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白い鳥
楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)近江国《おうみのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八|羽《わ》
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     一

 むかし近江国《おうみのくに》の余呉湖《よごのうみ》という湖水《こすい》に近《ちか》い寂《さび》しい村《むら》に、伊香刀美《いかとみ》というりょうしが住《す》んでおりました。
 ある晴《は》れた春《はる》の朝《あさ》でした。伊香刀美《いかとみ》はいつものようにりょうの支度《したく》をして、湖水《こすい》の方《ほう》へ下《お》りて行こうとしました。その途中《とちゅう》、山の上にさしかかりますと、今《いま》までからりと晴《は》れ上《あ》がって明《あか》るかった青空《あおぞら》が、ふと曇《くも》って、そこらが薄《うす》ぼんやりしてきました。「おや、雲《くも》が出たのか。」と思《おも》って、あおむいて見《み》ますと、ちょうど伊香刀美《いかとみ》の頭《あたま》の上の空《そら》に、白い雲《くも》のようなものがぽっつり見《み》えて、それがだんだんとひろがって、大きくなって、今《いま》にも頭《あたま》の上に落《お》ちかかるほどになりました。
 伊香刀美《いかとみ》はふしぎに思《おも》って、
「何《なん》だろう、雲《くも》にしてはおかしいなあ。」
 と独《ひと》り言《ごと》をいいながら、じっと白いものを見《み》つめていますと、それは伊香刀美《いかとみ》の頭《あたま》の上をすうっと流《なが》れるように通《とお》りすぎて、だんだん下へ下へと、余呉湖《よごのうみ》の方《ほう》へと下《くだ》って行きます。やがてきらきらと、湖《みずうみ》の上に輝《かがや》きだした春《はる》の日をあびて、ふわりふわり落《お》ちて行く白いものの姿《すがた》がはっきりと見《み》えました。それは八|羽《わ》の白鳥《はくちょう》が雪《ゆき》のように白い翼《つばさ》をそろえて、静《しず》かに舞《ま》い下《お》りて行くのでありました。伊香刀美《いかとみ》はびっくりして、
「ほう、えらい白鳥《はくちょう》だ。」
 といいながら、我《われ》を忘《わす》れてけわしい坂道《さかみち》を夢中《むちゅう》で駆《か》け下《お》りて、白鳥《はくちょう》を追《お》い追《お》い湖《みずうみ》の方《ほう》へ下《お》りて行きました。やっと湖《みずうみ》のそばまで来《き》ましたが、もう白鳥《はくちょう》はどこへ行ったか姿《すがた》は見《み》えませんでした。伊香刀美《いかとみ》はすこし拍子《ひょうし》抜《ぬ》けがして、そこらをぼんやり見回《みまわ》しました。すると水晶《すいしょう》を溶《と》かしたように澄《す》みきった湖水《こすい》の上に、いつどこから来《き》たか、八|人《にん》の少女《おとめ》がさも楽《たの》しそうに泳《およ》いで遊《あそ》んでいました。
 少女《おとめ》たちは世《よ》の中に何《なん》にもこわいことのないような、罪《つみ》のない様子《ようす》で、きれいな肌《はだ》を水《みず》の中にひたしていました。伊香刀美《いかとみ》は「あッ。」といったなり、見《み》とれてそこに立《た》っていました。するとどこからともなくいい香《かお》りが、すうすうと鼻《はな》の先《さき》へ流《なが》れてきました。そして静《しず》かな松風《まつかぜ》の音《おと》にまじって、さらさらと薄《うす》い絹《きぬ》のすれ合《あ》うような音《おと》が、耳《みみ》のはたで聞《き》こえました。
 気《き》が付《つ》いて伊香刀美《いかとみ》が振《ふ》り返《かえ》ってみますと、すぐうしろの松《まつ》の木の枝《えだ》に、ついぞ見《み》たこともないような、美《うつく》しい真《ま》っ白《しろ》な着物《きもの》が掛《か》けてありました。伊香刀美《いかとみ》はふしぎに思《おも》って、そばへ寄《よ》ってみますと、美《うつく》しい着物《きもの》はみんなで八|枚《まい》あって、それは鳥《とり》の翼《つばさ》をひろげたようでもあり、長《なが》い着物《きもの》のすそをひいたようでもありました。それがかすかな風《かぜ》に吹《ふ》かれては、音《おと》を立《た》てたり、香《かお》りを送《おく》ったりしているのです。
 伊香刀美《いかとみ》はその着物《きもの》がほしくなりました。
「これはめずらしいものだ。きっとさっきの白い鳥《とり》たちがぬいで行ったものに違《ちが》いない。するとあの八|人《にん》の少女《おとめ》たちは天女《てんにょ》で、これこそ昔《むかし》からいう天《あま》の羽衣《はごろも》というものに違《ちが》いない。」
 こう独《ひと》り言《ごと》をつぶやきながら、そっと羽衣《はごろも》を一|枚《まい》取《と》り下《お》ろして、うちへ持《も》って帰《かえ》って、宝《たから》にしようと思《おも》いました。でも水《みず》の中に居《い》る少女《おとめ》たちがどうするか、様子《ようす》を見届《みとど》けて行きたいと思《おも》って、羽衣《はごろも》をそっとかかえたまま、木の陰《かげ》にかくれて見《み》ていました。
 八|人《にん》の少女《おとめ》たちはややしばらく水《みず》の中で、のびのびとさも気持《きも》ちよさそうに、おさかなのように泳《およ》ぐ形《かたち》をしたり、小鳥《ことり》のように舞《ま》う形《かたち》をしたりして、余念《よねん》なく遊《あそ》び戯《たわむ》れていましたが、やがて一人《ひとり》上《あ》がり、二人《ふたり》上《あ》がり、松《まつ》の木の下まで来《く》ると、てんでんに羽衣《はごろも》を取《と》り下《お》ろしては、体《からだ》にまといました。そして一人《ひとり》一人《ひとり》、ぱあっと羽衣《はごろも》をひろげては、舞《ま》い上《あ》がっていきました。
 とうとう七|人《にん》まで、少女《おとめ》たちはみんな白鳥《はくちょう》になって空《そら》の上に舞《ま》い上《あ》がりましたが、いちばんおしまいに上《あ》がって来《き》た八|人《にん》めの少女《おとめ》が、見《み》ると自分《じぶん》の羽衣《はごろも》は影《かげ》も形《かたち》も見《み》えません。松風《まつかぜ》ばかりがさびしそうな音《おと》を立《た》てていました。少女《おとめ》はその時《とき》、
「まあ、わたしの羽衣《はごろも》が。」
 といったなり、あわててそこらを探《さが》しはじめました。もうその時《とき》には、仲間《なかま》の少女《おとめ》たちは、七|人《にん》とも空《そら》の上に舞《ま》い上《あ》がって、見《み》る間《ま》に、ずんずん、ずんずん、遠《とお》くなっていきました。
「まあ、どうしましょう。羽衣《はごろも》がなくなっては、天《てん》へは帰《かえ》られない。」
 と少女《おとめ》はくらい目をして、うらめしそうに空《そら》を見上《みあ》げました。青々《あおあお》と晴《は》れた大空《おおぞら》の上に、ぽつん、ぽつんと、白い点々《てんてん》のように見《み》えていた、仲間《なかま》の少女《おとめ》たちの姿《すがた》も、いつの間《ま》にか、その点々《てんてん》すら見《み》えないほどの遠《とお》くにへだたって、間《あいだ》には春《はる》の霞《かすみ》が、いくえにもいくえにも立《た》ち込《こ》めていました。
「天《てん》にも帰《かえ》られない。地《ち》にも住《す》めない。わたしはどうしたらいいのだろう。」
 と、羽衣《はごろも》をなくした少女《おとめ》は、足《あし》ずりをして嘆《なげ》いていました。さっきからその様子《ようす》を陰《かげ》でながめていた伊香刀美《いかとみ》は、さすがに気《き》の毒《どく》になって、のこのこはい出《だ》して来《き》て、
「あなたの羽衣《はごろも》はここにありますよ。」
 といいました。
 だしぬけに声《こえ》をかけられて、少女《おとめ》はびっくりしました。それから人間《にんげん》の姿《すがた》を見《み》ると、二|度《ど》びっくりして、あわてて駆《か》け出《だ》そうとしました。しかしふと伊香刀美《いかとみ》の小《こ》わきにかかえている羽衣《はごろも》を見《み》ると、急《きゅう》に生《い》き返《かえ》ったような笑顔《えがお》になって、
「まあ、うれしい。よく返《かえ》して下《くだ》さいました。ありがとうございます。」
 といいながら、手を出《だ》して羽衣《はごろも》をうけ取《と》ろうとしました。けれど伊香刀美《いかとみ》はふと羽衣《はごろも》をかかえていた手を、うしろに引《ひ》っ込《こ》めてしまいました。
「お気《き》の毒《どく》ですが、これは返《かえ》すわけにはいきません。これはわたしの大事《だいじ》な宝《たから》です。」
 といいました。
 いったん気《き》の毒《どく》になって、羽衣《はごろも》を返《かえ》そうと思《おも》った伊香刀美《いかとみ》は、急《きゅう》にまたこのきれいな少女《おとめ》が好《す》きになって、このまま別《わか》れてしまうのが惜《お》しくなったのでした。
「まあ、そんなことをおっしゃらずに、返《かえ》して下《くだ》さいまし。それが無《な》いと、わたしは天《てん》へ帰《かえ》ることができません。」
 と少女《おとめ》はいって、はらはらと涙《なみだ》をながしました。
「でもわたしはあなたを天《てん》へ帰《かえ》したくないのです。それよりもわたしの所《ところ》へおいでなさい。いっしょに楽《たの》しく暮《く》らしましょう。」
 と伊香刀美《いかとみ》はいいました。そしてずんずん羽衣《はごろも》をかかえたまま向《む》こうへ歩《ある》いていきました。少女《おとめ》はしかたがないので、悲《かな》しそうな顔《かお》をして、後《あと》からついていきました。
 少女《おとめ》は羽衣《はごろも》にひかれて、とうとう伊香刀美《いかとみ》のうちまで行きました。そして伊香刀美《いかとみ》といっしょに、そのおかあさんのそばで暮《く》らすことになりました。でも始終《しじゅう》どうかして天《てん》に帰《かえ》りたいと思《おも》って、折《おり》があったら羽衣《はごろも》を取《と》り返《かえ》して、逃《に》げよう逃《に》げようとしました。伊香刀美《いかとみ》も少女《おとめ》の心《こころ》を知《し》っているので、羽衣《はごろも》をどこかへしまったまま、少女《おとめ》の目にはふれさせませんでした。少女《おとめ》は毎日《まいにち》のように空《そら》をながめては、人しれず悲《かな》しそうなため息《いき》をついていました。

     二

 そうこうするうちに三|年《ねん》たちました。
 ある日|伊香刀美《いかとみ》は、いつものように朝《あさ》早《はや》くりょうに出かけました。少女《おとめ》は伊香刀美《いかとみ》のおかあさんといろいろ話《はなし》をしているついでに、ふとおかあさんが、
「まあ、お前《まえ》がここへ来《き》なすってからもう三|年《ねん》になるよ。月日《つきひ》のたつのは早《はや》いものだね。」
 といいました。少女《おとめ》はそっとため息《いき》をつきながら、
「ほんとうに早《はよ》うございますこと。」
 といいました。
「お前《まえ》、今《いま》でも天《てん》へ帰《かえ》りたいだろうね。」
「ええ、それははじめのうちはずいぶん帰《かえ》りとうございましたが、今《いま》では人間《にんげん》の暮《く》らしに慣《な》れて、この世界《せかい》が好《す》きになりました。」
 と答《こた》えながら、何気《なにげ》なく、
「そういえば、おかあさん、あの時《とき》の羽衣《はごろも》はどうなったでしょうね。あれなり伊香刀美《いかとみ》さんにおあずけしたままになっておりますが、長《なが》い間《あいだ》にいたみはしないかと、気《き》にかかります。おかあさん、あの、ちょいとでよろしゅうございますから、見《み》せて下《くだ》さいませんか。お願《ねが》いです。」
 といいました。
 おかあさんは伊香刀美《いかとみ》から、どんなことがあっても少女《おとめ》に羽衣《はごろも》を見《み》せてはならないと、かたくいいつけられていましたから、強《つよ》く首《くび》を振《ふる》って、
「それはいけませんよ。」
 といいました。
「なぜ、いけないのでしょう。」
 と少女《おとめ》は子供《こども》らしい目をくりくりとさせて、さもふしぎそうにたずねました。
「だって羽衣《はごろも》を見《み》せると、それを着《き》て、また天《てん》へ帰《かえ》ってしまうでしょう。」
「まあ、わたくし、人間《にんげん》の世界《せかい》がすっかり好《す》きになったと申《もう》し上《あ》げたではございませんか。おかあさん、お願《ねが》いです、ほんの一目《ひとめ》見《み》ればいいのですから。」
 と、少女《おとめ》はしきりとおかあさんに甘《あま》えるように頼《たの》んでいました。そのかわいらしい様子《ようす》を見《み》ていると、おかあさんは、何《なん》でもそのいうとおりにしてやらなければならないような気《き》がしてきました。
「ではほんのちょいとですよ、伊香刀美《いかとみ》にはないしょでね。」
 とおかあさんはいいながら、戸棚《とだな》の奥《おく》にしまってある箱《はこ》を出《だ》しました。少女《おとめ》は胸《むね》をどきつかせながらのぞき込《こ》みますと、おかあさんはそっと箱《はこ》のふたをあけました。中からはぷんといい香《かお》りがたって、羽衣《はごろも》はそっくり元《もと》のままで、きれいにたたんで入《い》れてありました。
「まあ、そっくりしておりますのね。」
 と少女《おとめ》は目を輝《かがや》かしながら見《み》ていましたが、
「でも、もしどこかいたんでいやしないかしら。」
 というなり、箱《はこ》の中の羽衣《はごろも》を手に取《と》りました。そしておかあさんが「おや。」と止《と》めるひまもないうちに、手ばやく羽衣《はごろも》を着《き》ると、そのまますうっと上へ舞《ま》い上《あ》がりました。
「ああ、あれあれ。」
 と、おかあさんは両手《りょうて》をひろげてつかまえようとしました。その間《ま》に少女《おとめ》の姿《すがた》は、もう高《たか》く高《たか》く空《そら》の上へ上《あ》がっていって、やがて見《み》えなくなりました。
 帰《かえ》って来《き》て伊香刀美《いかとみ》はどんなにがっかりしたでしょう。三|年前《ねんまえ》に湖《みずうみ》のそばで少女《おとめ》がしたように、足《あし》ずりをしてくやしがりましたが、かわいらしい白い鳥《とり》の姿《すがた》は、果《は》てしれない大空《おおぞら》のどこかにかくれてしまって、天《てん》と地《ち》の間《あいだ》には、いくえにもいくえにも、深《ふか》い霞《かすみ》が立《た》ち込《こ》めたまま春《はる》の日《ひ》は暮《く》れていきました。



底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
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