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山を讃する文
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頗《すこぶ》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)これに異なり、|夏の休暇《サムマア・ヴァケーション》は、
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+倉」、第4水準2-1-77]
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近来邦人が、いたづらなる夏期講習会、もしくは無意義なるいはゆる「湯治」「海水浴」以外に、種々なる登山の集会を計画し、これに附和するもの漸く多きを致す傾向あるは頗《すこぶ》る吾人の意を獲《え》たり、しかも邦人のやや山岳を識るといふ人も、富士、立山《たてやま》、白山《はくさん》、御嶽《おんたけ》など、三、四登りやすきを上下したるに過ぎず、その他に至りては、これを睹《み》ること、宛《さなが》ら外国の山岳の如くなるは、遺憾にあらずや。
例へば東京最近の山岳国といへば、甲斐なるべくして、しかも敢へて峡中に入り、峻山深谿《しゅんざんしんけい》を跋渉《ばっしょう》したるもの幾人かある、今や中央鉄道開通して、その益を享《う》くるもの、塩商米穀商以外に多からずとせば、邦人が鉄道を利用するの道もまた狭いかな、偶《たまた》ま地質家、山林家、植物家らにして、これらの人寰《じんかん》を絶したる山間谿陰に、連日を送りたるものあるは、これを聞かざるにあらずといへども、しかもかくの如きはこれ、漁人海に泛《うか》び、樵夫《しょうふ》山に入ると同じく、その本職即ち然《しか》るのみ、余の言ふところの意はこれに異なり、|夏の休暇《サムマア・ヴァケーション》は、衆庶に与へられたる安息日なり、飽食と甘睡《かんすい》とを以て、空耗すべきにあらず、盍《いず》くんぞ自然の大堂に詣でて、造花の威厳を讃せざる、天人間に横《よこた》はれる契点を山なりとすれば、山の天職たるけだし重く、人またこれを閑却するを許さざるなり。
余今夏、友人紫紅山崎君と峡中に入る、峡中の地たる、東に金峰の大塊あり、北に八ヶ岳火山あり、西に駒ヶ岳の花崗岩《かこうがん》大系あり、余らの計画はこれらの山岳を、次第に巡るに在りて、今や殆《ほとん》どその三の二を遂げたり、而して上下跋渉の間、心胸、豁如《かつじょ》、洞朗、昨日の我は今日の我にあらず、今日の我はおそらく明日の我にあらざらむ、而してこれ向上の我なり、いよいよ向上して我を忘れ、程を逐ひて自然に帰る、想ひ起す、昨八ヶ岳裾野の紫蕊紅葩《しずいこうは》に、半肩を没して佇《たたず》むや、奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く兀々然《こつこつぜん》として天を衝《つ》き、乱焼の焔は、茅萱《ちがや》の葉々を辷《すべ》りて、一|泓水《こうすい》の底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、一朶《いちだ》の玉蘭《はもくれん》、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや、桔梗《ききょう》もまた羞ぢて莟《つぼみ》を垂れんとす、眇《びょう》たる五尺の身、この色に沁み、この火に焼かれて、そこになほ我ありとすれば、そは同化あるのみ、同化の極致は大我あるのみ、その原頭を、馬を牽《ひ》いて過ぎゆく※[#「にんべん+倉」、第4水準2-1-77]夫《そうふ》を目送するに、影は三丈五丈と延び、大樹の折るる如くして、かの水に落ち、忽焉《こつえん》として聖火に冥合す、彼大幸を知らず、知らざるところ、彼の最も大幸なる所以《ゆえん》なり、ああ、岳神、大慈大悲、我らに代り、その屹立《きつりつ》を以て、その威厳を以て、その秀色を以て、千古万古天に祈祷しつつあるを知らずや。
徂徠《そらい》先生その『風流使者記』中に曰く「風流使者訪名山」と。我らは風流使者にあらず、しかも天縁尽きずして、ここに名山を拝するの栄を得、名山が天を讃する如くにして、人間は名山を讃す、また可ならずや。
駒ヶ岳の麓、台ヶ原の客舎に昼餐を了《おわ》りたる束の間に、禿筆を舐《な》ぶりて偶感を記す、その文を成さざる、冀《こいねがわ》くは我が興の高きを妨ぐるなからむ。
底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日第1版発行
1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 全十四巻」大修館書店
1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年9月20日公開
2003年10月20日修正
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