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文學的自叙傳
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)風流紀行《センチメンタル・ジヤアネイ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11]
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父親からの迎へが來次第、アメリカへ渡るといふ覺悟を持たせられてゐて、私は小學校へ入る前後からカトリツク教會のケラアといふ先生に日常會話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは隨分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教會にあるやうな立派な燭臺やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電燈が點いて間もない頃だつたが祖父は電氣を怕がつて、行燈の傍らで獨酌しながら私達の合奏を聽き、醉が回つて來る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな聲で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの彈奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖國思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡單な意見を交換した。大體私が通譯官であつた。――私の父親は中學の課程からボストンに生活し、學生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U.S.N.Stuckton なる水雷艇に乘つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乘つてゐる軍艦や汽船が横濱に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で國府津に出て汽車に乘つた。その度毎に私は父からの屆物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雜誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫畫などを笑ひながら讀めるやうになつてゐた。然し渡航する機會もなく、祖父が歿くなつて、私が中學に入つた年に、父親は第一回の歸國をした。ところが私は、はじめて見る父親を何故か無性にバツを惡がつて一向口も利かうとしなかつた。とても今更空々しくつて、お父さん――などと呼びかけるのは想つても水を浴びるやうであつた、[#読点はママ]彼は、つまらぬつまらぬと滾して國府津の海岸寄りの方へ別居した。(述べ遲れたが、私の生地は神奈川縣小田原町である。)國府津町はその頃村で、東海道線に乘るためには電車で國府津へ向はなければならなかつた。自轉車に乘つて父のところへ遊びに行くと、いつもアメリカ人の友達が滯在してゐた。で私もそれらの家族伴れなどの人達に交つて、ピクニツクに加はつたり、凧をあげて見せたりするうちに、彼等と一緒になつて彼等の習慣の中であると、自然に父親とも親しめるやうになり、父と子は相對する場合でない限り、英語で口を利いた。私は、小學でも中學でも凡ゆる學科のうちで綴り方と作文が何よりも不得意で、幾度も〇點をとり、旅先などから母親にでも手紙が書き憎くかつたのであるが(母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一文章が恰で成つて居らず、加けに無禮な調子であると訂正されるうちに、作文でも手紙でも私は、眞に考へたことや感じたことは、そのまま書くべきものではなく、左ういふことは餘程六ヶ敷い言葉を用ひて書くべきだ、左ういふ窮屈を忍んで、決りきつたやうな眞面目さうな、嚴しさうな、そして思ひも寄らぬ大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬのかと考へると、文字が亦、これはまた言語同斷といふ程拙劣であつて私は途方に暮れた。親戚などに父の代理として時候見舞などを書かされる場合に、母が傍で視張つてゐるのであるが、私には何うしても、末筆ながら御一同樣へも何卒宜しく御鳳聲の程を――などとは書けぬのであつた。)――父との左ういふ習慣がすゝむと、私は決してそんな冷汗を覺えることもなく、自由となり、未だ父を見なかつた頃からケラア先生に教つてゐたので書き慣れてもゐたのであるが、ちよつとした旅先からなどでも氣輕に、親愛ナル父上ヘとも、汝ノ從順ナル息子ヨリとも書けたし、お早ウ、父サン――などと、彼の友達が居る場合なら呼びかけることも出來た。私は父親の書架に旅行記の類ひばかりが充ちてゐるのを見て、そんなものばかりを耽讀するので家に落着かぬのかと思つた。そして私に、はじめてすすめた本はガリバア旅行記であつたが、私はほんの少し讀んだだけで何故か憂鬱になつて止めた。その書架にどんな本が竝んでゐたか殆ど記憶にないが、ローレンス・スターンの風流紀行《センチメンタル・ジヤアネイ》といふのが酷く手垢に汚れてゐたのを、わづかに思ひ出すことが出來る。――中學を終る頃になると、そこに來る同年輩のアメリカ人の娘と私は盛んなる手紙のやりとりをするやうになつて、時には、君コソハ僕ノ永遠ノ女王デアリ、僕ハ君ノ最モ忠實ナル下僕デアル――となど、全くその通りの氣持で書き、また、斯ンナ月ノ美シイ晩ニ君ト腕ヲ組ンデ、斯ンナ靜カナ海邊ヲ歩イテヰルト、僕ノ魂ハ恍惚ノ彼方ニ飛ビ去リ、嬉シキ涙ガ滾レサウニナル、コレハ僕ニトツテ生涯ノ最モ美シキ思出トナルデアロウ――と、それも全くその通りの感銘を持つて喋舌つた。
ところが私は(記述は前後するが)その後結婚の以前に三度もの戀愛を經驗したが、手紙は恰で駄目で、どんな類ひの手紙を貫つても[#「貫つても」はママ]容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが讀み返すといつも全身が砥石にかかつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つた。會つてもつい默り勝ちで、思はず欠伸をするやうなことになつたり、眞面目なことを云はなければならない場合に、つい空呆けて横を向いたりするやうな始末で、皆な失戀に終つた。どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、戀しき君よ……などとは書けず、また徹底的に眞面目さうな表情で、屹度結婚しようネ――などとささやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘に示した態度や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて驅使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われわれの言葉や文字は、尊嚴に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに變つた。
中學の四年頃(記述は前に戻るが)パジエツトといふ若い英語の先生と懇意になり、つい話しかけられると問はるるままに答へてゐた。英語の科目は凡て、終始滿點であつたが、それは當然のはなしで寧ろ濟まなく考へてゐた。何の先生とも個人的な口を利くことは絶對に嫌ひなものであつたが、パジエツトさんの場合は全く止むを得なかつたにも關はらず、いつか、毛唐となど得意さうに話して、あいつは生意氣だといふ評判が立つてしまつた。凡そ私は得意でなどはなかつたのであるが、家に戻ると娘を案内して(その時分はあんな手紙を書きもせず、特に恥しいといふことも知らぬ程度で)自轉車を竝べながらあちこちの風物などを説明しまはるのであるが、娘が呉れるネクタイを結ばなければ惡いやうな氣がして、制服を着換へてゐたのを、學生監に見つかつて停學處分を享けた。生意氣と見られれば途方もなく生意氣に相違なかつたらうが、終ひには墮落呼はりをされるに至つては私も餘程憂鬱にならずには居られなかつた。そして、學期末になると、體操の點が戍[#「戍」はママ]といふ最下等であつた。開校以來の出來事だ左うであつた。作文の丁は默頭けるのだが、さすがに體操の落第點といふのは、努力の仕樣もなく、途方に暮れるうちに、私は益々それが馬鹿々々しくなつて、號令をかけるのさへ嫌ひになつた。體操の教師は二人ゐたがTさんといふ錐のやうな眼の休職曹長が非常に私を憎んだ。どういふ意味か知らないがT先生はジヤツコラといふ綽名で、箱のやうな感じで、歩調の試驗だなどといふと、私ばかりを大勢の前に引き出して、やれ踵が二秒早く降り過ぎたの、脛がもう何ミリ前へ伸びぬからとかと飽くまでも難癖をつけて、他の者の十倍も長く歩かせるのだが、そんなにされれば益々氣持が上つてしまつて、思はずフラフラすると先生は堪らぬ罵聲を擧げて鞭を鳴らした。そして、これを見よと叫んで、自分の歩調の模範を示すのであるが、私には決してその差別が見わけ難かつた。私は、これほど人に憎まれた經驗を未だに比ぶべきものを知らない。――私は終ひにこれは何うも自然に任せるより他はないと觀念して、徒手體操の時になつても、決して力が入らぬやうな動作になつてしまつた。前腕ヲ平ラニ動カセ、オイツ! とか、首ヲ前後左右ニ曲ゲ――など割れるやうな號令の許に、あはや顎のかけがねが脱れんばかりな仁王のやうな大きな口をあけて、オイチ、二ツ、などと絶叫しながら、腕を力一杯に折つたり曲げたり、首などは石ころのやうに亂暴にあつちへ向けたりこつちへ曲げ倒したりして、その勢ひの最も獰猛なやつが甲上だなどといふT先生の訓練法に、私は自づと逆はずには居られなくなつた。先生は私の體操振りを目して、クラゲのやうだとか醉拂の態だとかと憤つて、腕が拔ける程引つ張つたり、首根つこを掴んで振り回したりしたが、責められれば責められる程否應なく私の動作は手應へもなく亡靈と化した。今にして思へば、私のあれらの體操振りは寧ろ現代的なる方法を髣髴する概があつたと思はれるのだ。今では何處の學校や海兵團の體操を見たつて、あんな馬鹿臭いのはありはしない。あんな體操なぞは凡そ肉體に不自然なる激動を與へるのみで終ひには精神作用までをも最も偏頗なる小局に乾干びさせてしまふ位のものである。個性と自然との純一を貴んでこそはぢめて心身のトレイニングに役立つべきで、今や朝《あした》の霞を衝いて津々浦々までも鳴り渡るあの明朗至極なるラヂオ體操を見ても明らかの如く、正にあのやうなる悠かな窈窕味をもつて大氣に飽和し、自づと濶達なる人生の大呼吸を體得すべきが當然の所以は、かの偉大なるルツソオも既に「エミール」の中で縷々と述べて居り、更に世紀文明の太初に遡つては夙に大ソクラテス竝びに大プレトーンが全生命を傾注したる諧謔法を選んで永遠に若々しく呼號してゐる通りである。不幸なる私は、あの中學の體操に依つて犯罪妄想の如き心悸亢進の胚種を植ゑつけられた。兎角、肩肘張らしたる度偉い掛聲は人生を暗澹とさせるより他に効果はない。そこで私は或日思ひあまつて、あの體操に關する疑惑をパジエツト先生に訴へると、眞の日本流はあんな筈ではないであらう、またスパルタ流と雖もその趣きを異にするものだと私に同意せられ、君は明日にも、眞の自由と、誠なる個性を尊重する校風の、都の學園を索めて轉校すべきが當然だ――とすすめたが、私が轉校もしないうちに先生は京都の大學へ移られた。先生はエール大學のドクトル・オヴ・フイロソフイで、文藝にも餘程の理解を持つて居られたらしかつた。後にも私との手紙の往復は續いて、私が又作文丁をとつたことなどを知らせると、君は未だ作文に於ける Herald system を知らないまでだ、自分に呉れる手紙を見ると、いつも大層奇拔なるロマンテイツク・スピリツトに富んでゐて詩人の素質が十分だ、いつそ手紙を書く通りに自由に書き、それを和譯する方法をとつて見たら如何か、と注意されたので早速私は、よしツ! と胸を叩いて、その方法にとりかかつて見たが、和譯した文章を眺めると、拷問にかけられても他人の前には提出も敵はぬ幼稚沁みたものに見え、私は腕をこまねいてとつおいつなる長太息を洩らさずには居られなかつた。
斯くの如く體操と作文の爲に最も救ひなき憂鬱《ユーマー》を味はされた中學を終へると、私は一高の理科へ入學するつもりで、本郷に居た醫學士の叔父のところへ來た。あの二科目さへ除けば別に好惡もなく、何んな入學試驗問題集を見ても六ヶしいと思はれるほどのこともなく何の不安もなかつたので、麹町の二松學舍へ通つて作文問題の用意のために改めて漢文と國文に身を入れようとした。ところが試驗場へ行き、あまり大勢の學生が青ざめてゐるのを目撃すると、一人でも餘分に入學させてやりたいと云はんばかりの凡そ意味もない覇氣見たいなものに驅られて、そのまま方角も知らなかつた早稻田へ人力車を走らせた。パジエツト先生にはあんなことを云はれたが文學的野心は抱いた驗しもなく、讀んだものと云へば押川春浪の「武侠世界」だけだつたので、思はず瞬間的にそんな大それた感情に驅られたのだつたかも知れない。英文科を選んだといふのは、單に自分の英語の習慣に媚を呈したに過ぎなかつた。手續(無試驗)を濟ませて、鶴卷町通りの高島屋支店といふ洋服屋に寄ると、頭髮を綺麗にわけた神經質さうな鋭い眼で、温厚さうな小柄の主人が、何科だと訊ねるので、Lだと答ると、早速ノートを持出して來て自作の詩を朗讀し、感想を聞せて呉れと云つた。その詩は記憶にないが、妙に私はこの時の印象がはつきりしてゐるので記述しておくのだが、おそらく文科生としての文學談を聞いた第一歩だつたからであらう。――彼は私が默つてゐると、珍らしい謙遜家だネと好意を示し、君は何を書く? と云ふのであつた。事實の通り皆無と答へると彼は信ぜず「あてて見ませうか、ドラマでせう。」と云つた。そして彼が自由劇場の話などを持出したところ、私は二年位ゐ前からアメリカ娘を案内して大分芝居を觀てゐたので多少の受應へが出來ると、いつの間にか彼は獨りで默頭いて、これから先輩を紹介しようと云つて早速案内した。私も何故ともなしに悦んだのである。文科の三年生で本郷素行といふ方だつたのを私は覺えてゐる。本郷氏は書物に滿ちた下宿の一室で腕まくりで論文作成に沒頭してゐた。五分刈頭の學者肌の人柄で、高島屋が、牧野さんはドラマテイストだと紹介すると、本郷氏は凝つと私の顏を見て鷹揚にうなづいた。私は、いいえとか、未だそんな……とかと口のうちで呟いてゐたが、主人と先輩は頻りともうイプセンに就いて語り合つてゐた。私は無論默つて坐つてゐるのだが、凡そそれまでに感じたこともないパジエツト先生の所謂眞の自由と誠なる個性の尊重ともいふべき雰圍氣を事實に觀る想ひがして、何といふことなしに文科生たるの歡びを感じたのを未だに忘れられない。何故なら私はそれまで、個性とか思想とかに就いて語り合つてゐる人の姿を見た驗しもなく、個性を考へるといふことは丁とか戌[#「戌」はママ]とかに匹敵する惡業のやうに狎らされてゐたので「君の意見はそれはそれとして一廉であり……」とか「意志の自由に於いて……」とか「誰が誰を掣肘出來るものか……」などといふ言葉が悉く絶大なる美しい響きを持つて感ぜられた。要するに、青葉の窓下で純粹な夢を語り合つてゐる二人の人物が物珍らしくプラトニツクに映じたのであらう。私は歸りがけにWのネクタイピンを買つた。
ところが私は何とも迂濶なことには、二三日經つてはじめて學校へ行き、はじめて時間割を見て、思はずアツと驚いた。こゝにも例の體操と作文の科目があつて、出席して見ると、やはり黒板に「故郷に入學を報ずる文」といふやうな題が出て私は一行も書く氣になれず、また體操に出て見ると、氣を付ケ! 番號! などといふ嚴めしい號令がかかつた。そして、その掛聲から恐るべきTさんの錐の目が光つた。Tさんの聯想さへなければそんなに驚かなかつたのであるが、あの歩調の亡靈は飽くまでも私に絡みついて、私の脚はすくんだ。學年末の通知表を見ると作文と體操が、〇點と〇點で落第だつた。學校に入つて初めて口を利いたのは故柏村次郎であり、次にクラス會が大久保の方で開かれた時淺原六朗と知り、間もなく岡田三郎、吉田甲子太郎、下村千秋などに出會つた。英語では中學でこりてゐるので益々臆病になり、何も今はもうそんな必要もないのに、事更に知らぬ振りをして、輪講などといふものの順番があたると、息を殺して決して立ち上らなかつた。「出席を呼んだ時にはたしかに返事があつたのに?」日高先生は屡々首を傾げられた。ところが私たちの中學とは違つて、ミセス・ケイトの會話の時間などには自ら進んで立ちあがり勇敢にまくし立てる學生もあり、中學生のやうに誰も彼を目して生意氣だなどといふ者もないのは私を安心させたが、酷い目に遇つた習慣といふものは因果なもので、私は單なる朗讀の番でも口を開くのが厭だつた。然し強情にそれを固守して、五年も六年も經つうちに、ほんたうに出來なくなつてしまひ、やがては必要上からも斯る手段を講ぜずには居られなかつた。ただ、たつた一遍豫科の二度目の一年の時、ケイト先生の自由英作文といふので滿點を貰ひお前は外國の中學を出たのか? と訊ねられて以來折々廊下でつかまつたが、二年目には先生は商科へ移られて御挨拶の折もなく、その頃は吾家へ歸つても親父はまたヨーロツパへの長い旅へ出て不在であり、碧眼の娘は歸國してミセスになつて居り、私は母や祖母へ金の追加を乞ふ書簡文を書くことがぼつぼつと巧みになつて、市村座の芝居などに現を拔かし、六代目やハリマ屋の聲色をつかつた。本郷にゐた叔父が人形町に開業したので一緒に移り、叔母の從妹にあたる娘と芝居を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11]つてゐたが彼女が嫁いでからは妙に寂しくなつて早稻田の下宿に移ると、益々母への書簡は巧妙となつた。そして、私はその娘に夥しく輕蔑されて失戀するといふやうなことばかりを空想した短篇などを書きはじめた。柏村、岡田、淺原、吉田、下村などと一廉の文科生振つた口を利くやうになつたが、自分の文學的教養を考へると内心大變に不安であつた。非常なるトルストイアンで特待生である吉田は芝居のプログラムばかりが散亂して英語の本など讀みもしないやうな私の机のまはりを苦々しく見廻して、お前は好くそんな態度で生きて居られるな! とほき出し、小六ヶしい英單語を會話の中へ加へて、どうだ解るまいと悸かすのだが、その發音と素振《ジエスチユア》が餘り物々しく技巧的過ぎて解らず、私は英語は嫌ひで出來ないのだから文句の中にそれを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入せずに喋舌つて呉れとをがんだ。嗤はれても當然のことと思つてゐるので反感も覺えなかつたが、兎も角自分も隨分と遲れてゐる文學的教養を付けなければならないと考へても、何から讀んで好いのか、また何んなものが好きやら嫌ひやらも解らず、と云つて今更そんなことを友人に訊くのも間が惡いので、思案の揚句、凡ゆる意味で世界の初めから出發しなければならないと思ひ立ち、眞夜中に坐り直して「太初に言葉あり」と讀みはじめた。これが文學に關心を持ち出してからの太初の讀書で、混沌哲學からソクラテス、プレトーン、アリストテレス、エピクテータス、セネカ、パスカル――そしてシヨペンハウエルとすすんで、稍々夢中の度を増したが、一向文學的の世界へ手懸りを見出す餘裕もなく、讀書に關する話題などは誰の前にも持出せなかつた。そんな間に、それでもぼつぼつと書いてゐた短篇をゲーテ研究の柏村に讀ませて添削して貰つてゐたが、或日彼が、何うも俺よりお前の方が文章が巧い(と聞いた時には私は實に驚いた)やうだから俺の譯した「ヘルマン・ドロテア」を讀んで見て呉れと云ふのであつた。何ういふわけか知らないが俺はお前のものを讀むと可笑しくなつて仕樣がないと彼は腹を抱へて、私が見せたがらないノートのものなども讀み、反つて下書の方が面白いと云つた。笑はれると私は困つて赧くなつた。「ヘルマン・ドロテア」を讀んでから英譯のゲーテ全集を買つた。プレトーン以降の思想が歴然と影響されてゐるのを見て私の胸は異樣に震へた。その頃、小學中學からの仲間であつた鈴木十郎が受驗生だつたのを私が無理に早稻田の文科へすすめた。そして二人は毎日朝から夜中までゆききして喧嘩をしたり、二人雜誌をつくらうなどと興奮しながら、鈴木が私の五倍もの好劇生だつたので、一時休息してゐた芝居が亦私の上にも復活して、やがて二人は入質といふ術まで覺えて切りと遊びまはつたが、鈴木は稍ともすれば私の芝居の觀方その他が野暮だといふことにはじまつて稍ともすると、彼は疊を叩いて非常に憤激して終ひには涙を滾した。私もそれに伴れて震へて悲しんだ。そして夜遲く別れて下宿に歸ると、鈴木に見せる爲の小説を書くのであつた。朝目が醒めると彼は既に私の枕元に坐つて原稿を讀み、「おお」「おお!」と挨拶するのであつたが、その瞬間の彼の表情で私は、前夜自分の書いたものの及落を素早く感ずるやうになり、私が、おお……と云つても彼が憤つとしてゐる氣色であると、階下に顏を洗ひに降りる時脚がカツ氣のやうに重かつた。彼は評論家を念とし、いつの間にか私は、小説の仕事こそ何よりも自分には甲斐があると考へるやうになつたのである。憤つてばかりゐたが、私にはつきりと左ういふ夢を與へて最も苛責なき鞭韃を加へたのは彼が最初であつた。彼は現在、歌舞伎座の支配人になつて居るが、相變らず折々の會見や手紙で、私の脚をカツ氣にさせたり、Scout's pace に走らせたりしてゐる。御存知には違ひなからうがスカウツ・ペースといふのは一哩を十分強で驅るハイキングの術語である。因みに彼との二人雜誌は後に詩と短歌を主にして「金と銀」と題し、半年あまりも續けたが他方面には寄贈しなかつた。いにしへのもののはなしにありときく、黒髮ばかりあやしきはなし――といふのはあの頃の彼の快詠であり、何かの雜誌(?)に吉井勇の選で一等をとり、ゆき暮れて神樂の太鼓早びよう子――といふのは、後にも先にもたつた一つの私の詠草であつたが、それは金と銀にも載せなかつた。
その後柏村は、吉田や長谷川浩三と共に「基調」、岡田は「地平線」、私は卒業の後に淺原と下村にさそはれて「十三人」、鈴木は同級の者達と「象徴」、等の同人雜誌に分れたが、私は一年遲く入つた鈴木との交遊の爲に前後三級に渡つての幾人かの人達と文學を語り興奮を覺えたものの、文學とのはじめのきつかけがああいふ始末であるのが内心氣拙く、時には生意氣さうなことも口にしたが、いつまで經つても他の者の方が悉く先輩に見えて、努めても議論などは出來なかつた。稍ともすれば己れの弱小のみを持つて回すといふ風な野暮つたさが、表現の上に度強くなり勝ちなのは何うやら飽くまでもその出發點の雲行に起因したに相違なかつた。で私は又、日本橋へ戻つて叔父の知合ひの毛織物輸入商のオフイスに寄宿して餘念もなくタイプライターなどを叩いてゐるうちに「十三人」の第二號に、學生時代に書いたもののうちから鈴木に選ばれた「爪」といふ小篇が載つたのを偶然にも未知の島崎藤村先生に御手紙で讃められ「新小説」の新進作家號に紹介された。更にその小説を機會に中戸川吉二を知り、雜誌「人間」へ紹介され、また一、二年置いて「文藝春秋」や「新潮」に掲載される機會を得、それは二十六七歳の頃であつた。「新潮」の「熱海へ」といふのが評判が惡く、もう駄目かと思つてゐたところ、二十九の頃になつて中村武羅夫氏に會ふと、あれを讃めて下さり、非常に意外な氣がしたと同時に、漸く將來に對して迷妄が深かつた折から、グツとする態の感激を覺えた。そして中村氏をはじめ久保田万太郎氏や故葛西善藏氏に多くの鞭韃を與へられながら、兀々と書くうちに善藏氏の紹介で知遇を得た「中央公論」の故瀧田哲太郎氏に認められ激勵の手紙を頂いたり、幾度か御馳走にあづかつたりした。瀧田氏は、ほんのり醉はれると高島屋や吉右衞門の聲色を聽かせて下され、私にも何か演つてと所望されるのであつたが、私は十年前に本郷素行氏の宿を訪れた時のやうに堅くなつて白黒してゐるばかりだつた。
私の文學的自叙傳は、このあたりから書きはじめるべきと思ひ、前述の項は出來得る限り壓縮しようと苦心したのであるが、自發的に目醒めなかつた私の如き場合では、どんな少年時代の一片をとりあげても、自然と文學へ赴くより他に結局道もなかつたかのシルエツトが感ぜられて特に文學的と區切るべき處置に迷ふばかりであつた。あれこれと思ひ惑ふうちには、文章が不得意なる「作文時代」に戻つたかのやうに生氣を失ひ、先輩や友達や肉親から享けた素養と環境に就いて、何處を何う拔摘したならば、この機の、ヘラルド・システムに最も適當すべきか、それには畢竟三十八年幾月かの生涯を最も端的に語るべきと考へるのであるが、その力量を試し損つたのは遺憾である。――ひたすら、刀ヲキ抽テ水を[#「を」はママ]斷レバ水更ニ流レ、杯ヲ擧ゲテ愁ヲ銷サントスレバ愁更ニ愁フともいふべき焦燥にさへ驅られながら、思ひ出の走馬燈は限りもない勢ひで回轉するものの私は途すがら落花に遇つて長く歎息する面持で絶望と陶醉の島を遍歴して來たに過ぎない。
皆な忘れて裸島へ泳ぎつき、私は日に日に漂流者の營みをもつて、あちこちに移り住んだが、わづかな風にさへ私の小屋は忽ち吹き飛んで未だに家も成さない。どうやら私の Indian Slide は運命的でもありさうだが、私は昨日の己れが絶對の姿であるとは考へたくないのである。
落花踏ミ盡シテ何處ヘカ行ク――
つい焦《じ》れつたくなると漢語調の歌をうたふのは、代紋《かへもん》と稱して提燈や傘などにつける紋章に梯子《はしご》の印《しるし》を付け、自烈亭居士と號して狂歌などを詠んだ祖父、そしてインデイアン・システムは父からの影響であるが、今日を限りとして私はそんな文章癖は棄却しなければならない。私はいつも自分の文章を讀み返すと、凡ての過去そのものの如く自烈つたくなるのが常である。
底本:「鬼涙村」復刻版、沖積舎
1990(平成2)年11月5日発行
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
1936(昭和11)年2月25日発行
※底本で「六ケ敷い」「六ケしい」「小六ケしい」と「ケ」となっているところは、すべて「ヶ」に改めました。
※底本では、「※[#「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11]」と「廻」が混在していますが、底本通りにしてあります。
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年11月10日作成
2002年11月26日修正
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