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夢殿
楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日本《にほん》の国《くに》

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(例)三十一|代《だい》

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     一

 むかし日本《にほん》の国《くに》に、はじめて仏《ほとけ》さまのお教《おし》えが、外国《がいこく》から伝《つた》わって来《き》た時分《じぶん》のお話《はなし》でございます。
 第《だい》三十一|代《だい》の天子《てんし》さまを用明天皇《ようめいてんのう》と申《もう》し上《あ》げました。この天皇《てんのう》がまだ皇太子《こうたいし》でおいでになった時分《じぶん》、お妃《きさき》の穴太部《あなとべ》の真人《まひと》の皇女《おうじょ》という方《かた》が、ある晩《ばん》御覧《ごらん》になったお夢《ゆめ》に、体《からだ》じゅうからきらきら金色《こんじき》の光《ひかり》を放《はな》って、なんともいえない貴《とうと》い様子《ようす》をした坊《ぼう》さんが現《あらわ》れて、お妃《きさき》に向《む》かい、
「わたしは人間《にんげん》の苦《くる》しみを救《すく》って、この世《よ》の中を善《よ》くしてやりたいと思《おも》って、はるばる西《にし》の方《ほう》からやって来《き》た者《もの》です。しばらくの間《あいだ》あなたのおなかを借《か》りたいと思《おも》う。」
 といいました。
 お妃《きさき》はびっくりなすって、
「そういう貴《とうと》いお方《かた》が、どうしてわたくしのむさくるしいおなかの中などへお入《はい》りになれましょう。」
 とおっしゃいますと、その坊《ぼう》さんは、
「いや、けっしてその気《き》づかいには及《およ》ばない。」
 と言《い》うが早《はや》いか踊《おど》り上《あ》がって、お妃《きさき》の思《おも》わず開《あ》けた口の中へぽんと跳《と》び込《こ》んでしまったと思《おも》うとお夢《ゆめ》はさめました。
 目《め》がさめて後《のち》お妃《きさき》は、喉《のど》の中に何《なに》か固《かた》くしこるような、玉《たま》でもくくんでいるような、妙《みょう》なお気持《きも》ちでしたが、やがてお身重《みおも》におなりになりました。
 さて翌年《よくねん》の正月元日《しょうがつがんじつ》の朝《あさ》、お妃《きさき》はいつものように御殿《ごてん》の中を歩《ある》きながら、お厩《うまや》の戸口《とぐち》までいらっしゃいますと、にわかにお産気《さんけ》がついて、そこへ安々《やすやす》と美《うつく》しい男《おとこ》の御子《みこ》をお生《う》みおとしになりました。召使《めしつか》いの女官《じょかん》たちは大《おお》さわぎをして、赤《あか》さんの皇子《おうじ》を抱《だ》いて御産屋《おうぶや》へお連《つ》れしますと、御殿《ごてん》の中は急《きゅう》に金色《こんじき》の光《ひかり》でかっと明《あか》るくなりました。そして皇子《おうじ》のお体《からだ》からは、それはそれは不思議《ふしぎ》なかんばしい香《かお》りがぷんぷん立《た》ちました。
 お厩《うまや》の戸《と》の前《まえ》でお生《う》まれになったというので、皇子《おうじ》のお名《な》を厩戸皇子《うまやどのおうじ》と申《もう》し上《あ》げました。後《のち》に皇太子《こうたいし》にお立《た》ちになって、聖徳太子《しょうとくたいし》と申《もう》し上《あ》げるのはこの皇子《おうじ》のことでございます。

     二

 さて太子《たいし》はお生《う》まれになって四月《よつき》めには、もうずんずんお口をお利《き》きになりました。明《あ》くる年《とし》の二|月《がつ》十五|日《にち》は、お釈迦《しゃか》さまのお亡《な》くなりになった御涅槃《ごねはん》の日でしたが、二|歳《さい》になったばかりの太子《たいし》は、かわいらしい両手《りょうて》をお合《あ》わせになり、西《にし》の方《ほう》の空《そら》に向《む》かって、
「南無釈迦仏《なむしゃかぶつ》。」
 とお唱《とな》えになったので、おつきの人たちはみんなびっくりしてしまいました。
 太子《たいし》が六|歳《さい》の時《とき》でした。はじめて朝鮮《ちょうせん》の国《くに》から、仏《ほとけ》さまのお経《きょう》をたくさん献上《けんじょう》してまいりました。するとある日《ひ》太子《たいし》は、天子《てんし》さまのお前《まえ》へ出て、
「外国《がいこく》からお経《きょう》がまいったそうでございます。わたくしに読《よ》ませて頂《いただ》きとうございます。」
 とお申《もう》し上《あ》げになりました。
 天皇《てんのう》はびっくりなすって、
「どうしてお前《まえ》にお経《きょう》が分《わ》かるだろう。」
 とおっしゃいますと、太子《たいし》は、
「わたくしはむかしシナの南岳《なんがく》という山に住《す》んでいて、長年《ながねん》仏《ほとけ》の道《みち》を修行《しゅぎょう》いたしました。こんど日本《にほん》の国《くに》に生《う》まれて来《く》ることになりましたから、むかしの通《とお》りまたお経《きょう》を読《よ》んでみたいと思《おも》います。」
 とお答《こた》えになりました。
 天皇《てんのう》ははじめて、なるほど太子《たいし》はそういう貴《とうと》い人の生《う》まれかわりであったのかとお悟《さと》りになって、お経《きょう》を太子《たいし》に下《くだ》さいました。
 太子《たいし》が八|歳《さい》の年《とし》でした。新羅《しらぎ》の国《くに》から仏《ほとけ》さまのお姿《すがた》を刻《きざ》んだ像《ぞう》を献上《けんじょう》いたしました。その使者《ししゃ》たちが旅館《りょかん》に泊《とま》っている様子《ようす》を見《み》ようとお思《おも》いになって、太子《たいし》はわざと貧乏人《びんぼうにん》の子供《こども》のようなぼろぼろなお姿《すがた》で、町《まち》の子供《こども》たちの中に交じってお行きになりました。すると新羅《しらぎ》の使者《ししゃ》の中に日羅《にちら》という貴《とうと》い坊《ぼう》さんがおりましたが、きたない童《わらべ》たちの中に太子《たいし》のおいでになるのを目ざとく見付《みつ》けて、
「神《かみ》の子がおいでになる。」
 といって、太子《たいし》に近《ちか》づこうといたしました。太子《たいし》はびっくりして逃《に》げて行こうとなさいました。日羅《にちら》はあわてて履《くつ》もはかず駆《か》け出《だ》してお後《あと》を追《お》いかけました。そして太子《たいし》の前《まえ》の地《じ》びたにぺったりひざをついたままうやうやしく、
「敬礼救世《きょうらいぐぜ》観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》。妙教流通《みょうきょうるづう》東方日本国《とうほうにっぽんこく》。」
 と申《もう》しますと、日羅《にちら》の体《からだ》から光明《こうみょう》がかっと射《さ》しました。そして太子《たいし》の額《ひたい》からは白《しろ》い光《ひかり》がきらりと射《さ》しました。日羅《にちら》の言《い》った言葉《ことば》は、人間《にんげん》の世《よ》の苦《くる》しみを救《すく》って下《くだ》さる観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》に、そしてこの度《たび》東《ひがし》の果《は》ての日本《にほん》の国《くに》の王《おう》さまに生《う》まれて、仏《ほとけ》の教《おし》えをひろめて下《くだ》さるお方《かた》に、つつしんでごあいさつを申《もう》し上《あ》げますという意味《いみ》でございます。
 大きくおなりになると、太子《たいし》は日羅《にちら》の申《もう》し上《あ》げたように、仏《ほとけ》の教《おし》えを日本《にほん》の国中《くにじゅう》におひろめになりました。はじめ外国《がいこく》の教《おし》えだといってきらっていた者《もの》も、太子《たいし》がねっしんに因果応報《いんがおうほう》ということのわけを説《と》いて、
「人間《にんげん》のいのちは一|代《だい》だけで終《おわ》るものではない。前《まえ》の世《よ》とこの世《よ》と後《のち》の世《よ》と、三|代《だい》もつづいている。だから前《まえ》の世《よ》で悪《わる》いことをすれば、この世《よ》でその報《むく》いがくる。けれどこの世《よ》でいいことをしてその罪《つみ》を償《つぐな》えば、後《のち》の世《よ》にはきっと幸福《こうふく》が報《むく》ってくる。だからだれも仏《ほとけ》さまを信《しん》じて、この世《よ》に生《い》きている間《あいだ》たくさんいいことをしておかなければならない。」
 こうおさとしになりますと、みんな涙《なみだ》をこぼして、太子《たいし》とごいっしょに仏《ほとけ》さまをおがみました。けれど中でわがままな、がんこな人たちがどうしても太子《たいし》のお諭《さと》しに従《したが》おうとしないで、お寺《てら》を焼《や》いたり、仏像《ぶつぞう》をこわしたり、坊《ぼう》さんや尼《あま》さんをぶちたたいてひどいめにあわせたり、いろいろな乱暴《らんぼう》をはたらきました。太子《たいし》はその人たちのすることを見《み》て、深《ふか》いため息《いき》をおつきになりながら、
「しかたがない、悪魔《あくま》を滅《ほろ》ぼす剣《つるぎ》をつかう時《とき》が来《き》た。」
 とおっしゃって、弓矢《ゆみや》と太刀《たち》をお取《と》りになり、身方《みかた》の軍勢《ぐんぜい》のまっ先《さき》に立《た》って勇《いさ》ましく戦《たたか》って、仏《ほとけ》さまの敵《てき》を残《のこ》らず攻《せ》め滅《ほろ》ぼしておしまいになりました。
 こうしてこの太子《たいし》のお力《ちから》で、いろいろの邪魔《じゃま》を払《はら》って、仏《ほとけ》さまのお教《おし》えがずんずんひろまるようになりました。摂津《せっつ》の大阪《おおさか》にある四天王寺《してんのうじ》、大和《やまと》の奈良《なら》に近《ちか》い法隆寺《ほうりゅうじ》などは、みな太子《たいし》のお建《た》てになった古《ふる》い古《ふる》いお寺《てら》でございます。

     三

 太子《たいし》のお徳《とく》がだんだん高《たか》くなるにつれて、いろいろ不思議《ふしぎ》な事《こと》がありました。ある時《とき》甲斐《かい》の国《くに》から四|足《そく》の白《しろ》い、真《ま》っ黒《くろ》な小馬《こうま》を一|匹《ぴき》朝廷《ちょうてい》に献上《けんじょう》いたしました。太子《たいし》はこの馬《うま》を御覧《ごらん》になると、たいそうお喜《よろこ》びになって、
「この馬《うま》に乗《の》って国中《くにじゅう》を一《ひと》めぐりして来《こ》よう。」
 とおっしゃって、調使丸《ちょうしまる》という召使《めしつか》いの小舎人《ことねり》をくらの後《うし》ろに乗《の》せたまま、馬《うま》の背《せ》に乗《の》って、そのまますうっと空《そら》の上へ飛《と》んでお行《い》きになりました。下界《げかい》では、
「あれ、あれ。」
 といって騒《さわ》いでいるうちに、太子《たいし》はもう大和《やまと》の国原《くにばら》をはるか後《あと》に残《のこ》して、信濃《しなの》の国《くに》から越《こし》の国《くに》へ、越《こし》の国《くに》からさらに東《ひがし》の国々《くにぐに》をすっかりお回《まわ》りになって、三日《みっか》の後《のち》にまた大和《やまと》へお帰《かえ》りになりました。この時《とき》太子《たいし》のお歩《ある》きになった馬《うま》の蹄《ひづめ》の跡《あと》が、国々《くにぐに》の高《たか》い山に今《いま》でも残《のこ》っているのでございます。
 またある時《とき》、太子《たいし》は天子《てんし》さまの御前《ごぜん》で、勝鬘経《しょうまんきょう》というお経《きょう》の講釈《こうしゃく》をおはじめになって、ちょうど三日《みっか》めにお経《きょう》がすむと、空《そら》の上から三|尺《じゃく》も幅《はば》のあるきれいな蓮花《れんげ》が降《ふ》って来《き》て、やがて地《ち》の上に四|尺《しゃく》も高《たか》く積《つも》りました。その蓮花《れんげ》を明《あ》くる朝《あさ》天子《てんし》さまが御覧《ごらん》になって、そこに橘寺《たちばなでら》というお寺《てら》をお立《た》てになりました。
 またある時《とき》、日本《にほん》の国《くに》からシナの国《くに》へ、小野妹子《おののいもこ》という人をお使《つか》いにやることになりました。その時《とき》太子《たいし》は妹子《いもこ》に向《む》かい、
「シナの衡山《こうざん》という山の上のお寺《てら》は、むかしわたしが住《す》んでいた所《ところ》だ。その時分《じぶん》いっしょにいた僧《そう》たちはたいてい死《し》んだが、まだ三|人《にん》は残《のこ》っているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終《しじゅう》つかっていた法華経《ほけきょう》の本《ほん》をさがして持《も》って来《き》ておくれ。」
 とおっしゃいました。
 妹子《いもこ》はおいいつけの通《とお》り、シナへ渡《わた》るとさっそく、衡山《こうざん》という所《ところ》へたずねて行きました。そしてその山の上のお寺《てら》へ行くと、門《もん》に一人《ひとり》の小坊主《こぼうず》が立《た》っていました。妹子《いもこ》がこうこういう者《もの》だといって案内《あんない》をたのみますと、小坊主《こぼうず》はもう前《まえ》から知《し》っているといったように、
「和尚《おしょう》さん、和尚《おしょう》さん、思禅法師《しぜんほうし》のお使《つか》いがおいでになりましたよ。」
 といいました。するとお寺《てら》の中から腰《こし》の曲《ま》がったおじいさんの坊《ぼう》さんが三|人《にん》、ことこと杖《つえ》をつきながら、さもうれしそうにやって来《き》て、太子《たいし》の御様子《ごようす》をたずねるやら、昔話《むかしばなし》をするやらしたあとで、妹子《いもこ》のいうままに、一|巻《かん》の古《ふる》い法華経《ほけきょう》を出《だ》して渡《わた》しました。妹子《いもこ》はそれを持《も》って、日本《にほん》へ帰《かえ》ったということです。

     四

 太子《たいし》のお住《す》まいになっていたお宮《みや》は大和《やまと》の斑鳩《いかるが》といって、今《いま》の法隆寺《ほうりゅうじ》のある所《ところ》にありましたが、そこの母屋《おもや》のわきに、太子《たいし》は夢殿《ゆめどの》という小《ちい》さいお堂《どう》をおこしらえになりました。そして一月《ひとつき》に三|度《ど》ずつ、お湯《ゆ》に入《はい》って体《からだ》を浄《きよ》めて、そこへお籠《こも》りになり、仏《ほとけ》の道《みち》の修行《しゅぎょう》をなさいました。
 ある時《とき》太子《たいし》はこの夢殿《ゆめどの》にお籠《こも》りになって、七日七夜《なのかななよ》もまるで外《そと》へお出にならないことがありました。いつもは一晩《ひとばん》ぐらいお籠《こも》りになっても、明日《あす》の朝《あさ》はきっとお出《で》ましになって、みんなにいろいろと尊《とうと》いお話《はなし》をなさるのに、今日《きょう》はどうしたものだろうと思《おも》って、お妃《きさき》はじめおそばの人たちが心配《しんぱい》しますと、高麗《こま》の国《くに》から来《き》た恵慈《えじ》という坊《ぼう》さんが、これは三昧《さんまい》の定《じょう》に入《い》るといって、一心《いっしん》に仏《ほとけ》を祈《いの》っておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといって止《と》めました。
 するとちょうど八日《ようか》めの朝《あさ》、太子《たいし》は夢殿《ゆめどの》からお出《で》ましになって、
「先《せん》だって小野妹子《おののいもこ》の取《と》って来《き》てくれた法華経《ほけきょう》は、衡山《こうざん》の坊《ぼう》さんがぼけていたと見《み》えて、わたしの持《も》っていたのでないのをまちがえてよこしたから、魂《たましい》をシナまでやって取《と》って来《き》たよ。」
 とおっしゃいました。
 その後《のち》また小野妹子《おののいもこ》が二|度《ど》めにシナへ渡《わた》った時《とき》、衡山《こうざん》のお寺《てら》を訪《たず》ねると、前《まえ》にいた三|人《にん》の坊《ぼう》さんの二人《ふたり》までは死《し》んでしまって、一人《ひとり》だけ生《い》き残《のこ》っておりましたが、その坊《ぼう》さんの話《はなし》に、
「先年《せんねん》あなたのお国《くに》の太子《たいし》が青《あお》い龍《りゅう》の車《くるま》に乗《の》って、五百|人《にん》の家来《けらい》を従《したが》えて、はるばる東《ひがし》の方《ほう》から雲《くも》の上を走《はし》っておいでになって、古《ふる》い法華経《ほけきょう》の一|巻《かん》を取《と》っておいでになりました。」
 と言《い》ったそうでございます。

     五

 太子《たいし》のお妃《きさき》は膳臣《かしわで》の君《きみ》といって、それはたいそう賢《かしこ》くてお美《うつく》しい方《かた》でしたから、御夫婦《ごふうふ》のお仲《なか》もおむつましゅうございました。ある時《とき》ふと太子《たいし》はお妃《きさき》に向《む》かって、
「お前《まえ》とは長年《ながねん》いっしょにくらして来《き》たが、お前《まえ》はただの一言《ひとこと》もわたしの言葉《ことば》に背《そむ》かなかった。わたしたちはしあわせであったと思《おも》う。生《い》きているうちそうであったから、死《し》んでからも同《おな》じ日に、同《おな》じお墓《はか》の中に葬《ほうむ》られたいものだ。」
 とおっしゃいました。お妃《きさき》は涙《なみだ》をお流《なが》しになりながら、
「どうしてそんな悲《かな》しいことをおっしゃるのでございますか。このさき百|年《ねん》も千|年《ねん》も生《い》きていて、おそばに仕《つか》えたいと、わたくしは思《おも》っているのでございますのに。」
 とおっしゃいました。けれども太子《たいし》は首《くび》をおふりになって、
「いやいや、初《はじ》めがあれば終《おわ》りのあるものだ。生《う》まれたものは必《かなら》ず死《し》ぬに極《き》まったものだ。これは人間《にんげん》の定《さだ》まった道《みち》でしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿《すがた》をかえ、度々《たびたび》人間《にんげん》の世《よ》に生《う》まれ変《か》わって来《き》て、仏《ほとけ》の道《みち》をひろめた。とうとうおしまいにこの日本国《にほんこく》の皇子《おうじ》に生《う》まれて来《き》て、仏《ほとけ》の道《みち》の跡方《あとかた》もない所《ところ》に法華《ほっけ》の種《たね》を蒔《ま》いた。わたしの仕事《しごと》もこれで出来上《できあ》がったのだから、この上|永《なが》く、むさくるしい人間《にんげん》の世《よ》の中に住《す》んでいようとは思《おも》わない。」
 としみじみとお話《はなし》をなさいました。お妃《きさき》はなおなお悲《かな》しくおなりになって、とめ度《ど》なく涙《なみだ》がこぼれて来《き》ました。
 ちょうどそのころでした。太子《たいし》は摂津《せっつ》の国《くに》の難波《なにわ》のお宮《みや》へおいでになって、それから大和《やまと》の京《きょう》へお帰《かえ》りになるので、黒馬《くろうま》に乗《の》って片岡山《かたおかやま》という所《ところ》までおいでになりますと、山の陰《かげ》に一人《ひとり》物《もの》も食《た》べないとみえて、見《み》るかげもなく、痩《や》せ衰《おとろ》えたこじきが、虫《むし》のように寝《ね》ていました。お供《とも》の人たちは、太子《たいし》のお馬先《うまさき》に見苦《みぐる》しいと思《おも》って、あわてて追《お》いたてようとしますと、太子《たいし》はやさしくお止《と》めになって、食《た》べ物《もの》をおやりになり、情《なさ》けぶかいお言葉《ことば》をおかけになりました。そして帰《かえ》りしなに、
「寒《さむ》いだろうから、これをお着《き》。」
 とおっしゃって、召《め》していた紫色《むらさきいろ》の御袍《おうわぎ》をぬいで、お手《て》ずからこじきの体《からだ》にかけておやりになりました。その時《とき》、
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「しなてるや
片岡山《かたおかやま》に
飯《いい》に飢《う》えて
臥《ふ》せる旅《たび》びと
あわれ親無《おやな》し。」
[#ここで字下げ終わり]
 という和歌《わか》をお詠《よ》みになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山《かたおかやま》という言葉《ことば》に冠《かぶ》せた飾《かざ》りの枕言葉《まくらことば》で、歌《うた》の意味《いみ》は、片岡山《かたおかやま》の上に御飯《ごはん》も食《た》べずに飢《う》えて寝《ね》ている旅《たび》の男《おとこ》があるが、かわいそうに、親《おや》も兄弟《きょうだい》もない、かなしい身《み》の上《うえ》なのであろうかというのです。
 するとその時《とき》、寝《ね》ていたこじきが、むくむくと頭《あたま》をあげて、
[#ここから4字下げ]
「斑鳩《いかるが》や
富《とみ》の小川《おがわ》の
絶《た》えばこそ
我《わ》が大君《おおきみ》の
御名《みな》を忘《わす》れめ。」
[#ここで字下げ終わり]
 と御返歌《ごへんか》を申《もう》し上《あ》げたといいます。
 歌《うた》の中にある「斑鳩《いかるが》」だの、「富《とみ》の小川《おがわ》」だのというのは、いずれも太子《たいし》のお住《す》まいになっていた大和《やまと》の国《くに》の奈良《なら》に近《ちか》い所《ところ》の名《な》で、その富《とみ》の小川《おがわ》の流《なが》れの絶《た》えてしまうことはあろうとも、太子《たいし》さまの今日《きょう》のお情《なさ》けをけっして忘《わす》れる時《とき》はございませんというのでございます。
 さて太子《たいし》は奈良《なら》の京《きょう》へお帰《かえ》りになりましたが、その後《あと》で片岡山《かたおかやま》のこじきは、とうとう死《し》んでしまいました。太子《たいし》はそれをお聞《き》きになって、たいそうお嘆《なげ》きになり、手《て》あつく葬《ほうむ》っておやりになりました。それを聞《き》いた七|人《にん》の大臣《だいじん》が、太子《たいし》さまともあるものがそんな軽々《かるがる》しい事《こと》をなさるとはといって、やかましく小言《こごと》を申《もう》しました。太子《たいし》はその話《はなし》をお聞《き》きになると、七|人《にん》の大臣《だいじん》を呼《よ》び出《だ》して、
「お前《まえ》たちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山《かたおかやま》へ行ってごらん。」
 とおっしゃいました。
 大臣《だいじん》たちはぶつぶつ言《い》いながら、ともかくも片岡山《かたおかやま》へ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらを収《おさ》めた棺《ひつぎ》の中は、いつか空《から》になっていて、中からはぷんとかんばしい香《かお》りが立《た》ちました。大臣《だいじん》たちはみんな驚《おどろ》いて、太子《たいし》も、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲《じひ》の功徳《くどく》を世《よ》の中の人たちにあまねく知《し》らせるために、尊《とうと》い菩薩《ぼさつ》たちがかりにお姿《すがた》をあらわしたものだろうと思《おも》うようになりました。

     六

 さてこのことがあってから後《のち》間《ま》もなく、太子《たいし》はある日《ひ》お妃《きさき》に向《む》かい、
「いよいよ、いつぞやの約束《やくそく》を果《は》たす日が来《き》た。わたしたちは今夜限《こんやかぎ》りこの世《よ》を去《さ》ろうと思《おも》う。」
 とお言《い》いになりました。
 そして太子《たいし》とお妃《きさき》とはその日お湯《ゆ》を召《め》し、新《あたら》しい白衣《びゃくえ》にお着替《きか》えになって、お二人《ふたり》で夢殿《ゆめどの》にお入《はい》りになりました。
 明《あ》くる日《ひ》の朝《あさ》、いつまでもお二人《ふたり》ともお目《め》ざめにならないので、おそばの人たちが不思議《ふしぎ》に思《おも》って、そっと御堂《おどう》の中《なか》に入《はい》ってみますと、お二人《ふたり》はまくらを並《なら》べたまま、それはそれは安《やす》らかに、まるでいつもすやすやお休《やす》みになっているような御様子《ごようす》で、息《いき》を引《ひ》き取《と》っておいでになりました。お体《からだ》からはぷんと高《たか》く、かんばしいにおいが立《た》ちました。太子《たいし》のお年《とし》は、四十九|歳《さい》でございました。
 太子《たいし》のおかくれになった日、シナの衡山《こうざん》からとっておいでになった古《ふる》い法華経《ほけきょう》も、ふと見《み》えなくなりました。それもいっしょに持《も》っておいでになったのだろうということです。



底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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