青空文庫アーカイブ

田原藤太
楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)近江《おうみ》の国《くに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|藤太《とうだ》が
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     一

 むかし近江《おうみ》の国《くに》に田原藤太《たわらとうだ》という武士《ぶし》が住《す》んでいました。ある日|藤太《とうだ》が瀬田《せた》の唐橋《からはし》を渡《わた》って行きますと、橋《はし》の上に長《なが》さ二十|丈《じょう》もあろうと思《おも》われる大蛇《おろち》がとぐろをまいて、往来《おうらい》をふさいで寝《ね》ていました。二つの目玉《めだま》がみがき上《あ》げた鏡《かがみ》を並《なら》べたようにきらきらかがやいて、剣《つるぎ》を植《う》えたようなきばがつんつん生《は》えた間《あいだ》から、赤《あか》い舌《した》がめらめら火を吐《は》くように動《うご》いていました。あたり前《まえ》の人なら、見《み》ただけで目を回《まわ》してしまうところでしょうが、藤太《とうだ》は平気《へいき》な顔《かお》をして、大蛇《おろち》の背中《せなか》の上を踏《ふ》んで歩《ある》いて行きました。しばらく行くと、後《うし》ろでだしぬけに、
「もしもし。」
 という声《こえ》がしました。その時《とき》はじめてふり向《む》いてみますと、今《いま》までそこにとぐろをまいていた大蛇《おろち》は影《かげ》も形《かたち》もなくなって、青《あお》い着物《きもの》を着《き》た小さな男《おとこ》が、しょんぼりそこに座《すわ》って、おじぎをしていました。
 藤太《とうだ》は不思議《ふしぎ》そうにその男《おとこ》の様子《ようす》をながめて、
「今《いま》わたしを呼《よ》んだのはお前《まえ》か。」
 と聞《き》きました。小男《こおとこ》はまたていねいに頭《あたま》を下《さ》げて、
「はい、わたくしでございます。じつはぜひあなたにお願《ねが》いしたいことがございます。」
 といいました。
「それは聞《き》いてあげまいものでもないが、いったいお前《まえ》は何者《なにもの》だ。」
「わたくしは長年《ながねん》この湖《みずうみ》の中に住《す》んでいる龍王《りゅうおう》でございます。」
「ふん、龍王《りゅうおう》。するとさっき橋《はし》の上に寝《ね》ていたのはお前《まえ》かね。」
「へい。」
「それで用《よう》というのは。」
「それはこうでございます。いったいわたくしはもう二千|年《ねん》の昔《むかし》からこの湖《みずうみ》の中に住《す》んで、何不足《なにふそく》なく暮《く》らしていたものでございます。それがいつごろからかあのそれ、あちらに見《み》えます三上山《みかみやま》に、大きなむかでが来《き》て住《す》むようになりました。それがこのごろになって、この湖《みずうみ》を時々《ときどき》荒《あ》らしにまいりまして、そのたんびにわたくしどもの子供《こども》を一人《ひとり》ずつさらって行くのです。どうかして敵《かたき》を打《う》ちたいと思《おも》いますが、何分《なにぶん》向《む》こうは三上山《みかみやま》を七巻《ななま》き半《はん》も巻《ま》くという大《おお》むかでのことでございますから、よし向《む》かって行っても勝《か》つ見込《みこ》みがございません。そうかといって、このまま捨《す》てておけば子供《こども》は残《のこ》らず、わたくしまでもむかでに取《と》られて、この湖《みずうみ》の中に生《い》きものの種《たね》が尽《つ》きてしまうでしょう。こうなると、もうなんでも強《つよ》い人に加勢《かせい》を頼《たの》むよりしかたがないと思《おも》いまして、この間《あいだ》から橋《はし》の上に寝《ね》て待《ま》っていたのでございます。けれどもみんなわたくしの姿《すがた》を見《み》ただけで逃《に》げて行ってしまうのでございます。これでは世《よ》の中にほんとうに強《つよ》い人というものはないものかと、じつはがっかりしておりました。それがただ今《いま》あなたにお目にかかることができて、こんなにうれしいことはございません。どうかわたくしたちのために、あのむかでを退治《たいじ》しては頂《いただ》けますまいか。」
 こういって龍王《りゅうおう》はていねいに頭《あたま》を下《さ》げました。藤太《とうだ》はやさしい、情《なさ》けぶかい武士《ぶし》でしたから、
「それはどうも気《き》の毒《どく》なことだ。ではさっそく行って、そのむかでを退治《たいじ》してあげよう。」
 といいました。龍王《りゅうおう》はたいそうよろこんで、
「では御案内《ごあんない》をいたしましょう。どうかごくろうでも、湖《みずうみ》の底《そこ》の私《わたくし》の住《す》まいまでお越《こ》し下《くだ》さいまし。」
 こういいながら橋《はし》の下に降《お》りて、波《なみ》を切《き》って湖《みずうみ》の中に入《はい》って行きました。藤太《とうだ》もその後《あと》からついて行きました。しばらくすると向《む》こうにりっぱな門《もん》が見《み》えて、その奥《おく》に金銀《きんぎん》でふいた御殿《ごてん》の屋根《やね》があらわれました。るりをしきつめた道《みち》をとおって、さんごで飾《かざ》った玄関《げんかん》を入《はい》って、めのうで堅《かた》めた廊下《ろうか》を伝《つた》わって、奥《おく》の奥《おく》の大広間《おおひろま》へとおりました。そこのすいしょうをはりつめた欄干《らんかん》から、湖水《こすい》を透《す》かしてすぐ向《む》こうに三上山《みかみやま》がそびえていました。
「むかでの出ますにはまだ間《ま》がございます。」
 と龍王《りゅうおう》はいって、藤太《とうだ》をくつろがせ、いろいろとごちそうをしているうちに時刻《じこく》がたって、だんだん暗《くら》くなって来《き》ました。

     二

 すると暗《くら》くなるに従《したが》って、龍王《りゅうおう》の顔《かお》が青《あお》くなって来《き》ました。
「ああ、もうそろそろむかでがやってまいります。」
 と龍王《りゅうおう》は息《いき》をはずませながらささやきました。藤太《とうだ》は弓矢《ゆみや》を持《も》って立《た》ち上《あ》がりました。
 やがてむこうの空《そら》がかっと燃《も》えるように赤《あか》くなりました。すると間《ま》もなく比良《ひら》の峰《みね》から三上山《みかみやま》にかけて何《なん》千という火《ひ》の玉《たま》が現《あらわ》れ、それがたい松《まつ》行列《ぎょうれつ》のように、だんだんとこちらに向《む》かって進《すす》んで来《き》ました。
「あれあれ、あのとおりむかでがやってまいります。どうぞはやく退治《たいじ》て下《くだ》さいまし。」
 と龍王《りゅうおう》はぶるぶるふるえながらいいました。しかし藤太《とうだ》はゆったりした声《こえ》で、
「きっと退治《たいじ》てあげるから、安心《あんしん》しておいでなさい。」
 といいながら、欄干《らんかん》に片足《かたあし》をかけて一の矢《や》をつがえて、一ぱいに引《ひ》きしぼって、切《き》って放《はな》しました。矢《や》はまさしくむかでのみけんに当《あ》たりました。けれどもかんと鉄板《てついた》にぶつかったような音《おと》がして、矢《や》ははねかえって来《き》ました。藤太《とうだ》は、
「しまった。」
 と叫《さけ》んで、手早《てばや》く二の矢《や》をつがえて、いっそう強《つよ》く引《ひ》きしぼって放《はな》しましたが、これもはねかえって来《き》ました。もうあとに矢《や》は一|本《ぽん》しか残《のこ》ってはおりません。むかではずんずん近寄《ちかよ》って来《き》ました。龍王《りゅうおう》はがっかりして死《し》んだようになっていました。
 その時《とき》藤太《とうだ》はふと思《おも》いついたことがあって、三|本《ぼん》めの矢《や》の根《ね》を口にくくんで、つばでぬらしました。そして弓《ゆみ》につがえて、ひょうと放《はな》しますと、こんどこそ矢《や》はぐっさりむかでのみけんにささりました。人間《にんげん》のつばをむかでがきらうということを藤太《とうだ》はふと思《おも》い出《だ》したのでした。
 すると何《なん》千とない火《ひ》の玉《たま》は一|度《ど》にふっと消《き》えました。大《おお》あらしが吹《ふ》いて、雷《かみなり》が鳴《な》り出《だ》しました。龍王《りゅうおう》も家来《けらい》たちも、頭《あたま》を抱《かか》えて床《ゆか》の上につっ伏《ぷ》してしまいました。
 さんざん大荒《おおあ》れに荒れた後《あと》で、ふいとまた雷《かみなり》がやんで、あらしがしずまって、夏《なつ》の夜《よ》がしらしらと明《あ》けかかりました。三上山《みかみやま》がやさしい紫色《むらさきいろ》の影《かげ》を空《そら》にうかべていました。その下の湖《みずうみ》にむかでの死骸《しがい》はゆらゆらと波《なみ》にゆられていました。
 龍王《りゅうおう》は小踊《こおど》りをしてよろこんで、
「お陰《かげ》さまで今夜《こんや》からおだやかな夢《ゆめ》がみられます。ほんとうにありがとうございます。」
 といって、何遍《なんべん》も何遍《なんべん》も藤太《とうだ》にお礼《れい》をいいました。そしてたくさんごちそうをして、女《おんな》たちに歌《うた》を歌《うた》わせたり舞《まい》を舞《ま》わせたりしました。
 ごちそうがすむと、藤太《とうだ》はいとまごいをして帰《かえ》りかけました。龍王《りゅうおう》はいろいろに引《ひ》き止《と》めましたが、藤太《とうだ》はぜひ帰《かえ》るといってきかないものですから、龍王《りゅうおう》は残念《ざんねん》がって、
「ではつまらない物《もの》でございますが、これをお礼《れい》のおしるしにお持《も》ち帰《かえ》り下《くだ》さいまし。」
 といいました。そして家来《けらい》にいいつけて、奥《おく》から米《こめ》一|俵《ぴょう》と、絹《きぬ》一|疋《ぴき》と、釣《つ》り鐘《がね》を一つ出《だ》させて、それを藤太《とうだ》に贈《おく》りました。そしてこの土産《みやげ》の品《しな》を家来《けらい》に担《かつ》がせて、龍王《りゅうおう》は瀬田《せた》の橋《はし》の下まで見送《みおく》って行きました。
 藤太《とうだ》が龍王《りゅうおう》からもらった品《しな》は、どれもこれも不思議《ふしぎ》なものばかりでした。米俵《こめだわら》はいくらお米《こめ》を出《だ》してもあとからあとからふえて、空《から》になることがありませんでした。絹《きぬ》はいくら裁《た》っても裁《た》っても減《へ》りません。釣《つ》り鐘《がね》はたたくと近江《おうみ》の国中《くにじゅう》に聞《き》こえるほどの高《たか》い音《おと》をたてました。藤太《とうだ》は釣《つ》り鐘《がね》を三井寺《みいでら》に納《おさ》めて、あとの二品《ふたしな》を家《いえ》につたえていつまでも豊《ゆた》かに暮《く》らしました。



底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
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