青空文庫アーカイブ
紀行文家の群れ
――田山花袋氏――
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)犀利《さいり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)志賀|重昂《しげたか》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]
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明治文壇には、紀行文家と称せられる一群の顔ぶれがあった。根岸派では、饗庭篁村が先達で、八文字舎風の軽妙洒脱な紀行文を書き『東京朝日』の続きものとして明日を楽しませた。幸田露伴にも『枕頭山水』の名作があり、キビキビした筆致で、自然でも、人間でも、片っぱしからきめつけるような犀利《さいり》な文章を書いている。しかしこのご両人は、あまりに老大家であって、「一群」からは、かけ離れていた。一群の人たちは、遅塚麗水、大町桂月、江見水蔭、田山花袋、久保天随、坪谷水哉などであるが、花袋が紀行文家と言われた時分は、自然派文学勃興以前のことで、文章に感傷癖はあったが、淡泊清新、ことに武蔵野あたりの原野や雑木林の寂しさを、淡彩的に点描するのに巧みであった。武蔵野といえば、ただちに独歩の名作が連想されるが、花袋も紀行文家として「野の人」であった、武蔵野の人であった。私はなんのかのと、不足は言いながらも、しんみりと落ち着いた心持ちで、花袋が読めた。自然派勃興以後の花袋自身は、おそらく「こんなもの」と言うかもしれないが、私のすきな花袋は、やはり情緒綿々たる紀行文家の花袋である。
しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、白峰《しらね》の紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。
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拝啓 最早とうに稿料差上候事と存居候ひしに御手紙にて始めて知り、大に驚き申候、二三日の中に博文館の方にまゐるべく候間其節編輯記者に相話し早速御送金いたすやう取計らひ申すべく、不知とは申しながら怠慢の罪免るべからざることと存候、何卒不悪御思召被下度候、追々年もさし迫りさぞ御忙しきことと存候、大日本地誌は先日も紫紅兄の横浜通なる眼光を以て批評せられ大にヘコミ居申候ことに御座候、先づは御返事まで※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々不一
烏水大兄 九日[#地から1字上げ]花袋
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半紙一枚に、墨筆で書いてある。状袋の裏には、牛込区若松町百卅七田山花袋とある。文中の『大日本地誌』は、山崎直方佐藤伝蔵両氏の編で、地質地形等は両氏が受け持ち、部分的の地誌は、花袋らが分担記述していたのであった。そのうち、明白に花袋の記述と思われるぶんに対して、何か誤謬を注意した記憶がある。先日も横浜通の紫紅兄(山崎)の批評で凹んでいるとあるのも、横浜付近の誤謬記事を指摘されたことを、付随して言ったのだ。
花袋の周旋で『太陽』に載せられた白峰三山の紀行文は、意外の人の知己を得た。それは『日本風景論』の著者志賀|重昂《しげたか》先生で、この一文から、私という人間に目をとめられた。越後の豪家|高頭仁兵衛《たかとうにへい》[#ルビの「たかとうにへい」は底本では「たかとうじんべえ」]氏が、山岳辞彙ともいうべき浩澣《こうかん》な原稿をかかえて、志賀先生を訪問せられたとき、横浜にいる人が、こんな紀行文を発表している、山を知っている人らしいから、訪問してみたらどうかと、注意されたそうだ。高頭君が、その原稿をかかえて、私の山王山の宅を尋ねられたのも、そのためであった。原稿は、後に『日本山嶽志』と題して出版せられた。
その後、私はたしか孤雁君からと思うが、ビョルンソンという作家の、山岳小説のことを聞かされた。花袋も何かでビョルンソンのことを書いていたかと記憶しているが、それについて花袋に問い合わせの手紙を出した。その文中で花袋の近作、紀行文集『草枕』の中の事実に合っていない個所を注意した。右に対する返事、
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拝啓 其後は御無沙汰にのみ打過申候偖小生今月十七日より北陸漫遊の途に上り漸く今日帰京御手紙の御返事相おくれ申訳これなく候草枕につき有益なる忠言を賜り有難多謝候再版の時には訂正いたし度と存候貴著『日本山水論』は草村氏より拝受、確かに一佳作たるに背かずと存候一読後大日本地誌の著者山崎直方氏に一読をすすめ置き申候細かき処は猶御面晤の栄を得候時万々申述度候
山嶽小説のこと御たづねにあづかりうれしく候日本には未だ此種のもの無之候へども欧州各国を通し候ても、諾威の山岳国にのみ此種の文学を出せしことも一奇と存候其作数種有之著者ビョルンソンは御存知のごとく、イブセンと諾威文学の牛耳を執り候人、其半期の作物は多くは山岳、或は荒海などを舞台に使ひたるものにして、其人物と言ひ、其配景といひ一種他に見るべからざる野趣を帯び居り、其文章も空霊とでも申すべきか、大に簡にして味ふべきもの有之候其傑作を奉くれば
B Bjornson.
Synnove Solbakken.
Arne.
A Happy boy.
The Bridal March.
などに可有之、ことにアルネは山岳小説の尤も粋を尽したるものに候、先刻は中西屋に其英訳大抵そろひ居り候ひしが、今は如何に候ふや小生大抵所持致し候間、御入用ならば、いつにても御郵送申上べく、大に世間に山岳趣味を鼓吹いたし度希望罷在候
東京にても御出遊の節は是非一度御目にかかり度く存候
且、文庫屡ば御寄贈を辱うし奉謝候貴兄の批評は大に愛読いたし居候益々御尽力あらんことを祈り申候例の乱筆御ゆるしを乞うの外なく候[#地から1字上げ]不一
烏水大兄 二十九日[#地から1字上げ]田山生
次に、小生表記の処に移転仕候
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東京牛込北山伏町三十八田山鉄彌二十九日夕、とあるが、消印は明治三十八年八月三十一日、私の住宅は、横浜西戸部町六三五、手紙は半紙に墨筆で書いてある。
右の文中にもある通り私の小著『日本山水論』を、山崎直方氏に見せたのは花袋で、山崎氏と私と知り合いになったのも、それが機縁の一つであったことと、信じている。
花袋は、その後「蒲団」や「一兵卒」など自然主義派の見本のような小説を作って、国木田独歩、岩野泡鳴ら同主義の作家と呼応して、自然主義を文壇思潮の主流たらしめ、硯友社その他の既成老衰作家などを、ひとたまりもなく押し流してしまった。一方『文章世界』に倚《よ》って、若年を養成し、勢い当たるべからざるものがあった。その余威を駆って、と言っては不穏かもしれないが、自然派以外の作者たちは、たいていこの一派でやっつけられた。たまたま『文章世界』第二巻第十三号で、片上天弦、前田木城、水野葉舟、吉江孤雁ら合評の紀行文家月旦が出た。俎上に載せられたのは、麗水、桂月、天随、花袋、孤雁及び私であったが、一番ほめられたのが花袋と桂月で、当たらずさわらずのところが麗水、孤雁、最も手ひどくやっつけられたのが天随と私で、ことに私はひどく攻撃せられた。その中の一評者が「一時は紀行文は前人の未だ踏まない深山幽谷の奇景を、紹介するのを職とするような傾向であった、いや今でも、そういう好奇心で、紀行を書いている人もあるようだが、これはつまらぬことだろう」と言って、明らかに私に当たっている。つまり日本アルプス探検などは好奇心のなすわざで、その紀行文を書くのは、つまらぬことなんだそうだ。私も黙っていられず、駁論を同誌に寄せて、人の仕事にまで干渉して「これはつまらぬことだろう」とは「つまらぬ注意だろう」とやり返した。私の駁文は紀行文続論として『山水美論』(明治四十一年)に載せてある。
爾来、私は花袋一派の党同異伐に対して、押えがたい不平を抱いていた。そして躍起となって、ますます山に登り、その紀行文を発表した。
左団次が自由劇場を、有楽座で開演したとき、孤雁君と前田木城(晁)君に会った。木城君とは、そのときが初対面であった。話をしてみると、合評に根を持った反感がだいぶ消えた。その後『文章世界』で読者から紀行文家を投票させて、最高点を得た人に、彫塑かまたは油絵肖像を贈呈するということであった。私はたいてい当選者は決まっているだろうと僻み根性を出して、傍観していたら、どうしたことか、私が最高点に当選していた。そして孤雁木城二君が、横浜山王山の私の宅を尋ねられた。私は油絵の肖像を希望した。前田君は、画家として中村彝君を勧めてくれた。それでなければ、橋本邦助君はどうだということであった。私は実は中村彝君の絵を見ていなかったので、親しみが薄く、橋本君の温藉な画風を愛していたので、結局橋本君をわずらわすことになった。橋本君は、東京から山王山まで通って、登山仕立ての私を描いてくれた。服装はスイスから取り寄せた品で、羽をはさんだ帽をかぶり、ピッケルを手にして考えているようなポーズをしたものであった。背景は私の好みで、北斎の浮世絵、富嶽三十六景中の傑作「電光の富士」を用いた。その絵の写真は『文章世界』に載せられた。原品の肖像画は、「紀行文豪」たる、あるいはたりし記念として、家蔵としている。花袋については、花袋全集の刊行されている今日、その文学的総収穫について、統一した見解が、定めて下されることであろうが、私は彼の紀行文について多く世に知られていない功績をあげたいと思う。
花袋は、明治二十七年四月六日、太田玉茗(花袋夫人の兄)とともに、武州小金井の桜花を見て、急に幕末の儒者林※[#「雨/鶴」、第3水準1-93-74、75-9]梁先生が記した多摩川の上流に遊びたくなり、財布の軽いのをがまんして、二人で青梅街道へと出た。当時は青梅鉄道もなく、全くの徒歩、しかも名ばかりの街道で、寂寞無人、道跡は泥と小石で、折からの大雨に、ビショ濡れ、行っても、行っても、武蔵野か、小松原ばかりで、二人抱き合って、不遇の文人が、不遇の山水のために、数奇な運命を嘆き合った。困憊と疲労の極、こんなにしてまで旅行して、ほんとうに、美しい山水があるのだろうかと、受け身の玉茗が花袋に念を押した。青梅の町ではどこの宿屋でも、風体のわるいために拒まれ、最下等の木賃宿に、辛くも一夜を明かして翌朝、日向和田からまもなく多摩川の岸に出で、それから村舎離落の間に桃の花、それから多摩の奇景が開け、小丹波、白丸、数馬の切通しとへて「山中の荒駅なる小河内村」へと着いた。そしてまた、不遇の人にして不遇の山水を見る、あに悲しからずやと、慨然としている。実にその頃は、奥多摩の風景を知る者なく、説く者なく、東都を隔てること二十里にすぎないほどの近隣でありながら、多摩川上流、あるいは奥多摩は、全く閑却されていたのであった。それを見つけ出して世間の注意をひいたのは林※[#「雨/鶴」、第3水準1-93-74、76-6]梁の昔は言わず、田山花袋を以て多摩川開発の恩人とせずばなるまい。聞説《きくな》らく多摩川に沿うた溝には、独歩の「忘れ得ぬ人々」の作にちなんで、独歩の碑が立っているとか、さらば近代における多摩川風景の祖道者として、花袋の碑は、そこに建てらるべきではなかろうか。
花袋の紀行文集の中では『南船北馬』(明治三十二年九月版)が最もすぐれている。「多摩の上流」や「日光山の奥」のごとき名篇が、その中に収められている。[#地付き](昭和十一年七月)
底本:「アルピニストの手記」平凡社ライブラリー、平凡社
1996(平成8)年12月15日初版第1刷発行
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年11月27日公開
2003年6月24日修正
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