄った事があるそうですね。姉は貴方を讃めていましたよ。」
「それは何かの間違いでしょう。貴方の姉さんは私にそれとなく何かを仰言ったり、手紙を呉れたりしましたがね。未だ何でもなかったんです。私から云い寄るなんて、そんな事はありませんでした……」私は黒焦げの女を思い出しつつ気味悪く否定した。
会話は長く続けられた。そして何でも一番の罪は院長の子息にあるらしいと云う判定に到着した。一部の噂に依ると、息子は父の残した大きな借財の始末に窮し果てていたのである。そして院長の死後急に寂れ出した大きな病院の維持も覚つかなくなっていたらしい。「焼けて了った方が結局利益になる。保険金が入れば、それで他の小さい事業に移れる訳だ。」と云う考えは当然息子の頭の中を往来したのであろう。けれども自分で放火すれば陰謀は直ぐ発覚して了うに相違ない。色仕掛けで心を捕えて、白痴の娘を利用しようと云う悪辣な考案が何うして続いて起らずにいるだろうか。
「それなんです。」と薬剤師は恐ろしい形相をして云いよどんだ。
「確かですか?」
「恐らく之より確かなことはない筈だ。貴方が女から生れたと云う事より、もっと確かだ。分りますか? 然も貴方が女から生れかかっている所を誰も見たのではないんです。」
「それで息子の罪については、何の證拠もないと云うのですか?」
「少しはあるんです。妹さんは時々独り言を云う癖があるでしょう。或る時、洗濯物を抱えた儘で『貴方、貴方、貴方!』と口走っていたんです。誰だって、自分の事を貴方なんて云いはしませんからね。」
「それは證拠とは云えませんね。」と私は薬剤師を少し疑った。けれども、私は妹が院長の息子のために貞操を傷けられ、その上、詐欺的犯罪の犠牲となって、獄舎へ迄も引かれたのだと云う漠然とした観念を植えつけられずにはいなかった。
怨恨と憤怒とは再び私の心を領した。薬剤師と心を組んで、色々の噂や、息子の様子を探れば探る程、疑いは真実と代って行った。
残忍な内謀は日に日に私の心の中で育って行った。読者は忘れたであろうか? 私は一時自暴自棄と依怙地とから、犬殺しにさえ進んでなった、暗怪な青年である。
私は殺人を夢み、又妄想し、遂に意図し、企画し初めたのである。刃物は用意され、逃げる道が地図の上に赤い線で記された。
ある人は私の愚を詰って云うであろう。何故お前は真の犯人たる院長の息子を其の筋へ訴えないのか? と。
けれど、それは私の眼から見るなら無駄事としか思われない。起訴した処で、我々が敗けるのは初めから判明しているのではないか。
息子は妹を強いて姦したと云うのではない。又放火を教唆したとしても、その證拠は上っていない。それに裁判官達にも名誉と云うものが必要である。そして之は真理を葬ることに慣れた一地方に起った事である。間違った判決をその儘で通すのが、彼等に取って最も利益であるのは判り過ぎているではないか。それが彼等の妻子を安全に暮させる最上の方法である。それが彼等の鬚に滋養をつけ、一層上方へ伸び上げるようにする最適の方法なのである。裁判長の鬚は後ろからでも見える――その鬚こそ此の地方での最も誇る可き名物だったのだ。裁判長は神経衰弱に落ちて、カルシュームを含むカルピスと精力素と云う薬と、ヘモグロピンとヴィタモーゲンとを服用し、その上にビフステキを食べるのだが、其れが皆鬚になって了うのである。
朝鮮人を憐む支那人
何うして忘れ得よう。そして何を忘れようと云うのであるか。いや、反対に、私は記憶のあらゆる粒を一時に思い浮べるのだ。
私は歯がみをし、骨が響きを発する程に腕を振り、又眼前の物体は何に限らず蹴返した。あの沈着で痩薄な院長、彼が恐らく病的に迄も進んでいた色魔であったことを、私は今漸くにハッキリと思い当たる。私が紫色の室に休んでいた時も、記憶力の鈍い院長は誰か女性を閉じ込めてあるように錯覚して、私のもとへ忍んで来たのかも知れなかった。あの赤くなった顔、私に媚びを作る猫のように光った眼なぞが、一時に私の頭の中を這い廻った。おお、そして院長の子息も斯んな卑しい気質を残らず遺伝していたのである。妹は何と云う哀れな娘であったろう。彼の女は二人の乞食の耻を、一人で受けたようなものではないか。
それだのに、私の復讐心は何故もっと強烈に燃え上らないのか? 私は実に自分が中気病みででもあるかの如く、町や室中をよろめき歩いた。けれど、何時迄待っても妄想が実行に変化する機会を捕え得なかったのは一体何故なのであろうか――私は自分に聞いて見ている――勇気! それから真心! この二つが欠けた所に、興味中心の残忍性丈が狂い廻っているのではないか? そして私は遂に心の弱い青年――悩む事を知って、切り抜ける事を悟れぬ愚かな男に過ぎなかったのであろうか。
興味から来る残忍! それは多くの殺人者に取って必須の要件である。けれど、私の場合では、その興味を求める願望が本能的と云える程には狂暴でなかったに相違ない。
「駄目なのか? 本統に実行出来ないのか?」私は自分の胸を棒で打っては斯う問い続けたのである。
私は実に、斯んな工合であった。自分を嘲ける悪魔の声が、自分の心の中で聞え初めた時、私は何んなに絶望して床の砂を嘗めたであろう。悪人ぶると云うことを誇る程、私は未だ幼稚で善良であったのか? 殺人の妄想は単に脆弱な心の強がりであったのか? 曲った心の敗け惜しみに過ぎなかったのか? 之が問題なのであった。と云っても、私は何一つ弁解しようとは思わない。自分はやはり、結局、こんな工合で中気病みを続けた丈なのである。
その頃、私は自ら進んで、ある免職の小学教員と知り合いになった。事の初まりは、私が彼の落した財布を送り達《とど》けてやったと云う些末な点に過ぎない。けれども、私達は直ぐ親しく語り、連れ合って散歩する迄に友誼を進める事が出来たのであった。
或る日――二人は約束に依って、裁判所の前で出会い、此の町で起った一つの大きな事件――朝鮮人の十三人斬り――に関する裁判を傍聴した。その小学教員は「社会から不当な取り扱いを受けた哀れな男が、如何に彼自身も亦社会を不当に取り扱うか。」と云う事の実例を求めるため、私は又私の流儀で、十三人の人を斬るには何んな決意と勇気とを要するかを知るために、耳を澄ましたのである。
約《つづ》めて云って了えば斯うである。哀れな被告、高と云う名の朝鮮人は、裁判長のやさしい質問に対し、一気に答えるのであった。
「私は馬鹿者です。何故この日本へやって来たのか? それが分らないのです。いや分っている。故郷で義理の兄にえらく侮辱され、蹴飛ばされたんです。その有様を、私の恋している女が見て笑ったのです。それで日本が大変恋しくなって、そこへ行ったら、お金にもなり、やさしい人が待っていて呉れるように思えて、到頭、跣足になる程貧乏しながら、このお国へ渡って来たのです。それから六神丸と云う薬と翡翠とを行商して日を暮し、もっと悪い事もしながら、夜学で法律普通科を半分やりました。電車の車掌になってからは、日本人の女工を妻に貰いましたが、その女は私の子を妊んで呉れないのです。「何うか一人丈でも好いから生んで呉れ。」と願っても、女は唯笑っていて、やはり生んでは呉れないのです。私はそれが不思議で困りました。きっと私を愛していないのだと気づくと淋しくて、又帰郷したくなりました。斯んなつらい思いをしながら、私は妻の兄夫婦と一軒の家を借り、半分ずつ使って、半分ずつ家賃を払っていました。所が義理の兄は子供が二人もあると云う口実で、段々室を大きく使い、台所も自分等丈で使うようにシキリをして了うし、私が寝ていると、態とまたいで便所へ行き来し、その上、私の妻へ一人の男の子を抱いて寝かさせ、私は戸棚を開けてそれへ二本の足を突込んで寝なければならない程、場所をふさげられました。そんな事を忍べば忍ぶ程、兄夫婦やその子は私を馬鹿扱いにし、嘲けり笑い、私が卸した許りの手拭いで泥の手をふいたり、私の茶碗へつぶした南京虫を一杯入れたり、六神丸を無断で売って、その金を使って了ったり、私が買った炭を平気で盗み、その度に私へ悪口をつくのです。兇行の前の日、兄の妻が私の金だらいへ穴を明けて、知らぬふりでいるから我慢出来ないで、二言三言云い争いをしたが、その事を兄へ云いつけたと見えて、兄は醤油の壜で私をなぐったのです。血と醤油とに染って私は眼を開く事も出来ずに、唯暴れていると、兄の妻は口惜しまぎれに私の急所をつかんだので、私は気絶して了ったんです。ああその時です。私に水を呉れたのは私の妻だったんです。お前は……お前丈は私の味方なのかと云って私は妻に泣き縋りました。妻は姉の毛を引張って、後ろ倒しにしてやった事を涙乍らに語りました。私はその涙を見たばかりで一切の立腹をこらえようと決心しました。皆から憎まれている時、たった一人の者に愛された気持を誰か知っている人はありませんか。おお……」と彼は手ばなしで泣いた。その時、傍聴席の一角からも細い女の歔欷が聞えて来たので、その方を見ると、高の妻らしい貧乏な女が顔を脹らして泣いていたのを私達は知った。
「それからY署へ連れて行かれたが、巡査たちが皆兄の方を信用し、私を危険人物のように睨め廻すんです。疑い深い沢山の眼に取りかこまれて、私は又頼り所のない淋しさと憤怒とを感ぜずにはいられませんでした。兄は『あの金ダライは元私のもので、高は勝手に彼の名をペンキで書いて、自分のものだと云い張るんです。』と誠らしく訴えました。警部は直ぐその言葉を信用して了って、はては多くの巡査や、集って来た車掌迄が、さんざん私を嘲笑したんです。いくら私が異国のものだと云って、之はあんまりひどい。ひどすぎます。私は眼がつぶれたように悲しくなり、そこいらが真暗になって了う程、耻辱を感じました。なんぼ朝鮮人だって、心と云うものは持っています。何方を見ても真暗で、自分の本統の心持や、正直な考えを聴いて呉れる人がないのを知る時、人は無人島へ行ったよりつらくなって了います。無人島に着いた男は王者のように自由です。けれども此処では……闇にとりまかれた盲目で跛の奴隷が見出される丈です。信頼していた警官たちまで、こんなに私を憎み、私を疑い、卑怯な片手落ちをして少しも自ら耻じないんです。此の上は自分の憤りの治る迄人を殺し、自分も地獄へ堕ちて、新らしい世界に住もうと云う心が起きずにはいられないではありませんか。おおそれが何故無理なんです。いいえ、私はもう決心しました。私は刀を磨ぎ初めました。すると隣りの親切な老人が、『高さんは遠い所から来ていて淋しいんだもの。何事も公平にし、喧嘩の元を引き起さないように……』と兄の妻へ話しているのが聞えました。ああその時、私は何んなに刀を磨ぐのを控え、感謝の心を以て怒りを飲み込み、こらえ、しのんだでしょう。私の妻も声を立てて泣いて居りました。」
高は途切れ途切れに以上のような告白を語り明したのである。傍聴席の妻女は到頭狂的に泣き出して、誰かの注意で外へ押し出された。
小学教員は沈んだ顔になって、私とは別の事を考え続けていた。
「ああ」と私は体をふるわし、自分のと他人のとを一緒に混ぜた涙をためて独語した。それから(後になって考えて見ると)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]私は夢中で駈け出したに相違ない。朝鮮人の妻に追いついた私は、彼の女の恐れるのをも構わず、彼の女の肩を撫で、髪についていた藁屑をつまみ取ってやった。
「何すんの?」女性は私を怪しみ訝った。
「無理はない。貴方も私も疑い深くなっている。お互いに殻を背負っている。私が恐く見えても、ああ、それは構わない。我々はセンチメンタルな事はきらいなのだ。だのに私は此の通りなんだ。」そう云うと私は真赤な眼から大粒の涙をふり落し、軈《やが》て、男らしくない挙動を耻じるように、女性の前から姿を消し、溝の中へ持ち合した四十銭を捨てて了った。
朝鮮人、支那人、それから彼等に似た日本人、可哀想な彼等の中に、此の私も一員として加っている。それが事実でないと誰が云おう。私は自ら痛みつつ又彼等を痛み愍れんだ。あの一人の朝鮮人に、私の生命の半分がつながっている。私を見ようと思えば、彼を見るが好い。若し私が彼であったら、私は彼のなした通りをせねばならなかったであろう。いや、聖者と呼ばるる特別の人を除いたあらゆる普通の人なら、彼の如き境遇の中で、その徳と智慧とを完全に保つ事は六ケ敷いであろう。
彼は悪い男である。それに何の間違いがあろう。けれど私は余りに好く知っている。他の事を、他の事を、斯んな種類の悪は自身で自然に湧き起る力のないことを! 之は善を隔たる一歩のものであることを!
復讐の代償
未だ何かが続いている。
私の所へ不愉快な手紙が達いている。それは例の哀れな姉妹からであった。彼等は初めの中こそアバズレであったが、今ではまるで継子のように言葉も少くなって了っていたのである。男を知ってから縮み上って大人しくなる女は決して少くない。私のある知り合いは電車の中である女と近づきになった。二人は図々しく郊外の畑道を歩いた。男は好い気になって女と関係し、それから小使いを呉れとせがんだ。女は一円呉れて、あとはお前と一緒に連れ添うてからやると云った。男は承知しないでもっと出せとせがんだ。すると女は怒って男の襟をつかみ、ふり廻し、「私を唯の女と思ってるのか?」とおどした。男も黙っていなかった。「この畜生!」と怒鳴ると女の首を絞めた。女は手を合せて拝み、それからは大人しく何でも男の云う事に従った。何か新らしい事を教えると女は男を尊敬するようになるのである。
それだから、あのアバズレ共が今になって何れ程私から新しい世界を見せられ、そこへ導かれたかは云う迄もないであろう。
来た手紙には斯う書いてあった。
「……本統に私達は生きていたくありません。生きていたって、生きている気持がしていませんわ。」私は口惜しそうにそれを破きすてた。
又その次に姉丈が一人で手紙を寄越した。
「……貴方は何んと云う方でしょう。愛する印だと云って私の腕へSと云う形の傷をおつけになりましたね。そして、ああ何と云う事でしょう。妹の腕を見たら……そこにも矢張り、Nと云う傷がありましたわ。私は貴方の心持が分らないで泣いて居ります。」之が新らしい教えの一つである。
又その次に妹の方がサッサとよこした。
「………私丈を連れて逃げて下さい。私は怨んでいますよ。」
それから別々に沢山来た。又一緒に書いても来た。もう無茶苦茶に書いてあったり、丁寧に考えて書いてあったりした。大概は馬鹿な事が云われ、時には利巧な事も云われてあった。無為に然も急速に時がたって、又手紙が来た。
「……貴方は何故何うにかして下さらないのです。私達は之から何うなりますのでしょう。ああ、困ります。
今日或る人が噺した事を聴いて、私達はふるえました。それは斯うで御座います。
去る十二日、身元不明の妊娠女の溺死体が石油庫の前の川へ流れて参りますと、続いて又異った妊娠女の死体が出て参りました。一方は初めから浮いていました。もう一つの方は呼ばれたように底から出て来て、浮いてる方のそばへ行きました。すると両方の鼻から血が出たと云う事でした。あとで検べたら、二人は同じ模様の長襦袢を着ていました。二人は姉と妹であったのです。姉は妊娠四ケ月妹は五ケ月であった相です。妹の方が一ケ月先へ妊娠していたのです。ああ、貴方何う云うお積りなのですか。分りません。私達は泣いて居ります。この人々のようになったら何うしましょう。そして、この人々のようになるのは随分たやすい事ですわ。二人で心を痛めておりますわ。ああお怨み申します。」
まずい文章ではあるが思っている事の十分の一位は表現出来ている。二人はそんな話をきいて悲しみのあまり手紙を書いたのであろう。そして可哀想に文章にはその悲しみさえよくは表れていないのである。
その又次には妹がよこした。
「……姉はあんな病気をしたのですもの。決して心配はありません。きっとまだ出来ては居りませんでしょう。又そんな事をきいても見ません。けれど私は丁度年も宜敷く、丈夫な身ですもの、今度こそは妊娠だと思います。ああ、あなたは何うして下さいますか。此の前のように間違いであったら好いと思っていますが。今度は何うしても間違いではありません。何うしてもそうのようです。怨みます。もう死んで了います。早く来て下さい。私丈と逃げて下さい。」
姉の方は姉の方でやっていた。
「……貴方はあんまりです。私は川へ入って死んで了います。妹と一緒に死にます。あの此の間あった話のように。……妹は毎日吐いています。あれは妊娠したのです。けれど貴方の子ではありません。あれはまだ他に古い馴染を持っています。貴方はそれを信じないのですか。」
未だ未だ手紙は来ては破かれ、捨てられた。
「畜生!」と私は独りで怒鳴った。「手前達二人に情死なぞ出来るものか? お互いに殺しっこをしても自分は救われようとしている癖に、二人で川へなぞ入れるものかい、馬鹿! 手前等は引き潮の時に潮干狩りでもしやがれ。二人で引かき合え。喰いつき合え。だが何うして一緒に姉妹心中なんかが出来るもんかい。」ああ之は何と云う無慈悲であったろう。
妹の冤罪で憤怒し狂乱している私の心は全く悪辣になった。私は自分でそれを悲しみ、泣き、悔い、又怒った。そして結局は何も悲しまず、悔いないのと同じであった。
そして時には、自分と自分の周囲とを忘却するために、憎んでいる女等のもとに走っては、獣の如きことを繰返した。女等はその度に思い出して私を怨み、時には柔かな手で私の頬を打った。何故か私は「打て、もっと打て!」と叫びつつ、少しも抵抗しなかった。それは相手を憐愍するから起る忍耐ではなく、ああ実に、聴く人があらば聴いて貰いたい、実に、それは、自分から自分を侮辱し軽蔑する自棄と放胆とから生じた忍耐であった。
では之が一切であったか。之が起った事の凡てであったか。いや、之からが本統の話しになるのである。
云い忘れて了ったが、私は病院に寄食していた頃、カリエス患者のコルセットを造るため、セルロイドを取り扱う事に習熟したので、その後もあるセルロイド工場へ入って生活費を得ていたのである。
そして、他を罰してやるためには、自分を出来る丈正しく保たねばならないと云う考えで、自分を鞭打った。けれども之が私に取って無効なる痛みに過ぎなかったのは、何と云う悲しさであったろう。
正直に云って了う。一つの憤怒を抱いた人間は、却ってその憤怒のために堕落しやすいものである。ああ、私は何れ程心の平静を望んだ事であろう。此の憤怒! この動乱がいけないんだ、と叫んでは、自分の爪で自分の胸を掻きむしった。之は何と云う矛盾した心理であろうか。憤怒があればこそ罰を謀《たくら》むのであり、罰を謀むから、正しい心を欲するのであるのに、正しい心を持つには、憤激それ自身が邪魔となるのである。
「えい! 何たる苦しみの鼬ごっこだ!」何度操返しても、それは実に同じであった。
然し私は心を取り直した。(少くともそう思われる。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]同じ工場に通う老いた職工が火傷のために休職し、喰うにも困っているのを聞くと、私は深甚な同情のようなものに刺戟され、そして、露店を出してセルロイドの櫛やシャボン入れや、その他の小さい道具を小売りし、儲けた利益丈をその老人と家族へ恵んでやろうと云う企画で私を喜ばした。
実際、私はその企画を実行する勇気を持つ事が出来た。ほんの宵の中丈露店を開くのではあるが、疵物なぞを安く割引して売るために、客の足は思ったよりも繁かった。そこ迄は実によく行ったのである。その先は何と云う悲惨であろう。
私は薄暗い燈火を前にして、地面の上に坐ってい乍ら、眼前に蹲踞んで、櫛を漁っている美しい若い女性を横目で見た。彼の女の挙動には強いて落ち着を見せようとするため、却って慌てているような風が窺われた。いやそれのみではない。彼の女が私の眼から隠れて、一本の櫛を盗み取り相にする所を私は不意と直覚した。勿論その時に、私が眼を正面へ向けたならば、女性は罪を犯し得なかったに相違ない。けれど意地の悪くなっている私は自然にそうする事を耐えて了った。
「待てよ。あの女は盗もうとしている。だが私の注意を恐れて、躊躇している。悪い女め! 私が何も知らないと思っているのか? 私がお前を罪に陥してやろうとして、態と見ぬふりをしているのが分らないのか?」
之は何よりも悪い思想である。盗む機会を態と与えてやる人は、恐らくその機会に引き入れられて、盗みを行う人よりもより多く有罪であるに違いない。
私の不注意と無関心とを覘っていた娘は、不意に一本の櫛を抜き取って、袖の下へ隠した、立ち上ると、今度は袂の中へ押し込んで、急いで闇の濃い方へ消え去ろうとした。
痛々しい生活に疲れて、何の慰みもない私は、此の時久しぶりに淋しい微笑を洩らしたのである。それは何とも云えぬ意地悪い、悪魔的な笑いであった。私は網を掛けて太った鴨を捕えた百姓と同じ心持になって立ち上った。
私は或る露店で女性の後ろ姿に追いついた。
「へへへへへ―へへへへへ」と私は唯笑って跡に従った。けれど、「貴方は盗んだね。」と難詰する事を何故か控えて了った。此の忍耐が何よりも悪かったのである。私は何も弁解しまい。私には実を云うと私の心理がよく分らない。痛み――何か漠然とした痛みがあった丈なのである。
娘は一寸振返った。彼の女は確かに驚いた如く見えた。見えたと云っても、其処は全くの闇の中だったので、或いは彼の女は私を見なかったかも知れない。又私を見たとしても、それがセルロイドやエボナイトの商人だとは感附かなかったかも知れないのである。
私は忍耐した。それは実に悪性の忍耐であった。露店の方を捨てて置く訳に行かないのを感附いた私は、盗人の娘から分れると直ぐ道を取って返した。ところが半ば迄帰って来ると一つの悪心が明瞭にカマ首を持ち上げて来たのを、私は闇の中に見附けた。
「店は何うでもなれ! 私は面白い事の方へ行くんだ!」
私は再び娘を追った。そして何処迄も声を掛けずに跡をつけた。娘は一つの家の前に止まり、中へ入ろうとして一寸注意深そうに後ろを見た。その時である!
「お嬢さん。へへへへへ」と私は闇から首を伸ばした。娘は血が凍ったように直立した。そして、何処からか漂うて来る極く僅かな燈光で私の顔を見入った。彼の女は初め歯の根も合わぬ口を動かして、何か云い出そうとするようであったが、不図思い返したように恐る恐る袂から例の櫛をそっと出して、今度は力強く突きつけた。
「そんなもの、地面へお捨てなさい。へへへそんなもの入りません。へへへ」と私は低い劬るような声で呟いた。それが却って娘を戦慄させたらしかった。彼の女は唖のように唯オオオオオと口走った。事に依ったら本統の唖かも知れなかったのである。
「お嬢さんの名は?」と私は試しに尋ねた。
「ミサ……」と女性は服従的に答えた。
おお此の女性は本当の悪人ではない。彼の女はすっかり恐怖している。そして私を巡査と同じように尊敬している。人が悪事を後悔した瞬間程屈従的な心に変ずるものはない。そんな時には弱い子供に打たれても、打ち返す力さえ出ないのである。
「之、貴方の家?」私は少し威嚇的に訊ねた。屈従に対して威嚇を強いるのは人間の持ち前である。
「ええ……」
「あしたの晩、ここへ忍んで来るから会って下さいね。私は貴方を美しいと思ってるんです。」私はやさしく、大人しく頼んだ。
女性の顔は再び変った。彼の女はよろけながら後じさりをした。困惑と絶望とが体中に見えた。
「ああ……それは……」
「いけないと云うんですか?」
「でも……」
「あの事……あの事が世間へ知れたら困りますよ。分ってますね。」
「分ってます。さ。お返ししますわ。許して下さいましね。」娘は初めて涙を落した。
「それは入りません。そのハンカチを下さい。」私は斯う云って女性の手にあるハンケチを取り上げた。
「では、きっと私に会って下さいね。私はもう、貴方に恋して了っているんです。」
女性は私を眤と見詰めた。そして恐怖しながらも、私の顔が嫌いでないのを感じた如くに見受けられた。彼の女は少しの間、目を閉じて考え続け、やがて黙って家へ入ろうとした。
「あしたの晩の八時! 間違いなくね。それでないと世間へ知れますからね。」
「え! 考えときますわ。」
「今、承知して下さい!」
「では、八時!」
娘は家の裏へ逃げて行った。私は緊張の後の疲れを感じて、淋し相に店の方へ帰った。
ああ何と云う悲しい陰惨な計略!
私は闇を歩き乍ら、自分を憐愍して、女のように嘆いた。本当に電柱へ縋って嘆いたのであった。
全体之は何であるか? 私は何を悩み、何を為しつつあったか?
私には全く反省力が欠けているのか?
否、私は自分の心の闇を見詰めるのが恐ろしいのであった。然もそれは結局|発《あば》かれずに済まされないものだった。
私は静かに注意力を集め、見る可きものを指摘せねばならない。分っている。私が本来望んでいるのは女性を虐待する事ではなかったではないか。妹のための復讐! それが初めでもあり、終りでもある唯一のそして重要な予定ではなかったか?
皆分って了っている。今更弁解は一切不用であろう。分っている。実に、人々よ。鬱積せる復讐心、満たさるる事なき一つの願望、それが目的の道を閉ざされた時には、必ず曲った方向へ外れて行かねばならない。
精神分析家はそんな傾向から来る悪い行為を「復讐の代償」と呼ぶが好い。私は実に新しい相手へ向って無意識的に「代償」を実行したに相違ないではないか。自分の苦悩を軽減するために、他人の苦悩するさまを見て楽しむとは……ああ、それは虎にも獅子にも具わっていない特異なる残忍性の発露である。私が男らしくなく泣き崩れ、何処にも救いを見出せない闇の中を這い廻ったのは、以上の事に気附いたからであった。
蛇と鰐と狐とを混ぜ合して煮ても、私の心よりひどい濁りは浮いて来まい。
今、今ならば何うにか直せそうである。早く、早く、私はあの娘にもう一度会って、私の醜い謀みを詫びよう。ああ彼の女は何んなに眠れぬ時間を持ち扱い、悔恨と困惑とで懊悩している事であろう。彼の女は罠に陥ちた兎よりも、もっと憐れ深く悶えているに相違ないのであった。
「復讐の代償」……そんな卑怯な陰惨なものがあって好いだろうか? 実にもう何の弁解も入りはしない。唯一つ云って置こう。弱い心と卑怯とは同じものを意味するのである。
悪心の中に包まれ育つ善心
闇は限りなく濃くなって、気体でなく、固体――油じみた古い布団のように私を圧した。眠ろうとしても心の静かにならない哀れさ。髪の毛の生え目は一つ一つに痛み、眼や鼻は硫黄の煙りで害されたように渋く充血した。
道を曲げてはいけない! 一つの目的を明確に意識せねばならない! 復讐の相手の顔から眼を外らしてはいけない!
正直な心、曲らぬ心、何故それをはっきりと保ち得ないのか?
けれど軈て私は熱っぽい眠りに堕ちて行った。夢は再び私を悲しく覚醒させた。何でも太って赭い顔の男が私に斯う話したのである、
「兄弟を殺しても、御免なさいと云やあ、それで済んだ時代があったさ。時代、時代がね。」
それから想起し得ない混乱の後に、私の亡父が表れ、不快な舌を以て呟いた。
「帽子を盗んでも、首を切っても、同じ位の罪しか感ぜぬ人間もあった。それから、それで好い時代もあった。時代も。」
私は恐怖する。之等の夢の示現は何を意味しているのか? 私は心の奥底から後悔していない為めに、斯んな荒れた考えを夢みるであろうか?
私には分らない。あまり信用のおけぬ潜在意識下に何か私の顕在意識と異った思想が埋没されていて、それが浅間しくも夢の姿で現れて来るのか? 私は根からの悪人なのか? それとも、之は何か心の狂いに過ぎぬのか?
「楽しい場合にも、苦しい場合にも、お前達は互いに人と人との間の深い縁を感じあえよ。楽しい場合には、それに依って楽しみが倍になるし、苦しい場合には、その苦しみが和らげられるのではないか。」
私は此の頃強く痛く如上の言葉の正しさを感じているのだ。それは簡単な教えである。
「愛してやれよ。」と云う声が上から聞え、
「愛して下さい。」と云う声が下に聞えているではないか。
私が火傷した老職工の家庭を助けてやろうと考え、又それを実行して来たのは一体何故であり、何の目的であったか? 之をも「復讐の代償」と呼び捨てる無慈悲な人が何処にいるだろう。ああ之が自暴自棄から起った業とらしい忍苦だと誰が判断するか?
おお、眼にはっきりと見えて来る。老人は爛れた神経の尖に熱した針の苦痛を味って床の上を転がり廻っている。幼い子供は恐ろしがって南京鼠のように怯え、慌て、這い廻っている。一番小さい子丈が平気で、お椀へ一杯砂を盛り上げて、何の真似か知らぬが、小さい手を合せて拝んでいる。
之は何でもない事だと、耳で聴いた人は云うであろう。だが眼で見たものが、此の哀れな生きものたちへ「復讐の代償」を試みる勇気があろうか? 「愛してやって呉れよ。」その言葉は誰の口から出ようとも、此の場合に当て嵌った真実ではないか?
一日二円を儲けた人が、一円を割りさいて与えようと思うのは此のような時である。
「その品はあの人にやって下さい。」
「その本をあの子に教えてやって下さい。」
「その楽しい歌をあの子に唱わして下さい。」
皆は斯う願わねばなるまい。ああ、それは本能によっても、思想によっても、当然なことではないか。もう分り過ぎた事である。
私は本当に心が片輪なのではなかった。唯時々片輪になるに過ぎない。私には正しい事物が好く分るのだ。だのに、あの少女を、あの正直そうな初心な盗人の処女を何うして罠へ引き入れ得るか?
私には時々悪魔が取りつくのか? 幼い時に正しい愛で養育されなかった事、思春期に於ける修養を欠いた事、この二つは悪魔の大好物である。私は不当な変態心理の父母を持たねばならなかった。私は悪い友の中でばかり遊んだ。善良なものを見ぬために、不良なものを当り前と思い込んだ。それが今頃になって漸く分って来たのである。
誰か私を縛る繩を解いて呉れ、耳へ詰っている砂を掘り出して呉れ、魚の鱗のような曇りを私の白内障のような眼から取り去って呉れ。
おお、それ丈ではない。早く、早く、今の内、あしたではもう遅い。今直ぐ、何処かに繩でつるされて唸っている継子を下へ下してやって呉れ、焼火箸を継母の手から取り去って呉れ。
きびし過ぎる親と、無関心過ぎる親とを集め、私を実例にして何か恐ろしい事を講話してやって呉れ。虐待される幼児達を悪い親の手から離して、情深い師匠の下に置いて呉れ。
それが済んだら、子供達の偏屈と意地悪とを矯正してやって呉れ、幼芽の中は樫でさえ好くしなう。それが肝心な所である。
柔和な話を聞かせ、さらに、柔和な行為を現実で見せてやり、何を模倣す可きか、よりも、之を模放せよ、之を習慣にせよ、と教えてやって呉れ。此の模倣、この習慣からこそ将来、何をなす可きか、を知る健全な思慮は生れ出ずるのである。車を正しく走らすために、軌道を与える事、之が何よりも初めの仕事である。
いや、然し、再び、私は私の事を考える可きであった。夜中でも構わない。私はあの免職教員へ悉くあった事、之から起りそうな事を話し、愬《うった》え、懺悔しよう。神を知らぬ私は、唯、あの教員に「許して下さい。」と願って伏し倒れよう。そして、一切の始末をつけて貰わねばいけないのだ。私は気の替り易い悪人である。今正直にしていても、あしたは盗みを平気でしているかも知れない様な、そんな頼りにならぬ罪人である。
「善い事をしようとして、悪い事へ導かれる男」それが私と云う人間である。
ことによったら、妹の「復讐」をも、(卑怯からでなく、勇気と親愛とから)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]断念せねばなるまい。ああ、そして、それも善い事なのだと大勢の人が話している。
斯くて私は夜中に雨をついて免職教員を訪ね、謝罪すべき点を謝罪し、頼む可き事をすっかり頼んだ。
翌日の夜になると、教員は私の代理として、あの盗みをした処女の家の近くへ出掛けて行った。処女は約束を守って、八時になると、家から出て来、待っている教員を私と間違えて慄えた。柔和な教員は一切の事情を上手に分り好く話してやり、彼の女の心を真黒にしている色々の心配と当惑を拭い去ってやった。そうすると女は一層自分の心を明瞭に見る事が出来、更に強い悔恨を発見して、新らしい涙を降らせた。
親切な教員は私の元へ戻って来て、起った事の凡てを話し、その上それらを記録に書きとどめて、私に与えた。
「聞き流すと云うのは好い事でない。貴方は此の記録を時々読み返して、自分を善くするように努めなくては……」
教員はその後、五回ばかり、例の処女と面会した。そして記録はその度に増補されたのである。
盗みをした処女に就いての記録
此処では教員が幾らか観念化して書きとどめた所の、哀れな処女の経歴を掲げさせて貰いたい。
「……私(処女自身)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]は考えて弁解致すのではありませんが、それでも之丈は申し上げたいのです。私は初めから悪い人間では御座いませんでした。誰だって、そうで御座いましょう。悪につけ、善につけ、それを段々と強くして行くためには相当の時間が必要なのは何より明らかで御座います。悪行さえ、幾らか習熟を要すると云う事は、少くとも私の場合では真実で御座いました。或る人は申します、悪行をなすには放任で足り、善行をなすには教育が必要だと云う風にね。けれど、悪行をすすめる養成所と云ったようなものが、此の世には沢山あるので御座います。皆包まず、お話し致しましょう。実は斯う云う訳なのです。
私の真の母親が私を妊娠して居りました頃、私の父と云うのは何か商売の上で大きな損を招いて、母を置き去ったまま、何処かへ出奔して了ったのです。残された母は妊婦預り所へ泣き入って、絶望と悲愁の中に、私を生み落したので御座いました。それから私は炭屋へ貰われて行き、其処から又或る煙草屋へ遣られた相でした。所が物心のつく頃になると、私は場末の或る小さい小鳥屋の子になって居りました。私は殆ど本能的に哀れな生物を愛する事が好きで御座いました。細かい泡粒を赤い嘴で噛んで、皮丈を吐きすてる紅雀や、大豆程の卵を生んでは一生懸命に孵すカナリヤの母親なぞを可愛がって眺めますのは、私の一番大きい楽しみでもあり、悲しい時の慰めでもありました。
それから鳥達の個々に就いて、その性質を観察し、それをよく飲み込んでやるのは、私に取って何んなに大きな仕事で御座いましたろう。小鳥の心配、不満、恐怖、安心、満足、そんな気持を察してやり、それぞれ適当な取り扱いをしてやるには本統に熟練と愛情とが必要なのでした。
或る鳥は羽が絹のように美しいのに、唯もう粟と水と丈で満足して居りました。『まあ何うして、味のない水と穀物と丈が、あんなに美しい生命に変るのだろう。』と私は好く思い、嘆息しました。又或る鳥は意地の悪い顔をしているのに、牛乳をかけた御飯でないと食べず、他のは棒の形に固めたスリ餌でないと不満な様子を致しました。『何て贅沢な鳥達だろう。山に居た頃は何うして暮していたの。』と私はフザけて笑った事も御座います。
斯んなにして十八になる迄、淋しく暮して来た私は、偶然な機会から、本統の父親に見出され、その方へ引き取られる手筈になりました。私は何んなに喜んだでしょう。之から今迄知らなかった愛情の国に住めるのだと思うと心も落ち着きませんでした。移って行った父の家には、もう一羽の紅雀も居ては呉れませんでしたが、その代りに私の実母ではない若い母親が待って居りました。そして小鳥たちを見失って、唯の雀をでも見るのをせめてもの楽しみにして、夫を見送っている私へ向っては、『お前のように小さい生きものを可愛がったり、恋しがったりする娘はないよ。きっとお前は石女だろう。』と申しました。それはもう詰らない云い伝えに過ぎませんね。いいえ、お話はもっと別の事で御座いましたっけ。(けれども私は石女かも知れませんわ)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
一緒に住んで見ると、私の父と申すのは、本統に悪い人でした。ああ、もし、父さえ善良な気質を見せて呉れたなら。私は何もあの復讐の心を抱くようにはならなかった筈ですのに……。いえ、復讐と申すのは、あの事なのです。妊娠中の母を捨てて、音信もしなかった不親切、私はその事から、父を怨み初めるようになったのでした。父さえ母を捨てなかったら、母だって、私を妊婦預り所へ置き去りにして、行衛不明にはならなかったで御座いましょう。母は唯、父の真似をしたのだ。それで私は孤児になったのだ、と斯んな風に感じたのでした。考えれば、私が小鳥屋へ貰われて行ったのは、斯んな父の手で育てられるより、幸福でした。一羽の無心な小鳥が悪いそして凡庸な教育者よりも善い事を教えて呉れると云うのは、もう本統のお話しですもの。だのに、私は矢張り、変化を望み、新らしい世界にあくがれました。孤児である身を悲しむ余り、幸福な身無し児であるよりも、不幸でも親のある児を、一層幸福なものと考えました。之は一寸妙な考え方で御座いますが、貴方が若し孤児であるなら、直ぐと同感して下されるような分りきった心持なのです。
父は中途から彼の家庭へ入り込んで来た私を愛しては呉れませんでした。少し位かばって呉れても、憎まれていると思い取るのが、不遇な娘の持ち前なのですもの、私は始終父に憎まれているのだと判断しましたが、思えば、それが過ちの初めでした。
私は父へ向って軽い憤りを感じました。何故小鳥屋に満足していた娘を、こんな所へ引張って来たのか? 貴方の仕打と貴方の心持とが一寸も私には理解出来ない。
理解が出来ない。――そしてお互いが段々高慢に自分の立場を守るようになって参りました。然も之は愛着で離れ難い肉親の間に起きた事なのです。ああ、もっと急いで話しましょう。
一番悪い悲しい事実は父が大勢の気味悪い男達を集めて、私の家で開く賭博で御座いました。之が初まると私は直ぐ小鳥たちの事を思い出して泣きました。直ぐにも喧嘩し相な人が、その心をじっとこらえ、話し一つせずに、眼を赤くして時間を過しているその有様、私は自分迄息がつまって、身動きも出来ぬようでした。之は何と云う物凄い殺気だった静粛でしょう。敗けてシクシクと泣く細い声なぞが聞える頃、彼等は一人ずつ、二十分丈時間を置いては帰って行って了うのです。一人残った父へ私は縋りつきました。『何うか、それ丈はやめて下さい。』私は涙を飲んで愬えました。賭博が悪いものだと云うハッキリした思想からではなく、あの二十分間ごとに一人ずつ帰って行く人たちの淋しく絶望した、殺気だった顔が怖くて仕方がなかったからです。何か復讐のようなものが起りはしないか? 私はそれを何より心配致しました。父は此の道の名人で、一回損をすると、四回は得をしました。そして、一回丈する損も、何だが態々やる計略らしかったのです。
父は何故かその時大変に不快な顔をして居りましたが、いきなり、私を蹴倒して、肩へ痣をこさえる程強く、室の隅へ打ちつけました。
私は処女の身体と云うものを大変大切にする質だったので、恐ろしい悲愁の中にも、実に明かな激怒を感じたので御座います。
『覚えてお出でなさい!』と私は倒れた儘で申しました。
三日目の晩、父の元へは又しても不快な男たちが猫脊をして集まって来ました。彼等は燈火の光を厭相に眉へ皺を寄せて見やり、又独り言を呟いて、静かに! と注意されたりしました。皆が皆背光性の虫か長い魚の様でした。
『覚えてお出でなさい!』私はその言葉を考え続けて居りました。私は思い切って外へ飛び出し、夜更の町を通って、警察へ此の事を訴えました。大勢の人は巧みに逃れましたが、父丈は酔っていた為めに捕えられて了いました。
斯んな忌わしい事件が起って後、若い母親の機嫌は大変嶮しくなりました。『お前は父親を罪人にした不孝者だ。何うして此の仕損じを償うか。』と私は責められました。そして私の良心も堪えられぬような手痛い傷を受けて悩み初めていたのです。私は真にあの罪の憎む可き事を考えて警察に訴えたのか? それとも父へ向って実母と自分との受けた侮辱を復報するためであったか? それが混乱した頭には分りませんでした。
その中に父が監獄から帰って来て、大きい荒立った声で申しました。
『娘! 貴様に今日からバクチのやり方を教えてやるぞ! 馬鹿! お父さんに勝てる迄修業するんだ。さあ、やれ、斯うするんだ!』
私は泣いて謝罪しましたが、気の荒立った父は何うしても肯きませんでした。監獄へ行く前よりも一層多くの悪辣と薄情とが父の心を横行して居りました。
父を懲役人にした事の悔恨は益す私の胸に響きました。そして何が善で何が悪かも分らなくなって、唯済まないと云う心持で一杯になりました。私が父の命に服従し、父の荒立った心を少しでも慰め、又鎮めようとしたのは実にその為めだったのです。
私はおハナを習いました。肩を打たれ乍ら色々の秘術を教授されました。ああ細い事は申せません。私は唯上手になって了ったんです。男の中へ入って一度敗れば二度勝つようになって了ったのです。
ああ父は私にいやらしい事を云いつけたのです。『帳場へ坐ったら、若い女はなる可く膝を崩せ!』というのがそれなんで御座います。そうすると若い男たちの注意力が二つに割れて分れて了う、勝負に必要な思わくや相手の持っている札の種類を皆忘れて了う、と云うのが父の考えなので御座いました。
私は悲しくて泣いていると、何時も後ろから蹴られました。そして、或夕方、私の家へ隣りから飛んで来たハンケチを、私が拾って返そうとしました時、継母が『一寸お待ち、』と云ってそれを取り上げると、又父が私を蹴りました。
『私は鞠じゃないんだよ!』と私は悪い女のように憤りました。
『人間だったら、人間なみになれ。あすこにもう一つ干してあるハンケチを取って来て見ろ!』
私はこの時、自暴自棄な気持になって、隣家の様子を伺いました。そして、ああ何を致したでしょう。ハンケチを盗み取って来ると、それを旗のように振って父親に見せびらかし、それから母親の頭へフワリと冠せると、狂的な笑い方をして、その場へ倒れ、足で壁をたたいたので御座いました。
父は腹の底から出て来るような深い笑い方を致しました。カツギを冠った母は何だか踊りの手拍子のような事をして見せました。
それは滑稽で御座いました。けれど之が滑稽であって宜いのでしょうか。
『悲しいな、悲しいな、小鳥は何処へ行った。』私は斯う思って外の空を眺め、もう自分が大変に悪い女になっているのを愍傷しつつ、せめてもの罪滅ぼしに遊んでいる子雀へ米を投げてやりました。
けれど、もう駄目だったのです。鏡を見ても、耻かしい気も起らなくなりました。『なあに、仕たい事は何んでもするが好い。それから仕たくないこともどんどんとするが好い。』私はそんな風に叫んだので御座います。
私は二度上手に物を盗みました。そして三度目に、未だ手馴れぬため、あのセルロイドの櫛を取り損って了ったのです。お許し下さい。お許し下さい。私には皆分るのです。柔しく色々と教えて頂いて、又知慧の光が私には見えそめて来ました。私は悪い女で御座います。私の悔いは本統に強く湧き起って居ります。ああ、嵐の中の若木のように、私の心で、そして体で、こんなに悶えているので御座います。あの若い商人の方が許して下さると仰言るので、私は余計につらく、身がいたくてなりません。」
哀れにも虐待された処女は斯う物語って涙を拭いた。
小鳥を哀撫することで、薄倖の中にも、或る静かな慰安を感じ、それによって、強い僻みから逃れて来た美しい霊が、急に陰惨で極悪な境へ迷い込み、四囲に漂う闇黒のために霊の表面を汚染されるというのは何と痛む可き事実であろう。然し、幸いな事に、汚染されたのはホンの表面丈に過ぎないと云う新らしい発見が私(教員)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]を何よりも強く勇気づけた。私はよく考えたのちに、処女へ向って慰安になるような次の言葉を与えたのである。
「余り心配なさいますな。心は労れ過ぎると又分別を取逃すおそれがありますからね。今は寧ろ安心するように努め、之から来る幸福をお考えなさい。それが直ぐ来ないでも遠くに見えると云う事は、すでに幸福の一種ではありませんか。きっと、貴方は善くなれます。そんなに貴方の心は美しいのですから。
盗みと一口に云えば、人々は何んな盗みをも一様に思い取り、其れは悪い事だと、顔を反けますが、人の心が複雑であればある程、盗みの種類も多く、又差等がなければなりません。
私は斯う云う話を聞きました。一人の有名な画工が、一人の熱心な弟子を持っていましてね、或る時、二人して同一の林檎を写生したのです。すると、師匠の方のは発色が鮮かで、本統の果実のように出来たのに、弟子の方のは色を余り重ねたので、濁って汚くなったのです。それで師匠は一寸軽蔑を以て、弟子の画を批評したんですね。弟子は傲慢な質と見えて、カッと顔を赤くしたそうです。師匠は生意気な弟子を睨めると、『君の絵より、その顔面の朱の方が発色が好いじゃないか?』と申しました。それは本統に同情の欠けた言葉に違いありません。弟子は立ち上って申しました。『先生は何か秘密な高価な絵の具を使うのです。それを私に教えないんです。』
『馬鹿な! もっと技巧を練りなさい。すると絵の具が云う事を聞いて呉れるようになるんだ。ブラッシュへ入れる指先の力の工合で発色が異って来るのだ。』師匠は斯う云って、手を洗うために画室を去りました。独りになった弟子は、いきなり師匠の絵の具箱の所へ飛んで行って、林檎の赤い色を表すために使ったギャランスフォンセと云う絵の具のチューブを握り締めてね、中の絵の具を二寸も押し出して、やり場に困ったものだから、自分の口の中へとナスリつけて了ったんです。
貴方、分りますか? 之だって立派に盗みの一種です。けれども、此の盗みの原因を考えて同情のある許しを与えると云う事は我々に何れ程必要であるかを知らねばなりません。
此の弟子の心には先ず第一に嫉妬、それから疑念、それから憎悪、怨恨等が渦を巻いていたのです。そして重に嫉妬が原因となって盗みをして了ったのです。当の絵の具が欲しいのではない、先生と同じ技能が欲しいのに、やはり行為の上に表れて来た事を見ると、絵の具を盗んでいるんです。人間と云うものは無形な事を有形にして表す傾向を持っています。彼は具体的に事を為す性質に災いされているのですね。
分っています。貴方が盗みをするようになったのも生来の本能からではないのです。何か無形な怨恨が形の上に表れて来たのに過ぎないと私は解釈しています。さあ! 未来を余り心配しないでね。臆病にならずに、正しい方へと歩き返してください。
自分の罪や過失を思い出す程つらい事はないけれど、又、之から正しくなろうとする勇気を見出す程晴々したものはありません。
貴方は悪いお父さんに対抗し、悪くなって行く所を見せつけて、競争し、復讐しようと云うような心持を抱いたんでしょう。いえ、そうハッキリと意識せぬ迄も、矢張り、そんな傾向を取っていたらしいではありませんか。
卑怯と戦うに卑怯を以ってするならば、善良なものの方が敗北するのは当然です。貴方は敗けました。そしてそれこそ貴方の心の奥にある善良を證して余りあるものと云えましょう」
「何んなに仰言って下さっても、私は盗人より以上のものでも、以下のものでもありません。もう普通の、何の理窟も弁解も入用でない盗人です。私はあの櫛が唯欲しゅう御座いました。そして取って了ったのですもの。ああ、けれど……」
女性は此処迄語ると、急に驚いたように調子を変え、そして口早に叫んだ。
「ああ、あの子が悪いんです。あの子が私に取りついているんです」
「誰、誰の事を云ってるのですか?」
「隣りの子! あの可哀想な子は走る事の出来ないナマコのような畸形児で、両手の指が三本丈しきゃないんですもの。涎や目脂をたらし、アア、アアと丈は云えますけれど、その他の事は何も分らないんです。何時も臥るか柱によりかかるかしていて、私を見ると息を切らせ乍ら這い寄って来るんです。そして、三本丈の指で私をツメるんですわ。」
「其れは夢で見た事のようですね。」
「いいえ、本統なのです。あの骨なしみたいな、癩病みたいな顔の子が、私は初め恐くていやでね、それから、今度は好く見るともう可哀そうに思えましてね。夜いつ迄も眠れないと、その子の事が幻にうかんで、私好くは分らないけれど、その為めに、初めての盗みを思い立ちましたようですわ。小さい泥の人形を私は夜店から取って来て、そして恐ろしいものを捨てるように、隣りの子へ投げつけたんです。けれど、今の私は自分の為めに櫛を盗まねばならぬような心掛けになって了っているのでした。いえあの三本指の子に罪を押しつけようとするのではありませんけれどね、ああ私は自分で自分の考えが分らないのです。唯、あの子のむくんだ醜い姿、それから、その子と遊ぶ腫物で毛の抜けた盲ら犬の姿、そんなものが、毒のように私の体に泌み込んで離れないんですわ。私は伝染して了ったのです。其れ等のものへ同情しているんでなくて、もう一緒に捲き込まれて了っているんですわ。それにねえ、懺悔しにくい事ですけれど、あの畸形児の父に当る人が、……」此処で女性は又言葉を切り、体をよろめかして、私の肩に頬を当てた。
私はその話の先を続けるようにとは促さなかった――何故なら、彼の女は恐らくもう処女ではないと云う直覚が悲しくも私の脳裡を掠めたからである。私は心を変えて斯う劬った。
「私は貴方をもう一度小鳥の間に住まわせて上げたく思います。貴方さえよかったら、お父さんと相談して上げてもかまいません。」
「……畸形の子の父親は……小刀を持ってます。そして、あの若い商人の方……は私の落ち度を堅く握っていらっしゃるんですわ。」女性は私の言葉とは掛け離れたある恐ろしい妄想に耽けっているらしく、眼を上釣らせて、黒い上空の一点を見つめた。
他人の楽しみ
幾月かが風や雨と一緒に過ぎた。そして風や雨は、私(セルロイド職工)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]の心の中にある悪辣な部分丈を洗い去り、従って善良な部分を明瞭に表面へ洗い出して呉れたように思えるのであった。
私は刃を以てする複讐を思い切る為めに、何度か、あの免職教員の親切な助言を煩わした。そして、兎も角も、口頭で怨みを返し、反省を促すために、院長の子息に面会する機会を探した。
子息は彼自身が私の妹を愛していた事、愛していた許りでなく、もっと深い関係に迄も入って行った事、それは重に彼の女の正直と低能へ向けられた同情に起因する事、院長の方は決して妹を自由にした證拠及び噂さのない事等を、悩ましげに頭をおさえて物語り、それから、もう一つ思い掛けぬ驚きを次のような言葉で私に与えた。
「父は貴方に骨の壺を見せたと云いますが、それは真実ですか? そうです。父は貴方へ向って何か秘密なそして重要な事を打ち明けたかったんです。けれど、その目的を思い切って決行する勇気がなかったらしいんです。死に際に、その秘密のホンの端緒丈を私に洩らしかけたが、直き息が苦しく詰まってね、話が途切れて了ったものだから、私にも好く判断がつかないんですけれど、何でも、貴方は私共の身内なんだろうと私は思いますね。ええ、それ丈はもう確かなのです。父はそれを貴方に打ち明けたくて、あの骨の壺迄も貴方に示したに相違ありません。」
「では、あの骨は誰れのだと仰言るんですか?」私は疑念で顔を曇らした。
「勿論、あの頭蓋は女性のものですよ。今度の火事で、なくなって了ったが、実に惜しい事をしました。あれは何でも異常に美麗だった女性の骨です。私は三度も取り出して見たけれど、何時も、あの端麗な骨相によって、それが生きていた日の好く均斉のとれた美貌をも思いやる事が出来ました。」
「では、その女性の顔と私の顔とが似ているとでも仰言ったんですか――院長さんが――」
「まず、そんな訳になるでしょう。いや、そうだ。それに違いない。あの女性こそ貴方の母親だったんではないでしょうか。勿論、よくは私にも分らないが……」
「造り事はおよしなさい。それは空想の過剰から来たものに過ぎない。私に云わせれば、斯うです。院長はあの骨が生きていた頃、それを愛していたに相違ない。所が、その女の顔が私と似ていたのに気附いて、妙な追想に耽り、私をも愛着するようになったんです。唯それ丈です。私が紫の室に臥ていた時、そこへきた院長の挙動や眼附でもって、以上の推察を下し得るんです。」
「いや、事件はもっと複雑に違いない。あの骨の女性は父とその兄との共有物、もしくは互いに争奪しあった宝石だったんです。此の事は父が前にも三度程打ち明けたのだから、疑いのない話です。それで父の兄は極く秘密に女を殺したんですね。それも父の話の様子で大概推察されるんですが。貴方分りますか?」
「私は何も信じません。好い加減な芝居をかく事はお止しなさい。私は唯貴方の反省を促すんです。」斯んな風に話は再び当の問題へ戻って行って了ったのである。
それから間もなく私を何より不快にしたのは、院長の子息が可成りな金子を持って上海へ渡って了った事件であった。
けれど、私は最早、その跡を追うまいと諦めた。又追うにしても、それ丈の金が懐ろにはなかったのである。私は再び憤怒に似た或るものを感じ、自分の不甲斐なさを悔い初めた。ハムレット風な憂悶は絶えず私の前額を蔽い、眼の光りを曇らせた。
「妹よ。許して呉れ! ああ私が悪い。そして周囲が悪いのだ。空間も時間も皆間違っているのだ。」
私は斯う呟きながら、不図ある一点を注視した。ああ、そして私は自分の悪い疑念を鞭打った。
私は何を見たのか? 骨の壺に刻まれたアラビヤ文様の幻影であるか? 或いは美女の幽霊であるか? それである、一人の美しく若い処女――それがあの免職教員と睦まじく肩を並べ、向うの方へと曲って行くのである。
あれは盗みをした可愛い娘ではないか? 何故今頃、教員に用があって、面会するのか? 何故二人はあんなに楽しそうなのか?
ああ、そして私は何んなに淋しく沈みかえり、妹を手元から失い、敵をこの街から逃して了ったか? 私の慰安は一体何処にあるのか? 前に関係した二人の姉妹も絶交を申し出し、そして、行衛をくらまして了っている。ああせめて、あの妹娘の方丈でも、私の傍らに居たら……
だのに、彼処を見よ。若い教員、そして新鮮な美女! 二人は一緒に巣を造る二羽の小鳥のように舞っている。おお、あれは教誨する師と、懺悔する教え子の姿ではない。たしかに無い。
嫉妬? それに似たものが暗い雲のように私の心を埋めた。私は勢いづいて二人の影を追い駈け、そして二人の間へと、無遠慮に割り込んで行った。
処女はいじけた小鳥のように顫えた。そして教員は? 彼は沈鬱な表情で私を見上げた。私は男の方へは注意せず、女の方を真正面から眤と見てやった。彼の女は消え易い雪の様に素直で臆病であった。何うして斯んな大人し気な女が盗みを働いたか? それは一つの大きな疑問である。
「ミサ子さん!」と私は馴れ馴れしく云ってやった。「ミサ子さんとは、何て好い名だろう。あの晩に教わった名ですね。」
教員は険悪な風向きを見て取ると、私を慰撫するように口を入れた。
「ああ、心は微妙な丈に、又毀れ易いものです。さあ、此の娘さんの心を掻き乱さないように、二人で愛して上げねばいけない。」
「二人で愛する?」と私は眼を赤く怒らして、教員の前に立ち塞がった。けれど、不意に自ら耻じると、主人に会った犬のように、私は大人しい表情に戻り、それから静かに処女の方を振り返った。
ああ、その時である。その処女が私を強い恋着の眼で見つめて居たように思い取れたのは……けれど私はそれを気にしなかった。いや、自分の見ちがい、もしくは思いちがいであると信じて了った。
私は落ちついて、別れの言葉を告げ、二人をうしろにして、他の路を取った。淋しい心から、頼り所のない気持が湧き上って、斯う私に問うようであった。
「何うしたのだ。あれは、あの女性は誰れが初めに見つけたのだ。え? 返辞をして呉れよ。誰れでも好いから、私に話して呉れよ。私はあんまり強い淋しさに打たれているのだ。」
崖上の愛
私の怨敵は何処へ隠れたか?
斯う叫んで闇の中を見詰める時、何かに悶えて泣き悲しむ院長の息子の幻を透かして、もう一つの他の形が見えて来るのは何故か?
私は恐れる――強烈な淋しさが擬集して、私の心の中で一つの形を取ると、それがミサ子の羞かみ怯える姿になっているのである。
私は苦しがって長い釘を柱へ打ち込み乍ら、困った、困ったと云う嗟嘆を繰り返した。
けれども、結果は何うなって行ったか? もう急いで早く語って了いたい。
先ず私は我慢が出来なかった。その為めに心を紛乱し、得体のしれぬ憎悪、嫉妬、侮蔑のような感情が荒立つ儘に委された。そして到頭私はミサ子の家の近く迄、悪い霊に誘引されて、足を運んだのである。
二三夜は無駄に過ぎたが、四日目の闇夜、私は外出する彼の女を堅く捕えた。
尋常でない畏怖の表情を以て女性は眤と私を見つめ、そして私の眼の中に麻酔薬のようなものを感じて昏倒しかけた。
「いけません! それは、ああ私には堅い約束があるんです。どうぞ、許して下さい、私は貴方のお情けに縋ってお頼み申すのです。あの約束が……」女性は顫えた声で囁いた。
早く話して了う。私は女性の倒れかかる体を腕でささえ、彼の女の顔の上へ、自分の顔を持って行った。羞耻と恐怖のために燃える女性の頬から、カッ気が湯気のように上り、私の頸の両脇へと分れて行った。
何故、女性が私の恋愛を拒まなかったかと云うに、之には二つの理由があるらしい。一つは私が無条件で彼の女の気に入った事である。もう一つは、私が彼の女の罪を許し、又私の悪い謀み――即ち、彼の女の罪を云い掛かりに恋愛を遂げようとした事――を後悔して、改心していると云う話を教員から聞いていたからである。
「改心さえすれば、その人は洗われたように綺麗になる。」と云う思想を彼の女は、自分自身から推し量って、私の上に迄及ぼしたらしく思われる。
斯様にして、私は悪い謀みに依ったならば恐らく却って失敗したかも知れぬ情事に、造作なく成功して了ったのである。之は何事であろう。然も私には純真な恋慕の情と云うものが全く欠けているのではないか! 嫉妬のようなもの、怨嗟のようなもの、漠然とした復讐のようなもの、それからあの柔和な教員の早手廻しに対する見せしめのようなもの、之等が私の恋愛を形成する主要な元素であるとすれば、私はあの改心した美しい処女を、再び闇の底へ引き戻し、「悪の教育」を施している事になるのである。
何うするのが最良の方法なのか? 私にはもうそれが分らない。唯斯んな恐ろしさが悉く事実であるのを認め得る丈である。
三度目に女性と密会した時、彼の女は最早何者をも恐怖しない程に変って了って居た。其れに何で無理があろう。彼の女は元から盗みを為し得る程の女性なのだ。
「貴方は、あの初めての晩、私を厭がって、何だか他に約束があるって云いましたね。約束とは何ですか? 云って下さい。貴方はあの教員と何か云い交したんですか?」私は断崖の上に立つ所の亡びかけた森の中へ入ると、彼の女を詰問した。
「許して下さい!」
矢張りそうであった。彼の女は近い内に、再び小鳥屋へ引き取られ、それから教員と結婚する約束になっていたのである。
「けれどねえ。あの方は私を本統に愛しているんじゃないんですわ。唯私を哀れに思って下さるんです。皆、義侠心から出た事なんですわ。それから、貴方は貴方で……私を矢張り愛して下さらないんですもの。私分って居ります。貴方は唯邪魔がなさりたいんですわ。」
「おお……」と私は自分とそして彼の女に驚きの目を向けた。
「邪魔?」と私は繰返した。
「そうですわ。だから、貴方は私と斯んな関係になって居ても、結婚はして下さらないんです。いえ、却って、あの先生の方へ思い返してお嫁に行けと仰言るんですわ。ああ、私は何て気の弱い女でしょう。落ち度……あの落ち度のために、あの落ち度以来私気がひるんでいるんですわ。私は何うしても貴方に抗う事が出来ませんでした。そして、今では……一生でも貴方と一緒に居たいと云う儚い願いで一杯なので御座います。」彼の女は涙を袖に受けて泣き続けた。
「では私が勝ったのですね。」私は自分で斯う云って、その残忍な言葉に自分から恐怖した。
「勝った? 何に? 誰れに? 私に? あの方に?」と逆上した彼の女は早口に叫んだ。
「けれど、あの教員には私も大変恩になっている。私は貴方をあの人から盗み取るような不義理は出来ないんです。」
「不義理? 出来ない? それでは、何故、何故、斯んな事をなすったんですか?」
「許して下さい。私は何うしても我慢が出来なかったんです。許して下さい。そして、あの人の所へ行って下さい。何も彼も秘密にして……」
「私は、斯うなるのを予期して、もう早くから諦めていました。貴方はもう私を嫌ってお出なんです。皆察しがつきますわ。貴方は三度目に会った時、もう私に厭きているんですね。何て悲しい、けれども吹き出したいような可笑しさでしょう。斯んな事がそう方々にあるとは思えませんわ。」
「貴方はもっと素直な花嫁になって下さい、私が邪魔をしようが、すまいが、何うせ貴方は初めから処女と云う訳ではなし……。」
「何です? 聞えませんでした。も一度、も一度、云って下さい。」彼の女は私の胸に喰いついて来た。そして、私の顔を眤と窺った。闇が濃く流れて、何も見えはしなかった。
私は厭きて了ったのである。
彼の女は諦めていて、それを恨まずに唯泣いたのである。おお何たる奇怪な夜であったろう。
恐るべき微笑
狂暴な悔恨が再び私の胸を喰い破り、肋骨を痛めつけずにはいなかった。何う云う風に彼の女へ謝罪す可きか? 何んな風に教員へ弁解す可きか? それとも一層何も云わず、一切を秘密に付し、私丈他の都市へ去るのが、皆を幸福にする唯一の手段ではないだろうか。
私は出来る丈善い行いをしようとして、然も斯んな恐ろしい罠へ落ち込んで了っている。脳髄は腐敗して了ったように、もう役に立たず、思考力を集注しようとすると、軽い眩暈が起って来る丈であった。
けれど、そのような懊悩は一ケ月位で消散し初めた。そして、私の眼前には時間につれて色々の事件が生起した。ミサ子は約束通り教員と結婚し、悪い父親とは金銭を与えて縁を切った。若い二人は大変睦まじく日を過しているようであったが、何故か急に転居して、住所が不明になった。私はその頃遠慮して教員を訪ねた事もなかったのである。[#底本では、「のでる。」の誤り]
転居と同時に、ミサ子の行衛が不明になった事、誰かが、何処かの停車場で、彼の女を見掛けた事、彼の女は汽車の中に眠っていて、下車す可き駅を乗り越していた事、なぞが噂された。私は淋しい悔恨の生活を続けつつ、それらの話に可成りな注意を払い、興味以外の同情を以て物を見るように心を落ちつけていたのである。
俄然、もっと大きな破壊が起って来た。
私は考える事が出来ない。けれど、起った事は凡て悲しい事実なのである。
ミサ子は森のある断崖から、何丈か下の砂路へ飛び降りて、自殺を計ったのであった。
彼の女は死に切れないで、病院へ連れて来られた。けれど大きい怪我――諸所の骨が破れたらしい――は、もはや彼の女を三日と此の世に置く事を許さなかった。
教員は何時もの柔和な言葉つきで、彼の女の死ぬ前に一度丈会ってやって呉れと私に嘆願した。
「何故です?」と私は恐怖してたじろいだ。
「今度の事件は少しばかり貴方にも関係があるように思えますし、屹度ミサ子は貴方に会いたがっているに相違ないのです。」之等の言葉の中には一つの怨恨も憤怒も含まれていなかった。それどころか、教員の眼の中には、澄んだ涙が湧き起って来て、私に憐れみを乞うている如くにさえ見えた。私は顫えて彼の肩に靠れ、進まぬ足で病院に向った。それから?
「さ、貴方の待っている人が来たよ。ミサ子!」と教員は悲愁の限りを尽して云った。けれども人事不省に落ちているらしい女性は眼を開く事が出来なかった。之は何たる急激な変化であろう。
教員は深い嘆息と共に、私の方を顧み、そして世にも哀れな面持で、語り継ぐのであった。
「聞いて下さい。おお、見て下さい。この凄じい痩せ方を! 家を出る時、たった一円八十銭しか持って居なかったミサ子は、それを全部出して、汽車の切符を買って了ったのです。何故汽車へ乗ったか? 何処かへ逃げる積りだったのか? そうではない。唯進退谷って、もう行き場がなくなったのです。世界は斯んなに広いのに……罪と痛みに追われる者は、その中に安心して住む所を見出し得ないのです。可哀相なミサ子! お前は何処か遠い停車場迄用もないのに乗り越しをして了った。それから、きっと歩いて息を切って、再び此の街へ帰って来たのだ。お前はそんなに無駄な骨折をしながら、迷って泣き暮したのだ。きっと野原や知らぬ家の物置やに眠らねばならなかったろう。ああ誰れが云うか――野原に寝る少女は不良だと! いや、その少女を野に眠らせるようにする私達の方が……私の方が……何んなに不良だろうか! 見てやって下さい。見て……。僅かな日の中に、ミサ子は斯んなに痩せ細って、年を取って了った。悩みで痩せ、それから断食で細ったのだ。何処かの泉で飲んだ水は、皆涙になって了ったんだ。斯んなに眉毛が取れて了って、そして、恐しい事に、髪の毛があんなに抜けて落ちる。
断食……ミサ子は態と食べずに居たに相違ない。死のうと思って断食し、死のうと思って歩き廻ったのです。そんな悲惨な事があって好いものだろうか? 然も、此処にある。此処に厳として存在する之は何ですか?
私は何うすれば好い? ミサ子は私の家へ来るより、残酷な父の許にあった方が幸いだった。父の家にいるよりも、あの小鳥屋の店にいた方が仕合せだった。取り返しのつかない事ですが、私は番いの紅雀を斯うして病室へ運んで来ました。来るには来た! だがもう見て呉れる眼が閉されて了っている。」
気が附かずに居たが、窓際には小鳥の籠がかけてあったようである。ハッキリは分らぬが、何でも、あの小鳥の鳴き声――節の終りの所で、物問う様に、調子を上げるその声が、恰度、悲愁を持った懺悔の聖歌の如く、私の耳へ幽かに入って来るようであった。
だが、その事ではない。鳥の声なぞは何でもない。私は、もう言葉が出ない。何んな風に云い表わそう。戦慄なぞと云う文字さえ、一つの弱々しい遊戯としか感ぜられぬではないか。恐怖、驚愕、そんな文字が何か? 私の心持の何十分の一が、それに依って伝えられよう。
駄目である! 私は歯痒くてならない。
聴き手よ。貴下は竜巻を見た覚えがあるか? 黒い煤のような雲が、地面の直ぐ上に迄降りて来て、砂が一本の筒のように上へ吸い上げられ、其処に迷っていた幼児が帯を持ち上げられたように、空中へ飛ぶ様を見なかったか? 或いは大きな塔が割れて、その裂け目から、青と赤との焔が出る所を見なかったか? 或いは、そうだ! 重い馬力車に老いた女が轢き殺されて、貴方の眼前で血を鼻と眼とから流し乍ら、見る間に生から死へと急転する顔面の凄じい色を目撃した覚えはないか?
そんな時の恐怖や驚愕や戦慄に数倍した渦乱のような激動を、私は身体の凡てで感じたのであった。
何と云う凄惨な有様。そして、之が私と密接な関係を結んでいる。それが恐ろしくなくて好いであろうか!
床の上へ落ちている毛の一本さえが、私の爛れた心を針のように刺す。そして、何万本と云う髪の毛が――全く光沢を失って、ミイラのそれのように、べッドから垂れ下っている。私は血が凍り、唇や鼻や眼の球が冷たくなって行くのを感じた。
「ミサ子さん!」私は思い切って絞り出すような声をして彼の女を呼んだ。ああ、実にその時、その瞬間、ミサ子の眼は静かに開かれ、そして私の方へと柔和な視線が流れた。それは見る間に、物凄い絶望の色を示したと思うと、又静かな物柔かさに戻って行った。此の微細な雲行!
おお、彼の女はその時、笑った、笑ったのである。微笑んだのである。奇蹟のように、神秘に、不思議に意味深く、淋しく、柔しく、純真に、後悔しているように(そして何よりも明かな證明だ。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]深く深く私を愛しているように……
「ミサ子さん!」私はよろめいて彼の女の方へ進んで行ったが、又厳粛な心に釘付けされて、その儘真直ぐに立ちすくんだ。
軈て静かな微笑は消えて行く煙のように、彼の女の痛ましい顔面の上を去った。再び眼は閉じられ、苦し相に顎を動かしてする呼吸のみが聞き取れた。
「可愛想に、貴方の声を好く覚えて居て、あんなに柔しく微笑んだのです。」教員は手を顔に当てて我慢しきれない泣き声を圧えた。「之で、もう直き死が来るでしょう、安心して死ねるでしょう。」
「許して下さい。」と私は顫えて彼の女に縋ろうとし、又教員に寄り附こうとした。けれど私の足は堅く釘附けにされ、私の腕は縛られているように動かなくなった。
それから何うして、其処を逃れ出したのか、私はもう語る事が出来ない。唯明白なのは私が駈けて、そしてあの断崖の近くへ迄行きついた事実丈である。私は風で揺れ廻る長い草の中に身をひれ伏し、雲が低く動く空へ声を放って泣いた。心は狂い、苦しみ、鞭打たれた。眼は何か黒い流れや斑紋を幻覚し、あらゆる血管を後悔の蛆が游ぐのを知覚した。
微笑! それが恐ろしいのである。何んな怒りの形相が私をそんなに迄身顫いさせ得るだろうか? 誠実な微笑! 私の体は痛み、私の身は皮を剥がれた蛇のように藻掻いている。その微笑! 一番純真なものが、私の汚れた行為に対して報いられている。ああ、その一瞬の微笑に一生の生命が賭けられている。そんなにも価値の重い深遠な荘重な戒めが何処に又とあろうか。
「私は後悔しています。けれど心の底から貴方を愛しています。」と語りそうな微笑! 私は今後何うしてそれに報いる事が出来るであろう。いや、何も考えられない。そしてもう何も出来ない。彼の女は最早死んでいるではないか? 私は何かしようとして動いている。けれど、一切はもう遅れている。晩過ぎる、それ丈が漸く分るのだ。
私は風に揺れる草の中に転んで何者かに許しを乞うた。皮を剥がれた罪深い蛇のように、自分の浅間しい体に驚いては、天に向って悲愁と痛恨の叫びを投げた。ああ眼球を繰り抜いて投げだしても間に合わないではないか。
「微笑! 許して呉れ。ミサ子の霊よ。ミサ子の口元よ。許して呉れ。まざまざと眼に見えて来る。私の脳髄に彫附けられたその微笑! 一番優しいものの恐ろしさ!」
けれども声は甲斐なく消え、風は凪ぎ、そして、あの闇、始終その中で私が悪事を働いたあの闇が、私の火傷したように脹れた肉体と精神の上へ蔽いかぶさるのであった。それは実に並ならぬ、世の常ならぬ暗さであった。
(退職教員の付記)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
哀れなセルロイド職工の手記は此処で終って了っている。
けれど私は何う説明したら好いのであろう――事件は複雑で、その上に私の心は鎮まって呉れない。自分丈にはスッカリと分っている事が、いざ説明し、弁明し、闡明しようとすると、皆漠然として了い、もう物語の端緒が見附からなくなる。私は長い時間かからねば話し尽せない事件を、まるで絵図のように一度に展開したいので、却って混乱へと落ちるのである。
何故、ミサ子は死なねばならなかったのか? 之が一番初めの、そして一番六ケ敷い問題である。人が他人の心を悉く知る事の出来ない限り、此の問題に正確な解釈を下そうとするのが既に誤謬の初めではなかろうか?
けれど、黙ってはいられないのだ。もうミサ子は死んでいる。彼の女の口の代りに、誰かが正当な弁明をしてやらねばならない。それは何より明かな事である。
彼の女の死に場所は我々が王冠の森と呼ぶ木立のある断崖であった事を人々は記憶しているであろう。其処で今度は何故彼の女があんな不都合な場所を選んだかと問うて見ねばならない。実を云うと、私は未だ新しい悲愁に眼を蔽われていて、考える力、理性を適当に働かす力を恢復してはいないのだが、それでも、夢の中であった事を思い出すように仄かな幽かな――云わばまるで暗示のような解答を捕える事が出来る。
彼の女に取って、あの断崖は懐かしい思い出の場所であり、恐ろしい罪を想起させる刑場でもあったらしい。そして、私は確かに二度迄も彼の女の口から洩れかかる懺悔の言葉によって、それを直覚していたのであった。それ丈は今斯うしていて、思い出し得る間違いのない記憶である。いや何たる忌わしい記憶であろう。
それから何うしたか? 語る可きもっと重要な事はないのか? あり過ぎる。それで困っているのである。私はもっと前の、もっと古い記憶から辿り直さねばいけないのだ。いや、説明の出来ない沢山の事が、語るのがつらい色々の事が、何うしてそんなに私の心の中に蠢動するのであろう。
事の初めは何であったか? 私の母とミサ子との気持ちが合わなかったのを先ず思い出せ。それである。原因と名附けられるのは確かにそれであろうか? いや、之は大きい原因ではない。けれど斯んな工合であった――即ち、ミサ子と私の母とは大きい喧嘩をしたのだ。いや、そうではない。その事にも既に原因があった。私よ、驚くな。皆云って了う。私はミサ子と結婚する以前に、彼の女を妻のようにもてなした覚えは確かにない。断言する。それから彼の女が櫛を盗んだ時、彼の女は我々の知らない特別の週間の中に居たのである。だのに、何うしたのか。それを云うのがつらいのである。彼の女は私と四ケ月同棲した時、妊娠六ケ月位になっていたではないか! 之が潔癖な昔堅気な、そして士族の娘であった私の母を此の上もなく不快にし、喧嘩の素を造ったのである。元より、私は三つ許した次手に、四つでも五つでもミサ子の過失を許そうと心掛けていたのであるが、母はもう到頭我慢がし切れなくなり、自分から自分に敗けて怒りを発して了ったのである。
「お前……」と母は私を蔭へ呼んで尋ねた、「お前、結婚前にも、その覚えがあるのですか?」辛い質問! そして痛い思い出が此処から初まる!
ああ、私は何と云う機智と奇才のない鈍物であったろう。「いいえ、」と云う正直な答えより他には、一寸好い思い附きもなかったのである。私が悪い、もうそれに相違ない。ミサ子を許そうと心掛けているなら、何故、あらゆる点に心を細かく働かして、許すための計らいをするように努力出来ないのか? 私は自分を叱り、自分を噛み破っているのだ。
俄然、ミサ子は家出して了った。それも夜中にである。勿論彼の女は私の室に臥なかった。私は十二時頃一度目覚めて、泣いている彼の女を台所迄呼びに行った。すると驚いた事に、彼の女はそこの板の間に自分丈の布団を布いて臥ていたのである。顔は蒼白になり、息づかいが荒く、何か強い苦痛を耐えているように、額へ水を浴びたと思われる程汗をかいているのであった。おお私はもう此の先を話せない。
「畳の方へお行き、私は何とも思ってはいないよ。母の事は許して呉れてね、さあ、冷えない方へ……」やっと私は囁いたのである。
「私を女中以上に取扱ってはいけません……ああ身分が違う……私は悪い所から出て来た女です……」彼の女は悲しさで歯を喰いしばり、漸くに之丈を口走って眼を閉じて了った。
「その儘で沢山だ! 構わないが好い!」他の室で、未だ覚めていたらしい母が口を入れた。私は母親に大変な孝行な質――自分で云うのは可笑しいが、何んな曲った事でも母の命令なら従うように生れついた男――であった。それも、此の場合では大きな過誤の一つとなったのである。そして私は私の心を噛んでいるのだ。
私は労れ切って、悪い夢の中に一夜を明した。次の朝、母より先へ眼を覚ますと、私はミサ子の代りに戸を明けてやった。明るく流れ込んだ光線は一切を明白に指し示した。ああミサ子はもう私の家の私の妻ではなかったのである。
母は幾らか後悔しつつ、尚怒りを止めなかった。「何処迄人に世話をかけるのだ。もう捨てて置くが好い! あれはお前、不良な少女だよ。改心と懺悔を売物にし、家出をおどかしに使う、そんな少女なんだよ。」
それから母は大変不安な焦躁を示しつつ殆ど狂的――そんな例を私は未だ私の母に於いて見た覚えがない――と思われる迄、身を取り乱して、大きい小さい荷物を片附け出したのである。それは何のためか私の解釈に苦しむ所であった。母は斯んな忌わしい方角の家は捨てて、新しい幸福な所へ住み替え、悪い思い出を一切打ち消したいと丈語るのであった。私は何も分らずに、其の命令を受け入れねばならなかった。庭に植えてある色々の草花を鉢へ移したり、ミサ子の下駄を取り上げて見たりして、私はいくらでも尽きずに出て来る悲しみを泣く事が出来た。
警察の方へは早速ミサ子の捜索願いを出した。
移転をしてから十五日目――ああ何と云う空漠とした、然も紛乱した心持の十五日であったろう――が過ぎた時である。警察官が突然私を訪ねて来た。
「おおミサ子は何処に居りましたか?」私は恋しい女性の居所を知る事さえ、いやその歩いた道を知る事さえ、胸の裂けそうな喜びであった。
「いや、その事ではないのです。実は伺いたい点があるのです。そのミサ子と云う方――即ち貴方の妻――は妊娠して居ったでしょうな。」
「はい、現在妊娠しているのです。」
「実は申し上げにくいが、以前貴方の棲んで居た家の縁の下にですね、女の――若い女の衣服で包んだ、胎児の屍体が隠してあって、それが匂い出した為め、近所の大騒ぎになっているんです。」
おお、之が本統の事であろうか? ミサ子は家出したのである……家出……家出と犯罪……そして転居……転居と犯罪……警察官の嫌疑は当然であった。
ミサ子はその行衛を見附けられなかった。そして、彼の女が居たと叫ばれた時には、もう元通りの彼の女ではなかったであろう。何んなに私の記憶が乱れようと、それ丈は確かな事である。
彼の女は横って居た。彼の女は骨を砕いていた。そして、そして何か? そして、もう妊娠もしていなかったのである。この事が死の重大な原因であったのか? 何? いや原因ではない。寧ろ結果と云うベきであろう。実に、実に悲しむ可く痛ましい結果。結果として表われた事実なのではないか。
「お母さん。貴方は知っていたんですか。」私は斯う尋ねて眼を閉じた。
「知らない。知らない。この事はすべて秘密だらけです……第一、全体、それは誰の子なのです?」
私は息が詰まった。誰の子? 神よ、貴方は私に子を授けて下さった。それだのに、私はそれを受け取れなかった。何故か? 一寸した行きがかり――一寸した不注意――一寸した愛の不足! ああそれは原因でもあり、結果でもあるのだ。
下さるものを拒んだのが間違いの原因であった。いや原因はもっと前にある。之は寧ろもう結果に近い一つの過失ではなかったか?
私は明晰には考えられない。何故なら……いや何故ならではない。之は何かしらあのセルロイド職工に、又あの断崖に関係していたに相違ない。私が悲しい足取りで、あの職工を呼びに行き、彼にミサ子の死に際を見せてやり、又ミサ子の霊へ一つの重要なそして最後の思い出を土産として持たせてやったのも、実に、私がそんなに漠然とした関係を直覚したからであった。
私は何うしよう。又分らなくなっている。ミサ子は私を恨めし相に睨めた。
そしてセルロイド職工を微笑みを以て眺めた。そして誰れが彼の女を殺したのであろう。
一体之は何であり、何の結果であるか?
私は義侠心から彼の女を愛したと思われている。そしてあの職工は唯淋しさから、或いは戯れに類する嫉妬から彼の女を愛したと思われている。そしてその内何方が正しいか? いや、正しくなくとも、何方が正しさに近いか? 分りはしない。唯ミサ子の心は何かしら独自のそして特殊の判断を下していた。いや判断ではない。思慮ではない。生れつきの本能――生れる前からの縁……それに依って彼の女はセルロイド職工を選んだ。縁は合っていたのか? 子が神から授けられた。彼の女はあの青年を心の底から愛していた。それにも拘らず彼の女は私の妻であり、姑女の怒りを我慢する嫁であった。子供は育って行った。遠慮なく育って行った。縁、あの青年とあの少女には縁が……深い縁が定められていたようではないか? ああ皆之が死の原因である。いや、むしろ、結果、色々の事の結果、そして死の前提であった。
私は一時に思い出す。そして一度に悲しみがこみ上げる。私の親切の不足――一寸した心の労れ、――実に一夜の間丈に過ぎぬ愛情のゆるみ――その痛い思い出が私を責めさいなんで、夜も私を眠らせて呉れない。そして、ミサ子の幻は何度も現れて、その職工を許してやれ、彼の女が許している如く一緒に許してやって呉れ、彼の女を愛する代りに彼を愛してやって呉れ、と訴えるのである。それはもう本統である。
私の生活が斯んなに破壊されても、それを怨むのは喜ばしい事ではないのであろう。ミサ子の幻は私に正当な処世法を教えているのが確実である。幻の教訓……それは既に紛乱の元である。私の友達は鞭を持って来て、あの職工を打とうとしている。けれど、鞭の音はそもそも何を意味するか?
懲罰?……懲罰ならば痛みを以てしてはいけない。
訓戒?……訓戒ならば痣を造る必要はない。
復讐?……復讐ならば――いや復讐でも、やはりもっと柔しくしてやらねばいけない。復讐を復讐でないものに変化させ、羽化させねばならない。毛虫は美しい蝶とならねばならない。之が昔からの言葉である。
ああ私は之から何うして生きて行く積りであろう。それは分らないが、鞭丈は何処かへ捨てて了う可きである。手ブラで歩いて行け。それ丈が兎に角分って来ている。
それから未だ考える可き重要な点が残っている。何んなにしても、あの職工を、もっと善良な方へ歩かしてやりたい事、その為には何んなに困難な施設をも怠ってはならぬと云う事である。
早く絶望し易い人はもう断言し宣伝している。あんな根からの悪人の改良を無駄に続けるよりも新マルサス主義にでも改宗して了え! と。
それも一理であろう。けれど我々の勇気と知見をためす為めに、もう一つの積極的な道が開けているのを何故見ないか?
我々は立って、そして叫ぶ。
何を絶望するのか。我々の仕事は無駄ではない。唯眼に見えて効果が顕れない丈で、少しずつ潜在的な力が出来て来ているのである。諸君は雨だれを観察した事があるか。私は知っている。あの雨だれを見て貰いたい。それは立派な透明な球の粒である。全くそれに相違ない。そして地へ向って走る前に、生命あるものの如く顫え出す。其れが走る力の養成される有様である。それは走る運動そのものではないが、然もそれに持続した力である。進行の前の足踏みである。顕著な運動ではないが、非常に重要な力の養成である。
諸君は如何に思うか。我々の運動が顕著でない時が、即ち我々の力を養成する好機である。効果が目に見えないでも、之は重要な一つの過程である。当にせねばならぬ行為である。
強盗が六人の人を殺し、悪い親が幼児を鉄槌でなぐり殺しても、悪い女が継子を天井から縛って吊し、その下で、もう一人の貰い子へ焼火箸を当てて、肉の煙りを立たせても、サディズムの男が女の指を切って食べ、学生が親友をバットで打ちころし、兄妹が通じて畸形児を出来したと云うような事件の傍らにあっても、我々は一生懸命に我々の顕著でない仕事に努力しよう。真心と智慧とを一に合せ、何よりも倦む事を恐れつつ進んで行こう。
不正な権威や腐敗せる社会へ反抗するための憎悪心――それは立派な徳の一つであり、現代に於いては極めて重要な感情の一つである。そして涙だらけな萎縮的な所謂「善」がこの種の憎悪心の行使に対して一つの阻害となる事も確かである。
然し、憎悪心の行使がその方向を過《あやま》る時、我れ我れは其処に初めて、恐る可き破綻を見るのである。職工とミサ子との場合は全くその好適例であろう。
それ故、憎悪心を何のように使い分け、何のように按配するかと云う事は、現代人に課せられた最も重要なそして最も困難な問題である。
だが此処には何がある? 今の私は余りに強い紛乱の中に落ちていて何も分らない。唯だ予想する。必ず未来に於いて、再び道は開けるであろう。忍耐せよ。何故にとは問うな。唯真直ぐに信じ、熱心に忍耐を実行して行くのである。そして此の事が私を勇気づける唯一の力となるに相違ない。斯んなに迄忍耐するからには、何か人間の理性の中に、きっと善いものが秘んでいるのだ。それを堅く予期せよ。外部に疑いが起ったら、眼を閉じて内部を見よ。
一通り悲しみが過ぎたら、必ず又直ぐに私自身を創造する、そして善と正義の名誉のために働く力が湧き上るであろう。斯くて今迄よりも一層多く哀れな人を劬《いたわ》り、又出来る丈は慰籍を与えたいと云う嬉しい希望で心が一杯になるであろう。私は私の心を見詰め、そして命ずる――
一般の者を高い程度に導けよ。そして悪者達を除外するな。否一層彼等の為めに力をつくせ。それが私達の肉と霊の課業である。
願わくば此の大きい社会をして、自由な朋友の美しい会館たらしめよ。それ自身に於いて会議場であらしめよ。何の宗旨にも頼らぬ神殿であり、寺院であらしめよ。さらにそれ自身に於いて有益な学校であらしめよ。
之で宜敷い! 凡ては語られたのである。だが其れは無秩序な舌、戸惑うた記憶力、紛乱せる思考力を以てである。ああ何が語られたと云うのか? 私は未だ何も語らない気がするではないか! 唯錯倒と紛乱とが叫ばれたに過ぎない――そして此の錯倒と紛乱の中心をなすものは「私が彼の女を殺した。斯くも陰惨な外囲の中で、殊に美しく愛らしかった私の妻を殺した……」と云う浅間しい観念である。私は何うしよう。之から何うして暮して行こう。凡ての騒がしい事件は過ぎた。時間が私の熱い血を冷しつつある。今にもっと本統の事が分って来る。そして本統に静かな悲しみが目醒めて来るのもその時であろう。
(昭和三年)
底本:「現代文学の発見 第一巻」学芸書林
1968(昭和43)年発行
入力:山根鋭二
校正:野口英司
1999年3月9日公開
2000年12月8日修正
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