青空文庫アーカイブ
めでたき風景
小出楢重
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亭《ちん》が
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十|間《けん》ばかり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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めでたき風景
奈良公園の一軒家で私が自炊生活していた時、初春の梅が咲くころなどは、静かな公園を新婚の夫婦が、しばしば散歩しているのを私の窓から十分眺めることが出来た。彼ら男女は、私の一軒家の近くまで来ると必ず立ちどまる。そこには小さな池があり、杉があり、梅があり、亭《ちん》があるので甚《はなは》だ構図がよろしいためだろう。
そして誰も見ていないと思って彼ら二人は安心して仲がいいのだ。即ち細君を池の側へ立たせて、も少し右向いて、そうそう少し笑って見い、そやそや、といって亭主はピントを合せるのだが、私はそれらの光景をあまり度々《たびたび》見せられたためか、どうもそれ以来、写真機をぶら下げた紳士を見ると少し不愉快を覚えるのである。どうも写真機というものは実は私も持っているが、一種のなまぬるさを持っていていけない。
しかし、そのなまぬるさを嫌っては、どうも近代の女たちからの評判はよろしくないようだと思う。我々は古い男たちよと呼ばれざるを得ないであろう。
そのなまぬるさを平気でやるだけの新鮮なる修業は、我々明治年間に生年月日を持つ男たちにとっては、かなりの悩みである。
私は巴里《パリ》で、誰れかのアミーと共に自動車に乗る時、うっかりとお先きへ失敬して、アミーたちにその無礼を叱《しか》られがちだった。
いつのことだったか、雨が降りそうな日に、私と私の細君とが公設市場の近くまで来た時、理髪屋の前で細君が転《ころ》んだ、高い歯の下駄《げた》を履《は》いていたのだ。私はその瞬間に大勢の人と散髪屋が笑っているのを見たので、私はさっさと歩いてしまったものだ。起き上って私に追いついた細君は、もうその薄情さには呆《あき》れたといってぶうぶういった。といっておお可哀そうに、などいって抱き上げることは、私の潜在せる大和魂《やまとだましい》という奴がどうしても承知してくれないのだ。
その大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて、東京のNさん夫婦がその後遊びに来た時、細君同士は男子の薄情について語り合った末、その一例として妻は公設市場で転んだ件を話して同情を求めたところ、N夫人は、私の方はもっとひどいのよといった。それは過日市電のすぐ前で雨の日に転んだというのだ。電車は急停車したが、それを見た亭主は、十|間《けん》ばかり向うへ逃げ出したそうだ。命に関する出来事であるにかかわらず逃げるとは如何《いかが》なもので御座いましょうといった。御亭主は、それはあなたと、もじもじしているので私はそれがその、我々の大和魂の現れで、かの弁慶でさえも、この点では上使の段で、鳴く蝉《せみ》よりも何んとかいって悩んでいる訳なんだからといって、すでに錆《さび》かかっている大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾《つやぶきん》をかけるのであった。
白光と毒素
女給はクリーム入れましょうかとたずねる。どろどろの珈琲が飲みたい日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが厭な日はいらないといって断る。考えてみるにどろどろしたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなきにがい珈琲を好く日はどうも少し心がひん曲っていることが多いようである。
人間もだんだんどろどろしたものが厭になり、何事もケチがつけてみたくなり、何事にも賛成できなくなり、飛びつく食欲を覚えず、女人の顔を真正面から厚かましく眺めるような年配となってくることは淋しいことだ。
やはり人間はカツレツと甘い珈琲が好きで、なかば霞んでいる方がかわい気はある。あまりに冴えた女性はどうも男達からの評判はよろしくないことが多い。
私自身も近ごろだんだん霞の煙幕の向こう側が意地悪く見えすいて来たりして、なるほどこれかと思い当たるようになって来たことは気の毒だ。でも老人がいつまでも甘ったるくても迷惑なことである。私などは近頃、ついうっかりと美人の鼻の穴の黒き汚れや皺の数とその方向に見惚れたり、その皺によって運勢までも観破しかねまじき眼光の輝きをわれながら感じて来た。
でも、この地球の上はありがたいことにも年に一回は必ずこれは女給ではなく、かの木花開耶姫が一匙のクリームを天上からそそぎかけると、たちまちにして地上の空気はどろどろとなり、甘ったるく、なまぬるく、都会の夕暮をつつみ、あるいは六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
だが、そう見えるところにこの[#「この」は底本にはなし]春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。
大阪弁雑談
京阪《けいはん》地方位い特殊な言葉を使っている部分も珍らしいと思う。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違った話を日常続けているのである。私はいつか、西洋人に対してさえ恥かしい思《おもい》をした事があった。その西洋人は日本の国語と、そのアクセントを丁寧に習得した人であったから、美しい東京弁なのである。そして私の言葉は少し困った大阪弁なのであった。
大阪地方は言葉そのものも随分違ってはいるが、一番違っているのは言葉の抑揚である。それは東京弁の全く正反対のアクセントを持つ事が多い。上るべき処が下り、下るべき処が上っている。
たとえば「何が」という「な」は東京では上るが大阪は上らない。「くも」のくの音を上げると東京では蜘蛛《くも》となり、大阪では「雲」となる。
大阪の蜘蛛は「く」の字が低く「も」が高く発音されるのである。これは一例に過ぎないがその他無数に反対である。
それで大阪で発祥した処の浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞えない。さわりの部分はまだいいとして言葉に至っては全く変なものに化けている事が多い。浄るりの標準語は何といっても大阪弁である。
従って、大阪人は浄るりさえ語らしておけば一番立派な人に見える。
よほど以前、私は道頓堀《どうとんぼり》で大阪の若い役者によって演じられた三人吉三《さんにんきちざ》を見た事があった。その芸は熱心だったが、せりふの嫌《いや》らしさが今に忘れ得ない。大阪ぼんちが泥棒ごっこをして遊んでいるようだった。見ている間は寒気《さむけ》を感じつづけた。
東京で私は忠臣蔵の茶屋場を見た。役者は全部東京弁で演じていた。従ってその一力《いちりき》楼は、京都でなく両国の川べりであるらしい気がした。しかしそんな事が芝居としては問題にもならず、何かさらさらとして意気な忠臣蔵だと思えただけであった。一力楼は本籍を東京へ移してしまった訳である。
大阪役者が三人吉三をやる時にも、一層の事、本籍を大阪へ移してからやればいいと思う。
もしも、大阪弁を使う弁天小僧や直侍《なおざむらい》が現れたら、随分面白い事だろうと思う。その極《きわ》めて歯切れの悪い、深刻でネチネチとした、粘着力のある気前《きま》えのよくない、慾張りで、しみたれた泥棒が三人生れたりするかも知れない。それならまたそれで一つの存在として見ていられるかと思う。
先ず芝居や歌とかいうものは、言葉の違いからかえって地方色が出て、甚だ面白いというものであるが、日本の現代に生れたわれわれが、日常に使う言葉はあまり地方色の濃厚な事は昔と違って不便であり、あまり喜ばれないのである。
標準語が定められ、読本《とくほん》があり、作文がある今日、相当教養あるものが、何かのあいさつや講演をするのに持って生れた大阪弁をそのまま出しては、立派な説も笑いの種となる事が多い。品格も何もかもを台なしにする事がある。
そこで、今の新らしい大阪人は、全くうっかりとものがいえない時代となっている。だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。ある者は読本の如く、女学生は小説の如くしゃべろうとしている傾向もあるようだ。
ところで標準語も、読本の如く文章で書く事は、先ず記憶さえあれば誰れにも一通りは書けるし、喋《しゃべ》る事も出来るが、一番むずかしいのはその発音、抑揚、節《ふし》といったものである。
君が代が安来節《やすぎぶし》に聞えても困るし、歯切れの悪い弁天小僧も嫌である。
大阪人は大阪弁を、東京人は東京弁を持って生れる。持って生れた言葉が偶然にもその国の標準語であったという事は、何んといっても仕合せな事である。
私の如く大阪弁を発するものが、何かの場合に正しくものをいおうとすると、それは芝居を演じている心持ちが離れない。それもすこぶる拙《まず》いせりふ[#「せりふ」に傍点]である。
自分でせりふの拙さを意識するものだから、ついいうべき事が気遅れして、充分に心が尽せないので腹が立つ。地震で逃げる時、ワルツを考え出している位の、ちぐはぐな心である。
自分の心と、言葉と、その表情である処の抑揚とがお互に無関係である事を感じた時の嫌さというものは、全く苦々《にがにが》しい気のするものである。
時にはそんな事から、西を東だといってしまう位の間違いさえ感じる事がある。全く声色《こわいろ》の生活はやり切れない。
大阪の紳士が電車の中などで、時に喧嘩《けんか》をしているのを見る事があるが、それは真《まこ》とに悲劇である。大勢の見物人の前だから、初めは標準語でやっているが、忽《たちま》ち心乱れてくると「何んやもう一ぺんいうて見い、あほめ、糞《くそ》たれめ、何|吐《ぬか》してけつかる」といった調子に落ちて行く。喧嘩は殊《こと》に他人の声色ではやれるものではない。
私は時々、ラジオの趣味講座を聴《き》く事がある、その講演者が純粋の東京人である時は、その話の内容は別として、ともかく、その音律だけは心地よく聴く事が出来るが大阪人の演ずるお話は、大概の場合、その言葉に相当した美しい抑揚が欠乏しているので、話が無表情であり、従って退屈を感じる。少し我慢して聴いていると不愉快を覚える。
だから私は大阪人の講演では、大阪落語だけ聞く事が出来る。それは本当の大阪弁を遠慮なく使用するがために、話が殺されていないから心もちがよいのである。
ある、いろいろの苦しまぎれからでもあるか、近頃は大阪弁に国語のころも[#「ころも」に傍点]を着せた半端《はんぱ》な言葉が随分現れ出したようである。
例えば「それを取ってくれ」という意味の事を、ある奥様たちは頂戴《ちょうだい》という字にいんか[#「いんか」に傍点]を結びつけて、ちょっとそれ取って頂戴いんかといったりする。
勿論《もちろん》こんな言葉は主として若い細君や、職業婦人、学校の先生、女学生、モダンガアル等が使うようである。
それから「あのな」「そやな」の「な」を「ね」と改めた人も随分多い。「あのね」「そやね」「いうてるのんやけどね」等がある。
少し長い言葉では「これぼんぼん、そんな事したらいけませんやありませんか、あほですね」などがある。
これらの言葉の抑揚は、全くの大阪風であるからほとんど棒読みの響きを発する。従ってこれというまとまった表情を示さないものだから、何か交通巡査が怒っているような、役人が命令しているような調子がある。多少神経がまがっている時などこの言葉を聞くと、理由なしに腹が立ってくるのである。もし細君がこの言葉を発したら、到底ああそうかと亭主は承知する訳には行くまいと思われる位だ。「あなた、いけませんやないか」などいわれたら、何糞《なにくそ》、もっとしてやれという気になるかも知れないと思う。妙に反抗心をそそる響をもった言葉である。
こんな不愉快な言葉も使っている本人の心もちでは決して亭主や男たちを怒らせるつもりでは更にないので、あるいは嘆願している場合もある位である。嘆願が命令となって伝わるのだから堪《たま》らない。
笑っているのに顔の表情が泣いていてはなおさら困る。
葬式の日に顔だけがとうとう笑いつづけていたとしたら、全く失礼の極《きわ》みである。何んと弁解しても役に立たない。
もしこの言葉と同じ意味の事柄を流暢《りゅうちょう》な東京弁か、本当の大阪や京都弁で、ある表情を含めて申上げたら、男は直ちに柔順に承諾するであろうと考える。
全く、気の毒にも、今の若い大阪人は、心と言葉と発音の不調和から、日々|不知不識《しらずしらず》の間に、どれだけ多くの、いらない気兼ねをして見たり、かんしゃくを起したり、喧嘩をしたり、笑われたり、不愉快になったり、しているか知れないと思う。
ところで私自身が、私の貧しい品格を相当に保ちつつ、何かしゃべらねばならない場合において、私が嫌がっている処の大阪的な国語が、私の口から出ているのを感じて、私は全く情けなくなるのだ。自分のしゃべっている言葉を厭だと考えては次の文句はのどへつかえてしまうはずである。それでは純粋の東京流の言葉と抑揚を用いようとすると、変に芝居じみるようで私の心の底で心が笑う。全くやり切れない事である。つまらない事で私はどれ位不幸を背負っているか知れないと思う。
それで私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べ得る処の、本当の大阪弁を使わしてもらうのである。すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと湧《わ》き出してしまうのを感じる。
私は、新らしい大阪人がいつまでもかかる特殊にして半端な言葉を使って、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困っているのが気の毒で堪らないのである。あるいはそれほど困っていないのかも知れないが、私にはさように思えて仕方がないのである。
主として女の顔
電車の中へ、若い女が新しく立ち現れた時、大概の女客はまずその衣服を眺めるけれども、われわれ男達はまずその顔を注視する。相当の年輩の老人でさえも雑誌や新聞の上から瞰むが如くつくづくと眺めているのを私は見る。
そしてなんだつまらないといった顔して再び新聞を安心して読みつづける男もあれば、興奮を感じて幾度も、幾度もその顔を見返しながら、ある陶酔を覚えているらしい男達をも私は認める。そして老人であればあるほど、無遠慮に相手の顔を厚かましく観賞するものである。
人間が人間の顔の構造を見て楽しむということは誰でもがすることだが、考えると何だか不思議な事柄である。それは単に二つの目とたった一つの鼻と口と位の造作に過ぎないのだが、その並べ方とちょっとした形のくるいによって千種万別の相貌を呈し、中村と、池田と、つる子と、かめ子との差を生じ、悩ましきものを生み、汚なきものを造る。
地球上の絵画が線と色と調子と形の組み合わせ方によってあらゆる絵画を生み、上には上があり下には下があるかの如きものである。
形は正確でちゃんとしているにかかわらず無味なるもの、あるいは多少憎らしきもの、鼻の影淡きもなんとなくまるまるとして猫に類して愛らしきもの、目と目と遠く離れて鳥に類するもの、造作長く上下に延びて狐や馬の如きもの、あるいは短くして狸の如きもの、鼻のみ見えて象を思わせるもの、目の位置上方に過ぎて猿に似たる、その他微細の変化によって幾千億の顔をこの地球の上に現している。その中で子は一人の母親の顔を記憶する。自然の力の不思議を私は奇妙に感じている。
私は男の故をもってか、男の顔にはあまり興味が持てない。まず男については聖人か君子か、おめでたいか、悪人か、厭な奴か、善良な者か、色魔か、福相か、貧相か、馬鹿か、目から鼻へ抜けるけちな奴か、等の区別をつける位のあらゆる観相的なことのみに興味は多少持てるけれども、女の顔にいたっては本当の観賞を企てることが出来る、そしてあまりに多く興味を持ち過ぎて、うっかりするとその観相の方面を誤りはしないかとさえ思われることさえあるような気がする。要するに女の顔を見る時にはあまりに純情的になり過ぎる嫌いはありそうだ。
したがって私は相貌、人品ともに世界第一位としてただ一人という女神のような顔があるとは思えない。またあっても交際すると案外つまらないものであるかも知れないと思う。多少の歪みや欠点はあっても、千差万別の顔をことごとくそれぞれの特質をつまみ出して賞する方が私には適当している。
しかしながら顔についての大体の好き嫌いというものが各人に存在するようである。私は鼻高過ぎてやせている狐面や長くて馬に類するものよりも、鼻低しといえども丸々として猫に類する厚ぽったい相貌を好む。ことに西洋の鷲鼻の女が怖ろしい。彼女が一尺の距離に近づくと、それは天狗とも見えてくる。私の好みは支那、日本の鼻低くして皮膚の淡黄にして滑らかなものを選ぶ。
しかしながら低い鼻といっても、平坦にして二つの穴が黒く正面へ向かって並んでいるのは珍奇であり下等である。その他皮膚の毛穴や、鼻のつけ根や、目尻や耳の中、そのつけ根、その皺、口の周囲等に何か不潔なものが溜っていたり、その形妙にいじけて歪みたるはほんとに貧相にして不幸な心を起こさせるものである。
私のもっとも嫌な思いをするのは日本ものの映画において女優が大写となって笑う時、何とそれはいじけてけち臭く下等に見えることであることかと思う。日本の女がフィルムの上で本当に心もちよく笑い得るようになったら、その美しさをどれ程増すことであるか知れない。東洋の女性としてフィルムの上では私はメイ ウォンの顔を楽しむ。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和四年七月)
旅の断片
私の旅の希望をいうと、東風が吹けば東へ東へと用事も責任もなく流れて行く流儀の旅がしてみたいと思うのである。一枚でも多くの写生がしてみたい、八号を幾枚、一〇号を何枚、ついでに大作も一枚、あの風景は絵になるかどうか、雨は降りはしないだろうか、女中の祝儀はいかにしたものか、といった風のことを考えることは随分やり切れないことなのだ。
私は画室を旅へ持ち出すことはたまらないと考える。あらゆる責任から離れて、ただふらふらとのんきな風にのっていたいのである。
去年の春、偶然そんな風がちょっと吹いた、それは友人T君夫婦が郷里の松山へ帰るから行かないかと突然に私を誘ったのだ。私は大作をてこずって肩のこりで悩んでいた最中だったから早速その風に乗ってみた。そして一切、自分の意志を動かさず、終始一貫してT君夫婦の行くところへついて行くことにした。随分[#「随分」は底本にはなし]無責任な旅である。したがって今は大半何もかもその時のことを忘れてしまったがある場面の断片だけは思い出すことが出来る。
まず退屈なのは尾の道までの車窓の眺めだ。一体、東海道線から山陽線にかけては素晴らしく平凡にして温雅な風景が続き過ぎるようだ。
そのうち、ことに平凡な播州平野の中に石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]という岩山が一つある。この近くの高砂の町に私の中学時代の親友があったが、七、八年前の流感で死んでしまった。その友人の案内で私は十年前の真夏、この岩山の一軒宿で一カ月ばかり暮したことがあったのだ。当時私は金もないのに子供が生まれ、それが病身で泣き通す上に、絵はろくさま描けない、種々雑多のやけ糞から万事を母と細君にまかせて、この淋しい岩山の上へ逃げ出したのだった。
その時、日本全体は米騒動の最中だった。私はここで生まれて初めてであるところの五〇号という大作を汗だらけとなって作り上げたものだった。どうせやけ糞から生まれた絵などろくなものではなかったが、万事の苦しまぎれから私はそれを文展へまで運んでみたものだった。そして落選したことがあった。石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]は私の情けない記念塔でもあるのだ。私はその山だけはなつかしく窓から眺めてみた。やはり相変わらず十年以前の如く白い岩山に松が茂っていた。そして、相変わらずカチンカチンと石を割って切り出しては運んでいるのも見えた。私はこの記念塔がかなり小さく遠ざかって行くまで眺めていた。
尾の道から高浜までの連絡船はいい眺めだった。静かな海上と船の揺れ具合と汽船が持つ独特の匂いとは、私にとって珍しくうれしいものだった。私は船のまかない部屋あたりまでもその匂いを嗅ぎに出かけたりした。したくもないのに便所へまで行って船の匂いを嗅いで歩いた。そしてこんな連絡船の匂いから、私はインド洋、紅海などをさえ思い起こしたりした。
T夫人は船のボーイに幾度となく今日は波は立ちませんかと訊いた。そのたびにボーイはヘイ大丈夫ですと受け合ったにもかかわらずだんだん揺れ出して来た。とうとう高浜へつく手前から雨さえ降り出して来た。
道後温泉へは七、八年前ちょっと来たことがあった。あまり変わってもいなかった。しかし私の宿は大変ハイカラなもので洋館で、そして畳敷でお茶の代りに甘い煎薬のようなコーヒーをさえ飲ませてくれた。
町は博覧会のためにかなり賑わっていた。道後の公園はちょうど夜桜の真盛りだった。夜桜の点景人物は概して男と芸妓だった。それらの情景のためにわれわれは多少の悩ましさを感じて帰り、湯に入って寝てしまった。
翌日雨の[#「翌日雨の」は底本では「翌朝揺れ」]ドシャ降りの中を自動車で太山寺へ向った。そこは西国第何番かの札所だ。T君のお父さんが閑居しているところの閑寂をきわめたところだった。山には桃が多かった。境内には花が散って泥にまみれていた、巡礼がたくさん詠歌を唱えている。昔、二十年の昔なら洋画家は必ずや画架を立てかけたに違いないところのモティフであった。
道後の湯は神社か寺の本堂の如く浴槽は何となく陰鬱で、あまり清潔な気はしない。湯口から落ちてくる湯に肩をたたかせようとするものが順番を待つために行列をしていた。ある老人は悠々と四つ這いとなって尻の穴をたたかせている。面白い形である。多分痔持ちなのだろう。私は湯の不潔さを感じて早く逃げ出そうと思った。
博覧会は雨の中、どろたんぼの中に立っていた。T君夫婦とその一族は会場内の茶室へ招待されている間、私は娘曲芸団の立ち見をしていた。ちょうど[#「ちょうど」は底本では「ちょぅど」]呼物であるところの空中美人大飛行というのを演じているところ。高い空中のブランコから離れてかわいい娘が次から次と、張られた網の上へ落下してくる有様は凄く憐れなものだった。私は往生要集の地獄変相図を思い出した。
最後の一日を高松で暮した。栗林公園も桜の真盛りだった。三味線と酒と、大勢が踊っていた。ある座敷では洋服の男が六、七名、芸妓とともに円陣を作ってやっちょろまかせのよやまかしょというものを踊っていた。T夫人はそれを眺めて、男の方は宴会や宴会や[#「宴会や」は底本では「宴会」]というていつもあんなことをしているのですか、と私に詰問したが、私はさあどうですか、まさか、といってみたが、本当のことは多少わからなかった。T君も何かわけのわからない答弁を製造しているようにみえた。
翌日再び海を渡り、退屈な山陽線によって神戸へ近づくにしたがって、私は私の神経がかなり暢びてしまっているのに気がついて来た。ほんの四、五日の旅だったが、旅は私の神経の結び目をことごとく解いてしまった。もちろん肩のこりも下がっていた。
春の彼岸とたこめがね
私は昔から骨と皮とで出来上っているために、冬の寒さを人一倍苦に病む。それで私は冬中彼岸の来るのを待っている。
寒さのはて[#「はて」に傍点]は春の彼岸、暑さのはて[#「はて」に傍点]は秋の彼岸だと母は私に教えてくれた。そこで暦を見るに、彼岸は春二月の節《せつ》より十一日目に入《いり》七日の間を彼岸という、昼夜とも長短なく、さむからず、あつからざる故|時正《じしょう》といえり。彼岸仏参し、施しをなし、善根《ぜんこん》をすべしとある。
彼岸七日の真中を中日《ちゅうにち》という、春季皇霊祭に当る。中日というのは何をする日か私ははっきり知らないが、何んでも死んだ父の話によると、この日は地獄の定休日らしいのである、そしてこの日の落日は、一年中で最も大きくかつ美しいという事である。
私が子供の時、父は彼岸の中日には必ず私を天王寺《てんのうじ》へつれて行ってくれた。ある年、その帰途父はこの落日を指《さ》して、それ見なはれ、大きかろうがな、じっと見てるとキリキリ舞おうがなといった。なるほど、素晴らしく大きな太陽は紫色にかすんだ大阪市の上でキリキリと舞いながら、国旗のように赤く落ちて行くのであった。私はその時父を天文学者位いえらい人だと考えた。
この教えはよほど私の頭へ沁《し》み込んだものと見えて、彼岸になると私は落日を今もなお眺めたがるくせ[#「くせ」に傍点]がある。そしてその時の夕日を浴びた父の幻覚をはっきりと見る事が出来る。
彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛《はんじょう》はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園など春は一面の菜の花の田圃《たんぼ》だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑沓《ざっとう》の中には種々雑多の見世物《みせもの》小屋が客を呼んでいた、のぞき屋は当時の人気もの熊太郎《くまたろう》弥五郎《やごろう》十人殺しの活劇を見せていた、その向うには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首[#「ろくろ首」に傍点]が三味線を弾《ひ》いている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女《あま》の手踊、軽業《かるわざ》、こま廻《まわ》し等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗《すこぶ》る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。
その多くの見世物の中で、特に私の興味を捉《とら》えたものは蛸《たこ》めがねという馬鹿気《ばかげ》た奴だった。これは私が勝手に呼んだ名であって、原名を何んというのか知らないが、とにかく一人の男が泥絵具と金紙で作った張《はり》ぼての蛸を頭から被《かぶ》るのだ、その相棒の男は、大刀を振翳《ふりかざ》しつつ、これも張ぼての金紙づくりの鎧《よろい》を着用に及んで張ぼての馬を腰へぶら下げてヤアヤアといいながら蛸を追い廻すのである。蛸はブリキのかんを敲《たた》きながら走る。今一人の男はきりこ[#「きりこ」に傍点]のレンズの眼鏡を見物人へ貸付けてあるくのである。
この眼鏡を借りて、蛸退治を覗《のぞ》く時は即ち光は分解して虹となり、無数の蛸は無数の大将に追廻されるのである。蛸と大将と色彩の大洪水である。未来派と活動写真が合同した訳だから面白くて堪まらないのだ。私はこの近代的な興行に共鳴してなかなか動かず父を手古摺《てこず》らせたものである。
私は、今になお彼岸といえばこの蛸めがねを考える。やはり相変らず彼岸となれば天王寺の境内へ現われているものかどうか、それともあの蛸も大将も死んでしまって息子《むすこ》の代となっていはしないか、あるいは息子はあんな馬鹿な真似《まね》は嫌だといって相続をしなかったろうか、あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかとも思う。何にしても忘れられない見世物である。
春眠雑談
関東の空には、四季を通じて、殊《こと》に暑い真夏でさえも、何か一脈の冷気のようなものが、何処《どこ》とも知れず流れているように私には思えてならない。ところが一晩汽車にゆられて大阪駅へ降りて見ると、あるいはすでに名古屋あたりで夜が明けて見ると、窓外の風景が何かしら妙に明るく白《しら》ばくれ、その上に妙な温気《うんき》さえも天上地下にたちこめているらしいのを私は感じる、風景に限らず、乗客全体の話声からしてが、妙に白ばくれてくるのを感じるのである。
近年、私は阪神沿線へ居を移してからというものは、殊《こと》の外《ほか》、地面の色の真白さと、常に降りそそぐ陽光の明るさに驚かされている。それらのことが如何《いか》に健康のためによろしいかということは問題にならないが、その地面の真白さと松の葉の堅き黒さの調子というものは、ちょうど、何か、度外《どはず》れに大きな電燈を室内へ点じた如き調子である。物体はあらゆる調子の階段を失って兵隊のラッパ位いの音階にまで縮められてしまって見えるのである。
従ってこれら度外《どは》ずれの調子と真白の地面と明るい陽光とに最もよく釣合うところの風景の点景は如何なるものかといえば多少飛上ったもののすべてでなくてはならない。例えば素晴らしく平坦《へいたん》な阪神国道、その上を走るオートバイの爆音、高級車のドライヴ、スポーツマンの白シャツ、海水着のダンダラ染め、シネコダックの撮影、大きな耳掃除の道具を抱《かか》えたゴルフの紳士、登山、競馬、テニス、野球、少女歌劇、家族温泉等であるかも知れない。
大体において、阪神地方のみに限らず、全関西を通じて気候は関東よりも熱帯的である。従って、あらゆる風景には常にわけのわからない温気が漂うていることを私は感じる。
この温気というものは、何も暑くて堪らないという暑気のことをいうのではない、その温気のため寒暖計が何度上るというわけのものでもないところの、ただ人間の心を妙にだるくさせるところの、多少とも阿呆《あほ》にするかも知れないところの温気なのである。
私は、大阪市の真中に生れたがために、この温気を十分に吸いつくし、この温気なしでは生活が淋しくてやり切れないまでに中毒してしまっている。しかし、かなり鼻について困ってもいる。そしてよほど阿呆にされている。時に何かの用件によって上京する時、汽車が箱根のトンネルを東へ抜けてしまうと、それが春であろうと夏であろうにかかわらず、初秋の冷気を心の底に感じて心が引締るのを覚える。勿論その辺から温気そのものの如き大阪弁が姿を消して行くだけでも、大層、心すがすがしい気がするのである。私はこの温気のない世界をいかに羨《うらや》むことか知れない。
或年の夏の末、私の友人が私を吉祥寺《きちじょうじ》方面へ誘った、そして私の仕事の便宜上、その辺で住めばいいだろうといって地所や家を共に見てあるいたことがあった。
その時、初秋に近い武蔵野《むさしの》は、すすきが白く空が北国までも見通せるくらいに澄み切っていて、妙にしんかんとして、その有様が来るべき冬のやり切れない物悲しさを想像させたのである。私は私の鼻についた温気の世界に後髪を引かれ、とうとうそのまま家探しをあきらめて帰ってしまったことさえあった。
春眠暁を覚えずとか何んとかいう言葉があるが、全く春の朝寝のぬくぬくとした寝床の温気は、実はこうしていられないのだと思いながらも這《は》い出すことが容易でないのと同じように、大阪地方の温気に馴《な》れた純粋の大阪人にとっては、何かの必要上、この土地を抜け出すことには随分未練が伴うようである。
大体温気は、悪くいえばものを腐らせ、退屈させ、あくびさせ、間のびさせ、物事をはっきりと考えることを邪魔|臭《くさ》がらせる傾きがあるものである。
大阪では、まあその辺のところで何分よろしく頼んますという風の言葉によって、かなり重大な事件が進められて行く様子がある。従って頗《すこぶ》るあてにならない人物をついでながらに養成してしまうことが多い。よたな人物[#「よたな人物」に傍点]などいうものは関西の特産であるかも知れない。
しかしながら、このぬるま湯の温気が常に悪くばかり役立っているとは思えない。温気なればこそ育つべきものがあるだろうと思う。例えば関東の音曲や芝居と、関西の音曲、芝居とにおいてその温気の非常な有無を感じている。
即ち私は、浄るりと、大阪落語と鴈治郎《がんじろう》の芝居と雨の如くボツンボツンと鳴る地歌《じうた》の三味線等において、まずよくもあれだけ温気が役に立ったものだと思って感心している。
しかしそれは万事が過去である。現代の温気の世界は何を創造しつつあるか、まだよく判然しないけれども、先ず河合《かわい》ダンスと少女歌劇と、あしべ踊りと家族温泉と赤玉女給等は、かなり確かな存在であろうと考える。
北極がペンギン鳥を産み、印度が象を産み出す如く、地球の表面の様々の温度がいろいろの人種や樹木、鳥獣、文化、芸術、人の根性《こんじょう》を産むようであるが、この関西|殊《こと》に大阪の温気によって成人した大阪人は、まだわれわれの窺《うかが》い知ることのできない次の芸術と特殊な面白い文化を産み出しつつあるに違いないことだろうと思っている。
かんぴょう
家族が病気で大騒ぎの時、いちじく印の灌腸薬を書生M君に大急ぎで買いにやりました。私が「オイ灌腸はまだか、早く早く」と待ち兼ねている時、M君は「いちじく印のものはありませんでしたけれども」といいながら一束のかんぴょうを携げて帰って来ました。それはかんぴょうではないかと私は怒りました。八百屋のおやじもおやじです。病人も痛む腹から微苦笑をかすかに洩らしました。
グロテスク
一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。レールの側に下駄が一足並んでいてさえ巡査の何人かが走り出すのである。毛髪の一本がお汁の中に浮んでいても食慾に関係する。その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。
私はいつも電車やバスに乗りながら退屈な時こんな莫迦《ばか》々々しい事を考え出すのである。電車の中の人間の眼玉だけを考えて見る。すると電車の中は一対の眼玉ばかりと見えて来る。運転手が眼玉であり、眼玉ばかりの乗客である、道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが横行している事になる。幾億万の眼玉。考えてもぞっとする。
今度は臍《へそ》ばかりを考えて見る。日本中、世界中は臍と化してしまう。怖るべき臍の数だ。
無数の乳房を考えて見る。そして無数の生殖器を考えて見る。全くやり切れない気がする。
やはり人間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。
大和の記憶
五月になると、大和の長谷寺には牡丹の花が咲く。常は寂しい町であるが、この季節になると小料理屋が軒を並べ、だるまという女が軒に立ち、真昼の三時でさえもわれわれを誘うのである。初夏の陽光に照されただるまの化粧と、牡丹と、山門の際でたべたきのめでんがくの味を私は今に忘れ得ない。そしてそれらが何よりも大和を大和らしく私に感ぜしめ、五月を五月らしく思わしめるものである。
去年のこと
私は去年の秋、一種の神経的な苦しい病気をした。それは心臓の活動が一分間に数回も休止するというすこぶる不安な病気であった。医者にそのくるしみを訴えても、本当によくのみ込めないらしかった。
「なるほど、そう、はあ」
という位の事務的な同情をするだけであった。そして決して死ぬものでないといった。
死なないことが確かであっても、苦しいことには相違はなかった。心臓が停止するたびに、私はまったく死と生の間をうろうろするのであった。
もっとも悪い時は寝ていたものであるが、多少いい時には用足し位に出あるいたものだ。
途中でふと停滞が始まると、私は直ぐタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を呼んだ。そして自らの脈拍を数えながら走るのであった。タキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]の窓から死生の間にゆらゆらと見える街景こそ羨ましく美しいものであった。ことに女のパラソルの色はその美しさを数倍に見せた。
ある時などあまりの苦しさからタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を捨てるに忍びず、とうとう阪神国道を芦屋まで走らせてしまった。そして私の家を見るに及んで私の心臓は安らかに動き出したのであった。
今大変だった、死にかかった。といってみたが、もう慣れ切っている細君は医者と同じ顔をしながら自動車に乗りたかったのでしょうといった。私は随分いまいましかったが、考えてみると多少その傾向もないとはいえなかった。
M夫人は私と同じ病気をした人だったことを思いだしたのでこの事を話してみた。
すると夫人はこの病気をよく了解してくれる人が出来たといって大変よろこんだ。そして今度また停滞が起こったらすぐ電話をかけなさい。わたし同情しに行ってあげるといってくれた。私はまったく何々博士の来診よりもこの方が本当の効験があるだろうと考えた。
しかしながらその後私の心臓はまず順調に動いている。
入湯戯画
私は入浴を厭《いと》う訳ではないが、石鹸《せっけん》を持って何町か歩いて、それから衣服を脱いで、また着て歩いて帰るという、その諸々の仕事が大変うるさいので、一旦着たものは寝るまで脱ぎたくないというのが私の好みである。それで私は、なかなか風呂へ容易に行こうとはしない。そのくせ、思い切ってお湯につかって見ると随分いい気持ちでよく来た事だと思う。以来は再々お湯へ這入る事にしようと考えながら、その次の日はすっかり忘れてしまう。ふと思い出しても再び行く心を失っている。
やがて爪先へ黒いものが溜《たま》り、手の甲が汚れてくるころ、われながら穢《きた》ないと思い、やむをえず近所の風呂屋へまで出かける。行って見ると即ちよく来たことだと思う。
中でも、最も入浴を怠《おこた》ったのはフランスにいた時である。勿論私の下宿には湯殿があるにはあったが、それをたてさせるためには、またわからない言葉を何か喋《しゃべ》らねばならぬのも億劫《おっくう》の種であるので、とうとう一ケ月以上も入浴をしない事は稀《めず》らしくはなかった。殊に南仏カアニュにいた時などはその村に一軒の湯屋もなく私の宿にも湯殿はなかった。女中に訊ねて見ると、この村では一生風呂へ入らぬものが多いといっていた。その女中自身もまだ風呂の味は知らないらしかった。私は半月に一度くらいはヴァンスから来る乗合自動車で二十分を費《ついや》してニースの町まで出かけたものだった。そこには二、三軒の湯屋があった。汗の乾かぬうちに、シャツと洋服とオーバーを着て、ちょっとの用達《ようた》しと散歩をして帰るのであるが、途中で湯冷《ゆざ》めがして、全身の皮が一枚|剥落《はくらく》してしまったくらいの寒さを感じたものであった。
私は入浴をうるさがるが、しかし風呂の味は厭ではない。殊に町の風呂屋は、町内浮世の混浴であるがために、その味は殊に深いものがある。
私は思いついた時勝負で風呂へ飛んで行くので、朝風呂、昼、夜の仕舞《しまい》風呂の差別がない。朝風呂にはさも朝風呂らしい男が大勢来ているし、昼には昼の顔があり、夜は丁稚《でっち》、小僧、番頭、職人の類が私のいた島之内では多かった。
何杯も何杯も、頭から水をかぶって、遠慮なく飛沫《ひまつ》を周囲へ飛ばせ、謡曲らしきものをうなりながら自由体操を行うところの脂《あぶら》ぎった男などは、朝風呂に多いのである。何か見覚えのあるおやじ[#「おやじ」に傍点]だと思って考えると、それが文楽の人形使いであったり、落語家であったり、役者であったりする。
今は故人となった桂文団治《かつらぶんだんじ》なども、そのつるつる頭を薬湯へ浮かばせていたものであった。私の驚いたことには、彼の背には一面の桜と花札が散らしてあった。その素晴らしく美しい入墨が足にまで及んでいた。噂《うわさ》によると四十幾枚の札は背に、残る二枚の札は両足の裏に描かれてあるのだということである。その桜には朱がちりばめてあり、私の見た入墨の中で殊に美しいものの一つであり、その味は末期の浮世絵であり、ガラス絵の味さえあった。まず下手《げて》ものの味でもある。それは文団治皮として保存したいものである逸品だったがどうもこれだけは蒐集する気にはなれない。私はいつか衛生博覧会だったか何かで有名な女賊の皮を見た事があったが、随分美しいもので感心はしたが、入墨も皮になってしまっては如何にも血色がよくないので困る。
文団治は高座から、俺《おれ》の話が今時の客に解《わか》るものかといって、客と屡次《しばしば》喧嘩をして、話を途中でやめて引下った事を私は覚えているので、この入墨を見た時、なるほどと思った。
しかし、彼の話は高慢ちきで多少の不愉快さはあったようだが、私はその芸に対する落語家らしい彼の執着と意気に対して、随分愛好していたものだった。近ごろはだんだん落語家がその芸に対する執着を失いつつあるごとく思える。勿論、本当の大阪落語を聴こうとする肝腎《かんじん》の客が消滅しつつあることは重大な淋《さび》しさである。
太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑《のどか》なことである。
しかしながら、私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢《あか》と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃《じんあい》と黴菌《ばいきん》とのポタージュである。穢ないといえば穢ないが、その触感は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている。その混雑は私にとって不愉快だが、私の頭の上に他人の尻の大写しが重ねられたりする事も風情ある出来事である。そしてそれらは西洋人にはちょっと諒解出来難い風情《ふぜい》である。
昔、私は一度それは田舎の風呂屋で、甚だ赤面したことを覚えている。美校を出て間もないころだった。私たち三人のものが、仕事をしまうと汗を流しに毎日出かけたものだった。男湯と女湯との境界に跨《またが》って共同の水槽があった。私は何気なくその水面を眺めながら洗っていると、そこへゆらゆらと美女の倒影がいくつもいくつも現われるのであった。私は友人を招いて水面を指した、彼はなるほどといってまた他を招いた、三人は折重って倒影の去来を楽しむのであったが、時々水を汲《く》む奴があるので美女は破れて皺が寄るのであった。漸《ようや》くにして波静まると思えば倒影は立ち去って無色透明であったりした。私たちは毎日水槽の一等席を争ったものだったが、数日の後、水槽の真中に一枚の板が張られていた。おや、変なことになったと三人が思っている時、うしろから三助が旦那、あまり覗《のぞ》かぬように頼んまっせ、あんたらの顔も向う側へよう映《うつ》ってまっさかいと注意した。なるほどわれわれはうっかりしていた。
われわれはアトリエにあって、静物のトマトや、器物と同等において裸女を描き、毎日の如く仕事をし、馴《な》れ切っているにかかわらず、見るべからざる場所でちらちらするものに対して、あさましくも誘惑を感じるのである。
洋装の極端に短い裾《すそ》や、海水着から出た両足は、ただ美しい両足であるに過ぎないが、芸妓や娘の長い裾に風が当る時、電車のつり革から女の腕がぶら下る時、多くの男は悩みを感じることが多いように思えるのである。
近来、私は郊外に住んでいるために、風呂は家の五右衛門風呂をたてている。家にあれば風呂も億劫ではない。私は毎日の湯を楽しむようになってしまった。
春夏秋冬、風呂は人間が生きている間の最も安価にして、しかも重大な幸福の一つだろうと考えている。しかし近ごろは浮世の混浴から遠ざかっている事を遺憾に思っているが、といってわざわざ電車に乗って、大阪へ入湯に行くという事は、今もなお億劫である。
歪んだ寝顔
昆虫の顔は皆ことごとく揃えの顔とわれわれには見える。蜻蛉の顔、蝉の顔などちょっと顔だけ見ていては、あの蜻蛉とこの蜻蛉との区別がつかない。均一でその代り不出来な顔もない。皆ことごとくが十人なみの美人で揃っている。そしてその形は皆ことごとく正しく機械的に整頓している。
猫や犬の顔もその機械的正確さにおいては変わりはない。しかし昆虫や鯛の如く皆ことごとく均一の顔はしていない。うちの猫とお隣の猫とは一見して区別が出来る。しかし私はいつも感心していることは昆虫、犬、猫、虎、猿の類にして出歯で困っているものや、鼻がぴっしゃんこで穴だけであったり、常に口をぼんやりと開けていたりするもののないことである。
まったく動物や昆虫の類で口の収まりの悪いものはいない。西洋でもあまり口の締りの悪いのや歯並みの乱れて飛出したものを見なかったが、もっともわれわれは多くの日本人にのみ接しているがためかどうか知らないが、とくに日本人の口もとに締りのよくないのが多くはないかと思う。私も実は口の辺りの不完全な構造によって常に悩まされている。
出歯の犬、出歯の猫、口の締らない虎、などあまり見たことがない。したがってその寝顔も、人間の寝顔においてもっとも不完全さを発見することがある。整然として正確な鳥の寝顔、猫の寝顔に私は清潔な美しさを感じる。そして汽車、電車の中で居眠る人間の顔がなぜ不正確で歪みがあるのかを少し情けなく思うことである。
朝起きて犬は口中を洗わないが歯糞がたまることもない。人間は歯糞、鼻糞、鼻汁等を排泄すること多量であるがために朝は必ず大掃除をせねばならぬ。かくも相当厄介な構造になっているのはどんなわけからか。どうも私はまだよく飲み込めないのだ。誰か詳しい専門家に会ったら訊ねてみたいと思っている。とにかく寝顔の美しいのは優秀な美人の特質と昔から日本ではきめられているのをみても、なかなか素晴らしき寝顔というものはざらにはないものとみえる。
蟋蟀《こおろぎ》の箱
今、秋となって、私の画室の周囲にあらゆる虫が鳴いている。その中には蟋蟀《こおろぎ》も鳴いている。この蟋蟀という奴が私に辛《つら》い思いをさせた事があるのだ。私は蟋蟀の声を聴くときっとそれを思い出すのである。
私が小学校へ通っている時分だった。私の家のあった堺筋《さかいすじ》は、今こそ、上海《シャンハイ》位いの騒々しさとなってしまったが、その頃はまだ大阪に電車さえもなかった時代だ。ちょっと裏手へ入るとかなりの草むらや空地《あきち》が沢山にあったものだ。私の家の向いにも土蔵と土蔵との間に湿っぽい空地があって、陽気不足の情けない雑草が茂り、石ころと瓦《かわら》のかけらが、ごろごろと積まれてあった。
秋になると、そこには蟋蟀が鳴くのであった。私は学校から帰ると私の友達と共にこの空地へ這入《はい》ってじめじめした石ころや瓦を持ち上げて、その下から飛出す蟋蟀を捉《とら》えるのが何よりの楽しみだった。
初めは石鹸《せっけん》の空箱へ雑草を入れ、その中へ捉えた蟋蟀をつめ込んだ。私たちは学校から帰るとその箱をそっとあけて見るのだ。すると、萎《しな》びた雑草の中から蟋蟀のつるつるした頭と髭《ひげ》が動いているのを見て、何んともいえず可愛くて堪《たま》らなかった。
私は何んとかして、も少しいい住宅を彼らのために作ってやりたいと思い、私は手頃《てごろ》なボール箱を持ち出して、その中をあたかもビルディングの如く、厚紙で五階に仕切り、沢山の部屋を作り階段をつけ、各部屋への通路には勿論《もちろん》入口を設け、窓を作り、空気の流通もよくしてやった。然《しか》る後、私は大切の蟋蟀を悉《ことごと》くそのビルディングの中へ収容して見た。すると二階で髭を動かしている奴があり、三階の窓から頭を出している奴がおり、五階の入口からお尻《しり》の毛を出している奴がいたりするのであった。
私は彼らを無理矢理に階段を昇《のぼ》らせて見たりして楽しんだ。
夜になると、ビルディングの彼らはそろそろ鳴き出すのであったが、どうも市中で蟋蟀が鳴くのは、多く下水道とか、空家《あきや》の庭とか、土蔵の裏とかに限るようだから、私の座敷は妙に空家臭くなるのであった。父はそれを厭《いや》がって早く逃がしてしまえといった。
父はかなりの虫好きで、秋になると、松虫、鈴虫、といったものを買って来て、上等の籠《かご》へ入れて楽しんでいたが、どうも私の蟋蟀には全く理解がなかった。むしろ不吉なものだと思っているらしかった。
ところで私の作ったビルディングは、どうも虫の生活には不適当だと見えて、日々かなりの死者を出すのであった。
これではならぬと思い、私は考えた末、これを私の前栽《せんざい》へ解放してやろうと思った。前栽には大きな石が積み重ねてあり、その上には稲荷《いなり》様が祀《まつ》ってあった。私はこの石崖《いしがけ》こそは自然のビルディングだと思ったから、私は早速彼らをこの石崖へ撒《ま》き散らしてしまったのであった。二、三十匹は確かにいたはずだ。
その夜、彼らは一斉に、元気に、鳴き出した。
すると、肝腎の鈴虫や、朝すずの声は蹴落《けおと》されてしまった上、前栽は完全に空家の感じを出してしまった。でも私は、内心かなり得意なつもりで寝たものだ。ところへ父が帰って来た。そしてなぜこう一時に蟋蟀が鳴き出したのかといって大そう驚いた。母も察する処、楢重《ならしげ》の所業だとにらんだらしい。多分昼の間に逃がしたんだすやろ[#「多分昼の間に逃がしたんだすやろ」に傍点]といった。私は忽《たちま》ち恐縮を感じたが、もう如何《いか》んともする術《すべ》はなかった。仕方がないので寝たふりをしていると、父は一人で庭へカンテラを持ち出して、石崖の間を狙《ねら》っているのだ。弱った事になって来たと思っていると果して、私はゆり起された。楢重、ちょっと来いお前やろ、さあこの虫を皆|退治《たいじ》てしまえといい渡された。ねむい眼で石崖の穴を覗いて見たが何も見えなかったが、なるほど、合唱隊は随分騒いでいる。
私はそれからおおよそ一週間というもの、毎晩の如く石崖の前へ立たせられた。私は棒を握ってカンテラの火で虫を呼びよせて見た。そして石崖の間に私の愛する彼らのツルツル頭を発見すると同時に、私は棒でたたき潰《つぶ》さねばならなかった。
だが、このビルディングの奥深く這入《はい》り込んだ蟋蟀は容易に出て来てはくれなかった。喧《やか》ましゅうて寝られんやないか[#「ましゅうて寝られんやないか」に傍点]と父が怒る度《た》びに、私は全く、蟋蟀が自殺をしてくれたらいいと思った。結局、石崖を取毀《とりこぼ》たない限りは完全な退治は出来難い事になってしまった。
私は、以来、蟋蟀の声を聴く度びにその時の情なさを思い出す。そしてその頃の堺筋の情景を思い出す。あの家も既に売払ってから十年近くなる。今は何かハイカラな洋館と化けてしまっている。勿論、あの前栽も石崖もなくなったであろう。しかし、あの蟋蟀の子孫は、まだ、裏の下水のあたりで鳴いているにちがいないと思う。
迷惑なる奇蹟
私は常に静物を描くために野菜や果物を眺め、あるいは人間の顔や裸女を観て暮している。それでは野菜や美人の選択はよほど上手かというと、案外うまくないように思う。日本一の美人は誰ですかと聞かれたら早速に返事は出来ないのである。
私達は一番いいというものを探しているのでは決してないので、手当たりしだいの手近なものに美しさを認めている。そして第一その野菜なり美人なりを食べようとは思わない。大概の場合その静物が絵となってしまうころは野菜は萎びてしまい果実は腐りかかっているから、皆そのまま芥溜めへ捨ててしまう。モデルは腐らない代りに、金を受け取るとすぐアトリエから去ってしまう。
裸女や野菜を私達は眺めているが、それを一々細君として見たり、毎日のおかずとはしない。したがって私達はそれらのモティフに対して、非常に自由な選択が許されている。
あまりに自由であるから、かえってまごつくのである。だから私達の前へ十人の美人の写真を並べてどれを細君にしたらよいか、どれと恋愛をしたら間違いがないかを鑑定してくれと注文したら、案外一番妙なものをつかみ出すかも知れない。
AはAとして、BはBとして、CはCとして面白い、これはこれとしてあれはあれとして面白いと思うから結局どれが日本一だかさっぱり判らなくなってしまう。その点、女色を漁る色魔とか、食物を極端に味わうところの悪食家の心にも似ている。
何事によらず素人というものは日本一を要求する。日本一の風景はどこですかと訊く。日本三景何々八景というものを考えてみたりする。美人投票一等当選というものを嫁にほしいといって両親を困らせる息子もある。
世界一の音楽家を定めようとするし、世界一の絵描きさんは誰ですかと訊く人も多い。これでは世の中では、女は常にただ一人だけが看板として要求される筈である。
その結果かも知れないが、ショーウィンドの飾り人形の顔を見ると、皆均一の顔である。そしてその顔は、昔一番有名であってかつ面白味のなかった名妓何々の顔をそのまま拝借してあるようだ。
それでは日本人は皆芸妓何々に似た女と結婚しているかというと、なかなかそうでない。あらゆる変化あるものを同伴している。
しかしながら無理の通せる財産家の極道息子が結婚する時などはしばしばあれでないこれでない、やはり何となくあの妓に似ているという点でようやく承知したりする。要するに、名妓何々のイミタシオンを買ってしまう。
現代ではすでに名妓は廃れてしまいその代り活動女優とか西洋もののフィルムの中にその第一番を求めようとするようだ。
ある素人の美術通などという男の説によると、日本の女の裸体は見ていられない。裸体は西洋人に限るそうだ。なるほど整頓していることは西洋人に限るかも知れないが、整頓しているものが必ずいい味を持っているとは限らない。不整頓な街景が整頓した街よりも絵になることがある。私などは日本婦人の味を西洋人の味よりも深いと思うことさえある。
おかしいことには、その美術通でさえも、丸くて小さい代表的日本婦人とともに仲よく散歩しているのであるからやはり何かひそかに、味は感じているのかも知れない。
ところで人はみな日本一、世界一を考えているのでまず無事なのだ。もし芸術を作らない普通の人が、何に限らず食べたがる普通人が、あらゆる女に対してそれ相当の興味を感じ出したり、手当たり次第に食慾を感じたりしてくれては無数の色魔が現れて危険だ。
まず何とかかとかいいながらも、あり合わせたところのものを自然から恵まれ、身分相応の恋愛をするにいたり、そしてそれが日本一に見えてくる仕掛けになっているらしいところでちょうど安全である。
ところで世には悪食家というものがあって、まず普通人間が食うべからざるものでも食ってみたりして喜ぶ道楽者がある。最近に聞いた話によると、ある人は蝿の頭を集めて食べてみたという。そして[#「そして」は底本では「そしして」]下痢を起こした。まずいろいろと食べてみたがこんなまずいものはなかったということだ。
悪食家というものは、食慾界の色魔ではないかと思う。われわれ画家は美に対しては多少の色魔となっているかも知れない。ちょっと食えないものでも食っている。そして貧乏に苦しみながら一代を好色に費やしてなお足りないという次第となっている。
だがしかし芸術上の食慾は猫を殺したり、蝿の頭を集めたり、女を食べてしまったり、要するに、左様な殺生や、他人を不幸に陥れたりは決してしないつもりである。本当の仏性とはこのことかと自ら考えるくらいあらゆるものを敬い過ぎるようである。悪食家でさえも自分の責任は自分で背負って立って行くものだ。例えば下痢をするとか、あるいは中毒して死んでしまうとか。
すると何といっても好色という悪食家が一番いけないことになる。色魔というものは自分の責任を負わないからいけない。責任を全うする色魔というものがあったとしたら、それは決して色魔ではない。
私の知っているある名誉職という老人にして女中専門という悪食家があったが、食べる方はいいとして食べられるものこそ災難だ。
ある時も[#「時も」は底本では「時」]午後三時ごろだというのに、お茶屋の女中を貸席へこの老人が引張り込もうとしていたそうだ。女中は大阪へ最近出たばかりのものだった。そして決して美しいものではなかったが、悪食家にとってはいいモティフであったに違いない。
彼女は一生懸命道端の電柱へしがみついていたそうだ。あまり強情であるところから、その貸席の仲居が走って来て、なあ[#「なあ」は底本では「なお」]ほかの人ではないのやさかい、いいはることは聞いときなはれ、ためにならんといって、とうとう二階へ押し上げたということだった。
彼女はしかる後、老人から金子三円を頂戴に及び、その中の半分は貯金にしておけよといい渡されたそうだ。
でも一円五〇銭の貯えが出来るということはまだ幸福な方かも知れない。
時には銀行も預かってくれない因果の種を宿してみたりする。
因果の種を生んで幸福を感じた女というものはあまりたくさんはあるまい。でもまだ生む方はいいとして、生み出された因果の種自身にとっては大した迷惑である。
大体、母体の中へ初めて現れてみた時、誰一人として悦んでくれたものがなかったということは実に憐れにも張合いのないことだと思う。それは、仁木弾正が花道の穴から煙とともにせり上がってみた時、見物人が皆居眠っていたというよりも、もっと張合いのないことである。
喜んでくれるどころか、如何にしてこの種を消滅させようかとさえ考えられたりすることがあっては、一人前の魂を持ったものにとっては癪に障ることである。この様子を腹の中で聞いただけでも、まず因果の種はひねくれざるを得ないではないか。
もし、私だったら母体を破って流れ出してやるかも知れない。
私の知っているAという女がある悪食家に食べられた話がある。
私は妙なめぐり合わせで、昔から変なものばかりに好意を持たれたものである。以前私は怪説絹布団という話を書いたことがある。それは六十幾歳で草履の裏のような顔に白粉をべったりと塗った婆さんに大変な好意を示された話である。
私は自分の仕事の性質上、随分悪食家となってはいるけれども、食慾や色慾に対しては決して悪食にまで進んではいないつもりでいる。
だから私は、左様な奇怪な婆さんを好きには決してなれなかったのだ。
ところでこのAという女は六十歳ではなかった。当時多分十九か二十歳位だったと記憶する。年齢だけ聞くと、さも好意が持てそうに思われるかも知れないが、本当は持てないのだ。
それが当分の間、手伝いのために田舎から私の家に来ていたことがあった。私はそのころ中学の五年生位だったと思う。現代のモダンボーイから見たらむしろ馬鹿に近かったかも知れない位遅れたぼんぼんに過ぎなかった。
そんなわけで、私は彼女を台所の諸道具類と別段の区別もつけてもいなかった。火鉢と天窓と水道と雑巾と彼女であった。
ところがいつからともなく彼女は、私の両親や人のいない時に限って私の前へいやに立って見せるようになって来た。初めのうちは何のことかわからなかったが、あまりたびたび立って多少の[#「多少の」は底本にはなし]笑いをさえ含むので、何となく不気味でうるさくなって来た。そしてだんだんうすぼんやりとそのわけが判って来た。わけが判って来ると堪らなく嫌になって来た。
とうとう私は我慢が出来ないので、母に訴えた。どうもAがつきまとって堪らない。裏へ行くと裏へ来る、表へ行けば表へ来る、二階へ上がれば二階へ現れる、そしてにやにやと笑って困るから何とか一つ叱ってくれと注文した。母も半分は笑いながらもちょっと驚いた風で、早速世話をしたところのAの姉を呼んで話した。
まあ、あの子が、そんな阿呆なことをしますのんか、まあそうでっか、一ぺん叱ってやりますといった。
それからAはあまり私の前へ立たなくなったけれども、ときどき私を見るその眼が以前よりも物凄くなってしまった。
彼女の実家というのは大阪近在のある貧乏寺だった。するとある時報恩講が勤まるからといって五、六日暇をとって帰って行った。その不在中こそせいせいしたことを覚えている。
五、六日後、彼女は再び私の家庭へ現れた。ところがAは不思議にも、じろじろ私を以前の如く眺めなくなってしまった。その代り彼女は何だか遠くの空気ばかり眺め出した。
ある日、車屋が彼女への手紙を持って来た。以来たびたび持って来るようになった。そのたびに彼女はふらふらと暴風の日の煙の如く出て行くのであった。
やがてある[#「ある」は底本では「ある日」]一日、再び手紙によって誘い出された彼女は、とうとう夜になっても帰らず翌朝になっても帰らず、ようやくその夕暮時、ふぬけた煙となって帰って来た。この煙は一日一晩、どこを迷うて何をして来たかということは、どんな素人にもほぼ見当のつくことであった。
彼女は一晩中寝ずに心配した姉と姉の亭主とそのことで驚いて田舎から駆けつけた僧侶である彼女の兄とに責められて、とうとうある男との関係を白状してしまった。ある男はやはり寺の坊主だった。しかも最近のあいびきの夜は、満腹して寝そべった坊主のいうのに、実は俺には許嫁があるのでそれがなかなかの別嬪で、とてもお前のようなもの足元へも寄れん。お前の手を見てみい、亀の甲みたいやないか、そんなものを嫁にもらえるかい、といったそうだ。
彼女は自分の手を見てなるほどと思ったかも知れない。それだけ余計に腹が立つわけだ。
彼女は夢中でそのままその安宿を飛び出したが実家へはもちろん私の家へも帰ることが出来なかった。同時に彼女は彼女の体内にひそんでいるかも知れないところの坊主の血を感じたりするともう帰るべき家はこの世の中では機関車の下か、松の枝より他には見当たらなかった。
彼女は本当に煙の如く市中をうつらうつらと歩き廻り、それから鉄道線路に沿うてあるいてみたが結局魂だけは線路へ一時預けとして彼女の抜殻だけが私の家へ帰って来たのであった。
そこで姉や兄はその抜殻を叱りつけて、田舎の寺へ連れて帰ってしまった。連れて帰ったものの、よほど注意しなければこの抜殻はいつ魂のもとへ帰ってしまうかも知れない様子なのであった。
四、五日経ったある日、いつもの如く本堂で兄は夕べの勤行をしていた時、いつもの如く彼女もその後ろに坐っていた。灯明が木魚や欄間の天人を照らしていた。しばらくするうちに何だか兄は後ろの方が変にひっそりとするのを感じたのでお経を読みながら、ふと振返ってみると彼女がいない。いなくなっているのに別段不思議はないわけだが、そのいなくなったあとには不思議な空洞が残されていたのだ。すると心の底に棲む虫が急に騒ぎ始めたのである。
兄は立ち上がって庫裡を覗いたが真暗だった。妻に訊いても知らぬといった。そこで彼女の下駄を調べてみたらそれがなくなっていた。兄はともかく提灯を携げて飛び出し、夢中で街道を走ってみた。
十町程行くと鉄道の踏切がある。
その踏切へ差しかかる四、五間手前のところにセルロイドの櫛が一つ落ちていた。それから黒い血らしいものと砂にまみれた髪の毛の一束[#「一束」は底本では「束」]が乱れていた。
兄はこの静物を見ると同時に坐ってしまった。腰が抜けるということはほんまにあることだす[#「だす」は底本では「だ」]と彼は後に話していた。
これではいけないと思って無理から立ち上がり慄えながら線路を探し廻ったが、不思議にも肝腎の死体がなかった。
ちょうどそこへ村人が通り合わせて、彼はAを今駅の構内へ運んだから、早く行ってやれ、まだ虫の息はあるようだからと知らせてくれた。
H駅のうす暗い八角形のランプはいつも蜘蛛の巣で取り巻かれている。その下のうす暗い片隅の蓆の上に彼女は寝かされていた、兄が行った時、眼を開いて何かいうのである。おそるおそる近寄ってみると彼女は片手両足を失い至極簡単なる胴体となってしまっていた。
彼女の愛人から亀の甲だと呼ばれた彼女の大切なその手はどこへ落として来たものか影も形もなくなっていた。
集まって来た駅の人達も村人も、もうあかんなといっているし、警察の人も警察医も、もうあかんといった。兄ももうあかんと考えた。
兄は電報で、彼女の姉とその亭主を呼んだので彼らは終列車で到着した。姉は蓆の上で無残なる胴体と化けている妹を見て泣いた。しかしその胴体はしきりに水を要求している。そしてその色魔坊主を取り殺すと叫んでいる[#「叫んでいる」は底本では「呼んでいる」]。
しかしどうせもうあかんものなら病院へ入れることは無駄なことでもあるし、費用という点も至極考えねばならぬことだしするのでとりあえずまあ[#「まあ」は底本にはなし]家へ運んで置いたらよろしいやろ、どうせあすの朝までだすさかいということに話がきまった。
彼女は最後の一夜を玄関[#「玄関」は底本では「玄間」]の庭の片隅へ蓆を敷いて寝かされ呻き通した。一族は何が何であろうとも、まず一杯飲まねば助からぬということになり座敷では相談がてらの酒宴が開かれた。皆がもう朝までのことだといってその手筈をきめたにかかわらず、死骸となり切れないのが彼女自身である。蓆の上でだんだん意識がはっきりとしてくるのであった。
翌朝、彼女はお粥が食べたいといい出した。ある男はひそかにああそれがいかん、変が来る前にはたべたがるものだすと鑑定した。
しかし彼女はお粥が大変うまかったといって喜んだだけで、一向変調な顔をしないのみか多少以前より喋り出して来たものだ。その喋るというのがまたおかしいとまだ未練を残す者もあった。
何かの故障で芝居の幕がしまり損ねた如く、多少間が抜けたので医者を呼んだところ、医者もこんなはずはないのだが、おかしいといった。しかしまず九分九厘まではといって帰ってしまった。
その九分九厘という胴体がまた、昼めしがたべたいといい出し、晩めしも食うといい出した。
また医者に相談したが医者といえども幕の故障をいかんともすることが出来なかった。
それでは病院へでも入れますかということになって、とうとう一族の間には相談のやり直しが始まりその翌朝、大阪まで急いで行くことになった。完全に間が抜けてしまった切りである。
病院で彼女は、改めて片手と両足の骨を正気のまま鋸で切断された。医者が痛いかと訊いたらちょっと痛いと答えたそうだ。しかし医者はこれで発熱すると多分もういけないでしょうといった。もうそろそろ熱が出るのかと思っていると熱が出ないのだ。
翌朝になって彼女はまたお粥をたべた。医者はまったくこれは奇蹟です、こんな経過はめったにないことだといって感心して、安心なさいもう大丈夫ですといった。これでとうとう幕は完全にしまらぬことときまったが、それにつけても一族の胸へつかえることはこれからさきの入院料や手術代それからさきの幕のない女一代の長さであった。
次の間で一族はなぜこんな不思議なことがあるのやろかといって、まったくこの結構な[#「結構な」は底本にはなし]奇蹟に対して迷惑そうな顔をした。
奇蹟といえばアメリカ映画の活劇や猛闘を見ると奇蹟だらけである、もうあれだけの谷底へ自動車もろとも墜ちたのだから多分助かるまいと思っていると、案外平気な顔で何度でも起き上がって来る主役がある。
七度生まれて何とかするという言語はアメリカではありふれて役に立たないだろう。
私はそのころ流行していた軍歌の一節、死すべき時に死せざればという文句を思い出した。遠足などでただ何となく歌っていたものだが、なるほどあれはこのことかも知れない、と思ったことであった。
やがて彼女は完全な亀の甲となって退院したが以来、はかなきその一生を棒となった片手に環をはめて、それへ糸を通し残された右手をもって糸車を廻しているという。
それから彼女を食べた悪食坊主であるが彼は自殺のあった翌日から行方不明となってしまったそうである。坊主は亀を食べて中毒した。
[#地から1字上げ](「週刊朝日」昭和二年九月)
酒がのめない話
ある初夏の頃だった、私は誘われて戸山ヶ原へ出た。一人の友人はポケットにコップを用意し、も一人はビールを携げていた。五月の陽光は原っぱの隅々から私たちの懐中から、シャツの中まで満ちてしまい、ある温《ぬ》くさがわけのわからぬ悩ましさを感ぜしめ、のどを渇かさしめ、だるく疲らしてくれた。そこでわれわれは何か素晴らしいものが欲しいようなさもしいような感情を抱きつつ草むらの匂いを吸いながら寝ころんで青空を眺めたものだった。
友人はビールをうまそうに飲みはじめた。私は実は一滴の酒も飲めないのだ。アルコールは私の心臓にとっては猫いらずであった。でも私はあらゆる酒の味を他の何物よりも好むのだからまったく私は難儀な境遇にあるといっていい。私はのどを渇かしつつ羨ましくそれらを眺めていたものだから、友人は、まあビールのことだ、一杯位はいいだろうといって私のためにコップを捧げてくれたので、あまりの羨ましさに、ついがぶがぶと飲んでしまったものだ。まったくそんなことは、かつてしたことはなかったが、するとやがて猫いらずは私の頭と顔と血脈とを真赤に染め出し、私の心臓を急行列車のピストンの如く急がせてしまったのであるが、わずか一杯のビールで苦しむのはさも男らしくないようだから、つとめて平静な顔をして雲を眺めていたところ、その急速なピストンが逆にすこぶる緩漫になったと思うと、急に五月の天地が地獄の暗黒と変じて来た。私はこれがわがなつかしき地球の見おさめかと感じた。
友人は私の足を持って私を逆さにぶら下げたり仁丹を口へ押し込んだりした。二、三分の間私は草葉のかげへ横たわってから目が醒めた。まさかビールがこんなことになるとは友人も私も思いがけなかったことだった。その友人の一人はこの間死んだ帝展の遠山五郎君だが、私達が十幾年ぶりでパリで出会った時、彼もまたそのことを記憶していて思い出話をしたことである。そのかなり頑健そうであった彼がすこぶるたよりない私よりさきへ死んで行くとは思えなかった。
私は左様に酒がのめないのだが、しかし、酒がのめたらどれ位この世の幸福が多いことかと思い羨んでいる。もちろん、のめないが故にどれだけの幸いがあるのか、それはよくわからないけれども多分それは細君がうるさがらないことであり、修身学的には結構なことでもあり、他人に迷惑を及ぼさないことでもあろう。
しかし私は酒による恍惚境とその色彩と、その雰囲気と、その匂いと、その複雑にして深味ある味は何物にも求め得ない宝玉の水だと思っている。私は常にそれをちょっとなめさせてもらうだけで一生涯満足せねばならぬ。
花の頃の日曜や祭日等、私は遠足や郊外への散歩等を好まない。子供のつき合いで止むを得ない限りはなるべく出ないことにしている。あの電車や汽車の混雑も嫌だが、ことに泥酔者がうるさくて堪らない。
泥酔者は電車の中で嘔吐を吐く、電車のみでなく道路でさえ陽春にはどれ位多くの嘔吐が一夜に吐き散らされているか知れない。そしてそれを見ると彼等が今まで何をたべ何をしていたかが想像出来るからなおさら堪らない不潔さを感じる。
よき日和であり日曜であれば、人間の機嫌はよろしい。まず家族づれの清遊を試みようとして出かけたりするが、その途中で泥酔者が電車に乗り合わせたりすると私の機嫌など消滅してしまい、不潔な一日を得て帰ることも多い。
そこで私は外出や行楽は必ず日曜祭日以外においてすることにきめている。そして花時や祭日は家に籠居してもって楽しみとする。
しかしながら私がもし酒がのめたとしたら、私もまた泥酔してなるべく雑言を吐き散らし、迷惑を他人に及ぼし喧嘩をなし、常々嫌だと思う奴の頭を撲りつけ、乱暴を働き騒ぎ廻ってみたいと考えている。酔えるものは、こら馬鹿めといったところで酔っているからということで相すむけれども、私の如く常に醒めているものが誰かに馬鹿めといったら、その馬鹿は一生涯消え失せない馬鹿となる。酒は都合よきごま化し薬であると思う。あらゆることをごま化すのみでなく自分自身の心をごま化し、もって心を転化させることさえ出来る。
ごま化すといえば、煙草だってそうである。一時の疲れた神経をごま化し、人と自分との対話の間にあっては煙幕を張って、あるてれくささをごま化し、話と話の空間をふさぐのに適当である。
酒も煙草ものめない私は、常に常であるところから悩みは悩みの上へ重なり、疲れは疲れの上に堆積するばかりである。
時にコーヒーと餅菓子とケーキをもって心気を爽やかにすることは胃散の用意なくては出来難い。しかる後、心に積る悩みは固まって憂鬱となるおそれがある。
私はまったく酒によって心よき前後不覚の味を得てみたいと思う。あるいはまったく酒なき世界が現れてほしいものだと考えることもある。飲める者とのめない者とがこの世に共存するのは情けない。しかしながら酒なき食卓は火の気なき火鉢ではある。
因果の種
誰も同じことかも知れないが、どうも私はほんのちょっとした絵を仕上げる場合でも必ずそれ相当の難産をする。
楽しく安らかに玉のような子供を産み落としたという例は、皆目ないのである。
その難産を通り越すか越さないかが一番の問題である。越せばとにかく絵は生まれる。越さない時は死か流産か、あるいはてこずりとかいうものである。
難産が習慣となっている私にとっては、たまに軽い陣痛位で飛び出したりすると、いかにもその作品に自信が持てないのである。情けないことである。
それで難産で苦しんだ時の絵は必ず上等で、玉の如き子供であるかというに、それが決して左様でもない。ただ妙な関係で絡みついてしまって一と思いに殺してしまうわけにも行かないところのものが生まれりなどするのである。
本当のお産だってそうだ。一年間も親は苦しんだ上、命をかけて産み落とした筈のその子は必ず上等であるとはきまっていない。でも自分達夫婦の分身であり、母親は生命をかけた関係上、実は人間よりも狸に近いものであっても、ふとんや綿で包んで大切にしている。
それをわれわれ他人が、ちょっと綿の中を覗いて見ると、全くの狸であり昆虫であり、魚である場合が多いのだから悲しむべきことである。
ことに不具や低能児を抱いている母親の愛情などはまた格別のものであるらしい。
絵だってその通りで、私は三年間をこの作に捧げたとか、私の霊魂を何とかしたとか、私は神を見たとかいうふれ出しだから、一体どんなものが現れたのかと思って見ると実は狸であったり霊魂が狐であったりする場合の方が多いのだ。
もし本当のことばかりを不作法にいう批評家があって、命をかけて抱いているその赤ん坊を一々おや鯛だね、おや狐でいらっしゃいます、お化けかと思ったというて歩いたら、まったくそれは一日も勤まらないところの仕事であるかも知れない。心ではいもむしだと思っても、そこは女らしいとか、まあかわいいとか、天使のようだとか、何とか、都合のいい賛辞でも呈しておかねばならないものなのである。礼儀だから。
ところで私自身、まったく私は命をかけつつ日々の難産をつづけその奇怪なる昆虫を産み落としつつあるのである。そして人間の情けなさは馬鹿な母親の如く、いもむしや狸にも似たわが子の眼玉へ接吻したりなどすることになる。
しかし不幸なことにも接吻しながらも変な顔していやがるなと、心の底では思っている。しかしその子は何かの因縁とか因果の種とかいうべき怖ろしいものだとあきらめていて抱いている。
ところがこの変なものを産み出すための難産には随分の体力が必要である。私が一番情けなく思うのはこの体力の不足である。
ことに油絵というものは西洋人の発明にかかるところの仕事だけあって、精力と体力とで固めて行く芸術だといっていいかと思う位のものである。神経の方は多少鈍くとも油絵の姿だけは出来上がるものだといって差し支えない。
私は日本人全体が西洋人程の体力をもっていないことを認めている。それは性慾や食慾について考えても同様である。
日本人の中でも私などはもっとも体力の貧しい方である。私が徴兵検査の時、体重は十貫目しかなかった。検査官の一番偉い人が十貫目という字と私の顔を見比べて、どうかお大切になさいといって、いの一番で解放してくれたものである。
以来、私はもう死ぬかと思いつつもインド洋を越えてフランスまでも出かけて今なお生きているが生きていることに大して自信をもっていない私が、難産をつづけながら因果の種を抱こうというのであるからこれもまた因果なことである。
世には病身にしてかつ人一倍淫乱だという者がよくあるものだ。私はそれかも知れない。しかしこの行いだけは止めるにも止められない。
その上、文明がまだ中途半端で混沌としているので、西洋画家の生活が殆ど成立っていないから、まったく生活とは無関係であり、勝手な仕事となっており、しかし多情多淫であっては、やがては疲れはてて奇怪なる低能児を抱えたまま行き倒れてしまうのではあるまいかということを、私の虫が知らせてくれるのである。
現に行き倒れつつある多くの先輩を見るに及んで情けなく思う。由来私は政治家の死や何かにあまり悲しみを感じないが、名妓のなれのはてとか、役者、二輪加師、落語家の死、あるいは難産しながら死んで行く画家のことを聞くと本当に心が暗くなる。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和二年九月)
あまり美しくない話
蚤、虱、蝿、蚊、南京虫、何とそれは貧乏臭い虫類であることか。
しかしその中でも蝿と蚊はさほど貧乏の匂いを持っていない。もちろん蝿と蚊は貧乏以外の場所へ遠慮なく出入りすることが、多少許されているからであるかも知れない。そして家の中に蚊がいても、客に対してさほど赤面する必要はないようだが、畳の上を蚤がしきりに飛んでいたり、虱を客へ伝染させたりしてはまったく赤面せずにはいられない。
しかしながら自分の身体のうちに多くの虫を同居させ、養いともに苦労していることを感じていると、蚤や虱も憎めるものではなく、あまりうるさくもないものだ。
私はその貧乏臭い彼らとは相当の馴染を持っていた。多くの彼らと常に馴染んでいるとあまり邪魔にはならないものとなってしまう。そして猫が時々蚤をせせっている如く、人間は猿股を電灯の光で眺めてみたり、乞食や仙人は青葉の下で虱を食べたりする、それは彼らを憎んで食べているのではなく自然を楽しみながら煙草の煙を吸う如く、彼らの一つ一つを捕えて食べているのだと思われる。
南京虫の家に住みて南京虫を忘れ、蚊の中に住みて蚊やり香を焚き、団扇でそよそよと彼らを追うことは、また夏らしき情景を作るためにしている仕事のようである。
貧乏で退屈で希望なくてつまらない時、私は蚊にたべられた場所を掻くことを楽しんだことさえあった。パリの客舎でノスタルジーを感じた時、南京虫のきずあとをいつまでも[#「までも」は底本では「まで」]掻いて長い時間を消したことがあった。
冬のある暖か過ぎる日にはふと一匹の蝿がうなりを立てて飛び廻ることがある。私はその音で冬の寒さを忘れることが出来る。
冬から春へのある季節になると、何という種類の蝿か私にはわからないが、妙に細長く力のない蝿が便所の中へ発生することがある。その蝿は発生すると同時に恋愛を始め、恋愛をつづけながら、しかし少々のことでは離れず重なり合って死んで行くのを見る。まったく猥らな相貌を呈した厭味な蝿である。
私は郊外へ住んでから蚊の多くの種類を知るようになったが、一つだけ私の厭な奴があることをたまに発見する。それはお尻を高射砲の如く突き立てて壁へとまるところのマラリヤ蚊である。私がインド洋航海中同じ部屋にいた人がシンガポールへ上陸した時、その蚊から頂戴して来たマラリヤを発病したのだ。蒸暑いムンスーンのインド洋上で故郷を思いながら四〇度の熱を一日何回となく繰り返すことはまったく気の毒だと私は思ったが、しかし狭い同室で発汗している人があることは、そしてそれがマラリヤであることは私たちを怖れさせた。やがてその人は病室へ送られたが、マルセイユへ上陸出来ず、彼はロンドンまで行くことになった。私は彼からハンカチーフを贈られ私は寝衣の着換えを彼へ進上して別れたことがあった。
私は多くの蚊よりもたった一匹の蚊、一匹の蚤が寝室を荒らすのを怖れる。彼らはまったく私を不眠症にしてしまう。多くの蚊、多数の蚤に対しては度胸がすわってしまうものである。
今自分の家には畳がなく、ベッドによって暮しているために最近蚤の味を忘れてしまっていたが過日、ある旅館で私は近頃珍しく蚤が腰のあたりを噛むのを感じて眠れなかった。
彼らは馴染むと平気となるが、彼らを怖れると重大なものとなって来る。大体近代の文化は病院の手術室の如く、白く明るくガラス張りの中へわれわれ人間の世界を追い込めようとする傾きがある。そしてわれわれは蝿、蚤、蚊、その他あらゆる黴菌から遠ざかり、まったく虫なき世界、蚊なき世界、黴菌なき世界でただ一人人間が完全に清潔に暮すことが出来ることになるかも知れない。その代りその時は、たった一匹の蚤に食べられても人間は殺されてしまうかも知れない。とは思うものの今の時代、われわれの身辺にはなるべく蚊、蚤、蝿はいてくれない方が勝手ながら幸いである。
嫌い
嫌いといえば、私はかつて蜘蛛という随筆を書いたことがある。如何に私がこの世の中で嫌いだということはそれを読んだ人は知ってくれる筈だ。
今や再び嫌いについて考えてみるに、やはりなんといっても私には蜘蛛ほど嫌いなものはないようである。まったく私は蜘蛛だけは胸がドキドキする位の嫌いさである。
この嫌な蜘蛛にもたくさんの種類があるが、私の一番怖ろしく思う種類のものは、その足を拡げると直径四、五寸から五、六寸にいたるものである。胴体がドス黒くて、太くて長い足をノソリノソリと動かすところ、私はとうてい正視するに忍びないのである。情けないことにはこの蜘蛛は多く室内にいて天井や、壁や便所の中を歩き廻るのだから堪らない。いわば同居しているのだから、私にとっては生涯の苦の種だ。
この蜘蛛は主として関西方面に多く、ことに温かい国に多いのだ。紀州や四国辺などには随分どっさりいるらしい。
私がある夏、伊予の道後温泉で高浜虚子氏や朝日の大道鍋平君などとともに四、五日滞在したことがあった。ところがその宿にこの大蜘蛛の多かったことは驚くべきものであった。
初めて座敷へ通った時、私は床の間の上に一匹、天井の壁に二、三匹、大きな奴が控えているのを発見して私はこんなところに永居は出来ないと考えた。
私が二階へ行こうとして階段を登りかかると大きな一匹が下りて来て、ちょうど階段の途中で蜘蛛と私がすれちがったことがあった。私は悲鳴を上げた。蜘蛛はその声に驚いて飛び上がった、それでまた私が夢中になって座敷へ転がり込んだ。
それから私の神経は極度に興奮して、一寸蝿が首筋へとまってさえも私は飛び上がった位だ。私は大道君に頼んで、一つ一つ座蒲団をもって退治してもらった。鍋平朝臣の蜘蛛退治というのはあまり伝説にも見当たらないようだがなかなか手際のいいものだった。私はその死骸を見るに忍びないので、始末のつくまで、庭へ出て待っていたことである。私は道後を思うとすぐ蜘蛛を思い出していけない。
去年の夏は紀州の大崎という片田舎の漁村へ、研究所の夏季講習会があったので生徒とともに出かけてみた。
ところがその宿の便所というのが、そもそも私達が到着したその時から気にかかって堪らないものであった。その夜のことだ、私はどうしても便所へ入る必要に迫られたものであった。もちろん淋しい漁村のことだから、便所に電灯がつく筈もないのだ。その真暗の便所の壁に、どうやら何物かがいそうな気がしてたまらないのであった。そこでとうとう同行の国枝金三さんに、君一つはばかりまでついて来てはくれまいかと頼んでみたものだ。
何がさて、仏性の金三さんだから快く引き受けてくれた。よしよしといいながら提灯を携げてついて来てくれた。なんぞいるかというので、私はちょっと待っててやといいながら尻をまくって便所の隅々を見廻した。すると予感というものはまったくおそろしいもので、大きな奴がしかも二匹、目玉が燐光を放って物凄いのだ。
君、いるいるといって私は往来へ逃げ出した。暫時、金三さんはドタンバタンと便所の中で一人立廻りをやっていたが、やがて小出君、安心しいや、もう二つとも殺したという声がした。私はその時位金三さんの親切が身に沁み込んだことはなかった。しかしながらこんな仏性の人に二匹まで殺生をさせたことを大変相すまぬと思って今に気にかかっているのである。
そんなに嫌いな蜘蛛をば種に使って私は子供の時分、よく大人を欺したことがある。私は画用紙へその大蜘蛛の姿を墨で描いて、鋏で切り抜くのであった。切り抜いてみると、自分で今切り抜いた筈のその絵の蜘蛛が、心もち悪くて自分で掴めない位なものである。それを我慢しながら、その八本の足の先端へ糊をつけて暗い壁へ貼付けるのである。すると胴体だけが少し浮き上がってちょっと見ると本ものに見えるのである。しかる後、私はさァ皆来てくれ、くもやくもやと騒ぎ廻るのだ。
ある時蜘蛛を生捕りにすることを自慢のおやじが近所にいた、おやじは早速団扇と篩とを持ってやって来て、さあ見なはれや、今生捕りまっさかいといいながらその紙の蜘蛛へ一生懸命篩を被せているのであった。ところが足が糊づけだから、なかなか蜘蛛は動かないのだ。何度被せてみても元の如くちゃんと壁に噛みついているのである。さすがのおやじも少し不気味に思えたとみえて、これはおかしいぞといって少し蒼くなった。見物していた皆のものも少し変な顔をした。おやじはとうとう団扇でくもをなぐりつけたものだ。すなわち紙の蜘蛛はヒラヒラと散って来た。裏は真白だったからおやじは怒った。もこれからは、ほんまにぼんぼん蜘蛛が出たかて、取ったれへんぞといって帰ってしまった。そして学校で教わった狼の話を私は思い出してはなはだすまないと思ったことがある。
五月の風景
私は冬中をば冬眠中の蜘蛛の如く縮み上がって暮す。そして冬眠中に出来そうな仕事、例えばストーブの側で裸女を描くとか、あるいは公設市場で蔬菜静物を買い込んで来てテーブルへ並べてみるとか、あるいは子供の流感に喫驚して代診の如く体温計を持って走ってみたりなどするのである。
ところでいくら神様が造ったと称する不思議にも立派な裸女や蔬菜静物といえども、毎日毎日眺めていると食べものと同じく飽きるものである。ああ、またカボチャかと思う。こうなってはもはや、何事もおしまいである。早く春になれと思う。新鮮な風景を早く描きに出たいと考える。それで私は人一倍春を待つのである。
大体春というものはいじけているものを伸上がらせるものである。私が春に会うて伸出すと同時に冬中縮みながら考えていたところの芸術という私の一番大切な考え以外における私の体内にひそむその他のあらゆるものまでを共に伸上がらせてしまうのである。伸出すものは私ばかりではない世の中の花が揃って咲出すのである。本当の蜘蛛もそろそろ動き始める。すると汽車や電車は浮上がり伸出した人達でもってすでに一杯となっているし、往来へ出ると御馳走の嘔吐が吐き散らされているし、浪花踊が始まっていたり、芦辺踊の紅提燈がずらりとお茶屋の軒に並んでいたりするのである。すると私はちょっとカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スを枠へ貼ってみたり、あるいはちょっと外出してみたり、帰ってみたり、またちょっと出てみたり、また帰ってみたり、あるいは「どうしたものか知らん」「何んぞ」「どないぞ」「何んとか一つ」といった言葉を繰返しながら、すこぶるよい天気の一日を殆ど中腰となって、動物園の狐が檻の中でする如く狭い部屋の中をぐるぐると巡回するのである。こうなるとしまいには何とも知れない憂鬱が込み上がってくるものだ、わけのわからない癇癪が立ちのぼってくる。
私はこんな状態になったある日のこと、とうとう私は妻君にちょっとしたいいがかりをして、食べていたお茶漬を襖へ向かって投げつけたことがあった。襖は破れて茶碗は半分、唐紙へ食い込んだ。その穴から襖の中へお茶漬が半分流れ込んであとの半分は畳の上へ散乱したものである。散乱したお茶漬というものは随分穢いものだと私は思った。私はそれを見るに忍びないので二階へ駆け上がったがどうも気にかかって堪らないので二〇分ばかりの後、そっと下りて茶の間を覗いて見た。すると驚いたことには何もかも綺麗に片づけてあるのにこわれた茶碗とお茶漬だけは、散乱したままそっと宝物の如く大切に保存されてあるのだった。これには少し弱った。一刻もこんな穢らしいものを捨てておけないと私は考えたが、今さら掃除を命じるのはくやしいから、掃除位なんだと私は叫んで箒を持ってめし粒を掃き寄せ、襖の穴へは紙を貼った。流れ込んだ茶漬は仕方がないからそのまま封じ込めてしまった。
その後私はその襖を見るたびにこの中には、あのめし粒が入っているんだなと思うのである。
まずそんないろいろの悩ましき障害から、私は春になったら花を描いてみよう、桃のある間にあすこへ出かけて二、三枚制作してみようなど数年来同じことを考えていながら、ただそわそわとしてまだ一枚の春らしい絵も作らず、今年こそ今年こそと思いつつこの季節を逃してしまうのである。
ようやくにして多少の猥褻の気を含める桜の花も散りはて、柿の若葉が出揃い、おたまじゃくしが蛙となって鳴き出す頃、初めて私の神経がややもとの鞘へ収まろうとするのである。もう世の中全体の浮気も一段落を告げ、もはや何を見ても満目青いことである。それからだんだん自然の青さと暑さは増すばかりだ。
この青さと暑さが私にとってよい合薬だ。私は私の故郷へでも帰った心地がする。もう電車や汽車に乗っても、酔っぱらった青年団や旗を持った運動会にも出会わない。まず家を出て仕事をして帰るまで、さほど機嫌を損じることもない。まず五月の風景は私の野外における仕事始めのかき入れ時である。
ところが多少困ることにはこの安心な初夏風景は絵の構成上、色彩に不足を感じることである。すなわちただ一切が緑であるから。
それでようやく辛うじて、空と水とによって画面の色彩に変化を保たせようとするのである。絵描きに限らず人は何となく、夏になると水のそばへ行きたがるのもあるいは同じ要求からかも知れないと思う。
でもまだ初夏には若葉のよき階調があるけれども、もう梅雨を過ぎるといよいよ緑は深くどす黒く、ただもう鬱蒼として黒いのである。したがって画面はすこぶる単調を免れない。
しかしながら私はそれで満足して、静かに日傘の下で安心して仕事をつづけることが出来る。
[#地から1字上げ](「新潮」昭和二年五月二十六日)
夏は自動車
夏はことに自動車のドライヴはすがすがしい。まして自分自身でドライヴすることが出来たらさぞ愉快なことと思う。しかしながら私は大体雑念妄想の多い性質だから、ハンドルを握りながらすれちがった美人について考えたりするうちに一〇〇メートル位は進むことであろうから、そのうち何者かに突き当たらずにはいないであろう。だから私は自分でドライヴする道楽だけは、万一自動車の古手が一〇〇円位で手に入るとしても決してなすべきことではないと断念している。
自動車というものは軌道がないので、何となく自由な走り方をするのが好きだ、一直線でなく、人間の歩行と同じく、多少とも千鳥足で進行するところが、大変自分の心のために安楽と自由を感ぜしめる。
軌道の上に鉄の車が嵌めこまれているところの電車や汽車は直線の上を窮屈に進み、その代り安全であり安定はしているが、その安全からくる退屈さはまた格別である。
ところで自動車はむしろ、不安全と不規則と危険に満ちている。左右にゆらゆら動きながら、思っただけの速度の緩急を随時に行いつつ走るので心を束縛することがなく、気随気ままを振舞うことが出来る。気随、気ままで危険に充ちた興味を味わうことは、近代のわれわれの心を慰めるのにもっとも適当である。そしてわれわれは退屈から救われるのである。
その点、汽車に終日乗ってみると安全ではあるが、いくら欠伸をしてもし尽せない位の欠伸を催す。
私はしばしば自動車の遠乗に誘われる。その時車上の家族は主体であり、自然風景はことごとくたんなる背景となるに過ぎない。水の流れる如く、人も海も山も家もただ後ろへ流れて行くだけである。
まったく自動車のドライヴでは、距離や哩数はたんに指針の尖端にのみ現れるに過ぎない。本当の地球の広さはわからない。したがってドライヴの旅の印象は、活動写真で見た実写ものの記憶と殆ど同じことであるといっていいと思う。
私はいつか奈良ホテルから、公園を自動車で通過したことがあった。その時の奈良はちょうど渡欧の途中で見物したシンガポールの植物園とほぼ同じだった。そして歩いている男女は土人の如く見えてしまった。そして別の日に、私は同じ公園の古さと広さと長閑さと人情とがわかった。もちろん私の足で歩いたのだ。
何しろ自動車のドライヴは愉快だがあらゆる人情と風景と地球が縮まってしまうことは惜しむべきことだと思う。しかしまあ、自動車のドライヴはその日の天候とテンポの速さの近代味を楽しめばそれでいいのだ。そしてなお車上の親愛なる人間同士が親愛であれば幸甚であろう。とにかく夏はオープンの車体を走らせることが壮快にして晴々していることではある。
上方近代雑景
「今はもう皆あれだす[#「今はもう皆あれだす」に傍点]、うちの子供にもあんなん買うたろ[#「うちの子供にもあんなん買うたろ」に傍点]」といって漸《ようや》く着せて見た洋服を、私は心斎橋筋《しんさいばしすじ》の散歩で沢山見受ける。即ち女の子は、近所の女給かダンサーの扮装《ふんそう》となって街頭に現れる。その両親は、どうだす、見てんかという顔で歩いている。
あるいは子供のスカートの裾《すそ》が妙に厚ぼたくふくれているので何かと思って近寄ると、とても長い洋服にウンと縫上げがしてあった。五、六歳の子供だが、多分女学校へ入学してから漸く身に合うに至るだろう。あるいは男の子のズボンが膝《ひざ》の下何寸かに垂れ下っていて上着《うわぎ》に大きなバンドがあり、それへ粋《いき》な帽子を着せたものだから、遠く望むと請負師《うけおいし》の形であったりする。
女学生やバスガアルの帽子を見るに、何ゆえか素晴らしく大きなもので、殊《こと》に前後へ間延びしている。師直《もろなお》が冠《かぶ》る帽子の如く、赤垣源蔵《あかがきげんぞう》のまんじゅう笠《がさ》でもある。
一体、何が中に入っているかと思って覗《のぞ》いて見ると、髻《たぶさ》が無残に押込まれてあるのだ。なるほどと思う。女学生らは、自分の毛髪の入れ場所に悩んでいるのだろう。
今や若き男たちは、ネクタイの新柄を選びパンタロンの縞柄《しまがら》について考え、帽子に好みの会社を発見しつつあるが、婦人の洋装に至っては、まだまだ夏はアッパッパに毛の生《は》えたもの多く、冬は腰がひえてかないまへんという関係やら、家では靴をぬぎ畳の上へ坐する風習と、暖房装置がこたつ[#「こたつ」に傍点]であったりするために、あまり多く見受けない。しかし、たまたま、驚くべき中河内《なかかわち》郡あたりのカルメンといった風の女性の散歩を見ることがあるが、そんな場合、東西屋《とうざいや》の出現の如くうるさき人々は眺めている。その点では神戸と阪神沿線に見る教養ある洋装婦人や娘たちには相当スッキリとした、近代性を発見して私は満足する事がしばしばある。殊に神戸は西洋人と支那人とインド人とフランスの水兵等、あらゆる人種の混雑せるがために、神戸を中心とする女の洋服は多少本格的だ。だが、植民地臭くはある。
私は子供の如く、百貨店の屋上からの展望を好む。例えば大丸《だいまる》の屋上からの眺めは、あまりいいものではないが、さて大阪は驚くべく黒く低い屋根の海である。その最も近代らしい顔つきは漸《ようや》く北と西とにそれらしい一群が聳《そび》えている、特に西方の煙突と煙だけは素晴らしさを持っている。しかし、東南を望めば、天王寺、茶臼山《ちゃうすやま》、高津《こうづ》の宮、下寺町《しもてらまち》の寺々に至るまで、坦々《たんたん》たる徳川時代の家並である。あの黒い小さな屋根の下で愛して頂戴ね[#「愛して頂戴ね」に傍点]と女給たちが歌っているのかと思うと不思議なくらいの名所|図会《ずえ》的情景である。ただ遠い森の中にJOBKの鉄柱が漸く近代を示す燈台であるかの如く聳えている。
大阪の近代的な都市風景としては、私は大正橋や野田附近の工場地帯も面白く思うが、中央電信局|中之島《なかのしま》公園一帯は先ず優秀だといっていい。なおこれからも、大建築が増加すればするだけその都会としての構成的にして近代的な美しさは増加することと思う。ただあの辺《あた》りの風景にして気にかかる構成上の欠点は、図書館の近くにある豊国《とよくに》神社の屋根と鳥居《とりい》である。あれは、誰れかが置き忘れて行った風呂敷包《ふろしきづつ》みであるかも知れないという感じである。
大阪には、甚だ清潔に休息し得る本当のカフェーというもの甚だ少い。殊に南の盛り場に至ると全くないといっていい。そのくせカフェーはうるさいほどあるのだが。
先ごろも、甚だ野暮《やぼ》な次第であるが、三組の夫婦づれで心斎橋を散歩した時、あまりにのど[#「のど」に傍点]が乾《かわ》いたのでお茶でも飲みましょうといったが、その適当な家がないのだ、ふと横町に多少静からしい喫茶の看板を発見してドアを開《あ》けると、これはまた例の青暗い家だった。われわれ夫婦たちの間へ、一人ずつの女給が割込んだものだ。さてわれわれ男たちは何事を喋《しゃべ》ってよろしきか、女給は何を語るべきか、細君は如何なる態度を示すべきかについては暫《しばら》くの間、重き沈黙が続いたのちわれわれは出がらしの紅茶と不調和と鬱陶《うっとう》しさを食べて出た。
しかしながら、大阪のカフェーは旅の空か何かで訪問したらさぞ不思議な竜宮《りゅうぐう》だろう。和洋の令嬢と芸妓《げいぎ》、乙姫《おとひめ》のイミタシオンたちがわれわれを直《すぐ》に取り巻いてくれる。しかし彼女たちは踊らず、歌わずただ取り巻いてチップだけは受取ろうという訳だから、十分間で十分の退屈を味わうことが出来るかも知れない。だがしかし、あれは一体要するに、何をして遊ぶ処だか、あのややこしい、近代性は飲み込めないのだ、しかし、名称は女|給仕人《きゅうじにん》だから給仕のつもりで控えている訳だろう。だが、それにしてはあまりに多過ぎるうるさい悩ましくも美しい給仕人ではある。とにかく大阪のみに限らず日本の近代風景は、かなりの悲劇だ。ともかく決して面白くもないが、万事を諦《あき》らめて、私はやむをえず心斎橋筋をそれでも歩いて見る。
観劇漫談
どんなくだらない展覧会でも、決して見落したことがないという絵画愛好家がある如く、本当の芝居好きという人物になると、如何なる芝居でも、芝居と名のつくものは何から何まで見て置かぬと承知がならないという。そして舞台では誰が何を、どんなに演じていたって構わない。ただ要するに芝居の中で空気を吸うて毎日坐っていたいというものさえある。
さような人物になると座席など決して贅沢《ぜいたく》はいわない。いつも鯛でいえばお頭《かしら》の尖端《せんたん》か、尻尾《しっぽ》の後端へ噛《か》じりついて眺めている。
即ち近くで泣く子供を叱《しか》り付けながら、足の痺《しび》れを我《が》まんしながら、遠いせりふ[#「せりふ」に傍点]を傾聴しながらあるいは弁当とみかんの皮に埋《うま》りながら、後ろの戸の隙間《すきま》から吹き込む冷たい風を受けながら、お茶子《ちゃこ》の足で膝《ひざ》を踏まれながら、前へ坐った丸髷《まるまげ》と禿頭《はげあたま》の空隙《くうげき》をねらいつつ鴈治郎[#「鴈治郎」に傍点]の動きと福助[#「福助」に傍点]のおかるを眺めることが、最も芝居を見て来たという感じを深くし、味を永く脳裡《のうり》に保たしめるのであるらしい。そしてまた次の興行には必ず行ってまたあのうれしい苦労がして見たくなるのである。
それらの苦労をなめ、火鉢《ひばち》の温気と人いきれを十分に吸いつくして、頭のしん[#「しん」に傍点]が多少痛み出すころから、漸《ようや》く芝居の陶酔は始まるのだと芝居通の一人はいう。だがそれらの苦労を全部省略してしまった処の近代風の劇場では、見物人が煙草をのまぬが故《ゆえ》に、ものを食べないが故に、火鉢を持ち込まない故に、芝居が終るころになっても空気はからりと冴《さ》えているので、どうもも一つ、張合《はりあい》がなくて、陶酔すべき原料がないという。
しかし大阪では、新らしい近頃の文楽座《ぶんらくざ》以外では先ず、どの劇場もまだまだ、充分の原料を設備して愛好家を待っている。
さて、私の如く常に芝居の空気とその雰囲気《ふんいき》による訓練を欠いでいる無風流な者どもが、そして毎日無風流な文化住宅とビルディングとアトリエの中をズボンと靴で立ちつくしているものたちが、時たま観劇に誘われて見ると、東京の劇場は靴のままの出入りだから幸福だが、大阪では通人のする苦労を共に楽しまねばならない。この我まんこそが芝居をよりよきものにするのだとは知りながらも、つい腹の方が先きへ立ってくるのでいけない。時代のテンポは画家という風流人を、かくも無風流にしてしまったかと、われながら、あきれるばかりである。
昨夜も久しぶりで、窮屈な桝《ます》の中へ四人の者が並んで見たが、四人の洋服は八本の足を持っているものだからその片づけ場所がないのだ。くの字に折って畳んで見たり、尻の下へ敷いて見たりまた取り出して伸ばして見たり、あるいはさすって[#「さすって」に傍点]見たり、全く持てあました。
愛人と共に過ごす幸福の一夜は、片腕の存在を悲しむという意味の唄《うた》がどこかにあったが、全く芝居では両足の存在が悲しい。帽子と共に前茶屋へ預けて来ればよかった。その窮屈の中へなお、火鉢と、みかんと、菓子と食卓と、弁当と、寿司《すし》と、酒とを押し込もうというのだ。
それから芝居の雰囲気を増す原料の一つである光景は、幕が開いてしまっているのに、小用や何かで立った男女老若が、ぞろぞろばたばたと花道を走る事だ。
昨夜も判官《はんがん》は切腹に及んで由良之助《ゆらのすけ》はまだかといっている時、背広服の男が花道を悠々《ゆうゆう》と歩いて、忠臣蔵四段目をプロレタリア劇の一幕と変化させた事だった。
全く幕が開いた暫《しば》らくなどは舞台では何が始まっているのか見えない位のこんとん[#「こんとん」に傍点]さである。姉《ね》えやん、光《み》っちゃん、お母《かあ》ん、はよおいでんか、あほめ、見えへんがな、すわらんか、などわいわいわめいている。
その喧噪《けんそう》の花道を走る芸妓《げいぎ》の裾《すそ》に禿頭は撫《な》でられつつ、その足と足との間隙《かんげき》から見たる茶屋場などは、また格別の味あるものとなって、深き感銘とよき陶酔を老人に与えたであろうかも知れない。
とにかくも、先ず芝居はどうであろうとも、芝居の中の浮世の雑景は、近代の様式による劇場のとりすましたるものとは違って、雑然として見るべきものが甚だ多い処に、私も芝居以上の陶酔を持つ事が出来る気がする。
なるほど、徳川時代か何かに生れて、のらりくらりと芝居の桝の浮世の中へ毎日入りびたっていたりする事は、悪くはない事だったであろう。ところでわれわれ現代人はこの八本の足の始末に困っているのだ。
さて、かかる光景を喋《しゃべ》っているうちに予定の紙数は尽きてしまった。芝居の本文は他の連中へ譲って私はこれで擱筆《かくひつ》する。
挿入の絵は公設市場に蟹《かに》が並べてあるのではない。忠臣蔵四段目、福助の判官が切腹を終ったすぐあとの、静寂なる場面の印象を描いたものである。
芦屋風景
芦屋という処へ住んで二年になる。先ず気候は私たちの如くほそぼそと生きているものにとっては先ず結構で申分はない。そして非常に明るい事が、私たち淋《さび》しがり屋のために適当しているようだ。
南はすぐ海であり、北には六甲山が起伏し、その麓《ふもと》から海岸まではかなりの斜面をなしている。東に大阪が見え、西には神戸の港がある。電車で大阪へ四十分、神戸へ二十分の距離である。
その気候や地勢の趣きが南仏ニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ東はモンテカルロといった風な趣きにもよく似通《にかよ》っているように思えてならない。殊に山手へ散歩して海を眺めるとその感が深い。小高い丘陵が続く具合、別荘の多い処、自然が人間の手によってかなり整頓されている処、素晴らしいドライヴウエイがあり、西洋人夫婦が仲よく走る有様なども似ている。私は散歩する度《た》びに南仏を思い出すのである。
それで随分風景を描く場所も従って多く、風景画には不自由を感じないように思える訳でもあるけれども、それが事実はさようにうまく成立っていない処が、南仏と芦屋との悲しい相違である。
南|仏蘭西《フランス》一帯にかけて生い茂っている処のオリーブの林は如何に多くの画家を悦ばしている事か知れない。その墨の交じった淡緑色と、軟かく空へ半分溶け込んで行く色調は随分美しい。セザンヌやルノアルの風景の半分はオリーブの色調で満たされているといっていいかも知れない。
この芦屋にはオリーブの代りに黒く堅い松の林の連続がある。松も悪いともいえないが、オリーブのみどりに比べると色彩が単調で黒過ぎる、葉が堅い。従って画面が黒く堅くなる。
地面は六甲山から流れ来る真白の砂地である。白と堅いみどりの調和は画面に決して愉快な調和を与えない。その白い砂地に強い日光が照りつけ、松の影が地に落ちるとただ世界はぎらぎらとまぶしく光るだけである。大概の画かきはこれは御めんだといって逃げ出す有様を私はしばしば見る。
それから風景としての重大な要素である処の建築が文化住宅博覧会であるのだ。或る一軒の家は美しくとも、その両隣りがめちゃなのだ。すると、悉《ことごと》くめちゃと見えてしまう。
その家あるがために風景がよく見えるという位の家が殆《ほと》んどない。これは何も芦屋に限らない、現代日本の近郊の大部分は同じ事ではあるが。
それにつけても羨《うらや》ましいのはモンテカルロ辺《あた》りの古風な石造の家や別荘の積み重なりの美しき立体感である。マッチの捨て場所のない清潔な道路である。
家ばかりを幾度描いても描き切れない豊富な画材が到る処に転がっているのだ。
でも私は、あまりいい天気の日に、何かたまらなくなって、カンヴァスを携げて山手の方へモチーフをあさりに行く。そしてその度びに何か腹を立て、へとへととなって疲れて帰ってくる事が多いようである。
その腹立ちを直すために、神戸へ出かけて、ユーハイムの菓子でコーヒーをのみ、南京街で新鮮な野菜を求めて帰ってくる。
私の絵に静物や裸女が多くなるのもやむをえない影響であるだろう。
私の家を門のそとから眺めて見ると、温室があり花壇があり様々の草花が咲き乱れている。その少し奥にはガレージがあり、二台のオートバイが並んでいる。それから小さな亭座敷《ちんざしき》があり、松の並木があって、私の家の玄関が見えその奥づまりに画室がある、という極く見かけは立派な光景である。
御宅の先生はオートバイに乗られますかと驚いて訊《き》く人がある。勿論、ヴラマンクはオートバイで写生に走るというから、日本にだって一人位いはさような影響を蒙《こうむ》る画家が出ても差支えなかろうとは思うが、実は宅の先生はまだ自転車にも乗れないのだから残念だ。
私自身は私の家の内から外を常に眺めて暮しているから、花壇も温室もガレージも、オートバイも皆、私のものではない事がよくわかっている。そして、ただ私のアトリエだけが漸《ようや》く自分自身のものであるに過ぎないのだ。
本当は、私は自分の衣食住に関しては、非常に気むずかしく、神経質で気ままで、自分の考え以外の事は決して許したくない性質を持っているのであるが、自分にはそれを徹底させるだけの資力も根気もないので、何もかもをあきらめて衣食住の一切は成り行き次第の流れのままにまかせてある。
万一、明日大地震が起って、直ちに吾人《ごじん》は穴居生活に移らねばならぬとあれば、私は直ちに賛成する。
私は橋の下でも、あるいは大極殿《だいごくでん》の山門の中でも決して辞退はしないつもりである。水は方円の器に従うが如く、私はそれに応じての私の身を置くに適当な何かを以て飾り立て、ぼろぎれを張り廻《めぐら》し、工夫を凝《こら》して心もちよく住んで見せるだけの自信はあると思っている。要するに乞食性だといえばいえる。
衣類、持ちものにしても、私の好みの日本服、好みの洋服、好みの外套《がいとう》、好みの帽子、好みの宝石、好みの時計、好みの自動車といいかけると限りなく私の注文は心の奥に控えている。
だがしかし、私は万事を自分の心のままに出来得ないものならば、最早や何一つとして注文して見る必要はないと考えている。だから、手当り次第の勝手気ままの不統一で通す事にしている。一度パリで買って私の気に入ったパンタロンは、よそ行きも常も婚礼も朝から晩まで着通して、今なお着用しているがさすがに、縞《しま》が磨滅して来た。惜しいものである。
終日、洋服で通すという不粋な事は私だって本当は好きだといえないが、私は洋服を意地からでも着て暮す。
勿論、私の今の家には座るべき座敷がないのだから、和服では裾《すそ》が寒くて堪《たま》らない上に、私のやせぎすは、腹が内側へ凹《へこ》んでいるために、日に幾度ともなく、帯を締め直す煩《はん》に堪えない事もあるのである。
私がもし、急に明日から金閣寺で暮すという身分にでもなったとしたら、私は直ちにパンタロンは紙屑屋へ売飛ばして衣冠束帯で身を固めるであろう。
先ず花の下には花の下の味があり、鉄管の中にはまた格別の世界があるのに違いない。何に限らず住み馴れたらまたなつかしい故郷となるものだろうと思う。
今の処、何んといっても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである、ここでは万事をあきらめる必要がない。私の慾望のありだけをつくす事が許されているのだといっていいと思う。
画家というものがどんな辛《つら》い目に会っても、悪縁の如く絵をあきらめ得ないのも無理のない事かも知れない。
芝居見物
大阪の芝居見物は何かものを食べながら、話しながら、飲みながら、その間に時々舞台を見ているようである。もの見遊山というのは芝居見物のことだと私は子供の時から思っていた。
私の父は芝居、遊芸道楽に関することは何から何まで好きであったから、私は人間の心もちも出来ていない幼少の時分から芝居へはしばしば出入りした。そして何かたべながらちょいちょいと舞台を眺める教育を受けたのである。だから私は充分大人となってから後も、芝居というものは何か退屈をきわめた時に芸妓を連れて遊びに行く場所だとばかり思っていた。芝居の中心は舞台の方になくてわれわれ見物人の方にあるようだった。だから今私が小さい時のことを考えても、舞台で何を演じていたかということはあまり記憶に残っていない。ただ時に大きな月がおりて来たり、波が動いたり、その波と波との間を何か美しいお姫様が流れて来たり、それが助けられたり、馬に乗せられた罪人の娘が引摺られて来たり、寒い時に役者の素足がふるえていたり、切腹したり、雪が降ったり癪を起こしたり、刀を抜いたりした断片を覚えているだけである。それが何という芝居でどんな筋であったかも皆忘れてしまっている。それよりも私は私の側に並んでいた芸妓の話や、父の顔や、女将の肖像、盛られた御馳走の方を多く記憶する。あるいは時には芸妓の代りに母と女中であったりしたこともある。
私はその後、学校生活のためや、肝腎の父が死んだりして十年以上も殆ど芝居を見ずに暮してしまった。
今度は父の代りに私は友人に誘われて再び芝居を見るようになった。十何年間芝居というものを見なかった私は、随分進歩も変化もしたことだろうと思って出かけたところが、不思議なことにも芝居の中はやはり昔のままの姿で見物人は私の父と同じ真似をしていた。芸妓が何かたべながらわさわさとしていて、舞台では十幾年前と同じ役者が同じ顔をして同じせりふを申し上げていた。私は芝居の国では地球は回転しないのかと思った。
芝居だけは十年位、欠席していても決して時代に遅れないのだという自信を私は得たものである。なるほどこの芝居なら、せめて何か食いながらでなくては見ていられないかも知れない。芝居見物というのはあの狭い桝の中で家族親類は懇親を結び、芸妓は旦那と、男は女と、懇親を結ぶ場所であり、そして舞台では余興をやっていると見る方が本当かも知れない。
その代り舞台では、いかに名人といえども見物人が背を見せて勝手な話に耽り、勝手にめしを食い酒を飲んでいるのだから、今必要なせりふを申し上げましょうと思っても、少しも見物人へ通じないのだから、まったく何をする張り合いも抜けてしまうことだろう。かくして役者と見物人はお互いに殺し合うのではないかと思う。
以来私は時々それでも芝居は見に行く。しかしそれは疲れたらタクシーへ乗る心もちで芝居へ行く。煙草の代用、カフェーのつもりで行くというきわめて不埓な見物人である。まさに大阪的見物の致し方である。だから舞台では何をしていてくれても一向差し支えはないのだ。手品でも旧劇でも新劇でも浄瑠璃、落語、何でもよいのである。要するに見物人の懇親を邪魔さえしなければよいのである。そして役者は好男子であればいい。
しかしながらこれでは名人も芸を磨く気にはなれないだろう。その点東京の見物人はもっと本気な意気を持っていると思う。私は名人を作るのは見物人の力だとさえ思っている。見物人が舞台へ背を向けては万事おしまいだといっていい。名人は決して現れないだろう。
私は東京で吉右衛門を見て、それから大阪でそれを見た。すると大阪では吉右衛門が半分しかないように感じられた。それは役者の不足のためかも知れないが、どうも私には張り合いの都合も随分あるのではないかと考えた。
それで常に関西にのみ多く住んでいる私は、つい芝居を見に行く本気を失ってしまう。たまたま行くとその不埓な見物をする。私は常に不埓な見物でことのたりる関西を淋しく思う。
見た夢
私は他人の見たという夢の話を聞くことに一向興味が持てない。夢はあまりに夢のような話であり過ぎる。しかしながら自分の夢を語ることはかなり面白いものであると見えて、昨夜見た夢をくどくどと語る人は多い。
私は今自分の見た夢を語って暫時、迷惑を与えようと思う。食べ過ぎた晩、過労の夜、神経がすこぶる衰えた時に見て、私の記憶に残っている夢の数は多いがそのうちの二、三の馬鹿らしきものを選ぶ。
A
私の庭で私は大園遊会を催した。集まるものは主として画家であり、ことに二科の会員はみな、出席していた。庭の大きな池には花見の船が浮かび、おでんが煮えつまりつつあった。
就中、一艘のボートには大勢の楽手がいて、素晴らしい行進曲を奏ではじめた。
それがとてもやかましいので少しうるさくなったから、私はやかましいぞと、どなった時、本ものの私は丸の内ホテルの八階のベッドの中に寝ていた。そして戸口を誰かが調子を揃えてドンドンガンガン囃し立てているのだ。開けてみると黒田重太郎、国枝金三両君がちゃんと靴をはいてさァ早く支度をせんか、と私をせき立てていた。
B
一台の単葉飛行機が銀色に輝きつつ都会の空を横ぎっていた時、風呂屋の煙突へ衝き当たると同時に両翼がもぎれて散った。あとには魚のような胴体だけがフワリフワリと動いているのだ。
二人の飛行家がその上を走ったがやっとパラシュートが開いた。そして二人は電線へ引っ懸ったので私は安心してそのままことのほか朝寝をしてしまった。
C
ある夜、死んだ母と私がナポリの街のある宝石商の前へ立ってその飾窓を眺めていた時、火山が爆発をはじめた。ちょうど仕掛花火の如く空へ火焔が吹き上がりシダレ柳が落ちて来た。その花火の中に月が美しく輝いていた。キネオラマみたいやないかと母と話していたのである。母は淋しい顔してだまって眺めていた。
D
三越の八階の丸天井の真下を、母が雲に乗った如く平気で歩いている。ちょうどサーカスの空中美人大飛行の光景だった。母の昇天を私は感心して眺めていた。
E
ある晩、母が坐っていた時汽車がその膝頭を轢いて走った。私は驚いてその膝を見ると真黒く焼けて火の粉が蛍の如く光っていた。この夢は私の七、八歳の頃に見たものだが、今にその火の粉の色を覚えている。
F
白いチョークで雨戸へ虚無僧の図を描いていたらその絵が動き出して来たので、私は逃げ出してふとんの中へもぐり込んでしまった。そしてそっと覗くと、枕もとへ本当の虚無僧が立って私を見おろしていた。これも七、八歳の頃の夢だと思う。
G
一六ミリのフィルムに映った自分の顔の大写《クローズアップ》の頬に大変な皺が現れていた。もちろん私の口の近くには三本の皺が四、五年前から現れてはいるのだったが、かくも深刻なものとは思わなかった。まるでそれは象の尻の皺だと私は思った。
その夜、私はスイートポテトの如くパラピン[#「パラピン」は底本では「パラフィン」]紙に包まれた象の幽霊と称するものを人から貰った。馬鹿な、象の幽霊の紙包みなぞあるものかといいながら内心びくびくもので掴んでみると同時に、私は堪らなくなって怖い助けてくれと叫んで目が醒めたが、なお私は象の幽霊のお尻の幻覚におびえていた。
煙管
人間に限らず、犬猫の類《たぐい》でさえも、動くものにかなりの興味を持つ本能があるように見える。手先きを動かしてやると猫や犬は随分ふざけかかって来るし、毬《まり》を投げると追うて行く。人間だって子供は独楽《こま》を喜ぶし、フットボールで時を忘れ、大人《おとな》でさえもテニスや野球、ゴルフ等すべて毬の運動に興味を持つ。その点犬猫のふざけるのと大した変化はない。ただその組織や方法が多少複雑であり、勝負があったりする違いはある。
私などは特に犬猫に近いためか子供の時から殊更《ことさ》ら動くものに興味を持っていた。
昔の夜店《よみせ》には美しい西洋館の屋上から金色の球《たま》がころがり出し、いろいろの部屋を抜け、階段を通り、複雑な線路を縦横に走り廻って落ちて来る仕掛の露店があった。私はその多少、オランダ風の屋台店《やたいみせ》の前へ立って、その金色の球の滑《なめら》かな運動の美しさに見惚《みと》れたものである。するとそのうち、自分が球に乗り移ってしまい、自分自身がその階段を走っている気になってしまう。大体われわれは動くものには乗って見たくなるものである。
その頃は、今の如く電車が走っている世ではなかった。動くものは人力車《じんりきしゃ》位のものだった。今の少年やモボたちが、一目してあの車はキャデラックか何者かを識別する如く、私はその頃の人力車のあらゆる形式を覚えてしまった。殊に往診用の自用車というものに憧憬を持ったものである。そして毎日人力車の種々相を描く事を楽《たのし》みとした。
もっと幼少の頃は、女中の背に乗って、毎日々々|梅田《うめだ》と難波《なんば》の停車場や踏切《ふみきり》へ、汽車を眺めるべく、弁当を持って出張に及んだものである。
あまり毎日出張するので女中が、ひまな改札係や踏切番と大変親密になってしまったという話だが、どの程度に親しくしたものか背中の私には一向わからなかった。それはどうでもよいとして、私は今でもその頃の東京行きの機関車の形態を絵に現し得るだけの正確さを以て覚えている。
その後、初めて大阪市中に電車が現れた時、私はそのエキゾウチックなニス塗りの臭気と、ポールや車輪から、世にも新鮮な火花を発しつつ走って行く姿に見惚《みと》れ、私は学校への往復にはその満員になっている新らしい車体へしがみ付いて乗ったものである。
幸《さいわい》にも、私の生れ合せたこの時代位動くものの無数が発達し発明された事はあるまい。天平《てんぴょう》時代から徳川末期に至る年月において、日本では雲助《くもすけ》以上に動くものを発明されてはいなかったようである。日本は大体古来からあまり動く事を好まなかった国でもある。動く事をむしろ、悪徳の一つであるとさえ教わったものである。静かに静かにというのが大体の方針であったらしい。静観するという言葉がある。
もしも、西洋というものが目の前へ現れなかったら、日本人は今もなお雲助と人力車以上のものを決して望まなかったかも知れない。即ち現代に動いているものの中で日本人の要求によって製造され発明されたものは一つもないといっていい。
全く近代の日本は沈没した潜航艇の如く、ちょっとした穴からあらゆる西洋の動くものが浸入して来た、最初、自動車というものが走り出した時、かなりの人でさえも、不愉快を感じたものであった。砂埃《すなぼこり》と煙を立てて走って行く姿を見てあれは暴君だといってよく怒ったものである。風致を害するともいったものだ。しかしながら如何に静観独居を楽しむ人たちが、雑巾《ぞうきん》やぼろ切れを以て潜航艇の穴を押えつけても、大海の圧力というものは大したものである。とうとう穴の内部は動くもので充満してしまった。しかしまだまだもっと一杯になる事だろう。そして、それらの動くものどもが徳川時代に見られなかった別の新鮮な風景をつくり始めて来た。
先ず動く王様は銀色の姿で空を飛んでいる、地上地下には電車となり、円《えん》タクとなって充満してしまった。私は毎日弁当を持ってこれら動くものの風景を観賞に出て行くにしてはあまりに動くものが多過ぎる。しかし私は、昔、球《たま》ころがしの店先きへ立った時位のうれしさを以《もっ》てあらゆる動くものの速度や形の美しさを眺めている。そしてまた活動写真において、動くものの美しさを感じているのである、それにしては日本のあらゆる動くものや交通機関は巴里《パリ》あたりのそれに比べるとほんとに貧しく穢《きた》ならしく色彩に乏しく、貧乏臭くはあるけれども。
私は巴里のメトロの、さもフランス的な赤色と、青と白との連結された三台の地下電車を思い出す、その内部は全部白きエナメル塗りでありそして乗客の美しさである。あらゆる下層の人たちでさえその整頓《せいとん》した服装がどんなに電車を美しく見せ人を美しく見せている事か知れなかった。私はもしこの美しい電車を大阪や東京の市街を走らせたら、あるいは乗客全部を現代日本の種々雑多な混雑せる服装によって満員せしめたとしたら、如何にこのメトロの動く美しさは消え失《う》せる事であろうかを考えて見た。
しかし、さように私は速度と動くものに興味を持つけれども、悲しい事に、私はこの世に速度というものが加わらなかった頗《すこぶ》る静かな日本の末端に生れ出たものである。動く興味の最初の教育がやっと球ころがしと汽車であった。すると現代の子供は生れると直ぐプロペラーの音を聞き得る訳である。浄瑠璃《じょうるり》が何故に面白いのか、新内《しんない》がなぜ情死させる力があるのか、さっぱりわからない事になりつつあるかも知れない。
私などは、生れるとすぐ浄瑠璃の声を聴いた。それであるのに二、三年も浄瑠璃に御無沙汰《ごぶさた》をして、不意にそれを聴いて見ると、それが大変不思議な世界と思えてならない事がある。なぜむやみにしつこく笑うのか、なぜそんな訳から娘を殺すのか、政岡《まさおか》はなぜ幕を徒《いた》ずらになが引かせるのかなど思う事さえある。だが今乗って来た円タクと油絵の事も忘れてしまってじっと心を静めて見ると、二、三十年以前の私の心がそろそろ蘇生《そせい》して来て、父母在世当時の私の生活や静かな日本を思い出し何んとなく哀調に誘《さそわ》れてしまうのである。漸《ようや》くしみじみとなって席を出ると直ちにお向いのダンスホールとジャズの速度である。
ダンスといえば、私はその様々の効能を説かれて実は二、三度教えを受けて見た事があるが、私の心はジャズと共に明るくは決してなり得なかった。私の本心が踊ってくれないのであった。私の食道の中には先祖代々親ゆずりの長煙管《ながぎせる》が魚の骨の如くつかえているのを私は感じとうとう踊りの稽古《けいこ》は辞退した。如何に動くものに興味を持つとはいいながらも私はあらゆるテンポが静まり返っていた私の故郷の日本もまた忘れ得ないのである。時々われわれがどうかすると東洋回顧をして見たくなるのもあまり動いているとくたびれるので時に飲み込んでいた祖先の煙管を取り出してちょっと一服がして見たくなるのではないかとさえ思われる。しかしながら私たちの次にはきせる[#「きせる」に傍点]とは一体何にかと訊《き》く少年が現われているらしい気がするのである。
閑談一年
一月、新年の遊客、三々五々押し寄せる日多し。石炭をストーヴへつぎ込むことはこの月の仕事である。石炭代が多少気にかかるけれども、まあいいだろうという気になる。籠居してモデルを描く。
二月、画室の前の空地の枯草の下をほじくると、若草の頭がすでに用意されているのに驚く。
三月、まだうすら寒い陽光である。でも近くの池の底に沈んでいる空缶や茶碗の破片の間に赤腹がのろく動いているのを眺める。心のぬくみ少しづつ[#「づつ」は「ずつ」の誤記か]動くを覚える。
四月、そわそわうそうそと血の動揺を感じる。何かじっとしてはいられないといって何をしていいのかわからないという苦悶を感じ、ただもやもやと暮す日多し。
五月、光と空気と、青葉と温度が身に適し何となく爽快を感じる。少しずつ神経の安定を覚え、何か大いに風景写生でもやってみたく思う。
六月、天気が続く、本当に何かしたいと思っていると梅雨の季節に入る。雨を眺めて何となく悩み多くなる。美人を美しと見る日多し。
七月、この月の前半、雨なお多く、雷も鳴る。私は夕立ちを好む。
ところで何故か毎年、この頃より生活上の夏枯れの節に入る。何か売り払ってみたくなる。結局なるべく外出を見合わせ、蚊に食べられたところをかくことをもって楽しみとなす。
八月、毎年の行事である研究所主催の講習会が一日から始まる。朝寝は禁物、九時から午後三時までの労働である。家へ帰ってもなお心の底へ木炭とパンの屑とが溜っている如く感じる。このこと二週間続くのである。そのへとへとのままにして二科へ出す絵を整理し発送するのである。一年間の収穫の貧弱さに気を悪くしているところへ出品画の批評を持ち込まれるのである。
九月、連続せるへとへとのわが身を上野の美術館において見出す。無数の出品画の山である、わけのわからぬ競争と苦の世界の鳥瞰である。絵画の過食と胃に停滞せるパン屑とが混合して中毒作用を起こすのと、陽気が秋に入って身内に変化をおよぼすのと、心身の疲労が重なり例年鑑査の中程から必ず下痢を催すのである。懐炉を腹にあてて残暑の炎天を上野へ急ぐ辛さは深い。
その弱り目において、自分の絵を明る過ぎる壁面に曝して見るのである。心萎びてしまう。招待日に紋付など着用して会場に立つ勇気さらに出でず。逃ぐるが如く帰阪して残る半月を胃腸の手当てで暮す。こおろぎ鳴く。
十月、初秋の自然は風景写生によろし、されど二科会大阪開会とある。相当出勤の義務あり。トランクより冬帽、スエーター[#「スエーター」は底本では「セーター」]、オーバー等を取り出す。ナフタリン臭し。陽気定まり、身体やや元気出ず。松茸のフライ、松茸入りのすき焼等毎日食べる。
十一月、ストーヴを組み立てる支那製の大きな火鉢毎年買いたく思う。籠居してモデルを描く日多し。
十二月、モデル、画室へ現る日多し。歳末の都会風景、趣多し。神戸と大阪のバーゲンセールなど漁りあるき五〇銭のネクタイなど買う。研究所にヴントアレッセイの展覧会あり。やがて餅を食べる幸福が控えている。
右の次第を繰り返しているとやがて人生の終点へ到達する筈になっている。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和三年十月)
夏の都市風景
ドイツ人には兵隊の如く丸坊主の頭が多い。それでいて殺風景かというと左様でもない。若いものは若いなりにさっぱりとしているし、老人は老人として堂々ともしている。それは厳めしいドイツ人の体躯と相貌とに丸坊主がかえってよく調和している如く見えるのである。しかしながら初めてドイツに丸坊主が現れた時は少なからず変に見え、心ではにがにがしく思った人も多いことかも知れない。
日本人や支那人だって、ある時代の要求に応じて、その弁髪や丁髷《ちょんまげ》を切り落す時は、生命の玉を取り落とす以上に感じたことであったらしい。
それも馴れてしまえば、かえって丁髷などうるさくおかしく見えて来るものなのである。何しろ初めてという時に、その先頭を承るところのいの一番に乗り出すところのものは、よほどの勇気ある者でなければならない。とにかく笑われの標的となるにきまっているのだから。
ところで、大概の人は自分も実はやってはみたいのは山々だが、恥しいのと、他人の口が気になったり、おっちょこちょいといわれるのが口惜しかったり、あるいはモガとか、若い奴、阿呆、といわれることを怖れ、世の中全体にその流行なり雰囲気なりが、ほぼ行き渡ってしまうまで、じっとこらえて、我慢をして待っているものである。
断髪や洋装でも左様だが堂々と断髪し、堂々と本式の洋装をしてしまえば気もちがいいのをば、変に遠慮勝ちに、ちょくちょくとやってみるのでかえって怪しく不思議なものが出来上がってくるのである。
断髪してしまうと、また何時思わくが変わっては大変だというしみったれた根性から、その頭髪をなかば後頭の辺りへ押し込んでしまって、ちょっと素人目だけを断髪らしくごまかして見せるもの[#「もの」は底本にはなし]などもかなり多いようである。
洋装も本心から嫌だというなら判っているが、口さきでは、ようあんな不細工な恰好して歩きはりまっせなと非難しながら、心では切に自分もやってみたいのだが、何しろ洋服の勝手がよく飲み込めない上に、とても恥しいので、なかなか手が出せないというものが多い。そこでちょっとひそかに、三越の仕入れを買ってみて、夏は帯が苦しいということをまず宣伝しておいて、次にこっそりと家の中だけで着用してみるのである。もちろん家の中で着るのだから靴の必要がない。それが、少し慣れて来ると、ちょっと八百屋位までそのままの姿で用足しに出る位に進歩する。その場合は、有合せの下駄をつっかけて走るのだ。近頃の都市風景の点景としてもっとも多く目につくところの夏のコスチュームである。ことに下町方面にはその洋装の裾から多少の腰巻の先端を現し、もちろん靴下を用いないから浮世絵時代の足が二本、裸のままで出ている。私にはあるエロチックな錦絵さえも想像させてくれるのである。
下町へ行くと、今もなお女髪結いの上っ張りの如く、西洋のねまきの如き、あんまの療治服の如き俗にこれをアッパッパと称されているところの簡易服を着ているものを認めることが出来る。東京では何と呼ばれているか知らないが大阪では右の称がある。芸妓が自宅にある時、真夏の昼これを愛用する。
アッパッパは現代モダン生活の第一線に対するそのもっとも殿り[#「殿り」は底本では「煽り」]を承っているところの女軍であるといっていいかも知れない。とにかく何か時代の雰囲気と影響を感じてはいるのだが、そしてそれを受けたいのだが何が何やらさっぱりよく判らず、その上家屋の構造や家族の手前、生活の様式や経済上の関係や何やかやの関係から、なるようにしかならぬ、という諦めによって成立せるところの[#「ところの」は底本では「ところ、」]先ず日本としてはもっとも合理的にして大衆的であり、安易にして新味あるところの服装であるかも知れない。
アッパッパといえばもうそれは七、八年も以前、その流行の初期において画友鍋井君がこれを女のものとは知らずに着用して、虎の門女学校を写生するため毎日電車で通うたということである。何しろ涼しくて便利やさかい、何も知らずに着ていたといっている。しかし、何だか人がじろじろと眺めてうるさかったそうだ。なるほど、それは私もちょっと眺めておいたらよかったと思う。しかしその便利なものは直ちに用いるところの勇気は称揚すべきである。
ともかくも私はいつも新時代のいの一番を試み相勤める人達の勇気に対してかなりの尊敬を払っている。どうせ最初は不馴れと勝手のわからぬおかしみとがあり、笑われるにきまっている。にもかかわらず時代の雰囲気へ真先に進みたいという愛すべき勇気を私は称揚して差し支えなかろうと思う。まったく新しき趣味、新しき雰囲気、新しい色彩、新しい考えは流感における空気伝染の如くいつの間にか隅々まで拡がっている。
アッパッパから足を出している少女が大阪だけかと思うと、神戸にも京都にも東京にもある。おそらく仙台にも福岡にもあることだろう。誰が命令したというわけでもない。ただ流感の如く拡がってしまうのである。そして世界は何かしら動いて行くところが面白いといえば[#「いえば」は底本にはなし]いえる。
私はとにかく新時代の後からおそるおそるぞろぞろと追従して行くアッパッパ連と急先陣を承るところのモダンガールにすこぶる興味を持つ。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和三年十月)
瀧
あまり熱を発散しない火や光、あるいは透明体を眺めることはすこぶる、いい[#「いい」は底本にはなし]避暑となるものである。私は青いガラス玉を透して電燈の光を覗くのが好きだ。
とても美しく涼しそうな極楽世界を眺めることが出来る。蛍や人魂が夏に飛んでくるのも、西瓜やトコロ天が店さきに並ぶのもみな、半透明の誘惑であり結構な避暑のモティフである。瀧は水であってなおかつ光を兼ねている。瀧を遠望すると活動の映写口から出る白光の感じがする。そしてガラス玉であって水晶でもある。涼しいわけだと私はおもう。
池
私はあの東京の大地震の時、幸いにも恵まれた二個のドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]を大切に抱いて、やっと一夜をすごしたことがあった。しかしその時、人間の世界には水分が一滴もなくなっていた。それで折角のうれしいドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]も、乾いた海綿の如く口中に充満して私は悲しかった。以来私は一杯の水、一滴の雨水を結構と思うようになった。
昔から山水というよい言葉がある。山だけの風景は震災のドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]である。私は昔から、奈良の風景を愛する。ただ惜しいことには水の不足を感じる。荒池、鷺池、猿沢池はコップにおける大切な一杯の水であると思う。
花火
人は妖気を得て涼を感じるものである。池の上や軒端を飛ぶ蛍、あるいは夏の夜の黒い空からだらりと下がって消えて行く花火に私は妙な妖気を感じる。蛍、人魂、花火はともにトロトロと流れて明滅する。彼らを私は妖怪の一族と見なしていいと思う。その他妖気を含むものは多い。例えば西瓜の看板をじっと眺めていると、何ものかの舌とも見えてくることがしばしばある。お岩や牡丹燈籠が舞台へ現れるのも夏である。夏は妖怪の世界である。
盛夏雑筆
素人が一番楽しんで絵を描くようである。訪問の新聞記者に対して実業家の夫人達は、ほんとうに私は絵筆を持っている時こそ幸福でありますという。私も中学時代の親の目の盗み描きが一番幸福で御座いましたといっていいと思う。
先夜、松林の暗闇で子供がキャラメルをばらまいてしまった。拾ってくれといったが石ころばかり手に触れて皆目拾えなかった。ちょうど近くを時々郊外電車が走るのでそのヘッドライトが照す瞬間において二、三個ずつ拾い集めた。
私は芝居のだんまりや殺しの場は闇でもよく見えるから便利だと考えて羨ましかった。
時間を打合わせ[#「打合わせ」は底本では「合わせ」]ておくと不意の来客に妨げられるし、幾時の汽車に乗ろうと思って急ぐと急に便意を催す。今度の日曜こそと思うと雨が降るし、傑作を作りましょうと思うと駄作が生まれる。私の如き不精者がたまたま散髪屋へ行くと本日定休日という札が掛けてある。
近頃のリンコルン[#「リンコルン」は底本では「リンカーン」]というのはあの偉人のことではなく、自動車の名称となっている。
私は先頃この高級車に乗せてもらって六〇哩の速度を味わってみたがかなり爽快であるべき筈のところ、私には実は少々風が寒かった。沿道の風景が重なり合って急速度で飛んで来るので、私はその風景を全部そのまま食べているような気がした。私は阪神国道と宝塚と六甲山と有馬と神戸と明石を、ことごとく飲み込んでしまったので胃袋は不消化な風景で一杯満たされてしまった。それが幾日経っても消化しないで胸にもたれていた。ところが最近またリンコルン[#「リンコルン」は底本では「リンカーン」]が私を訪ねてくれた。私は再び高速度で先日と同じ道筋を逆に運搬された。それはちょうど実写もののフィルムを逆に回転したのである。
そこで先日飲み込んでおいた風景を尻から悉く吐き出してしまったことになって私は初めて爽快を感じた。
絵を描くことに油が乗っている時には妙に文章が書けなくなる。文章に興味を感じる時絵を描く神経は鈍る。病院にも内科外科婦人科の別ある如く、その係りがちがっているのだと思われる。
絵の仕事で夢中になっている時には人との約束や義理人情を多少踏み潰してもかなり平気でいられる。また他人も了解してうるさい用件を持ち込まない傾向もある。あんな男に頼んでも駄目だと見当をつけるのだろう。
絵を描く方の神経が鈍っている時に限って手紙が書けたり他人のことが気にかかったりする。いらない返事まで出してみたりしてみそをつけたり、いらない世話をさされたりする。よその人情が気にかかって捨てては[#「捨てては」は底本では「捨てて」]おけなくなるのだ。他人もついそれにつけ込んで来る。やはり絵描きは多少不人情に見えてもいいから、少しの隙も見せない方がいいと思う。
世話といえば他人の絵を批評したり、見てやったり、見せられたり、することは危険な仕事である。いいものは日に何十枚観賞しても結構だが、自分の力以下の絵を日に一枚ずつ見てさえも地獄へ陥ちて行く気がして堪らない、すでに私は地獄行きの切符を買って帽子のリボンへはさんでいるようだ。[#底本には、続く改行と1行空きはなし]
思う仕事が思うように行かない時など酒を飲むとか、やけ糞に煙草を一箱のみつくすとか出来る人は幸福だ。酒も煙草ものめない私は時に重たい椅子を床へ投げつけてみることがある。思ったより力があるんだなと友人はそれを聞いて感心した。
煙草はまったくいいものだ、ちょっと一服することによって世界がはなはだ新鮮になる。他人と話をしている時煙草は両人の顔と顔との[#「顔との」は底本では「顔の」]間へよろしき煙幕を張る、それを通して相手の顔を眺めていることは、大変のびやかで話もらくに出来るようだ。私が医者から無理にやめさされた時、一番辛かったことは、話相手の顔があまりはっきりと真正面に見えることだった。それから町を歩くと煙草屋が多過ぎることであった。一町内に必ず一つ位はあの赤い小判形の中のたばこという黒い字が目につくのであった。完全に煙草を忘れるのに一年位はかかった。煙草を忘れてしまうと同時に町からは煙草屋が全部影を消してしまった。看板も目につかなくなった。
煙草をやめてから五、六年になる近頃、妙にまた煙草屋が目につき出し、絵で疲れた時、煙草のことを考え、客に対してちょっと一本下さいと無心をいってみたりすることがある。これはいけないと自らを戒めているが、心の底のむすび目が多少ゆるんでいるような気がするのである。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和二年八月)
秋の顔
秋になって、私は人間の顔が紅葉したのを見たことはない。しかし木の葉が凋落する如くわれわれの毛髪は多少脱落はするようである。ことに貧弱ながらも生きている私などは夏から秋へのつぎ目の季節を嫌に思う。折角大切にしていた皮膚の脂気と、貧しくもめぐっていた私の血液が、腹の奥底へどんどんと逃げ去って行く心地がする。何か冷気を含む秋の風は下腹をしくしくと悩ます。ことに時雨と木枯しは情ない。
しかしながら、健康で大丈夫な他人は秋風によって食慾を増し、馬も、人も、女も、肥太るという話である。羨むべきことである。
最近十日あまり私は上京していて、帰ってみて驚いたことには、私の大切にしていた銀が(銀は真白な猫である)今までは夏痩して細長くて、猫として禁物の瓜実顔であったものが、たった十日あまりの不在の間にその重さを著しく加え、顔はまるまるとした丸ぼちゃ型に変化してしまっていたことであった。
してみると、秋のきざしが、ほのかに現れただけで、猫は丸ぼちゃとなり、私の血は腹の中へもぐり込み、血の気を失うことは確かである。猫と私との変化はちょっと相反している如く見えるが、猫の丸くなるのはもって冬への用心であり、私は寒気を覚えて、何か重ね着をして丸くなろうと考えるわけである。
奥へ逃げ去るのは私の血液ばかりでない。この半月ほどの季節の変化によって、私の家の近くの草原の凹みや古池に溜っていた水という水はことごとく地中深く吸い込まれてしまい、草原のじとじとした湿りが乾燥し、私の家の井戸水のかさが減じてしまうのが毎年初秋における常例である。そして次の初夏のころまで草原と池は底を現しているのである。すると近くの人々がその凹みを塵芥の捨場と心得て、ブリキの空箱などが山と積まれる。その不潔な山が春から夏への季節には再びなみなみと湧き上がる水の底へ沈んでいきその上を蛙や赤腹が泳ぎ廻るのである。地球の地下水を私は人間の血液だと思うことがある。
人間の血も春から夏へかけて表面に浮き上がり、人の顔は何か脂で光って汗臭くのろのろとだらしなくなると同時に地球は何となく水っぽく、野も山も森も湿っぽく、[#「湿っぽく、」は底本では「湿っぽくい」]草は露にぬれる。真夏の日照りが続けば続くほど西瓜の中へ紅いお汁が充満するのを私はあり難く思う。それらの水々しき夏の力が人間世界にあってはあらゆる男達を車や人ごみの中で、彼女達の肉体にまで吸い寄せもする。
この点、秋は汗と脂を去り、臭気を止めそれらは内攻して内に蓄積され、やがて寒さへの用心であり、来るべき春への身構えのつもりもあったりして、とかく秋の人間世界は多少の慎しみがあり品格高きが如く私には考えられる。したがって人間の秋の顔は一年中のもっとも品位高い時ではあるまいかと思う。それは中秋の月の顔とも相通ずる点がある。
太陽がわれわれの頭上へ日々に近寄るということと、太陽が一日一日南へ去って行くこととで、春秋の重大な差が生じてくる。
満潮時に人間の魂が生まれ、引き潮時に魂がこの世から去って行くと昔の人は教えてくれたが、それは科学的にみれば本当かうそか私にはわからないけれども、さもそれは左様ありそうな心地がする。私の父が死んで行く時、母が臨終の時、誰かが小声で今ちょうど引き潮時ですというた不気味な記憶が、私の頭の底にこびりついている。
潮が引いて行く、光が去って行くということは何しろ陽気な心を起こさせない。その代り多少とも真面目であり厳粛であり笑いごとではすまされない。気狂いかやけくそでない限り、人はそう違った感情を起こし得るものではない。人の魂の去って行く時、嬉しく思うものは葬儀会社の重役くらいのものかも知れない。正月元旦を終日泣いて暮してみたりする余興はあまり流行しないだろう。
夕顔、朝顔、昼顔とは誰が呼び出した名か知らないが、それはさも涼しそうな朝を代表する顔である。そしてその季節が来ると、勝手に素直に季節向の顔は咲き始める。
顔はまた看板だともいえる。人間の看板は顔である。すなわちレッテルともいう。ポスターでもある。月、虫、天高く、あるいは秋草、紅葉等は秋の看板である。秋の遊覧地の広告がしたいので注文すると、図案家は早速銀泥を皿に盛って大きな月を塗るであろう。その下へちょっと虫と秋草のあしらいである。そして何々鉄道と記せばそれで月並な秋の顔は出来上がる。なお何かモダンなポスターを求められたら、グラーフ・ツェッペリンの名と姿を月とともに担ぎ出すのは今のうちである。
とにかく秋の顔は春よりも清潔である。人の顔には用意があり冴えている。肥え太っていても脂と汗の臭気を伴わない。それらは内攻している。まず外見だけは高尚にして品格高しとせねばならぬ。
したがって燈火親しむという秋の言葉がある。静かなことである。春の夜はそぞろあるきという、もちろん愛人とともにである。秋の夜はつい待たされがちだという歌がある。太陽が近づくのと遠ざかるのとでこれだけの差が生じてくる。
つい待ち呆けの悔しまぎれに、一つ芸術でも味わってやろうかという気になったり感傷的な日記の一つも書きつけてみたくなったり歌の一つも詠じてみたくなるのも秋である。そのためかどうか知らないが、秋の美術展覧会ははなはだ賑わうけれども、春の展覧会は入場者が少ないので損をするという噂がある。まず秋の顔は高尚だとしておこう。
大和魂の衰弱
私自身の経験からいうと、私たちの学生時代は、自分らの作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうという事をあまり好まないという気風が多かったように記憶する。殊《こと》に展覧会前などにおいて持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌《いや》な奴めと考えられた位のものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概|判《わか》っているもので、それが判らない位の鈍感さならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そしてなお、先生たちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
学校や研究所は自分たちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞《ほ》め合い、悪口をいい合い、あるいは自分を批判し尽して以《もっ》て満足していたものであった。
初めて文展が出来た時、私たちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者どもは、ひそかにお互の眼を掠《かす》めて作品を持って先生たちの内見《ないけん》を乞《こ》いに伺うものが現れたようだった。さような所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做《みな》されていて、敢《あ》えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷《ふろしき》につつみ、そっと先生の門を敲《たた》くといった具合であったらしい。また学生の分際《ぶんざい》でありながら文展に絵を運ぶという事は少年が女郎買いすると同じ程度において人目を憚《はばか》ったものである。あるいは、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったともいえるが、文展出品は内密を主《おも》んじる風があった。
私などは、殊《こと》の外《ほか》恥かしがり屋の故を以てか、浅草《あさくさ》や千束町《せんぞくちょう》へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そしてわれわれはそれによってある気位《きぐらい》を自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声粛々《べんせいしゅくしゅく》時代といえばいえる。東洋的|大和魂《やまとだましい》がまだわれわれの心の片隅《かたすみ》に下宿していたといっていいかも知れない。
その私たちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々という文字を私でさえ忘れかかっている。今に大和魂といった位では日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
勿論《もちろん》、画学生の数からいって、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私たちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目《まじめ》な研究者があった訳であろう。しかし、嫌な奴も存在したであろう。
目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。図画教師たちや図案家、名家の令嬢、細君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人たちの余技として、絵画が普及し隆盛になりつつあるようである。
それは真《まこ》とに日本文化のために結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上においては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何《いかん》ともする事が出来ないのである。そしてただ、ちょっと、入選さえ毎年つづけていればそれで知友と親族へ申訳が立つという位の安値《あんちょく》な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
お引立てを蒙《こうむ》る、御愛顧を願う、という文句は米屋か仕立屋《したてや》の広告文では最早《もは》やないのである。芸術家は常に各展覧会において特別の御引立てと御愛顧を蒙らなければならないがために、年末年始、暑中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立ってもいてもおられないという場合に立ち到《いた》っているかの如くである。
従って近頃位、各先輩や審査員の家へ絵を持って廻る画学生の多い時代はかつてないといってもいいかも知れない。
とにかく一度審査員の目に触れさせて置く必要があるという考えから、無理やりに見せにくるという事がないとは断言出来ない事を私たちは感じる。その証拠に、この絵はよくないから駄目だと考えますといったはずの絵がやはり出品されている事も多いのである。
ひどいのになると、頼み甲斐《がい》ある先生のみを撰んで一つの絵を持ち廻っている人たちさえあるものである。そして、悉《ことごと》くの内意を得て置くと名誉にありつきやすいという考案である。
それをわれわれが何も知らず、うっかりと、時間を捧《ささ》げて苦しい思いを噛《か》み殺しながら正直に何とか批評さされた訳である。それらの人種を私たちは廻しをとる[#「廻しをとる」に傍点]男と呼んでいる。
全く、近代世相における人の心は単純なる大和魂では片づけられない。廻しをとる位の事は全くの普通事だといえばさようらしくもある。中元御祝儀と暑中見舞と、相変りませず御愛顧を願わなければ全く以て、食って行けない時代であるかも知れない。しかしながら、さように苦労してまで描かねばならぬほど面白い油絵でありかつ売れる見込みのあるべき油絵ではあるまいと思うのだが。
私は秋の期節《きせつ》になると近頃よくこんな事を考えさされるのである。
迷信
人は死ぬと、必ず六道の辻というところを通るべき筈になっているそうです。
私という人間が、ちょうど六人あればこの道の六つとも残らず見物することができて、はなはだ面白いのでありますが、私は一人しかないので、何と奮発してもその一道だけしか味わうことが出来ないというのはほんとに遺憾なことであります。
そこでわれわれは六道の辻に立って、その選択には随分頭を悩ます次第であります。その上そこには名勝案内の広告など立っていて、極楽の有様などが大げさに描かれてあったりなどするとなおさら迷わざるを得ません。例えば蓮華の半座をあけて待っている美人などのポスターを見てはかなり遊心を誘われたりなどするので、まったくこの富くじは陽気浮気では引き難いのであります。
しかしながら左様に迷った揚句、引き当てたその極楽の道も、さて行ってみないとわからないあるいは辛抱のしきれない、退屈なところかも知れません。蓮華の半座をあけて待っているというたくさんな美人達も三〇年間も坐り通していたので、足がお尻へくっついてしまって、立てないで皆籠の鳥の歌を合唱して泣いている、憐れな女かも知れません。しかしまずいい所だという宣伝に迷わされて来た罰だとあきらめて我慢をすることになるのでしょう。案外へまなくじを引いて地獄へ落ちた奴の方が内心喜んでいるかも知れません。逆さにぶらさがって落ちて来る女の裸体など見ては、われわれどもなら毎日感激してついには地獄の鬼に使ってもらいたいという気を起こすかも知れません。しかし私などは体格が駄目だから、身体検査で落第して血の池へ落されることでしょう。娑婆にいた時には貧血症だったから、さてここで血を飲んで大変立派な人とならぬとも限らない。まったく一寸さきはいつも判らないものであります。
こう書いている私自身が、この文章を終わる一分前にパッタリ死なぬものとはいえません、まったく少し心細い限りであります。
一寸さきは暗とはよく昔から申されています、これは今の二〇世紀において一向変わらないのです、何もかもが進歩するから、ついでにせめて一年間位さきは見当のつく機械でも出来たら便利だと思いますが、しかしハッキリと見えてはまた大いに事面倒となるかも知れないでしょう。一寸さきだけは、決して人間にもらさないのはさすが神様の仕事であります。
八卦やいろいろの占い、四柱推命などいうものがありまして、一寸さきを覗かせるようなことをいってくれます。
人はせめて嘘でもいいから一寸さきは覗いてみたいものです。別して苦しい時にことに覗きたがります。そして八卦見の家ののれんをくぐります。
一寸さきから何か出るかということは怖ろしいことだが、これが故に面白いのでしょう。相場やトランプや、博奕が面白いのも、一寸さきの運勢の興味でないかと思います。
一枚の絵を仕上げるのもその通り、一寸さき一筆さきは暗であります。その絵がどんなに仕上がるやらわからない、そこに深い興味があります。この絵は駄目と初めにちゃんとわかったらたまりません。いくら自分は拙くとも何でもああして、こうしてと、思い疲れて一筆ずつ暗から暗を辿るわけなのです。そして終点はてこずりときまると、今度こそはとまた次の仕事の暗にふみ迷うのであります。
昔の名工の話などにはしばしば、仕事のうちは女をつつしみ、沐浴して神に祈るようでありますが、まったくその仕上げについて一生懸命であればある程、こんな有様とならざるを得ません。だから今もなお役者、相撲取、博奕打ち、相場師、泥棒、芸妓、など一寸さきの気にかかる商売をするものに迷信家が多いようであります。
[#地から1字上げ](「美の国」大正十五年三月)
蛸の足
男のズボンの膝《ひざ》が出ているが如く日本女の膝は飛び出している。幼時から折り畳んでばかりいたのでさようなくせがついたのだろう。しかし近頃はだんだんと足は延びつつ短かいスカートから現れ出て来た。
ところで、その現れ出した足の発散する誘惑は昔のくの字型に比して著るしいかというと、私は決してそうとは思わない。
近代の足はすでに、顔であり、手の一種である。その上、皮膚そのものの露骨さを、手袋の如く、うすき絹を以て包んでいるが、昔のくの字は、重く厚き裾《すそ》の中に隠れていながら、かの浮世絵に見る如く風に翻える時、むしろ深刻なものを発散すると私は考える。
先ずどちらにしても、古今東西、足が誘惑する事において変りはない。
先ごろ女中のお梅が市場へ蛸《たこ》を買いに行った時、なるべく足の沢山あるのを下さいといったら魚屋のおやじが、蛸の足は昔から八本ときまってますと答えた。随《つ》いて行った私の子供が帰ってから、皆にこの事を話したのでわれわれは笑った。しかし、お梅の弁明によると、蛸の足は決して常に八本|揃《そろ》ってはいないというのであった。買って帰ってよく調べて見ると、往々にして一、二本不足している事がごわす[#「ごわす」に傍点]というのだ。
なるほど、蛸もあの素晴らしき足の八本を裸のままで見せている事は真《まこと》に危険だと私は思った。全く、いつ何時《なんどき》、如何《いか》なる災難がふりかかるか知れない。砂地の上で昼寝のせつ、猫にたべられた話もある位いだ。
蛸に意識があったら必ず靴下と猿股《さるまた》をはくであろう。
それにしても、毎日市場へ通うものは、またその道に通じて、蛸の足は常に必ず八本ではないということを知るに至る。するとわれわれ笑ったものは蛸に関しては素人《しろうと》であった訳である。
私の愛猫《あいびょう》フク子もまたこの足に迷って死んだ。或夜、裏長屋から一本の蛸の足を盗んで帰る途中、長屋の井戸の屋根が腐っていたため、踏み外《は》ずして落ち込んでしまった。その時彼女は臨月だった。
そのもの音に驚いた車屋のAが寒いのに飛び出して、つるべによって助け上げようとしている時、四、五日前から喧嘩《けんか》していた仲仕《なかし》の細君がまた飛び出して来た、そこで互に感じが悪いというので二人とも家へ引込んでしまったために、その翌朝フク子は蛸の足と共に浮き上っていた。怖《おそ》るべきは足の誘惑である。
もっさりする漫談
関西には形容すべき言葉にして、特に訳のわからない複雑な感情と意味を含む処のものがかなりあるようだ。例えばややこしい[#「ややこしい」に傍点]とか、ぞけている[#「ぞけている」に傍点]、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]、しんどい[#「しんどい」に傍点]、もっさりしている[#「もっさりしている」に傍点]、はでな事[#「はでな事」に傍点]とかいう風な言葉である。勿論《もちろん》日本の標準語の中へは這入《はい》りそうにもない地方的なものではあるが、慣れているわれわれの中ではそれらの一語で何もかもがいいつくせるので、大変便利だから変だとは思いながらもつい使ってしまうのである。
ややこしいという事を東京流に翻訳して見ると、この語の中に含む真のややこしさを表すだけの適当な言葉が見出せないのである。その意味は複雑というだけでもなく、ごたごたしているというだけのものでもない。西だか東だかあれかこれか、ほしいのか厭《いや》なのか、甚《はなは》だもつれている処の、こんがらがった意味があるのである。まだその他あの男女の間が頗《すこぶ》るややこしい[#「ややこしい」に傍点]とかこの品物が本ものか偽物か甚だややこしいとかいう事もいえるのである。怪しげな男の事をややこしい男ともいう。あるいは六つかしき事にも用い、恋愛が破れかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]と称し、成立しかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]という。あるいはいいのか拙《まず》いのかわからぬが多少下手に近い絵の前へ立った時、ややこしい絵だとも評するし、髭面《ひげづら》の気ぶしょうな男の顔を見てややこしい[#「ややこしい」に傍点]顔してますといったりする。
ぞける[#「ぞける」に傍点]、というのは、もう月経も閉止する時分であるにかかわらず、急に何を感じてか、赤い襟《えり》をかけ出したり、急に素晴らしいネクタイをつけたり、禿頭《はげあたま》へ香水をふりかけて見たりし出した時に用うべき言葉である。近頃彼は急にぞけ出した[#「ぞけ出した」に傍点]とかいう。
しんどい[#「しんどい」に傍点]とは、全くくたびれたという上にもっとなまぬるい複雑性が入り込んでいる処の、もっと軽い意味の、そしてどこかに深刻味のある、微妙なくたびれの心もちであり、一種のびやかな漫然としたつかれ心地を表すためにああしんど[#「ああしんど」に傍点]とかしんどうてたまらぬ[#「しんどうてたまらぬ」に傍点]とかいう、これも東京ではどんな言葉でいい表していいか私には見当がつき兼ねる。
もっさりする[#「もっさりする」に傍点]という言葉は、何んでも本筋のものでなく田舎風で野暮《やぼ》でそのくせ気取っている処の、しかもしゃれてはいない処の、上等でもなく、美しくもない、多少きざに見える処の、何かゴタゴタして垢抜《あかぬ》けのしないものを指《さ》してもっさり[#「もっさり」に傍点]しているという。
もっさりしたマチス[#「もっさりしたマチス」に傍点]といえば素描の力と認識不足のものであり、省略すべき処を略せず、拾うべき処を取落してしまった処の、垢じみてすっきりしない処のマチスかぶれの絵という事である。丹波篠山《たんばささやま》生れの鴈治郎《がんじろう》と熊本県人の羽左衛門《うざえもん》もまた、もっさりした種類と見ていい。
もっさりしたヴラマンクといえば、大体右と同じ傾向のもので即ちヴラマンクに似てはいるが本当のヴラマンクがその絵を見たら恐縮して風邪《かぜ》を引くであろう処のどす黒赤き拙劣な絵という事になる。その他もっさりしたシャガール、ボンナアル、ブラック等この言葉を上へ戴《いただ》くいろいろのものは現代日本には殊の外多いようだから特に重宝な言葉であるといっていい。
しかしながら、本当の田舎の、さも田舎らしくある処のものに対しては、このもっさり[#「もっさり」に傍点]という言葉はあて嵌《はま》らない、田舎で本当にさも田舎らしい女や男や料理に出会った時、それをもっさりとはいい得ない。それは、田舎の本筋のものだからかえってすっきりとしているのである。要するに田舎ものが、第一流のしゃれものを真似《まね》て手のとどかぬ時にもっさりが起ってくるようだ。
うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]と言う言葉は、用い処はほぼもっさり[#「もっさり」に傍点]と似ているが、も少し陰鬱《いんうつ》であり深刻な味を有《も》ち多少のうるささ[#「うるささ」に傍点]を持つ。うっとうしいお天気というのは普通だが、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]顔するな、うっとうしい奴が来まっせ[#「うっとうしい奴が来まっせ」に傍点]、そんなうっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]事は嫌だ、うっとうしいマチス、うっとうしいヴラマンク、等に使って差支《さしつか》えない。もっさりした何々よりも今少し下卑《げび》て悪性のものにして下手さも深刻である場合にこの言葉が適用される。
芸術家の髪、長く垢《あか》じみて、親の金で遊んでいるくせにわれわれプロはという時、甚だうっとうしく[#「うっとうしく」に傍点]なりがちであり、あるいは男のくせに妙に色気を肢体《したい》に表してへなへなする時、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]男となるものである。その他うっとうしいズボンといえばモダンボーイの事であり、うっとうしい頭といえば下手《げて》で大げさな耳隠しともなる。
その他、絵かきさんと心安くなるのも結構ですが、いらぬ絵を持ち込まれるのがうっとうしゅう[#「うっとうしゅう」に傍点]てという言葉もしばしば聞かされる事である。
うっとうしいに対してはでな[#「はでな」に傍点]という言葉もある。水死美人が浮上った時、はでな[#「はでな」に傍点]もんが浮いてまっせという。八百屋《やおや》の女房が自転車に乗って走ったらはでな仕事[#「はでな仕事」に傍点]となるし、百号を手古摺《てこず》ってナイフで破ったといえばはでな[#「はでな」に傍点]事をしたと感心してもいいのである。とにかく関西にはかなり便利で意味深きなおかつ深刻にしてユーモアの味を含めるいろいろの言葉のある事を私は面白く思い、ちょっと紹介したまでである。
ノスタルジー
1
私は画家き[#「画家き」は底本では「絵描き」]である、したがって絵でものを現すことは比較的らくに出来るが、同じものを文章で現そうとすると随分の苦労を感じる。
例えばある男が腹を切っている形を絵で描けば、人はなるほど切腹していると思ってくれる。そして凄いとか、いやらしいとか、あるいは線が美しいとか、何とか勝手に思ってくれればそれでよいので別段切腹に前後の解説をつける必要はない。観者が何と感じてくれてもそれは勝手であって画家の仕事はそれですんで行く。
ところで文章の場合では、前後の関係もなくただ唐突に切腹したと書いてみただけでは、一体何が切腹したのかわからない。も少し詳しい説明がないと合点がいかない。一体誰がどんな顔をして、どんな原因からどこで腹を切ったのか、そしてそれからそのあとはどうなったか、由良之助は臨終の間に合ったかどうかということまで気にかかって来る。随分うるさく説明してようやく切腹が多少明瞭になってくるのである。
切腹を一枚の絵で片づけることに馴れている私達の神経ではまったく原因、道筋、苦労、結果等を洩れなく整えて説明したり、穿鑿したりする文章の仕事は随分骨が折れることである。時には神経が衰弱するおそれさえ伴うように思えて堪らない。
自分で文章をかくこともかなり辛いが他人のものを読むこともかなり辛い。私はまず短いものなら何とかして読むこともあるが、一冊とまとまった書物はどうしても読み得ない。したがって他人の創作なども殆ど読んだことがない。
私は私の親しい小説家の小説でさえ読んだことがなかったりして、時にははなはだきまりのよくないことに出会うことさえしばしばある。
何しろ画家は一目で観賞することにのみ馴れ切っている。まったくどんな大作でも一寸[#「一寸」は底本では「ちょっと」]四角のミニアチュールでも要するに一目でわかる。展覧会で二千点の絵を鑑別するのに三日間を要するだけである。もし二千巻の論文を鑑査することであったら、それにはどんな方法があるのか、私には想像もつかない。怖ろしいことだと考えられる。
その点、活動写真は大変われわれにとって便利なものだと思う。絵の連続であって文章の代用にもならないことはない。最近私は知らぬ間に、かなりの活動写真愛好家となりつつあるようだ。しかしそれはよくよくいいものでない限りは往来を散歩している方が幸福ではあるけれども。
2
私は子供の時分から退屈をすると、よく戸棚やひき出しや本箱を掃除する癖がある、そして古めかしい煙管のがんくびや昔のかんざしの玉、古物の箱などを探し出して悦ぶのだ。時には思わぬ掘り出しものをすることがある。
近頃でも私は退屈すると物置へ入って、私の大型のトランクを開けてみる。そのトランクの中には私がパリから持ち帰ったあらゆるものがなるべくそのままつめ込んである。蓋を開けるとナフタリンと何か毛織物の持つ特殊な外国風の匂いとが交ってパリの下宿にいた時の空気が今なおなつかしく立ち昇って来るのを感じる。
私はトランクの中へ頭を突込んでこの匂いを嗅いでみる。するとインド洋からポートサイド、マルセイユ、パリ、ベルリンが鮮やかに私の鼻から甦ってくるのである。
トランクには三段の仕切りがある。それを一段ずつ開けて行くといろいろのものが現れて来る。だがしかしあまり立派なものはさらに出てはこない。まずワイシャツ、襟巻、靴下、それからマガザンプランタンやルーブル辺りで買ったシュミーズやピジャマ[#「ピジャマ」は底本では「パジャマ」]、年末の売出しで買った赤や青の美しい小切れの類、あるいはノエルの夜店で漁った古道具、モンマルトル辺りで買った人形や古時計、荒物屋のカンテラ、カンヌの宿でつかっていたランプ、ニースのカーナバル[#「カーナバル」は底本では「カーニバル」]で使うマスク類、レース、ガラス玉、煙草入れ、三つ揃い八〇フランという仕入れ洋服、その他、シネマのプログラム、電車やメトロの切符、絵ハガキ、手紙その他雑然とつまっているのである。私はそれを一つ一つ取り出しては眺め、しかる後元の如く丁寧に収めてしまう。そして蓋をするのであるが、蓋をするとまた間もなく開けて見たくなるのである、幾度開けて見ても同じものが現れてくるのにきまっているにかかわらず私はついこのトランクの前へ立ちたがるのである。
こうして雨と退屈と、金のない半日などを暮すことは、真に安全にして適当な楽しみだと称してよろしいかと考える。
3
パリのトランクでふと思い出したことであるが大体において泥酔者というものは、ねえ君、俺はちっとも酔ってはいないだろうと弁解したりわけのわからないことを幾度も喋るものである。ヒステリーの女は自分が今ヒステリーを起こしているとは考えないし、気狂いは正気だと主張するし、怒っているものには君は怒っているというとなおさら怒るし、まったく厄介なものである。
私は今となって私の短い滞欧中のことを考えると、私は日本を出てから日本へ帰るまで殆ど狐か天狗にでもつままれた如く、私の心は妙なところへ引懸っていたように思えてならないのである。
4
それは私の滞欧中の手紙をみても、その間に考えたことについて考えてみても、今思うとそんな馬鹿なことがあるものか、それは少しおかしいぞと思えることばかり多く書いているようだ。それでまったく自分自身もはなはだ頼りにならないものだと思い、信用の出来ないものだとつくづく考えられる。まったく私は何かにつままれていたらしいようでもある、心細い限りである。だから今洋行中の手紙などをみると恥しくて身の毛がよだつ思いがする。
そのくせ私はいったん旅に出たその日から私は私自身の精神状態については、大丈夫か、つままれてはいないか、正気か、逆上していないか、帰郷病に罹ってはいないかと常に調べていたものだった。私は大丈夫だ正気だ[#「正気だ」は底本にはなし]と答えていたが、それがやはりどうやら間違っていたらしい。いったん船に乗り込むと同時に私はもはや常の心ではなかったものらしい。
それはまったく私が旅馴れないのと私の洋行以前の日常生活があまりに旧日本的であったためその生活の急激な変化が一つの原因でもあったかも知れないと思う。私のそれまでの生活は不精髭を蓄えて懐手をして、四畳半の座敷で火鉢を抱いて坐った切りの日常であったものだ。洋服はネクタイの結び方も知らなかったのであった。
それが直ぐに欧州航路の船客として、西洋人と同じ起居をすることになったのである。そして自分と連絡のある、あらゆるものから離れて海と空と、ペンキとマストとエンジンの音と、他人と外国語と遠方という世界へ投出されたのだから、多少気が転倒したのも無理のないことであるかも知れない。転倒したきり、変なところへ精神が引懸ってしまったものだろうと思う。
ところでかくの如く変な精神状態になるのは必ずしも私だけではないようだ、外遊中の誰しもが多少ともこの傾向を帯びているように私には思える。誰も彼もが一種のヒステリー症に罹るのだといってもいいかと思う。
一種の昂奮状態に陥るのである。いったんこの状態になるとなかなか回復しない。私は天狗につままれたる昂奮のままでパリやベルリンを歩いていたに違いない。
この昂奮状態も人によっては憂鬱性となって現れる人と、躁狂性となる人とがある。私などは憂鬱性であったらしい。
憂鬱の方は妙に日本が恋しくなり日本が世界一番だといい出す癖がある。躁狂性の方は反対に日本の悪口をいって心を養う。何といっても西洋だ、パリだといって騒ぐのだ。
欧洲からの帰途船中でのことだったが、ある紳士は日本人の体面を見せてやるんだと、朝からライスカレーの素晴らしい山盛を平らげてから甲板へ出て、何かデッキにつき出ている金物をぐんぐん引張っていた。何をしているのですかと訊くと、俺はこの船を空中へ引き上げるんだと威張っていたが、ずいぶん馬鹿気た話のようだが、どうもこれに似た心持ちが常に僕自身にも、あるいは誰の心にも多少働いているように思えた。私はなるほどと感心してその力業を眺めていたものだった。
船は紳士の力に応じて、多少引き上がって行くようだったがまた反対に落ちて行くようでもあった。
それは下から波が船を持ち上げているのである。とうとういつまで見ていても船は空中へは上がらなかった。
5
私のパリの下宿屋とその付近には、ずいぶん日本の画家や画学生が滞在していたものだが、集まって来ると、すぐこの憂鬱性と躁狂性のヒステリーが喧嘩をするのであった。一方はなあに、フランスなどつまらないものだよ、くだらないところだよ、思ったほどでもない、と主張すると一方は、日本など貧しいものですよ、あんなけちなところへは永久に帰りたくありませんよ、私はフランスの地面に立っていること[#「こと」は底本では「と」]それ自身が私の幸福なのですよという。この喧嘩は常に水かけ合いに終わって少しも収まらなかった。
結局、一方はパリを憧れている日本の奴らにろくなものはいないといって日本人を避けようとするし、一方ではあまり日本人同士集まっていては、言葉だって決して上達はしないし、けちでうるさくて堪らないといって日本人を避けようとする。両方から避け合って、やがて遠ざかる傾向がある。集まれば喧嘩するといったふうが多いようだった。
しかしながらこうして日本人を避け合って、自分一人は、天晴れのフランス人になり切れるかというと、それは何ともいえない。内地を朝鮮人が和服を着用して歩いているよりも、も少しおかしいかも知れないが、私はフランス人でないから何ともそれは申し上げる資格はない。
ところが左様に外国にいて日本だ、パリだ、と喧嘩したものが、いつか[#「いつか」は底本では「いつ」]どうせ日本へ帰ってくることになるが、日本でもやはり左様な喧嘩をつづけるのかと思うと、決して左様でもない。お互いにあの時は、どうせ心がいびつになっていましたからねと、口でこそはいわないが、よろしく推察してしまう。
それは自転車が衝突して二人とも転んだ時の如く、勝手に起き上がって埃をはたいてちょっと目礼してさっさと走って行くようなものだと考える。
だから大体、西洋からの新帰朝者の感想や言葉などいうものほど信用のならないものはないと私は思う。皆いろいろのつきものや昂奮の飛沫を喋ることも多いのである。まず一、二年間は静養させてやる必要があるかも知れない。私なども日本へ帰ってからだんだんと西洋の味がわかって来たように思えてならない。
私が今度、再び渡欧出来る機会があったとしたら、その時こそはまったくの正気でゆっくりと長閑に味わいたいものだと考えるが、これには確信が持てないようだ。私はちょっとした旅をしても、落着いた心で制作することさえ出来ない性質であるから、またすぐさま天狗につままれてしまうかも知れない。怖るべきは天狗の仕業である。
だが、時々人間は何かにつままれたくなるものだ。つままれたる[#「たる」は底本では「た」]昂奮状態というものはかなり淋しくない、いい気持でもあるのだ。
私は近頃何かにつままれてみたくて困っている。
6
トランクから妙に西洋の話になってしまったからついでにもう一つ書いてしまう。
私はある冬、ベルリンに一カ月あまり滞在していたことがあった。その時はちょうど戦後で、マルクが非常に下がり始めた頃だった。日本人は妙な運勢から皆大変な金持になったのだ。そこへまぎれ込んだ私達貧乏書生も、ちょっとした金持にはなれたのだ。たちまちあさましく[#「あさましく」は底本では「あさしく」]も友人H君とともに洋服を作ろうではないかと考えた。
下宿の娘がそれではといって私達を懇意な洋服屋へ案内してくれた。洋服屋はモッツストラッセにあった。
約束の二週間の後、私はその洋服を受取りに一人で出かけたものだが、ところがどうしてもモッツストラッセへ出られないのだ。私はくたびれてしまって辻馬車を呼んだ。そしてモッツストラッセ55と命じた。馭者はヤアヤアと合点して動き出し道を向かい側へ横切ったかと思うと急に馬車は止まってしまった。馭者がここだここだというので、よく見るとなるほど、そこに洋服屋があった。壁にモッツストラッセ55と書いてあった。ガラス戸の中にはおやじの白い頭も輝いていた。そして私は馬車代をちゃんと支払ったものである。
洋画ではなぜ裸体画をかくか
私の考えでは、人間はお互い同士の人間の相貌に対してことのほか美しさを感じ、興味を覚え強い執着を持ち、その心を詳らかに理解するものであると思うのです。
それは何しろわれわれは同類でありますから、私達が犬や馬や虎や牡丹やメロンやコップや花瓶や猫の心を理解し、その形相を認めることが出来るより以上によく認め理解し得るものであると思うのであります。
よく判り、よく理解出来、その相貌の美しさを詳細に知ることが出来、強く執着するが故にその美を現そうとする心もしたがって強く、その表現も簡単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。
それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それは複雑[#「複雑」は底本にはなし]きわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和四年六月)
亀の随筆
近代の看板は、主としてペンキ塗りである。それは変色しやすく、剥《は》げやすい、しかしそれで構わないので、剥げたらまた塗るだけの事である。この目まぐるしい近代の街景にあっては地味にしてお上品なものは人の目には止《とま》らない。特に円《えん》タクの窓からの走りながらでは、よほどのものでない限り人目をひかない。何かなしに近ごろは、人の頭を撲《なぐ》りつける位いの看板を必要とする。電燈の明滅の如きはちかちかとして小きざみに通行人の神経を撲っているのである。
最近のドイツあたりから来る新しいポスターにしてもがさようである。あの表現派風の円や棒、立体、縞《しま》等を配置する処の一見驚くべき大柄である処のものは皆、人の頭を撲る役目を勤めているのである。
ちらと見た瞬間に了解出来る看板は近代における重要な看板である。
ところで、昔の看板はさようではなかった。子守《こもり》や丁稚《でっち》が、あるいは車屋さんが車上の客と話しながら、珍らしい看板にはゆったりと見惚《みと》れているという有様であった。
従って、ゆっくり観賞出来るだけの手数のかかった看板が多かった。
ペンキのなかった昔は、看板は立派な木材が用《もちい》られ、そして彫刻師によって、書家によって、あるいは蒔絵師《まきえし》の手によって工夫されているものが多い。
今の大阪では古風な家は改築され、取払われ消滅しつつあるが故に、三十年前の旧態をそのまま止《とど》めている商家もまた少くなり、面白い看板もだんだん姿を消して行くようである。しかしまだ、高津の黒焼屋の前を通ると、私は私自身の生れた家を思い出す。それから船場《せんば》方面や靱《うつぼ》あたりには、私の幼少を偲《しの》ばしめる家々がまだ相当にのこっている。
現在の堺筋《さかいすじ》は殆《ほとん》ど上海《シャンハイ》の如くであるがその島之内に私の生れる以前からぶら下っている足袋《たび》の看板が一つ、そしてその家は昔のままの姿で一軒残っている。
それから、私は町名を忘れたが今もなお木彫である処の古めかしい河童《かっぱ》が屋根からぶら下っているのを見たことがある。グロテスクで気味悪いくせにちょっと見たい気のするものである。
私の生れた家は堺筋にあって、十年以前まで存在していた。先祖代々が古めかしい薬屋であるがために、家の店頭はあらゆる看板によって埋まっていた。今でも記憶にあるものでは急活丸という舌出し薬の看板である。藪《やぶ》医者のような男の半身像が赤い舌をペロリと出しているのである。それからライフという当時ハイカラな名の薬の看板はガラス絵だった。痩《や》せた男が臓腑《ぞうふ》を見せて指ざしている絵だった。その他、様々の中で最も手数のかかった大作は、何んといっても、私自身の家の膏薬《こうやく》天水香の亀《かめ》の看板であった。
それは屋根の上に飾られてあった。殆ど一坪を要する木彫の大亀であった。用材は楠《くすのき》である。それは地車の唐獅子《からじし》の如く、眼をむいて波の上にどっしり坐り、口を開いて往来をにらんでいるのであった。
そして、私の店には、一畳敷あまりの板看板が黒い天井から下っていた。それには三社御夢想、神位妙伝方と記されてあった。
その中で生れた私は、人間というものは、誰でも生れると、何かなしに、頭の上に亀がいるもので看板の中に住んでいるものだと考えていた。そして、人間は膏薬を売っているものだと思っていた。ところが少しもの心づいて来るに従って亀は私の家の看板で、薬屋は自分の家の商売だということがわかって来た。しかしその膏薬は何に効験あるものかという事は全く、十七、八歳に至るまで、私は本当によく知りもしなかった。
ただ私の店へ毎日参ってくる大勢の客はすべて腫物《はれもの》の出来た人であり、あるいは妙な処へ負傷した人のみであった。とにかく私は私の家が何屋さんで父は何をしているのか、屋根の亀は何んのまじない[#「まじない」に傍点]であるかについても永《なが》い間全く無意識だった。
ところで私が中学へ通い出した時分頃からしばしば訊《き》かれたものである。君の家の亀はいつごろから存在するのか、その薬は何に効《き》くのか、香水か、それとも線香か、私は随分その答弁に悩まされたものであった。さあ、俺《おれ》が生れると既に亀が往来をにらんでいたのでよく知らんといって置いたが。しかし私も気にかかるので先代からの古い番頭に訊《たず》ねて見たり父に問うたりして見たが、皆はっきりしたことは知らないらしかった。番頭の音七は何んでもあんた、あれは親|旦那《だんな》の親旦那のその親旦那の時分によその古手を買いはったもので、その以前はやはりある薬屋の看板やったといいますというのだ。そして私の知っているのでは、島之内焼けという大火事の時に何んと火の手が、隣の豊田はんまで来た時に、急に風むきが変って、あんた妙なもんや、私とこはそのままに焼け残ったもんだす。あまりの不思議に天水香の亀が水を噴《ふ》いたというてえらい評判だした。と彼は常に私に吹聴《ふいちょう》するのだった。それから、明治の始めには、ある毛唐《けとう》があの亀を売ってくれといって来たという話も屡次《しばしば》していた。その時あの亀の目玉にはダイヤモンドがちりばめてあるのだという風評が立った。勿論、あれだけの大きな眼球がダイヤモンドであったら、私自身は今ごろ、どんな道楽息子になっていたか知れない。幸いにしてガラスであり、その中に綿が入れてあったから、私は画家《えかき》位で収まっているのである。
しかし、西洋人としては、亀の眼球はどうであろうとも、ある東洋的なほりもの[#「ほりもの」に傍点]として、ほしがったということは事実であったことかも知れない。
とにかく、この荘厳な亀は看板としてはかなり人の注意を惹《ひ》く事において成功していたものに違いなかった。堺筋の亀の看板というと車屋でもヘイヘイといって直ぐ走り出したくらいである。そしてそのグロテスクな相貌《そうぼう》は、よほど近所の子供たちにとってはおそろしいものの一つであったと見えて母や子守や父親が、泣いている子を私の家の前へ連れて来て、「それ見なはれ無理をいうと噛《か》みまっせ噛ましまよか、さあどうだす」といっておどかしているのを私は常に店番をしながら眺めていたのである。
その亀は楠で作られてはいるが、永年の雨露にさらされ、頭だけは早く朽ちてしまうために、私の家の二階の納屋《なや》には古い頭が二つころがっていた。
彫刻師が誰であったか、何もかもが不明である。私の先祖の自伝の中にもこの亀については記していない処を見ると、あまり問題にもしていなかったのかも知れない。古い出ものがあったから看板によかろ、大きいから屋根へ上げて置けといっていたのかも知れない。
ところで近代の堺筋は外国の如くである。亀の住むべき屋根を奪ってしまい、長男の私を油絵描きにしてしまった。
私の弟が私に代って家伝の薬を継承してくれたことを私は心から感謝していいことである。最近、その亀は、下寺町の心光寺の境内に居候《いそうろう》していたのだが、その心光寺の本堂が三、四年前に炎上してしまった。しかし不思議にもその亀のいた庫裡《くり》は幸いにして焼け残ったのである。この現代ではまたもや亀が水を吐き出したのだと吹聴しても誰も本当にはしないであろう。
近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝《だいちょう》の鍋平朝臣《なべひらあそん》、一日、私に宣《のたも》うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸《ようや》くこの養老院において、万年の齢《よわい》を保とうというのである。
奈良風景
新緑のもとに女鹿が子供を連れて遊んでいる。何という絵らしい情景だろうと思って眺める。
しかし私はしばらく奈良に滞在して、朝夕鹿と交際をしてみた。そして鹿というものは最初見た時は大変愛すべく、やさしい動物に見えるけれども結局、それは記憶力の欠乏せる忘恩の、ずうずうしい、食いしんぼうの、強いものに対しては弱く、弱いものにはすこぶる強く出るところの小癪に障る奴であることに気がついた。
奈良の小学生達は大概、初夏の頃になると女鹿をおそれてなるべく避けて通学するのを見る。何故女鹿が怖ろしいかというと彼女は大切の赤ん坊を連れているからである。いやに神経を尖らせて注意深く周囲を眺めながら、多少足を踏ん張る如く力強く歩いている彼女は、大概子供を連れているか、あるいは近くの木の根や草むらに幼児を隠している。そして強そうな大人に対してはあまり向かってこないが女、子供、子守、老婆、幼児に対してはまったく威力を持つ。彼女は不意に背後からその両足を高く挙げてわれわれの肩を打つのだが、大概のものは一度で倒れてしまう。私は散々その足蹴にされている女や子供を見た。奈良公園の車夫どもは長い竿を持って彼らを追うのだが、もし誰も救うものがいなかったなら、半死半生の目にあうかも知れない。
鹿はしばらく倒れたものを眺めていて決して去らない。逃げようとして起き上がると再び足で踏むのだがその堅い足はまったく金槌位の痛さはあるだろう。そんな場合、死んだ真似をしてしばらく寝ているに限る。すると鹿は強いギャロップ勇ましく悠々と引き上げて行く。
五、六月、青葉の頃には日に何回となく私は人の悲鳴を聞いたことさえある。ある時は家族づれのうち老婆がやられた。老婆は倒れながら自分の腹の下へ孫を隠した。鹿はその上に乗りかかって両足で敲いているのだった。大勢のものが駆けつけたので鹿は去ったが、その家族は遊びをやめて帰ってしまった。その後老婆は発熱して四、五日寝たということだった。
ある朝、私が顔を洗っていると宿の人が呼びに来た。今、鹿が産気づいています。早く見に来なさいというのだ。私は産というものは一切見たことがなかったので、早速見物に出かけると鹿は近くの馬酔木のかげへ寝て、眼に苦悩を表していた。なるほどその腹は波を打っていた。
大よそ[#「大よそ」は底本では「およそ」]二〇分ばかりすると、鹿は急激に立ち上がって四つの足をふん張った。すると何か透明な水がさっと一升程も飛んだかと思うと、やがて黒い風呂敷包みの如きものがどさりと草の上へ転がったものである。鹿はその風呂敷を丁寧に食べてしまうと、その中からもっとも新鮮にして小さな鹿が現れ、その斑点はことに鮮明で美しく、ぱっちりと眼を開いて珍しい新緑の世界を眺めるのだった。
私が不思議に打たれてぼんやりとしているうちに、子鹿はヒョッコリと立ち上がり、親の後ろへ従って早くも歩いて行くのである。
私はその簡単さに驚いた。春日神社へ行くと安産のお守を売っているがなるほどと私は感づいた。
男鹿がその威力を現すのは何といっても秋の交尾期だ。夜も昼も森の中で彼は叫び通して異性を呼んでいる。それは相当悲しむべき声である。そのもっとも大にして年経たものはすさまじき酋長の面構えで、多くの女鹿をしたがえて威張っている。
彼はこの季節になると軒に干してある手拭い、風呂敷、ハンカチーフの別なく何によらず時にはバケツでさえも彼の角をもってさらって行く。そしてどうするのかといえば、それを彼の巨大な角の先へ巻きつけて、女鹿の前をその勇壮な姿において行進して見るのである。それは新調のネクタイを彼女に見てもらい、学生がわざわざその帽子を破り、画学生がブルーズを汚すのとほぼ同じものらしいのである。なお彼は水溜りの中へもぐり込みその泥を全身に塗りつけて、とても手荒い相貌を製造する。しかる後、彼は叫ぶのだ。
彼が異性を目指しての突進は砲弾を発射した如くである。二人の娘がある日小川の流れに添うて漫歩していた時、一匹の男鹿が女鹿を見て走り出した。不幸な娘達はちょうどその弾丸の通る道筋に当たっていたのだ。たちまち二人とも小川の中へ突き落されてしまったのを私は見た。娘達は同性心中となって現れた。
私は奈良に住んでだんだん鹿を憎むようになってしまい、常にステッキか石ころを用意して彼らの群の中を通るのであったが、彼らの鈍感さはまったく腹が立つ位のもので、ステッキで打ってみてもちょっと尻尾をピリピリと震動させる位のもので、キョトンとした眼でわれわれを顧みるのである。
しかしながら近頃たまたま奈良へ出かけてみると、あの新緑の下に水辺にあるいは紅葉の側に、彼らを見るとそしてあのなまやさしい眼を見るとまた奈良へ来たという感を深くし、一つせんべいでも買ってやろうかという気にはなる。
ややこしき漫筆
近頃あの銀行はややこしいといえば、よほど内容が危険でいつ休業するかわからないから、今のうちに預けてあるものなら早く取り出しなさいということまでも含まれているところの複雑な言葉である。
彼がややこしいといえば彼が怪しむに足るべきものだということになる。しかし断言はしていない。怪しいらしいが、あるいはそうでないかもしれないが、どうもうさん臭いという具合だ。
ややこしい噂が立ってまっせといって肩でも一つたたくと、このややこしさは彼がややこしい場合とはまったく違ったところの、情事に関する陽気で浮気な、色気ある羨ましき噂が立っていることになる。
彼らの仲はややこしいといえばやはり情事紛糾の意味である。この数学の問題はややこしいともいう。事件がもつれてややこしいとか、右か左か、西か東か、あるいはそのことごとくであるか、あるいは敵か味方か、敵にさえも好意を感じてみたり、その都合や心を汲んでやったり、憎みながら愛していたり、愛しながら憎んでいたり、好きか嫌かすこぶるはっきりとしないところの紛糾さらしき一種の心の、すなわちややこしさを表現するのに用いてはなはだ便利で重宝な言葉である。
その他類似という場合にもあれとこれとがすこぶるややこしいともいうし、また何かさっぱりしないじじむさい、不潔にしてグロテスクな顔を見て、ややこしい顔してまんなとも称する。
またシュールレアリズムに似て下手なるものやヴラマンクに似てかつ拙い絵などにも応用されて、ややこしいシュールややこしいヴラマンクややこしいピカソともいう。
そしてこの言葉のいいところは、情事に使っても悪口に使っても、何に使用しても決して法律や巡査の言葉の如く角が立たない上に、大体の言葉のどん底にはにやにやと笑いながら女が撫でているような響きを持っているので、何をいわれても忽然と腹が立って来ない。もし腹が立つにしても、テンポがのろいのだ。相手と別れて家へ帰って一晩中考えているうちにどうやら腹が少しく立って来るという具合だ。といってまたその相手に面会するとせっかく立った腹がまた寝てしまう。結局ややこしい言葉である。
このややこしい言葉が重宝に使われるということは、大体関西人とくに大阪人には人を怒らせずに悪口を述べ、悪口をのべながらも好意を示し、喧嘩しながらも円満にといった風の不思議に滑らかな心が昔から発達している、その結果がこの言葉で表現されるのだと私は思う。
だから大阪人のややこしさを了解しない地方人や東京の手荒い気質を持ったものは、はなはだ大阪人との交際ではまごつく。
例えば嫌なものを嫌だとはっきりいわないものだからつい食べさせる。結構でんなと顔では悦びながらも相手の好意を無にすることをおそれて、無理やりに胃の方へ押し込んでしまってあとから下痢嘔吐を催し、ついには食べさせた人をひそかに怨むようになったりする。そのくせ顔を見るとはなはだ丁寧に挨拶して、先日は結構な御馳走を頂戴いたしまして、もううちじゅう大悦びでなどいう。
大阪人の喧嘩は大概の場合、かかる行き方によって組み立てられていくことが多い。
好きか嫌か、嫌なら止めとけ、馬鹿、絶交だ、というふうに明快にはいかないのだ。
さあ、どっちでもかまいまへん。まあ、あんさんのお好きな方を頂戴いたします。など体裁のいいことをいいながら、実はあれがほしいと心の中では思っていて、いつまでも忘れないのだからあぶない。
双方が大阪人ならば、ああそうでっか、お好きなようにと、万事先方の心の奥を承知しながら、とぼけてしまって片づけるが、一方が簡単な人種だったらはなはだ不都合な取り合わせとなる。
このややこしい言葉を持たない地方の人達が、至極簡単に僕は嫌だ、それをくれ、いらない。金を貸せ、いやだ、よし、馬鹿野郎、帰れ、といったりするのをみると、何と気楽で素直で晴々とした心がけかと思い、あんなふうに万事を片づけて行きたいと私などは思う。
その代り大阪人同士が仲よくこの心をお互いに反映し合っていると、多くのタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]がその尖端を避けながら混雑の中を走るが如く滑らかな光沢を生じて流れて行く。その光景は洗練されたる不思議な見ものだ。
ある時、私はこの心がけで失敗したことがあった。それは母に頼まれてある結婚の話を断りに出かけたものだ。ところが先方の心を汲みはじめばなるほど、断るのは気の毒だというふうになり、賛成の意を現し始めたのだ。結局断りに行ってまとめて帰った。幸いにしてその夫婦の間ははなはだめでたいので結構だが、でも母が死んだ時悲しい中にも心のどん底でただ一つ私はほっとするものを発見した。
あるいは旅に出る時行きたい希望と、その日の天候やその他荷物がうるさかったり、あらゆる条件が何かも一つ腑に落ちないがために、行きたい心と行きたくない心とが同じ分量で喧嘩を初め、とうとう朝から終日鞄を携げてうろうろして、結局やめにしたという馬鹿な一日もあったりする。かかるややこしい大阪弁が近頃は東京でも一般に通用するようになって来たと思う。私が試みに使ってみても誰も笑うものがなく意味がよく通じる。ややこしい言葉は今はもう大阪弁ではないようだ。大体誰にでもこの心がけが潜んでおり、それを滑らかに表現するのにはなるほど便利な言葉だと気づいたのかも知れない。その代りうるさい悩みはいよいよややこしく成長するだろう。
展覧会案内屋
私は花を買ったので描こうと思ってカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スへ多少の色を塗り始めた頃、友人が電話をかけて来た。二科会で油絵が一枚買いたいと思うから案内してくれというのである。
少しでもよい絵を撰択してやることは職責上当然のことでもあると思ったから早速承諾した。
それから二人で会場をうろついていろいろの絵について私はいろいろと説明した。ところで私が弁士の如くさんざん重たい口から説明してしまってああ草臥《くたび》れたと思った時分に友人がいうのに、いくら君が説明してくれても、自分にわからない絵を買って客間へ懸けておくことは不安で堪らない。客間へ通る皆さんが口を揃えて立派な絵です、よい出来です、よいお買物をなさった、といって賞めてさえくれればまあよかったと安心も出来るが、来る者来る者皆その絵を見て変な顔をすると随分心細いという。
なるほど実業家の客間へ毎日何人かの美術家が訪問するわけではないのだからあるいはそうかも知れないし、また日に五、六人も芸術家に[#「芸術家に」は底本にはなし]詰めかけられては、かなりうるさいことだろうし、また美術家というものはたまにやってきてもあまり他人の作品を賞めない傾向もあるものだから、無理もないことかも知れない。
他人に問うても自分にもわからないものを懸けて心配しているよりは、自分にわかるものを買って安心している方が安心であるというのである。
なるほどそれも道理だと私は思った。私はもう草臥れて饒[#「饒」は底本では「食へん+尭、第4水準2-92-57」になっている]舌《しゃべ》る興味もなくなっていたので、では君のわかる絵はどれだと聞いてみた。友人は各室を歩き廻って、会場中で一番つまらないと思われる花の絵を指して、これがいいといった。そして彼は剛情にこれを買うといって買約してしまった。私は友人のはっきりとした態度には感心した。
さてこの絵を探すためになぜ私が呼び出されたのかわからなかった。
私がもし日常無関係であって何の知識も持たないところの、例えば株券でも買おうと思った場合誰にも相談せずに、私の自信によってなるべく株券の図案の面白くて美しい気に入った奴ばかりを集めて金庫へしまい込んで、私はそれで安心していられるかどうか、まだ本当に買ってみたことがないからはっきりしたことはいえない。
ともかく展覧会開催中はしばしばかかる案内屋で多忙である。
これも致し方がないことであるが、私は時々トーマスクックやプレイガイドというふうに本当に信用出来る案内屋が出来たら客も画家も助かることかと考える。もちろん日本画には昔からそんな組織は整頓しているらしいが、しかし案内屋、宿引の人格を鑑定することは絵の鑑賞よりも厄介かも知れない。
祭礼記
甚《はなは》だ勝手な申分であるが、私は正月の元旦といえども、ふだん着のまま寝ころんでいたりして、常《つね》のままな顔がしていたいのである。
しかしながら、世の中全体の人たちが、私の如く常の顔でころがっていてくれても面白くない。世の中はなるべく鹿爪《しかつめ》らしく儀式張ったり騒ぎ廻ってくれる方が、見ていて大変に変化あり、かつ面白く、景気もいいようである。
春夏秋冬、鳥は啼《な》かず、花は開かず、紅葉もせず、夕立もなく、雪も降らず、人間は貧乏と用事ばかりであったり、あるいは失業しているばかりでは、全く世界は憂鬱《ゆううつ》である。この憂鬱が、もし内攻でもするとそれこそ何か不祥な事でも起りはしないかとさえ思われる。
何んとか一年のうちには雷が鳴ったり何か素晴らしい事があったり、やけ糞《くそ》でもいいから大騒ぎでもするとか、何かぱっ[#「ぱっ」に傍点]とした事があってほしいものである。
しかし、大騒ぎといっても、戦争や米騒動などは、如何に素晴らしくともあまり好ましいものではない。あの怖《おそ》ろしかった米騒動の時、私は時々見物に歩いて見たが、あののぼせ上っている人たちの様子が、かなり愉快そうに見えたことがある。私はこれは不気味な祭礼の一種ではないかとさえ感じた。先ずさような喧嘩腰《けんかごし》でないものを私は望むのである。
そんな意味からいっても、私は人間界には祭礼というもののあることなどはいい事だと思っている。
今は、全国的に衰えて来たようであるが以前は夏祭や秋祭、あるいは盆踊、地蔵祭などいうものが、随分盛大に行われたものである。田舎の事を私はよく知らないが、大阪の夏といえば、先ずこの夏祭などは、殊に目に立って勇ましくうれしいものの一つであった。盆踊や地蔵祭なども市中いたる処に催おされたものである。ちょっとした空地《あきち》さえあれば、賑《にぎ》やかな囃子《はやし》につれて町内の男女は団扇《うちわ》を持ってぐるぐると踊り廻っていたものだった。これは米騒動よりも優美なものであった。
大体、大阪の夏は随分暑いと思う。東京は夜になれば、何んとなく冷気を覚えるが大阪は夜も昼も暑い。この暑くてながい夏の退屈を忘れるためにも、この祭礼事は頗《すこぶ》るいい思付きである。だがこれはもともと古人の発明にかかり、神様を主とした催し物であるから、その後非常な勢いで変化を来たした。現代の若い者にとっては、どうも多少折合のつかない催し物となって来たようだ。その上、風俗上の取締りも厳しいために、世の中全体もこの祭礼をよい加減に取扱う傾向を生じて来た。従って最近、大阪の夏祭も全く衰微してしまった様子である。
夏の祭礼のみならず、正月の儀式さえも今は一枚の年賀郵便で片づけ、あとは私の如く寝ころんでいるか、旅へ逃げるものが多くなった。殊に私らの仲間ではうっかり羽織袴《はおりはかま》でも着用に及び、扇子を持って歩き出そうものなら、それこそ馬鹿|奴《め》と叱られる位の進歩をさえ示して来たのである。ところで、こうなると、せめて金でもあったら、また何んとか工夫もつくが、貧乏であっては正月の三日間位退屈な日はないということになって来た。夏祭などはただの休日という感激のない日となってしまったのである。
私の子供の時分の夏祭は、まだなかなか盛んなものであった。大阪の市中には各所に沢山の氏神《うじがみ》が散在し、それが今もなお七月中にその全部が、日を違えて各々夏祭を行うのである。その氏神を持つ町内の氏子《うじこ》の男女たちは、もう一ケ月も前から揃《そろ》いの衣裳《いしょう》やその趣向の準備について夢中である。当日になると、各町内で所有するところの立派なふとん太鼓[#「ふとん太鼓」に傍点]や地車を引ずり廻るのである。町家は軒へ幔幕《まんまく》を引廻し、家宝の屏風《びょうぶ》を立てて紅毛氈《あかもうせん》を店へ敷きつめ、夕方になると軒に神燈を捧《ささ》げ、行水《ぎょうずい》してから娘も父親も母も[#「母も」は底本にはなし]息子《むすこ》も、丁稚《でっち》、番頭、女中に至るまで、店先きへ吉原《よしわら》の如くめかし込んで並ぶのである。今とちがって、いくら並んでいても町幅が狭い上に、電車とか円タクがこの世へ姿を現わしていなかったから街路は暗く、長閑《のどか》なものであった。
この長閑な町内を、自慢の地車やふとん太鼓が、次から次へと囃《はや》し立て、わいわいとわめきながら通るのである。私などは、この囃子が遠く聞えて来ると胸が躍《おど》ったものである。その地車の後から近所の娘たちがぞろぞろとついて行くところは、まだ何んといっても、徳川期の匂《にお》いを多量に含んでいたものだ。
しかし徳川期の匂いも今考えると徳川期だけれど、当時の私にとっては、決して有がたくも何んともなかった。ただ周囲の様子が尋常でなく興奮しているのと、地車や何かが通るのがうれしかったのだ。
かような騒ぎはうれしかったが、困ることには、私は父の命令によって、いやに儀式ばった挨拶《あいさつ》を来る人たちへ強《し》いられたり、着たくもない妙な仰々《ぎょうぎょう》しい着物を着せられるのであるそれが泣くほど辛《つら》かった。私は何んともいえず気の利《き》かない即ち大阪語でいえばもっさり[#「もっさり」に傍点]とした、しかも上等のきものを着せられ、畳表《たたみおもて》の下駄を履《はか》されるのだ。私は平常のままなら何処《どこ》へでも行けるが、これを着てはもう一歩も恥かしくて外へは出られないので、私は憂鬱に陥るのであった。
すると父は「この罰《ばち》当りめが」と叱りつけた。母は「せっかくこしらえてやったのに、よその子を見て見なはれ、そんなきもの[#「きもの」に傍点]は着てえへんやろがな」といって泣きそうな顔をした。私はその有難さはよくわかるのだが、そのよその子の常のままの姿をどんなに羨《うらや》んだか知れない。
一度、それは日清《にっしん》戦争|凱旋《がいせん》の時である。大阪全市が数日間踊り続けた事があった。その時私はそれこそ妙な縮緬《ちりめん》の衣裳を着せられた。腰には紅白だんだらの帯がぶら下っていたのを覚えている。鼻の先きへは多少の白粉《おしろい》が施され、私の頭の上には蝋燭《ろうそく》の点《とも》った行燈《あんどん》がくくり付けられ、手には団扇を持たされた上、さあ、近所へ行って見せて来いといわれた。私は日清戦争といえばすぐこの時の辛さを思い出す。私は頭へ火を点《とも》しながら団扇を持って隣家の軒下へ立って泣いていた。
この点、私は現代の子供が頗《すこぶ》る新鮮な母親を持ち、青い上衣《うわぎ》一枚で大威張りで飛んで行く明るい自由さを心から幸福だと考える。
それでも、なおこの現代において、私の生れた船場《せんば》や島之内あたりの、最も古風が今に残されているところでは、この夏祭や正月において、私と同じ運命に出会っている子供を時々発見することがある、私は憐《あわ》れに思う。
それはともかくとして、今日有名な天神祭などはこの数多くの夏祭の代表的な一つが辛《かろ》うじて、年中行事として保存されているものである。先ず結構なことだと思う。しかしながら、これは奈良のおん祭の如く京都の祇園《ぎおん》祭の如く、神社の行事として残っているのであって、これがために、世の中全体が踊り出したり、のぼせあがったりするものではないから淋しいと思う。
これに比べると南仏、ニースのカーナバル祭の如きは素晴らしいものである。それこそ終日終夜、全市の老若男女が入り乱れ踊り狂うのだから、あんな愉快な大騒ぎこそ羨ましく思う。そしてその仮装の気が利いて美しく整頓していること、華やかで明るいこと、踊と音楽が子供にまで沁《し》み渡っていること、その大げさなことなど、到底今の日本などでは見られない図である。
とにかく、人間には年に一度くらいは何かの形式において底ぬけの大騒ぎくらいはあってもいいだろうと考える。
今日、大阪の夏祭もやはり行われているのであるが、地車や太鼓の多くは教育資金や衛生組合の費用の不足にあてられ、わずかに祭の形骸《けいがい》だけが平凡な休日となって残されているに過ぎないのである。氏子はその氏神へ参詣《さんけい》する位に過ぎない。息子や娘は参詣すべき神様の御名前も知らないでいる位神様の内容が弱って来た。
その代り子供たちは変なものを着せられたり白粉《おしろい》を鼻先きへ塗られたりする恥かしさから解放されつつある。だが、世は不景気にして常に常の如く静かである。時に示威運動の行列や自動車ポンプのうなり声が、子供の心を引立たしめるかも知れない。
大人も子供も、夏は暑いから、せめては新世界へでも出かけて、剣劇の刃《やいば》の先きからでも冷気を吸うより外に素晴らしいこともなさそうである。剣劇の流行も無理のない勢いだろう。
この衰微しつつある祭礼に代って今日の新しい人間に適当な、しかものぼせ[#「のぼせ」に傍点]上らしめるような騒ぎ方はないものかと私は思う。
新調漫談
人は皆それぞれはなはだよく似合った帽子を選択し被っているので私は常に感服している。誰が教えたというわけでもなく、政府が制度を定めたわけでもなく、各自、身分相応似合いの帽子を被って歩いている。大工、職工、画家、紙くず屋、大臣、不良少年等、皆似合いの帽子を被っている。
では、帽子の種類がどれだけたくさんこの世に存在するのかといえば不思議にもそれはソフトか中折れ帽子位のものである。要するに多少の古びと、その被り方と、ちょっとしたくせのつけ具合によってあらゆる帽相が現れるのではないかと思われる。前上がりと前下がり、あみだ、横被り、中を高くし、あるいは凹まし、あるいはひしゃげてしまい、あるいは几帳面に、あるいはぐしゃぐしゃにつぶす等、種々様々の趣を作り、もって千差万別の人格と相貌とに当てはめて行くところに、人間の大変な神経と注意が払われていると私は思う。
それは神様が人間の顔をすこぶる簡単な二つの目と、一つの鼻と、一つの口位の造作によって、あらゆる人相を現しているのと同じような心がけである。
しかし、中折れやソフトは、形をいかようにも崩すことが出来るけれども、山高帽子やシルクハット等はあらゆる階級、人相へ直に当てはめることが困難である。もちろん、日本では山高は正月と葬式と赤十字社総会において、人は押入れから取りだすけれども、いかにもそれが葬式臭く、総会臭くて、その帰途、ちょっと活動やカフェーへ立ち寄ることがおかしくてたまらない。
だが、フランスでは常に山高帽子を被る男が非常に多い。もちろんもっと以前は現在の中折れと同じ程度に山高を被ったものだそうである。この形正しい山高でも、皆のものことごとくが被ったら、またその被り方を考え、あるいは顔の相形をば山高へ調和させるべく引きずったりすることであろう。したがって山高時代の西洋人は、現在よりも皆儀式ばった顔をしていたに違いない。
もちろん、古いロンドンの名勝写真には、往来の人みな、シルクハットを被って歩いているのをみたことがあるが、随分何かと几帳面でうるさかったであろう。
私がパリへ着いて間のない頃だった。洋服単笥の錠前が損じたので、宿の女中につたえておいた。するとやがて、一人の山高の紳士が私を訪問したので、これは一体何だと思っているとその後から女中が現れて、錠前屋さんですといったことがあった。パリでは、ヴァイオリンを弾く立ちん坊が茶色の山高を被っている。大変意気な形である。そして、衣服は破れ汚れているにかかわらず、カラーだけは白いのをつけているところは、山高の形正しきものへの重要なる調和を保つべき心がけからだろうと思う。
その点日本の田舎の校長が式場に臨む時の山高が意気とは見えない。フロックの背にしわがよっていて、ネクタイがゆがんでいて、顔が多少いびつであったりすることもある。まず大体からいえば、日本人にとっては山高などは似合わない帽子であるが、幸いにも左様な正確な様式のものはようやく衰えつつあることは日本人にとっては何よりのことかも知れない。
要するに、どんな形のものであっても、それを皆のものが被り着なれてくることによって、着こなすだけの工夫が現れてくるものである。したがって買いたての帽子、仕立ておろしの洋服、新調の靴、もらいたての細君位ぎこちなく、自分自身になり切れないものはない。
私の学生時分、人からソフトをもらったことがあった。どんな形にして被ればいいか、まだよく飲み込めていないその夜、浅草千束町の銘酒屋を観賞して廻った。その時障子の中から一人の女が、随分似合わない帽子を被っているわね、と叫んだものだ。私は、私の心の穴をえぐられた心地してびっくりしたことを今に忘れ得ない。しかしながら一目にして観破するところの随分敏感な女の神経に敬服したものだった。
その代わり被り慣れた帽子こそはわが手足でありわが顔、鼻、口である。いかにお粗末であり、汚れていても捨てるに忍びない愛着を生じる。
帽子は西洋から日本人の頭へ渡来したが、散髪もまた渡来せるものの一つであろう。帽子は頭へ戴けばそれでいいが、散髪は自分自分の毛髪をもって製造する性質のものであるから、髪そのものの質が問題になる。西洋人の髪は綿の如く軽く細く柔軟であって、ちぢれている。その髪から起こった散髪の種々なる様式である。
古来日本人の自慢とせる髪は重く、長く、硬直で黒く、房々とせるものである。したがって支那の弁髪や日本髪を結ぶにもっとも適当であった。と同時に散髪し、オールバックにし、耳隠しとし、波を与えちぢらせるには大変な手数と悩みを伴うものである。だがしかし今更ちょんまげへ還元することは出来ないために、勇敢に東洋人はわが毛髪と戦っている。ただ一つ私は最近の断髪において、東洋人の髪が房々として適当ではあるまいかと思っている。
それはともかく戦わせておくこととして、散髪屋から出て来た男や美粧院から飛びだした女達は、皆びっくりした如き表情をしているのを私は感じる。
私自身も、散髪屋から出る時いつもそれを感じて不愉快になる。それでたびたび散髪する気になれない。やむを得ず一カ月一回位は行くが、ことに顔そりは嫌いだ。職人はかみそりを持って、その塩辛い指で私のくちびるを引張り廻すのである。それから頭を洗ってからポマードか何かをこってりとなすりつけ、一糸乱れずてかてかに光らせることである。私の好みでは、一糸乱れている方が心安くていいので、まア簡単にざっとやってくれと注文しても、職人へは一切通じない。彼は黙って一生懸命平手で髪をピッタリと固めてしまう。やがて鏡に映る私の顔が色魔医者の相貌となった時、ヘイどうもお待ち遠さまと彼はいう。私は出てから早速私の頭をハンケチでぬぐいひっかき廻してしまうのだが、でもべっとりとしてその日は友人にさえも合わす顔がない気がする。
ことに女が髪結床や美粧院から出て来た時の姿位、飛び上がった感じのするものはない。彼女は何と大変な頭を捧げていることか、凝り固まった耳隠しや光輝ある日本まげを戴いて、目だけ動かしつつ電車道を横切っている。
その整然と出来上がった頭は、買いたての帽子の比ではない。しかし帽子は凹ましぐせをつければ、先ず四、五年間は愛用出来るが女の頭が本当に自分自身のものとなる頃には、再び美粧院の門をくぐらねばならぬ頃である。
すると、本当に自分自身のものである間ははなはだわずかな日数だけであろう。
ある友人は、パリのしゃれものは仕立ておろしの服を直ぐ着用して外出はしないと話したことを記憶する。それは真にさもそうかも知れない。部屋で充分自分のくせをつけてしかる後、彼女の前へ立とうとするであろう。何はともあれ結いたての髪、新調の帽子等みなことごとく相当の不調和さと嫌らしさを備えている。私はそれが何より嫌だ。
下手《げて》もの漫談
芸術家が最上の芸術を作ろうとして出来上った手数のかかった、高尚、高貴、高価な品物ではなく、ただ食事のために作った茶碗《ちゃわん》や食卓、酒の壺《つぼ》、絵草紙《えぞうし》や版画の類あるいは手織|木綿《もめん》のきれ類といった如き日常の卑近なるものでありながら、その職人の熟練やその時代の美しい心がけなどがよく現れた結果、芸術家の苦心の作品よりももっと平易で親しみやすい、気取らぬ美しさが偶然にも現れているといった品物に対して、骨董《こっとう》屋は下手《げて》ものと呼んでいるように思う。
万事上等、高貴、高価なるもの以外は一切手に触れたくないという上品で持ち切る事の出来る人も結構だが、どんな下品、下等なものでも決して構わず眺め、食べ、観賞し、楽しむ事が出来るものもまた、世の中が手広くてかつ、安価で幸福である。そして偶々《たまたま》、上等のものにありついた時は、また、素晴らしく悦《よろこ》ぶ事も出来ようという訳だ。
私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等なものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る。それは一つには、私が純粋の大阪の町人に生れ、道頓堀《どうとんぼり》に近く、何んとなく卑近なものにのみ包まれて育ったがために、高貴上等の何物も知らなかったという点もあると思われる。私の心に当時沁み込んだいろいろの教育資料は、悉《ことごと》くこの下手《げて》ものばかりだったといって差支《さしつか》えない。
学校で一体私は何事を教わったかを忘却したが、この下手《げて》なる教材の多くを私は忘れ得ないのだ。それが一生涯、私の血の中を走っているような気がする。
例えば父は、浄るりを語っている、母は三味線を弾《ひ》く、夜は夜店を見てあるく。そして、太鼓まんじゅうと、狐《きつね》まんじゅうと、どら焼きを買って帰る、丁稚《でっち》小僧と花合せをして遊ぶ、時々父は私を彼が妾宅《しょうたく》へ連れて行く。その家の戸口には、角行燈《かくあんどん》がかかってあり御貸座敷と記してあった。
そこでは「ぼんぼん、ええもの買うてあげまよ」といって芸妓《げいぎ》と仲居《なかい》が私を暫くの間、芝居裏の細道をうろうろと何かなしにつれて歩くのだ。そして何か一つ玩具《おもちゃ》を買ってもらう訳だった。やがて父は、さあ帰ろうといって私の手を引くのだ。私はそれが何をしに来たものか、この酒と酒を温める湯と、妙な臭気の立つ処の、しかも何か華かな心を起さしめるこの家が何屋で何をするうちか知らなかったが、それを会得するのには中学程度の知識が必要だったと見え、十五、六歳に及んでうすぼんやりとなる程度、ははん[#「ははん」に傍点]と気がついた。
しかし、そこで私のたべさされた桃などは、とても家庭でたべるものとは比較にならない上等の品だった。今考えると、水蜜桃らしかった。何しろ口中で甘い汁がどっさりと出て直ちに溶解してしまうのだから素敵《すてき》だ。綺麗《きれい》な鉢に盛られてさアぼんぼんお上りといって出されるのが何よりの楽しみなんだ。それに皆が大変よくしてくれるので、私は幸福な家だと思った。ところがまた妙に大切にしてくれる処が気に食わぬ処もあった。
それにも一つ、ここへ来ると、あまりに女の人たちが美し過ぎるのと、大礼服を着用しているのと、それらが強い香気を放って、妙に私の心を騒がせるのがきまり悪くて堪《たま》らなかった。それに彼女らは、よってたかって学校でもどこでも、聞かされた事のない会話を喋《しゃべ》るのだ。そして、さアぼんぼん、もう水あげすんだ[#「もう水あげすんだ」に傍点]といって勝手に喜んでいたりするのが、私に諒解《りょうかい》出来ないのだが、何かその臭気や大ぜいの女の色彩や電燈の光が交って私の心をときめかすだけの役には立ったと思う。
なお、私の家は、先祖代々|一子相伝《いっしそうでん》である花柳《かりゅう》病専門薬を製造していた。天水香というのは自家製の膏薬《こうやく》の名であり、同時に家の屋号の代用として通用した。よその人は父を天水香はんと呼んだ。
その頃は薬屋が医者の如く、診察しても構わない時世だった。私の家の店頭は朝から、弁当持参のいろいろの男女の客で埋っていた。彼らは何をしに来ているのか、これも私にはわからなかったが、ただ人間というものは、私の店へ来《きた》って順番に父から妙な場所へ膏薬を貼《は》ってもらうものだと信じていた。
私はこの膏薬の効能書を丁稚《でっち》と共に大声で鉄道唱歌の如く合唱したものだった。即ち、かんそ、よこね、いんきん、たむし、ようばいそう、きりきず、腫物《はれもの》一切女○○のきずといった具合に。
その頃、私の通った小学校が島之内の真中にあった。集る処のものは多く、宗右衛門町《そえもんちょう》あたりの芸妓の子、役者の子、仲居の子、商人の子らだった。決して、華族様や政治家や学者の子はいなかった。
ある役者の子供は、まだ昨夜の白粉を耳のうしろに残したままやって来て、時々胸を開《あ》けて見せたりした。覗《のぞ》いて見ると白粉と交って、紅色の沁みが一面に残っていた。何んでも、殺される役なんだ。
私は、何か、気味の悪い奴だと思うと同時に、私よりも大分えらい子供かとも思って見た。
宗右衛門町から通って来る娘で、紺地に白ぬきの上《あが》リ藤《ふじ》下《さが》リ藤《ふじ》の大がらの浴衣《ゆかた》を着たのが私を恍惚《こうこつ》とさせたものだ。それが悩ましいためか何かよくわからないながらも、何しろ大変気にかかってしようがなかった。今にこの浴衣の模様を忘れない処を見ると、随分心に銘じたものと見える。
記憶といえば妙なもので、小学校、中学校で何か一生懸命に試験勉強したけれども、その辛《つら》かった事だけは覚えているが、さて何を記憶しているかと思うと、悉《ことごと》く忘却してしまっている。しかも忘却してどれだけの不便があるかといえば何事もない。何かの必要上、あれは何世紀の出来事だったかを調べるには、簡単に書物は備っている。訳はない。
さて私たちの心にこげついて根を一生にのこす処のものは、日常のくだらぬ事ばかりであるといっていい。そのくだらぬ事ばかりがなかなか生きている。
蜻蛉《とんぼ》の羽根と胴体を形づくる処のセルロイド風の物質は、セルロイドよりも味がデリケートに色彩と光沢は七宝細工《しっぽうざいく》の如く美しい。あの紅色の羽根が青空に透ける時、子供の私の心はうれしさに飛び上った。そしてあの胴体の草色と青色のエナメル風の色沢は、油絵の色沢であり、ガラス絵であり、ミニアチュールの価値でもあった。
私の夏は蜻蛉《とんぼ》釣り以外の何物でもなかった。夕方に捕えた奴をば大切に水を与え、翌朝は別れをおしんで学校へ行くのだ。学校では、蜻蛉の幻影に襲われて先生の話などは心に止まらない。
ある時、算術の時間中、私は退屈して、蜻蛉が、とりもち[#「とりもち」に傍点]竿《ざお》でたたかれる時の痛さというものについて考えつづけた。竿があの草色のキラキラした頭へ衝《つ》きあたった時は、どれ位いの痛さだろと思ってちょっと頬《ほっ》ぺたを平手で試《た》めして見た。も少し痛いかと思って少し強く叩《たた》いて見たがどうもまだなまぬるかった。とうとう私は夢中になって私の頬《ほお》をぴしゃりと強く打ったものだ。忽《たちま》ち静かな教室の皆の者が私の顔を見た。私は蜻蛉に同情したために放課時間中、教室に一人立たされていた。
でも、早くあの蜻蛉に会いたくて走って帰ると、蜻蛉は猫に食べられて二、三枚の羽根となって散了していた。私は地団太《じだんだ》踏んで泣いた。とうとう、丁稚《でっち》と番頭につれられて、八丁寺町《はっちょうてらまち》へ大蜻蛉狩りを行った事である。
最もエロチックにして毒々しき教育のモチーフは、千日前《せんにちまえ》を散歩するとざらに転《ころ》がっていた。私の家が千日前に近い関係上、ひまさえあると誰れかに連れられて私はこの修羅場《しゅらば》を歩きまわった。
活動写真はまだ発明されていなかったために、そこは、地獄極楽の血なまぐさい生《いき》人形と江州音頭《ごうしゅうおんど》の女手踊りと海女《あま》の飛び込み、曲馬団、頭が人間で胴体が牛だという怪物、猿芝居二輪加《さるしばいにわか》、女浄るり、女|相撲《ずもう》、手品師、ろくろ首の種あかし、等々が並んでいる。中でも私の好きなのは、あくまで白く塗った妖味《ようみ》豊かなろくろ首の女であった。怖《おそ》ろしいのだが、見たいのだ。何かキラキラと光る花かんざしや、金モールの房《ふさ》のある幕の端がだらだらとぶら下って、安い更紗《サラサ》模様のバックが引廻わされている。
私がもう写生帖を懐中するだけの大人となってからの事だ。私の弟が薬剤師の試験を受けるためにとっておいた受験証をば私は預かっていた。それをその写生帖の一頁へはさんでおいた事をうっかりと忘れて私は、人ごみの中へ立って、ろくろ首を写生した。
その翌日弟の試験日だ、私はそれを落した事を初めて知ったが、もう千日前の泥道にさような小さいものが存在すべきはずもなかった。弟はとうとう一年間遊んでしまったという、私の大失態がろくろ首から、醸《かも》し出された。
曲馬団の娘や、女奇術師の顔や、女相撲取りの顔にもろくろ首と共通せる妖気は漂うていた。白粉《おしろい》が強いので二つの眼が真黒の穴とも見えた。殊に曲馬団では、殆《ほと》んど肉シャツ一枚で、乳がその形において現れ、彼女らは皆黒か赤のビロウドの猿股《さるまた》を穿《は》いていた。それが、固く引締った下から太い股《もも》が出ている処に胸のどきつく美しさがあった。それが針金の上で、あるいは空中の高い処であらゆるポーズをして見せるのだから、今でも私はあの芸当を好む。
それと、私は、曲馬団が吹き鳴らす金色のラッパの音がとても好きなのだ。私はあらゆる音楽の中で、極端にいえばあのラッパの響きを好むといっていいと思う。あの調子の破れたような金属性のかすれ声はエキゾチックな泣き声である。
私が巴里《パリ》の客舎にいる頃、いつも町|外《はず》れの森の中から、この曲馬団のラッパが毎日響いて、私の帰郷病を昂進《こうしん》させた。私はもし何か、長唄《ながうた》とか清元《きよもと》、歌沢《うたざわ》のお稽古《けいこ》でも出来るようなのんきな時間があったとしたら、私はこのラッパの稽古がして見たい。
自分の親の醜態はあまり見たくないものだが、私の父は素人浄るりの世界では相当の位置にあったものと見えた。会がある度《た》びに母と共に、私は出かけねばならなかった。
人目につく高い処へ父が現れるだけでもきまりが悪いのに、その父が女の泣く真似《まね》をして何んともいえない渋面《じゅうめん》を作って悩むのだから、子として全く私はやり切れなかった。で、浄るりの会と聞くと憂鬱《ゆううつ》になった。しかしながら、燭台の焔《ほのお》がほろほろと輝き大勢の人が集り、芸妓《げいぎ》らしい人たちが大勢集り、ぼんぼんといってくれるのがうれしいのと、会のあとでは「のせ」といって何か御馳走《ごちそう》にありつけるのが先ず私の目的だった。
私の父は胃に癌《がん》が出来てからもなお、素人浄るり大会で、忠臣蔵の茶屋場の実演に平右衛門《へいえもん》となって登場した。その時の憐《あわ》れな姿は、むしろ亡霊に近いものだった。私の父は死ぬまで、消極的ではあるが、陽気に遊んでいたかったらしい。
大体、浄るりというものが、何を喋《しゃべ》っているのか、少しも諒解《りょうかい》出来なかったけれども、ただその音律の物悲しいものである事だけが私の心へ流れ込んで来た。
それで今でも、あの太い三味線がでん[#「でん」に傍点]となって、太夫《たゆう》がうーと一言うなると直ぐに浄るりを聞くだけの心がまえが忽《たちま》ちにして私の心に備わるのである。
たった一つ、清潔な教育は施された。それは、心学道話だ。これは、堺筋に道場があり、燭台と、燈心の光以外の燈火はなかった。床の間に忠孝の軸が懸《かか》っていた。近所の医者とか知識あるものたちが、義勇的にここへ現れて、ためになる話をしてくれるのだ。忠臣義士の話を連続的にうまく演じる人もあったと記憶する。何しろ燈心の暗さが心を静めるのと、近所の人がぞろぞろと集るのが訳もなくうれしく、その上帰る時、岩おこしを一つずつ頂戴する事が最後の希望でもあった。
この心学道話は今なお、スピードの堺筋に存在し、心学道話の看板も懸っていると思う。
いも助、くり丸、といって二つの有力な宣伝業である東西屋《とうざいや》があった。今高座に出ている九里丸はその子孫かどうかは知らないが。
この二つの東西屋は各々特色があった。いも助は鳥の尻尾《しっぽ》を立てたる籠《かご》の如き形の笠《かさ》を被《かぶ》り、大きな拍子木《ひょうしぎ》を携帯していた。喋《しゃべ》る時、目を細くして頭を左右に打ち振るのが彼の特長であった。九里丸はきらびやかな殿様風で万事が華やかだった。時には一本歯の塗りの高い下駄を履《は》いて、素晴らしい衣裳で大ぜいが三味線や鐘[#「鐘」は底本では「鉦」]で流して行くのが、私にとっては心の躍る行列だった、私はいつまでも後から従った。ある時、一本歯の九里丸は躓《つまず》いて彼は倒れた。金らんの帽子はそのはずみで飛んでしまい、つるつるの禿頭が私の前へ転《ころ》がったものだ。私は、それ以来九里丸の頭が少し怖ろしくなって、つい、いも助の方へ、なるべく賛助して歩くようになってしまった。そして同じ口上《こうじょう》を幾度でも暗記するまで、ついてあるいた。そして彼の柔かに動く頸《くび》と、細い目を観賞しながら。
とこう書いていると、いくらでも記憶は蘇生《そせい》する。ともかくも、かかるすべてのものは悉《ことごと》く下手《げて》の味あるものばかりである。一つとして、高尚、高貴、上品なものはない。夜店のたべもの、夜店の発明品だ。香具師《やし》がいう如く、あっちにもこっちにもあるというありふれた品物ではない。買って帰るとすぐつぶれるという品でもないといっているが、即ちその品こそ持って帰るとすぐつぶれてしまう処のものであるのだ。
しかしその、変色し、つぶれる、安い処に、愛嬌《あいきょう》と物悲しさを含んでいる。そして下手ものは安く仕上げる必要から勢い手数を極度に省く、その事が偶然にもまた、芸術の方則に合致する事があり、適当な省略法が加えられるのでその結果、高貴なるものの複雑にして鈍きものよりも、単純にして人の心を強く動かすだけの力を偶然にも備えるものである。
現代では人絹《じんけん》というものがある。人絹製の帯や襟巻《えりまき》などに、上等のものよりも数等感心すべきさっぱりとした美しい柄を発見する。そして、幾百円の丸帯など見ると、全く何か、うるさい、不愉快な手数ばかりを感じてしまう事さえある。
狩野《かのう》派末期の高貴なる細工ものよりも、師宣《もろのぶ》の版画に驚嘆すべき強さと美しさが隠されていた如き事も、世の中には常にある事だ。
大体、日本人は、何から何まで本物でなければ承知しないくせ[#「くせ」に傍点]がある。本物もいいが極端になるとその結果、何から何まで本金づくめの本物づくめとなり、指に純金の指環《ゆびわ》、歯に本金の入れ歯を光らせ、正二十円の金貨を帯止めに光らせ、しかも、工芸的価値や模様の美しさなどは顕微鏡で覗《のぞ》いても出て来ない。
西洋の下級な女たちの手にはめられている大げさな指環は、悉《ことごと》くこれ、ガラス玉であり、牛骨と合金で出来上っているのを見た。そしてそれが愛すべく美しい模様|唐草《からくさ》によって包まれている。私は、そのガラスの青さと、合金の金具と、その唐草の美しい連続がどれだけ女を安価で可愛く仕上げているか知れないと思う。そして、私の如き画家が絵に描く肖像も、それらあるがためにどれだけ描くべきモチーフの楽しさが増す事か知れない。
私は世界を美しくするものは何も本金であり本ものの真珠でも、ダイヤモンドでもないと思っている。それは、土であり石ころであり、粘土であり、ガラスであり、一枚の紙であり画布である。ただそれへ人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いた処に、あらゆる美しきものが現れるものだと考えている。
何しろ、私は下手《げて》なるものの味をより多く味わい馴《な》れているためか高尚な音楽会も結構だが、夜店の艶歌師《えんかし》の暗《やみ》に消え行く奇怪な声とヴァイオリンに足が止まり、安い散髪屋のガラス絵が欲しくなり、高級にして近づきがたい名妓《めいぎ》よりも、銘酒屋のガラス越しに坐せる美人や女給、バスガアル、人絹、親子|丼《どんぶり》、一銭のカツレツにさえも心安き親愛を感じる事が出来る。
静物画雑考
東洋画ことに支那絵には野菜、果実、草花、器物、等が単独に絵の題材として古くから多く使われている。もちろん、日本絵においてもそうであるが、それらの題材のみを描いた絵に対して特別な名称、例えば山水画、花鳥画といったようなものがなかったように思う。
西洋ではナチュールモルトといっているが、日本では誰が翻訳したものか知らないが静物と呼び馴ら[#「馴ら」は底本では「馴らわ」]されている。まず便利な言葉であるところから近頃は日本画家の間にも通用するようになってしまった。
しかしながら以前は絵に無関係な人がたまたま展覧会など見に来て、しずかものあるいはしずものとは何ですかとよく訊くことがあった。まったく他人にはわけのわからぬ文字かも知れない。しかしもう昭和の御代では、あかの他人でも静物といえば大概あれかと合点する人でこの世は埋まって来ただろう。
「静物は林檎のことと母思い」とはこれもまた誰の作った川柳か私は知らないが、以前はまったく林檎が静物である位皆林檎を描いた時代があった。私の美学校[#「美学校」は底本では「美学」]時代などはその隆盛時代だったとみえて誰しもが申し合わせた如くまず洋画では林檎が一人前に描けたら及第だといっていた。
ところであの林檎という奴はツルツル丸々としていて、私などは一向に昔から描いてみたくならないものだったが、何かしら絵がうまくなるまじないだから位のつもりで私も相当描いてみたことはあるが、正直なところ一度も面白いものだと思ったことは更になかった。
要するに静物画といっても、林檎ばかり描くべきものでもないので、室内にあるすべてのものあらゆるものが絵の題材として選ばれていいのである。
静物画は、自然さからいえばよほど人工的なものである。一つの画面を作るために風景にあっては樹木を構図上の関係からいろいろと並べてみたり、山を移動させたりすることは出来ない。まずありのままの形において写し、構図は人間の方で多少動いてよろしき位置を定めるのであるが、静物にあっては例えば卓上菜果の図を作るに、それらの題材は自由に画家の希望通り並べかえ取りかえることが出来る。その代りなまじっか、自由が利くところにかえって構図上のむつかしさ[#「むつかしさ」は底本では「むずかしさ」]が起こってくる。ああでもなく、こうでもなく、結局あまり細工をやり過ぎて妙な、嫌味な、不自然なごたごたしたものを製造してしまう。
構図は取捨選択が勝手次第であるが題材はその範囲はなはだ狭いものである。風景画の如く広く自然界に向かう如く無尽蔵な題材は得られない。つまり主として室内における仕事である。座右の何物か以外には描くべき何物もないことさえある。ことに下宿屋の二階の四畳半で暮していたりすると茶色の壁と、チャブ台一ツ、火鉢、本箱でおしまいである。いかにマチスでもこの光景を見ては嘆息するだろう。
止むを得ず林檎とバナナを八百屋から買って来てチャブ台へ並べ、古い風呂敷とタオルをピンで壁へ貼りつけて、カーテンのつもりと見做したりする。
こうも苦労してまで、何も室内に興味を持ち静物画を描かねばならぬ必要は決してないので早く道具を持って郊外へでも走ればいいのである。
静物画はいながらにして絵になる世界を製造し得る便利至極なものであるがために、必然な心の動きからぜひ描きたいと思う場合を除いて、ややもすると不精者の怠け細工に使用されがちである。本当は何か風景でもあるいは人体か何か描いてみたいのだが出るのが億劫であり、金はなし、人体を描くには寒く、ストーブの設備もなし、万止むを得ず風呂敷を壁へピンで貼りつけて、西洋館を夢想しようというのだから生き生きした静物画が出来るわけがなさそうである。
あるいは婦人達の洋画展覧会を見るに一番から百番までの目録が大部分草花静物であったりすることがある。何のことはないお花の会である。
静物画はいながらにして出来ることと室内における題材の欠乏と、構図の取捨の勝手が出来る自由さ等によって、どうも嫌味なものが出来やすい。その上に感激性が不足し、必然性を失い、やむを得ず描いた退屈さを現すことが多く、したがっていい静物画ははなはだ少ないものである。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和五年一月)
西洋館漫歩
私の市内散歩に興を添えてくれる一種の建築がある、それは明治の初め頃に建てられたいわゆる西洋館と称せられる処の建物である。それらの建物は概して木造でありペンキが塗られていたり、漆喰《しっくい》であったりして少しも欧洲の古い建築の如き永久的な存在の感じを起させない処の建物ばかりである。でも私たちは子供の時からこれらの西洋館によって外国というものを夢見さされていたものである。ロンドンや巴里《パリ》はこの居留地のような処だとも思っていた。ところでだんだん、どうやらそうでもないらしく思えて来て、とうとう私が巴里へ到着した時、巴里はとても古めかしく荘厳な石の蔵の連続であった。そしてあの居留地の西洋館というものは、ほんのバラックであり、ほんの腰かけのための家である事が判《わか》った。そして川口町の西洋館に似たものはコロンボ、シンガポールにおいて私は見る事が出来た。要するに植民地の西洋館であった訳だといっていいかと思う。
しかしながら、そこには、簡略ながらも、異人が故郷を思う心から、その建物はバラックではあるがその窓、その屋根、その柱、その玄関にあらゆる異人の伝統と趣味による装飾が施され、異人の伝統から出た色彩が施され、その部屋の内部は日本人にとっては合点の行かない処の構造に仕組まれていたりするので、われわれがそれによって異国と異人の心の奇妙さを感じ、その心を知ろうと思わせられ、日本人の見た事もない地球の裏側の世界を偲《しの》ばしめたのである。
それらの影響から、日本の県庁や警察署等もまた、木造の西洋館と変じ、当時の異人の手によって建てられたり、あるいは日本の大工によって模造されたりした事と思う。
それらの西洋風建築は大阪では何んといっても川口町本田あたりの昔の居留地に最も多く、現在もかなり遺《のこ》っている。
川口町では、旧大阪府庁舎などは最も代表的のものと思う。私はいつも、茂左衛門《もざえもん》橋から、あるいは豊国橋の上からこの府庁の円屋根を眺める事を重大な楽しみの一つとしている。殊に豊国橋から見ると、その両岸に、まだ錦絵《にしきえ》時代の倉と家があり、一本の松が右岸の家の庭から丁度《ちょうど》円屋根の右手へ聳《そび》え立ち甚《はなは》だよき構図を作っているのである。ところが最近、その松が枯れてしまい今は骨のみ立っていて真《まこ》とに淋しくなってしまった。そしてその府庁舎は空家《あきや》となり、この先き、この風景はどんな事になって行くか、私は心細い。
私は支那料理食べるためにのみ本田町|辺《あた》りへ出かけるが、思う。天華《てんか》クラブや天仙閣《てんせんかく》のも支那の、そのかど口から見る家の眺めを私は愛している。殊に天華クラブの前庭に腰をおろすとそこは日本ではなく西洋でもなく、支那でもない一種混雑した情景が漂い、私の心を欧洲航路の船室へ運んで行ってくれる。
今は空家となっているらしいが板屋《いたや》橋の南側には住友《すみとも》邸の西洋館がある。その附近は大阪の中心地でありながら今なおかなりの閑静な場所であり、昼間でさえ猫の子を捨てに行くには都合のよい場所である。私の幼時トンボ釣りの修業場でもあった。その白き土塀《どべい》の中には西洋らしく、ゴムの大樹が繁《しげ》っている。その中のオークルジョスや青緑のペンキか何かが塗られた古風な木造の洋館がトンボ釣りの私の心をいたく刺戟《しげき》したものであった。その建物の内部を私は知らないが私は今も時々その辺りを散歩する時、こんな人気《ひとけ》のない家と場所が混雑せる長堀《ながぼり》橋のちょっと東に存在する奇妙さを面白く思う。そしてこの奇《く》しき家の内部を知るものはただ永久に、蜘蛛《くも》と鼠《ねずみ》とだけかも知れないわけである事を惜《おし》むのである。
それから、私は心斎橋《しんさいばし》を散歩して二つの古めかしき時計台を眺める事が出来る。その西側のものはかなりの修繕を加えた様子だが、東側のものは殆《ほと》んど昔の俤《おもかげ》をそのままに保ちつつ人々に存在を忘れられつつ聳《そび》えている。私はこの時計台とその洋館をいつも立ち止って観賞するのである。赤い煉瓦《れんが》づくりであり二階の両側にはブロンズの人像も決して拙《まず》いものではない。時計台の上には美しき笠がありその周囲にはシャンデリヤの如くレースの如き美しき装飾が施されている。時計の文字もまた古風であり、古めかしき音によって今なお、時を知らせつつある。
私の子供の時分には、大阪に二つの高塔があった、これは天王寺五重の塔とは違って、当時のハイカラな洋風の塔であった、一方は難波《なんば》にあって五階であり、一方は北の梅田|辺《あた》りと記憶するが九階のものだった。九階は白き木造で聳《そび》え五階は八角柱であり、白と黒とのだんだん染めであったと思う。私は二つとも昇《のぼ》って見た事を夢の如く思い起す事が出来る。
つい二、三日前、バスの中である老人の大工がこの五階について語り合っていた、昔はもっさりした[#「もっさりした」に傍点]ものをこさえたもんや、あの南の五階はお前、八角のといいかかった時タクシと市電が衝突の混雑を発見して大工は話頭を転じてしまったため、その由来を聞く事が出来なかったのを私は頗《すこぶ》る残念に思った。
消滅した建物では、堺筋の南方今の新世界の辺りかと思うが、多分それは商業クラブ[#「商業クラブ」に傍点]とか何んとか呼ばれた処の円屋根を持った白い建物があった。堺筋に立って南を見ると、必ずこの建物を望み得た事を記憶する。
円屋根といえば私は先きに述べた処の旧府庁舎の円屋根を愛する。大阪最初の記念すべき洋館であり、ある西洋人の設計になったものだと聞くが詳細の事を知らない。二、三年前の院展がここで開催された時、私は這入《はい》って見たがかなり暗くて、不気味だった、殊に円屋根の内部は階下から見上げる事が出来るようになっていた。二階の床には円屋根と同じ直径の穴があり、古めかしき手摺《てす》りがあり、その穴からヨカナアンの首が現れそうな気がした。その他まだまだこの時代の建築を探せばかなり出て来そうであるが、なお私は神戸の居留地と山手に散在する処の古き洋館に頗る愛着を感ずるものの多くを発見しているのであるが長くなるので神戸は略する。
ただそれらは殆んどバラック風で植民地的であるが故に、如何に時代の変遷の中途に位する処の記念すべきものであり特殊の面白さを持っているものであるにしても、永久に住む事が不可能な都合に出来上っているために、だんだんそれらのものはこの世から消滅して行くであろうけれども、私はその代表的のあるものだけは、せめてこの時代の記念塔として保護し保存したいものだと思っている。
近来大阪の都市風景は日々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中心として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き大阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。
私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規《じょうぎ》で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの人間の心と力と必要とが重なり重《かさな》って、古きものの上に新しきものが積み重ねられて行く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、掬《すく》い切れない味ある都市の美しさが現れて行くのだと思っている。
私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。
近代洋画家の生活断片
日本人は昔から芸術家を尊敬するところの高尚なる気風を持つ国民である。その代りややもすると芸術家は仙人か神様あがりの何者かである如く思われたりもする。めしなどは食わないものの如く、生殖器など持たない清潔な偶像とあがめられる。結構だが近頃はおいおいとそれが迷惑ともなりつつあるようでもある。ことに近代では神様や仙人そのものの価値と人気が低下しつつあるようだからなおさらでもある。
だいたい芸術家のその作品はいわば自分が楽しんだところの糟みたような[#「みたような」は底本では「みたいなような」]ものだから、それを売ろうというのは虫が良過ぎるという説をなすものさえたまにはある。まったくのところ芸術家は大金持ちであるか、臓腑なきものであるかであるとすれば、その説もいいけれども舌があり胃腑を持ち、その上に妻子を携え、仕事に愛着を持てば糟だといって捨ててしまうには忍びないだろう。生まれた子供は皆これ楽しんだ糟だからことごとく殺してしまってもいいとはいえない。
私は経済学者でもなく実業家でもないので、現代日本はどんなに貧乏か、不景気か知らないけれども、あまり景気がいいという評判だけは聞かされていない。その時代に芸術家志望者、油絵制作希望者は素晴らしい勢いで増加しつつあるのは不思議な現象だ。毎年の二科帝展等の出品搬入数を見ても驚くべき数を示している。これだけの胃と生殖器を持てる神様の出現は、一種の不安なしでは眺めていられない気がする。
すなわち日本画の世界の如くあるいはフランスの如く、画商人というものがあり、鑑賞家への仲介すべき高砂屋があり、高砂屋によって市価が生み出され、完全に商業化された組織があって、しかもなお神様は貧乏を常識としているのだが、それらの組織がなく、完全なる高砂屋なく、愛好家と神様との直接行動であっては、まったくもって神様も努力を要することである。
ある愛好家は、絵は欲しいと思っても展覧会で名を出して買うことを怖れるという話を聞いたことがあった。それは誰それは油絵の理解者であり、金があると伝わると、八百よろずの神々がその一家へ参集してくるというのだ。
さて、これが高砂屋の参集ならば片っぱしから謝絶しても失礼ではないが、何しろ皆神経を鋭がらせた、芸術的神様の集まりである。失礼にわたってはならない。なかなか以てやりにくいという。しかしながらケチな愛好家でもある。
しかし、目下東京に二、三の高砂屋が現れて相当の功績を挙げている様子だと聞くが、まだ画界全般にわたっては、なんらの勢力を持たない小さな存在に過ぎない。この、組織不備の間にあって、つい起こりやすいのはいかさま的高砂屋である。資本なくて善人の神様を油揚げか何かで欺しておき、絵はほしいがどこで何を買ったらよいのか、不案内という愛好家や、少しも油絵などほしいとも思わない金持ちの応接室へ無理矢理に捻じ込むものがあったり、作品を持ち逃げしたりする高砂屋もあるらしい。
とかく色男には金と力が不足していると古人は嘆じた如く、本当の現代油絵の理解者達にも金不足の階級者がことの外多い。展覧会を一年のうちに何回か眺めておけば、日本現代の油絵からフランス現代にいたるまでことごとく安値に観賞し尽すことが出来る。何も好んでその一枚を家へ持ち帰る必要あらんやといえるだろう。しかしながら時たまそのうちの一枚を買って帰りたいと思って会場を漫歩したとしたら、あの無数にぎっしりと並んだ絵のさてどれがいいのか、悪いのか、われわれの如く毎日絵の世界に暮しているものでもちょっと見当がつきかねるだろうと思う。腹の虫が収まっている時は皆よく見えたり腹が斜めである時は何もかもことごとく汚なく見えたりする。まァ名を知っている画家の描いたものは何となくよく見え、よく了解も出来たりする。知らない人の作品はなかなか記憶へ入って来るものではない。
時には雑誌や新聞の展覧会評の切抜きを道案内書として、展覧会を眺めて廻る忠実なる鑑賞家も大阪の二科展会場等で時々見受ける。
まず左様な愛好家が一枚の絵を買うのに迷うのも道理だ。大金持ならばまず番頭か何かに今年の二科の絵は全部買い上げよ[#「上げよ」は底本では「上げよう」]と命じさえすればいいわけだが、一枚を選択するには骨が折れるだろう。
ところで絵画の価格表を通覧するにまず目下、日常のテーブル、鏡台、蓄音機、コダスコープ、洋服、帽子、靴等に比して、油絵というものは高値だ。一枚の油絵で何がどれだけ買えるかを思うと、まったく現代の絵画はついあとまわしとする傾向が起こってくるかも知れない。
ある人が展覧会を見に来て、高い価格の絵は上手で安いのは下手なのかと私に訊ねたことがあった。もちろん大阪の会場でのことだ。高いものはよいと、昔から大阪ではいい伝えられているのだから無理もない。何か油絵画家の内閣とか、帝展の大将とかが相談の上、彼の相場は何円彼は何円と決定するのかも知れないとこの人は思っていたらしい。
もちろん日本画の世界とか、フランスにあっては画商人の多くがその仲間で市価を製造するが、日本の洋画の世界には左様な組織[#「組織」は底本では「組識」]はまだ現れていないので、画家は勝手気ままの思わくだけの価格を自作につけるので画家がヒステリーを起こしている時などは時々非常に高価か、馬鹿に低廉であるかも知れないし、どうせ売れもしない大作だとあきらめるとやけ糞で何万円とつけてみたりするのだ。まったくもって価格がよい絵を示しているわけでもないと私がいったらその人は大いに失望した。
しかしいかにあてにならぬ価格でも、もう洋画が流行してから明治、大正を過ぎた今日である。何となく画家のうちにもおおよその見当を自分で発見して来た如くである。やはり西洋の画商のしきたりをまねたものと思うが、絵画の号数に応じてその各自の地位、自惚れを考慮に入れて、価格を定めつつある。すなわち一号を何円と定める、一号を仮に一〇円とすると一〇号の大きさの油絵は一〇〇円であり、一号を二〇円と定めると一〇号が二〇〇円になるわけだ。
さて各自が勝手な市価だが現在では大体において一号五〇円以下では決して売らないという大家もあり、なおそれ以上彼らを眼下に見下ろして俺は国際的の御一人だから一号三〇〇円以下では売らないといったりすることもあるようだが、内実はいかに相なっているかそれは素人にはわからない。しかしまず常識的な現代[#「現代」は底本にはなし]画家の相当の作品は一号一〇円から五〇円の間を低迷しているように私には思える。
さて、現代画家でもっとも高く、もっとも多くの自作をもっとも手広く売り拡めんがためには、金持ちの応接間はことごとく上がり込むだけの勇気と、手打ちうどんの如き太き神経を必要とするだろう。自分で絵を作り価格を考え、外交員ともなり、自個の芸術的存在を明らかにし、その作品のよろしきものだという証拠の製造もやるといえば、まったく精力と健康も必要だろう。それで本当にいい作品が出来れば幸いだが、天は二物を与えずともいわれている。
それらの健康と太き神経なく、金持ちの応接室と聞いただけでも便通を催すという潔癖なる神様で、パトロンも金もなかったら、この現代ではいかに善き作品を作っても、作れば作るほど、食物が得られない。さてパトロンなるものも左様に多く転がって存在するわけでもなく、万一あったとしても、それはかの愛妾達がする体験を画家もやってみねばならないことであり、神経が尖っていれば辛抱は出来ないだろう。
近頃、研究所へ通う多くの画学生達や展覧会への相当の出品者達で本当に何もかもを打ち捨て、絵に噛りついているという人達の存在がいよいよこの世では許されなくなって来たものであるか、必ず何か他に余業を持っている人達が多くなって来つつある如く思える。新進作家にして同時に小学校の訓導であり、百貨店の宣伝部員であったり、図案家であったり、会社員であったり、ヱレヴェーターボーイであったりする。今にバスガールや女給で相当の出品者を発見することになればそれも面白いと思う。
日曜画家という名が現れている。すなわち日曜だけ画家となり得る生活を持つところの半分の神様すなわち半神半人の一群である。これらはまったく芸術とは関係なき仕事においてわが臓腑と、妻子を養いつつ日曜は神様になろうとする近代の傾向である。近頃、非常に多い画人の中にはこの種の日曜画家は案外多いものだろうと私は思う。
悲しいことには絵画の様式は複雑であり、たった一日で完成すべき性質を欠いているがためにここに、絵画の本質と日曜との間に悲劇が起こってくる。
油絵という芸術が現代生活上の必要からおいおいと日曜のみの仕事になっていったら、会社員の俳句ともなり、娘さんの茶道、生花、長唄のおけいこともなり、普及はするが淋しい結果になりはしないかと思う。
その代り相当の優秀な作家が、絵によって世の役に立つところの仕事、世の中に絵の描けない人達のためにつくすべき仕事に向かって流れて行くことは私は悪くないと思う。美しく近代的なショーウィンドを構成し、ペンキ看板はよりよくなり、女の衣服は新鮮であり新聞紙や雑誌は飾られ、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵は工夫され、ポスターと新薬は面目を改めていくだろう。都会は美しさを増す。
しかながら一軒のかしわ屋の看板を描くために五〇人の画家が押し寄せたとしたらどうだ。どうしていいかにも私も見当がつかない。
だが、やきもきと何かと戦っているところの若いものはまだいいとして、本当に芸術に噛りつきながらもつぶしの利かない、しかも世の中の焦点から消えて行く日本の老大家達の末もあまり明るいものではない、かと思われる。
[#地から1字上げ](「セレクト」昭和五年三月〜四月)
現代美人風景
現代の婦人と申しましても、それは大変沢山の異なった種類の婦人を含んでいます。まず昨夜生まれた女の子供はまだ婦人とも申されませんが、やや長じて一かどの体面を備えかかるところの女学生時代にあるものおよび結婚前の婦人、この中にこそこの現代美人風景の焦点をなすところの、美人をもっとも多く含有するところの、いとも華やかな時代、それから細君、婦人、女房として完全な時代にあるもの、あるいはお寺へ毎日出勤したり、お大師めぐりの列に連なる老婆の群等あらゆる種類の婦人達がこの現代に充満して共存している次第であります。
またそれらの婦人の生まれた年月を考えてみましても、明治以前から一九三〇年にいたるまでの各年代を取り揃えてあります。だから一概に現代の婦人といってもかなりその全体の婦人がことごとく一致して同じ傾向のことを好み、皆が東を向き、皆が揃って西を向くということは出来ません、ことに現代は千差万別の気の合わないものの集合だといってよいと思います。もちろんこのことは婦人に限ったことでなく、男女共通あるいは男の方がもっと時代の主役を勤めていますからもっとはなはだしいのであります。
ことに明治から今日にいたる時代の動き方と変化の急速なことは、まったく昔の二世紀や四世紀位の仕事を十年位でやってのけた位の以前の変化を致しましたから、まったくこれ程急激に根本的な変化を経験した国は世界の中でも珍しいでしょう。
その急激に変化した時代がその道中で生みつけて行った人間の大部分がこの現代に、まだ生存しています。
時代による人間の心の変化というものは、まったく不思議なものだと私は思っています。教育や訓戒位のものではどうにもならない力をもって変化するものがあることを感じます。例えば私の親父の心では理解出来ない不思議な差を、私は持って生まれて来たと思います。それは私が小学校で吹き込まれた教育のおかげでも何でもない、私がこの世の空気を初めて吸った時、その空気とともに私の体内へもぐり込んだところのものだと思います。
それと同じく私と私の子供の心との間にもわけのわからない差があり、私よりも一時代若き人達のあるいは若き画家の心にも理解出来ない新しい心を私は感じます。
したがってもっとも理解出来やすい心は何といっても同時代、同じ年代生まれのお互い同士の間だけであろうと思います。
婆さんは婆さん同士、老人は老人同士、娘は娘同士、子供は子供づれ、牛は牛づれと昔からも申します。そして牛は馬のことが理解出来ないが故に尊敬するということは少なく、大概の場合悪く思いがちであります。そして牛は牛の世界が一番よいと思い世の中はことごとく牛らしくせよと申します。馬は馬らしくせよと申します。結局馬にもならず牛ばかりにもならず次へ時代は遷って行きます。
人間は年を経て次の時代のものに亡ぼされることの嫌さから相当の老年になり、役に立たなくなってしまってからも、なおしつこく子孫へ無理やりに自分の華やかなりし頃の心をたたき込もうとしがちです。しかしながらいかに老人が強いてみましても次に生まれる赤ん坊は、今日も明日も明後日もそれこそ、引切りなしに恐ろしく理解出来ない考えを抱いて押よせてくるのです。この次の時代を極端に怖れるというならば、生まれてくる赤ん坊をことごとく抹殺するよりほか致し方ないでしょう。
ところでこの日本の現代は左様に異なった種類の人間を含んでいると同時に急激なテンポをもって変化した色々の古道具類を幾重にも混沌と積み重ねております。
西南戦争の心と日清戦争の心と日露戦争の心と、徳川時代の心と、大正、昭和の心もともに、重なり合い茶室と洋館とお寺とビルディングと高下駄と、お茶屋とカフェーと吉原とダンスホールと、色紙短冊と油絵と、四條派とシュールレアリズムといった具合に変なものが重なり合っていて、それがまたお互いに相当の繁盛もしているというのは、まったく現代には前申した如き、あらゆる御世の心が積み重なり合ってまだ生きているからでもありましょう。私の心の中を覗いただけでもどれだけ不似合のものが合同して、住んでいることでしょう。その代りその不似合のものを私などはやけ糞でことごとくを味わっていますがなかなか多忙であり、同時にまた私はどこの国民だかわからない位の存在の如き有様を自分で感じます。
例えばカツレツで晩めしをたべ、あとはお茶漬けを致しましてラジオを聞きます。新内は明烏です。すぐそのあとで蓄音機です。来た来たショウボートの唄が響き渡ります。今の今、女郎は旧日本の末期的な涙を絞っていまして、私もやるせない心に迷っていましたのに、次の瞬間にはパフパフパフ、シャフシャフシャフといって踊らねばならないのです。多忙なことではありませんか。
これらをせめて多少とも整理して、何とか一筋のまとまった単位を定め掃除し、整理するのは次に生まれてくるところの心から新鮮な赤ん坊達の力に待たなければいけないかと存じます。
そして老いたるものは何か気のすむだけの遺言をのこしてこの世を去って行くことであります。
まず現代は変化の新戦場、火事場、地震の跡であります。由来左様なところに落着きというべき[#「べき」は底本にはなし]ものはありません。優美なる火事場。落着きある地震。沈着なるあわて者というものは珍しい。
過去の諸々の道具類が道端に散乱した。それとともに古い人間も傷ついてころがっています。
その中を日本人は、ことに現代の美人は、勇敢にもまだ下駄を足に引きずりながらむりやりに次の時代に向かって素晴らしい勢いで行進をしている有様であります。
この戦場や工事場、火事場には優美にして柳腰の美人がいたらそれははなはだ似合わないことで、まごまごしていると危険であります。時代の継ぎ目の工事場の美人は、顔の造作さえも気にしてはいられません。
まず第一に元気で強く、健康で軽装であらねばなりません。
しかも目まぐるしい都会の速度と人情の中を泳ぐにはよほど鋭い眼を持ち、同時に敏捷な神経を持つ必要があります。必要に応じて人間の諸道具は、それに適当するように進歩してくるものだと私は聞かされていますし、またその要求通りその反応は現れ、最近に生まれて来る者どもの眼が鋭くなって来ました。もうどんよりとした節穴かガラス玉の如きものは少なくなってまいりました。
先日もある浮世絵の書物で美人の標本として二、三の婦人裸像が描かれてあるのを見ました。そしてそれには、相当丁寧に人体各部の説明が施されてありました。さてその足を見ますと、その長さは胴体の長さよりもよほど短く描かれ、足の関節のところで曲がってくの字を横に二つ並べてありました。さてこの足に衣服を着せますと、いわゆる風流柳腰の姿態というものになります。昔の男達はこの腰に迷ったものでありました。私も新内や浄瑠璃時代に片足をふみ込んで生まれたがためにこの腰つきの妙所を少しく理解致します。
しかしながらこの足は厚い裾に包んであり、常に裾の厚さとともに観賞すべきものでありました。その裾から少量の素足を見せるところに悩ましき美は存在したのでしたが、もう火事と地震の現代女性は尻をからげて走り出しました。
急激に走り出さねばならぬ時代となったから裾の中に、ぬくぬくと収まっていた短い足が急に長く一直線に伸び上がるというに左様に都合よくはまいりません。まずこれだけは暫時、ぽつぽつと進化せねばなりません。といって自分の足が伸びるまで、火事と地震の中でじっと待っていることは出来ません。ここに近代日本の美人は悲劇を持たねばなりません。
短いくの字の足を、捨鉢となって勇敢に露出することに決心した彼女達は勇ましく、レヴューのために足を並べました。私は心斎橋を散歩しながら、あるいは銀座の歩道で、あるいは電車やバスの中で洋装におけるそれらの足に敬意を払います。
時代の混雑せる風景はいかにも嫌だという人達は、この現世の有様を厭うて心を徳川時代におき据え、今なお世の片隅に残っている古物をあさり、古物の女を眺め、その古物の中に自分の心を求めて住むことを楽しんでいます。まったくそれらはすでに出来上がった芸術であり女でありますから、何かと心を乱す雑音がありません。眺めやすく住み心地もよろしいわけであります。私も芸妓、歌舞伎、落語、三味線、柳腰、の世界へ閉じ籠っていたいと思いますが、それでは何か、も一つ、私の心に大きな風穴が開いてしまって、その穴から何ともいい知れないところの幽霊の浜風が吹き込んでまいります。そこで私は我慢してあの短いくの字の足が伸び上がるのを楽しんで待っているのであります。
しかしながら近代の子供で、その両親よりも身長の低いというものはだんだん少なくなって来ました。貧弱な私でさえも両親より身長はあります。大概の娘さんはお母さんを見下ろして話をしています。それは何といっても、次の時代の勝利を示している一例であろうと私は思います。
今日生まれる赤ん坊、明日の赤ちゃんはまた現代の息子や娘を眼下に見下ろす時代が来ることでしょう。
そしてその足はいとも伸びやかにのびのびと伸び上がって、その先端の小さな靴は男の心に美しい悩みを与えることになることでしょう。
足が伸び上がり走り出すとともに女の心は伸び上がって街頭へ走り出しました。急激に伸び上がった日本女性が、ために心の落着きと平均を失って色々の事件を起こしますこともありますが、それらは暗闇から急に放り出されたものの戸惑いに過ぎないものだと私は思います。
いったん足をもって立ち上がったことは室内より街頭へ立ち上がったのであります。四畳半の小座敷では両足は畳んで尻の下へ敷いていますから勢い顔が女の重要な看板であります。日本の女の顔が全身に比して大きいのも故ある次第です。
さて、近代の機械が著しく動く街景にあっては、顔はほんの一部分に過ぎません、また舞台へ二〇人の裸形の女が並んだ時、顔は帽子の一部分であります。大体の看板は胴体と足であります。すなわち全裸身の完全な発達からくる美しさが必要となって来ます。
だいたい日本婦人の不健康な裸身はその生活様式と作法と、修養等からおいおいとゆがめられつつ完成した不具であろうと思います。したがって近代の生活は彼女達をやがて直ちに完全な裸身へまで還元せしめることを私は信じます。
その上人種としてのその淡黄と淡紅の交り具合と、その皮膚の細かく滑らかにして温みあることにおいて、私は西洋人の白きつめたさに幾倍するある力を持っていることを感じているのであります。やがて日本女はその[#「その」は底本にはなし]柔軟にして黄色の皮膚をもって低き鼻のかわいらしさにおいて、世界の美女の一つとなることを私は考えます。
現代の母はすでに自分自身の胴体と手足に先祖の遺風を発見して悲しんでいますが、その悲しみはやがてその娘達の上に酬いられ、娘達はその望みをかなえてくれるにちがいありません。
私もまたその時こそ本当の日本近代美人を見ることが出来るであろうと思うのですが、しかしその時分には、私も現代から遠ざかって、うるさい老人の一人として淋しくそれらを眺めあるいは何かケチをつけたがることかも知れません。
十幾年以前、私が美術学校時代に使っていたモデルと今日のモデルとを比べて見ましてもまったく驚くべきちがいがあります。昔のモデルは高島田の頭や島田髷さえありました。モデル台に立つと胸は水落ちのところをへこませて、帯の下は常に血のめぐり悪しく茶褐色の暗さがあり、下腹が妙に飛び出し足は曲がっていました。それはむしろエロチックな浮世絵から抜け出たばかりの姿において立っていました。ただ今ではとくに好んで描いてみたいという特別な興味を有する画家は芸妓か京の舞子達の中にそれらの美を求めなければなりませんでしょう。しかしながら毎日強そうな元気な近頃のモデルを眺めていますものは、道頓堀あたりで舞子がまだ若いのに青い静脈を額に現して、牡丹燈籠から現れたような瓜ざね顔で歩いているのを見ますと、何か不気味の感にさえ打たれることがあります。
とにかく現代の美人の焦点をなすところの若い女達は、相当の度合いにまで心も身も成長し、伸び上がりつつありますことは悦ばしい明るさであります。これでなければまったくもって一九三〇年の海は泳げません。
しかしながら彼女らの新鮮なる裸身はこんとんとして残る古切れ類やわけのわからない軽便服や、夏だけのアッパッパ、冬のマガレットオーバー等によっておかしくも包まれつつ何がな火事場を走っているようでありますが、これもやがて次に来る新鮮なる彼女達の感覚によってもっと合理的で経済で美しいいでたちとなって、近代都市風景のもっともよき点景となるであろうことを私は信じます。
画室の閑談
A
京都、島原《しまばら》に花魁《おいらん》がようやく余命を保っている。やがて島原が取払われたら花魁はミュゼーのガラス箱へ収められてしまわなければならぬ。しかし、花魁は亡《ほろ》んでも女は決して亡びないから安心は安心だ。
芸妓《げいぎ》、日本画、浄るり、新内《しんない》、といった風のものも政府の力で保護しない限り完全に衰微してしまう運命にありそうな気がする。
油絵という芸術様式も、これから先き、どれ位の年月の間、われわれの世界に存在出来るものかという事々を考えて見る事がある。如何に高等にして上品な芸術であっても人間の本当の要求のなくなったものは何によらず、惜《おし》んで見てもさっさと亡びて行く傾向がある。
大体、人間が集って、何んとなく相談の上芸妓を生み出し、人間が相談の上、浄るりを創《つく》り、子供を生み、南画を描き、女給を生み、油絵を発明させたように思われる。油絵が岩石の如く人間発生以前から存在していた訳ではない。
全く、如何に花魁は女給よりも荘厳であるといっても、我々背広服の男が彼女と共に銀座を散歩する事は困難だ。今やすでに、現代の若者が祇園《ぎおん》の舞妓《まいこ》数名を連れて歩いているのを見てさえ、忠臣蔵の舞台へ会社員が迷い込んだ位の情ない不調和さを私は感じるのである。
この芸術こそ再び得がたいものであるが故に保存すべきものだと話しが決った時、その芸術は衰微|甚《はなは》だしい時であると見ていいと思う。父を一日も永く生かしてやりたいと願う時、父は胃癌《いがん》に罹《かか》っている。
何々の職人は広い東京にたった一人、京都に一人、平家物語りを語り得るものは名古屋に一人、芸妓は富田《とんだ》屋、花魁は島原、油絵描きはパリに幾人にしてそれでおしまいという事にならぬとは限らない。
最近、最も景気がよくて盛んな国、アメリカにどんな画家が輩出しているのか、寡聞《かぶん》な私は知らないのである。アメリカでは映画と広告美術があれば事は足《た》っているかも知れない。また従って優美な美術家を今更自分の国から出そうとも考えていない如く見受けられもする。彼らは最早や油絵芸術を骨董品《こっとうひん》と見なしているのかも知れない。そしてアメリカ人は、支那の古美術と古画と浮世絵を以《もっ》て彼らの美術館を飾ると同じ心を以てパリの近代絵画の信用あるものを選んで買い込んでいる。先ず最も新らしい、現代らしい頭のいいやり口だといえばいえる。しかしながら万事金の力で不足を補う処の何だか下等にして憎さげな態度はしゃくにさわるけれども、アメリカという国は急に衰微するとは思えない。
とにかく、政府や富豪の力で保護しなければ衰えそうな芸術は、何んと霊薬を飲ませて見た処で辛《かろ》うじてこの世に止《とど》め得るに過ぎなくなるにきまっている。従ってその最盛期におけるだけの名人名工はその末世にあっては再び現われるものでない。ところで油絵芸術はまだ末世でもあるまいと私の職業柄いっておかなければ都合が悪いけれども、本当の事は、私にはわからない。
B
この間、私が見た芝居では、天王寺屋兵助という盲目の男が五十両の金|故《ゆえ》に妻を奪われ、自分は殺され、まだその他にも人死にの惨事が出来上《できあがっ》たようだった。全く人間の生命も金に見積るとセッターや、セファード、テリヤよりも案外安値なものである。
絵描き貧乏と金言にもある通り、その一生といってもこれは主として私の一生の事だが、それを金に換算すると随分安い方に属していると思う。
酒は飲めず、遊蕩《ゆうとう》の志は備わっているが体力微弱である私は、先ず幸福に対する費用といえば、すこぶる僅少《きんしょう》で足りる訳である。たとえば散歩の時カフェー代と多少のタクシと活動写真観覧費とレストウランと定食代位のものかと考える。職業柄の材料費というものは案外素人の考えるほどにはかからぬものである。
またさように資本をこの方面につぎ込んで見た処で、その多量な生産を誰れが待っているという訳のものでは更にない。徒《いたず》らに押入れの狭さを感じるわけである。
先ず一年のうちに四、五枚の点数がそろえば秋の二科へ出すだけの事である。そして仲間うちの者たちのために、いいとか悪いとか、いわれてしまえば用は足る都合になっている。ほめられたからといって、どう生活がよくなる訳でもなく、悪口されたといって失職するものでもない。
やがて秋の季節が終りを告げる時、額縁代と運送費を支払えば一年の行事は終る。先ずこれ位の事が辛うじて順調に繰返し得るものは幸福だという事になっている。
宗右衛門町のあるお茶屋では、一ケ月千円以上の支払あるお客への勘定書《かんじょうがき》には旦那《だんな》の頭へ御の一字をつけ足して何某御旦那様と書く事になっている。その御旦那様の遊興費にくらべても画家の生涯はばかばかしくも安値である。
一台の機関車、一台の電車、一台のバスキャデラク、飛行機を見てさえも、これは俺《おれ》の一生よりも少し高い、これは絵描き何人分の生活だ、という浅間《あさま》しき事を考えて見たりする。たまたまわれわれの一生よりも安価な品物や、天王寺屋兵助を見るに及んで何となき愛情を私は感じる。
もしも、人間としての体格が立派で、生活力が猛烈で、人間の味《あじわ》い得るあらゆる幸福は味って置きたいという、そして大和魂《やまとだましい》というものを認め得ない処の近代的にして聡明《そうめい》な絵描きがあったとしたら、絵画の道位その人にとって古ぼけた邪道はないかも知れない。
C
私は最近、二科の会場でパリ以来|久方《ひさかた》ぶりの東郷青児《とうごうせいじ》君に出会った、私は東郷君の芸術とその風貌《ふうぼう》姿態とがすこぶるよく密着している事を思う。なお特に私は彼自身の風貌に特異な興味を感じている。そしてそれは、最も近代的にして、色の黒い、そして何処《どこ》かに悪の分子を備えている処の色男である事だ。私はあれだけの体躯《たいく》と風貌と悪とハイカラさと、芸術とを持ち合せながら本人の出演を少しも要求しない処の絵画芸術に滞在している事を甚だ惜んで見た。甚だ御世話な事ではあるがと思っていたが。
D
私は絵を描く事以外の余興としてはスポーツに関する一切の事、酒と煙草《たばこ》と、麻雀《マージャン》と将棋と、カルタと食物と、あらゆる事に心からの興味が持てない。ところでただ一つ、何故か気にかかるものは活動写真である。それで、映画は散歩のついでに時々眺める事にしている。近来、日本製のものがかなり発達したという話だが、私は以前二、三の日本映画を見て心に恥入ってしまってから、まだ当分のうち決して見ない事にしている。
しかし、その西洋のものといえども、私の健忘症は見たものを次から次へと忘れて行くが、私はアドルフマンジュという役者を忘れ得ない。私は彼のフィルムは昔からなるべく見落とさぬように心がけている。
私は彼が「パリの女性」に出て成功した以前、随分古くから至極つまらぬ役において、現われているのをしばしば見た。随分|嫌味《いやみ》な奴だと思っていたが、また現れればいいと思うようになり、その嫌味な奴が出て来ないと淋しいという事になって来た、幸いにも彼は出世してくれたので、私は遠慮なく彼の嫌味に接する事が出来る事は私の幸いである。
も一つ、私は欧洲大戦以前、チャップリン出現以前における、パリパテー会社の喜劇俳優、マックスランデーを非常に好んでいた。私はかなり、むさぼる如く彼のフィルムを眺めたものだった。彼の好みは上品で、フランス人で、色男で、そして女に関する上品な仕事がうまかった。その点マンジュに共通した点がある。
ところが欧洲の大戦によって彼の姿を見失って、チャップリンの飛廻るものこれに代った。
その後、ふと私はパリでマックスが復活せる力作を見るを得て、私は心の底から笑いを楽しむ事が出来た。最後に、私は日本で、彼の「三笑士」を見たが、間もなく彼は死んでしまった。多分それは自殺だと記憶する。
とかく生かしておきたい者は死んで行く。
虎
街道筋に並ぶ低い農家に、柿の木が紅葉していたり、建石《たていし》があり、右何々道左何々道と記されていたり、牛が向うから歩いて来たり、馬子《まご》がいたり、乗合《のりあい》馬車の点景があったり、巡礼姿が花の下にいたり、そして、酒めし、と記された看板が描かれているといった風景画は、私の美校入学志望時代において、最も多くこの世の中に存在していた風景画であった。
従ってその頃のわれわれは、何かしら絵の中へは、酒めしに類した看板を一つ描き入れないと、人間に目鼻がつかぬ如く思われたものであった。どうかすると、旅をしても、風景はそこそこにして、先ずその看板ばかりあさって歩くという風習さえ起って来た事を記憶する。何も巡礼姿と、たばこ、酒めし、の看板、街道筋でなければ、油絵や水彩画は成立たぬ訳では決してなく、世の中は広々としているのに、どういうものかそれを描かぬと、人にして人に非《あ》らず、画家にして画かきに非ずとさえ見做《みな》される事が、日本では殊の外あったようである。ところで一時代過ぎてその酒めしの看板と田舎道が、とみに人気を失いかかると、もう薄情にも、誰れがあんな阿呆《あほ》らしいものを汽車賃まで使って描きに行ったのか、その心根がわからないではないかという事になったりする。勿論《もちろん》、現代では何がな横文字の看板ばかりあさって歩く風潮もあるにはあるが。
私が白馬会《はくばかい》へ最初通い出した時分は何がな、風景でも、何によらず、物体の影という影は光線の具合によって、紫色に見えるものだよ君、眼をほそめて、自然を観察して見給え、そら、紫でしょうがな、と私はしばしば注意された事であった。そうかなと思って私はつくづく眺めて見たが、遠方はなるほど多少紫っぽいが、人間の髪の毛や、近くの樹木の幹の影などは皆が、素直に紫に見る如く紫では決してなかった。私はこれでは画家としての眼を自分は備えていないのかと思ったりしてふさぎ[#「ふさぎ」に傍点]込み、下宿へ帰って一晩中考えて見た事さえあったが、しかし、翌日、谷中《やなか》の墓地を通って見ても、木の幹の影はやはり紫では決してなかった。今の時代では誰れしもが、影は紫であるなど考えるものがなくなったからいいが、全く私は、その頃情けなく思った事である。しかし私はその紫色が癪《しゃく》にも障《さわ》ったので、見えもしない物の影を紫になど頼まれても描いてやるものかという気になってしまった。
だから、その頃の古ぼけた私の習作を今出して見ると全く驚くべく真黒な色で塗られている。
セザンヌやゴーグの感染時代には、素描の確実な画家や林檎《りんご》を林檎と見せる画家は、殆《ほと》んどこの世から一時姿を消さねばならなかった。消えてなくなれと皆もいうし、本人も全く第一、絵でめしさえ食って行ければ、先ず何んとぼろくそに叱《しか》られても、多少の楽しみはあって、生きては行かれるけれども、食えない弱味があるからには、全く消えてなくなるより他に道がなさそうに思えてくるのである。相当のよい素質の画家が、その頃やむをえず死んでしまったであろうかも知れないと私はひそかに考えている。
あるいは童心と無邪気と稚拙とによって描く事がいい事だと、誰れかが、あるいは電報通信社からか、通知があったりすると、相当永い年月を技巧の習練や調子のお稽古《けいこ》できたえ上げた腕前をば、その日からさっぱりと引下げに取りかかったりする傾向もないとはいえない。またそんな時代に一人上等の腕前を発揮していたりすると、何か、よほど汚なきものの存在ででもあるかの如くぼろくそに叱られつづけたりなどする事もあるので、多少気の強い画家であっても、全くそのうちには気が悪くなって行くらしいのである。
折角花道から、苦労しながら仁木《にき》弾正《だんじょう》がせり上って見ても、毎日毎日大根|引下《ひきさが》れ、と叫ばれて見ては、あまりいい気はしないだろう。
あるいは実在を穴のあくほど見つめて描く事でなくては画家でないというと、折角昨日まで鼻唄まじりで陽気なタブローを作り上げていた才人までが、急に一個の林檎を眺めて、涙を流して見たりする事もある。
あるいは、今や時代は野獣である、何がなじっと落着いていては画家に非ずと勇気づけられたりすると、何が何だかよくはわからないながらも、虎は何処《どこ》だと叫びながら、尻をまくって取敢《とりあ》えず飛び出して見たりする。
君々、虎は後ろですよと注意されて喫驚《びっくり》して見たりする事もないとはいえない。あるいはじっと坐っていたい温厚な人が尻をたたかれて、妙に浮き出して見たり、大体|喧嘩《けんか》、口論、大騒動は嫌なのだが、お隣りもやり出したので、やむをえず煮え切らない喧嘩を吹きかけつつ、神経衰弱に陥って見たり、飲めないのに飲んで嘔吐《おうと》して見たり、その他いろいろ様々とやって見る。しかし、要するに皆その人柄相当の事でさえあれば見ていても心持ちはいいけれども、柄にない事をうっかりやらされていたりする事は甚だ気の毒に見えるものである。
太い眉《まゆ》を持った女が、なお眉へ彩色を施して、何かびっくりしたような眉を作って電車に乗っていたりする。しかしその心根は皆、日本をよくしよう、自分の芸術をよくしようといういじらしい願いから起る事だから、私はその心根に対して尊敬と同情を持たねばならぬであろうと考える。ただ少し知慧《ちえ》と剛情という意地の不足が気にかかる。
底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年8月17日第1刷発行
「小出楢重全文集」五月書房
1981(昭和56)年9月10日発行
底本の親本:「めでたき風景」創元社
1930(昭和5)年5月5日発行
※オリジナルの「めでたき風景」に収録された作品を、まず「小出楢重随筆集」からとりました。(めでたき風景、大阪弁雑談、春の彼岸とたこめがね、春眠雑談、グロテスク、入湯戯画、蟋蟀の箱、上方近代雑景、観劇漫談、芦屋風景、煙管、大和魂の衰弱、蛸の足、もっさりする漫談、亀の随筆、祭礼記、下手もの漫談、西洋館漫歩、画室の閑談、虎)
続いて、「小出楢重全文集」で不足分を補いました。(白光と毒素、主として女の顔、旅の断片、かんぴょう、大和の記憶、去年のこと、歪んだ寝顔、迷惑なる奇蹟、酒がのめない話、因果の種、あまり美しくない話、嫌い、五月の風景、夏は自動車、芝居見物、見た夢、閑談一年、夏の都市風景、瀧、池、花火、盛夏雑筆、秋の顔、迷信、ノスタルジー、洋画ではなぜ裸体画をかくか、奈良風景、ややこしき漫筆、展覧会案内屋、新調漫談、静物画雑考、近代洋画家の生活断片、現代美人風景)
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※「一ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本のママにしました。
※「モッツストラッセ55」の「55」は、底本では縦中横となっています。
※「喧《やか》ましゅうて寝られんやないか[#ましゅうて寝られんやないか」に傍点]」の「喧」に、親本はルビではなく傍点が付しています。
入力:小林繁雄
校正:米田進
2002年12月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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