青空文庫アーカイブ
鎮西八郎
楠山正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》
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(例)三|代《だい》め
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(例)[#「年寄《としよ》り」は底本では「年寄《としより》り」]
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一
八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》から三|代《だい》めの源氏《げんじ》の大将《たいしょう》を六条判官為義《ろくじょうほうがんためよし》といいました。為義《ためよし》はたいそうな子福者《こぶくしゃ》で、男《おとこ》の子供《こども》だけでも十四五|人《にん》もありました。そのうちで一|番《ばん》上のにいさんの義朝《よしとも》は、頼朝《よりとも》や義経《よしつね》のおとうさんに当《あ》たる人で、なかなか強《つよ》い大将《たいしょう》でしたけれど、それよりももっと強《つよ》い、それこそ先祖《せんぞ》の八幡太郎《はちまんたろう》に負《ま》けないほどの強《つよ》い大将《たいしょう》というのは、八|男《なん》の鎮西八郎為朝《ちんぜいはちろうためとも》でした。
なぜ為朝《ためとも》を鎮西八郎《ちんぜいはちろう》というかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝《ためとも》は子供《こども》のうちからほかの兄弟《きょうだい》たちとは一人《ひとり》ちがって、体《からだ》もずっと大きいし、力《ちから》が強《つよ》くって、勇気《ゆうき》があって、世《よ》の中に何《なに》一つこわいというもののない少年《しょうねん》でした。それに生《う》まれつき弓《ゆみ》を射《い》ることがたいそう上手《じょうず》で、それこそ八幡太郎《はちまんたろう》の生《う》まれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎《はちまんたろう》は弓《ゆみ》の名人《めいじん》でしたけれど、人並《ひとな》みとちがった強《つよ》い弓《ゆみ》を引《ひ》くということはなかったのですが、為朝《ためとも》は背《せい》の高《たか》さが七|尺《しゃく》もあって、力《ちから》の強《つよ》い上に、腕《うで》が人並《ひとな》みより長《なが》く、とりわけ左《ひだり》の手が右《みぎ》の手より四|寸《すん》も長《なが》かったものですから、並《な》みの二|倍《ばい》もある強《つよ》い弓《ゆみ》に、二|倍《ばい》もある長《なが》い矢《や》をつがえては引《ひ》いたのです。ですから為朝《ためとも》の射《い》る矢《や》は、並《な》みの人の矢《や》がやっと一|町《ちょう》か二|町《ちょう》走《はし》るところを五|町《ちょう》も六|町《ちょう》の先《さき》まで飛《と》んで行《い》き、ただ一|矢《や》で敵《てき》の三|人《にん》や四|人《にん》手負《てお》わせないことはないくらいでした。
こんなふうですから、子供《こども》の時《とき》から強《つよ》くって、けんかをしても、ほかの兄弟《きょうだい》たちはみんな負《ま》かされてしまいました。兄弟《きょうだい》たちは為朝《ためとも》が半分《はんぶん》はこわいし、半分《はんぶん》はにくらしがって、何《なに》かにつけてはおとうさんの為義《ためよし》の所《ところ》へ行っては、八郎《はちろう》がいけない、いけないというものですから、為義《ためよし》もうるさがって、度々《たびたび》為朝《ためとも》をしかりました。いくらしかられても為朝《ためとも》は平気《へいき》で、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義《ためよし》も困《こま》りきって、ある時《とき》、
「お前《まえ》のような乱暴者《らんぼうもの》を都《みやこ》へ置《お》くと、今《いま》にどんなことをしでかすかわからない。今日《きょう》からどこへでも好《す》きな所《ところ》へ行ってしまえ。」
といって、うちから追《お》い出《だ》してしまいました。その時《とき》為朝《ためとも》はやっと十三になったばかりでした。
うちから追《お》い出《だ》されても、為朝《ためとも》はいっこう困《こま》った顔《かお》もしないで、
「いじのわるいにいさんたちや、小言《こごと》ばかりいうおとうさんなんか、そばにいない方《ほう》がいい。ああ、これでのうのうした。」
と心《こころ》の中で思《おも》って、家来《けらい》もつれずたった一人《ひとり》、どこというあてもなく運《うん》だめしに出かけました。
二
国々《くにぐに》を方々《ほうぼう》めぐりあるいて、為朝《ためとも》はとうとう九州《きゅうしゅう》に渡《わた》りました。その時分《じぶん》九州《きゅうしゅう》のうちには、たくさんの大名《だいみょう》があって、めいめい国《くに》を分《わ》け取《ど》りにしていました。そしてそのてんでんの国《くに》にいかめしいお城《しろ》をかまえて、少《すこ》しでも領分《りょうぶん》をひろめようというので、お隣同士《となりどうし》始終《しじゅう》戦争《せんそう》ばかりしあっていました。
為朝《ためとも》は九州《きゅうしゅう》に下《くだ》ると、さっそく肥後《ひご》の国《くに》に根城《ねじろ》を定《さだ》め、阿蘇忠国《あそのただくに》という大名《だいみょう》を家来《けらい》にして、自分勝手《じぶんがって》に九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》という役《やく》になって、九州《きゅうしゅう》の大名《だいみょう》を残《のこ》らず打《う》ち従《したが》えようとしました。九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》というのは、九州《きゅうしゅう》の総督《そうとく》という意味《いみ》なのです。すると外《ほか》の大名《だいみょう》たちは、これも半分《はんぶん》はこわいし、半分《はんぶん》はいまいましがって、
「為朝《ためとも》は総追捕使《そうついほし》だなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気《なまいき》な小僧《こぞう》じゃないか。」
といいいい、てんでんのお城《しろ》に立《た》てこもって、為朝《ためとも》が攻《せ》めて来《き》たら、あべこべにたたき伏《ふ》せてやろうと待《ま》ちかまえていました。
為朝《ためとも》は聞《き》くと笑《わら》って、
「はッは。たかが九州《きゅうしゅう》の小大名《こだいみょう》のくせに、ばかなやつらだ。いったいおれを何《なん》だと思《おも》っているのだろう。子供《こども》だって、りっぱな源氏《げんじ》の本家《ほんけ》の八|男《なん》じゃないか。」
こういって、すぐ阿蘇忠国《あそのただくに》を案内者《あんないしゃ》にして、わずかな味方《みかた》の兵《へい》を連《つ》れたなり、九州《きゅうしゅう》の城《しろ》という城《しろ》を片《かた》っぱしからめぐり歩《ある》いて、十三の年《とし》の春《はる》から十五の年《とし》の秋《あき》まで、大戦《おおいくさ》だけでも二十|何度《なんど》、その外《ほか》小《ちい》さな戦《いくさ》は数《かず》のしれないほどやって、攻《せ》め落《お》とした城《しろ》の数《かず》だけでも何《なん》十|箇所《かしょ》というくらいでした。それで三|年《ねん》めの末《すえ》にはとうとう九州《きゅうしゅう》残《のこ》らず打《う》ち従《したが》えて、こんどこそほんとうに総追捕使《そうついほし》になってしまいました。
すると為朝《ためとも》に打《う》ち従《したが》えられた大名《だいみょう》たちは、うわべは降参《こうさん》した体《てい》に見《み》せかけながら、腹《はら》の中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっと都《みやこ》に使《つか》いを立《た》てて、為朝《ためとも》が九州《きゅうしゅう》に来《き》てさんざん乱暴《らんぼう》を働《はたら》いたこと、天子《てんし》さまのお許《ゆる》しも受《う》けないで、自分勝手《じぶんかって》に九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》になったことなどをくわしく手紙《てがみ》に書《か》き、その上に為朝《ためとも》の悪口《わるくち》を有《あ》ること無《な》いことたくさんにならべて、どうか一|日《にち》も早《はや》く為朝《ためとも》をつかまえて、九州《きゅうしゅう》の人民《じんみん》の難儀《なんぎ》をお救《すく》い下《くだ》さいと申《もう》し上《あ》げました。
天子《てんし》さまはたいそうお驚《おどろ》きになって、さっそく役人《やくにん》をやって為朝《ためとも》をお呼《よ》び返《かえ》しになりました。けれども為朝《ためとも》は、
「きっとこれはだれかが天子《てんし》さまに讒言《ざんげん》したにちがいない。天子《てんし》さまには、間違《まちが》いだからといって、よく申《もう》し上《あ》げてくれ。」
といって、役人《やくにん》を追《お》い返《かえ》してしまいました。
為朝《ためとも》がいうことをきかないので、天子《てんし》さまはお怒《おこ》りになって、子供《こども》の悪《わる》いのは親《おや》のせいだからというので、おとうさんの為義《ためよし》を免職《めんしょく》して、隠居《いんきょ》させておしまいになりました。
為朝《ためとも》は、おとうさんが自分《じぶん》の代《か》わりに罰《ばつ》を受《う》けたということを聞《き》きますと、はじめてびっくりしました。
「おれは天子《てんし》さまのお罰《ばつ》をうけることをこわがって、都《みやこ》へ行かないのではない。それを自分《じぶん》が行かないために、年《とし》を取《と》られたおとうさんがおとがめをうけるというのはお気《き》の毒《どく》なことだ。そういうわけなら一|日《にち》も早《はや》く都《みやこ》に上《のぼ》って、おとうさんの代《か》わりにどんなおしおきでも受《う》けることにしよう。」
こういって為朝《ためとも》はさっそく今《いま》の楽《たの》しい身分《みぶん》をぽんと棄《す》てて、前《まえ》に下《くだ》って来《き》た時《とき》と同様《どうよう》、家来《けらい》も連《つ》れずたった一人《ひとり》でひょっこり都《みやこ》へ帰《かえ》って行こうとしました。ところが長《なが》い間《あいだ》為朝《ためとも》になついて、影身《かげみ》にそうように片時《かたとき》もそばをはなれない二十八|騎《き》の武士《ぶし》が、どうしてもお供《とも》について行きたいといってききませんので、為朝《ためとも》も困《こま》って、これだけはいっしょに連《つ》れて都《みやこ》に上《のぼ》ることにしました。
こういうわけで九州《きゅうしゅう》から為朝《ためとも》について来《き》た家来《けらい》は二十八|騎《き》だけでしたが、どうしてもお供《とも》ができなければ、せめて途中《とちゅう》までお見送《みおく》りがしたいといって、いくら断《ことわ》っても、断《ことわ》っても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来《けらい》たちの数《かず》はそれはそれはおびただしいものでした。為朝《ためとも》は力《ちから》が強《つよ》いばかりでなく、おとうさんに孝心《こうしん》ぶかいと同様《どうよう》、だれに向《む》かっても情《なさ》けぶかい、心《こころ》のやさしい人でしたから、三|年《ねん》いるうちにこんなに大勢《おおぜい》の人から慕《した》われて、ほんとうに九州《きゅうしゅう》の王《おう》さま同様《どうよう》だったのです。それでだれいうとなく、為朝《ためとも》のことを鎮西八郎《ちんぜいはちろう》と呼《よ》ぶようになりました。鎮西《ちんぜい》というのは西《にし》の国《くに》ということで、九州《きゅうしゅう》の異名《いみょう》でございます。
三
さて為朝《ためとも》は一|日《にち》も早《はや》くおとうさんを窮屈《きゅうくつ》なおしこめから出《だ》してあげたいと思《おも》って、急《いそ》いで都《みやこ》に上《のぼ》りました。ところが上《のぼ》ってみておどろいたことには、都《みやこ》の中はざわざわ物騒《ものさわ》がしくって、今《いま》に戦争《せんそう》がはじまるのだといって、人民《じんみん》たちはみんなうろたえて右《みぎ》に左《ひだり》に逃《に》げ廻《まわ》っていました。どうしたのだろうと思《おも》って聞《き》くと、なんでも今《いま》の天子《てんし》さまの後白河天皇《ごしらかわてんのう》さまと、とうにお位《くらい》をおすべりになって新院《しんいん》とおよばれになった先《さき》の天子《てんし》さまの崇徳院《すとくいん》さまとの間《あいだ》に行きちがいができて、敵味方《てきみかた》に別《わか》れて戦争《せんそう》をなさろうというのでした。朝廷《ちょうてい》が二派《ふたは》に分《わ》かれたものですから、自然《しぜん》おそばの武士《ぶし》たちの仲間《なかま》も二派《ふたは》に分《わ》かれました。そして、後白河天皇《ごしらかわてんのう》の方《ほう》へは源義朝《みなもとのよしとも》だの平清盛《たいらのきよもり》だの、源三位頼政《げんざんみのよりまさ》だのという、そのころ一ばん名高《なだか》い大将《たいしょう》たちが残《のこ》らずお味方《みかた》に上《あ》がりましたから、新院《しんいん》の方《ほう》でも負《ま》けずに強《つよ》い大将《たいしょう》たちをお集《あつ》めになるつもりで、まずおとがめをうけて押《お》しこめられている六条判官為義《ろくじょうほうがんためよし》の罪《つみ》をゆるして、味方《みかた》の大将軍《たいしょうぐん》になさいました。為義《ためよし》はもう七十の上を出た年寄《としよ》り[#「年寄《としよ》り」は底本では「年寄《としより》り」]のことでもあり、天子《てんし》さま同士《どうし》のお争《あらそ》いでは、どちらのお身方《みかた》をしてもぐあいが悪《わる》いと思《おも》って、
「わたくしはこのまま引《ひ》き籠《こも》っていとうございます。」
といって、はじめはお断《ことわ》りを申《もう》し上《あ》げたのですが、どうしてもお聞《き》き入《い》れにならないので、しかたなしに長男《ちょうなん》の義朝《よしとも》をのけた外《ほか》の子供《こども》たちを残《のこ》らず連《つ》れて、新院《しんいん》の御所《ごしょ》に上《あ》がることになりました。
そういうさわぎの中に為朝《ためとも》がひょっこり帰《かえ》って来《き》たのです。為義《ためよし》ももう昔《むかし》のように為朝《ためとも》をしかっているひまはありません。大《おお》よろこびで、さっそく為朝《ためとも》を味方《みかた》に加《くわ》えて、みんなすぐと出陣《しゅつじん》の用意《ようい》にとりかかりました。
四
為朝《ためとも》はやがて二十八|騎《き》の家来《けらい》をつれて新院《しんいん》の御所《ごしょ》に上《あ》がりました。新院《しんいん》は味方《みかた》の勢《せい》が少《すく》ないので心配《しんぱい》しておいでになるところでしたから、為朝《ためとも》が来《き》たとお聞《き》きになりますと、たいそうおよろこびになって、さっそくおそばに呼《よ》んで、
「いくさの駆《か》け引《ひ》きはどうしたものだろう。」
とおたずねになりました。すると為朝《ためとも》はおそれ気《げ》もなく、はっきりと力《ちから》のこもった口調《くちょう》で、
「わたくしは久《ひさ》しく九州《きゅうしゅう》に居《お》りまして、何《なん》十|度《ど》となくいくさをいたしましたが、こちらから寄《よ》せて敵《てき》を攻《せ》めますにも、敵《てき》を引《ひ》きうけて戦《たたか》いますにも、夜討《よう》ちにまさるものはございません。今夜《こんや》これからすぐ敵《てき》の本営《ほんえい》の高松殿《たかまつどの》におしよせて、三|方《ぼう》から火をつけて焼《や》き立《た》てた上、向《む》かってくる敵《てき》を一|方《ぽう》に引《ひ》き受《う》けてはげしく攻《せ》め立《た》てることにいたしましょう。そうすると、火に追《お》われて逃《に》げてくるものは矢《や》で射《い》とります。矢《や》をおそれて逃《に》げて行《い》くものは火に焼《や》き立《た》てられて命《いのち》を失《うしな》います。いずれにしても敵《てき》は袋《ふくろ》の中のねずみ同様《どうよう》手も足も出《だ》せるものではございません。それにあちらへお味方《みかた》に上《あ》がった武士《ぶし》の中で、いくらか手ごわいのはわたくしの兄《あに》義朝《よしとも》一人《ひとり》でございますが、これとてもわたくしが矢先《やさき》にかけて打《う》ち倒《たお》してしまいます。まして清盛《きよもり》などが人なみにひょろひょろ矢《や》の一つ二つ射《い》かけましたところで、ついこの鎧《よろい》の袖《そで》ではね返《かえ》してしまうまででございます。まあ、わたくしの考《かんが》えでは、夜《よ》の明《あ》けるまでもございません。まだくらいうちに勝負《しょうぶ》はついてしまいましょう。御安心《ごあんしん》下《くだ》さいまし。」
といいました。
為朝《ためとも》がこうりっぱに言《い》いきりますと、新院《しんいん》はじめおそばの人《ひと》たちは、「なるほど。」と思《おも》って、よけい為朝《ためとも》をたのもしく思《おも》いました。するとその中で一人《ひとり》左大臣《さだいじん》の頼長《よりなが》があざ笑《わら》って、
「ばかなことをいえ。夜討《よう》ちなどということは、お前《まえ》などの仲間《なかま》の二十|騎《き》か三十|騎《き》でやるけんか同様《どうよう》の小《こ》ぜりあいならば知《し》らぬこと、恐《おそ》れ多《おお》くも天皇《てんのう》と上皇《じょうこう》のお争《あらそ》いから、源氏《げんじ》と平家《へいけ》が敵味方《てきみかた》に分《わ》かれて力《ちから》くらべをしようという大《おお》いくさだ。そんな卑怯《ひきょう》な駆《か》け引《ひ》きはできぬ。やはり夜《よ》の明《あ》けるのを待《ま》って、堂々《どうどう》と勝負《しょうぶ》を争《あらそ》う外《ほか》はない。」
といって、せっかくの為朝《ためとも》のはかりごとをとり上《あ》げようともしませんでした。
為朝《ためとも》は、おもしろく思《おも》いませんでしたけれど、むりに争《あらそ》ってもむだだと思《おも》いましたから、そのままおじぎをして退《しりぞ》きました。そして心《こころ》の中では、
「何《なに》もしらない公卿《くげ》のくせによけいな差《さ》し出口《でぐち》をするはいいが、今《いま》にあべこべに敵《てき》から夜討《よう》ちをしかけられて、その時《とき》にあわててもどうにもなるまい。こんなふうでは、この戦《いくさ》にはとても勝《か》てる見込《みこ》みはない。まあ、働《はたら》けるだけ働《はたら》いて、あとはいさぎよく討《う》ち死《じ》にをしよう。」
と思《おも》いました。
こう覚悟《かくご》をきめると、それからはもう為朝《ためとも》はぴったり黙《だま》り込《こ》んだまま、しずかに敵《てき》の寄《よ》せてくるのを待《ま》っていました。
すると案《あん》の定《じょう》、その晩《ばん》夜中《よなか》近《ちか》くなって、敵《てき》は義朝《よしとも》と清盛《きよもり》を大将《たいしょう》にして、どんどん夜討《よう》ちをしかけて来《き》ました。
頼長《よりなが》はまさかと思《おも》った夜討《よう》ちがはじまったものですから、今更《いまさら》のようにあわてて、為朝《ためとも》のいうことを聞《き》かなかったことを後悔《こうかい》しました。そして為朝《ためとも》の御機嫌《ごきげん》をとるつもりで、急《きゅう》に新院《しんいん》に願《ねが》って為朝《ためとも》を蔵人《くらんど》という重《おも》い役《やく》にとり立《た》てようといいました。すると為朝《ためとも》はあざ笑《わら》って、
「敵《てき》が攻《せ》めて来《き》たというのに、よけいなことをする手間《てま》で、なぜ早《はや》く敵《てき》を防《ふせ》ぐ用意《ようい》をしないのです。蔵人《くらんど》でもなんでもかまいません。わたしはあくまで鎮西八郎《ちんぜいはちろう》です。」
とこうりっぱにいいきって、すぐ戦場《せんじょう》に向《む》かって行きました。
為朝《ためとも》が例《れい》の二十八|騎《き》をつれて西《にし》の門《もん》を守《まも》っておりますと、そこへ清盛《きよもり》と重盛《しげもり》を大将《たいしょう》にして平家《へいけ》の軍勢《ぐんぜい》がおしよせて来《き》ました。
為朝《ためとも》はそれを見《み》て、
「弱虫《よわむし》の平家《へいけ》め、おどかして追《お》いはらってやれ。」
と思《おも》いまして、敵《てき》がろくろく近《ちか》づいて来《こ》ないうちに、弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて敵《てき》の先手《さきて》に向《む》かって射《い》かけますと、この矢《や》が前《まえ》に立《た》って進《すす》んで来《き》た伊藤《いとう》六の胸板《むないた》をみごとに射《い》ぬいて、つきぬけた矢《や》が後《うし》ろにいた伊藤《いとう》五の鎧《よろい》の袖《そで》に立《た》ちました。
伊藤《いとう》五がおどろいて、その矢《や》をぬいて清盛《きよもり》の所《ところ》へもって行って見《み》せますと、並《な》みの二|倍《ばい》もある太《ふと》い箆《の》の先《さき》に大《おお》のみのようなやじりがついていました。清盛《きよもり》はそれを見《み》たばかりでふるえ上《あ》がって、
「なんでもこの門《もん》を破《やぶ》れという仰《おお》せをうけたわけでもないのだから、そんならんぼう者《もの》のいない外《ほか》の門《もん》に向《む》かうことにしよう。」
と勝手《かって》なことをいいながら、どんどん逃《に》げ出《だ》して行きました。
するとこんどはにいさんの義朝《よしとも》が平家《へいけ》の代《か》わりに向《む》かって来《き》ました。にいさんはにいさんだけの威光《いこう》で、いきなりしかりつけて為朝《ためとも》を恐《おそ》れ入《い》らしてやろうと思《おも》ったと見《み》えて、義朝《よしとも》は為朝《ためとも》の顔《かお》の見《み》えるところまで来《き》ますと、大きな声《こえ》で、
「そこにいるのは八郎《はちろう》だな。にいさんに向《む》かって弓《ゆみ》をひくやつがあるか。はやく弓矢《ゆみや》を投《な》げ出《だ》して降参《こうさん》しないか。」
といいました。
すると為朝《ためとも》は笑《わら》って、
「にいさんに弓《ゆみ》をひくのがわるければ、おとうさんに向《む》かって弓《ゆみ》をひくあなたはもっとわるいでしょう。」
とやり込《こ》めました。
これで義朝《よしとも》もへいこうして、だまってしまいました。そしてくやしまぎれに、はげしく味方《みかた》にさしずをして、めちゃめちゃに矢《や》を射《い》かけさせました。
為朝《ためとも》はこの様子《ようす》をこちらから見《み》て、大将《たいしょう》の義朝《よしとも》をさえ射落《いお》とせば、一|度《ど》に勝負《しょうぶ》がついてしまうのだと考《かんが》えました。そこで弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて、義朝《よしとも》の方《ほう》にねらいをつけました。
「あの仰《あお》むけている首筋《くびすじ》を射《い》てやろうか。だいぶ厚《あつ》い鎧《よろい》を着《き》ているが、あの上から胸板《むないた》を射《い》とおすぐらいさしてむずかしくもなさそうだ。」
こう為朝《ためとも》は思《おも》いながら、すぐ矢《や》を放《はな》そうとしましたが、ふと、
「いや待《ま》て。いくら敵《てき》でもにいさんはにいさんだ。それにこうして父子《おやこ》わかれわかれになっていても、おとうさんとにいさんの間《あいだ》に内《ない》しょの約束《やくそく》があって、どちらが負《ま》けてもお互《たが》いに助《たす》け合《あ》うことになっているのかもしれない。」
と思《おも》い返《かえ》して、わざとねらいをはずして、義朝《よしとも》の兜《かぶと》に射《い》あてました。すると矢《や》は兜《かぶと》の星《ほし》を射《い》けずって、その後《うし》ろの門《もん》の七八|寸《すん》もあろうという扉《とびら》をぷすりと射《い》ぬきました。これだけで義朝《よしとも》は胆《きも》を冷《ひや》して、これも外《ほか》の門《もん》へ逃《に》げ出《だ》して行きました。
こうして為朝《ためとも》一人《ひとり》に射《い》すくめられて、その守《まも》っている門《もん》にはだれも近《ちか》づきませんでしたが、なんといっても向《む》こうは人数《にんずう》が多《おお》い上に、こちらの油断《ゆだん》につけ込《こ》んで夜討《よう》ちをしかけて来《き》たのですから、はじめから元気《げんき》がちがいます。とうとう外《ほか》の門《もん》が一つ一つ片《かた》はしからうち破《やぶ》られ、やがてどっと総《そう》くずれになりました。
こうなると為朝《ためとも》一人《ひとり》いかに力《りき》んでもどうもなりません。例《れい》の二十八|騎《き》もちりぢりになってしまったので、ただ一人《ひとり》近江《おうみ》の方《ほう》へ落《お》ちて行きました。
その後《のち》、新院《しんいん》はおとらわれになって、讃岐《さぬき》の国《くに》に流《なが》され、頼長《よりなが》は逃《に》げて行《い》く途中《とちゅう》だれが射《い》たともしれない矢《や》に射《い》られて死《し》にました。
おとうさんの為義《ためよし》はじめ兄弟《きょうだい》たちは残《のこ》らずつかまって、首《くび》をきられてしまいました。
その中で為朝《ためとも》は一人《ひとり》、いつまでもつかまらずに、近江《おうみ》の田舎《いなか》にかくれていましたが、戦《いくさ》の時《とき》にうけたひじの矢《や》きずがはれて、ひどく痛《いた》み出《だ》したものですから、ある時《とき》近所《きんじょ》の温泉《おんせん》に入《はい》って矢《や》きずのりょうじをしていました。するとかねてから為朝《ためとも》のゆくえをさがしていた平家《へいけ》の討《う》っ手《て》が向《む》かって、為朝《ためとも》の油断《ゆだん》をねらって、大勢《おおぜい》一|度《ど》におそいかかってつかまえてしまいました。
為朝《ためとも》はそれから京都《きょうと》へ引《ひ》かれて、首《くび》をきられるはずでしたが、天子《てんし》さまは為朝《ためとも》の武勇《ぶゆう》をお聞《き》きになって、
「そういう勇士《ゆうし》をむざむざと殺《ころ》すのはもったいない。なんとかして助《たす》けてやったらどうか。」
とおっしゃいました。そこで為朝《ためとも》の死罪《しざい》を許《ゆる》して、その代《かわ》り強《つよ》い弓《ゆみ》の引《ひ》けないように、ひじの筋《すじ》を抜《ぬ》いて伊豆《いず》の大島《おおしま》に流《なが》しました。
為朝《ためとも》は筋《すじ》を抜《ぬ》かれて弓《ゆみ》は少《すこ》し弱《よわ》くなりましたが、ひじがのびたので、前《まえ》よりもかえって長《なが》い矢《や》を射《い》ることができるようになりました。
五
為朝《ためとも》は大島《おおしま》へ渡《わた》ると、
「おれは八幡太郎《はちまんたろう》の孫《まご》だ。この島《しま》は天子《てんし》さまから頂《いただ》いたものだ。」
といって、島《しま》を討《う》ち従《したが》えてしまいました。そのうち方々《ほうぼう》にかくれていた為朝《ためとも》の家来《けらい》が、一人《ひとり》二人《ふたり》とだんだん集《あつ》まって来《き》て為朝《ためとも》につきました。
「九州《きゅうしゅう》よりはずっと小《ちい》さいが、また為朝《ためとも》の国《くに》ができた。」
こういって、為朝《ためとも》はここでも王《おう》さまのような威勢《いせい》になりました。
ある時《とき》為朝《ためとも》は海《うみ》ばたに出て、はるか沖《おき》の方《ほう》をながめていますと、白《しろ》いさぎと青《あお》いさぎが二|羽《わ》つれ立《だ》って海《うみ》の上を飛《と》んで行きます。為朝《ためとも》はそれをながめて、
「わしかなんぞなら知《し》らないが、さぎのような羽《はね》の弱《よわ》いものでは、せいぜい一|里《り》か二|里《り》ぐらいしか飛《と》ぶ力《ちから》はないはずだ。それがああして行くところを見《み》ると、きっとここからそう遠《とお》くないところに島《しま》があるにちがいない。」
といって、そのまま小船《こぶね》にとび乗《の》って、さぎの飛《と》んで行った方角《ほうがく》に向《む》かってどこまでもこいで行きました。
その日一|日《にち》こいで、海《うみ》の上で日がくれましたが、島《しま》らしいものは見《み》つかりません。夜《よる》はちょうど月のいいのを幸《さいわ》いに、またどこまでもこいで行きますと、明《あ》け方《がた》になって、やっと島《しま》らしいものの形《かたち》が見《み》えました。
為朝《ためとも》はだんだんそばへよってみますと、岸《きし》は岩《いわ》がけわしい上に波《なみ》が高《たか》いので、船《ふね》が着《つ》けられません。さんざん回《まわ》りをこぎ回《まわ》りますと、やっと平《たい》らな州《す》のようなところがあって、島《しま》の中から小《ちい》さな川がそこに流《なが》れ出《だ》していました。
為朝《ためとも》はそこから上《あ》がって、ずんずん奥《おく》へ入《はい》って見《み》ますと、一めん、岩《いわ》でたたんだような土地《とち》で、田《た》もなければ畠《はた》もありません。ところどころに見《み》なれない草木《くさき》が生《は》えて、珍《めずら》しい匂《にお》いの花《はな》が咲《さ》いていました。
いくら歩《ある》いても家《いえ》らしいものも見《み》えませんでしたが、そのうちいつどこから出て来《き》たか、一|丈《じょう》も背《せい》の高《たか》さのある大男《おおおとこ》がのそのそと出て来《き》ました。まっくろな体《からだ》に毛《け》がもじゃもじゃ生《は》えて、頭《あたま》の髪《かみ》の毛《け》はまっ赤《か》で、針《はり》を植《う》えたようでした。
為朝《ためとも》は不思議《ふしぎ》に思《おも》って、
「この島《しま》は何《なん》という島《しま》だ。」
と大男《おおおとこ》の一人《ひとり》に聞《き》きますと、
「鬼《おに》ガ島《しま》といいます。」
とこたえました。
為朝《ためとも》は、いよいよ珍《めずら》しく思《おも》って、
「じゃあお前《まえ》たちは鬼《おに》か。それとも先祖《せんぞ》が鬼《おに》だったのか。」
とたずねました。
「そうです。わたくしどもは鬼《おに》の子孫《しそん》です。」
「鬼《おに》ガ島《しま》なら、宝《たから》があるだろう。」
「むかしほんとうの鬼《おに》だった時分《じぶん》には、かくれみのだの、かくれがさだの、水の上を浮《う》く靴《くつ》だのというものがあったのですが、今《いま》では半分《はんぶん》人間《にんげん》になってしまって、そういう宝《たから》もいつの間《ま》にかなくなってしまいました。」
「よその島《しま》へ渡《わた》ったことはないか。」
「むかしは船《ふね》がなくっても、ずんずん、よその島《しま》へ行って、人をとったりしたこともありましたが、今《いま》では船《ふね》もないし、たまによそから風《かぜ》にふきつけられてくる船《ふね》があっても、波《なみ》が荒《あら》いので、岸《きし》に上《あ》がろうとすると岩《いわ》にぶつかって砕《くだ》けてしまうのです。」
「何《なに》を食《た》べて生《い》きている。」
「魚《さかな》と鳥《とり》を食《た》べます。魚《さかな》はひとりでに磯《いそ》に上《あ》がって来《き》ます。穴《あな》を掘《ほ》ってその中にかくれて、鳥《とり》の声《こえ》をまねていると、鳥《とり》はだまされて穴《あな》の中にとび込《こ》んで来《き》ます。それをとって食《た》べるのです。」
こういっている時《とき》に、ひよどりのような鳥《とり》がたくさん空《そら》の上をかけって来《き》ました。為朝《ためとも》はもって来《き》た弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて、鳥《とり》に向《む》かって射《い》かけますと、すぐ五六|羽《ぱ》ばたばたと重《かさ》なり合《あ》って落《お》ちて来《き》ました。
島《しま》の大男《おおおとこ》は弓矢《ゆみや》を見《み》たのは初《はじ》めてなので、目をまるくして見《み》ていましたが、空《そら》を飛《と》んでいるものが、射落《いお》とされたのを見《み》て、舌《した》をまいておじおそれました。そして為朝《ためとも》を神《かみ》さまのように敬《うやま》いました。
為朝《ためとも》は鬼《おに》ガ島《しま》を平《たい》らげたついでに、ずんずん船《ふね》をこぎすすめて、やがて伊豆《いず》の島々《しまじま》を残《のこ》らず自分《じぶん》の領分《りょうぶん》にしてしまいました。そして鬼《おに》ガ島《しま》から大男《おおおとこ》を一人《ひとり》つれて、大島《おおしま》へ帰《かえ》って来《き》ました。
大島《おおしま》の者《もの》は、為朝《ためとも》が小船《こぶね》に乗《の》って出たなり未《いま》だに帰《かえ》って来《こ》ないので、どうしたのかと思《おも》っていますと、ある日《ひ》恐《おそ》ろしい鬼《おに》をつれてひょっこり帰《かえ》って来《き》たので、みんなびっくりしてしまいました。
六
こうして為朝《ためとも》は十|年《ねん》たたないうちに、たくさんの島《しま》を討《う》ち従《したが》えて、海《うみ》の王《おう》さまのような勢《いきお》いになりました。すると為朝《ためとも》のために大島《おおしま》を追《お》われた役人《やくにん》がくやしがって、ある時《とき》都《みやこ》に上《のぼ》り、為朝《ためとも》が伊豆《いず》の七|島《とう》を勝手《かって》に奪《うば》った上に、鬼《おに》ガ島《しま》から鬼《おに》をつれて来《き》て、らんぼうを働《はたら》かせている、捨《す》てて置《お》くと、今《いま》にまた謀反《むほん》の戦《いくさ》をおこすかもしれませんといって訴《うった》えました。
天子《てんし》さまはたいそうおおどろきになり、伊豆《いず》の国司《こくし》の狩野介茂光《かののすけしげみつ》というものにたくさんの兵《へい》をつけて、二十|余艘《よそう》の船《ふね》で大島《おおしま》をお攻《せ》めさせになりました。
為朝《ためとも》は岸《きし》の上からはるかに敵《てき》の船の帆《ほ》かげを見《み》ると、あざ笑《わら》いながら、
「久《ひさ》しぶりで腕《うで》だめしをするか。」
といって、例《れい》の強《つよ》い弓《ゆみ》に長《なが》い矢《や》をつがえて、まっ先《さき》に進《すす》んだ大きな船《ふね》の胴腹《どうばら》をめがけて矢《や》を射込《いこ》みました。すると船《ふね》はみごとに大穴《おおあな》があいて、たくさんの兵《へい》を乗《の》せたまま、ぶくぶくと海《うみ》の中に沈《しず》んでしまいました。敵《てき》はあわてて海《うみ》の中でしどろもどろに乱《みだ》れて騒《さわ》ぎはじめました。
為朝《ためとも》はつづいて二の矢《や》をつがえようとしましたが、船《ふね》を沈《しず》められた大《おお》ぜいの敵兵《てきへい》が、おぼれまいとして水の中であっぷ、あっぷもがいている様子《ようす》を見《み》ると、ふとかわいそうになって、
「かれらはいいつけられて為朝《ためとも》を討《う》ちに来《き》たというだけで、もとよりおれにはあだも恨《うら》みもない者《もの》どもだ。そんなものの命《いのち》をこの上むだにとるには忍《しの》びない。それにいったんこうして敵《てき》を退《しりぞ》けたところで、朝敵《ちょうてき》になっていつまでも手向《てむ》かいがしつづけられるものではない。考《かんが》えて見《み》ると、おれもいろいろおもしろいことをして来《き》たから、もう死《し》んでも惜《お》しくはない。おれがここで一人《ひとり》死《し》んでやれば、大《おお》ぜいの命《いのち》が助《たす》かるわけだ。」
こういって、為朝《ためとも》はそのままうちにかえって、自分《じぶん》の居間《いま》にはいると、しずかに切腹《せっぷく》して死《し》んでしまいました。
そのあとで寄《よ》せ手《て》は、こわごわ島《しま》に上《あ》がって見《み》て、為朝《ためとも》が一人《ひとり》でりっぱに死《し》んでいるのを見《み》てまたびっくりしました。
底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
※「鬼ガ島」の「ガ」は底本では小書きになっています。
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
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