青空文庫アーカイブ

楢重雑筆
小出楢重

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)昔《むか》しは

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)多少|口髭《くちひげ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)カン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ス

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)A ヴェルニアタブロー 〔Vernis a` tableaux〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   国境見物

 何かフランスにおける面白い絵の話でも書こうかとも思ったのですが、実は西洋で、僕は生まれて初めて無数の絵を一時に見過ぎたために、今のところ世の中に絵が少し多過ぎやしまいかと思っているくらいで、まったく絵について何もいいたくないのです。またこの節は洋行する画家も多いし、帰朝者もまた多いことだし、たいていのことはいい尽されてもいるし、本ものの絵が近頃は日本で昼寝をしていても向こうから洋行して来る時節ですから、あまり珍しくもないと思います。それで絵のことは御免蒙って日本から来た僕宛のカワセが紛失した話を一つ書くことにします。これはパリなどへ送金する上にあるいはまた参考になることかとも思いますから、講談ぐらいのつもりで読んでもらえば結構です。
 僕がちょうど南仏ニースの近くのカーニュにいた時です、ここはルノアール翁の別荘があって、地中海に面した暖かい避寒地で日本の画家達も冬になると、よく集まってくる土地です。当時も正宗氏や硲君も来ていました。そこのオテルデコロニーという安宿に皆泊っていて、盛んに毎日その附近に橄欖の林や美しいシャトウや田舎道などを熱心に描いていたのでした。仕事をしない日は散歩をしたり美しい枯草の丘で日なたぼっこをしたり、ストーブに薪を焚いて話しこんだり、まったく長閑な月日を送ったものでした。そのうちにお正月が来ました。二月の末から僕はイタリアへ旅をする計画を立てて、日本からの送金を待っていたのです。もちろん僕宛の手紙類はパリの日本人クラブ宛で来ることになっていました。そこには僕の友人がいるからです。そしてカーニュの方へ転送してくれるのでした。
 二月のある日日本からの手紙を受け取ったので開いてみると普通の手紙の中から為替の副券が飛び出しました。手紙の文句によると、本券はよほど以前に書留でもって発送したが受け取ったかと書かれてあるのでした。しかし僕はそんな覚えはないのでこれは必然、何か便船の都合か何かで前後したものかくらいに思って気にも止めなかったのですが、何しろ旅を急ぐものだからこの副券で金を引き出そうと考えたのでした。金は当時の相場に換算して一万フラン余りのものであったのですから、大いに元気づいたわけです。近くのニースの町にあるパリの銀行の支店へ出かけ、その帰途クックへ寄ってイタリア行きは一等の寝室でも予約してやろうぐらいの意気込みで出かけたのです。
 変なことのある時には予感というものがあるものですね。ニースの町へ到着して銀行の正門を入ろうとすると、門衛は鉄の戸をピタッと締めてしまったので、僕は思わず「何でヤ」とウッカリ大阪弁を出したのでした。この大阪弁がフランス人の門衛によく通じたものとみえて、時計を指さして示しました。見るとちょうど四時なのでした。ナルホドと思って引退がって帰りました。翌日は今日こそと思って昼めしを早くさせて慌てて行ってみたら、今日はまだ二時であるにかかわらず正門は閉ざされてあるので、これはまたどうしたのかと思って聞くと、今日は土曜日だというのでした。ナルホドと感心してまた引退がったが少し腹が立ちました。考えてみると、その翌日は日曜日に当たるのです。心細くなります。ようやく月曜には早朝から出かけたら、さすがに銀行は開いていましたが、一応パリ本店へ問い合せるから二、三日待てというのです。再び退屈きわまる三日を過ごして行ってみると、この金額は一月十何日に為替の本券を持参におよんだ者へパリ本店において支払ってしまったというのです。普通でさえ、なかなか口へ出ないフランス語が、ドキッとすると同時に一言も出なくなってしまいました。しかし一月十五日頃僕はパリにいなかった、カーニュにいたということだけ辛うじて発音して、あとは無言のまま再び引退したのでした。それはいいとしてもイタリア行きはどうなるのです、その金は日本へ帰る旅費までも含まれているのですから少なからず弱りましたね。オテルへ帰ると、近火でもあったように見舞いに集まるものがあるやら騒ぎです。しかし何しろ消え去ったのが一カ月も以前のことだから金の出よう道理もありません。翌日は、フランス語の達人と正宗氏などとともに出かけて、銀行の支配人に会うて一応談判はしたが、銀行の責任にはならないという結論になって引き退がったのです。
 どうだもう何もかも諦めて、せめて、イタリアの国境なりとも見に行こうかということになりまして、ある日三人ばかりの連中で、カーニュから汽車で三○分ばかりのマントンへ向かいました。マントンは美しい古風な港です。海岸から乗合馬車に乗って、地中海を眺めながら二○町余りを走るとそこがイタリアへの国境でした。さあよく見ておけ、ここから先きがイタリアだと連中がゴチゴチの岩山を指しました。ナルホド、イタリアかなァと思ってよく眺めました。そこには石造の橋が境界の谷間に架かってあって、その上には、兵隊さんが一人立っていました。イタリアだけあって、その辺にはもうギターを持った老人の物乞いが何か歌っているのでした。[#地付き](「みづゑ」大正十二年一月)

   鑑査の日

 会場へ搬入された夥しい絵が、女達の手によって十枚位ずつ、われわれの前に運ばれて来る、そしていいのは予選の部に入る、何としても見込みのないのは落ちてしまうのだ。
 なかなか思ったほど、世の中には隠れた天才とか、奇蹟的に優れたものとかいうものは、やはり沢山はあるものではないのだ、一目見るとすぐわかる程度のものが多いのである。
 今年なども随分、一目でわかる程度のものが多かったのでまったく少し厭になったこともある。何枚見ても、何枚見ても一向われわれを喜ばせてくれないのだ。審査員という役目は絵を落とす役目では決してないのだと私は思っている、いい絵を探し出す役目を勤めているのだ、だから少しでもいいものが現れるとわれわれは喜ぶのだ、いいものが続々と現れ出す時は、皆が椅子から総立ちとなるものだ、まったくわれ知らず立ち上がってしまうものだ。そして目付きが輝くのだ。
 また出来不出来にかかわらず、大作とか力作が続いて運ばれる時なども昂奮してうれしくなってしまうものだ。ところがその反対に六号とか八号の粗末ななぐり描きとか、いじけたものなどが何十枚と続いて運ばれる時には、まったくわれわれは悲観して退屈をさえ感じるのだ。退屈するとすぐ会場の猛烈な暑さを感じ出す。ガンガンと響く会場の大工の金槌の音がいやに聞こえ出すのだ、むせ返る濁った空気が堪らなく咽喉を痛めることを考えるのだ、逃げ出したくなるのだ。人は案外正直なものだと思う。ことに絵描きは善人が多いのだ、いいものにはすぐ感じさせられるのだ。いかに口さきで俺は嫌だとごまかしても心のどこかに好いていれば、その心の底の好きが誰の目にもつくものだ。嫌いで押し通せないものだ。
 審査員は他人の絵の気合いにかけられるべく並んでいるようなものである。いい絵には気合いがある。大作でも小品でもどんな様式の絵であっても作者の気合いのある絵は強い。
 強い気合いを持つ絵はどっしりと置かれてビクとも動かない。もし仮に審査員のうちにあるやましい心から、これを落選させようとたくらむ者があったとしても、それは気合いが許さないであろう。また反対に気合いの抜けた絵を何かの都合から入選させようと一人があせっても、それは駄目なのだ、他の何人かはそんな気合いを認めていないのだから。しかしながら気合いの代りにその都合を認めねばならぬということが万一あったとしたら、それは大事だ、考えても馬鹿らしいことである。要するに、出品者の絵について今年など特に感じたことは、あまりに二科へ出すとか展覧会とか入選とかその結果などばかり考えて描かれたかと思われるような絵がかなり多かったようである。
 したがって目につくことは早がきの慌てた絵の多かったことだ、これは近頃輸入されるフランスの絵に早がきの傾向が多いのでその影響かとも思うが、いったい早がきというものは略したものである、省略である。本当のことを知らずに省略は出来ないのだ、知らぬものを省略することは零以上にすることだ、マイナスになってしまうのだ。
 フランスの絵に略画が多いのはそんな画風が多いことにもよるが、また一つには、西洋人の画界は日本の洋画界よりもよほど商売として成り立っているのでちょうど日本画家の半折画といった調子のことをやるのだと思う。例えば満洲辺で鉄斎の半切画を一枚見て感心し、鉄斎はいつもこればかりやっているのだと早合点するようなもので鉄斎はもっと力作もやれば、随分綿密な青緑山水の大幅もやるのだ。すべて技術の奥にまで達した人は機に臨み変に応じてどんなことでもやるのだから、その一斑を見てすぐ今のフランスは早がきだと思い込むことはどうかと思う。そして技術がないことからその早がきはほんとに味なく潰れてしまっているのである。入選のうちにもこの種類はあるが私はあまり好まないのだ。
 早がきばかりでない、近頃は早がきの上にモティフを見ないで作画をする乱暴な風習も随分増加して来た。これはかなり困った風習だと思う。一寸見は大変面白そうなものでも少し眺めていると、ガタガタに下落して見える絵は主にこの種類のものに多いのだ。それも非写実的な構成的なものならともかくもかなり写実を目的としてある絵でありながらモティフを見ないで作画することは、まったく写実と夫婦になったようなもので決して子供は生まれないであろう。
 私はフランスにいる時に随分、これはまた無数に存在する早がきの絵を見て飽き飽きしていた時、ふと坂本繁二郎氏の画室を訪ねて氏の絵を見せてもらって、私はこの人の絵の気合いにすっかり同感してしまったことを覚えている。今年は珍しく坂本氏が十数点程出されているので私は会場のたまらない空気に煩わされた時々に、氏の絵を眺めに行って気分を直した位である、まったく坂本氏のようなたちの絵は目下の日本にはぜひ必要だと思うのである。
 予選の後、本鑑査の時でもむろん通るべき作品は別として、一番われわれが苦しむのは、何としても形だけはあるが気合いが出かけて出ないヤヤコシイ作品である。
 要するにうんと気合いのあるところを見せてもらえばいいと思う。本当の気合いは軽率な修練ではとうてい駄目だ、何事も修業だ修業だと私は思うのだ、そして私達も修業であるのだ。
[#地から1字上げ](「みづゑ」大正十四年十月)

   真似

 落語家が役者の声色を真似ますが、真似ることそのものがその芸当の目的でありますから、その声色なり様子なりが、真物らしく出来た時にはその芸術の目的は達せられたわけです。
 真似はいつまで経っても真似であって、真物ではありません。真物になっては面白くありません。
 上手な声色を聞いていると、まったくその舞台の光景を思い出してぼんやりとしてしまいます。そしてそれに似させてくれている落語家が大変有難い人のように思われて来ます。その労を謝したい気になります。ついにはその落語家が好きになってしまいます。
 私はよくこんなに真物らしくやれるものならいっそのこと役者になってしまえばどうかと、考えることがありますが、しかしこれは似させるという技術が面白いのであって、真物にうっかり転職してくれては大変です。蓄音機はやはり機械であることが有難いのです。蓄音機が呂昇になりきってしまってはもう何もかも台なしです。
 人間以外のものでも、真似るということに大変興味を持っているものがあります。狐が美人の真似をします、狸が腹鼓みを打ちます、ある種の鳥類は誰でも知っている通りいろいろの声色を使います。その他、猿あるいは人間でも猫八氏などは素晴らしいものです。
 狸などは昔は鼓の真似事をやったものですが、最近は科学文明の影響を受けて彼らの芸当も変化を来たしました。
 私の知人の家の庭に住む狸は昼の間に聞いておいたいろいろの音響をば夜中になってから復習するそうです。オートバイの爆音、自動車の音などはなかなか上手だといいます。
 オートバイの音は騒々しい嫌な音響でありますが、狸がこの音を真似ると、聞き手は何ともいえない雅味を感じるのです。狸の個性の現れだろうと思います。狸自身も真似る興趣というものを本能的に感じているのでしょう。
 人間も猫八はじめ芸術家達などもいろいろの真似をします。真似は昔から芸術には深く悪縁が絡んでいるもので、真似はいけないと排斥しながらもいろいろな形式においてつきまとって来るものです。これからさきも永久に真似はなくならないことでしょう。
 狐なども苦心の結果、素晴らしい美人と化けすました時に、ある種の人間が彼女のために接吻でもしたとすれば、狐は自分の芸術の迫真の技に思わずほほ笑んで満足したことでしょう。
 こんな天才的な狐が一匹現れると、およそ百の若い狐達はその化け方に感動します。そしてその様式について大いに研究したり、見習ったり、あるいは奥義の伝授を受けるために馳せ参じたりしますでしょう。
 すると今度は彼らの化け方にも種々な様式が発見され、創造されて行くことになります。こうなると化け芸術も進歩発達して行くことになります。ついにはヤヤコシクなって、ちょっと一度は整理する必要ぐらいは起こって来ます。何狐は何派に属するとか、何狐は何派の何々イズムであるとかいうことになって来ます。狐の世界においても、黒田重太郎氏の出現を待たなければならないことになります。
 ところが多くの狐達の中には真似ることの本当の興味を忘れてしまって、様式ばかりを眺めて気をもむ連中が多く輩出してくるかもしれません。あんな連中はもう本当の人間の研究がおろそかになってしまったものですから、一流の美人に化けすましたつもりでいましても、本当の人間はとうていだまされません。美人の裾からはチラチラと毛だらけの尻尾がブラ下がっているのです。
 狐も初めは偶然の思い付きで女に化けてみたものが、ついにはその化け方について苦労をしなければならぬことになって来るのです。化ける興味を本職にやりだしたものだから、こうなってくるのは止むを得ません。そのうちにはある様式を守る集団のいくつかが現れ、一方は王子に一方は伏見にという具合に集まります。そして化け展とか何とかいうのを開催して、この道の進歩発達を計るということになります。そしてお互いに奴らの芸術は何だといい合います。狐の世界もまた多事であります。
 これらも皆真似ることの興味がいろいろと変化して、ヤヤコシクなったものだろうと思います。真似ることの興味も善い意味に使われた場合には人を楽しませるものですが、これが悪用されると大変迷惑を与えます。
 お姫様を喰ってしまってそのお姫様に化けすましたりなどすると、霊鏡に照らされて本性を見破られたりします。或いは贋造紙幣を製造したりする男が出来たり、或いはドランの絵を写真版からコピーして展覧会へ持ち出したりします。その他自分を偉く見せるために、支那の及びもつかぬ聖人の真似をしてみたり、若いのに老人の真似をして通がってみたり、そしてひそかに自己の性慾の強きを嘆いてみたりする悲惨なものも出来て来るのです。
 昔の支那の画家の作にはよく何々の筆意に倣うなどと断ってあるのがありますが、あれは大変気もちのよいものであります。日本の油絵なども(油絵に限りませんが)これを一々断り書きをするようにしたら批評家も、一々霊鏡を持ち出す面倒が省けてよろしいのですけれども。
 しかしながら当今は狐の威力の方が強いので、霊鏡はいつも曇りがちで、なお田舎の散髪屋の鏡同様凸凹だらけのものが多いので、あまりあてには決してなりません。[#地から1字上げ](「アトリエ」大正十三年十二月)

   アトリエ二、三日

 日記などつけたことがありませんので二、三日間の思い出した事柄をちょっと記すことにいたしました。どうも阿呆な話ばかりで相済みません。これでは困る、というような恐れがありますならば、どうか容赦なくお捨て下さい。
 A日Rが戸口へ現れました。長い頭の毛をモシャモシャと引掻きながら「奈良までは奥さん電車賃はいくらですかね」と聞きました。さあなんでも五○銭位と思いますがと答えると「そうですか、すると……」と彼はコール天のズボンから銅貨銀貨を一掴み玄関[#「玄関」は底本では「玄間」]へずらりと並べました。そして一○、二○と数え出しました。「どうも少し足りないんです、奥さん」。はァなるほど、足りませんナ、奥さんは財布から一円出しました。
「こんなに沢山はいらないんですが」と彼はまた頭の毛を引掻きながら金を寄せ集め、ポケットへ捻じ込んで駆け出したそうです。多分ちょっと飲むために。
 B日、広島から二、三度手紙を寄こしたMというのが突然訪れて来ました。まさか唐突にやって来まいと思っていたのが、やって来たのです。白い毛糸の頸巻きをして広島土産の蠣を籠に一杯ぶら下げてぼんやり立っています。大阪には親しいものは一つもないのだそうです。僕の家は二階は一間切り、それも画室になっているし、階下は家のもので占領されていますし、とうてい書生を収容する空間は一つもないのです。Mは夜汽車の睡眠不足と画室のストーブの温かみとで、頭が痛いといい出しました。
 下の部屋は子供が熱を出して寝ているんですが、その隣りへ寝かすことにしました。僕は猫の子が一匹迷いこんで来ても、かなり神経を悩ますのですが、人であってしかも田舎の語で意志もよく通じかねるのですから、これにはまったく弱りました。
 C日、T君が朝やって来ました。この人四十歳位です。もと商売と俳句を兼ねてやっていたもので評判の好人物です。この頃は、また殆ど絵に熱中しているものですが、以前俳人であっただけに何でも気分を味わったり、吸うたりするのが一番好きらしいのです。それでいて、いつもふさいだ顔つきをしています。それは、大切の子供をなくしてからだろうといいます。そうかもしれません、気の毒なのです。
 一年程以前には洋画の材料屋の気分を味わうために、いい場所にちょっと気の利いた家を借りました。開業宣伝のため階上階下に院展の人達の小品を陳列しましたので行ってみますと、下も二階もシンと静まり返っています。これはまた閑寂な展覧会だと思って、二つ三つ絵を眺めていますと、二階から女の笑い声がドッと聞こえて来ました。オヤ、と思って二階へ駆上ってみますと、T君は場所柄だけに遊廓[#「遊廓」は底本では「遊廊」]も近いので、馴染みであった美人四、五名を招待して絵を見せているところです。T君、その中に収まって、展覧会の気分をあくまで吸っているのでした。なかなか立派に出来ましたな、というと、ええあまり入場者もやって来まへんさかい、かえって静かに観賞が出来てよろしゅうおます。なア、思うたよりエエ展覧会[#「展覧会」は底本では「展観会」]やろがな、と芸者達の賛同を求めますと、いつもベストコダックでも提げて歩いているという新しいのが、ほんまにエエ気分だんな、と賞賛しました。
 その後、これでは店の宣伝にもならんということが明らかになりましたので、僕に二科の若い人達の小品展覧会でもしてもらえまいかとのことでした。会場は小さくて感じがいいので、僕と鍋井とで何とか世話をすることにしました。
 その結果はすこぶるよかったのです。五、六日間にちょっと千人近い入場者があったものです。気分の大将キリキリ舞いをして気の毒になったくらいです。店の宣伝も効を奏したわけですが、その後一向店に商品が並ばないので、何を買いに行っても間に合いません。これはまた不思議だと思っていますと、妻君が僕に家の内容を打ち明けて泣き出しました。ナルホドと思いました。
 その後店は夜など早くからガラス戸が閉まっていて、電灯が暗くて商売はしているのかいないのか疑わしい体裁でした。それが柳屋という美術店と向き合っているので、誰かが柳屋の向かいだから幽霊屋ではないかなどとフザケたことを評判する奴もあったくらいです。
 一、二カ月後洋行するという名目のもとに店を畳んでしまいました。いい人だけに僕も非常に気になりますので、何をしにフランスまで行くのですかと聞くと、まァやっぱり絵の研究ですなとのことです。なかなか人物の説明だけがヤヤコシクありましたが、この人がやって来ました。
 そこでこの人物に、書生Mのことを話すと、よろしゅうおます、下宿でっか、心当たりもごわすさかい、と直ぐ引き受けてくれたのでやや安心しました。
 T君は早速下宿の下検分に出かけて行きました。そして、宿をきめて来てくれました。
 D日、下宿の部屋は二畳であって、とうてい絵が描けないというので、Mは以来毎日僕の画室の片隅へ来て何かしらゴソゴソ描きました。がどうも気にかかってなりません。第一僕が何も出来ないのです。それから僕が帽子を描くと彼も帽子を描きます。ラッパを描けばラッパを描きます。花を描けば花を描く。これでは、うるさくて、堪りません。
 そこでデッサン修業ということにして、赤松先生画塾へとりあえず通わせることとして、先ずこの稿を終わります。[#地から1字上げ](「中央美術」大正十三年五月)

   大阪古物の風景

 大阪の町を歩いて、面白いと思える古物の風景が一番たくさん遺っているのは江の子島付近でしょう。この辺は一体に細い掘割がいくつと知れず流れています。百間堀、阿波堀、薩摩堀、京町堀、江戸堀などが、その中でももっとも面白い掘割です。
 私は広い川よりも町の真中の家の尻と尻との間をば窮屈に流れている、この掘割が大変好きです。
 この堀川には狭くて小さな橋がたくさんかかっています。大体、橋というものは広くなればなるほど道路に見えてしまって、橋の感じがなくなるものであります。この辺りの橋こそ、今俺は橋を渡っていると確実に思えます。
 中にも薩摩堀の近くに、名を忘れて残念ですが一つもっとも狭い橋があります。人力車一台ようやくにして通り得るというほどのもので、しかも橋上の眺めはなかなかよろしい。一度記念のために渡っておく価値はあります。今に大大阪というものになると、こんなものはどうかされてしまうかも知れませんから。
 またこの付近には、その掘割の両岸に、とても今の大阪では見失ってしまったような昔の土蔵がずらりと並んでいる七ッ蔵と称する名所もあります。
 それから何といっても、この辺の景色の中へは必ず顔を出して堀川の景色を引き立てている親分は、今の府庁の建物です。あの円屋根は見れば見るほど古めかしく、長閑な形で聞えています。私はこのドームを、その東裏手の茂左衛門橋の上から眺めるのが一番いいと思います。あるいは百間堀、あるいは薩摩堀の豊橋から見ると、実にいい構図になります。最近のアメリカ文化は、あまりこの辺を訪問していませんので気持がよろしい。しかし一世紀前のエキゾチックな風景です。
 この府庁の建物は明治の初めに出来た唯一の西洋館だといいます。この建物は古くてもう役に立たなくなったので、取りこぼつのだとか噂に聞きましたが、それが事実ならば惜しい事実であります。
 大阪人はこんな古臭い円屋根など、ゆっくり眺めたことはないのでしょうけれども、この円屋根がなくなったら、この辺りの風景は、それこそ東海道から富士山が凹んでしまったくらいの退屈な光景になってしまうことでしょう。
 とにかくこの付近をぶらぶら歩いていると、古物の大阪が随所に、確かに残っているので愉快です。[#この段落底本では一字下げをしていない]
 少し方向を転じて島の内へ来ると、長堀川の板屋橋に俗に住友の浜といって、市の今は中央であって、なおかつ昼間でも投身する者があるというくらい閑寂な場所が奇跡的に残っているのです。ここにもやはり古い西洋館があります。木造で美しい鎧窓が見えます。これは一昨年国枝君が二科へ出した、S橋畔という画に描き込まれてあったものです。これがまた愛すべきもので私はよくこの浜へ来て、この家を眺めます。
 この家はいつも閉ざされていて人の気配がありません。フランスなどであれば、こんな種類の古物はよくミューゼなどにして開放してあるものだがなどと、友人と話しながらこの前を通ることがあります。
 それから心斎橋筋を通ると二、三の時計台が目につく。その中でも一番古風そのままで遺っているのは東側にあるものです。今何とかいう時計屋になっているのです。私はこの時計台を大変好いているのです。時計台だけでなく家全体がなかなかいい構造になっています。惜しいことには道幅が狭いので、家全体を眺めることがむずかしいので、古物風景としての眺望がききません。まだ数えるといろいろありますが、こんな風景はだんだん新式の風景と交替して来そうです。それも結構だが、美しいものだけは死なしたくないものであります。[#地付き](「中央美術」大正十四年三月)

   写生旅行に伴ういろいろの障害

 私はかつて写生旅行をして満足に絵を作って帰ったためしは一度もありません。必ずてこずるか、中途で止すか、あるいは重い荷物を引摺り廻って絵具箱の蓋もあけずに帰って来るかです。それでだんだん写生旅行に出ることが嫌になって、近頃は殆ど出なくなってしまいました。自分の画室で神経を休めて、制作する時のような落着いた調子には、どうも旅さきでは行かないものであります。
 旅が嫌になる原因は随分いろいろあるので一口にはいえませんが、なぜそう落着いた気持ちになれないか[#「なれないか」は底本では「なれなれないか」]と申しますと、これは人々によっては案外平気なことで、あるいは一向障害の数に入らないことかも知れませんが、神経やみのものにとっては例えば日本の今の旅行に関する設備等も随分西洋画を描くものにとっては、不便でうるさく出来上がっているようです。日本画は今も昔も筆一本と写生帖とさえあれば用は足りるのですが、西洋画は大きな荷物の七ツ道具を引摺り歩かねばなりません。仕事は全部野外の仕事です。したがって晴曇風雨のことも考えなければなりませんし宿屋の居心地も重大です。宿から出て題材の場所まで通う間の心づかいなどもあります。途中石に躓いても機嫌が悪くなって、一日の仕事に影響します。その位のものですから日本の宿屋の仕組みなどは、かなり気分をいらいらさせます。総体日本の宿屋はホテルでもそうですが、新婚旅行とか、実業家の遊山とか、道楽息子の芸者連れとか、避暑とか、何とかのためには至極便利に出来ていますが、絵描きの仕事のためには不便というよりはむしろ本当に調和が取れないことに出来上がっているのです。
 まず旅館へ到着します。玄関の馬鹿気て大き過ぎた花瓶や松の日の出の金屏風など見ても早や気がおじけます。女中が代る代る出て来て世話を焼きます。これは結構なことですが、後の報酬のことが気にかかります。床の間の前には厳めしい「キョウソク」というて、私らは芝居の殿様が使うもの位に思っていたようなものが置かれてある。紫檀の机や卓上電話が輝いてあることもたまにはあります。
 考えるとわれわれが今運んで来た荷物はまったく調和の取れないものでありまして、その不調和な荷物の中から絵具箱をゴソゴソ取り出しますと女中が何物かという目付きで眺めます。枠という乱暴な仕掛けのものを取り出してトワールを張ります。トワールもフランスの田舎の宿などで見るとなかなかいい味のものですが、日本の宿でこれを見るとまことに粗野な布としか見えません。これを持参の金槌でもってガンガンと釘を打ち出します。なかなか勇気の必要な仕事です。私はいつもこの勇気が出かかってへこんでしまいます。
 不調和は部屋の中だけではありません。宿屋全体から見ても不調和です。まず右隣りの部屋には若い男女が海水着を着けてみたり外してみたりしています。左側の部屋では憎々しい男が四、五名の芸者と寝ながら花札を弄んでいます。その隣その隣と考えるとまったく悲観せずにはいられません。
 総体が遊びであります。画家は仕事です。それでは憤然としてここを立ち去るとしますか、どこへ行っても大同小異です。思い切ってトワールを張って、何かいい場所を探し当てに出てみるとします。かなり神経がゆがんでしまっているので何を見ても一向つまらない風景に見えて来ます。汗だらけになって白いトワールを提げたまま舞いもどります。また大袈裟な玄関が気にかかります。また女中が眺めます、番頭が眺めます、男女の客が眺めます、気持ちは暗くなるばかりです。
 天候のことも考えます。滞在一週間の予定が翌日から雨と来ます。もう仕事は出来ない上に、心労は増します。私は雨の日の旅館の退屈は思っても堪らないのです。立ってみたり坐ってみたり、寝てみたり起きてみたり、いらいらして来て終いには悲しくなって腹が立って来ます。すると隣近所の人情がますます気にかかり出します。
 もう一刻も猶予がなりません、描きかけの絵はぬれたまま巻きこんでしまって、取り敢えず宿屋から逃げ出します。逃げ出してからでもまだ今支払った茶代は少しケチではなかったか位のいらぬ心配までが出て来ます。
 また汽車に乗ります、走っている間窓からの眺めは素敵です、素敵な場所には汽車も止まらず、人家もなく宿もありません、再び目的地へ着くとそこは相変わらぬ停車場前の情景が展開されます。またかと思うともうたまらなく帰りたくなるのです。すなわち帰りの切符を買い求めてしまうことになるのですが、その時は肩の荷の軽さを覚える次第であります。
 これが外国でありますと随分の気苦労も多いですが、日本のようなこの不調和が少しもありません。宿屋と、風景と、人情と、画家の仕事と、そして食物とが随分うまい具合に調子が合って行くので画家は楽しんで毎日の仕事に夢中になれるのですが、今のような日本の状態ではちょっと望み難いことでありましょう。まだ他に多くの苦情もあるのですがこの位で止めときます。

   グワッシュとガラス絵

 正しいものとか本式のものとかいうものはやはり正当で本式ではあるが、人間はそればかりではどうにも暮し難いもので真面目な顔は正当で本式で深酷であるからというて朝から寝るまで、その本式の顔をしていてはどうも気づまりでやりきれない。少しは笑いもしなくてはかなわない、笑うのが先天的に嫌な人でもせめては苦笑ぐらいはするかも知れない。
 まったく気が鬱してくるということは恐ろしいことであって、それに気がつけばすぐ散歩をするとか笑ってみるとか、あんまを呼ぶとか、応急の処置をとるが、気の鬱していることは自分の鈍感から気づかずにいると終いには気鬱症という陰気な病いが起こる。ジメジメとしたヒステリーはまったく見ていて気の毒である。
 絵でもそれに似た現象がよくある。油絵でコツコツとやる、毎日むきな顔をしてモティフをにらみつけて、深酷を看板としているとまったくもってやりきれないことになることがよくある、また出来る絵も正統かも知れないがあくびの出るような絵がそんな場合にはよく産出されるものである。また技巧の問題や表現の方法などについても、行きづまってこれもあくびよりほか致し方のないことになる場合が少なくない。
 こんな時は食事でいえば午後三時頃とか、夜の十時過ぎとかであって、正当なめしよりもむしろちょっとカフェーにでも入って何かたべるのがいい考えかと思う。そして美人なども眺めることが出来て、大いに見聞をも広めることが出来るのである。絵もその通りでちょっといわゆるつまみ食い、あるいは間食という奴をやることはなかなか元気を回復させて、また一種の世界を発見させるものである。しるこやカフェーだけで生命をつなぐことはむずかしいかもしれないが、気鬱を起こさしめない必要品である。
 そんな意味からでも画家は油絵の一点張りではまったくやりきれない。時には水彩もやってみたくなればグワッシュもやりたくなる、あるいはエッチングをやるのも面白いだろうし、木版を彫ってもいい、あるいは素描パステル、何でも好きなことをやれば気持が直る。またその色々について特種の色や、技法があるのでその効果からまた一種の技法を発見することも出来るし、これがまた本式の油絵に影響もして新しい様式を発見したりよき表現法を見つけたりとするものである。
 私は気が鬱した時にはよくグワッシュをよくやる。この絵具はフランスのルフランのものがいいようである、アメリカ製のものでガラス管に入った粉末のものもある、これは水で溶解してすぐ使用が出来て、膠分がすでに混入されているので便利である、非常に安価な絵具で小学校の生徒間によく使用されているものである。私が今度の展覧会に出した裸体もこの絵具で描いたものである。効果はルフランのものよりも粉っぽくて美しいので好きである。
 ルフランのグワッシュ絵の具は缶入りで色は確かで美しいが粉っぽい感じがしないのと少しぬり過ぎるとやや光沢が出るので困ることがあるが、しかしまた別の効果が現れるものである。
 用紙は私は茶ボール紙を使用する、これは普通の馬糞紙よりも滑らかであって色もいい。
 粉末の絵具は塗った時と乾いた時とはまったく色が別であって乾くと驚く程あざやかになるものであるからそのつもりをして色の調子を計る必要がある、偶然の効果がまた面白い結果になるのである。
 グワッシュの他には私はいつも例のガラス絵を試みるのであるが、これはガラスの透明から来る心地のよい感じが、例えば定食のあとのアイスクリーム位の価値を自分に与えるもので、一週間ばかりの油絵製作のあとにはちょっとこれをやってみたくなるものである。しかしながら毎日ガラス絵を連続して描くことはまた閉口だ、めしの代用を氷水でやっているようでこれはまたたまらない。
 ガラス絵もやはり偶然の効果を利用することの多い仕事である。すなわちガラスの一方から描いて裏へ絵が現れるのであるから、そこに思いがけない味が出るのである、その味を味わうのがすなわち毎日の食事に飽きた場合の慰めだと考える。
 要するに油絵というものは下地から仕上げにいたるまでああでもない、こうでもないと散々苦労を重ねて終点へまでこぎつけるので、楽しみよりもくるしみが多く、しかも力尽きて降参するという順序になりやすいものであるが、技法のうちに偶然を含む種類のものは、作者に賭博の楽しみを与えるもので失敗も多いが思いがけない儲けもあるものである。[#地から1字上げ](「みづゑ」大正十四年六月)

   触覚の世界とその芸術

 なかなかむずかしい理論で、多少黒田重太郎君風の表題ではあるが、内容はすこぶる平易なものであるからさほど心配する必要はない。
 実は近頃私はちょっとした結膜炎をやって片目を四、五日間休ませていたのだが、目というものはやはり二つないと不便なもので唯一個の目玉では世界万物すべて平面に見えて決して浮き出さない。すなわち立体感がなくなるのだ。立体がわからないからしたがって距離がわからない、片目で絵を描いてみたがトワール迄の距離がはっきりしないので筆の先がトワールへ届き過ぎたり届かなかったりする、まことに頼りないものである。これで両眼から公休を要求でもされた日にはまったく心細いと思った。それで私は触覚のことを考えた。一体目のない動物は触覚だけで生きて行くものだが、人間も盲目になると触覚が異様に発達するものだそうだ。
 めくらに限らずめあきでも目を瞑ってみると、触覚の世界というものがかなりはっきり考えられるものだ。また触覚を味わったり楽しんだりする時には目は隠居をすることが多い。あるいはまた目で眺めて触覚を強める場合もある。電車の中などでお隣の美人を感じたり味わったりする不良青年は、主として触覚の世界に住む男とみて差し支えない。そんな場合その男の目は知らぬ顔をしてよそを眺めているのが常である。しかし時々は実物を眺めもするものだ。
 目下めあきの触覚は知らず知らずの間にいろいろの方面へ働いているもので、その世界はかなり広いらしいが、どうも触覚というものは味覚などよりも少し品格が落ちるように思われる。味覚の方ならば友人や先輩とでも一つの晩餐をともに致しましょうかということもできるが、触覚はどうもそうは行かない。何しろ手ざわりと肌ざわりとかいっただけでもあまり高等な感じはしないものだ。たいていの場合、触覚が出ると物事が下卑てしまっていけない。
 恋愛などやる時にも、最初からあまり手ざわりや肌ざわりを要求したりなどしては大変失礼なことになるものである。
 夏の夜店や、電車の中や、人ごみの中、シネマの中で、不良と名のつく青少年男女はこの触覚を乱用する。しかしながら触覚というものは音のしないものだから、不良でない立派な紳士が応用していても一向発見されずにすむから、どうも触覚なるものはこっそりと不徳を行うためには便利なものである。
 私はこの触覚を温かいとか冷たいとか、手ざわりや肌ざわりの範囲から一歩進めて、すなわち触覚で味わう独立した芸術を作り出してはどうかと思うのである。
 芸術の中でも彫刻はよほど指の触覚を使うそうだ、モデルの肉体の凸凹などを手で触れてみるそうだ。彫刻家のモデルはそれを心わるく感じるという話を聞いた。しかしそれはただ触覚で目の働きをいくぶんか助けるだけの仕事であって、触覚が独立して芸術とはなっていないのだ。
 それでは触覚で作る芸術とは一体どんなものだろうかというと、まずそれはまったく写実を離れた造形芸術であることは確かだ。何しろ神経の端から伝わって来る触感がモティフとなるのだから、自然の模倣は出来ないことだ。またやってもつまらない、それはちょうど音楽と同じことだ。
 例えば富士山と海のある風景の触感を味わいたいと思って、その山と海とを手で撫で廻してみることはとうてい不可能なことである。
 それでまず触覚芸術のモティフとなり得るものについて考えてみよう。
 触覚のモティフはまず大体凸凹、ブツブツ、クシャクシャ、ザラザラ、ガタガタ、ゴツゴツ、コツコツ、カチカチ、ヘナヘナ、ヒリヒリ、サラサラ、ヌラヌラ、スベスベ、カサカサ、フワフワ、ネバネバ、ニチャニチャ、張力、弾力、円錐球楕円三角鋭角鈍角平面四角八角ギザギザ階段その他いろいろの複雑な立体などである。要するに目で見てははっきり感じられないもので、触れて初めて味の出るものばかりだ。
 要するにこれらのモティフを作者がうまくトワール、板あるいは立体的にあらゆる材料を用いて思う存分組み立てればいいので一種の構成派の仕事である。それは立体的な複雑な触覚の音楽が作り出されると同時に目で見てもさも軟らかそうな、堅そうな、滑らかそうな、ゴツゴツらしいヘナヘナネバネバ円く長く珍しい立像が生まれ出ることだと思う。この立像は奇妙な形を呈することだろうけれども、触覚という世界から生まれたものだから、そこに非常な合理的なものがあるので、現存している構成派の作品などよりも人間には親しみがもっと多いだろうと思うのである。
 この触覚芸術の展覧会が開かれたとしたら、随分珍しい光景を呈することであろうと思われる。この会場では「作品に手を触れるべからず」といったような注意の代りに「充分心ゆくまで作品を撫で廻して下さい」と記されるであろう。
 それから面白いのは観覧人に盲人がすこぶる多いことである。この作品に限ってめくらもめあき同様に観賞の自由、幸福が与えられる。それからこの芸術に刺激されて、めくらの長髪連がどしどし現れる。あんま志願者が少しは減るだろうと思う。一般のめあき階級は女の尻をたたく触感以外かくも美しく複雑な触覚の世界があったのかということを教えられることとなるであろうと思ったのである。

   裸婦漫談

 日本の女はとても形が悪い、何んといっても裸体は西洋人でないと駄目だとは一般の人のよく言う事だ、そして日本の油絵に現れた女の形を見て不体裁だといって笑いたがるのだ。それでは、笑う本人は西洋人の女に恋をしたのかというとそうでもない、やはり顔の大きな日本婦人と共に散歩しているのである。
 理想的という言葉がある、昔《むか》しは女の顔でも形でもを如何《いか》にも理想的に描きたがったものだ、西洋ではモナリザの顔が理想的美人だとかいう話しだが、なるほど美しく気高いには違いないが、世界の女が皆あの顔になってくれては大《おおい》に失望する男も多いだろうと思う、例《たと》えば私の愛人であるカフェー何々のお花の顔が、一夜にしてモナリザと化けてしまったとしたら、私は困ってしまう。
 どんなに世の中が、あるいは政府が、これが一番だと推奨してくれても、私が好まないものであれば、恋愛は更《さ》らに起らないのだ。
 私は人種同志が持つ特別な親《したし》みというものが、非常に人間には存在するものだと思っている、よほどの特別仕立ての人間でない限りは、人は同じ人種と結婚したがるものだ。
 私は外国にいた時に、特にそれを感じた、如何にそれが正しい人間の形であるかは知らないがあのフランスの多少|口髭《くちひげ》の生《は》えた美人が、一尺の間近《まぢか》に現れたとしたら、私はその美しさに打たれるより先きに、その不思議に大袈裟《おおげさ》なその鼻と深く鋭い目玉と、その荒目な皮膚の一つ一つの毛穴に圧倒されて、泣き出すかも知れない。
 足の短いのを或る理想主義から軽蔑《けいべつ》する人もあるが、私は電車の中などにおいて日本的によく肥えた娘が腰かけていて、その太い足が床に届きかねているのをしばしば見る事があるがあれもなかなか可愛いものだと思って眺《なが》める事がある。しかし近代の日本の女もその生活の様式が変ったためか、だんだん足が長くなって来たのは驚くべき位《くら》いである、足の短かい顔の大きな女はやがて日本から消滅するかもしれない、すると間もなく、日本の女も西洋の女とあまり形の上においては違いがなくなる事だろうと思う、ただ皮膚とか色の違いが残る位いである。
 形は権衡《けんこう》の問題であるからこれは少しつり合いが変だと直《す》ぐ素人《しろうと》にも目につく、日本人の顔の大きさは彼女の洋装において一等皆さんの笑いの的《まと》となるのである、しかしながら色は必ずしも白色でなければならぬとは限らない、印度《インド》の女の皮膚の色には別な軟《やわら》かみと滑《なめ》らかな光沢があって美しい、また日本人の黄色に淡い紅色や淡い緑が交っているのも私は白色人のもつ単調な蝋《ろう》のような不気味さよりも、もっと異常のあたたか味と肉臭をさえ、私は感じる事が出来ると思う。
 日本人の裸を最もうまく描いたものは、何といっても浮世絵だと思う、浮世絵に現れた裸体の美しさは、如何に西洋人が描いた理想的という素敵《すてき》な裸体画よりも、如何に人を感動せしめるかは私がいわなくとも知れている事実である、それは決して若い男女が、見てはならないものであるとさえされている位い、それは感動的である。法律はこれらの絵の売買をさえ禁じているではないか、一目見ると心臓が昂《たか》ぶるというまでにその裸体は人を動かせるのだから堪《たま》らない。
 私はかなり多くの西洋の裸体の絵を見たが、如何にそれが理想的美人であっても、権衡が立派であっても、絵の技が優《すぐ》れていても、写実であっても、心臓が昂進《こうしん》するという事は更らになかったようである。
 全く浮世絵師の作は、それがどんな無名の作家であってさえも、その手足や姿態のうまさにおいて、私は感心するのである。
 ところで、西洋人が裸体を描くのは、もっと理論的で科学的である、如何に権衡があって、如何に色彩があって、如何にデッサンがあって、如何に光があって、如何に立派に構成されているか、という風に描かれてある。
 この人間の体躯《たいく》の美しさをば、苦労のありたけを、つくして、説明しているその科学的にめんじて、法律は浮世絵の如く裸婦像をば禁じないのだろう、でも年に何回かは撤廃を見る事があるのは甚《はなは》だ遺憾ではあるが、これは今の半ぱな世では致し方のない事かも知れない。
 大体、私自身は西洋人よりも日本の女の方が好きなのだ、それで裸体をかく時にでも、私は決して理想的なものを求めたくない、各《おのおの》のモデルに各様の味があるのだから面白いのである、人の顔が各違っている如くに。
 ところで日本では裸婦を描くのに大変不思議な障害が伴って来るのだ、それは画室の習作とすれば何んでもない事であるが製作となってはやはり何とか、裸婦としての自然な生活状態が必要となってくるのだ。
 例えば西洋であって見れば水浴の図とかあるいは椅子《いす》による女とか、化粧図とか色々裸の女とその自然な生活との関係が描かれてある。
 ところが日本ではその女の裸としての自然な生活からモティフを求めようとしても、ちょっと困難なのだ、あるにはあっても、実にこれはまた、見ても紹介してもならないという場所における事柄ばかりであるのだから。
 例えばベッドの側に立てる女の図を、日本的に翻訳して描いて見るとかなり困った図が出来上るのだ、即《すなわ》ち煙草《たばこ》盆、枕屏風《まくらびょうぶ》、船底枕《ふなぞこまくら》、夜着《よぎ》赤い友染《ゆうぜん》、などといったものが現われて来るのだ、そして裸の女が立っていれば如何にも多少気がとがめる事になる、即ち上演を差止められても文句がいえない気がするのだ。
 洋室というものは大体において、ベッドなどはさっぱりしていて、むさくるしい[#「むさくるしい」に傍点]という感じが出ないのが万事に好都合なのだ、ベッドはむしろ部屋《へや》の飾りの一つとなっている場合が西洋では多い、日本では昼の日中《ひなか》に寝床を見ては如何にも嫌《いや》らしい、そこで西洋室に住む画家はいいとして、日本の長屋の二階、六畳において裸婦像を描かねばならぬという事は何んと難儀な事件である事だろう。
 そこでわれわれは活動写真のセットの如く安い更紗《サラサ》を壁へかけて見たり、似合わぬテーブルを一つ置いて見たりなどするのだ、すると裸婦が婦人解放の演説でもしている形ともなるので、思わず阿呆《あほ》らしさが込み上げてくる事がある、ではこの長屋の二階と裸婦の生活的調和を試みようとするならば、即ち許されそうにもない場面を、持ち出さねばならない事になるのである。
 私はしばしば展覧会において日本の女がどこの国の何んというものかわからない、エプロンのようなものを身につけたり、白い布を腰に巻いて水辺《みずべ》でゴロゴロと寝たり、ダンスしたりしている図を、見かけるのであるが、今の日本の何処《どこ》へ行けばこんな変な浄土があるのかと思っておかしくなる事がある。
 私は裸婦を思うと同時にいつもこの変な矛盾を考えて多少の恐れをなすのである。

   芸事雑感

 仕事の性質によっては老人が適しているものと、青年がこれに適しているものとあるようです。あるいは小供が適しているもの、女が適しているものなどがあります。
 童謡を歌ったり、鼻を垂れたり、寝小便をする仕事は何といっても小供にはかなわない。女郎とか妻君とかいう仕事は男はどうも代理が勤めにくいようであります。
 小供とか女とかという種類になるとよほど区別が明らかであるように見えますが、人間の少年と中年と、老年とにおける仕事の差別などはかなりややこしいので、つい少年が中年らしい仕事をしたり、中年が小供の真似をしてみたり、老人が青年の仕事を奪ったり、青年が老人の真似をしたりなどすることもよくあります。
 これは好きでやるなら女の真似でも小供の真似でも老人の真似でも、何の真似でも勝手次第にやって少しも差し支えのないことであります。好きでやるなら青年が女郎の仕事も手伝ってもいいでしょう。
 けれどもそれもただ何かの余興とかあるいは酔興でやるのはいいが、本心でやっているのを見ると少し嫌味でたまらないという気がするものです。
 それも思い切って、大人が小児を見てこれは天真であると感じて早速一夜、寝小便という仕事をやったとすると、どうもあまりに天真であり過ぎて随分迷惑を感じずにはいられません。寝小便が仕事として成り立つかどうか知りませんが、あれも人間の仕事とすれば仕事となるかも知れません。
 仕事といっても世界には無数にあって、われわれにはとうてい考えも及ばぬほどあるでしょうが、芸術などいうものもやはり仕事の一つでしょう。芸術などといっても非常に範囲の広いものですが、まず芸術という種類からすべて芸事というもの、それから随分高いと称する、まず何といっていいか、理想の高いちょっと常人の近寄れないという高遠な芸術というところまであるようです。それを詳しく調べると、美学者という専門にそのことばかり考えたり調査している役人もあるので、その人達に聞けば国勢調査の如く判明するでしょうが、ともかくいろいろあるようです。
 その種類や高下はともかくとして一般に芸と名の付くものでは第一にやはり天才というて、生まれつきその仕事に適した才能をもったものは一層結構ですが、その上に練習というものが非常に必要であるようです。練習とは手先きだけのものではなく、やはり芸に対する良心が常に働いて、ああもいけない、こうでもならない、と心をくるしめていろいろと考えるのであります。
 それで昔からいろいろの職人でも、あるいは役者でも、落語家でも、相当の年をとって来て初めて自分でも少しはいいかなと思う点まで自分の仕事を引き摺って来るようです。
 落語を聞きに行っても二十何歳という若手が何か無理矢理に落ち着いた顔をして、人情噺などやり出すと初めから終わりまでぞくぞくと寒さを覚えて来て大変気分が悪くなります。それがまた立って舞いかけたりなどして、男のくせに赤い長襦袢などちょいちょい見せて、目玉をちょっと横へ押しやったりするともう何にか悪霊につかれた心地さえ致します。
 かなり才能は貧しくともまず五十歳以上のものが高座へ坐ると、先ずこれは信用していいだろうという、ともかく芸に対する安心がまず第一に得られます。
 文楽座などをちょっと覗いてみてもやはりこの感じがはっきりとします。人形使いなどもあのグロテスクな、近所の若いものとか、腰元の奇妙な人形などは、練習の最中の人達が使うのでしょう。主人公になる人形は、相当の人達が使っているので安心して見ていられるのであります。安心が出来るというのは結構なことであると思います。
 何事でも練習の必要な芸事ではすべてある老境に入らなくてはその芸には安心がならない、日本画などいうものでも、現在は気質が日本画家なども西洋画家に類して来、また類しようとつとめている傾向もあるので多少勝手が違いますが、昔の日本画家は若いものよりも老境を尊びました。
 それで中には年三十歳で以て何翁と名乗った阿呆もありますが、しかしながら心掛けははなはだ結構であります。
 すべて芸事は充分の練磨と、習得、考えとが必要なようです。
 角力とか、野球とか、ボートレースとか、喧嘩とか、女郎買いとかいうものの老境はあまり感服しません。老いてますます盛大な人もありますが、これはやはり嫌味を伴いやすい。
 ところで近頃の世の中、ことに日本などはとてもややこしい文明であって、無理矢理に泥道を走る乗合自動車の如く、何かの場所へまで走る必要が起こっているので、安心の出来る芸術などゆっくり味わっていることは出来ないので、他の芸事はどうか知りませんが芸術というものの中でも、西洋画と称するものおよび日本画でも多少時代の影響を受けている新時代の日本画などは、昔の芸事というのんきな場所には落ち着いてはいません。
 それで今は芸術が角力、野球、ボートレースおよび喧嘩の域に到達した時代であります。
 それで油絵の老境に入ったという人というのは、皆破れたタイヤーの如く憐れに萎びてしまっているようであります。
 先代から現代へ持ち越しているいろいろの芸事は充分に仕上がったのを楽しむのであって、ただその練習が必要であるばかりでしょうが、今は何か仕上げなくてはならないという芸術家にとっては楽ではない、ともかく勇壮な時代なのでしょう。ともかく当分芸を楽しむなどいうのどかな事は許されないでしょう。したがって老年には適しない仕事であります。しかしながらある年数を経ていつかは安心の出来る老境に入った人達の仕事として楽しまれたり、また実際に老境が立派なものを作ったりする時代も来ることであろうとも考えます。あるいは地球のつぶれてしまう時までそんな安心は再び来ないかも知れませんが、それはどうなるか私はよく知らないのであります。

   ガラス絵の話

     一

 油絵はトワアルへあるいは板へ、水彩は紙へ描くものであります、ところでガラス絵はガラスへ描くものであります。しかしながら、ガラスの上へただ描くだけならば、板の上や紙の上へ描くのと別段変りのある訳ではありませんが、ガラス絵の特色は、ガラスの上へ描くのではあるがその絵の効果、即ち答は、ガラスの裏面へ現われて行くのであります。即ち裏から描いて表へ現わすという技法であります。それは丁度|吃又《どもまた》の芝居の如きものでしょう。あの又平《またへい》が、一生懸命になって手水鉢《ちょうずばち》へ裃《かみしも》をつけた自画像を描きます。あの手水鉢はガラスではありませんが、又平の誠が通じて石の裏から表へ、自画像が抜け出すのであります。
 ガラス絵は、あの調子で行くものであって、即ち手水鉢の代りに、ガラスを使用するものだと思えばよいのです、そんな、ヤヤコシイ技術即ち工芸的な手法であるがために、画家でこれを試みるものがなかったのであります。早くいえば職人の仕事であります、従って製作品には工芸品として作られたものが多いのです、支那《シナ》のものでも、例えば厨子《ずし》の扉へあるいは飾箱の蓋《ふた》へ嵌込《はめこ》まれたりあるいは鏡の裏へあるいは胸飾りとして、あるいは各種の器具へ嵌込まれたものが多いのであります、その絵としての価値も、丁度|大津絵《おおつえ》とか泥絵《どろえ》とかいうものの如く、即ちゲテモノ[#「ゲテモノ」に傍点]としての面白味であって、偶然、非常に面白いものがあり、また非常に下等なものがあるのです、従ってガラス絵はすべて面白いとはいえません。
 その作品をいい画家や、工芸家がやらなかったためか、随分世界的に行渡った技術であるにかかわらず、あまり重要に考えられず、有名な作者もわからず、次第に衰退してしまったようであります、それですから、どの国でいつ頃《ごろ》始まって、どう流れたものか、どう世界へ拡《ひろ》がったか、誰《だ》れが発明したものか一切不明であります、勿論《もちろん》私は歴史的な事を調べる事がうるさい性質ですからなお更《さ》らわかりません。その沿革起源等についての詳細を私も知りたいのですがこれは適当な人の研究があれば結構だと思います、あるいは近頃よほどガラス絵を鑑賞する事も一般に行われて来たようでありますから、も早やかなり調べている人もあるかも知れません。
 ともかく、私がガラス絵に興味を持ち出したのは随分古く、もう十四、五年も以前の事であります、偶然大阪の平野《ひらの》町の夜店の古道具屋で、初めてガラス絵というものを買って見たのでした、それまでは散髪屋とか風呂《ふろ》屋ではよく見かけたものですが、別段欲しいとは思わなかったが、変な興味はもっていたのでした、どうも普通の絵とは違った下品ではあるが何か吸込まれるような色調が妙に私の気にかかってならないのでした、それは高等な音楽、何々シンフォニーではなく、夜店の闇《やみ》に響く艶歌師《えんかし》のヴァイオリンといった種類のもので、下等ではあるが、妙に心に沁《し》み込む処のものでした。
 勿論安い事は驚くべきものでした、家へ持って帰って眺《なが》めて見るになかなか味があるのです、その絵は人形を抱いた娘の肖像で、錦絵《にしきえ》としてはかなり末期の画風のものでありましたが、非常に簡単な手法が一種の強さを持っているのでした。これが病みつきで私はどうもガラス絵が気にかかり出しました、そのうち色々の風景画や、人物画なども集めて見たりしましたが、何んといっても職人の仕事でありますから、本当に鑑賞の出来るという出来|栄《ば》えのものは頗《すこぶ》る尠《すくな》いのであります、その中《うち》日本出来のものよりも支那出来の古いものに頗るいいのがある事も知り、西洋からの渡来品というのも見たりするうちに日本出来である処の散髪屋向きのもののつまらなさがわかるようになって来ました。

     二 ガラス絵の種類

 日本へ入ったガラス絵の法は、阿蘭陀《オランダ》からか支那からかあるいは両方から入ったものか、私には今よくわかりませんが、何しろ輸入されてから、例えば当時の銅版や、油絵の如く、江漢《こうかん》とか、源内《げんない》とか、いううまい人たちがこの法を生かしてくれていたら日本のガラス絵もも少し何んとかなって、美しいものが残されていたにちがいありません。
 全くいい技術家がこれを試みなかった事は惜しい事でした、しかしながら、日本でも職人の仕事としては非常な勢で作られたらしいのです、それは今の名勝《めいしょう》絵葉書の如く、シネマ俳優の肖像の如く盛《さかん》に作られ、そして、それは逆に外国に輸出されたり、あるいは散髪屋風呂屋の懸額《かけがく》として愛用されたり、品の悪い柱がけとして用いられたり、商家の絵看板に応用されたりなどしたのです、だから今でもこの種類のものを探せばいくらでも出て来ます、決して画品のいいものではありません、芸術としては価値|甚《はなは》だ低いものですが、粗製濫造から来る偶然の省略法や単化と、ガラスの味とが入交《いりまじ》ってまた捨《すて》がたい味を作っているものがあるのです。
 先《ま》ず日本製のもので一番多いのは、風呂屋向きのザンギリ[#「ザンギリ」に傍点]のイナセ[#「イナセ」に傍点]な男女が豆絞りの手拭《てぬぐ》いなど肩にかけた肖像画や諸国名勝などであります、あるいは長崎あたりへ来た黒船の図なども多いのです。
 名勝風景などは、その絵の中の岩とか石畳《いしだた》みとかの部分へガラスの裏面から青貝が貼《は》りつけてあります、凝り過ぎたものであります、あるいは風景中の点景人物などは当時の芸者の写真をば切り抜いて、それに彩色を施して、そのまま貼りつけてあるのがあります、表現法としては真《まこ》とに思い切った不精《ぶしょう》なやり方で、近頃の二科あたりの連中の仕事にも似て面白いと思います。
 も一つ表現方法として珍らしいのは、ある種類の風景画はガラスを幾枚も重ねて、一枚の絵を作っているのもあります、即ち近くにある物体、例えば岩や松は看者《みるもの》に一番近い手前のガラスへ描かれ、中景に当る茶店とか人家、中景の雑木《ぞうき》などは、中間のガラスへ、遠景の空と山と滝といったものは一番奥のガラスへ描いてあります、なるほど、重ねて眺めると、物体は本当に浮き出して見えるわけであります、これなどはガラスの透明を応用して実感を現わす思いつきとしては、頗る愛嬌《あいきょう》のあるものだと思いますが、決して品のいいものではありません。
 先ず日本出来のものでは私の考えでは、風景よりも末流の浮世絵風に描かれた女の風俗、肖像といったものに面白いものが多いと思います、これ等も都会ではだんだんなくなりつつありますが、田舎《いなか》へ行けばうるさいほど現在でも残っている処のものであります。
 支那のガラス絵では、私の今まで見たものには二種類あるようです、一つは純粋の支那らしいもので他の一つは西洋模倣のものであります。
 純粋の支那らしいものといえばその題材なども主として、道釈《どうしゃく》人物、花鳥、動物、雲鶴《うんかく》、竜、蔬菜《そさい》図、等が描かれてあります、その群青《ぐんじょう》、朱、金銀泥、藍《あい》、などの色調は、さも支那らしい色調であって、大変美しい効果のものであります、そして応用されている処は、やはり扉や箱の蓋《ふた》や、その周囲への装飾として嵌《は》め込まれたり、あるいは額面用として作られてあるのもあります、そして画品もなかなかいいものが多いのです、概して大ものよりも小品に優秀なものを見ます。
 時には鏡台とか化粧道具の引出しと見せかけて、数枚のエロチックに関するものが出て来るものもあります、これ等も古いものに美しいのがあります。
 大体において支那は乾隆《けんりゅう》の頃、西洋との交通やその文化も盛んであったのでその頃のガラス絵が一番美しいという事になっています。
 西洋模倣のものにもなかなか美しいものがあります、これは調子なども洋画風に整頓《せいとん》した古い阿蘭陀《オランダ》派の油絵に似たものが多く、主として、風景、人物、風俗あるいは汽船とか、西洋名勝などがあります、その額縁さえも支那とは思えない位《くら》いのクラシックなものが、ついているのを見かけます、私が現在持っている Mes demoiselles Loison と題せる、女二人が風景の中に立っている絵なども、初めは西洋出来のものかと思ったのですが、じっと眺めるとどうもその西洋婦人の顔が支那臭く点景のボートなどが如何にも東洋的であるのでどうやら支那である事がわかって来た位いであります。
 さように西洋ものに似たものは時に見受けます、がこの種類のものはかなり珍らしいのであります、その他モティフは西洋の風俗風景であるが、その描法が純粋の支那らしい筆法で描かれてあるものもあります、私の持っているヴェニスの風景などもその一つでこれは外国から来た名勝の銅版画か何かより写したものと思われますが図はヴェニスのサンマルコの広場の光景であります、陸に並ぶ人物の色調が何んともいえず美しいのであります、画風は全くの支那式のもので、勿論西洋風の陰影はつけてありますが、ゴンドラなども支那のジャンク様《よう》の形であって、支那風の色彩と手法が面白い効果を作っているのです。私は、もしこの絵の本当のお手本になったヴェニス風景の絵があったとしたら、それよりも必ずこの模写の方が絵として面白いものだろうと思っています。
 しかしながら支那のガラス絵が必ず皆いい訳ではありません、これもやはり日本の散髪屋向きの豆絞りの男女風俗と同じく、何んといっても職人の仕事である以上、偶然の効果として美しいものがあるので、どうかすると至って精巧な絵ではあるが、到底見ていられない俗悪な大作を見る事が多いのであります。
 先頃もある道具屋さんが北京《ペキン》から将来したガラス絵を沢山見せましたが、どうもいいのは尠《すく》なかったようでした、嫌《いや》に精巧で、大作で不気味で、特に人物などは不快な感じのするものがありました、何んといっても、私はガラス絵の特質はそのミニアチュールと宝石の味がなくなっては面白くないと思うのです、その意味からガラス絵は小品に限るのであります。
 目下北京あたりから、ガラス絵は沢山アメリカへ買われて行くそうでありますが、私はガラス絵といえば何んでも面白いという事は困ると思います、その大きさと絵の出来と題材と偶然とのデリケートな関係を味《あじわ》う事が最も必要だと考えます。
 朝鮮でも、今なお作っているそうですが、私の見たものでは角絵《つのえ》があります、それは水牛の角をうすくセルロイドの如くして道釈人物、雲鶴等が描かれてあるのです、そして、扉へ嵌込《はめこ》まれてあります、あるいは巻煙草《まきたばこ》の箱の周囲に貼《は》られているものでかなり美しいものがあります。

     三 ガラス絵の技法

 ともかくその種類を探せばいくらでもある事でしょうし、またその蒐集《しゅうしゅう》や穿鑿《せんさく》は近頃ぼつぼつ古いガラス絵や阿蘭陀《オランダ》伝来のビードロ絵を集める事も漸《ようや》く流行して来たようでありますからその道の好事家《こうずか》にお願して置く事として、その種類等についてはこの位いに止めて、私はその考証や穿鑿よりもこの不思議に美しい技術をば――正に消滅しかかっているこの技法をば、もっと芸術的に、そして近代的な表現方法と神経とで、も一度世の中へ生かして行きたいと考えたのであります。
 そこで私の買い集めた貧しい参考品を資料として勝手な方法を種々工夫して見たのでありますがなかなか思う様《さま》絵具がのびなかったり、乾《かわ》きにくかったり、乾き過ぎたりして都合よく行かないのでありますけれども、とにかく今までやって見た中で一番結果のよいと思《おもわ》れる方法を述べたいと思います。即ち私のガラス絵描法というのは決して一子相伝《いっしそうでん》法の秘法ではありません。自分勝手な、便利な方法に過ぎないのでありますから、もっといい方法があれば何時《いつ》でも私は教わりたいのであります。
 私は目下自分の便利上、油絵具を使用します、しかしながら支那のものなどは粉末絵具をニスで溶解して使用しているようであります、私はそれも試みて見ましたがなるほど粉末絵具や日本絵具の砂ものなどを使用する方が味がいいようであります。
  ○私が目下使用している製作材料
(A) 油絵具使用の場合
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顔料《がんりょう》(油絵具) を用います、普通油絵に使うだけの種類は必要です。
  (金銀泥及|箔《はく》) 泥は大変美しい装飾的効果を現わすものです、私はよく金泥で署名をします。
[#ここで字下げ終わり]
 メディユムとしての油
A ヴェルニアタブロー 〔Vernis a` tableaux〕
B 速乾漆液 工業用薬品店にあります[#「A」と「B」は「メディユムとしての油」の下で二行に分かれ、「A」「B」の下に上向きのくくり記号]

 右二種の油をAを7Bを3位いの割合に混合して使用します、この割合は時に多少、変更してもよいのです、速乾が多くなると早く固まり過ぎて、広い部分など塗るのにむら[#「むら」に傍点]が出来て困る事があります。またヴェルニばかり多量では、乾きが遅くて、あとから筆を重ねると、先きの絵具が皆動いてしまいます。
 この二種のいい加減の混合液は、ガラス絵の生命であって、この油によって、絵具がガラス面へ固定して、次へ次へと筆を重ねて行く事が出来るのです。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
筆 非常に軟かいものがよいので、私は日本画の彩色筆を大小五、六本と、面相筆《めんそうふで》を二、三本用意しています。
筆洗い 石油、及アルコールを併用します、即ち石油で先ず洗った後になおアルコールでよく洗って置くのです、アルコールは主として速乾を洗い落すのです、あるいは手先きのよごれた時や、ガラス面の掃除《そうじ》に使用します。また描き損じた絵を洗い落すにもアルコールが一番|重宝《ちょうほう》であります。
ガラス 油絵でいえばカンヴァスに当るものです、描くべきこのガラスは、なるべく薄くて、凸凹《でこぼこ》や泡のないものを選びたいのです、昔《むか》しのものは、殆《ほと》んど紙の如く薄いのを有《もち》いています、なかなか味のあるものです。私は便利の上から、写真の乾板の古いものを常に使用します。写真屋とか製版所へ行けば、いくらでも古いものを売ってくれます。
ガラス切り これも必要です、自分の描きたいと思う大きさに、ガラスを切断する必要があります、ガラスを切る事は、多少習練を要します、不用なガラスを何枚も切って見ると、コツ[#「コツ」に傍点]がわかるものです、ガラス切りの種類も、色々ありますが、やはり舶来の、本式の、金剛石がついていると称するものが一番いいでしょう。
パレット これは普通の油絵のパレットでよろしい、あるいはブリキ板を使ってもいいでしょう、最も注意を要する事はパレットの掃除です、ヴェルニや速乾が交じっている絵具をそのまま捨てて置くと、何んとしても取れなくなるし、次の調色の非常な邪魔を致します。
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(B) 粉末絵具使用の場合
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顔料 図案用粉末絵具を使用してもよいが色調が、どうも卑しくなりますから、日本画用の、胡粉《ごふん》、朱、白緑、白群青、群青、黄土《おうど》、代赭《たいしゃ》等を使用するのが、最もいいようです、右を充分|乳鉢《にゅうばち》で摺《す》って用います。(金銀泥箔の使用は、Aの場合と同様です)最も注意すべき事は、水分で練った絵具、例えば水彩絵具や津端絵具の類は、油に溶解しませんから、絶対に使えません、砂及び粉末に限ります。
油 砂絵具の時には、シケラックニスを主として使うのが便利です、極《ご》く少量の、アルコールを交ぜて使っても、サラサラとして描きやすいのです、絵具はガラス面で直ちに固定し、すぐ乾燥してしまいます。
この油を筆に沁《し》ませて、粉絵具を筆先きで少しずつ、パレットの上で溶解しながらガラスへ塗って行くのです、一時に多量溶解すると、すぐ固《かたま》ってしまって始末に困ります、金銀泥の使用も同様であります。
筆洗い やその他の事はAの場合と同じであります。
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     四 ガラス絵製作の順序

 先ず、一枚の風景画を作ろうとします、第一に必要なるは、早速モティフとして適当な場所を探しに出なくてはなりません、これは鉛筆のクレイオンとスケッチ帖《ちょう》と位いあればいいでしょう。
 ガラス絵として、都合のいいモティフに出会ったとすると、それを充分正確に写生することです、そしてそれへ、覚えの色だけを塗って置くのです、色彩の記憶さえ確かなら、鉛筆の素描だけでもいいのですが、なるべく色彩も施して置く方が、絵の調子を破らず、楽《ら》くに仕上げる事が出来ます、手古摺《てこず》る事が少ないのです。
 スケッチした素描淡彩を、家へ持ち帰えって、その上へ同じ大きさのガラスをのせ、決して位置がくるわないようにして、絵具を前記の油で溶解しながら、少しずつ塗って行くのであります。
 ガラスは勿論《もちろん》、アルコールで充分美しく、掃除して置く必要があります。
 ここで普通の絵とは違って、特別な考えが必要である事は、前にも述べました如く、絵の結果、即ち答えが、裏手へ現われるのですから、普通の絵の如く、幾度も色を重ねて、仕上げて行く事が出来ない事です、一度塗った色彩や線は、最後の一筆であり結果の色であります、それで、描くべき順序が、普通の絵とは全く反対になるわけです、例えば空全体を塗って置いて、あとから月を描こうとしても、それは駄目です、空の色に蔽《おお》われてしまって、月は画面へ決して現われないでしょう、即ち月は、何よりも真先きへ描いて置く必要があります、そして、あとから空全体を塗りつぶさなくてはならないのです、もしも雲があれば、雲も月と共に、先きへ描いて置かなくてはならないのです。
 林檎《りんご》を描くとします、その光ったハイライトの部分は、先きに描いて置くのです、次に暗い影を描くのです、最後に赤い全体の球を塗りつぶすのであります。
 滑稽《こっけい》な事には、自分の署名などは、左文字で一番最初に、記《しる》して置かねばならない事です。
 それをうっかりして、先きへ描いて置くべきものを忘れてしまって、あとで弱る事があります、例えば裸体人物に、臍《へそ》を忘れて、腹全体を塗りつぶして、あとから表を返して見て驚く事があります。こんな時に、臍の部分だけ、あとから絵具を、アルコールで拭《ぬぐ》い取らなければなりません、地塗りとか空とかバックなどは、最後の仕事です、樹木などは、葉の一枚一枚の点々は先きに、葉の全体の固まりは、後から塗ります、道路の点景人物は先きに石ころも先きに、道全体の色は最後に塗りつぶさねばなりません。
 時々裏返えして見て、仕上って行く絵の調子を眺め、次の仕事を考える必要もあります、あまり度々《たびたび》裏返して見てばかりいると、勢や気合いが抜けて絵が大変いじけてしまうものであります、ある程度までは、度胸や胆力が必要です。
 ところで仕上った絵は、実物の風景とは、左右が反対になっています、丁度エッチングの場合と同じ事であります。
 絵具の塗り方は、あまり厚くぬらない方がいいのです、なるべく淡く、サラサラとつけて行く方がよろしい、ガラスの透明を利用してタッチを表わす工夫をするとよいのです。あるいは淡い、絵具を二、三回も重ねて、重く濃厚な部分や、軽く半透明な場所なども作るのです。すると、ガラス特有の味が出るものです。
 顔料については、油絵具を用いた場合も、粉絵具を用いた場合も、その描法に変りはありません、その効果において、油絵具の方は少し濃厚であります、粉末絵具は、自然粉っぽい気がして、サラサラとした感じがします、極く小品には油絵具がよく、少し大ものには粉絵具が適しているようであります、絵具ののびもよろしい古いガラス絵などは、主として粉末絵具が使ってあります。
 一枚のガラス面が、殆《ほと》んど絵具で塗りつぶされた時は、絵が仕上った時であります。
 出来上った絵は、よく乾かす事が必要です、乾くとその絵具のついてある面へ、その絵の調子によって、黒い紙かあるいは藍、あるいは鼠《ねずみ》色の紙をガラスと同じ大きさに切って当てます、その紙の地色によって、絵の調子を、強めたり弱めたりする事が出来ます。
 色紙を当てると、次にボール紙のような厚紙を、これもガラスと同じ大きさに切ってすて周囲を細い色紙か何かで、糊付《のりづ》けにしてしまいます、こうすると、ガラスで手を傷《きずつ》けたりすることもなく、少し位い取り落しても、こわれる事はありません。こうして一枚の絵の仕上げを終るのであります。

     五 画面の大きさの事

 画面の大きさを考える事は、重要な事であります、油絵は八号位いから百号、二百号、三百号と、どれ位いでも大きく描く事も出来、またその材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです、ところで水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります、水彩という材料は、そんな大ものを引受ける力がありません、何んとしても小品の味であります。
 ガラス絵は特に、大ものはいけないようであります、第一|馬鹿《ばか》に大きいガラスというものが、人に、何時《いつ》破れるかも知れぬという不安を与えていけません。
 それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります、筆触《ひっしょく》もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
 そんなわけで、大体においてガラス絵の大作というものは、昔しから尠《すく》ないようです、日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので退屈《たいくつ》な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります、Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心《ここ》ちのする色の輝きです、宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭のように、ごろごろ道端《みちばた》に転《ころ》がっていれば鳥の糞《ふん》と大した変りはないでしょう。
 私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二寸三寸四方から五、六寸位い、せいぜい六号位いの処だと思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
 ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろさように小さい作品である上に、殆《ほと》んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描が必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません、どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな挿画《さしえ》となってしまう事も、怖《おそ》れねばならないのであります、この種の挿画となってしまっては、も早や、ガラス絵も何もかも、皆台なしとなってしまうのであります。
 要するにガラス絵といっても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後《の》ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
 食物でいえばガラス絵などは、間食の如きものでしょう、間食で生命を繋《つな》ぐ事は六《む》つかしい、米で常に腹を養って置かなくてはなりません。

     六 額縁の事

 ガラス絵とその額縁との関係は、なかなか重大であります、何んといっても、二、三寸の小品の事ですから、これに厭《いや》な額縁がついていれば、その小さな画面は飛ばされてしまいます、充分中の光彩を添えるだけのものでなくてはならないでしょう。
 支那のものでは、よく紫檀《したん》の縁がついています、上品でいいものです、古いビードロ絵にはそれは堪《た》まらなくいい味な、古めかしい縁がついています。
 私は額縁屋へ喧《や》かましくいって造らせたりしますが、どうもいう事を聞かないので癪《しゃく》だから致方《いたしかた》なく、私は場末の古道具屋をあさって、常に昔しの舶来縁の、古いのを探しまわるのです、古額は案外美しいものがあります、昔し渡った鏡のフチなど今も散髪屋などによく残っていますが、なかなかいいものがあるのです、こんなものは古道具屋では、あまり価値がないものですから、気の毒なようなねだんで売ってくれます、こんなのを常に買い込んで置いて、時に応じてその画面の寸法に合せて、額縁屋で切らせ、組み合させるのです、すると絵にピッタリ合った味が、成立するのであります。先ずガラス絵としての大略の事を申したつもりです、長くなりますからこれで止めときます。

   散歩雑感

 私は毎晩散歩する癖がある。国枝君などは散歩は大嫌いだという。第一歩などという言葉からして虫が好かないという。なるほど考えてみるとあまりハキハキした言葉でも仕事でもないが、癖になっていると病気のようなもので、何はさておき、ちょっと巡回して来ないと気がすまないのだ。
 ただ何となく外へさえ出れば、何か驚くようなことにありつけるような、何かが落ちていそうな、何か素晴らしいものが拾えるような気持ちがしてくるのだ。
 ところで真暗な野道や淋しい町を、いくら歩いてみても一向面白くないのだ。狐が飛び出すくらいのものかも知れない。狐でもいいから出てくれればはなはだ面白い。家の中で髭を抜いているよりもいくら景気がいいか知れない。もしその狐が美人に化けて誘ってくれればなおさら面白いではないか。もし馬の糞でもたべさされたら困るには困るが、天井の節穴を計算しているよりもどれくらい幸福だか知れないと思う。
 夢を見るということも一種の寝ながらの散歩だと思っていい。寝ると同時に醒めたら朝であったというぐらいの、完全な眠りでは夢は見られないが、時に五臓の疲れのある晩には随分興味ある一夜を送ることが出来るものだ。人間は、十年以前のある三カ月を思い出すことは出来ないが、十年前のある一夜の夢をはっきりと記憶していることがある。するとその三カ月は死んでいたも同然で、その一夜こそは面白く生きていたということにもなるようだ。人間はだから醒めているからといって威張ることは出来ない。
 私のような弱虫はどうせ長寿を保つことは出来まいと思うから、せいぜい夢の散歩でもして長生きの工夫でもしなければならないと思っている。
 夢の散歩は別として、昼間の散歩でもただ無意味に損ばかりする仕事でもない。例えば何かの芝居がかかっているとする。一度見ておこうと思う。毎晩その看板を眺めながら散歩している。不思議なことには、遂にはその芝居はもはや見てしまったものの如く思えて来ることがあるのだ。見たも同然と思えて来るのだ。千里眼のようだがまったくそんな気になる。妻君があの着物が欲しいという。毎晩眺めて通ると、もはや買って仕立てて飽き飽きして、古物がぶら下がっているものと思えて来る事がしばしばある。これらは散歩の一得であると思う。
 東京は何といっても広いから散歩にはすこぶる都合がいい。銀座から神田、広小路、浅草と歩けば限りがない。何日でも違った方面を散歩することが出来る。何者かに出会う可能性も多いわけだ。私は時々古い額縁ぐらいに出会って、買って帰ることがある。あまりそれ以上の幸福は拾えないで、紅茶の一杯でも飲んでヘトヘトに疲れて、夜遅く帰ってくるのだ。これで私は足ることを知って、まず満足して寝てしまうことが出来るのだ。しかる後は夢の散歩である。ちょっと不憫といえば不憫とも考えられる。
 ところで、大阪ははなはだ散歩の範囲が狭い。そして銀座の如くすっきりとしないのだ。何としても大阪人の集まりである、彼らの心根はすなわち嘔吐となって現れているのだ。私は道頓堀の街路ぐらい嘔吐を遠慮なく吐き散らされている盛り場をあまり見たことがない。春の四、五月頃においてことにはなはだしいのだ。一度よく眺めて歩いて下さい。すきやきの嘔吐から鰻丼のもの、洋食のものいろいろとある。胸が悪くなる。私は狐に馬糞をたべさされても腹は立たないが、人間の嘔吐だけは実に癪に障るのだ。道頓堀はまったく散歩には不適当な場所だと思う。
 それはたんに散歩を目的とする者よりもここでは芝居を見るもの、飲食をしたがるもの、芸者を買いたがるもの、買って連れて歩いているもの、女郎買いを志すもの、女給へ行くもの等、すなわち種々様々な直接行動で満ちているのだからしたがって汚なくなるわけだ。
 だから人によって志によって、その赴くところに差別があるということは、かなり必要なことだと思う。銀座はブラツクところ浅草は浅草らしく、神田は本屋、女郎は吉原、それ以下は亀井戸などとなっているから都合がよく、したがって同好の士が集まることになるからお互いに不愉快がない。
 私はこの意味でパリの地下電車やバスや市電でさえも、座席に等級をつけてあることを大変うれしく思うのである。[#「地から1字上げ」](「マロニエ」大正十五年二月)

   芸術と人間の嫌味

 嫌味といえば今一々例を挙げて説明しなくとも、大抵わかっていることと思う、われわれがとても堪らない嫌味な奴なんだという、あの嫌味のことなのだ。
 これは人間に限らず、その嫌味な人間の作ったものなら、絵でも彫刻でも芝居でも何でも嫌味なのだ。ところでこの嫌味というのは大抵人間には必ずちゃんと存在しているものである。自分こそ嫌味はなかろうと思っていても、他人が見ればちゃんと存在していることが多いのだから面白い。その中でも嫌味な奴というのはそれをうんと持っていて隠し切れない男のことかもしれない、男に限らない女でもだが。
 それは例えば人間の顔の真中に、鼻糞とか鼻の脂などが存在しているのと同じようなもので、それが素敵な美人であって、若くあるところの娘の鼻に必ず存在するところのものであるから悲しい。だから美人の要素としては鼻の中の掃除などははなはだ重要な事柄だろうと思う。
 ある時、芸者が三人集まっての雑談中ふとどんな男を一生の相手として選んだら一番幸福だろうという問題が出た。するとその一人が私は隅々のきれいな人なら大丈夫だと思うと答えたそうだ。すなわち耳穴、鼻の穴、目くそ、歯くそ、フケの類、爪のあか、こんなものを蓄めている男は、不吉と不運の神様だということに話がきまったそうである。沢山の人間を取り扱っている女達の鑑別法もなかなか面白いものだと思ったことがある。
 要するに美人の鼻糞はわれわれのフケ同様、人間の作った芸術にこの嫌味という味がどうも出たがって困るのだ。また人間の心の一部にちゃんと存在していて、そこから発散する臭気なのだから致し方がない。人間の生きている以上は湧き出してくるところの生きるという力の余りものだと考えてもいいと思う。この余りものがうっかりすると芸術にそのまま現れるのだ。
 それで人間はいくら美顔術をやっても絶対に脂やフケを追放することは不可能なことだ、ただ程度と分量の問題だろうと思う。それはその人のお互いの心がけいかんにまたなければならないことなのだ。
 だから心がけのよい娘や芸者を見て下さい、常にちょっと四角位の紙切れを懐中からぬき出して往来で、三越、電車の中で、バスの中でいたるところで鼻の脂を拭いているではないか。これも芸術をよく見せようとする心がけからだろう。
 ところで生きる力の余りから嫌味が発散してくるものだとすると、何としても嫌味は若いもの、旺盛なるもの、元気、色気、富貴、有情、幸運、生殖、繁殖、進行、積極、猛烈というふうなことから自然と湧き出して来るわけだ。
 これに反して老衰、月経閉止、生殖不能、栄養不良、停滞、枯淡、棺桶、死、貧乏、不運、消極といった方面からはあまり湧かないように思われる。
 こうなると大体若いということが第一嫌味の素だということにもなる、また生きていることもついでに嫌味なことになる、人間が一番元気に生きている最中に例の恋愛をやるのだが、この時に書いた手紙の文句ほどうるさいものはあるまい、まずわれわれの悪寒なしでは読み切れない、まったく嫌味には悪寒がつきものなのだ、それは雷に電が伴うようなものかも知れない。
 ところで、西洋人というものは昔から非常に生きていたがる人種だという評判がある、これはどうも定評となってるらしい。すなわちその食物から精力体質からが最もさきに述べたところの前者である。すなわち生殖、繁殖、積極、元気、などの部に大変適っているようだと思えるのだ。それでその発散するところの芸術にも隠し切れない臭気が現れ出すのだ、臭気が充ちてしまえばそれは感じなくなるものだ、そこで西洋では昔からあまり嫌味を東洋人ほど神経過敏に嫌がらない傾向がある。
 東洋人といえば、その芸術にも人間にもこの嫌味が現れることを大変嫌がるのだ。
 それでどんな芸術にも、あるいは広く一般の芸事においても、あの芸は若いというのだ、若いということは嫌味があるということだと思ってもいいと思う。何もかも臭気を取り去った上の芸事を東洋人は愛するのだ。
 だから昔から東洋に存在して第一流のものとして残っている芸術品には、決してこの嫌味の味は存在しないといっていいのだ。
 西洋のミューゼなど眺めてあるくと、それは元気なしでは出来ない芸当でうずまっているといっていい位だ。人間の臭気は凝って油絵となっているといっていい感じがする。しかし西洋のことはしばらく措いて、何といっても東洋人の昔からの理想は、どうあっても静かに静かにという方だ。停滞、棺桶、死、貧乏を理想としている、だからしたがって嫌味の出場所がないのだ。またうっかり出ても大変虐待されるのだ。東洋画家にはオートバイで走り廻ったり、美人のお供をして芝居へ行ったり、金持ちに頭をピシャリとたたかれることを大変な恥と考えるのだ。その上貧乏や死ぬことを大して怖れないという傾向がある。
 だから日本の新派劇を見て下さい。私はかつて嫌味な男に芸者が惚れたという芝居を見たことがない。大抵の場合芸者はさっぱりとした、そして金のない大学生とか、運転手とか、出入りの大工に好意を持つようだ。嫌味な奴に幸福を与えまいと思うのは、東洋人一般が約束してきめているところの規則なのだ。それ位東洋人は嫌味を厭うのだ。
 したがって今までの日本にはあまり嫌味なものが幸いにして残されなかったし、そんなものの横行する余地がなかったが、もし仮に今の日本で死んだ後までもなお嫌味で嫌味で堪らないというほどの嫌味な男があったとしたら、それこそ政府は美術院賞を贈呈に及ぶかも知れないと思う、それはまったく日本としては珍しいことなのだから。
 ところで昔は西洋はこう、東洋はこうとちゃんと分限がきまっていたのだからよかったけれども、現代となって西洋と東洋とが入り交ってしまって、すこぶるややこしくなってしまった。芝居の芸者が嫌味な奴に惚れ出して来たのだ。金と自由とさえ与えてくれれば何でもいいわ、という怖ろしい芸者が飛び出して来たのだ。
 今日の日本人はまったく静かにしていていいのか、元気をつけていいものか、恋愛をしようか、やめておこうか、山へ逃げ込んでみたり、ちょっと現れてみたり、出しゃばってみたりへこんでみたり、種々雑多の相を現して来たので、その発露するところの嫌味も尋常一様の嫌味でなくなって、とてもこんがらがって来た、それはちょうど白と黒の如く相性の悪い二つの性を一つの心に持ったような味を発散するようになって来た。
 今の若い芸術家、映画俳優、女学生、中学生、あらゆる何でもが相性の悪い二つの心を持って悩んでいるのだ。この悩ましくややこしいところから無数の嫌味が、ラジオの波の如く、この世の空気に一杯になって拡がって来たといってもいい位だ。したがって今の世の芸術はもっぱら複雑な嫌味で成り立っている時代かも知れない。
 もう今日の場合ではいかに竹林の七賢人が賢くて嫌味のない人種だからとはいえども、出る幕ではないということになっている。生殖不能だなどいっている奴は早速人生の失業者となって橋の下で死んで行くより外ないだろう。芸術は目下戦争なんだ。当今芝居でも剣劇というのが何よりも流行するというのももっともなことだと思う。
 戦争の時代では嫌味もくそもいっていられない。そこで何しろ事に当たるものは若い者に限るとなっている。壮丁を必要とするのだ。だから今の芸術は画壇でも何でも若いものが、その中心となって働いているわけだ。
 それは無茶にでもやって行けるのだ。ところが悲しいことには西洋人の如く、本当の精力とか体力が何といっても足りないのだから、すぐ早老が押し寄せてくる。生殖、繁殖、進行、猛烈が長く続かないのだ、気ばかりあせってもすぐ早漏だ。これが長い年月嫌味を排斥して棺桶を理想としてきた罰かも知れない。日本ではルノアールの如くあのよぼよぼになるまで、あんなに美しい裸婦の描ける人が一人だっていないのだから情けない。嫌味がなさ過ぎるではないか。
 この多忙な戦争の最中にでもちゃんと坐りこんで、やはり芸術品はアカぬけたものに限ると合点した有望な若い人たちもあるんだが、それが女郎買いを三回分簡約して明日から謡曲の稽古に通ったところで、どうも時代の大勢をいかんともすることが出来ない、これはかえって二重の嫌味が発散したりして、我慢がなおさらならないことになったりするのだ。
 とにかくこの始末は何とかつくには違いない。私はやはり何といっても人間は自分に似合う帽子を買ったり、足のいたまない靴を選択したりするように適当なものを探し出すことだと思う。目下靴が自分の足に合っていないことをそろそろ発見しかかっているんだから、たのもしいことになって来てはいる次第だ。そして優秀な芸術はわれわれのような青二才では出来ない芸当だということになって来なくては駄目ではないかと思う。
 ルノアールのその晩年の裸女なども東洋的な味からいっても気品の高いものである。鉄斎翁という人もその晩年のものが実に素晴らしいではないか。あの鉄斎翁の最近の肖像というものを見たが、まったく絵かきの「ぬし」といった顔をしている。何でも「ぬし」とならなければ神通力は得られない。狐なども神通力を得ると毛の色も金色と変じて金毛九尾となる。芸術家もそこまで行かなければ駄目だ。役者でも、落語家でも、講談師でも、政治家でも、何でもそうだ。堂に入った達人になると皆「ぬし」と変化するようだ。芸術家の終点は「ぬし」ということにきまったようだ。
[#地から1字上げ](「中央美術」大正十五年一月)

   七月

 冬は陽で夏は陰に当ると老人はいう、なるほど幽霊や人魂《ひとだま》が出るのは、考えて見ると夏に多いようだ、幽霊の綿入れを着て、どてらを被《かぶ》った奴などはあまり絵でも、見た事はないように思う。
 芝居などもお岩だとか、乳房榎《ちぶさえのき》だとかいうものは、冬向きあまりやらない、やはり真夏の涼み芝居という奴だ。
 しかし私は今ここで怪談をやるのではない、ちょっと怪談も一席やって見たいのだが、それはまた今度の楽しみとしてとって置こう。
 私は昔しからかなり毛嫌《けぎらい》をよくしたもので、私が美校在学当時なども、かなり友人たちを毛嫌したものだった、殊《こと》に大阪人を非常に厭《いや》がったものであった、東京から暑中休暇で帰郷する時など、汽車が逢坂山《おうさかやま》のトンネルを西へぬけるとパット世界が明るくなるのは愉快だがワッと大阪弁が急に耳に押し寄せてくるのが何よりもむっとするのであった。
 そのくせ自分は大阪の真中で生れた生粋《きっすい》の大阪ものであるので、なおさらにがにがしい気がして腹が立ってくるのであった。それだから、学校におっても大阪から来ている奴とは殆《ほと》んど言葉を交えない事にしていた。日本人が西洋へ出かけると日本人に出会う事を皆申合せたように嫌がるのと同じようなものだ、知らぬ他国で同国人にあえばうれしいはずであろうと思うが、事実はそう行かないのだ、巴里《パリ》にいる日本人は皆お互《たがい》から遠ざかる事を希望する。それはわれこそ一かどのパリジャンになり切ったと思っているのに、フト日本人の野暮《やぼ》臭いのに出会《でくわ》すと、自画像を見せ付《つけ》られたようにハッと幻滅を感じるからだろうと思う。それは無理のない事で全く悲劇でもあるのだ。
 人間が霊魂という、単に火のかたまりであって青い尻尾《しっぽ》を長く引いているだけのものであれば、フランス人も、日本人も、伊太利《イタリア》人も、ロシア人も、支那も印度も先ず大した変りはないので、知らぬ間にアメリカ人が日本へ集っていたり日本の人だまが皆巴里へ集っていたりなどしても、ちょっと区別がつかないので目に立たず、人種問題も起らないし、早速|生粋《きっすい》のパリジァンにもなれる。欧洲から日本へ、日本から欧洲へと往復するにもただプラプラと青い尻尾さえ引摺《ひきず》れば済《す》むのだから、今の若い日本の画家等にとっては大変な福音《ふくいん》なのだ。
 ところが悲しい事に魂は、それぞれいい加減な形体を具えているので悲劇が起るのだ、といって私がこれを如何に改造するという事も出来ないので致し方がない。
 話しが大変広くなってしまったが私の美校時代には巴里にいる日本人の心持ちようのものがかなりに働いていたものだった。例えば今大変親しい鍋井《なべい》君や大久保《おおくぼ》作治郎《さくじろう》君なども、十幾年前は学校の食堂などで出会ってもろくに自分は言葉も交えなかった、何んだ大阪の糞《くそ》たれめといった調子でにらんでいたものだった、今聞いて見ると何んでも変な奴だと思っていたそうだが、それがある時偶然話し合って見たら、お互にそれは同じ理想を持っていた事が知れた、やはりこれもなまじっかくだらない形体を具えているからややこしいのだ。人だまでさえあったなら、すぐああそうか君もか俺《おれ》もだ、そんなら仲よくやろうやないか、ソヤソヤという位で、早速了解がつくわけであるのだ。
 全く人間も魂だけのものなら面倒臭い言葉なども使う必要もなし、文章など考えて書く必要もなし、第一食事のために働くという馬鹿気《ばかげ》た仕事がなくなっていいのだ、恋愛などもすぐ心と心が通じるのだからジメジメとした悩みなどもないのでいい、私は好きだと魂を光らせると嫌よと向うから信号があるから、ああそうですか、でおしまいだ、わけのない話しだ。
 ところで画家の魂なども商売人とか相場師の魂と雑居しているとやはり魂は住み心地が悪い、鯉《こい》が空気と住んでいるようなものだ、鯉は水と住まなくてはならない、即ち魚心《うおごころ》水心《みずごころ》というて心と心と相通じる事がなくてはやり切れない、魂はおなじ魂を呼ぶからだろう。そうだ、うむ、よし、と直《す》ぐ通じなくてはならない、それがこうだろうといっても、さようですかいな解《わか》りまへんでは癪《しゃく》が起る、これが度々重なると魂は衰弱を来《きた》す、神経衰弱というのは人魂の衰弱をいうのだろうと思う。
 巴里に美術家が集るのも、大阪に商売人が集るのも釜《かま》ケ崎《さき》に乞食《こじき》が集るのも、東京へ文芸が集るのも、支那に支那人が多いのも銀座にカフェが出来るのも十二階下に白首《しろくび》が集るのも、皆魂が魂を呼んでお互に相通じる生活をしようとする結果かと私は考える。

   神経

 神経と申しましても私は神経科の医者ではありませんから、学術的なことは申しません、ただわれわれ絵描き社会で何となく神経と呼んでいるところの、そのぼんやりとした神経について申すのであります。
 あの男には神経がある、あの女には神経がない、あの絵の神経は太過ぎる、などと申しまして大変神経を気にやみます、もちろん医者からいわしますと神経のない人間などある筈はないのですが、われわれ社会のものが見ますと、確実にあるのとないのとがあるのであります。
 神経のある人間の作った作品にはそれだけの神経が通うということは当然でありまして、神経のないものの作品には神経が現れないのも当然であります。作品に限らず言葉一つにも神経は現れるでしょう、指一本の運動にもその人の神経が現れる筈であります。
 昔の占いに墨色判断というのがあります、私は一度見てもらったことがあります。半紙へ墨の一文字を引いて持参に及ぶと、先生はじっと見詰めてその一文字から私の性格や運勢や病気を発見するのであります。それが不思議に当たるのでした。
 私は思いました、なるほどわれわれが他人の作品を観賞する時には、その一筆一筆の集まりから成り立った固りから、その人の心や性格や、生活状態までも、ほぼ察することが出来るということは、やはり何といっても恐ろしい墨色判断に似ております。油絵は色の判断、雪舟は破墨の判断、彫刻は腕力の判断でありましょう。まったく紙や土の上に働いたところの神経を眺めますと、その作者の神経がどんなものかが判ります。神経さえわかりますればその作者の脳の働き具合も想像出来るわけであります。
 芸術家の神経は作品に現れますが、普通の人達の神経はその言葉や行動に現れます、その人の人格というものは芸術家の作品と同じものでしょう。
 神経と地震計とは似ています、どちらもピリピリと動いて震えます、そして震うただけの記録が現れて残ります、だから上等の機械であればあるほど遠方の地震もわかり、完全な記録も出来る訳であります。
 その地震計であるところの神経の上品下品いろいろの種類をちょっと考えてみますと、随分いろいろとあります。
 解剖図で見ますと神経は大体白く細いすじでありますが、われわれから見ますとその白いすじにも非常に細い奴と、馬鹿に太いのとがあるのです、細いのは糸より細いという沢市の身代よりも細いのから、うどん位のもの、太いのになると大黒柱船のマスト位もあろうかという神経までもあるのです。これをわれわれは無神経と呼びます。
 マストや大黒柱のような神経はどうも震動がうまく伝わらないので、丈夫であるが下品に属します、またうどんのようなのろいのもいけませんし、といってあまりに細くデリケート過ぎても潰れやすく、衰えやすく早漏に陥りやすいのです。
 太いものの所有者には軍人、相場師、詐欺師、山かん、政治家、石川五右衛門、成金、女郎屋の亭主などがあります。
 その石川でさえ芝居で見ると、せり上がる山門の欄干へ片足をかけ大きな煙管をくわえて「一刻千金とはちいせえちいせえ」とか申すようであります、あの一言で石川もなかなか神経を持っている男だと知れ、われわれは感心するのであります。
 金持か代議士か成金か、女郎屋の亭主か、何か知りませんが、芸者数名を従えて汽車に乗っているのをよく皆さんは見かけることがありましょう、そんな男は大概憎らしいほど太っています、そしてその神経の太さを充分に発揚しております、乗客の神経も、車掌の神経も、女の神経も、汽車の神経も、皆その大黒柱で踏み潰しております、これを作品に例えてみるとちょうど帝展へ、ある彫刻屋が牛車で、達磨の巨像を担ぎこんだようなものかも知れません。しかし帝展では落選させるからよろしいが、世の中ではこれをはねてしまうわけに行かないので困ります。大体遊興と申すものは神経の太さと金の光を発揚する楽しみと見て差し支えありません。別して大阪人の遊興にはこの種類が多いのでありまして神経係りは大変迷惑を致すのであります。
 神経は太きが故に尊からず、また細きが故に尊からず、上等の地震計が一番尊いのだという格言があるわけではありませんが、総じて芸術の観賞というものはその神経の観賞でありまして、この観賞は人の心の観賞であります、墨色判断であります、八卦であります、人の心の何もかもが判明するのであります、したがって芸術がわかると、この世の中に不愉快の数がうんと増します。
 しかしながら八卦見は自分の神経が一体どんなものかということは一向知らぬものであります。
[#地から1字上げ](「マロニエ」大正十四年六月)

   油絵と額縁

 自分の気に入った作品は何とかしてそれに似合った額縁に入れたいと思う。人間が帽子を買うということでさえ随分しばらくは考えるものだ。世の中の人がまったく自分に似合った帽子を買って冠っているを見て常に私は感心しているのである。
 紳士は紳士、婚礼や葬式の山高帽子、紙屑屋は紙屑屋、探偵は探偵、絵描きは絵描き、茶人は茶人、不良少年は不良らしく、各々その個性にしたがって、自発的に帽子の種類をちゃんと択んでいるから感心だ。またそのソフトや鳥打ちの凹まし方や冠り方等も、皆それぞれの注意が職業や趣味によって工夫されているようだ。いつか広津和郎氏が築地小劇場風の冠り方ということを手真似までして話してくれたことがあったが、なるほどその鳥打ちの冠り方はさも左様らしくあったので大変面白いと思ったことがあった。
 左様に人間と帽子との関係が密接なように、絵と額縁との関係も密接に行かなければならないのだ。ところでわれわれが額縁を買いたいと思っても今の日本であっては、これは帽子屋へ走るような具合にうまく早速の間には合い難いのだ。それは額縁がないからではないが本すじのものがないからだ。
 額縁屋を現在の帽子屋と比較するとまず時代からいって前者は三、四十年も遅れているようだ。帽子は同じく西洋から起こったものではあるがそれは目下支那、日本、南洋、インド、ペルシャ、とにかく地球上での文明を持つ国では一様に帽子を冠っている。ちょうど123の数字が地球上に拡がっている如く帽子は拡がっているのだ、そして帽子屋は世界中のどんな小都市にまでも行き渡っているのだ、その形式も流行とともに多少の変化はあるが帽子の本すじは伝統的に一つの形式を作っているようである。
 油絵の額縁もその通り世界中に拡がるべき性質のものだ、油絵を日本の表装仕立てなどしてはとうてい嫌味で滑稽だ、お座敷洋食となり、茶人の帽子となり神代杉となって怪しからず嫌味で下品なことになってしまう。
 額縁の様式も昔から勝手気ままに造ってはいけない形式と伝統があるのだ、それは額縁の通人山下新太郎氏に聞いてもらえばすぐわかるのだ、そして、ああでもないこうでもないと何世紀の間に造られて統一した合理的な美しい種類が出来てしまっているのだ。
 フランスあたりの額縁屋の店を覗くとその職人が、さものんきそうに彼らの店さきで、ゆったりした顔をして美しい縁をつくっているのを見受けると、まったく羨ましい気がする。並んでいる無数の縁は安ものの仮縁でさえちゃんと正確なクラッシックな心がその一つのカーブにまで現れているようだ。
 また古物の素晴らしいのが見たければ古縁屋へ駆けつければいいのだ、階下も階上も、涎の止め難い素晴らしくよい味の額縁でうずまっているのだ、あらゆる形式と種類で埋まっているのだ。
 またパリの夜店などあるいてみると汚ない小道具屋によくビッシエールなどの使っている古い額縁などの味のよいのが発見されるのだ、何という便利さだ、絵が出来た縁がほしいと思う、額縁屋へ走る、仕入れのものでも何かがある、ピッタリと合う、うれしいというわけだ。われわれは贅沢はいわない、すっきりとした、正当な、本すじでさえあればそれが仮縁でも何でも喜ぶのだ。
 ところで日本の現在ではどうだ、田舎の万屋で山高帽子を買っているようなものだ、何といっても品物は三個しかありませんから我慢しといて下さいというふうだ、で仕方がない、多少インチも合わず古臭いが新聞紙でも入れて我慢しようということになるのだ、いつも我慢と辛抱で通すのだ。
 人間はあまり我慢と辛抱をしていると神経衰弱にかかるものだ、恋愛の相手が見当たらぬようなものでいらいらするのだ。
 額縁は帽子ほど万人が皆冠るものでないから三十年も時代が遅れるのも無理はないが、今少しわれわれの帽子屋が出来てくれてもいい時代だろうと思うのだ。
 私達は毎日の必要に迫られているのだから、まったく贅沢なことは望まない、味のいいものなら竿縁で沢山なのだ。プツリプツリと切って早速組み合わせてくれればそれでいいのだ、四隅の合せ目など一分ぐらい隙が出来たって、そんなことは問題ではないのだ、本すじのもの、いい味のものがほしいのだ。
 私は止むを得ない要求から昔、日本へ渡った湯屋や散髪屋の古鏡の出ものをあさることを始めた。それはそのクリカタや凸凹の味が本すじなのだ、全体の光沢が金属的なのだ、この金属的が有難いので、日本製のものはクリカタでも模様でもジジムサイのだ、ハリボテの感じがするのだ、職人が味ということを知らないのだ。第一に誠意がない。
 私はしかしながら、ぜひこんなものを探しているわけではないのだ、私の本当の心は新しい作品には新しいものをつけたいと思うのだ、ただ好きなものがないので苦労するのだ。
 山下氏などは西洋形式を取り揃えて研究されているらしい、そして自分で木を削り彫刻を施して気のすむまでいじくっていられるようだ、なかなかいい味の本すじのものが出来上がっているのを私は見る。
 ところで山下氏の如く本すじのものが出来れば結構だが、ある伝統の様式を知らないものが手製を試みることはむしろ止めてほしいものだと思うのだ。私はしばしばでたらめな文様を施した手製の縁をみたことがあるが、それは非常に嫌味なもので落着かぬものだと思った。
 帽子屋の帽子は皆気に入らぬからといって、毛糸か何かで頭巾様のものを妻君に作らせて冠っているようなもので、嫌味でとても見ているものは堪らないのだ。ここがむずかしいところだ。いい縁は必要だが、手製のでたらめを作る位ならばむしろ万屋で買った山高帽子の方がいくら嫌味がなくていいかも知れないのだ、だから凝らない方がよっぽどましだということになるのだ。
[#地から1字上げ](「マロニエ」大正十五年一月)

   黒い帽子

 私は、一つのものを愛用すると、それがどんなに古ぼけてしまっても、如何に流行から遠ざかっても、次にそれに代るだけの、自分の気に合ったものが現われない限りは容易に捨ててしまう事が出来ないで、いつまでも未練らしく用いていたい性分《しょうぶん》なのです。
 私が今|冠《かぶ》っている帽子なども、その愛用しているものの一つでしょう。愛用しているものは何も帽子だけに限った事ではありませんけれども、帽子というものは、一等日常親密に交際するものですから、先ず帽子を思い出したわけです。
 私は元来、鍔《つば》の広い帽子が本能的に大嫌いです。例えばアメリカのカウボーイの冠っているもの、あるいは日本の青年団とか少年団とかいう種類の男たちの冠っている帽子などは私の嫌いなものの代表であります、アメリカものの活動写真などを見ると、きっとあの帽子を着た男が現われますので閉口します。虫が好かないのでしょう。
 それで鍔の狭い少し巻き上った帽子を以前から随分探していたものでしたが、私の注文通りの型で帽子の流行がいつも一定している訳のものではありませんから、なかなか見当らなかったのです。それで尋ね尋ねた末、やっとの事で遠いフランスは巴里《パリ》の都で、初めて好きな帽子にめぐり逢《あ》ったのでした。
 巴里でも伊太利《イタリア》製や、アメリカ、英国製品がかなり多く入っていますが、純フランス製のものの中に私の注文通りの型が沢山あるのでした。
 私はサンミッシェルのある帽子屋へ飛び込んで、一番好きな黒の中折《なかおれ》を一つ買って、勇んで下宿へ帰ったのでした。
 鍔の狭い事は格別でそして急角度深く巻き上っているのです、その角度に何んともいえない味があるのです。
 巴里の極《ご》く普通の男がよくこの帽子を冠っています。それが私の今なお愛用している帽子であります。ところがもう三年余りにもなりますので、よほど古ぼけてしまって色も変って来たようです。
 本国の巴里でさえ、もうこんな形は流行していないかもしれません。目下|堪《たま》らなく心細い思いをしている次第。
 しかしながら、こんな場合の用意にと思ったわけではありませんが、山が円《まる》くて、鍔がそれはうんと巻き上った黒の軟《やわら》かい帽子をマルセイユで、買って置いたのでした。これは、まだそのまま、トランクの底にフランスの匂《にお》いと、ナフタリンの香気と共に安眠していますので、やや心安んじている次第であります。

   人間が鹿に侮られた話

 ある夏のことでした。今フランスに滞在している大久保作次郎君と私とが奈良の浅茅ケ原の亭座敷を借りて暮していたことがありました。
 ある日ちょっと散歩して帰ってみると、締切って出たはずの障子が少し開いているではありませんか。
 おかしなことだと思ってちょっと恐る恐る中を覗いてみますと、大きな一匹の女鹿が座敷へ上がり込んで寝ているのでありました。
 おい君、出たまえ、と大久保君が鹿に申しました。私は箒を持ち出して鹿のお尻を突いてみましたがなかなか動きません。ただ尻尾をピリピリと動かしただけです。しかしながら四畳半で眺める鹿の大きさは、また格別なもんだなと思いました。
 君出たまえぐらいでは駄目だというので、二人がかりで尻をどやしつけましたら鹿は止むを得ぬといった様子でのそりと庭へ降りました。
 温厚である大久保君も、そののっそりとした様子が、いかにも人を見下げた態度だと腹を立て、やにわにステッキを握って鹿の後を追いました。[#底本ではこの行一字下げしていない]
 鹿という奴は一体ちょっと見たところいかにも愛すべき動物のようですが、まず一カ月と交際を続けて御覧なさい、以外に意地の悪い、女の腐ったような奴だということを発見するでしょう。大久保君鹿を目がけてステッキを投げつけた。すると彼女はずるい目つきでわれわれを眺めながらスポンという音とともにおならを発しました。私はそのお尻がパッと開いてすぐ閉じる瞬間を、はっきりと眺めました。
 大久保君は投げたステッキを拾いながら、君、あいつは無茶やなアと申しました。
[#地から1字上げ](「週刊朝日」大正十四年九月二十日)

   胃腑漫談

 最近、私は持病の胃病に悩まされていたのでつい考えが胃に向うのである。
 総じて病人というものは病気を死なぬ程度において十分重く見てほしがるものらしい。「なんだそれ位の事でへこたれるな、しっかりし給《たま》え」などいわれると病人の機嫌《きげん》はよろしくない。「何んでも君の病気は重大な病気だよ、なかなか得がたく珍らしい種類のもので、先ず病中の王様だね」位に賞讃すると随分喜ぶものだ。しかし決して死ぬといってはいけない、頗《すこぶ》る気ままなものである。
 病気でさえも自分のものとなると上等に見てもらいたいというのは情《なさけ》ないものだ、私なども、自分の胃病を軽蔑《けいべつ》されたりすると、多少|癪《しゃく》に障《さわ》ることがある。おれのはそんなくだらないケチな胃病とはちがうんだと威張って見たくなることがある、くだらないことだ。

 私なども子供の時分は胃の事など考えなかった、自分の身体をば水枕か何かのように考えていたものだ。私の両親は食事しながら笑ったりお饒《しゃ》べりなどすると、これ、あばら[#「あばら」に傍点]へ御飯が引掛《ひっかか》りますといって叱《しか》った事を私は今に覚えている。
 何んでもその水枕の周囲に提燈《ちょうちん》あるいは鳥|籠《かご》のような竹か何かの骨がめぐらされているものと考えていた、そこへ飯粒が引掛ると咳《せき》が出たり、くしゃみ[#「くしゃみ」に傍点]が出たりするのかと思っていた。
 兵隊さんなどで、胃病に悩むなどいう人はあまりないと思うが、従って兵隊さんは腹の中を随分簡単に考えているらしい、即ち兵隊さんの仲間では第一ボタンまで食ったという言葉があるそうだ、咽喉《のど》から下全部を、一つの袋か壜《びん》の類と見なした言葉だと思う、そしてボタンはその度盛《ども》りである。
 私が子供の時に考えていた腹の構造とあまり大差はなさそうだ、さように腹の中を簡単に考えているからといって決して軽蔑するわけではない、自分の胃の腑《ふ》を知らないという事は全く大変な幸福な事である。勿論《もちろん》腹を腹とも思わず塵芥溜《ごみため》だと思って食物と名のつくものは手当り次第に口中へ捻《ね》じ込むというのは、あまりに上品とはいえないが私のような胃病患者から見るとなんとそれは幸《さ》ち多過ぎる人であるかと思って羨《うら》やましき次第とも見えるのだ、全く何も食えずにいる時、沢庵《たくあん》と茶漬けの音を聞く事は、実に腹の立つ事である。
 常によく病気するものは、自分の身体の構造について随分、日夜神経を尖《とが》らして研究しているものだ、それが胃病患者ならば自分の胃袋はこんな形でこんな色をしていて、こんな有様でとあたかも毎日胃袋や腸を、眺めて暮している如く説明するものがある、しかし可笑《おか》しな話しで、自分の臓腑を生きながら見た人は先ず昔からなかろうと思う。全く自分の持ち物でありながら一生涯お目にかかることの出来ないものは、自分の腹の中の光景であろうと思う。
 私は蛙《かえる》のように自由に臓腑を取り出す事が出来たら如何に便利な事かと思う、そして水道の水で洗濯《せんたく》してちょっとした破れは妻君《さいくん》に縫わせて、もとへ収め込むという風にしたいものだ。

 私の胃病は医者の説によると、胃のアトニーというもので、胃の筋肉が無力となって、いつも居眠りをしているのだそうだ。一種のサボタージュだと見ていい、胃がサボタージュを起しているのだから、第一に、食慾が起って来ないのだ、私が学校時代はこの胃が最も猛烈にサボっていたものだ、下宿で食べた朝食は、昼になっても晩になっても、停滞しているのだから堪《たま》らない、しかし考え方によると頗《すこぶ》る経済でいいともいえるかも知れないが腹はすかなくとも衰弱はどしどしとするから全くやり切れた話しではないのである。
 学校の門を出た処に一銭で動く自動計量器があった、私はある日衰弱した体躯《たいく》をばこの機械の上へ運んだ、そして一銭を投げ込んで驚いた、私は帽子を冠って冬服を着て靴を履《は》いて、手に風呂敷包《ふろしきづつみ》を持って、肩には絵具箱をかついで、しかして何んとその針は十貫目を指《さ》してピタリと止《とま》ったのだ、私はこれはあまりだと思って、二、三度強く足踏みをして見たが、何の反応もなかった、とうとう、十貫目と相場が定《きま》ってフラフラと下宿へ帰った事があった、それ以来なるべく計量器には乗らぬように心がけている。

 胃のサボタージュのひどい時にはしばしば脳貧血を起すものだ、脳貧血はところ嫌わず起るものだから厄介《やっかい》だ、私はこの脳貧血のために今までに二度|行路病者《こうろびょうしゃ》となって行き倒れたことがある。一度は東京の目白《めじろ》のある田舎道で夜の八時過ぎだった、急にフラフラとやって来て暗い草叢《くさむら》の中へ倒れた、その時は或る気前のいい車屋さんに助けられたものだった、その時の話は以前|広津《ひろつ》氏が何かへ書いたことがあるからそれは省略するとして、今一つは奈良公園での出来事だった。
 私は朝から胃の重たさを感じながら荒池の近くで写生していた、例によって昼めしなど思い出しもしなかったのだ、その日は私の一番いやなうす曇りのジメジメとした寒い日だった、午後三時ごろであったか、七ツ道具を片づけて或る坂をば登りつめたと思うころ急に天地が大地震の如くグラグラと廻転し始め心臓は昂進《こうしん》を始めた。これはいけないと思う間もなく私は七ツ道具を投げすてて草原の上へ倒れてしまったのだ。ところで私はちょっと空を眺めて見た、この世の空かあるいは最早《もはや》冥土《めいど》の空かを確めるために。すると、頭の上には大きな馴染《なじみ》の杉の木が見えたからまだ死んではいない事だけはわかった。
 誰かいないかと思って周囲を眺めると半|丁《ちょう》ばかりの先きに道路を修繕している人夫《にんぷ》がいたのでともかく「私は今死にかかっています、早く来て下さい」と二度叫んで見た、するとその男たちはちょっとこちらを眺めたがまた道路を掘出すのであった、私は随分他人というものは水臭いものだ、死ぬといえば何はさて置き飛んで来てもいいはずのものだと思ってイライラした、私はもう一度「早く来てくれ、私は死ぬ」と叫んだ、勿論さような大声が出るからには、すぐ死にそうには見えなかったことだろうと思う。
 人夫の監督が何か指図《さしず》するとすぐ二人の男が駆けてくれた、そして私は助けられて、宿である処の江戸三の座敷へ運ばれた、同宿の日本画家M君は私の冷え切った手足を夜通し自分の手で温めてくれた、私はその親切を一生忘れ得ない。
 以来私は絵の道具を担《かつ》いで坂路を登ることを大変|厭《いや》がるようになった、坂路を見ると目がくらむ心地が今もなおするのである。
 私は一人で風景写生に出ることを好まなくなったのはどうもその時以来らしい、画家の健康と、モティフとの関係は随分密接であると思う。大きなトワルを持って幾里の道を往復するという仕事は私にとっては先ず絶望の事に属するのである、従って私は静物と人物を主として描きたがる、これはモティフが向うから私の画室へ毎朝訪れてくれるから都合がいい、多少腹が痛くても仕事は出来るが風景は向うから電車に乗っては来てくれない、風景画家には健康と、マメマメしい事が随分必要である事と思う。

 それから間もなく、やはり胃のふくれている或日の事、私は活動写真を見に入った、すると蛙の心臓へアルコールを灌《そそ》ぐ実写が写し出されたのであった、蛙の心臓が大写しになるのだ、ピクリピクリと動いている、ああ動いているなと思う瞬間、アルコールの一滴がその心臓へ灌がれたのだ、すると、そのピクリピクリの活動が、とても猛烈を極《きわ》めて来たのだ、おやおやと思うと同時に私の心臓は蛙と同じ昂進を始めて来た、私の眼はグラグラと廻り出した、驚いて私は館から飛び出した事があった。
 ともかく私は私の厄介の腑のために随分人に知れない、余分の苦労をつづけている次第であると思う。

   蜘蛛

 むしがすかぬという言葉がある。何もそんなに厭《いや》がる必要のないものでもどうもむしがすかぬとなると堪《たま》らなく厭になるもので、またむしがすくと、変なものにでも妙に愛着を覚えるものだ。
 恋愛などでもそうだ、男は必ず日本一の美人に恋するとは限らない、よそから見ると、何んだ、あんなもの、どこがいいのかと思うがその当事者にとってはとてもなかなか大したもので、おお谷間の姫百合よ、野の花よあなたなしに一日もとか、全く変な讃辞を封筒へ収めて書き送っているから全くむしは厄介《やっかい》だ、たべものなどもむしが大《おおい》に関係するし、美術家の喧嘩《けんか》などは大抵この虫から起るようである。
 さてまたこのむしが、本物の虫を嫌うことがある。誰れにでもよくあることだ、私は百足《むかで》が厭だとか蛇が大嫌いとか、なめくじが嫌だとか毛むしあるいはいもむし、といろいろある、これも、よく考えて見ると何も毛虫やいも虫が、人間を食い殺すものでもなし、安全なものであるが、腹の虫が厭がると全く身の毛がよ立つものなのだ。
 私は子供の時から、蜘蛛が大嫌いで、大人となった今もなお、蜘蛛をおそれる程度においては、子供の時代と少しの変化もない、これはおそらく、私にとっては一生涯の苦の種であろう。
 蜘蛛といっても、けし粒ぐらいの奴から、大きいのは直径五、六寸あるのがある、笑談じゃない、それは気の迷いだろうと笑う人があるかも知れないが、事実あるのだからいたし方がない。しかしこの大蜘蛛は関東に少く関西に多いのだ。それで東京の人には説明しても了解のゆかぬ人が多い。見たことがないのだから、これをただ一目でも見て置いてくれないと私に同情が出来ないであろう。
 この蜘蛛は決して巣をかけないで、天井や壁をのそりのそりと這《は》い廻るのだ、今私は這い廻るとここへ書いたがただこう書いただけでも、このペンの先から厭な電気が私の神経の中枢へ伝わるのを感ずるくらい、むしが好かないのである。
 ところでこのおそるべく厭な大蜘蛛が現われた時の、私の家庭はそれこそ殺気立つのだ、子供の時分は、さア早く来てくれ、蜘蛛や蜘蛛やと逃げ出せば、誰れかが処置をつけてくれたが、目下私が一番大人であるから、その体面上からいっても、退治《たいじ》るのは私の責任でまた退治るには、女中や妻君に任せておけないのだ。どうも手ぬるくていけない。ところで私がやるとすると、一生懸命でありすぎるため、しばしば狙いをはずす。私は蝿《はえ》たたきを握っておそるおそる蜘蛛に近づくのであるが、その八本の足を雄大に拡げて、どす黒くまるい腹を運ばせて、ヘッドライトの眼光をピカピカさせている雄姿を見ると何んとしても私の手もとは狂わざるを得ない、私はすぐ尻をくるりと、高くまくしあげるのだ、これは万一、足もとへ飛んで来た時、逃げ出すのに都合よいためである。私はいつも大江山の頼光を想い浮べて、悲壮な感にさえ打たれる。
 無我夢中になぐりつけ、蝿たたきは、そこへ投げ捨てたまま跣足《はだし》でかどへ飛出すのである。それが死んだか逃げたかを、見きわめるのは妻君および女中の役目だ、が幸《さいわい》にして不気味な、グロテスクな残骸が落ちていたとすれば、まず安心で、女中が新聞紙に包んで遠い場所へ捨てにゆくのだ。この道筋が一歩間違って箪笥《たんす》の後へでも逃げ込もうものなら、私はもうその部屋では眠ることは出来ないという厄介なことになってしまうのだ。それで私は或る時近所の小僧と特約して一匹十銭で殺してもらうことにした、鼠よりよほど値がよいので喜んでとりに来てくれたが、あまり蜘蛛が出ない日が続くと、小僧は儲《もう》けがないのでよそから大きな奴の密輸入を企てようとしたので、これは危険だからやめにした。
 私がさように嫌う蜘蛛でさえ手にまるめ込んで愛撫するかの如く爪《つま》くる人もあるからおかしい、もし蜘蛛の男女が恋をしたとしたらやはり野の花よとか、美しい背の君よとか考えることだろうと思って私は面白い自然のからくりに感心しているのである。

   紹介

 私には絵描きという言葉が妙に恐ろしくいやに響くのだ。それは一つには私が大阪という土地にのみ住んでいて、大阪人にのみ取り囲まれていたために、とくにこんなことを強く感じさせられるようになったのかも知れない。
 私は、私の友人の家庭や、友人とともにレストランやカフェーあるいは道路の上で、その友人のまた友人というのに紹介されることがしばしばある。そんな場合、私の友人の友人がわれわれ同様といった格の人ででもあるとか、あるいは謙譲にして聡明な紳士であるとか、あるいは学生であるとか、絵の好きなお嬢さんであるとか、あるいは文士であるとかいったふうのものであれば、それはまことに何でもない。かえって非常に愉快なのではあるのだが、もしもその友人の友人というのが多少の金持ちであって、絵の一枚や二枚はいつでも買えば買える身分の人ででもあった場合には、私は随分嫌な思いをしばしばさせられることがあるのだ。
 その友人の友人という金持ちらしい紳士はマントのカワウソの襟から脂切った顔を出しているといったふうの人が多いのだ。そして私の友人はこの人は絵を描かれる人でとか、絵描きさんでとかいって紹介するのだ。私は慄《ぞっ》と悪寒を感じるのだ、私に忍術の心得があったら、こんな場合、ドロンといって消滅してしまうところなのだが、松之助でないから駄目だ。
 かくしておめおめと紹介されてしまうや否や、相手の脂肪でむくんだその顔面には、何ともいえない奇妙な表情が漲るのだ。例えば、これは弱ったといったふうな、見下げたような、自己を護ろうとするような、要するにきわめて不潔にして下等な表情なのだ。そして極力自分は芸術に対しては無関係であって無理解で無趣味だということを説明して話をそらしてしまうのである。
 私は今までに幾度となくこの種の表情を見た。以来私は非常に芸術に無関係らしいところの、相当の年輩の紳士に紹介されることを怖れるようになった。もう止してくれ、止してくれ、と心で叫んでいるうちに、何も知らない私の友人は手早く紹介してしまうのである。そしてあの嫌な表情に出会うのだ。潔癖で強情で神経の尖った絵描きはこの顔を見て山へ隠れてしまいたくなるのだ。神経の太いある種の芸術家はこのいやな顔からこそうまく金を引き出そうと考えるのである。

   雑念

 私は算術という学科が一等嫌だった。如何に考え直しても興味がもてないのだった。先生に叱《しか》られても、親父《おやじ》から小言《こごと》を食っても、落第しかかっても、一向好きになれなかったのみならず、興味はいよいよ退散する一方であった。
 5+5が10で、先生がやって生徒がやっても、山本がやっても、木村がやっても、10となるのだ。10とならぬ時には落第するのだからつまらない。
 私は5+5を羽左衛門《うざえもん》がやると100となったり、延若《えんじゃく》がやると55となったり、天勝《てんかつ》がやると消え失《う》せたりするような事を大《おおい》に面白がる性分《しょうぶん》なのである。
 何故、この世の中にこんな小うるさい学科が存在して私を悩ますのかと思った。私の心に厭世《えんせい》という暗い芽を吹き出さしめたのは、算術であったといっていい位いだ。
 数学の書物《しょもつ》と来ると、見るのも不愉快だった。安物で、まっ黒で、不体裁で、不気味で、全く私はこの黒い本を見ると、死神を思い出し、私の嫌な蜘蛛《くも》を思うのが常《つね》であった。
 算術の問題というものがまた実に面白くないものだ。大工《だいく》ありと来るのだ、一日に何時間を働くといった、事が書いてある。当時十二や十三歳の小供が、大工の生活などに興味が持てるはずがない、それがまた賃金の問題だからなおさら無関係だ。大工が何時間働こうと汽車がいくら走ろうと、玄米が何銭であろうと、私の知った事ではないという心が、早速、私の腹の底へ横《よこた》わるのであった。いくらの買物をして釣銭がどうとかこうとか、全くそんなケチな事はどうだっていい、釣銭はいらないよといった心が横わり出すと最早《もは》や到底私の力でも先生の力でも親の力においてさえも、この横わりたるこの心は、動いてはくれないのだ。従ってこの問題を解こうなどという柔順な気もちには決してなれないのだった。
 その上、私はまた小さな時分から、いろいろな雑念に悩まされる人間であった。雑念といってもいろいろとあるが、一例を挙げると、今は田舎にのみ残っている処の、祭礼に引き出す地車というものがあった。この囃子《はやし》が私は大好きだった。鉦と太鼓でチキチン、コンコン、といった調子が連続するのだ。それから芦辺《あしべ》踊りとか都踊りの囃子も大好きだった。ずらりと並んだ舞子たちが、キラキラと光った鉦を揃《そろ》えてたたくのだ、チャンチキチン、コンコン、というのだ。これが馬鹿に華やかで気に入って、心の底へ浸《し》み込んでしまったのであった。
 私はこの、チャンチキチンのために、ますます算術が馬鹿々々しくなって来るのであった。
 大工あり、日に何時間と読むうちに、何んだつまらないと思うと同時に、チャンチキチンの囃子が猛烈に始まるのだった。こうなると問題も試験もくそもなく、ただ私はチャンチキチン、なのだ。
 先生はさように賑《にぎ》やかな囃子が、私の心に始まっているとは知らないから、無遠慮にも次の問題を小出《こいで》と言って、しばしば難題を吹きかけるのであった。その瞬間、芦辺踊りもちょっと鳴りやむのであるが、出来ませんといってこの災難を追払うと同時に、またもやチャンチキチンだ。
 この地車や踊りの囃子はとうとう私の親父の臨終にまでも襲来したのには、フとわれながら厭な気がした。親父の臨終において、チャンチキチンなど考えているべきはずではないではないかと私は私の囃子|方《かた》へ、ちょっと注意をしてやった。しかし、私は人間の心というものは、かかる大変に押詰った場合において、なお幾分の空地があるという事が、かえって甚《はなは》だ悲しく思われた。
 先ずそんな事で、私はとうとう算術を断念してしまった。一切やらぬ事と定《き》めた。その代り多少とも他の学科へ力を入れる事にして、図画で百点を取る事にきめた。要するに平均点で進級するという方法なのだ。これは案外成功だった。やっとの思いで、美術学校へ入学した時、私は初めて算術から解放された。私の死ぬまで算術がないんだなと思った時、私の嫌いな、世界中の蜘蛛《くも》が一時に自殺してくれたような心地がした。もう私の一生涯はチャンチキチンでも、ドンドンでも何んでも来いだと思った。
 今、私はこの年輩となって、なお阿呆《あほ》らしくも、この囃子連中は芝居のチョボの如く、私の頭の一隅《いちぐう》に控えている。そして或る重要な要件であって、しかも自分にとっては頗《すこぶ》る興味がないといった場面においては、必ずこの連中は出演に及ぶのである。
 それで私は重要な用件を聞き洩《もら》したり頼まれた用事を皆忘れてしまったりしてしまうのである。

   最近の閑談

     〇

 袋にもいろいろある、紙袋、酒袋、オペラバッグ、四季袋、足袋、カポタングレース等。しかし私は最近珍らしいケチ[#「ケチ」に傍点]な袋を見た。
 それは大阪の芸術家や紳士を集めた或《ある》招待会の席上での事だった。一人の工芸家らしい男は、運ばれる料理の主要なもの、例えばコロッケの塊《かたま》りなどには決して手をつけないでその周囲のお添えものばかり食べるのであった、それは多分、食慾がないからの事かと思っていた、すると不意にテーブルの下から丁度海水浴に持参するような手提袋《てさげぶくろ》を取り出し、手早くコロッケをその中へねじ込んでしまったのである、その他残ったものは何に限らずこの袋へそっとほり込んでしまうのであった、その手つきがあざやかである処から察してこんな事の常習者らしく思われた、われわれの連中はただぼんやりとその深酷《しんこく》な感じに打《うた》れて静かに眺めているのであった。
 私はこの男の翌日をちょっと考えて見た、袋から吐出《はきだ》されたゴチャゴチャとしたコロッケ、カツレツ、ジャガイモの類を妻君《さいくん》と二人でつくづくと眺める事だろう、どうせ二、三人の小供も覗《のぞ》きに来る事かも知れない、老母というのも、ゆうべの御馳走《ごちそう》は何んやと次の一間よりまろび出てくるだろう、然る処へ不意に猫の奴が現われて何か一つ浚《さら》って走るかも知れない。この猫をどやしつけて取返し、これを煮《た》き直して、小供は学校行きの弁当に入れてもらい、家では今日はお父さんのお手柄で久しぶりの洋食や、という事になるのかも知れない、などと私は馬鹿気《ばかげ》た想像をめぐらした。
 席を立ってから暫時この袋の噂《うわさ》で賑《にぎや》かだった。或|物識《ものし》りの説では、この頃あの袋は随分大阪では流行しているのだそうだ、名も宴会袋とか何んとかいってこの目的のために作られてあって、多少のお汁|気《け》のあるものでも大丈夫持って帰る事が出来る仕掛になっているそうである。真《まこ》とに重宝《ちょうほう》な袋だ。
 しかしながら大阪古来の風習からいえば、この袋の発明はさほど驚くに当らない事で、むしろ多少手遅れかも知れない、私の知っている婆さんなどはこんな便利な袋さえお金を出して買う事は無駄なもったいない事で、どんな料理屋でも折箱《おりばこ》位いはくれるというだろう。しかし洋食屋には折箱の用意はないかも知れないから彼女は鼻紙を沢山持って行くにきまっている。勿論包んで帰った鼻紙は丁寧に乾燥させて相当な場所で再び使用するのである。無駄せぬ会の幹事でもこの人の日常生活の真似《まね》はちょっと出来ないかも知れないと私は常に思っている位だ。
 ともかくこの古臭い婆さんは別として、現代の大阪人はもっと文化的だ、だからこんなハイカラなものを買わないはずがない。芸術家でさえ已《すで》に用意しているのだから、大阪の金持ちの懐中にはこの袋が最早行き渡っているのではないかと思われる。

     郊外

 私は最近生れて初めて、都会から郊外へ引移った。画家というものは、いつも自然を友とするように思われるのが自然だが、町の中で生れて、町の中ばかりにいた私は殆《ほと》んど木の名も草の名も、魚の名も虫の名も知らずにいた。何か総体として樹木というものだけは知っていた、そしてその代表的な松とか梅、桜、位《くら》いは確かに知っていた、魚は鯛《たい》、まぐろを知っている位いであった。
 従ってつい風景とか自然に対する親しみが比較的|薄《うす》かった、私はあまり人気《ひとけ》のない山奥などへ出かけると不安で堪《たま》らなくなるのである。
 そんな訳から私は今まで地球の上には人間だけが威張っているのだとばかり思い込んでいた、その他の万物はいる事は噂《うわさ》として聞いていただけのものに過ぎなかった。
 ところが初めて私は毎日池を覗《のぞ》いて見たり草原を探って見たりして驚いた、先ず例えば一尺平方の地面の上に、これはまた無数の生物がうようよしているのであった。ちょっとした水|溜《たま》りの中に、何か知ら不思議な奴が充満しているといっていい位い右往左往しているのだ、目に見える奴だけがこれだから、もし細菌といった奴なら、それこそ到底地球上の人類ほどもいるかも知れない、それが各《おのおの》猛烈な恋愛をやったり、噛《か》み合ったり殺し合っているのだから怖《おそ》ろしい、その弱肉強食、殺合《ころしあ》いが極く自然に、合理的に行われているのでますます気味の悪さを感じるのである。自然は決してのどかなものではなさそうである。

     メレンゲ

 暑い夏の日にビールをガブガブ飲む人がうらやましくてたまらない、西洋にいた時、神経衰弱を起してほんとにあじきなく退屈であった時など私の友人は酒ばかり飲んでいた。結構な身の上だ、あれで不平をいってるのはもっ体ない事だと思ったくらいだ、私などは窓を眺め天井を見詰めるより他に方法がなかった、本などはイライラしてとても読めるものではない、この残酷な退屈を紛らすために私は初めて排せつの楽しみを発見した、即ち大小便が出る時、出たあとの快感、鼻汁をかんだ爽快《そうかい》等だ、それからノミや南京《ナンキン》虫にかまれた処をかいて快味を味《あじわ》って、しばらくこの世の苦労を忘れようとしたのであった。
 楽しみや嗜好《しこう》もここまで下落しては行つまりで人の前へ持出す事も出来ない。
 すると、煙草などは随分体裁がいい、美しくもあるし、全くうまくもあるし、腹はふくれず、かつ談話していても、相手と自分との間に丁度いい淡い煙幕が張られて、真《まこ》とに長閑《のどか》な心地がする。
 私は以前煙草だけは愛用していたが、病気してから医者にやめさされた、やめた最初は談話中など相手の顔がはっきり見え過ぎて弱った事を覚えている。
 私は最近、神戸のあるドイツ人が経営する、菓子とカフェーぐらいを出す家で実にうまい菓子を発見した、それは、上下二つの軽快にして白いカルメル様《よう》のふたの中に真白のクリームが充満しているのだ、かむとハラハラとふたが砕けて、クリームが舌へ流れ出すのだ、その甘さが堪《たま》らないのだ、そして胃の腑《ふ》へ達する少し手前において煙の如く消滅してしまうような気がするのだ、しかしかなり甘いので二つ以上はたべられない、私の隣へ座った西洋人は五つたべた、うらやましかった。
 私はこの頃、しばらく浮世を忘れるためにこの家へまで出かけるのである、そしてこの菓子をたべるのだ。この菓子の名を「メレンゲ」という。

     画工

 絵|描《か》きというのは職業か何か、私にはまだはっきりと判《わか》らない、それというのが、どうも自分の仕事がほとんど売薬とか雑貨とかいう風に、店を開いて待ったとしても、向うから自発的に買いに来る人が一人もなかったりする事からさように思えるのかも知れない。第一絵描きは職業として一定の名前すら、はっきりしていないように思う、定《きま》った名があるのかも知れないが私はまだ知らない。
 区役所の届けとか何かの場合にしばしば、御職業はと聞かれる事がある、私はそんな場合、変な気がして早速返事が口へ出て来ない、どうかすると無職ですと答えたりして後でいやな気になる事がある。
 大体我々仲間でならば、絵描きとか、画家とか、ぼんやりした事で通っているようだが、一体本当の職業としての名は何んというのかと思う事がある。
 私は一度区役所へ何かの用件で行った時、その帳簿をのぞいて見た事がある、すると、そこには小出楢重《こいでならしげ》画工と記されてあった、すると区役所とか国家としての名称は画工というのが本当かも知れない、しかしそれも現代の日本画西洋画の絵描きは、ことごとく皆区役所へ行けば画工となっているのか、その辺は私によくわからないが、何んとか一定されているに違いないと思う、あまり必要でもない事だから知らずにいてもすむが時々|可笑《おかし》く思う事がある。
 私は十幾年以前奈良の浅茅《あさじ》ケ原《はら》で泥棒のために絵具箱とトランクを盗まれた事がある、その泥棒がつかまって、私は警察署へ出頭して絵具箱を頂戴《ちょうだい》して帰った、その時奈良の新聞には古い都だけあって、油絵師何某とかかれてあった。
 油絵師などなかなか結構な名称ではあるが近代のお河童《かっぱ》連には少し似合わない気がする。

     所得税

 絵描きが、まだ職業であるかどうか自分でもはっきりしないうちに、私は所得税を支払うべき身分となってしまった、これは国民として慶賀すべき事で当然の事である、だが、肝腎《かんじん》の所得が怪しいから閉口する、私は、性来の健忘症と不精から、所得の申告というものをうっかり捨てておいたのだ、すると、私の収入をちゃんと見抜いて、それだけの税金が申渡された、しかしそれが、私の所得のまずかなり正確な処を見抜いてあったのには驚かされた、さすが専門家だと思った、私よりも税務署の役人の方が、私の財布をよく知っていそうな気さえした。
 するとまた次の年が来た、再び不注意にも私は申告を怠った、今度は私の収入はすこぶる増加していた、全くこれだけの収入が本当に確実にあったらどんなにいいだろうと、私は喜びかつ歎《たん》じた次第だ、可笑《おかし》な事にはかなりの店を持った商人である処の私の友人Hよりも私の方が多額納税者となっていた事だった、もち論Hは税金としての最低額を収めているのである。

   鞆の嵐

 旅行をして、私はああよかった、はなはだ愉快でしたと思って帰ったことがあまりないのでどうも思い出はよろしくない場合が多い。
 それはいつも旅行さきへ自分の仕事を持ち廻る為かも知れない。仕事の為に旅行するという旅商人が旅する如く官吏が出張する如く、あるいはより以上に仕事のことをのみ考えさせられて旅そのものを楽しむという心が仕事の下積みとなってしまうせいかと思う。
 まったく、われわれの旅は情なく悩ましい旅である。だから私はカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スとか、絵の道具とかいった何ものも持たず、ただふらりふらりと歩くことが一番楽しい気持ちである。ところで悲しいことには、山を見ても、海を見ても、家を見ても、木を見ても、いい日よりであっても、絵描きは絵を思わずにはいられないのだから困ったものだ。
 あの景色なら二○号にうまくはまるだろうとか、あの色とあの色の調子は素晴らしいとか、これこそおれのモティフだとか、この景色は誰の絵に似ているとか、こんな美しいものなら絵の道具を持って来ればよかったとか、いろいろ様々のことを考えて、山川草木を無心に楽しむことが出来難いのである。
 地図を案じ絵具をそろえ、トランクを担いで、いざ旅行だと思うと、もうはや多少重くなるのを感じる。汽車に乗れば窓からの景色が一つ一つ苦労の種となって現れる。いい構図だと思って見る時、汽車は猛烈に走っていて、たとい止まってくれたとしても泊るに家もない場所である。
 ようやく目的の地へ着くと、そこは家の屋根が平たくて、何々廻送店とかいったものが並んでいて、地図で眺めた夢らしいものは影もないのだ。そして宿屋は避暑客で一杯であって、彼らは芸者、情人、若い妻君等とともに寝そべっていたり、ビールを飲んでいたり、海水着をつけてみたり、芸者ははちはち[#「はちはち」に傍点]をしてみたりやっているのだ。
 その中へ割り込んでカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スの枠を組み立て、金槌でガンガン釘を打ち込むという仕事を行うだけの神経と勇気が出るかどうか。
 私が一〇年程以前のある真夏、 鞆の津[#「鞆の津」は底本では「靱の津」]のある旅館へ泊ったことがある。それがちょうど右の状態そのままであった。その上、折悪しくもその日から猛烈な台風が襲来したものだ。瀬戸内海も仙酔島も風と雨と水沫とでめちゃめちゃとなってしまった。
 海に面した側の私たちの部屋はことごとく、女中によって雨戸が締められた。
 こうなると暗くて、陰鬱で、蒸暑くて、私は一人で、他人は二人以上であるからやりきれない。寂しく羨ましく退屈でしゃくで、イライラする神経と金のない不安やらいろいろから、いかにも我慢がならないので、といってこの暴風雨にどこへ飛び出すわけにも行かなかった。
 私は隣の若い夫婦の親愛な言葉や、憎さげに肥えた株屋といった人相の男と芸者達がやる賭博と、下等な笑い声をじっと忍従の心で聞くより他に道はなかった。
 私はせめて家の屋根でも見ている方がましではないかと考えたので、女中に頼んで道路に面した側の部屋へ移転させてもらったのだ。ここは幸いにして雨も風も吹き込まず、ともかく町家並が眺め得られるので大いに幸いであった。
 ところで私は欄干へもたれて、向かい側に並ぶ家々を見渡して愕いたのだ。その家々というのは皆女郎屋なのである。その上狭い町だからその女郎屋の二階座敷は私の座敷から約一○メートル位以上離れていないのだ。そして何もかもがことごとく見えるのだ。私は暑いのに一晩中欄干へも出られず、ふすまに面して憂鬱であった。その翌日も暴風雨はやまない。蒸暑い一日を繰り返し再びふすまの絵を眺めて一夜を送った。
 その翌日、太陽の光を見るや否や、私は停車場へかけつけて、何はともあれ大阪までの切符を買ってしまったのであった。
 汽車に乗ってよく考えてみると、天気は素晴らしく美しいのだ。瀬戸内海の波は何ともいえず素晴らしく輝いているのだ。それに私は大阪行きの汽車に乗り込んでいるのだから馬鹿げているではないかと思ったことがある。

   夏の水難

 女難は、必ずしも艶《つや》っぽいものとは限らないそうだ。電車の中で、ちょっと婆さんに足を踏まれても、女難の一つだという事を聞いた、あるいはそうかも知れないと思う。
 私には水難の相があると、昔、或る人相見がいったのを覚えている。水難といっても、必ず溺死《できし》するものと、きまったものではないので、氷水を飲み過ぎて下痢を起こして寝たというのも水難といえばいえない事もないのだ。水難を怖《おそ》れるためか、どうかは知らないが、私は性来、水に浸《つか》る事が大嫌いである、いかに三伏《さんぷく》の酷暑であっても、海の風に吹かれると私の血は、腹の奥座へ逃げ込んでしまうのだ、ましてその水の中へ浸る事はなかなかの事なのである。やむをえないお交際《つきあい》から入ったとしても私の唇《くちびる》は、見る見るうちに紫色と変色して、慄《ふる》えが止まらないのである。
 この頃のように、海水浴とか水泳とか、女が寒中に抜き手を切るとかいう事の流行する時代において、かかる事を申上げるのは、誠に恥かしい次第であるがいたし方のない事だ。従って私はいまだかつて水に浮いて見たためしがないのである。
 静坐法というものが一時流行を極《きわ》めた時、何んでも人間は、腹の中へ空気を押し込まなければ死んでしまうように聞かされたものだ。貴様のようなペコ腹は、うんと下腹で空気を吸えと随分うるさく説かれたものだ。幸《さいわい》この頃は静坐も下火となったので助かったと思っている。私は実行しなかったけれど幸にして、ほそぼそながらも死にはしなかった。
 ところが海水浴や水泳は静坐法よりも面白いものと見えて一向下火にならないので弱っている。大《おおい》に盛んに泳いで見る事は頗《すこぶ》る海国男子として結構な事であるが、人は自分のすきな事を他人にすすめたがるものなのだ。それは静坐法と同様だ。「それはききめがありますよ、一週間でこれこの通り」と下腹をわざわざあけて不愉快な臍《へそ》を見せるのだ。私は当時随分沢山の臍の種類を見せてもらった。
 この、勧めたがるという事から、私の水難が起こって来るのである。昔は中学時代において散々悩まされたのだ。これは体育のためとあって、勧めるというよりもむしろ強制的である。濡《ぬ》れた褌《ふんどし》をぶら下げて、暑い夕日の中を帰ってくる時の気色《きしょく》の悪さは、実に厭世《えんせい》の感を少年の心に目醒《めざ》めさせた。従って私は水泳の時間は欠席するか蛤《はまぐり》を漁《あさ》る事によって、せめての鬱晴《うさば》らしとしたものであった。
 私の妻は何々水練場とかへ通っていたというので多少の心得がある処から夏になると海へ行きたがるのだ、初めのうちはそれで随分|手古摺《てこず》ったものだが、いかに亭主は海を好かぬかという事を了解するに及んで、この節はあまり誘わなくなったので私は最も手近い水難から救われたのである。
 全くの処、細君《さいくん》の水泳を砂地の炎天できもの[#「きもの」に傍点]を預かりながら眺めているという惨《みじ》めさは憐《あわ》れむべきカリカチュールでなくて何んであるか。私は最近|芦屋《あしや》へ移った。永い間の都会生活に比して、何んともいえず新鮮な心地がする。例えば大阪を仕舞風呂《しまいぶろ》とすればこの辺《あた》りの空気は朝風呂の感じである。何もかもが結構であるが、ただ案じられるのは来るべき夏の水難である。海に近いという事がこの辺に住む人の一つの誇りである。西洋人の夫婦などは海水着のままでこの辺から走って行くそうである、という事を聞くにつけても心細いのだ。ぜひ朝の早いうちに一浴びして来なさいと、今から頻《しきり》に勧められているのだ。
 そこで私は何かいい水難|除《よ》けの呪《まじない》でもないかといろいろ考えた末庭の松の枝へ海水着の濡れたのを懸けて置こうかと思う、そして絶えず女中に水をかけさせて置くのだ、もし誰れかが海へ行きましょうかと来るとすぐそのぬれた水着を示して、いやもう今帰ったばかりで……、ああ草疲《くたびれ》たという顔をして見てはどうかとも思うのである。

   足の裏

 現在の歓楽場から活動写真を引去ったら一体何が残るかと思える位、今は活動写真の世界であるが、私たちの小学校時代には、この活動写真がまだ発明されていなかった、その代用としては生人形、地獄極楽、化物屋敷、鏡ぬけ、ろくろ首の種あかし、奇術、軽業《かるわざ》、女|相撲《ずもう》、江州音頭《ごうしゅうおんど》、海女《あま》の手踊《ておどり》、にわか[#「にわか」に傍点]といった類《たぐい》のものが頗《すこぶ》る多かった、その中でも江州音頭とか海女の手踊、女軽業などというものになると、これは踊りや芸その物よりも、多少女の身体及びその運動を観覧せしめるものだともいえるところの見世物《みせもの》であった。
 私は、随分いろいろの見世物が好きで、しばしばその看板を眺めに行ったものである、少し人間の情味がわかるようになってからは、地獄極楽や鏡ぬけよりも、陰鬱《いんうつ》なろくろ首や赤い長襦袢《ながじゅばん》一枚で踊る江州音頭や女の軽業に、より多くの興味を持つようになった。

 今の時代は結構だ、人間の裸身を観賞する自由が多少とも、与えられて来た、女身の美しい発達を美しいと見る事は頗る当然の事として許されるようになった、今の時代の男たちは海女の手踊りを見に行く必要がなくなって来たようである。
 例えば海水浴へ行っても、何んと結構に美しい無数の足の動いている事だろう、われわれの展覧会の裸女は、それでも時々陳列を拒まれる場合もあるが、大体において観賞の自由が与えられて来た。街路では洋装の裾《すそ》から二本の足が遠慮なく出ている、電車の釣革《つりかわ》から女の腕がぶら下る、足の美しさがグラビヤ版となって世界に拡《ひろ》がる、そして娘の足は、太く長く美しさを増して来た、思えば日本の昔は窮屈であった。

 昔、ある正月前の寒いころだった、私は千日前《せんにちまえ》をあるいて海女の手踊の看板を見た、髪をふり乱して、赤い腰巻をした海女の一群がベックリンの人魚の戯れの絵の如く波に戯れているのである、それが頗る下品な、絵であったが、しかし遊心《あそびごころ》だけは妙に誘う処の絵であった。
 私は以前から一度入って見たいと思いつつも、多少きまり悪さを感じていたのであるがこの日は思切って木戸銭を払った、なお中銭《なかせん》という無意味な金まで取られて穢《きたな》い幕をくぐると、中には丁度洗湯位の浴槽《よくそう》に濁った水が溜《たま》っているのだった、わずかに五、六人の見物は黙って暗い電燈の下でその汚水を眺めていた、私もそれを眺めていたわけである、やがて印半纏《しるしばんてん》を着た男が何かガンガンとたたいて、さアこれより海女の飛込《とびこみ》と号令した、すると穢《きたな》い女が二、三人次の部屋から現れてその汚水の中へ飛び込んだものだ、私は動物園を考えた。
 見物人が一銭を水中へ投げると海女は巧《たくみ》に拾うのだ、その時海女は倒立《さかだ》ちとなって汚水から二本の青ざめた足を突き出した、その足の裏は萎《しな》びて、うすっぺらで不気味で、青くて、堅くて動物的で、実用で、即ち人間の立つ台の裏という感じなのであった。
 私は、女の足の裏は今少し優美なものかと思っていたのだ、ところが全く厭《いや》な形相《ぎょうそう》のものであった、女の足の裏がすべてこれだとすると考えものだとさえ思った、しかし世の美しい人たちの足の裏は決してかかる浅間《あさま》しい形相はしていまいと考え直しても見たが、何はともあれ、私は一生涯忘れ得ぬ厭な感銘を足の裏から受けて小屋を飛び出した。
 出てからも一度看板を見直して見たが看板には足の裏は描いていなかった。

 私は以来、足の裏が気にかかって仕方がない、美しい女を見ても、すぐ足の裏を思い出す、洋装の裾から出た二本の立派な足のその裏を考える。坐せる婦人を見るとその足を覗《のぞ》いて見る。私はモデルに寝たポーズをさせる時|屡次《しばしば》その足の裏を見るが、どうも黒く汚れていたりして海士《あま》の形相を打ち消してくれそうなものに出会わない、その上太い足の指がお互いに開いていて、さもこの十四、五貫の重量は私が支《ささ》えているのだといった表情をしているのが情ない。
 私はどうかして形相よき足の裏を拝見してあの不愉快な感銘を打消したいものであると常に思っている。
 ところが最近は紀州大崎へ出かけた、小船にのって弁天島へ渡ろうとして、偶然にも再び二人の海女を見た、そして私は水面に突き出ている四本の足を眺め、四つの足の裏を見て、昔の記憶を再び新《あらた》にして随分厭だった。

 西洋人が寝る時以外、決して靴を脱がないというのも、この形相を他人に見せたくないという心からかもしれないと思う、西洋人は何んとなくこの形相を恥じているのかも知れない、従って足は靴の中でひよひよ萎《しな》びて、西洋婦人の素足は鹿の如く怪奇な形相を呈しいよいよ他人に見せたくない足の裏となってしまっている。
 支那の女もまた足を隠そうと心がける、そしてあの小さな足を製造してしまったが、あの足の裏を偶然にも発見したら随分変な感銘を受ける事かと考える。
 私はコロンボや、シンガポールで焼《やけ》つく大地を平気な顔で歩いてる素足の土人を見たがその足の大きさと裏皮の厚さを考えて感心したものだ、あの足の裏を一尺の近さに引よせて、じっと眺めたら一体どんな感じがするものだろうと思って見た、象の足、鰐《わに》の足の裏とほぼ同一のものかも知れないと思う。
 日本ではその素足を美しいと誇るものがあるそうだ、それは芸妓《げいぎ》だという話であるが、なるほど芸妓の足は表から見るとちょっと美しそうであるが、不幸な私はいまだその裏を親しく眺めて見た事がないので、千日前の海女の足の裏と如何に差別があるかを知らないのを頗る遺憾に思う。

   骨人

 脂肪過多はどうも夏向きでない、でぶでぶと肥えた人たちは、真夏において殊《こと》に閉口しているのを私はよく見る、じっとしていても汗をだらしなく流しているさまは、真《まこ》とに気の毒な位いである、歩けば股摺《またず》れがして痛いのだ、しかし私は一生に一度でもいいから、股摺れの味が味《あじわ》いたいと思う事がある、そんな身分であれば、さぞ心ゆったり[#「ゆったり」に傍点]とする事かと思う、私のように痩《やせ》た人間はいつも股と股との間は四、五寸も距離があり身体は地球から二、三寸上を、人魂《ひとだま》の如くフワリフワリと飛んでいる如く感じられてならぬ、心常に落付かない、その代り夏は葦張《よしずば》り、風鈴、帷子《かたびら》の如く冷《すず》しい、従って夏に向えば向うほど、身内の活動力が燃え上って来るのを感じる。
 八月頃の雲や空を眺めると、もう私はじっとしていられない。何はさて置き、一応は帽子を冠《かぶ》って、せめて屋根の上なりとも思う存分走って見ようかと思う位い、気が浮き立って来るのである、だから梅雨《つゆ》晴れという時が、一年中でも一番素晴らしく楽しい時期である、陰鬱な湿気と冷気からパッと太陽の陽気の中へ飛び込むのだから堪《たま》らない、蝉《せみ》が鳴いて青葉が輝いて目がグラグラする、そのグラグラがとてもよくて堪らないのだ。
 何んといっても夏は私のような骨人の世界だ、だから夏を好み、夏を愛し、夏を待って躍り出す連中といえば、皆私同様骨と皮のいでたち[#「いでたち」に傍点]か、あるいはガラス、セルロイドの如く煙の如く淡く、あるいは透明半透明の軽装な奴が多いようである、私なども半透明の人間かも知れない、私の他にも幽霊、人魂、骸骨《がいこつ》、妖怪《ようかい》、蝉《せみ》、蜻蛉《とんぼ》、蜘蛛《くも》の巣、浴衣《ゆかた》、帷子、西瓜《すいか》、などいろいろと控えていて夏を楽しんでいる。
 夏は天上陽気盛んであるが、この地上は万物陰となる、冬は天上陰となるが我地上は陽気で満つるのだと、私はある老人から聞いたが、実にその通りだと思って感心している、骨人や幽霊は冬その姿をひそめ、人魂や牡丹燈籠《ぼたんどうろう》の芝居は夏に限って現われる、井戸の水は夏において冷《つめた》くなる、石炭やストーブや火鉢《ひばち》や、綿入れや、脂肪は、冬に現れ出すし井戸の水さえも冬において熱くなるから冬の地上は陽気で満ちているのかも知れない。
 それでわれわれ骨人とか半透明体なるものは天上陽気の夏こそ正によろしいが、常夏《とこなつ》の国ではない我が日本国にあっては平均すると寒い期間、即ち影をひそめていなければならない期間の方が、多いようだから従って苦労も多い、そろそろと世も野分《のわき》の時分ともなれば、かの秋風が何処《どこ》からともなく吹き初めて来る、すると早や幽霊や骨人や蜻蛉や氷屋は逃げ支度《じたく》だ。
 急に冷気を覚える朝など、蜻蛉が凍えて地に落ちているのをしばしば見る事がある、私は身につまされて憐れに思い、拾って帰って火鉢や手で温めてやると急に元気づいて部屋中を飛び廻る事があるが、しかし、何んといっても天上陰気が回《め》ぐって来たのだから致方《いたしかた》がない、結局死骸となって横《よこた》わってしまう。
 私は蜻蛉の如く秋になれば死骸とはなりはしないが、もう心の奥から変な冷気が込み上って来るのを覚える、心細さは限りないのである。
 かくて、秋から冬、晩春から初夏まで、私は寒い寒いといいつづけて暮すのである、寒くないのが夏だけといっていい位いだ。
 その真夏でさえも、私は印度洋で風邪《かぜ》を引いた事を覚えている、八月の印度洋は毎日梅雨の如く湿気と風とで陰鬱を極めるので、とうとう風邪を引いて笑われた、骨人の悲しみは冷気と陰気にある。

 かような訳から私はまた夏を好く以外、すべて温そうなもの、陽気なもの、明るいもの、肥えたもの、脂肪多き女と食物、豚のカツレツ、ストーブ、火、火鉢、湯たんぽ、炬燵《こたつ》、毛織物、締め切った障子、朱、紅、の色などいうものを好みなつかしむ心|甚《はなは》だしい。
 従ってその反対なもの即ちすべての陰気、骨だらけの女や万《よろず》河魚類、すし、吸物《すいもの》、さしみ、あらい、摺《す》れ枯《から》した心、日本服など頗る閉口するのである。
 日本服といえば、私は決して嫌《きらい》なわけではないが、冬において私は日本服を着るのに際して、是非とも厚いシャツ二枚、ズボン下二枚を重ねて着込まなければならないのであるから悲しいのだ、大体和服の下へシャツを着用する事が既に間違っているのだ、袖口《そでぐち》から毛だらけのシャツがはみ出している事は考えただけでも堪《たま》らない、怪《け》しからず不体裁ではないか。
 私は日本服を着る以上は、正式にシャツ類を排斥したいと思う、ところでシャツなくては私の冬はあまりに残酷なのだからやむをえない、私は洋服を主として用いる、その洋服でもあまりの厚着はいけないそうだが、日本服の不体裁に比して遥《はる》かにましだと思う。
 なお和服をシャツなしで、われわれ骨人が着用に及ぶと、かの痛ましくも細い腕がニョキニョキと現われるので、如何にも気兼ねであって、電車の釣革などは平気ではとても握っていられない気がする。
 私はしばしば電車の釣革にぶら下る女の何本かの腕を観賞する事がある、時には私同様骨張ったいけないものもあるが、先ず大概はわれわれ骨人が憧憬《どうけい》してやまないところの、充分な腕を並べていて、その陽気のために、羨《うらや》ましくも悩ましい気に打《うた》れるのである。
 結局骨人は綿入を重ねて火鉢を抱き、股引《ももひき》を裾《すそ》から二、三寸はみ出させて、牛肉のすき焼きをたべるのだから残念ながら粋《いき》とか通《つう》とかという方面からいえば、三|文《もん》の価値もないのであるが、といって、私の心が嫌うものを私が勝手にどうする訳にも行かないのだから万事致方のない事である、やはり寒気、冷気、陰気、骨、皆禁物だ、だから魚は鯨、鯨は魚ではないそうだが……あるいはまぐろ[#「まぐろ」に傍点]位いに止《とど》まり、あゆ[#「あゆ」に傍点]や鯉等は針を食する感があっていけなく骨に近い女がいけなく、そして骨のない野菜と果実とチョコレートと芋《いも》と豆腐と牛豚に好意を持つ次第である。

   M君のテンプラ屋について

 昔から器用貧乏と申しまして、ちょっとした絵の一つくらいは描けたり犬小屋くらいはちょっと半日で体裁のいいのを作ってみせたり、ちょっと歌も作れたり、あるいは音曲、手踊、発明にいたるまで何に限らず一応はやってみせるという風の人物はかなり多いものであります。
 何でもちょっとはやれるということが大変便利であるところから、その近所両隣や町内では、しごく重宝がられます。例えば初午の行燈へちょっと何か描け、浄瑠璃の会をやるからビラ一つ書いてんか、ちょっと万さん雨の漏り止めてんか、ちょっと自転車の空気入れてくれ、アンテナ張ってくれ、鼠を捕えてくれ、余興に出てくれといった風の雑件をどしどし持ち込みます。万さんもこちらが忙しいのでこれが本職かと思い出し、自分の家のことはさておき、町内を走り廻るという、妙なことになったりするのであります。
 ところが本当の看板屋、本当のラジオ屋、本当の大工、本当の絵描き、本当の自転車屋ではありませんから、その手間賃を誰一人として支払うものがありません。結局、万さんはよい人やという結論が町内へ行渡ってしまうだけであります。よほどの親譲りの財産でもない限り、万さんは貧乏せざるを得ません。私はまったく万さんを気の毒に思うのであります。同時にただ使っておきながらええ人やといっている町内の嬶などいうものは随分狡猾なものだと私は常に思うているのです。
 しかしながら器用人というものは何といっても本当の仕事が出来ないのが弱味です。商売にならないのも無理はありません。芸術家の心だけを多少持っているところがかえって不幸の種かも知れません。
 私の知人M君もこの万さんの一人でありまして、初午の絵行灯に雁次郎の似顔でも描かせばなかなか稚気愛すべきものを描きます。ところでM君も徳川末期あたりに生まれていればまず一日を床屋で暮していても、町内を走り廻っていても、この世だけは無事に暮せたのでしょうけれども、この現代はあまりに生活が深酷過ぎますので堪りません。彼には妻子があるのですから、なかなかええ人やという評判くらいでは食っては行けないのです。M君は止むを得ず保険会社の勧誘員を勤めました。ところがちょっと絵心でもあるくらいのM君ですから、やはり芸術家の潔癖な心得だけは、心の片隅に持っていますから、勧めたくもない保険など他人へ強いてみたりする下等な行いはいかにも出来難いのでありました。M君はある時私なら馴染でもあるし話やすいと思ってか、勧誘にやって来ました。私はM君には気の毒と思いましたが、大体私は何年か後の金千円という金に興味など少しも持てないのだから厭だといって断りました。するとM君はなるほどそれもそうですなと同感して、すぐ帰ってしまいました。それくらいよくものの判った人格者であります。
 それからM君は中之島公園のベンチへ腰かけて、もっと自分の趣味と自力でやれる公明正大な商売はないかと考えたのでした。数日の後彼はテンプラ屋を決心しました。テンプラは彼の好物でもあるし資本もあまりかからない関係からかも知れません。
 しかし妻君は大変反対しました。妻君の心には芸術がありませんから、亭主のテンプラ屋は駄目だという計算が直ちにつくものとみえます。必ずたちまちにして棒折ると予言しました。M君はどうあっても成功してみせると申しました。やるなら勝手にやれということになったのであります。
 資本金二百円のテンプラの出し店が、ある場末の町角で始まったのでした。もちろん狭い店だけ借りたことですから、M君は毎朝ここへ一人で通うのであります。不幸なことに妻君は元来怒っていますから、決して手伝わない上、昼めしの弁当さえ彼のために運んでやらないのでした。これは少しひどいと思います。
 ところでちょっと売れたのは最初の一日だけで次の日から揚げたテンプラは積まれたまま冷めて行くのでありました。蝿が随分たかりました。
 M君の店の向いが氷屋でした。M君は毎日昼になると氷水を注文し、自分で揚げたテンプラを自分でたべました。よく芸術家が自分の芸術は自分だけが味わうべきものだといって、作品を皆押入れへ積んでおくようなものであります。
 あまり毎日テンプラと氷をたべたので、とうとう、M君は腸カタルを起こして寝てしまいました。ようやく全快して再び冷めたる山を築いてみましたが、とうてい沢正の芝居を五等席から覗いているぐらいの興趣すらも起こらないのでした。
 悪い事は重なるものです。ある晩もう店をしまうつもりで、ふと煮立った油の鍋を両手で持ち上げた時どうしたことか柵にあった牛乳ビンが真逆様に油の中へ落ち込んだのであります。M君は両手に大火傷してまたもや寝込みました。そこでテンプラ屋は妻君の計算通りの答がちゃんと現れまして、ちょうど一カ月で棒を折ってしまいました。
 以来M君は何物かを拾うべき体裁で、毎朝家を出まして町内の薬屋の店へ腰をおろします。ここで同志集まって何するともなく往来を眺めたり、ちょっと古新聞へ役者の似顔を描いてみたりして、この世と彼の世帯の辛さから、暫時休憩しているのでありました。私はこの好人物を一生涯休憩させておきたいと思いますが、どうも彼の家族と、一九二六年という年代がそれを許すまいと思われますので、何とも致し方がありません。しかし私は町内にM君のような人がぼんやりと存在していないと、大変世の中が味なく思えて堪りません。[#地から1字上げ](「週間朝日」昭和二年一月)

   怪説絹布団

 この話は、しばしば友人仲間へは伝えた事のある古い話ではありますが、丁度昨今時候も初秋に入るに及び、偶然思い出しましたまま書き記《しる》す次第であります。
 大体世の中で何が一番怖ろしいと申しましても人間位い怖ろしいものはありません、妖怪や狐狸変化《こりへんげ》の類に噛殺《かみころ》されたものは尠《すくな》いが、大概の人間は、常に人間に悩まされているようであります。
 私が美校を出て三、四年うろうろしていた或秋のことでした、私は風景写生がして見たさに奈良へまいりまして、そこで或人の紹介で金持ちの後家さんの離座敷を借受ける事になりました。
 その家は木辻遊廓の近くにありまして、奈良特有の低い屋根で蔽《おお》われた暗い家でした、主人の後家さんというのは、何んでも亭主にも養子にも逃られたという事で、今は女中も置ない完全な一人暮しでありました、年は六十幾歳という、頗《すこぶ》る萎《しな》びた老人でありました。
 ところが、初めて私がその座敷へ通った時、婆さんは私を案内しながら、埃《ほこり》のつもった雨戸を開けたり蜘蛛の巣を払ったりしてくれました、その時私はつくづくと婆さんを眺めて、少しおかしいなと思いました、その顔というのが何か草鞋《わらじ》の裏といった形相《ぎょうそう》で、無数の皺《しわ》の中には白粉《おしろい》がかたまっているようでした、それから頭の構造が頗るややこしいのです。先ず額に一本の針金が渡されていて、情けない毛髪がそれから生じているのです、その絶頂には小さな丸髷《まるまげ》が一つ乗っているのでした、その髪の下は完全な禿頭《はげあたま》で、その禿頭にはくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]がベタベタと瘡蓋《かさぶた》の如く一面に塗られていて、到底じっとは見ていられない穢《きたな》さでありました。
 あれが妖怪狐狸の類ならば、こんな下手《へた》な化け方はしないでしょうが、そこが人間の情けなさから頗る深酷に手古摺《てこず》っているのでありました。私は婆さんが側へ来ると何か異様の毒気を感じるのでした。
 しかしその座敷が閑静でいいのと、紹介してくれた人への義理もある処から、まあ不気味な婆さん位いは、我《が》まんする事にしました。
 ところがまたこの家には電燈が一つもないのです、婆さんは古ぼけたランプを一つよそから借りて来てくれました、すると一体婆さん自身はどうしているのかと思って見ますと、庭を隔てた母屋《おもや》の彼女の部屋には何んと、唯一つのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が点《とも》っているだけでした、そして彼女の草鞋の横顔を、かすかに照しているのでした。
 私は少し心細くなったので、もう写生などやめにして逃げて帰ろうかとも思いながらランプの火を眺めていました、すると草鞋の裏が私の前へやって来ました、婆さんは自身の身の上について何か沢山|饒舌《しゃべ》った末、あんたはほんまにきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]なたちやな、あんまり勉強すると肩が凝《こ》るやろといいました、私は全く肩を凝らす性分なのですから、はあ、と答えると、わしがちょっと揉《も》んでやろというのです、ランプの影からもう細い手が二本出ています。大体この家には私とこの草鞋の裏と二人きりしかいないのですから、助けてくれと叫んでも誰一人出てくれるものはありません、どうも都合が悪いと思いましたが逃げる訳にも行かず、私は丹田《たんでん》に力を込めて目をつぶって揉んでもらいましたが、彼女の毒気が肩先きから沁《し》み渡るのを覚えました。
 それから婆さんは、毎夜私の部屋へ遊びに来まして毒気を発散しながら親切にしてくれるのであります。この親切は老年の一人身から僕を小供と思ってしてくれる親切だと解釈する事に私は大につとめたのであります。
 ところが、如何にも、その頭のくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]を見ると我まんがならないのです、私はまた、毎朝婆さんのお化粧が気にかかるのでした、彼女は実に長い時間鏡に向って、娘のする姿態で以てお湯を使うのであります、お化粧中は口三味線《くちじゃみせん》で浄瑠璃《じょうるり》を語るのですから堪《たま》りません、私は全くこの草鞋裏の親切だけは御免だとつくづく思ったのであります。
 それから一週間ばかりの後でした、私は例の如く絵の道具をかついで出ようとすると婆さんは私を呼びました、実はこの間から絹布団を作ったのであるが、初めには男の人に寝てもらうとよいとの事|故《ゆえ》、今晩はぜひとも寝てはくれまいかとの依頼でした、私は何心なくそれは結構な事で、私は絹の布団などへはかつて寝た事はないのですからよろしく頼みますと申しました。
 その夜、私は部屋へ帰って見ますと、一向絹布団の影も見えませんので私は婆さんに、一体絹布団はどうしたかと聞いて見ましたら婆さんは、ああ、それはあんまり重たいさかい私の部屋に敷いてあるといいますので、私はこれは弱ったと思いました、あのくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]の頭と同じ部屋とはあまり情けないと思いました、私は念のために彼女の部屋を覗《のぞ》いて見ました、なるほど、とても大きなダブルベッド位なものが八畳一杯に拡がっているのでした、例によって長火鉢の上にカンテラが一つと黒い大きな仏壇に燈明《とうみょう》が点っていました。
 ところで婆さんの寝床が見当りません、私は変な具合だと感じましたので思い切って婆さんは一体どこへ寝ますかとたずねて見ました、婆さんは、いや、わたしはまたあとからといったきり長火鉢の前へ座って、丁度その日は月末でもありますので、何か算盤で勘定を始めました。
 私はやむなく黒い天井と仏壇の燈明を眺めながら、絹布団の中でよく寝た真似をしていましたが、私の神経は皮膚から一寸位いも飛出しているかと思う位い昂奮しているのでした。あの草鞋の裏め、一体どうするつもりかと考えると到底うっかり眠る訳にもまいりません。
 そのうち、もう木辻へ通う人足も絶えた一時過ぎでした、草鞋の顔が私の鼻さきへ突然現われたのであります。
 これからの対応が頗る面白いのでありますが人様の前は申難《もうしにく》いので割愛《かつあい》致します。
 とにかく私は全身に毒気を浴びて、くぐり戸から逃げ出しました、草鞋が追うて来ないよう戸締を固めて私は離座敷《はなれざしき》へ座ったまま神経は飛出したまま、夜の明けるのを待ちました、なるほど秋の夜は長いものだと知りました。
 あの草鞋の奴め、今朝はどんな顔をしているかと思って怖《おそ》る怖る母屋《おもや》を眺めますと、彼女は相変らぬ顔で鏡台に向って、しかも、そりゃ聞えませぬというさわり[#「さわり」に傍点]を語っているのでありました。狐狸の類ならば忽《たちま》ち姿を消す処でありますが人間はずうずうしいものであります。
 当時公園の亭座敷《ちんざしき》に住む九里氏の許《もと》へ早速相談に行った処、ここへ逃げて来てはという事になり、私は荷物一切車に積んで浅茅《あさじ》ケ原《はら》へとのがれました。
 以来、私は当分のうち毎晩草鞋の毒気に悩まされて困ったのであります。
 その後、婆さんの家近く住む按摩《あんま》に療治してもらった時、私はふと、婆さんの事を訊《たず》ねて見ました、すると按摩は意外な顔をして、あんたはよう知ってるな、察する処、やられたのやおまへんかというのです、私は実はちょっとやられかかったのだと白状すると、按摩は大に笑って、一体あんたの時はどんな手で来ましたという、そんなに沢山手があるのかと私は驚きました、僕の時には絹布団を敷いてやるといったよと申しますと、誰れでもその手でやられるなあと按摩は会心の笑《え》みをもらしました。

   構図の話

 構図(Composition)と云う事はこれを本式に研究すれば例えば黒田君の構図の研究と云う本が壱冊も出来る位い複雑なものである。
 然し私は初めて絵を描こうとする人達にとってはあまり最初からむつかしい構図の理論などは知る必要もあるまいと思う。それよりも先ず物に写す技能を勉めなくてはならないだろう。然し乍ら一旦画面に向うと同時に其自然なり人物なりの、どれだけを、どんな形に画面へ切り取って収めるかと云う事が直ちに問題となってくるのである。即ち構図の知識の極くざっとした事だけは知っている方が便利であると思う。
 そこで私は構図に就いての頗るざっとした話を書くつもりであるが、結局は構図のうまさも、拙ずさも其画家の感覚や天分如何によるものであるから必らず斯うすればいいと、はっきりとは云えないが、先ず大体の構図に関するざっとした心得だけを記そうと思う。
  ×  ×  ×  ×
 構図は絵を作る上に於て最も重大な仕事である。自然を写す事は絵の第一の仕事ではあるけれども、自然其ものは頗る偶然のものであり、頗る無頓着に配列されているものである。そこで其偶然と無頓着な自然全部を、無撰択に一枚の限られた画面へ盛る事は出来ない。そこで其現そうとする画面へ、其自然のどれだけを都合よく切り取り、どんな具合に配置すれば形もよく、見て頗る愉快であろうかを考えなくてはならない。そこで先ず吾々は自然に向うと同時に構図を考えなくてはならないのである。
 処で其無頓着である自然は、又自然と偶然と無頓着とによって、既に複雑にして美しい無数の構図を此地球の上に構成していると云っていいと思う。吾々画家は其自然が構成する構図の頗るよろしき一部分を、小さな自分の画面へ切って頂戴すればいいのである。其切取り方と画面への配置の方法が問題である。先ず初学者としては此方法によって、画面の構図を定め然る後はただ写実であると思う。
 それ以上初学者が構図ばかりを気にかけ、構図の為めに構図をする様にであっては反って面白くないと思う。一草一木さえ写す技能なしに徒らに画面の構図ばかりを気に病んで、勝手気ままに自然を組みかえて見たり樹木を置きかえたりする事は、人間の顔が気に入らないからと云って、口を目の上へ置きかえる位いの間違いを起すおそれがある。
 これは絵の構図ではないが、私は人間を見ていつも感心している事である。人間も偶然に出来た自然物ではあるが其生きると云う必要上、種々雑多の諸道具類が実に都合よく、完全に備わり、格好よく構成されている様であるそれでも吾々は、かなりうるさくあれは美人だとか、拙い面だとか、可愛いとかヴァレンチーノだとか勝手な批評をするのが常である、これも偶然に出来た処の構図を、いいとか悪いとか云って批評する訳である。
 人間は、神様が作ったと云われている人間の顔でさえ左様に文句を並べて、少しでもいい構図を求めようとするのである。よい構図は人の心を愉快にし、安心、安定を得さしめるものである。
 そんなに人間は、人間の面の批評をするが、先ず大体に於て、人間の構成はよく出来ているものであると私は思う。もし人間を吾々が創めて造り出さねばならないものだったら其組立てに就いては随分まごつく事だろうと思う。そして案外不便で且つ、可笑な形のものを作り上げて笑われるかも知れない。
 先ずいろいろと文句は云うが其目鼻を移動させる事はかなりの危険が伴うからやらない方が安全であると私は思う。そして充分自然を愛し、自然に便る事が安全だと思う。自然は無頓着であるから従って千差万別である。一つとして同じものが作られていない、処で人間のやる仕事は、何に限らず事を一定したがっていけない、今や人の顔はヴァレンチーノが流行だと云えば皆ヴァレンチーノとして了うかもしれない、だから人間を作る事を人間に任せて於ては同じ型ばかり作り度がる故に危険である、結局均一の人類の無数が製造されて、人間は怠屈して了わなければならない不幸が現れる。
 私は従って変化ある面白い構図は、自然をよく観察し自然に従ってよき撰択をする処から生じて来るものであると考える。
  ×  ×  ×  ×
 今一枚の風景画を作らん[#「作らん」は底本では「作ら」]とする、十号と云うカンバスを持ち出す、自然の全体を此十号へ全部残りなく描き込んで了う事は人間わざでは出来ない、吾々は自然の極く一部分を、この十号と云う天地へ切り取って嵌込まなければならないのである、ここで自然の中から、自分が見て愉快である処の図柄を探し出す必要が起って来る、即ち構図で苦労する事になるのである。
 例えば、富士山と雲と、樹木と人家と岩とが画面の中央に於て竪の一直線となって重なり合ったとしたら如何にも図柄が変だと、誰れの心にも感じられるのである、こんな場合画家は歩けるだけ歩きまわって、富士山と樹木と雲と人家と岩とが何んとかお互によろしき配置を保つ様に見える場所を探さねばならないのである。
 又或は、画面の中央に於て横の一直線へ山と人家と云ったものが並列しても笑可なものである。
 又同じ距離の辺りに、同じ高さの木と家と人と山とが横様に並び空と地面がだだ広く空いていると云う事も笑可なものと思われる。
 こんな場合、風景の中を撰択の為めに走り廻る事が面倒臭いからと云って、いい加減の所へいい加減の木を附け足して見たり、でたらめの人物を描き添えて見たりする人もあるが、これはよほど熟達した人でない限りは大変危険である、人間の顔の道具を勝手に置きかえて化物とする様なものである。私はどこ迄も自然の構成其ものからよき構図を発見してカンバスへ入れると云う事が、一番安全であると思う。
 それではよき構図とはどんなものかと云うのにそれは一概にも云えないが、大体それは人間の五体が美しい釣合を保っている如くうまい釣合が一つの画面に保たれる事がよろしいのである。
 先ず人間の五体を見るのに、其顔に於ては左右に均しい眼がある、唯眼が二つ左右にあるだけでは喧嘩別れの様でいけないからと云って、鼻が両者を結びつけている、それだけでは少し下方が空き過ぎる処から、口を以て締めているのである。両眼の上と鼻の下にはまゆ[#「まゆ」に傍点]とひげ[#「ひげ」に傍点]が生じて唐草の役目を勤めている、全く顔はよき構成である。
 次に胴体である、再び左右のシムメトリーを保つ美しい半球の乳房である。其上にある二つの桃色の点である、それから腹である、もしあの腹に臍と云う黒点が無かったら、どうだろう、あの腹は大きな一つの袋とも見えて随分滑稽なものだろう。其下では線が集って美しく締りをつけてある、次に両足だ、これが又中央は垂直線、外側が斜線である、下へ降る途中があまりに長いからに云うので膝に於てよろしき位いのアクサンがある、それから両足となって地上に落付くものである、五本ずつの指ともなる、此のよろしき構成はあらゆる絵の構図のよい手本であり、相談相手ともなりはしないだろうかと思う。
 よき構図は左様に人間の五体の釣合の如く、樹木の枝の如く、音律のよき調和の如く、美しい縞柄の如く、画面の上に頗るよろしく保たれた処の明暗と物と物、色と色と、形と形と線と線との最も都合よきリズム大調和であらねばならない。
 従って右方ばかりへの主要なものが集り過ぎたり、下へものが下り過ぎ[#「過ぎ」は底本では「過き」]たり、右と左に同じものがあって、それを連絡すべき何物もなかったり、上方が重過ぎたり、画面の真中へすべてのものが集り過ぎたり、一方ばかり明る過ぎたり竪にものが並び過ぎたり、又風景としては空が一つも見えなかったりする事はいけない。
 又半分からちぎれた様な図柄なども不安である、例えば活動写真の場合でもどうかすると写真がガタリと半面下へ落ちて了ってつぎ目が幕面へ現れる事がある、そんな場合、チャップリンの顔が下に現われ、上方から足と靴とが下っていると云う構図である。吾々は早く直してもらい度いと思う、吾々は不安でたまらない。
 こんな構図を、初めて絵をかく人は屡々作る事がある、まさか足を上へ描く事はないが人物を妙に半端な処から半分画面へはみ出した様にかく事がよくあるものである。
  ×  ×  ×  ×
 静物の構図も風景と大差はない、其原理は一つであるが、静物は自然とは違って、其構図はよほど人工的に工夫の出来るものである、即ち静物は器物、花、果物、椅子、テーブルと云った処の財産で云えば動産であるから、如何様にも動かす事が出来るのだ。処でこれはあまりに人間の自由になり過ぎる為めに反って災を招き、いつも一定して、変化あるよき構図が得られない事になったり嫌味なわざとらしい構図が出来上るものであるから注意せねばならない、吾々はなるべく静物写生の為めにわざわざと机を飾って見たりちゃぶ台の上へギタアをのせて見たりする事はどうかと思う。それよりも私は自然にとりちらかされた室内の情景に偶然よき構図やモチーフを発見する方がよいと思う。構図の為に構図を作る事はどうかすると厭味を起さしめる。
 静物以外、大きな壁画であるとか或は何百号への大作などする場合、単に自然の一角を切取って篏め込むだけではどうも絵は纏まらない。
 そこで何人かの群像や風景、及草木、花鳥、の類をば如何に組合せ、如何に配置するかが大作としては重大な仕事となる。本当に構図其物が第一条件ともなってくるのである。処が現在の日本では左様に大きな建築との交渉が起る事が稀である為めに本当に構図其物を研究する事を画家が大変怠っている様である、従っていざ壁画と云う事になっては大にまごつくのである、拙い訳である。西洋では随分、日常、コムポジションをいろいろと勉強している様である。日本もどうせ油絵があらゆる建築との交渉を持ってくるのが本当であるとすれば画家はもっと構図を研究する必要があると思うが然し乍ら此事は初学者にとってはあまり関係のない事であるけれども。

   酒と僧帽弁

 私の心臓の弁膜には穴が一つ開いている。その穴から折角押し出したところの血液が多少もとへ逆流するらしいのだ。医者の方では、これを僧帽弁閉鎖不全というそうである。簡単にいうと出来損ねた心臓である。出来損じたものには幸いなことにも代償作用というものが営まれて、まずほそぼそとさえ生きていれば日常生活だけは何とかやって行けるものであるらしい。貧乏人のためには質屋が開店するようなものだろう。したがって私は毎日僧帽弁ばかり気にして暮してはいない。
 ところがもし一朝事ある時において、私の心臓は困るのである。例えば近くの火事の如き、あるいは、かの大地震の如き場合、あるいは喧嘩口論、電車の飛び乗り戦争、熱病などがいけない。今や発車せんとする汽車を見ながらプラットフォームを急ぐ時の私の心は情けない。途中にブリッジでもあれば、乗れる汽車でも乗れなくなることがある。
 私が有楽町の細い横丁の二階を借りていた頃、四、五軒さきの家から火が出たことがあった。その時、私はあらゆる人が狂気の如く走っている中を、私は猛烈な火の手を眺めながらブラブラと散歩の如く逃げ出したことを覚えている。皆が走っている時に、自分だけが歩いていると前から押され、後から突かれて、大変私が往来の邪魔になりつつあることを感じた。といってこんな場合、たんに驚いているだけでも私の心臓は充分であるのに、それ以上走るなどいうことはとうてい私の世帯が許さない芸当であった。
 例の大地震の時なども、ちょうど私の泊っていた宿が白木屋の横丁であったから、もし宿にいて、地震の時刻が夜中ででもあったとしたら、随分私は辛い目に遇ったことかも知れない。ことによっては震火の中をうろうろと散歩しながら煙と化したかも知れない。
 幸いにもあの日は二科の招待日であったから、上野公園というまず理想的な避難所に初めからいたために、私はただ驚いていさえすればそれでよかった。少しも走る必要がなかったのは結構だった。私は会場前の椅子へ腰をおろして、私のトランクが宿の六畳の間で黒煙に包まれているのを私の心眼という奴に照して遥かに眺めていたものであった。
 そのトランクの中にはまだ作ってから二、三度以上も着たことのない洋服や、私がドイツで買ったところの愛用の写真機もあった。そのレンズが火焔で溶解している有様なども私は考えた。
 そして、この大騒動、大混乱に遭遇しながら、少しも走らずにすむという運命は、何と幸せに恵まれた心臓だろうと思った。
 ところで、このような異変や騒動がなければ、僧帽弁は常に安泰かというに、なかなかそうは行かない。あらゆる嬉しいことや幸福や遊戯でさえも、多少とも胸の躍るものばかりだといっていいかも知れない。概して幸福は心臓を昂進させる。
 例えば、ふと紅の封筒が自分のポケットから飛び出したとしたら、忽ち血行は変調を来たすであろうし、電車の中で美人の視線といささか衝突してさえも、直ちに逆上して脈膊に影響を来たす位のものである。従ってそれ以上の幸福が飛び出したらまったく私の心臓は止まってしまうかも知れない。あまり結構な幸福が私を訪問しないのも、一重に神仏のお慈悲からかも知れないと思う。
 心臓を昂進させるものに酒がある。結構なものであるそうだ。私は酒のみが羨ましくて堪らない。私も一度、あんなにうまそうなものをガブガブと飲んで、いい気になって、いいたいことをいって、うれしがって、夢中になって、気に入らない奴と大喧嘩をして、なぐりつけたり、他人に迷惑をかけてみたりしてみたいと思う。
 ところが飲めない私にとっては、酒と喧嘩は猫いらずだから情けない。まったく私は一滴の酒も飲めないのだから、一生涯私は正気であるわけだから辛いと思う。
 それで私は、時々この世界から酒というものが退散してしまえばいいと思うことがある。この地球の上に、飲める者と飲めない者とが共存している[#「している」は底本では「してしる」]ことは、まことにお互いにうるさくていけない。金持ちと貧乏人が共存しているよりも不都合に思えることさえある。
 まずこの世の中の遊興の組織が既に酒を中心として組み立てられているようだ。私はこの組織のために時々大震災や近火ぐらいの苦しみをなめることがしばしばである。
 日本には昔から客をお茶屋へ招待するという風習がある。ことにある旦那達は絵描きを芸者とともに並べて遊んでみる風習もあるようだ。私達の如く油絵という殺風景な仕事をするものでさえも時には招かれることがある。
 ところで酒でも飲めればまず旦那のお相手ともなり、芸者とともに暫時を稼ぐことも出来るわけかも知れないが、不幸にして僧帽弁に穴のあるものにとっては歓楽どころの騒ぎではないのだ。
 左様に勤まり難いことが初めから判っているものならば、初めに謝絶すればよいのだが、何かその明るい世界には、何かまた変った幸福らしいものが落ちてでもいそうなさもしい心も出るので、ついうっかりと来てしまうことも多いのだ。
 しかしながらまず初めのうちは芸者も、旦那も、Lも、Mも、Nも、OPQも、皆正気だから私の話は向こうへ通じるし、向こうの話も了解出来るのでまずこれなら何とか辛抱も出来るのかと思っていると、やがて、L、M、N、O、P、Q、旦那、芸者は勝手にアルコールの世界へ転居してしまうのだ。
 すると正気の間は多少、商売上、丁寧であった芸者の言葉が妙に荒々しくなってくる。なんや、あんたな、鬱陶しい顔せんと、早ようガッとあけなはれという。旦那はんは、こらおやじなどいわれている。
 何だかもう、これからさきは叱られに来ているような具合で、正気なるものは忍従か逃げ出すかより他に途はないことになってしまう。ところでここで逃げて帰っても、LMNOPQも、誰も知らない場合が多いのだ。また逃げ出してもいいという約束らしいものもあるようであるし、あるいは逃げ出さぬように警戒して終いまで忍従させようとする暴君もあるようだ。
 ともかくもこんな時に往来へ逃げ出して、冷い空気を胸一杯吸うて自由な天地を仰いでみると、ほっとして心の底から幸福が湧き出して来る。私の心臓は安らかな行進曲を奏するのだ。結構な幸福はまったくどこに落ちているやら、さっぱりわからない。明るい世界に変なものがあって、暗い往来で幸福を拾ったわけだ。
 そこで私は一人ぶらぶらと、自分の金で紅茶を一杯飲んで、有難い自由な空気を遠慮なく吸いながら帰るのだ。
 ところでここで困ることには天狗につままれた如く、今見て来た変に浮き上がった明るい世界と自分が帰って行こうとする自分の世界とが、あまりに調子のとれないことであることだ。ここで折角吸うた冷い空気が心の底で煮えつまるのである。幸福と行進曲が煮えつまるのだ。
 もし私の心臓に穴がなくて、酒がうんと飲めるものだったら、私はそんな時、無神経な旦那はんの頭と、LMNと芸者の頭を「ガン」となぐって帰るかも知れない。あるいはすこぶるよろしく調和して、旦那から一人の芸者を拝領に及んで舌を出しながら次の一間へと引き退がることとなるかも知れないと思う。どうも結局飲めない僧帽弁がいつも一番いらない苦労をするようである。
[#地から1字上げ](「不調和」昭和二年二月)

   滞欧の思出

     心からあなたを愛する

 私は元来、しゃべる事が下手《へた》だ、おまけに大阪弁だから、先ず日本語としても殆《ほと》んどなっていないといっていい位いだ。西洋人でも随分|鮮《あざや》かな東京弁を使う人に時々出会う事があるが、全く私は恥かしい。それはもう、なんやこう、けったいな感じがしてどむならんとかいったら、これは正確な日本語を習った毛唐《けとう》には、全く見当がつかないだろう、日本人にも通じ難いかも知れない。
 東京にいる間は、それでも多少は東京風にものをいっていたものだが、家へ帰ると大阪市全体、私の家族全体、友人全体が、なんやこう、けったいな言葉を使うものだから、私だけが、そうかね御苦労だったねなどいって見ても、全く、それこそ、なんやこうけったいな調子になって、少しも周囲と同化しないし、第一親しさが表わせない、私だけが何か新派の芝居でもしているように見えて可笑《おか》しくて堪《たま》らない、やはり私は、さよか、おおきにはばかりさんといってしまう。その方が不都合が起らないのだ。
 その位い、私は大阪弁なのである。ところが単に親しさを表すだけの時にはいいが、何か演壇へ立つとか、あるいはラジオの放送であるとか、あるいは講演、婚礼や新年の挨拶《あいさつ》、火事見舞、仏事、などにはあまり進んで出られないのである。その上ちょっと気兼ねをすると直ちに言葉がのど[#「のど」に傍点]へつまってしまうくせ[#「くせ」に傍点]があって、あのう[#「あのう」に傍点]とそのう[#「そのう」に傍点]以外一句も出なくなるのである。私はさように大体、言葉には辟易《へきえき》しているのである。
 ところで、私が、フランスへ行こうと考えた時、何よりも困った事は言葉の勉強であった。私は中学時代の英語でさえも、会話は全く厭《いと》う思いをしつづけたものだった。生れついて日本語でさえなかなか考えても口へ出ないのに、日常何んの必要もない英語がさようにすらすらと出る訳はないのだった。ところでフランス語だ。今度は必要だという上から考えて、私はやむをえず近所の語学の先生の許《もと》へ通って漸《ようや》く読本《とくほん》の一冊を習得してしまったのだ。それと同時に乗船の日が到来したのだった。
 船へ乗って見ると、あらゆる日常生活が激変した、かつて着た事のない洋服を着たものだからネックタイが一人で結べなかった。私は毎朝同室の医者と政治家とに交々《こもごも》結んでもらったものである。それから日に日に新らしい事物に出会う応接と、その船には九人の画家が乗り合せた関係上なかなか以《もっ》て語学の勉強どころの騒ぎではなかった。とうとうマルセイユへ到着するまで、読本巻の一は、カバンの底へ組敷《くみしか》れたまま、印度洋の湿気でベトベトになって巴里《パリ》の下宿屋の三階で初めて現れた。
 さような不勉強から、折角習ったフランス語も船中で全く奇麗《きれい》に忘却してしまって、上陸の際はぐっ[#「ぐっ」に傍点]ともすっ[#「すっ」に傍点]ともいえない上に勿論《もちろん》何をいわれても一切聞えなかった。
 危ない電車道を数人のめくら[#「めくら」に傍点]がにこにこと笑いながら横切るのを、よく見かける如く、われわれは手を引き合って、無言のまま、にこにこと巴里へ到着してしまったものだった。
 言葉を知らないものにとっては、初めのうちは世界の都、巴里も、高野《こうや》の奥の院位いの淋《さび》しさであった。カフェーやレストウランで、大勢が何かやっているが、自分には何の影響もない事だった。毎朝新聞屋の呼声がするが、それも何の影響もなかった。もしその記事の中に明日、巴里にいる日本人を皆死刑に処すと記されてあっても、少しく驚かない訳だ。世界中が黙っているのと同じ事だから全く静寂で、長閑《のどか》で、ただ何かごたごたと音がしているだけであった。
 その代り、幸福が訪問しても、わからずにすんでしまう事もある。
 私が南仏カニューの安宿に二、三ケ月滞在していた頃の事だった。カニューは、ルノアルの別荘のある美しい村である。地中海に面した、暖かい処であるから、冬になると巴里から沢山の画家がやってくるらしい。当時もこの宿に硲《はざま》君も正宗《まさむね》氏なども来ていて、毎日近くのシャトウやオリーブの林を描きに出かけたものだった。正月だというのに外套《がいとう》も着ずに写生が出来るのだから結構だった。
 私たちのその安宿というのは、真《まこ》とに田舎風の古めかしい家だった。この宿にジョセフィンという女中がいた。アルサスの女だといって自慢をしていたが大柄な男のような女で鼻下には多少の口髭《くちひげ》もあって、あまり美しいとは考えられなかった。しかしアルサスの女は大変美しいのだと彼女は常にいっていた。それが毎朝、カフェーとパンを私の枕《まくら》もとへ運んだり部屋の掃除に来たりした、随分よく働く女でかなり親切にもしてくれた。
 或日、彼女は部屋の掃除にやって来て、私の写生帖へ何か書き記して見せるのであった。私は少しもそれが読めないし、面倒臭くもあったので、ただいい加減の返事をしてあしらっていたものだ。すると彼女は、よく活動写真で、西洋人が困ったとか弱った場合によくする処の両肩を上げて頸《くび》を少しかしげる表情をしながら何かしきりにぶつぶついっていたがとうとう彼女はあきらめて出て行ってしまった。私には何の事かさっぱりわからなかった。私はただ、私はわからないという、私の一番|上手《じょうず》なフランス語を繰返して置いた事を記憶する。
 以来、私はその事について、何もかも忘れてしまってもう四、五年にもなるが、最近私の書棚を掃除していた時、偶然にも、その折の写生帖が出て来たので、カニューの事を思い出しながら頁を繰っていると、ふとその時ジョセフィンが記した筆蹟が現れたので、彼奴《あいつ》は何をいったのかと思ってつくづくと読んで見ると、それは正《まさ》しく、私は心からあなたを愛するという意味の言葉であった。なるほどあの弱った表情は、なるほどと思い当った。今頃これがわかった[#「わかった」に傍点]のでは大変遅過ぎた。しかしながら、これはわからないので幸だった、もしそれが読めたら何んとか返事をしなくてはならないはずだ。私もあなたが好きだともいえないし、私は嫌《きらい》だといったら怒るかも知れないし、先ず一苦労せねばならない処だった。それにしても、愛するという文字が読めなかったとは、よほどの私は無学であったと考える。私は帰郷病に罹《かか》ったはずだ。



底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年8月17日第1刷発行
   「小出楢重全文集」五月書房
   1981(昭和56)年9月10日発行
   「楢重雑筆」中央美術社
   1927(昭和2)年1月25日発行
底本の親本:「楢重雑筆」中央美術社
   1927(昭和2)年1月25日発行
※オリジナルの「楢重雑筆」に収録された作品を、まず「小出楢重随筆集」からとりました。(裸婦漫談、ガラス絵の話、七月、黒い帽子、胃腑漫談、蜘蛛、雑念、最近の閑談、夏の水難、足の裏、骨人、怪説絹布団、滞欧の思出)
続いて、「小出楢重全文集」で不足分を補いました。(国境見物、鑑査の日、真似、アトリエ二、三日、大阪古物の風景、写生旅行に伴ういろいろの障害、グワッシュとガラス絵、触覚の世界とその芸術、芸事雑感、散歩雑感、芸術と人間の嫌味、神経、油絵と額縁、人間が鹿に侮られた話、紹介、鞆の嵐、M君のテンプラ屋について、酒と僧帽弁)
どちらにもない「構図の話」は、「楢重雑筆」に収録されたものを、「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて表記をあらため、組み入れました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※二桁以上のアラビア数字は、底本では、縦中横となっています。
入力:小林繁雄
校正:米田進
2002年12月17日作成
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