青空文庫アーカイブ

松山鏡
楠山正雄

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)越後国《えちごのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)おやこ三|人《にん》
-------------------------------------------------------

     一

 むかし越後国《えちごのくに》松《まつ》の山家《やまが》の片田舎《かたいなか》に、おとうさんとおかあさんと娘《むすめ》と、おやこ三|人《にん》住《す》んでいるうちがありました。
 ある時《とき》おとうさんは、よんどころない用事《ようじ》が出来《でき》て、京都《きょうと》へ上《のぼ》ることになりました。昔《むかし》のことで、越後《えちご》から都《みやこ》へ上《のぼ》るといえば、幾日《いくにち》も、幾日《いくにち》も旅《たび》を重《かさ》ねて、いくつとなく山坂《やまさか》を越《こ》えて行《い》かなければなりません。ですから立《た》って行くおとうさんも、あとに残《のこ》るおかあさんも心配《しんぱい》でなりません。それで支度《したく》が出来《でき》て、これから立《た》とうというとき、おとうさんはおかあさんに、
「しっかり留守《るす》を頼《たの》むよ。それから子供《こども》に気《き》をつけてね。」
 といいました。おかあさんも、
「大丈夫《だいじょうぶ》、しっかりお留守居《るすい》をいたしますから、気《き》をつけて、ぶじに早《はや》くお帰《かえ》りなさいまし。」
 といいました。
 その中で娘《むすめ》はまだ子供《こども》でしたから、ついそこらへ出かけて、じきにおとうさんが帰《かえ》って来《く》るもののように思《おも》って、悲《かな》しそうな顔《かお》もしずに、
「おとうさん、おとなしくお留守番《るすばん》をしますから、おみやげを買《か》ってきて下《くだ》さいな。」
 といいました。おとうさんは笑《わら》いながら、
「よしよし。その代《か》わり、おとなしく、おかあさんのいうことを聴《き》くのだよ。」
 といいました。
 おとうさんが立《た》って行《い》ってしまうと、うちの中は急《きゅう》に寂《さび》しくなりました。はじめの一|日《にち》や二日《ふつか》は、娘《むすめ》もおかあさんのお仕事《しごと》をしているそばでおとなしく遊《あそ》んでおりましたが、三日《みっか》四日《よっか》となると、そろそろおとうさんがこいしくなりました。
「おとうさん、いつお帰《かえ》りになるのでしょうね。」
「まだ、たんと寝《ね》なければお帰《かえ》りにはなりませんよ。」
「おかあさん、京都《きょうと》ってそんなに遠《とお》い所《ところ》なの。」
「ええ、ええ、もうこれから百|里《り》の余《よ》もあって、行《い》くだけに十日《とおか》あまりかかって、帰《かえ》りにもやはりそれだけかかるのですからね。」
「まあ、ずいぶん待《ま》ちどおしいのね。おとうさん、どんなおみやげを買《か》っていらっしゃるでしょう。」
「それはきっといいものですよ。楽《たの》しみにして待《ま》っておいでなさい。」
 そんなことをいいいい、毎日《まいにち》暮《く》らしているうちに、十日《とおか》たち、二十日《はつか》たち、もうかれこれ一月《ひとつき》あまりの月日《つきひ》がたちました。
「もうたんと、ずいぶん飽《あ》きるほど寝《ね》たのに、まだおとうさんはお帰《かえ》りにならないの。」
 と、娘《むすめ》は待《ま》ち切《き》れなくなって、悲《かな》しそうにいいました。
 おかあさんは指《ゆび》を折《お》って日を数《かぞ》えながら、
「ああ、もうそろそろお帰《かえ》りになる時分《じぶん》ですよ。いつお帰《かえ》りになるか知《し》れないから、今《いま》のうちにおへやのおそうじをして、そこらをきれいにしておきましょう。」
 こういって散《ち》らかったおへやの中を片《かた》づけはじめますと、娘《むすめ》も小さなほうきを持《も》って、お庭《にわ》をはいたりしました。
 するとその日の夕方《ゆうがた》、おとうさんは荷物《にもつ》をしょって、
「ああ、疲《つか》れた、疲《つか》れた。」
 といいながら、帰《かえ》って来《き》ました。その声《こえ》を聞《き》くと、娘《むすめ》はあわててとび出《だ》して来《き》て、
「おとうさん、お帰《かえ》りなさい。」
 といいました。おかあさんもうれしそうに、
「まあ、お早《はや》いお帰《かえ》りでしたね。」
 といいながら、背中《せなか》の荷物《にもつ》を手伝《てつだ》って下《お》ろしました。娘《むすめ》はきっとこの中にいいおみやげが入《はい》っているのだろうと思《おも》って、にこにこしながら、おかあさんのお手伝《てつだ》いをして、荷物《にもつ》を奥《おく》まで運《はこ》んで行きました。そのあとから、おとうさんは脚絆《きゃはん》のほこりをはたきながら、
「ずいぶん寂《さび》しかったろう。べつに変《か》わったことはなかったか。」
 といいいい奥《おく》へ通《とお》りました。
 おとうさんはやっと座《すわ》って、お茶《ちゃ》を一|杯《ぱい》のむ暇《ひま》もないうちに、包《つつ》みの中から細長《ほそなが》い箱《はこ》を出《だ》して、にこにこしながら、
「さあ、お約束《やくそく》のおみやげだよ。」
 といって、娘《むすめ》に渡《わた》しました。娘《むすめ》は急《きゅう》にとろけそうな顔《かお》になって、
「おとうさん、ありがとう。」
 といいながら、箱《はこ》をあけますと、中からかわいらしいお人形《にんぎょう》さんやおもちゃが、たんと出てきました。娘《むすめ》はだいじそうにそれを抱《かか》えて、
「うれしい、うれしい。」
 といって、はね回《まわ》っていました。するとおとうさんは、また一つ平《ひら》たい箱《はこ》を出《だ》して、
「これはお前《まえ》のおみやげだ。」
 といって、おかあさんに渡《わた》しました。おかあさんも、
「おや、それはどうも。」
 といいながら、開《あ》けてみますと、中には金《かね》でこしらえた、まるい平《ひら》たいものが入《はい》っていました。
 おかあさんはそれが何《なん》にするものだか分《わ》からないので、うらを返《かえ》したり、おもてを見《み》たり、ふしぎそうな顔《かお》ばかりしていますので、おとうさんは笑《わら》い出《だ》して、
「お前《まえ》、それは鏡《かがみ》といって、都《みやこ》へ行かなければ無《な》いものだよ。ほら、こうして見《み》てごらん、顔《かお》がうつるから。」
 といって、鏡《かがみ》のおもてをおかあさんの顔《かお》にさし向《む》けました。おかあさんはその時《とき》鏡《かがみ》の上にうつった自分《じぶん》の顔《かお》をしげしげとながめて、
「まあ、まあ。」
 といっていました。

     二

 それから幾年《いくねん》かたちました。娘《むすめ》もだんだん大きくなりました。ちょうど十五になった時《とき》、おかあさんはふと病気《びょうき》になって、どっと寝込《ねこ》んでしまいました。
 おとうさんは心配《しんぱい》して、お医者《いしゃ》にみてもらいましたが、なかなかよくなりません。娘《むすめ》は夜《よる》も昼《ひる》もおかあさんのまくら元《もと》につきっきりで、ろくろく眠《ねむ》る暇《ひま》もなく、一生懸命《いっしょうけんめい》にかんびょうしましたが、病気《びょうき》はだんだん重《おも》るばかりで、もう今日《きょう》明日《あす》がむずかしいというまでになりました。
 その夕方《ゆうがた》、おかあさんは娘《むすめ》をそばに呼《よ》び寄《よ》せて、やせこけた手で、娘《むすめ》の手をじっと握《にぎ》りながら、
「長《なが》い間《あいだ》、お前《まえ》も親切《しんせつ》に世話《せわ》をしておくれだったが、わたしはもう長《なが》いことはありません。わたしが亡《な》くなったら、お前《まえ》、わたしの代《か》わりになって、おとうさんをだいじにして上《あ》げて下《くだ》さい。」
 といいました。娘《むすめ》は何《なん》ということもできなくって、目にいっぱい涙《なみだ》をためたまま、うつむいていました。
 その時《とき》おかあさんはまくらの下から鏡《かがみ》を出《だ》して、
「これはいつぞやおとうさんから頂《いただ》いて、だいじにしている鏡《かがみ》です。この中にはわたしの魂《たましい》が込《こ》めてあるのだから、この後《のち》いつでもおかあさんの顔《かお》が見《み》たくなったら、出《だ》してごらんなさい。」
 といって鏡《かがみ》を渡《わた》しました。
 それから間《ま》もなく、おかあさんはとうとう息《いき》を引《ひ》き取《と》りました。あとに取《と》り残《のこ》された娘《むすめ》は、悲《かな》しい心《こころ》をおさえて、おとうさんの手助《てだす》けをして、おとむらいの世話《せわ》をまめまめしくしました。
 おとむらいがすんでしまうと、急《きゅう》にうちの中がひっそりして、じっとしていると、寂《さび》しさがこみ上《あ》げてくるようでした。娘《むすめ》はたまらなくなって、
「ああ、おかあさんに会《あ》いたい。」
 と独《ひと》り言《ごと》をいいましたが、ふとあの時《とき》おかあさんにいわれたことを思《おも》い出《だ》して、鏡《かがみ》を出《だ》してみました。
「ほんとうにおかあさんが会《あ》いに来《き》て下《くだ》さるかしら。」
 娘《むすめ》はこういいながら、鏡《かがみ》の中をのぞきました。するとどうでしょう、鏡《かがみ》の向《む》こうにはおかあさんが、それはずっと若《わか》い美《うつく》しい顔《かお》で、にっこり笑《わら》っていらっしゃいました。娘《むすめ》はぼうっとしたようになって、
「あら、おかあさん。」
 と呼《よ》びかけました。そしていつまでもいつまでも、顔《かお》を鏡《かがみ》に押《お》しつけてのぞき込《こ》んでいました。

     三

 その後《のち》おとうさんは人にすすめられて、二|度《ど》めのおかあさんをもらいました。
 おとうさんは娘《むすめ》に、
「こんどのおかあさんもいいおかあさんだから、亡《な》くなったおかあさんと同《おな》じように、だいじにして、いうことを聴《き》くのだよ。」
 といいました。
 娘《むすめ》はおとなしくおとうさんのいうことを聴《き》いて、
「おかあさん、おかあさん。」
 といって慕《した》いますと、こんどのおかあさんも、先《せん》のおかあさんのように、娘《むすめ》をよくかわいがりました。おとうさんはそれを見《み》て、よろこんでいました。
 それでも娘《むすめ》はやはり時々《ときどき》、先《せん》のおかあさんがこいしくなりました。そういう時《とき》、いつもそっと一間《ひとま》に入《はい》って、れいの鏡《かがみ》を出《だ》してのぞきますと、鏡《かがみ》の中にはそのたんびにおかあさんが現《あらわ》れて、
「おや、お前《まえ》、おかあさんはこのとおり達者《たっしゃ》ですよ。」
 というように、にっこり笑《わら》いかけました。
 こんどのおかあさんは、時々《ときどき》娘《むすめ》が悲《かな》しそうな顔《かお》をしているのを見《み》つけて心配《しんぱい》しました。そしてそういう時《とき》、いつも一間《ひとま》に入《はい》り込《こ》んで、いつまでも出てこないのを知《し》って、よけい心配《しんぱい》になりました。そう思《おも》って娘《むすめ》に聴《き》いても、
「いいえ、何《なん》でもありません。」
 と答《こた》えるだけでした。でもおかあさんは、何《なん》だか娘《むすめ》が自分《じぶん》にかくしていることがあるように疑《うたぐ》って、だんだん娘《むすめ》がにくらしくなりました。それである時《とき》おとうさんにその話《はなし》をしました。おとうさんもふしぎがって、
「よしよし、こんどおれが見《み》てやろう。」
 といって、ある日そっと娘《むすめ》の後《あと》から一間《ひとま》に入《はい》って行《い》きました。そして娘《むすめ》が一心《いっしん》に鏡《かがみ》の中に見入《みい》っているうしろから、出《だ》し抜《ぬ》けに、
「お前《まえ》、何《なに》をしている。」
 と声《こえ》をかけました。娘《むすめ》はびっくりして、思《おも》わずふるえました。そして真《ま》っ赤《か》な顔《かお》をしながら、あわてて鏡《かがみ》をかくしました。おとうさんはふきげんな顔《かお》をして、
「何《なん》だ、かくしたものは。出《だ》してお見《み》せ。」
 といいました。娘《むすめ》は困《こま》ったような顔《かお》をして、こわごわ鏡《かがみ》を出《だ》しました。おとうさんはそれを見《み》て、
「何《なん》だ。これはいつか死《し》んだおかあさんにわたしの買《か》ってやった鏡《かがみ》じゃないか。どうしてこんなものをながめているのだ。」
 といいました。
 すると娘《むすめ》は、こうしておかあさんにお目にかかっているのだといいました。そしておかあさんは死《し》んでも、やはりこの鏡《かがみ》の中にいらしって、いつでも会《あ》いたい時《とき》には、これを見《み》れば会《あ》えるといって、この鏡《かがみ》をおかあさんが下《くだ》さったのだと話《はな》しました。おとうさんはいよいよふしぎに思《おも》って、
「どれ、お見《み》せ。」
 といいながら、娘《むすめ》のうしろからのぞきますと、そこには若《わか》い時《とき》のおかあさんそっくりの娘《むすめ》の顔《かお》がうつりました。
「ああ、それはお前《まえ》の姿《すがた》だよ。お前《まえ》は小《ちい》さい時《とき》からおかあさんによく似《に》ていたから、おかあさんはちっとでもお前《まえ》の心《こころ》を慰《なぐさ》めるために、そうおっしゃったのだ。お前《まえ》は自分《じぶん》の姿《すがた》をおかあさんだと思《おも》って、これまでながめてよろこんでいたのだよ。」
 こうおとうさんはいいながら、しおらしい娘《むすめ》の心《こころ》がかわいそうになりました。
 するとその時《とき》まで次《つぎ》の間《ま》で様子《ようす》を見《み》ていた、こんどのおかあさんが入《はい》って来《き》て、娘《むすめ》の手を固《かた》く握《にぎ》りしめながら、
「これですっかり分《わ》かりました。何《なん》というやさしい心《こころ》でしょう。それを疑《うたぐ》ったのはすまなかった。」
 といいながら、涙《なみだ》をこぼしました。娘《むすめ》はうつむきながら、小声《こごえ》で、
「おとうさんにも、おかあさんにも、よけいな御心配《ごしんぱい》をかけてすみませんでした。」
 といいました。



底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:佳代子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ