青空文庫アーカイブ

高山の雪
小島烏水

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     一

 日本は海国で、島国であるには違いないが、国内には山岳が重畳夏の雪は、高山の資格を標示する徽章である。
 雪と山とは、このように密接な関係があり、山上の雪は後に説明するいわゆる「万年雪」や、氷河となっている。即ち永久に地殻の一部を作っているので、地質学者は雪を岩石の部に編入しているほどである。雪と山との合体から、雪の色が山の名になってしまった例は頗語に出て来る「氷の山」の義で、常に崇高な氷雪を戴いているため、チベット人は、神聖視しているとのことだ。
 また北米で有名な、シエラ・ネヴァダ山 Sierra Nevadaのシエラは鋸歯ということだが、ネヴァダは万年雪(Neve[#両方の「e」にアクサンテギュ(´)が付く])と語原を同じゅうした「雪の峰」ということである、米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。
 顧みて「高根の雪」なる美しい語が、我が日本の古くからの歌に散見するのも、我が山岳国には欠かれない存在であると云わねばならない。しかしながら、単に「雪で白い山」だけなら、理解力の幼稚な小児でも言える。私どもの知識欲は、この荘厳にして視神経を刺戟する程度の強さが、容積の大から来るそれに匹敵する山岳に対して、もう少し、微細に深刻に入って見たい。
 思うに、人事において流行われた名所や風光で満足が出来ないのである。ちょうど十九世紀に著しく勃興した探検事業は、科学的研究心と合体して、未知数に向い、無人境に向った結果、山岳研究ということが、欧洲より米国に、また日本に伝わって来て、諸々の文明国は、山岳会を有するに至った。何故ならば、山岳は百般の自然現象を、ほぼ面積の大なる垂直体に収容した博物館であり、美術殿堂であるからである。就中山岳の雪は、研究の対象として最も興味のある題目である。

     二

 山岳は雪を被むるによって、その美しさを一層増す。朝は日を受けて柔和な桃色を潮めき、そのあまりに純白なるために、傍で見ると空線に近い大気を黒くさせて、眼を痛くすることがある。夕は日が背後に没して、紫水晶のように匂やかに見える。筑波山の紫は、花崗石の肌の色に負うことが多いが、富士山の冬の紫は、雪の変幻から生ずる色といっても大過はあるまい。
 ただしこれらは遠くで見る山の美しさである、実際日本北アルプス辺の峰頭に立って見ると雪田の美しさは、また別物である、柔かく彎曲する雪田の表面は、刃のような山稜から、暗い深い谷に折れ、窪地に落ちこんでは、軟らかい白毛の動物の背中のように円くなり、長く蜿の白い衣は、幾十回となく起伏を重ねて、凹面にはデリケートな影をよどませ、凸面には金粉のような日光を漂わせ、その全体は、単純一様に見えながら、部分の曲折、高低、明暗は、複雑な暗示に富み、疲れた眼には完全なる安息という観念を与える、そのまた雪白色は、蒼空と映じていかにも微細で尖鋭な、ピンク色に変化させる。
 もっともこう言った雪の美しさだけなら、何も高山に限らず、寒帯地方で、もっと大規模に見られるかも知らぬが、高山特得ともいうべきは、空の濃碧であること、色彩の光輝あること、植物の変化と豊饒なることなどが、その背景になっていることで、北寒地方の雪といえども、これらには辛うじて匹敵し得られるに過ぎまい。
 しかしながら山岳の雪は、ただその美観によって研究される価値あるばかりでなく、造山力を有する動作から言っても、雪それ自身の特立した状態から言っても、また生物を保護する恩恵から言っても、興味があるから、以下にこれを説く事にする。
 試く。また山の頭のギザギザは、白くなったために、輪廓がハッキリして、一本一本の尖りまで見える。
 白い山に碧い空は、最も対照の美なるものである、或植物学者が花の色の最も眼にハッキリ見えやすいのは、緑の葉で包まれた白い花である、と言ったが、碧い空で包まれた白い山も、同じ視線を惹ち切られているからである。
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放って眩風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、挙げてあるのも、やはり同一な細胞藻であった、この外にアンシロネマ Ancylonema という藻が生えて、雪を青色または菫色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私は未だそういう雪を見たことはない。(紅雪を標品として採集するには、雪と共に瓶の中へ入れ、フォルマリン薬を臭気強いまで滴下して置けば、雪は無論溶けるが、藻は保存が出来る、ただし紅色はやや久しいうちには、全く失われるが、学術標品としては差支えないのである。)
 さて新雪について言うと、低地の気温の高い所で、密集した雲が雨となるように、山岳の高寒地のそれは雪になる、しかし今まで降っていた雪が、低い空気層に入ると、忽と下落し、遅かれ早かれ、融解するのである。
 但し花崗岩や片麻岩質の、石が硬くとも分解しやすい山(日本南アルプスの駒ヶ岳山脈や、関東山脈の西端、甲武信三国境界附近の、花崗岩塊にこの種の高山が多い)は、岩石大崩壊のために遠望すると白くなって雪と紛されているので、雪に比べると晶明な光輝が乏しいので、あまり遠からぬ距離からは、容易に区別される。
 かかる高山の雪は、何時頃降るだろうか。
 一体高山の初雪というのは、改まった暦の初めに降るという意味なのでなく、雪の消滅時季なる夏を通過してから、後に初めて降る雪を言うのである。故に一月元旦に降ったからとて、必ずしも初雪とはいわず、前年の九月や十月頃に降った方のを、かえって初雪と称する。それも山に常住して言うのではなく、遠望して言うのだから、世に報告された初雪なるものが、正しいか否かは疑問である。いわゆる初雪は、一昨々年の調査によると、
  鳥海山(二千百五十七米突)十月 二日  戸隠山(二千四百二十五米突)十月 九日
  妙高山(二千四百五十四米突)十月 九日  黒姫山(一千九百八十二米突)同上
  八ヶ岳(二千九百三十二米突)十月 十日  刈田岳(一千八百二十九米突)十月十四日
  岩木山(一千五百九十四米突)十月十五日  八甲田山(一千八百五十二米突)同上
  槍ヶ岳(三千百八十米突)十月十九日  白馬岳(二千九百三十三米突)同上
  吾妻山(一千八百六十米突)十月二十日  大日岳(一千三百九十米突)同上
  四阿山(二千三百五十七米突)十月二十日  阿蘇山(一千五百八十三米突)十一月廿五日
   この標高は槍ヶ岳と白馬岳とを除いて、従来の地理書に従ったのであるから、当にならないものである。
で、北から中央、それから南と及ぼして雪の遅速が解る。そうして多くは、その前年または前々年と比べても、同一山において、十日内外の遅速があるのに過ぎないというのであるから、先ず大概の見当はつくであろう。
 富士山の如きは、十月より四月頃までは不断の降雪があるが、一昨々年は五月十二日に五合目以上に降雪あり、一昨年は五月二十六日には山巓はなかろう。随って厳格に言えば、初雪という語は意義を成さないのである。

     三

 次に、高山の氷雪が、如何となって、日本のように山岳が多くて平原の狭い国は、平原中が雪で埋没されるわけになってしまうのである。
 山岳に登ったことのない人は、山の頂点に行けば行くほど、寒いから雪が多量に積むものと考えているらしいが、事実はそうでない。頂点は風力が強くて、雪を飛散させるためと、傾斜急峻で雪の維持力に乏しいためとで、かえって雪は少量または稀有である。その少量の取り残された残雪も氷河となって、遅緩なる運動を以て、山から下りて来るのである。またあまり高層へ行くと、空気は乾燥して水分を含むことが少ないから、雪はかえってないものである。近頃では展覧会などで見る「高嶺の雪」などいう日本画には、空気を絶したような峻急な高嶺に、綿帽子のように、むやみに雪を盛り上げたのがあるけれども、あれは誤りである。
 もし毎年の雪の量を、測量して見たいと思う人があったら、雪の上に、適宜な印をつけて置くことだ、勿論その雪は、万年雪か、一カ年で溶解しないものでなければならぬ、そうして一年二年と経るうちに、印が次第に深いところへ埋没陥落して行くようなら、その山の雪は、融解の量より、堆積する方の量が多いものと見なければならぬ、勿論これは至って簡単な方法を選んだのである。
 日本の山岳は、日本アルプスあたりでは、大洋より来る湿気を含める風が当って、降雪量は充分であるが、融ける分量の方が積る分量より多いのであるから、氷河という現象を作らない。富士山は日本では三千七百七十八米突という抜群の標高を有しているが、太平洋方面は黒潮が流れるほどの暖かさで、かつ冬季は霽め知り難いのである。
 これを、も一つ別の意味から言い換えると、日本アルプスは、南北によって雪の分量を異にしている、たとい厳格に言う雪線がなくても、夏日の残雪で、比較的常住の雪線を仮定して見ると、北は雪線が低くて、南が高くなっている、冬季多量なる湿分は、雪線を低くするが、これに反して乾燥な生暖かい風は、雪線を昂なる北風は、多量の雪を北アルプスの斜面や、山頂に振り落して、南アルプスには、その剰余を、分配するに過ぎないからではなかろうか。
 雪が氷河になると、その山側を擦り下りる圧力で山体を銷磨に風化作用の力であるから、山は岩石の性質によって種々雑多な形容をしている。硬い岩石は、例えば、甲州アルプスで金峰山(二五五一米突)の五丈石、鳳凰山(二七七九米突)の地蔵仏は、結晶岩なる花崗石で、飛騨山脈の槍ヶ岳(三一八〇米突)は石英斑岩の硬石である。また粘板岩や砂岩のような比較的柔かいのは、最後まで残存して孤立することがむつかしいので、石板が墜落堆積して、登るには困難する。その好例は赤石山(三一二〇米突)の赤石沢などで、およそ山巓から三百米突も下まで、大崩石で埋まっている。
 しかし、そういう岩石は、風化の作用だけで、雪の力を借らないものかというと、決してそうではない。夜は冷気のために雪が岩石の膚肌に凝結し、昼はそばから蒸発して行くので、冷熱の変化から岩石を破壊し、山体を陶器の破片のように滅茶滅茶にして散乱させる。飛騨山脈の槍ヶ岳から鎌尾根という山稜にかかる辺に、その岩石は洪水のように溢れている。それを破片岩(Debris)と称している。
 雪のある地方より高く抜いた山は、風化作用という破壊力のために、次第に低く削られるけれども、それが雪の多いところまで低下して来ると、かえって雪氷のために風化作用の爆裂から保護されて、傾斜も柔和になって、相応に高い平均高度を有することになる。日本アルプス飛騨山脈が平均三千米突の高度を有しているのはその好適例で、雪によって美しく、白馬岳(二九三三米突)のように高山植物に豊富で、雪に依ってその全体の高峻を、或程度までは保護されているのである。
 日本アルプスの中で、最も山形に変化の多いのは北アルプスで、それには乗鞍岳(三〇二六米突)や御嶽(三〇六五米突)のように、富士山を除いて、日本第一の大火山の噴出があったためもあるが、御嶽頂上の五個の池、乗鞍岳頂上の火口湖などに、絶えず美しい水を湛えているのも、また信飛地方の峡谷の水が、純美であるのも、雪から無尽蔵に供給するからである。
 氷河は勿論だが、雪辷輝石富士岩に属しているそうだ。この熔岩の上を雪が辷った痕を見ると、滑らかな光沢があって、鏡のように光っている。これは御殿場口から須走口に入ろうとする森林の側の、大日沢という所にも発見される。
 即ち普通の風化作用では、岩石の性質によっては凸凹が烈しく、あるいは岩石の節理が膨ある岩壁を見られ、それを氷河の遺跡と判断せられて、表面が丸く滑っこく、その上に擦痕があるのを特徴に挙げた。氷河の遺跡ということが、確説であるか否かは、氷河を見たことのない私は知らぬが、雪辷りの痕も、岩壁の擦面は婉曲になって、また擦痕も谷の方向に走っていることは、例を示すことが出来る。
 ただしかし一口に雪辷りと言っても、その雪は水に近い普通の雪解であるか、または氷に近い万年雪であるかによって、痕跡の状態に多大な相違を来すのである、両者の主なる相違は、水は低いところ、窪んだところに、活溌に働作をするのであるが、万年雪や氷は、寧ろ凸出した表面に働作をするのである、それだから、その擦痕も、水のは凹形になっているが、万年雪や氷河のは、凸形になっている、白馬岳の擦痕は、やはりこの凸形の方に属するらしく、富士で見たのは、いずれかと言えば凹形の方に属している。

     四

 山上において、積雪がどういう状態をしているかという事は、下界の人々には解らぬことであるから、最後にこれを説こうと思う。高峰の雪というと、誰でもその高潔を予想するが、新雪はともかく、いわゆる万年雪の状態にあるものは、表面は雨水が流れたり、崖の砂が塗られたり、偃松の枯枝が散ったりして、存外に汚ないものが多い。それも、一皮剥の色に見えることがある。
 また万年雪を、半氷半雪状の凝河として観察すると、中央は一体に、両側より高く盛り上って、両側から見ると、中央が高いために、視線が中断されることがある、どうしても山の両斜面は、夏は暖かであるため、近い雪を融解減退させ、中央よりドカ落ちをさせている、但し狭い窪地などで、両側の崖に倚しい。
 日本高山の雪は、一体にどの方面に多いかというと、私が十月の末に富士山に登ったときの経験で見ると、この山は北の方面よりも、南の太平洋面に多い。それは、北風が強くて、雪を南に吹き飛ばすからである。日本北アルプスなる飛騨山脈を観ると、ここは冬は西風が強くて、東の方へ吹きなぐるため、夏日の残雪も、東の方に多量に堆積している。それのみならず、日光の融解力を考えると、朝の日は東の方面に当るが、その光線の力が微細であるに反し、昼は北や南に、午後は主として西が強い光線を受ける、即ち東は融解の力を受けることが弱いから、雪が多量に留置されるのだ。
 そこで雪は、如何なる地点に最も多く残存するかというに、前に述べた如く、余り傾斜の峻急な尖った所には住まえないから、多くは緩傾斜の崖、または谷や盆地に留まる。しかし谷や盆地のは夏になると大概解けてしまうが、崖の雪は盛夏でも日本アルプスのは、半里から一里位の長さで繋までが踏み落ちると、そのまま氷漬けになり、自然の墳墓になるということであるが、日本ではそのように深奥なのはない。
 日本山岳における万年雪の罅穴で、下の雪がその脚となって、支えているようなこともある。
 次に雪の面は、必ずしも板のように平面でなく、風の吹き荒れたままに漣波からの雫が、河面にポタポタして、小さな円い輪を描いたのに似ている。これも風力が、雪片を飛散させて作ったのであろうと思われる。
 最後に雪の「カアル」(Kar)またはサアカス(Cirques)というものについて述べる。これは雪が深く、岩壁に喰い入って、そこだけを、虫歯の洞のように、深く刳と湧き出ていて、洞内に高山植物などが美しく咲いている、但し夏日うっかり奥まで深く這入ると、雪がくずれて圧倒する危険がないとも限らぬ。
 以上は雪そのものの美と作用を略説したのであるが、雪に依って保護される生物に、雷鳥や高山植物などがある。就中ぐのであるが、高山植物の美観は他日題を改めて説くつもりである。
 山岳を建築とすれば、高山植物は、この建築内部の装飾絵画のようなもので、その美術家は雪である。山という建築が、高く大きく発達するほど、雪という美術家が多くなり、高山植物という補助の絵画が立派に製作される。高山の雪は、あながち死を連想するほどに、冷酷、寂寞、荒廃ではないのである。



底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店
   1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年11月25日公開
2003年9月15日修正
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