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梓川の上流
小島烏水
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(例)※[#「皺」から皮を抜いたものに「俊」の作り、145-14]皺
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一
明科されて咲きにおうから、名づけられたのかも知れない。
あわれ、清く、高き、雪の日本アルプス、そのアルプスの一線で、最も天に近い槍ヶ岳、穂高山、常念岳の雪や氷が、森林の中で新醸川の上流になっている。
土人はカミウチ、あるいはカミグチとも呼んでいるが、今では上高地と書く、高地はおそらく明治になってからの当字であろう、上も高地も同じ意味を二つ累」は天竜川の支流和田川の奥を八重河内というし、金森長近が天正十六年に拓いた飛騨高原川沿道を河内路と唱えているから、この地に最もふさわしい名と考える。
神河内の在るところは氷柱らない深思の水、この水を描いて見よう。
二
路傍の石の不器用な断片に通う空気は、この頭上を避けて通るだろう、いかなる山も、その要素では石以上の趣味がない、これは自分の石の哲学であるが、実際、神河内渓流もかようなところで、四周を包囲して峻立する槍ヶ岳、穂高山、以下の高山は奇怪の石の塊というまでで不二山のような歴史や、讃美歌を有っていない、しかし山好きな自分の眼には、ただもう日本第一の創造と見える。
生物の絶無な時分のこと、暦に乗らぬ時間を存分寝て、ふと眼を啓は、幾世の人の夢を描いては消し、消しては描いているのである。
神代ながらの俤ある大天井、常念坊、蝶ヶ岳の峰伝いに下りて来た自分は、今神河内の隅に佇んだ。
鼻の先には穂高山が削り立っている、水の平らに走る波動に対して、直角に厳を享け、新たなる生命を賦与せられたものの特権として盛んに奔放する。低きには森あり、林あり、野の花あり、しかして高きには雪あり、氷あり、我らの不二山は、小さい山だが、熱帯地方の二倍も高い山より偉大なるは、雪と氷に包まれているためである。穂高といわず、槍ヶ岳といわず、奥常念、大天井に至るまで、万古の雪は蒸発しないで下層から解ける雪だ、死の如く静粛に、珠の如く浄美な雪から解けた水の、純粋性の緑を有することは、言うまでもない。
神河内に流れ落ちる水の脈が、およそどれほどであろう、自分は隅々隈えしている、たまに白砂の中に塩釜菊が赤紫色に咲いているのが、鮮やかに眼に映る外は、青い空と、緑の木と、碧の水。
しかしてどこから見ても、神河内を統御する大帝は穂高岳で、海抜五千七百尺の神河内から聳ゆること更に五千尺に近く、梓の濶流も、支線の小峡流も、その間の幾十反の点々たる平地も、何もかも一切包まれた谷は、神つ代の穂高見の知ろし召す世界である。
蝶ヶ岳から短沢へ下りて来た自分は、先ずこの清い流れに嗽しい。
川は浅く、底は髪の毛一筋も見え透く雪解水も、穂高の大岳、眉を圧して荒海の気魄、先ず動くのである。
川の両岸――といっても堤に変性するだろうと思われる、さすがに寒いと見えて、唐檜は葉の裏を白い蝋で塗っているのが、遠くからは藍色をして、天空の青、流水の碧と反映している、かような森林も、路という路はなくて、根曲り竹がふさがっているから掻き分けて行く。
森が尽きる、また水を渉る、水は偏って深く、偏って浅い、右から左へと横切るのに、是非深いところを一度は通る、木の葉のように脈もなく繊維もないのに、気孔に幾億万の緑素があって、かくは青いのかと、足を入れながら底を見る、水に沈めるは、白い石も青く、水面より露われたるは、黒胡麻の花崗石ぐのが透いて見える。
ようやく川を渉る、足袋底がこそばゆいから、草鞋を釈いて足袋を振うと、粗製のザラメ砂糖のような花崗の砂が、雫と共に堕ちる。
このような川渉りを、幾回もさせられるのである。
三
穂高山の前面に来る。
河原を切れて処女の森の一つに入る、白檜の森は、水のような虚空を突き、空のような水の面を伺い、等深線の如く横さに走っている、森の中の瀝青えている、無論虫一疋いないのだ、末期に迫った廃葉の喘ぎは烈しかった、沼の中にも苦痛の呼吸を引いた自然の虐殺、歓喜のどよみを挙げる自然の復活は、行われている。
この辺になると、森の中に幾筋かの路が出来ている、放された牛馬どもは、無慮五百頭はいよう、六月下旬植えつけが済んで、農家が閑になると、十月上旬頃までここへ放し飼にするのだ、彼らは縦に行き、横にさまよい、森の中の木々に大濤と引きかえす、また来ては引きかえす、引きかえしてはまた来る。
宮川の小舎へ辿り着いた、老猟士嘉門次がいるので、嘉門次の小舎とも呼ばれる、主人は岩魚という、安い賃金で、監督する男が住んでいる、川を渉って七、八町も行くと、この宮川の小舎へ出る。
ここは自分に憶い出の多い小舎である、六年のむかし、槍ヶ岳へ上る前夜、この小舎へ山林局の役人と合宿したとき、こういう話を聞いたからで。
飛騨の豪族、姉小路大納言良頼の子、自綱に死んだため、島々には今も姫の宮だの、梨の木だのと、遺跡を祀ってあるという。
囲炉裏に榾り出せ」これで一切の結末がついた、時代は天正から明治まで垂直に下る、雲の中から覗いている万山は、例の如く冷たい。
嘉門次が帰りそうにもないので、小舎から二、三町も行く、鳥居があって四尺ばかりの祠を見せる、穂高神社の奥の院だという、笹を分けると宮川の池。
明神岳の名を負うている穂高岳の下にあるから、明神の池ともいう、一ノ池、二ノ池、三ノ池と、三つの明珠をつないでいる、一ノ池から順に上の池、中の池、下の池とも言う、一ノ池が一番大きくて、二ノ池がこれに次ぐ。
青色光の強い水が、濃厚に嵩れる。
この狭い谷の中の小さい池は、我らの全宇宙である、過去の空間に立つ山と、未来に向って走る川との間に介も啼かないから肉声も聴かない。
白芥子を水のおもてに織る、岩魚が寂莫を破って飛ぶ、それも瞬時で、青貝摺の水平面にかえる、水面から底まではおそらく、二、三尺位の深さであろうが、穂高岳を畳んで、延ばしたり、縮めたり、自在にする、水の底に白く透いて見えるのは、石英が沈んでいるのだ。
二ノ池の方に廻る、池には石が座榻に染まっていないかとおもう。
三ノ池は一ノ他の半分ほどしかないが、木が茂って松蘿し、いつまでもここにいてと言わぬばかりに取り縋っている。
夕暮になると、件の松蘿や、蔓は大蜘蛛の巣に化けて、おだまきの糸の中に、自分たちを葬るに違いない。
四
その夜は、上高地温泉に泊った、六年前に来たときは、温泉は川の縁に湧いていて八十年前とかに建てた、破れ小舎があるばかり、落葉は沈む、蛇の脱殻が屋根からブラ下る、猟士ですら、浴を澡が分けてなかったら、神楽堂だ。
何という茸か知らぬが、饅頭笠の大きさほどのを採って来て、三度の飯に味噌汁として出されたのには閉口した、宿屋界隈に多いのは蕗の中にも蕗が入れてある、同じく饗膳に上ったことは、言うまでもない。
翌も整って出かけると、雨になった。
宿の前には、梓川の寒流が走っている、この川は、北から出て、西へと迂回し、槍ヶ岳、穂高山、焼岳などの下を蜿い線で出せば出せるものかなとおもう。
川に沿がある。
橋下の水は、至って青くかつ深い、毎朝毎朝仙人が、上流の方で、幾桶かの藍を流しているに違いない、深いところは翡翠げる、さすがに水の中で水が動いたのでもないことだけが解る。
本道から折れて森の中に突き入る、この辺は草原で、野薊っているように見えたろう、雨は小止みになる。
蒼黒い森を穿って、梓川の支流岳川は、鎌を研ぐように流れる、水の陰になったところは黒水晶の色で、岸に近いところは浮氷のような泡が、白く立っている、初めは水が流れている、後には水が水の中を駈け抜けながら人の足を切る、森には大石が多い、どの石も、どの石も、苔が多い、苔の尖った先には、一粒ずつの露の玉を宿している、暗鬱な森の重々しい空気は、白樺の性根の失せて脆やそんなものが、むちゃくちゃ[#「むちゃくちゃ」に傍点]に掻き廻されて、緑の香が強い、この香に触れると、雪の日本アルプスという感じが、胸に閃めく。
今度はまた川になる、川の面は、呼吸めいている、水草の動くのは、髪の毛がピシピシと流電に逆立つようだ。
水の流れに、一羽のオツネン蝶が来た、水の上を右に左にひらりと舞う、水はうす紫の菫色、蝶は黄花の菫色、重弁の菫が一つに合したかとおもうと、蝶は水を切ってついと飛ぶ、水は遠慮なく流れる、蝶も悠々と舞う、人間の眼からは、荒砥わしたが、水は苦もなく捲き込んで、遠慮なく流れて行く、澄ました顔で流れている。
底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日第1版発行
1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店(1979年9月〜1987年9月)
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年9月20日公開
2003年9月15日修正
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