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油絵新技法
小出楢重
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序言
日本の油絵も、ようやくパリのそれと多くの距離を有《も》たぬようにまで達しつつある事は素晴らしき進歩であると思う。だがしかし、新らしき芸術の颱風《たいふう》は常に巴里《パリ》に発生している。まだ日本は発祥の地ではあり得ない事は遺憾であるが、それはまだ新らしき日本が絵画芸術のみならずあらゆる文化が今急速に新らしく組み立てられつつ動いて行く工事場の混乱を示している最中である。今あらゆる新らしきものを速かに吸収消化する能力こそ、若き日本人の生命であるともいえる。だが新らしき日本へ新らしき花を発祥させるには根のない木を植えてはいけない。一本の松は地下にどれだけ驚くべき根を拡げているかを調べてみるがいい。芸術はカフェーの店頭を飾るべき紙製の桜であってはならない。しかしややもすると、新日本文化は紙の桜となりがちである。それが最も気にかかる事だ。
この書は、技法そのものについて、例えば新らしき芸術を作るには砂糖幾|瓦《グラム》、メリケン粉、塩何|匁《もんめ》、フライパンに入れて、といった風の調理法を説かなかった。あらゆる画家の修業は図書館では行わないものである。
彼らはミュゼーと、そしてモデルと、石膏と、風景から、伝心的に技法を悟ったに過ぎないと私は思っている。そこで、私は現代にあって、最も困難な絵画芸術に志す若き人たちに対して、この工事中の混乱に向うべき心構えについて、いささか私の考えを不完全ながら述べたつもりである。そして、それから先きの仕事は私の関する処でない。
昭和五年九月
[#改頁]
油絵新技法
1 序言
枠へ如何《いか》にしてカンバスを張るかパレットは如何に使用するか、等の如き説明はかなり多くの画法の書物に説かれているようだから、私はさような道具類の説明をなるべく避けて、ここには主として、専門に本心に油絵を描き出そうとする人たちへ、絵の技法というものについての心構えといった風の事と、それから現在の世の中に生きているわれわれの心を生かして行くのに最も適当である処の近代の技法について少々述べて見たいと思うのである。
しかしながら新らしい技法というものは昔の画法や画伝の如く、天狗《てんぐ》から拝領に及んだ一巻がある訳ではない。その一巻がない処に近代の技法が存在するのである。
従って万事は心の問題であるので技法としてお伝えする事も甚だ六《む》つかしい。私自身も油絵という船に目下皆様と共に乗り込んで難航最中なのである。燈台から燈台へ港から港へと辛《かろう》じて渡りつつあるのだ。何時《いつ》暗礁に乗上げて鯨に食べられてしまうかも知れないのである。全く偉《え》らそうな事はいえないものだ。
しかし、私は私の行こうと思っている心の方向へ常に船を向けつつ走っているつもりである。それで、今ここに私は何か技法上の事を書く事になった。がそれは先ず私の船の阿呆らしい航海日記とか航海のうちに感じた事柄を記してこれから乗船せんとする人、あるいは已《す》でに乗り込んで間のない人たちへ報告して多少の参考ともなり、心の準備の一助とかあるいは長途の旅の講談|倶楽部《クラブ》ともなれば幸《さいわい》だと思う次第である。
2 絵の技法そのものについて
絵には技法が必ずある。しかしながら技法を少しも知らずにでも絵は描ける。技法の全くない絵というものは子供の絵である。それも、うんと小さな子供の絵だ。大人でも今までかつて一度も絵というものを描いた事のない人が無理矢理に絵をかかされると、ちょっと子供と同じ程度のいわゆる自由画を描く。これが本当の技法なき絵である。しかしながらその子供もやがて人心がつき初める頃には、もう智恵と慾が付いてくるので、何かの技法を心から要求するようになってくる。自分勝手な自由画では承知が出来なくなってくるらしい。でたらめでは何んとなく恥かしいのだ。
大人でも何も知らぬ人が第一回目に描いた絵は先ず技法がないが第二回目にはすでに如何にしてという方法を考えるようになる。先ず人間の智恵は技法を要求するものである。
要するに相当の智恵付いた人間の作品はすべて何かの技法によってかかれているものである。昔も今も、古いものには古いらしい、新らしいものには新らしい、それ相応の技法が備わっている。絵に限らず、あらゆる芸術あるいはすべての芸事において技法のない芸事は殆《ほと》んどないといってよい。
しかしながら、偉い画家の描いたものや、古来|神品《しんぴん》とも称されている作品のあるものには、全く技法も糞《くそ》も全く無視されたような作品があるものである。けれどもそれらはあらゆる技法が完全に作品の裏へ隠し込まれてしまった処のものであるので、隠し込まれたというよりも、むしろ、全く忘却されてしまったものであるという方が適当かも知れない。
ところで忘却するという事は知った事を忘却するのであって初めから何も知らない事を忘却する事は不可能である。
しかしながら知った事を完全に忘却する事は容易な事ではないと見えて、先ず知るだけで一生を棒に振ってしまったお人や学者も多い事である。
また知った事が災難の種となってその智恵に縛られて萎《しな》びてしまう人も多いのだ。
あらゆる事を承知した後、忘却してしまって後本当の仕業が心のまま思ったままに出来るのではないかと思う。どうも昔からのすぐれた作品を見ると、多くその傾向が見えるようである。
ところで完全に忘却してしまう位いのものならば初めから智恵づかない方が軽便でいいともいえるが、もし自分の子供が二十歳に及んでなお寝小便をたれるという事があったら悲しむべき状態である。
自転車でさえ二、三日の練習なしでは乗る事が出来ない、まして飛行機においてまたその曲乗りや高等飛行においてはかなりの正確な技術、技法の習練が必要であろうと考える。
幸いにして画道においては正確な技法がなくとも早速生命に関する大事とはならないから安全であるが、しかし結果はそれ以上の悲劇となる事が多いと思う。
ところで技法の習得、練磨、研究も必要な事は正に人の智恵と同じく画家として必要ではあるけれども、あらゆる技法は芸術の終点でも目的でもない事である。
人が歩む事は何か目的があってそれへ到着しようとするために歩むので、これは不知不知《しらずしらず》の間に運動をしている訳だ。それで先ず用は足す事が出来るが、もし何々派、何々流の歩調にのみあまりに拘泥《こうでい》し過ぎると、その事ばかりに気を取られてとうとう徒《いたず》らに低廻するばかりとなる。
練習ばかりで飛ばぬ飛行機は退屈だ。飛ばぬが故に安全第一ではあるけれども。
ちょっと、豆腐を買いに行くにもワルツで行く女中があったとしたら随分うるさい事だろう。しかも豆腐を買う事を忘れて帰ったら阿呆な話である。
こんな阿呆な話も不思議なようだがこの芸術の世界において一番多く見受ける話である。
要するに技法は人間の智恵であり普通教育であり礼儀作法であり常識である。従ってこの事ばかり気にするものは小癪《こしゃく》に障《さわ》っていけない。といって智恵なき者は阿呆に過ぎない。
大体、人間は何んといっても幼稚園を過ぎる頃から少しずつ智恵がついて来るはずのものだ。しかし、まだ何んといっても七、八歳から十歳までは母の胎内にありし日の面影を失わない。何んといっても半神半人の域にある。この域にあるものは絵を描く、童謡をつくる、歌う、それが皆なまでで、上手で、神品である。悉《ことごと》くが詩人で芸術家でもある。
ところで彼らが十二、三歳ともなると妙に絵も歌も拙《まず》くなってくる。彼らの心から神様が姿を消して行くのだ。従って全くの人間と化けてしまう。この時に当ってお前は人間の浅間《あさま》しさを知らないか、いつまでも無邪気でいてくれと頼んだって駄目だ。子供は大人のする事をしたがる。大人のような絵を要求する本当の技法を要求するようになる。
ところで、さように早速、大人の事が出来るものでない、自分の拙《ま》ずさがはっきりと判《わか》る、それで絵をかく事も詩を作る事も嫌になる子供が、先ずこの時期において大部分を占めてしまう。
この際になおあくまで絵を描きたがる子供は極めて尠《すくな》いものである。
それから中学女学校程度に至ると最早や神様の影は全く消えて充分な人間となる。この時代によい絵を描ける者は全くないといっていい。もし描いたとすれば大人の技法を目がけて心にもない事を描き出すものである。もし上手に描いたとしたら、それは拙いよりもなおなお厭味《いやみ》である。文章にしてもこの時代においてかなり嫌味である。
私の考えるのにこの年輩の人は絵の好きである事と素人《しろうと》としてなぐさみに描く事はいいけれども決して専門に勉強してはいけないと思う。それよりも大切な事は人間として常識である学業の勉強がよいと思う。
学業の勉強は決して面白いものではないがしかしこの時代は芸術、殊に絵の勉強には年齢が早過ぎるのである。
絵の技法はピアノ、琴、三味線の如く幼少の頃から手や指を訓練させる必要のない技術なのである。
手や指の運動が円滑を欠いても絵を描くに不自由は更にないのである。多少円滑を欠く位いの方が、絵の表情はがっしりとして、かえっていいかも知れない位いのものである。三年や四年間絵を休んでも別に絵は拙くなるものでは更にない。
大切な事は心の問題である。先ず心が定まって後、普通の人間の知るべき事は知って後、如何にも絵が描きたくてたまらなければゆるゆると始めて、決して遅いものではないと思う。私の方へ時々、母親が子供をつれて相談に来る事がある。中学を嫌がって絵ばかり描きたがるので勿論成績もよくなく身体も弱いから一層の事画家としてしまいたいというのである。私はそんな場合、なるべくならその事はいけないと止めるのである。せめて中学校だけは卒業させるように勧めて置くのである。絵の技法を本当に学ぶには早過ぎて困るのである。
もし、この時期にわけのわからない技法が沁《し》み込んだとしたら第二の天性ともなる事がある。うっかりと乗り込んだ乗り物である。西向きか東向きか知らずに乗込んだ汽車である。気がついた時、汽車は地獄へ向って走っている。
技法は心を第一としなければならぬ。心定って後の乗物である。神戸へ行くには必ず西向きの汽車を撰択すべきものである。
何んといっても相当の人としての心定まった上自分自身方向を定める資格が出来た上、自分の心の方向に従い足を進める必要がある。
ところで足を進める事はどんな方法によって進めるのかというと、先ず昔は、心の用意も人間としてまだ出来ていなくとも、十二、三歳の神様時代から丁度琴や三味線のお稽古《けいこ》と同じように、ある先生につかしめたものだ。先生は画法という定った一巻を頭へしまい込んでいる。それを一つ一つ授けて行くのだ。何はともあれ無意識にそれを稽古してさえ行けば、いつかは何んとかなる事だろうという迷信によって進んで行くのだが、しかしながら、昔の先生でも何んとなく心定まらない子供のうちは技法を授ける事は無益で便りないと感じたものと見え、西洋にあっては弟子《でし》たちは先ず年期奉公というものをやらされ、その間においては一向に絵らしいものを描かしてもらう事は出来ない。ただ絵具を油で練って見たりその他雑役をするだけの事であったらしい。
日本でも同じ事で年若くして弟子入りすると先ず拭《ふ》き掃除《そうじ》をやらされる位いの事である。
先生の絵具を溶かせてもらうまでに至る事は随分の辛棒《しんぼう》が必要だった事である。勿論昔は絵具の練り方作り方が一つの修業でもあり、画家の職責でもあった。
日本画も絵具の溶き方においてとても六つかしい秘伝さえある様子である。
ところが近代にあっては、絵具は専門の会社において科学的に製造される事となってしまったため、画家はただそれを使用さえすればよいのである。画家の修業におけるかなり重大な部分が、引離されてしまった訳である。
画家はただ自分の本当の仕事だけをやればよい事となってしまった。勿論日本画家のあるものは今もなお絵具の溶き方にかなりの修練をやっているようであるが。
従って今もし画家の家へ年期奉公をしたとすれば雑役以外にする仕事がない。
この点からいって、今の時代では入門に先き立って人の心を養って置く方が得策だ。それには丁度|幸《さいわい》な事に普通学というものがある。
それから、昔は西洋でも日本でも先生各自の流派というものが非常に重《おもん》じられ、心そのものよりも画法というものを重大に考えた。
その画法には秘伝があり、描くべきものには必ず厳格な順序がありその軌道に従って描くのである。その法軌から離れた事、勝手な事をすれば破門されるおそれがある。
従ってその方則を習うだけでもかなりの年数がかかる訳であった。従ってかなりの子供のうちから稽古しなくては到底充分の修業が出来ない事だったらしい。
一人前の心を持った大人となると自分の心が自分に見えて来る。そこで柔順に先生の方則、流派の型など馬鹿々々しい仕事を習得してはいられない。そこで何もわからぬ子供時代においてあらゆる馬鹿々々しい仕事を習練させたものでもある。
ある流派、先生の型、をうけ継ぎ受け継いだ結果生き生きとした画人が西洋でも日本でも出なくなり、世の中が人間の心は、即ち画人の心は、心にもない方向へ方向のわからぬ乗物によって引きずられた結果、生き生きとした画人が西洋でも日本でもすっかり出なくなり世の中が萎《しな》びかかって来たものである。そして十九世紀の終りから二十世紀の初めにおいて非常な勢となって近代の自由な明るい気ままな人間の心を主とした処の画の方則が現れ出したのである。
それは飽き飽きした結果誰れいうとなく現れ出した人間の本音である。
即ち近代の絵の技法は人間の本音から出発しなくては面白くないのである。
本心本音のいう処、命ずる処に従ってそれ相当の技法を用いて行く処に新らしい意味が生じてくる。
3 技法の基礎的工事について
私は近代の画家は、最も自由な技法によってその本心本音を遠慮する処なく吐き出す必要があると思うのである。そして、その心の命ずるままに、あらゆる技法を生むべきものであると思う。
また各人各様の技法を持ち、絵画は千差万別の趣きをなすという処に、自由にして明るい世の中があるのだと思う。この世の中の画家が悉《ことごと》く一様に仲よしであり、お互に賞讃し合い遠慮し合い意気地《いくじ》のない好人物|揃《ぞろ》いであったとしたらしかも安全と温雅を標語としたら、随分間違いは起らないかも知れないが地球は退屈のために運行を中止するかも知れない。
ところで、しかし、人間の本心というものはかなり修業を積まぬ限りさように容易に飛び出すものではないようだ。さように簡単な本心にちょくちょく飛出されては世の中が迷惑するであろう。これこそ俺《お》れの本心だろうと思った事が、翌日、それはまっかな嘘《うそ》であったり、人の借りものであり、恥かしくて外出も出来ない場合がない事はない。極端にいえばこれこそ人間の本心であり個性であるというべきものは死ぬまで出ないものかも知れないが、その本心を出そうとする誠意と、それに近づこうとする努力とが芸術を多少ともよろしき方向へ導くのではないかとも思う。
勿論、人間の本心は子供の時代を離れ一旦《いったん》神様から見離された以上、人間は、今度こそ、自分自身の努力によって神様を呼び戻さなくてはならないのである。
技法以上の絵、絵にして絵にあらざるの境と誰れやらがいったが、正にその境に到達するまで、何んとかしてやらなければならないのだ。
食べて後吐く、食べて後|排泄《はいせつ》する。先ず技法の基礎をうんと食べる必要がある。
では何を食べるか、それは画家は先ずこの世の中の地球の上に存在する処の、眼に映ずると同時に心眼に映ずる処の物象の確実な相を掴《つか》みよく了解し、よく知りよくわきまえ、その成立ちを究《きわ》める事が肝要ではないかと思う。
この世の物象をよく究め了解する事においては、目下油絵技法の根本の仕事としては一般に先ず最初は素描、即ちデッサンの研究によって自然の形状、奥行、光、調子、といった事柄を探索するのが最も安全にして重要な仕事とされている。
即ち自然は如何に成立っているものか、地上にあるあらゆる空間、風景、動物、静物はどんな約束で構成されているのか、世界にはどんな調子があり、リズムがあるか、太陽の光はどんな都合に世の中を照しているのか、それによる色彩の変化強弱その階調等それらを如何にして画面へ現すものか、といった風の事を調べるのである。
それは、大都会の地理を調べる仕事である。都会で如何に何かを仕様としても、都会に対する常識なき者は、先ずモーロー車夫の手にかかるであろう。もしも女ならばうっかりしている間に何かに売飛ばされてしまうかも知れない。
あるいは親切そうな案内者によって、本願寺の石段は何段あるか、天王寺の塔の瓦《かわら》の類を暗記させられてしまうかも知れない。余談は別として、目下西洋画を勉強するものが必ず行う処の方法として、先ず最初に石膏《せっこう》模型の人像によって、木炭の墨、一色の濃淡によってそれらの物の形と線と面と、光による明暗の差別、空間、調子、遠近、奥行き、容積、重さに至るまでの事を研究了解会得して行くものである。それが素描の意味であり技法の基礎工事である。
話が大変科学的であるようだが、しかしながらこの科学が油絵の重大な原因ともなってその技術の底に横《よこたわ》っている事を忘れてはならないのである。この点において東洋画の技法とは根本的に差違ある処のものである。
東西技法の差異と特色
私はここで西洋画と東洋画との技法の根本的差異について少し述べて置きたいと思う。
東西の文明が入り乱れて頗《すこぶ》るややこしくなった今の世の日本ではしばしば日本画も西洋画もあるものか、自由自在に何もかも取り入れて、要するに絵でさえあれば、何んでもいい、進めや進めという説もかなりあるものである。これは油絵の技術にのみよっている画家たちの中には尠《すくな》いようだが目下の日本絵の材料によっている人たちの中には、かなり称《とな》えられている処の事柄である。私自身も昔、日本画の技術を捨てる以前においては、かなりかかる説を振廻して先生を困らせた事を記憶する処の一人であった事を、白状して置かなければならない。出来ない相談という事を発見して私は完全に油絵に乗り換えてしまった次第である。
勿論、広い意味において、美の終点、芸術の終点ともいうべきものは、何に限らず高下深浅の別こそあれ、ほぼ一様な域に到《いた》るものかも知れないが、芸術の材料とその技法の差によって、その芸術が発散する処の表情には歴然とした差別があるものである。一つの技法がその技法の限界を超《こ》えると、その技法はかえってよくならずに死滅してしまうものである。油絵には油絵だけが持つ生命があり表情がありその能力にも限界が備《そなわ》っている。油絵が万能|七《しち》りんの代用はしないはずだ。
一つの技術が世界|悉《ことごと》くの芸術の様式と内容の総《すべ》てを含んでしまうという技法は今までにまだ発見されていないようだ。
活動写真という進歩した便利至極の芸術でさえ活動写真だけが持つ味以上のものは出そうでない。三味線には三味線という材料に相当するだけの技法と世界が存在する。シネマにおけるダグラスの活躍に三味線の伴奏があったら多少変だろうしあまりに愉快は得られないであろう。
いつか、セロの如き三味線を考案した才人もあったようだが、どうもまだ新芸術の材料として一般に使用されているようにも聞かない。
西洋技法の表面を借用して六曲|屏風《びょうぶ》に用い、座敷を下手なパノラマ館としてしまった実例はかなり混乱の現代日本に多い例である。
私は昔、現代劇に、浄るりのチョボが現れたのを見た事があった。また、乃木《のぎ》大将伝を文楽座で人形浄るりとして演じた事があったと記憶する。前者においては愛子は涙の顔を上げて太夫が語ると愛子というハイカラな女は顔を持ち上げて泣き出した。
かかる例は極端な場合であるが、しかしこの極端が往々にして平然と今の時代の新工夫新様式として通用する事があるのである。この事はかなり重大な問題であるのでここにはっきりと尽す事は出来ないが、要するに西洋画と日本画との技法には、根本的に単位の違ったものが存在するという事を、いって置きたいのである。
大体東洋画の特色ともいうべきものは、絵に実際の奥行きのない事だといってもいいかと思う。その代り奥行きは間口の方へいくらでも延びて行く処の技法である。例えば家に奥行きを多く作る必要ある場合には土佐派にあっては家の屋根を打ち抜いて座敷を見せ、その中の事件を現すやり方である。あるいは南画の如く山の上へ山を描き、そのまた上に海を描き、その上になお遠き島を描く事である。
百里の距離を作るには日本画では、先ず近景を描き、中景を描き、而して百里の先きを同じ大きさにおいて一幅の中に収めてしまい、その間には雲煙、あるいは霞《かすみ》を棚引《たなび》かせて、その中間の幾十里の直接不必要な風景を抹殺《まっさつ》してしまう。観者はその雲煙のうちに幾十里を自ら忍びて、そこに地球の大きさを知るのである。従ってさような技法は、一幅の中にいろいろの物語や内容を現すに至極便利な方法である。絵巻物などが作られるのも無理のない技術である。あるいは風景の多種多様な情趣あるいは一幅の画面に四季の草花、花鳥に描くにも適している技術である。
西洋画の場合では、さように観者の想像に委《ま》かせる事はあまりしない。画家が眼に映じた地球の奥行きをそのままに表現せんとする。だからこの点では日本画の自由にして百里の先きの人情風俗までも現し得る仕事に対しては頗《すこぶ》る不便不自由なものである。
例えば風景の場合、西洋画にあっては近景に立てる樹木、家、石垣等が殆《ほと》んど画面を占領してしまい、百里の遠方は已《す》でに地平線という上の一点に集合している次第となってしまう。その遠方の人情を見ようとすれば望遠鏡の力によって漸《ようや》く発見し得る仕事である。
さように百里の先きの遠き人情物語を現す事は出来ないけれども、その代り前面の樹木と枝が如何にも世界に確実に存在し、如何に光に輝き、樹木と家とが如何に都合よくあるか、画面にどんな線と、色彩とをそれらが与えるか、そのあらゆる実在の色彩、線、形、光、調子の集合が人間にどんな心を起させるかといった具合の仕事を現す。
要するに眼に映じる自然のありのままの実在が如何に美しく、複雑に組立てられているかという事を現すのに適当な技法である。
従って、従来の東洋画には実在感が尠《すくな》く、その代り非常に空想的で情趣に満ちているに反して、西洋画は陰影と立体が存在し、太陽の直接の影響による光が存在し、空気があり科学があり、実際と強き立体感が頑《がん》として控えているのだ。
東洋画を天国とすると西洋画はこの世である。あるいは極楽と地獄の差があるかも知れない。
ところでわれわれ近代の人間にとっては極楽の蓮華《れんげ》の上の昼寝よりは目《ま》のあたりに見る処の地獄の責苦《せめく》の方により多くの興味を覚えるのである。その事が如何にも私を油絵に誘惑した最大の原因でもある如く思える。
4 素描(デッサン)
要するに、よくこの世界を了解するという事は、よく観察しよく写実しなければ油絵は成立って行き難いものである。
そこで油絵技法の基礎工事としてその写実の研究方法として、一般に行われている確実な方法というのは即ち素描(デッサン)をやる事である。
しかしながら、素描と一口にいっても、その範囲は頗《すこぶ》る広いものである。例えばコンテーを以《もっ》て描かれたもの、あるいは木炭、ペン、毛筆等で描かれたもの、あるいは一切の色彩を交えない線描の絵の一切を素描という事も出来る。あるいは日本絵の下絵や鳥羽僧正《とばそうじょう》の鳥獣戯画やその他|雪舟《せっしゅう》の破墨《はぼく》山水に到《いた》るまでも素描といえばいえるものである。
しかし、ここでいう処の油絵の基礎としての素描、デッサンは、油絵の基礎工事としてのものであって、即ち、木炭紙の上へ木炭を以って、石膏《せっこう》の胸像あるいは生きた人体を写生し、その形態、平面、立体、凸凹、明暗の調子等の有様を研究し表現する処の仕事をいうのである。
初学の人たちがその考えだけは立派な芸術的な考えを以って、いろいろの展覧会や画集において見た処のマチスやルオーやピカソ的素描を、直ちに石膏や人体に向って試みようとするのをしばしば見る事がある。あるいは直ちに一切の写実を飛越えて、構成的素描や、油絵を制作するのがある。それも結構ではあるが、あまりに芸術の奥儀にまで一足飛びに飛び過ぎているものというべきである。
日本へ渡来する西洋のいい絵や立派な素描の多くは、その諸大家の学生時代の習作では決してないので、それは雪舟の山水の如く鳥獣戯画の如く、素描それ自身がすでに充分完全な芸術作品となり切ったものなのである。
即ちそれらは肥料でなく花であり実である処のものである。
それらの花や実を結ぶ以前において、如何に多年の手数と肥料が施されているかという事を承知しなくてはならないと思う。
米のなる木をまだ知らぬという俗謡がある。日本にいると、全く米のなる木を知らずに過している事が多いのは頗る危険な事である。
素描、油絵、あらゆる西洋芸術は、すべて花となり切って渡来する。その花を見て直ちにその模製を試みる事は、庭の土から直ちにライスカレーを採集して以って昼めしにあり付こうとする考えである。
短気は損気という言葉もある。ホルバインの素描における一本の線あるいはマチスの極端に省略された一条の線の裏には、どれだけ捨て去られた多数の線が存在しているかを知らねばならない。
そこで、私は絵の基礎的工事ともなり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。
ところで私は正直にいうと、この素描即ちデッサンの勉強というものは、個人が勝手に、家にあって習得する事の頗る困難なものなのである。何故なら、石膏像を忠実に写そうとしても最初の人にとっては、その正確な形、その明暗の調子や光の階段を本当に認める事が容易な事ではないのである。それから石膏像の種類を個人としてはさように数多く設備する訳にも行かないので一つの胸像を毎日描いていると飽きてしまって興味が続くものではない。それでなくともデッサンは、かなり無興味な仕事と考えられやすいのである。
それから、石膏よりもなお一歩進んで人体の素描に及ぶと、なおさら毎日々々モデルを個人で雇う事も随分の贅沢《ぜいたく》であり、永続きのしない事である。
そこで本当に勉強しようとすれば、何んといっても、大勢の画家が集って、各々がお互に眺め合い、せり合い揉《も》み合ってグングンと進んで行くのがよい方法である。
それは、私自身の経験に見ても、昔、白馬会《はくばかい》の研究所でおよそ一ケ年と、美校の二年間のデッサン生活において、先生の指導も結構に違いはなかったが、お互の競争心理が、絵を進ましめる事に非常な力があった事は確かである。
そこで私は普通学の勉強時代やアマツールとしての時代がすみ次第に本当に絵をやろうとするにはやはり美校あるいは相当の研究所へ通う事が最も適当な方法であろうと考える。
素描の方法について
話の順序として、ここに極く概略のデッサンとしての木炭画の方法の概略を述べて置こうと思う。
デッサンの準備
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木炭(西洋木炭)
木炭紙
カルトン(紙|挟《ばさ》みであり画板《がばん》であるもの)
クリップ 二個(紙を抑《おさ》える)
フィキザチーフ Fixatif(仕上った画を定着する液)
吹き器(フィキザチーフを画面へ吹きつける)
食パン(食パンの軟《やわらか》きを指で練り固めてゴムの代用とする)
画架
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以上のものがあれば即ち石膏の胸像の簡単なものから描き初める事が出来る。そしてだんだんと複雑な石膏に及び、やがて生きた人体のモデルに及ぼせばよいのである。
石膏写生が無興味だとあって、直ちに人体写生に飛越える事も冒険であり無駄骨である。人は動く、形は変化する色彩が複雑で初学の眼には判然としない。またその物質感も石膏と違ってかたい所、あるいは軟かい場所等様々の触感があるために最初に人体を写す事は無理である。
最初の心得
石膏の胸像をば画面の中央へいじける事なくまた実物よりも妙に大きくならぬよう、ほぼ実在の大きさを想像させる位いの、のびやかさを以て画面の中央へ行儀よく描くべき事。
画面の片隅へ胸像がずり込んだり前方へのび出したりしないように、構図よろしく画面へ取り入るべき事。
なるべく、実物の全体を大まかに描き初め、眼、鼻等の造作を決して気にかけず大きな塊《かたま》りとして見るべき事。どうも、最初の人は必ず目玉を気にして、顔の形も整わない中《うち》から目玉だけははっきりと描くくせ[#「くせ」に傍点]がある。そして妙なお化けを製造する。
顔の造作は立体中の凹所凸起位いに思って描けばいいと思う。
最初はなるべく木炭の最も淡き調子を以て描き初むる事。うすぼんやりとした大体の塊まりからだんだんと形を強めて行くべき事。
大体の形状がほぼ出来ると同時に最も明るい部分と、他の暗き部分との明暗二つの大きな世界に区別する事。次に明所の光の諸階段を眺め暗所の反射等による諸階段を眺めて行く。
例えば太陽と白き球体との関係を想像して見るに、太陽が球を照す時、太陽に面する方は昼であり、他方は夜である。
即ち昼夜の大体に区分される。次に昼の部分において最も太陽の直射する部分が最も明るく、それより光が斜にあたるに従い正しき音階を作りつつ暗さを増して行く。
また、日蔭《ひかげ》の即ち夜の部分であるが、地球とすれば星あかり、あるいは月の光、この世の物体とすればあらゆるものの反射の光があるので、従ってここにもまた光の音階が現れる。そして結局太陽から遠く、反射からも遠い処の昼夜の分岐線(図ではAB線[#図は省略])の辺りにおいて最も暗い影を見るのである。
かくの如く昼夜両面の中に、無数の光の正しき音階が現れて来るのであるが、この光の階段はこの球体の場合に限らず、あらゆる立体においてもこれとほぼ同じ理由による光の階段が大概の場合附き纏《まと》うものである。
石膏の胸像も球に比べるとかなり複雑な立体ではあるが、しかしこれを一つの球だと考えてしまって、その調子を眺める事が必要である。
ただ多少の形に変化あるだけ、調子にも複雑な変化を現すが、大体において球の場合と同じ光景を呈するのである。
石膏にあてる日の光は、なるべく右、あるいは左横手よりする事がよいと思う。正面に光があたると、完全な明暗の区別が見えなくなり物体が平板と見え、調子を見る事が出来ないからである。
食パンを使い過ぎない事。しめったパンをゴシゴシと摺《す》り込むと紙が湿って木炭がのらなくなってしまう。
木炭はその尖端《せんたん》を使用し、時には木炭の横腹を以て広い部分を一抹《いちまつ》する事もよろしい。鉛筆画と違って、調子を作るために線の網目や並行の斜線を使用する必要がない。ぼかすためには指頭を以て木炭で描いた上を摺る事もよろしい。
あまり指頭でぼかし過ぎ、こすり過ぎると木炭の色が茶色と変じて死んでしまう。また脂汗《あぶらあせ》の指で摺りその上をパンでゴシゴシ消すと、木炭紙は滑《なめら》かになってしまって木炭はのらなくなる。
木炭では、最も軽く淡き色より最も濃く黒き色に到るまでの多くの度や、階段を造り得るものである。それを生かして自由自在に調子のために活用すべきである。
以上、先ずざっと、その位いの事を最初に知って置く必要がある。それからは、要するに自分自身の眼を以って、出来るだけ正確に写す事である。
5 人体習作について
素描を研究すると同時に、油絵を以って、人体の五体を描く事は、基礎工事として技術上欠くべからざる順序である。
この世の中で人間が一番よく了解し得るものは、お互の人間同士の姿である。猿は猿を知り、犬は犬を知り、猫は猫を、牛は牛を知っているはずである。
人間は猫の縹緻《きりょう》の種々相を見わけるだけの神経を持たないが、猫はちゃんと持っているのである。
松の木の枝を実物よりも五本省略して描いても松は松であるけれども、人間の指が一本不足しても、人は怪しむ、人間の腹のただ一点である処の臍[#「臍」は底本では「腸」]を紛失させたとしたら、腹は不思議な袋と化けてしまう。
人間は、人間の形をよく了解すると同時に、人間の五体の美しさをも最もよく了解するものである。
人間が鹿《しか》や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体が最も美しく、馬は馬の五体を了解する事かも知れない。
目下、油絵の基礎的技法として、または最も興味ある題材として、一般に裸身を描く事が行れている事については、それが人間にとって、他の何物よりも強き美しさを感じさせ永く描きつづけて飽きる事がなく人間が人間をよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利《き》きにくい処のものであって、その色彩の複雑にして、微妙である処、一ケ所として一様な平面を持たないあらゆる凸凹において、線において、立体において、そのかたさ、滑らかさ、その構成の美しさがある。
人間が鹿や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体を感じ、馬は馬の五体をよく了解するであろう。とにかく人間にとって他の何物よりも強き美しさを示すものは人間の裸身であろう。従って永く描きつづけて興味の続くものも裸身である。それから、人間がよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利きにくい処のものであり、その色彩の複雑にして微妙である処、一ケ所として一様な平面や線を持たない処、あらゆるデリーケートな凸凹において、線において、その立体において、そのかたさ、滑かさ、その軟かさ、その構成の整頓せる事において、さようなあらゆる点において、一般裸身を描く事がわれわれ画家にとっては最もよき終生のモチーフであり、画家の喜びであり、またその困難さにおいては初学者にとって最も興味ある手本としてこれらが多く描かれ用いられる訳であろうと考えられる。
全く、われわれが例えば一個の桃を終生描きつづける事は困難だが、画家は終生裸女を描いている事は珍らしい出来事では決してないものである。
裸身は画家、一生の最もよきモチーフであると同時にその表現の困難さにおいては他の何物よりも困難である。従って初学者にとってこれも描く事は写実的技能を養う上に欠くべからざるよき対象である。即ち石膏学生と同じく、最初は木炭を以って人体の素描を研究せねばならぬ。次にカンヴァスの上へ素描の下地を作り、油絵具を以て忠実にその立体と調子と色彩のあらゆる関係を研究して行く事が必要である。
この場合において、初学の人たちはややもすると、習作と製作とを混同して直ちに、何か素晴らしい芸術品を作り出そうとする傾きがあるものである。例えば研究所でまだ石膏の首の調子さえ描き得ないにかかわらず、ルノアル翁晩年の作を直ちに模そうと考え、あるいは直ちにピカソの立体をモデルに当てはめようと考える。あるいはドランの線を附け加えようとする。そして、ピカソやドランやルノアルが、如何に写実がうまいか、如何に写実で苦しんだかという事を考えまいとする傾向のあるものである。それは前章に述べた如く米のなる木を考えないのと同じである。直ちに庭からライスカレーを採取しようとするものである。
先ず最初は、あらゆる道楽心を捨て去って、そこに立つ人体そのものを尊敬する心が必要である。モデルがあらゆるものを教えてくれるはずである。モデルと自分と、そして厳格な写実、それ以上の技法はないといって差支《さしつか》えない位いのものである。
自然を勝手に置きかえて見たり、バックを無意味にぬりかえたり、不必要なものを附加したり、モデルを軽べつする事は、やがて神罰によって失明するに至るであろう。
かくの如く忠実にして厳格なる写実によって、自分の前に立てる裸身と空間との複雑にして困難な物象を描きつづけているうちに、画家は、種々様々の技法の要素らしいものを自ら拾い、自ら感得して行く訳である。そして同時に、あらゆる形態と物象を描きこなし得るだけの力と自信をも養う事が出来るのであると、私は考える。
初学の人はしばしばあまりにデッサンを習得し過ぎ、あるいは人体写生において写実をし過ぎると、形や技巧の事が気にかかって面白い絵が描けなくなるといった風の事をいう。
それから、いろいろと、現代の大家たちの絵について、かなりしっかり[#「しっかり」に傍点]とした画技の熟達を見せながら、少しも人の心を刺戟《しげき》し、感動させる力のない、調子の低い様々の画を示して問う人たちを見る。
なるほど、それはわれわれが見ても、少しも絵として迫ってくる力のない事は、全くその初学の人たちがいう通り平凡にして、かつ精神力の欠乏したしかも整頓《せいとん》だけはしているという絵である事は確かである。
しかしながら、銘刀は祟《たた》りをなすという事がある。それは銘刀の所有者が低能者であったからである。百人の低能者が最新の軍艦へ乗り込んだとしたら、その威力を充分我が海軍のために発揚し得るかどうか、うたがわしい。
われわれはそれがために軍艦を呪《のろ》い、銘刀を捨てる必要はない。何もかもが人間それ自身の問題ではある。素描や厳格な写実が人を殺す場合はあるかも知れないけれども、それは殺された人が弱かったためである。それ位の弱者は早いうちに殺されて置く方が自他共に幸福であるかも知れない。
しかしながら、人はなかなか容易に死に切れるものではない。画技の下敷となり半死半生の姿を以て、しかもそれに馴《な》れ切って平然と生きている処の大勢があるものである。そして形だけは整頓した処の、例えば甲冑《かっちゅう》を着けたる五月人形が飾り棚の上に坐っている次第である。かかる者を総称して近代の若い人たちはただ何んとなく、アカデミックという風の名称を捧《ささ》げているように思う。
石橋を叩《たた》いてばかりいて決して渡り得ない臆病者と石橋を叩く事ばかりに興味を覚えて渡る事を忘れてしまうものとがある。あるいは決して叩かずに渡る勇者がある。しかしながら石橋でさえも叩いて置く方が間違いはないようである。然《しか》る後、渡る事だけは決して忘れてはならない。
私は、以上述べた処の素描、及び人体写生を以て画技における基礎工事と考えるのである。これらの仕事を充分に研究する事は即ち石橋を叩く作業であろう。
然る後において、画家は、好む処、心の趣《おもむ》く処に従い、風景、静物、人体、その他あらゆるこの世の万象を描く事において絶対の自由と気ままとが許されているはずである。
私は以上油絵の基礎について述べて見たのである。それは甚だ不完全な説明であったが、ともかく、素描と人体研究とは油絵を描くものにとっては、充分経験しなくてはならぬ処の義務教育である事を知ってほしい。と同時にそれは画家の生涯に附き纏う処の画道の骨子であり、それによって画家は自然の組織と絵画の組織を発見もし、技法の秘密をも探究する事を得るのである。
この修業を怠《おこた》るものは一時の器用と才気から何か目新しいものを作る事が出来るとしても、それは本当に成長すべき運命を持たないであろう。月不足の嬰児《えいじ》の如く。
小児の傑作が長ずるに従って消滅するのも子供は絵画の組織を持たないからであるといっていい。
6 近代の心と油絵の組織
油絵というものが西洋に生れ、西洋人の要求と生活から湧《わ》き出してから古き歴史を持ち、やがて素晴らしい時代が来、大天才が輩出し、その時代時代において花を咲かせ実を結び、あらゆる人間の要求によって、あらゆる画風を生じ傑作を無数に残し、その技法は完全に研究され絵画の組織は充分に備《そなわ》り過ぎる位いに備ったのである。故に油絵技法とその組織というものは、私の考えによると、十六世紀の時代においてその全盛期であり、油絵技法の最頂点を示し、その時代と人間の生活との親密にして必然の要求による結合と、無理のない発達の極度にまで達しているものであると思う。
それ以後の西洋にあっては、伊太利《イタリア》、フランスの別なく、油絵芸術は習慣と惰性とによって、ともかくも連続はしていた訳であるが睡気《ねむけ》を催すべき性質のものとなり、芸術としての価値は下向して来た事は歴史に見てもその作品に見ても明《あきら》かである。
私は、ここに西洋絵画史を述べる暇と用意を持たないが、ともかくも、私は油絵具という材料とその形式で以てする芸術の限界においては、再び、レオナルドや、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ヴェラスケス、ゴヤ等の仕事に比すべき位いの、材料と人間の生活と、技法と画家の心とが無理もなく完全に結び付き、壮大なものを生むべき時代はおそらく来まいと考えるのである。
あの重たく、厚く、深く、大きく、堅固で悠長《ゆうちょう》で壮大で、真実で、華麗で、油絵の組織の完備する点で、また油絵具の性状が完全に生かされている点において、私は油絵具のなさるべき、頂点の仕事が已《す》でにその時代において為《な》し尽されているように思えてならないのである。
極端な事をいえば油絵の技法は最早や大昔において、役に立ってしまった処の芸術形式であるといっても差支えないかも知れない処のものである。そして近代以後の人間世界の要求からは、多少とも不合理な材料であると思われ来るべき運命をさえ、持っていはしないかとひそかに私は疑うのである。
如何に面白い日本音楽であったとしても、近代日本女性の複雑な恋愛が新内《しんない》によって表現される訳には行き難いし、われわれの悲しみを琵琶歌《びわうた》を以て申上げる事も六《む》ずかしいのである如く、あの粘着力ある大仕掛にして大時代的な、最も壮大であった時代を起源とする歴史と組織を有する処の、ミケランジェロやルーベンスを生んだ処のその武器を持って、戦いに出る事は、近代以降の人間にとってかなり憂うべき十字架となりつつありはしないかとさえ考え得るのである。
だがしかし、今私はさような事を述べる場合ではない。われわれは近代人がこの技術を如何に処理し如何に組織を改めたかを知らねばならぬ。
全く、西洋においても、十五世紀以来、多少の変化はあったとしても大局から見て絵画は立派な老舗《しにせ》の下敷となって退屈を極め出したのである。その結果近代のフランスにおいて、とうとう印象派が起り、次に後期印象派が起り、キュービストとなり、構成派となり未来派となり、ダダとなり、あらゆるものが次から次へと勃興《ぼっこう》した事は、一つには退屈と衰亡に際する一種の死の苦悶《くもん》から湧き上った処の大革命であったに違いない。
それらのいろいろの主張や主義や、団体は、幸にして油絵の組織を悉《ことごと》く変化させ、あるいは暴動に似たイズムさえ各処に起って、近代の芸術は頗《すこぶ》る面目を改めてしまった事は何んといっても晴々とした事である。
幸にして油絵の組織は完全に潰《つぶ》されてしまった。しかしながら、組織を潰す事は油絵そのものの死を早め誘うものである事が判明した。人間の組織を潰す事は人間の死を致す場合がある。それから、人間はあまりに潰れ過ぎたものを正視する事を何んだか嫌がる本能性があるものである。過ぎたるは及ばずという言葉の如く、最近は、その潰《つぶ》れた油絵の組織をば建て直そうとする傾向が現れた。やはり、人類を生かすためには紀元以前から持参する処の古き胃袋を必要とする事、古き肺臓、古き心臓、そして古き生殖器さえも必要であると思われて来た訳であるかも知れない。
そこで近代の油絵は、また再び構成され、あるものは古典に立ち帰って研究され、あるいはその以前である処のプリミチーブの領域にまで頭を延ばして研究され、油絵の組織は整頓されようとして来たのである。
だがしかし、それらの仕事の何もかもは、近代の心と油絵技法との、そりの合わない事における末世の苦悶と見ていいかと私はひそかに考える。
何はともあれ、油絵は、油絵という範囲と限界のあるものである事が判明した。そしてその限界を越えざる程度において、組織を変改し、近代の心をその上に盛り、近代の心と個性によってその古き古き胃袋を使いこなし、古き組織の人間が新らしきツェッペリンに乗る事等によって、現代の絵画はともかくも生命を保ちつつ動いているかの如く見えるのである。
要するに油絵という芸術には、それ相当の組織があり、その組織を完全に潰すと同時に油絵は死滅しかかるものである事がわかったのである。即ちその形体、立体、線、空気、調子、光、空間、階調、構図、色彩等の相連関する処の結合体を欠く事が出来ないのである。
近代の人間のあらゆる苦悶によって、それらの伝統と、組織の要素が捨てられ、潰され、再び拾われ整理されたその結果において、ともかくもなされた近代の油絵における技法上の大事業は、あるいは特質とも見るべきものは、それは壮大なる王様の行列を数台の自動車に改めた事である。非常な省略と単化が行われ出した事だといってよい。
技法と組織の省略と単純化は近代絵画のもつ重要な特質だと言っていいであろう。
単純と省略は野性へ帰ろうとする力である。うるさい礼節の極端な発達は、人間の心をその中へ封じ込めてしまうものである。壮大にして複雑な油絵の組織と、先祖の立派な遺業は次の時代の人間の心をその下敷にしてしまったものである。
近代人の苦悶はとうとう人間の心を組織ある野性において露出せしめた訳である。フランス近代におけるフォーブの一群などはその代表的な一群であろう。
7 近代新技法の特質
人間世界の文化があまり発達し過ぎてしまう頃には、沢山の組織とあり余った規則とうるさい儀礼とでこの世の中は充《み》たされてしまう事である。そして人間の心がその下敷となって動きの取れない悲しみを味《あじわ》うものである。規則や組織が古ぼけてしまった時には、ぜひとも清潔に掃除してしまわない限り、次の新らしい人間の心は成長し難いものである。
西洋における近代のあらゆる絵画の主義や傾向の新しい各派の次ぎ次ぎと起って来た有様は、全く驚くべきものであった。それらはあたかも油絵の組織と規則の下敷から躍り出した処の勇敢なる一群の野蛮人であったといって差支《さしつか》えあるまい。
新らしき野蛮人は、いつも大掃除については欠くべからざる役目を仕《つかまつ》るものである。
大体、野蛮人の仕事は単純である。粗野であり、素直であり、個性的であり怪奇である。近代フランスにおいて起った種々雑多の新しい傾向は悉《ことごと》くこの野蛮人の仕事を更に繰り返したものであるといって差支えあるまい。
即ち印象派以後、ゴーグ、セザンヌ、立体派、野獣派等正に壮大にして衰弱せる老舗の下敷から這出《はいだ》した処の勇ましき野蛮人の群であった。そして彼らの仕事の偉大なる特質は野人の特質である処のあらゆるものの単純化という事であったといっていいと思う。
しかしながら、その近代に起った野蛮人は、何世紀かの教養と、習練と文化と生活を経て来た処の神経の、明敏にしてデリケートな処の、ヒステリックである処の、そして伝統というものを、その血液の中に確実に含んでいる処の、野蛮人であったのである。
従ってその野人の仕事は、即ち近代絵画の性質は悉く非常な神経的のものであり、その技法は単純ではあるが頗《すこぶ》るデリケートなものであり個人的のものであり洗練され、鋭い処のものであるのは当然である。そして個人の心を、露骨に表そうとする処のものである。
個人的といえば、あらゆる絵画は個人的な芸術作品であると思えるかも知れないが、しかしあまりに技法が複雑となり、発達し過ぎた時代の絵画は、ややもすると、個人の製作でなくなっている場合が多いのである。日本でも西洋でも、昔の絵画は、大勢の人たちによって製造されたものが頗る多いのである。あたかも建築の如く、芝居の如く、連作小説の如く、である。
先ず先生がおおよその着想と構図とを与え、下塗り中塗りは大勢の弟子にまかせ、上塗りでさえも大勢の弟子たちがやる事は普通の事とさえされていた事さえあるらしいのである。
弟子たちは現今の人間の如く自意識が発達していなかったためか、その仰《おお》せをかしこみて、頗る謹厳丁重に指図《さしず》を待って描き上げるのであった。それは結果においては壮大な壁画や大作を作るにはかえってよき効果さえあったものである。
近頃でも、日本画の帝展制作等において、大勢の弟子たちが先生の画面へ敬意を捧《ささ》げながら一筆の光栄を拝しつつ手伝っている事は、昔と大した変化はない事を見受けるものである。
かくの如くして古代の名作は出来上っている事が頗る多いのである。それは決して私は悪い事とはいえないと思う。一人の作でも大勢の作にしても、壮大偉麗なものが出来れば幸い至極と思う。
ところが近代における人間の自意識の発達と非常な神経の発達とは、極端に個人の心の動き方を現そうとするし、また鑑賞しようとする方向に向って来たようである。
徹頭徹尾、個人でやる仕事は勢いその画面が小さくなって来た事である。即ち近代絵画の画面の容積は狭《せば》まって来ている事は確かである。そして小さい画面へ人間の神経をなるべく簡単にして深く鋭く表現しようとする。その結果は、自分の作品に対して如何にしても他人や書生や弟子や妻君の手を煩《わずらわ》す事が出来難いのである。一本の線、一つの筆触が近代絵画の生命となってしまっているのであるが故に。
その結果は、近代画家位い書生や弟子を家に養わない時代も珍らしいといっていいだろう。最も近代生活は画家をしていよいよ窮迫の底へ沈めて行く傾向もあるからやむをえない事かも知れない。また近代位い書生や弟子入りする事を嫌がる時代も尠《すくな》い、それは個人の神経を生かそうとする時代精神からであるかも知れず、またその他の種々の原因があるようだが今ここにそれを述べている暇がないので省略する。とにかく弟子の必要は完全になくなってしまった。
絵画の形式や組織が単純化され、神経は鋭くなり、画面は狭まって来た以上はその一点一画は頗る重大な役目をなす事となってしまったのである。空の一抹《いちまつ》樹木の一点、背景の一筆の触覚は悉《ことごと》く個人の一触であり一抹であらねばならなくなってしまったのである。
それは、書の精神にも、あるいはまた南宋《なんそう》画の精神とも共通する処のものである。南宋画が北画に対して起った原因と丁度近代絵画が湧出《ゆうしゅつ》した事とは、頗るそれも類似せる事を私は感じるのである。しかもその技法と精神においても、その単化と個人的である点において、心の動きある事においてその絵画の技法が持つ表情において、半《なかば》一致せる諸点を感じるのである。
古き占い法に墨色判断というものがある。その法は、白紙へ引かれた墨の一文字によって、その運勢と病気と心の悩みを判断するのである。
私はそれを非常に面白い占い法だと思っている。
近代絵画の技法は全く、その墨色の集合体だともいい得る、決して弟子や他人の一筆を容《い》れる事を許しがたい。この事は近代絵画の技法における最も重大な特質であろうと考える。
要するに、作家の心の表現に役立たない処のあらゆる複雑な衣服を脱し、うるさき技法を煎《せん》じ詰め、あってもなくてもいいもののすべてを省略してしまう事は近代技法の特質であると思う。
換言すれば、絵画の上で、弟子や他人にまかせても差支えない場所の悉くを省略して、私自身の力と心を現すに必要なもののみを確実に掴《つか》む事である。
私はこの技法を完全にまで進めているものをマチスの絵画において感じる事が出来ると思う。
私はマチスが近代技法の特質を最もよく生かし得た画人であると思っている。
絵画の技法にあってその組立の複雑な衣を脱がして行くと、最後に何が残るかといえばそれは線である。
野蛮人の絵画、太古の絵画も線に主《おも》きを置いている。近代フランスの野蛮人もまた線へ立ち戻る事に努力したようである。日本画における没骨体《もっこつたい》という進歩した技法から逆に、いわゆる、白描の域へまで立ち帰ろうとしたのである。
油絵における技法の底の底へ沈んでいた処の線を引ずり出した近代野蛮人の功績は大したものであったと思う。
次に複雑な立体を頗る簡単な立体に節約し百の調子を十にまで縮め色彩を単純にし、然《しか》る後に人間の心を複雑な儀礼の底から救い出す事に成功したと言っていいだろう。
野蛮に帰り、初期に帰ろうとする心の動きにおいて、子供の絵や野蛮人の作品が近代画家を悦《よろこ》ばしめたのであった。
それから簡略を生命とする処の東洋画、あるいは一条の線の流れが世相の百態を表す処の錦絵がフランスにおいて近代絵画の大革命を起さしめる大なる原因の一つとなった、という事は当然であろう。
その他南洋土人の原始的作品や名もない処の画家の稚拙が賞玩《しょうがん》され、素人画が賞味され、技法の上に取り入れられたりした事も当然の事であろう。
いろいろの事によって近代の新らしい絵画の技法は、自由にされ、明るくなり、簡単にされ、省略されてしまったものである。
しかしながらそれらは、何世紀の歴史と生活の背景とを持つ処の西洋における出来事であった。我が日本は決してさような油絵具を持ってなされた壮大なる芸術を作った覚えもなければ、その進歩と、老舗《しにせ》と、その衰弱の悩みも経験した事は更にないのである。その技法の下敷となって苦しんだ覚えもないのである。それは単に西洋人だけの苦悶《くもん》に過ぎなかったのである。
8 新技法と日本人
我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々《ゆうゆう》自適しながら楽しんで来たものであった。勿論《もちろん》その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦《かわら》と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元《きよもと》、歌舞伎《かぶき》、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生《き》一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利《イタリア》の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽《おお》われてしまったのである。
さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕《こ》ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大《おおい》に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋|由一《ゆいち》、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田|清輝《せいき》氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、なおそれ以上の破格である処の伝統を抜き去ろうと努力した処の革命期の多くの絵画が侵入して素晴らしき発達を遂げたのである。
しかしながら、近代フランスの画家たちが求めた処の、技術の革命の眼目とする処は、単化と自由と、省略とプリミチーブと線と、素人らしさと稚拙と、野蛮とであったといっていいと思う。
日本人は求めずして既にそれらのものはあり余るほど、古来より心得、持参している処のものであったが故に、西洋の近代の絵画は、日本人にとっては真《まこ》とに学びやすい処の都合よきものであったのである。直ちに真似《まね》得る処の芸術様式である。西洋人は形をくずそうとして努力した。日本人はこれ以上くずしようのない形を描く事において妙を得ていたのである。
これは甚だ僥倖《ぎょうこう》な事で、他人の離縁状を使って新らしき妻君を得たようなものである。
しかしながら、何か日本人の絵には共通して紙の如く障子の如く、薄弱にして、浅はかにして、たよりない処のものが絵の根本に横《よこた》わっている事を昔から、日本人自身が感付いて来ている。そして誰れもが、相互の心に承知している処の欠点である。
私たちの仲間が集った時など、つい話がその問題に触れがちである。如何に拙《ま》ずい西洋人の絵にしてもが、かなりの日本人の絵の側へ置いて見ると絵の心の高低は別として日本人の絵は存在を失って軽く、淡く、たよりなく、幽霊の如く飛んで行く傾向がある。西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである。
最も主観的な様式である処の構成派や立体派あるいは未来派の作品においてすら、西洋人のものは殊《こと》に立体派においては、特にその立体に本当の立体が備り、空間が存在し複雑なリズムがあり、立体の種々相を眺め得るのである。
その側へ、同じ日本人の立体的作品を並べて見ると、日本人のものは立体らしい模様が描いてあるに過ぎず、よく視《み》ると立体でも何んでもない図案に見えて来るのである。
モネの海の絵を見た。画品も心も相当に高く美しいものであったが、われわれ東洋人はその絵に現われている処の海の本当の広さと地球の存在の確実さに驚かされるのである。
空の高さ断崖《だんがい》の大きさ地球の重さがある。モネの海はその地平線まで何|哩《マイル》かある。本当に船を走らす事が出来るだけの空間を持っている。
私は日本人の作品において空の複雑な調子の階段とその大きさをまだ一度も感じた事がない。海の広さ遠さ、この世の有様を感じる事が出来ない。
しかしながら、画品と心の高さ、高尚な気位いちょっとした筆触の面白さ、部分の小味等においては日本人はかなりうまい仕事の出来る人種である。
日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心でなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏であるらしいという事は確かである。
西洋人の求める処のものは日本人の多少持てあましている処のものであり、日本人の求めなくてはならないものは西洋人が持て余している処のものであるかも知れない。
しかしながら前に述べた如く、西洋の場合では、あらゆる伝統と絵の組織の下敷から這出《はいだ》す事が肝要であり、知り悉《つく》した事を忘却せんとする処に新技法の必然的な意味が存在するのであるけれども、日本では忘却すべき何物も持っていないのであった。最初からすでに忘却そのものであり、単純そのものであり、省略そのものであったのである。
それから、日本にはあらゆる伝統と古格と絵画の様式を研究すべきミュゼーがない事も頗る迷惑なる事である。そしてこの世界のどちらを眺めてもその油絵の伝統を生み出さしめた処の都会もなければ建築もなく生活の名残りすらないのである。ただ見渡す限りは上海《シャンハイ》、シンガポール、バラックの連続とアメリカ風位いの雰囲気《ふんいき》である。
もし時代の如何なる影響があるにかかわらず、油絵というものに一生をゆだねる覚悟を有《も》つ以上は、先ず画家として勉強の最も初めにおいて西洋の伝統と古格とその起る処の生活に触れなければいけないと思う。そして絵画の組織を極《き》め基礎を固めなければならぬ。
私は最初に絵画の組織と基礎的工事について述べたが、それ以上の基礎の修業を怠る事は出来ないと思う。
そして新らしき心と、新らしい技法とをその正確にして深き技法の修練の上に建てなければ油絵という技法は萎《しな》びて行くであろう。
国粋とか、日本的とか、国民性とかいうべきものは油絵として確かな組織の上に現れる処の求めずして起る処の新らしき日本的であり、個性であり国民性でなくては駄目である。
油絵具とカンヴァスとを用いた処の、一夜のうちに考案せる日本みやげ的油絵は生長すべき命の玉を決して持っていないであろう。それらは、日本的といえ、古き日本、消滅せる日本のおもかげを油絵具を以て現した処の亡霊に過ぎない。
要するに、日本人としての新らしき油絵の技法は充分なる基礎的工事の上に盛られなければならないと思う。
体力、神経、本能、表現力、等について
私は如何に近代の絵画がその形において驚くべき省略がなされ、自然に対して反逆しつつあるかの如き様子にさえ見えるまでの変形が企てられ、気随気儘《きずいきまま》の画家の心が遠慮なく画面に行われているとはいえども、その根底をなす処には必ず伝統の積み重ねられたる古き心が隠され、その心と共に確実なる写実にその基礎を置いているものである事を述べたつもりである。
日本は洋画の発祥の地ではなかったので、つい勢いその根が如何なる栄養を吸いつつ何の要求から現代となったか、即ち近代絵画の花が咲き崩《くず》れ出したかを眺める事が出来難い不便な位置にあるために、ついその花だけを眺め、何の支度《したく》もなく花だけを模造しようとする傾向があり、また、若き壮なる年配にあっては特にそれを先ず企てようとする。だがもともと、切り花の生命はどうせ幾日間の間である。
日本洋画壇の今までの傾向は大体が輸入時代だからやむをえない道程ではあったが、その切花の見本は無数の花の中のたった一つの種類に過ぎないものである場合でさえも、その一種の花が当分のうち全日本の浦々にまで流感の如く速かに発生するのである。
だが根がないために、次の切花の到来を待ちあぐむ。勿論花の見本だけでも心を刺戟《しげき》し開発する役には立つ、しかしながら、根を本土におろすべき芸術はその根も共に知る事なき限り本当の発生と進歩は困難である。
さて、近代の日本を刺戟した処の切花の元祖、フランスに起った処の印象派以後の素晴らしい種類の流派というものは元来画家が作らんがために製造した処の流派ではなく、やむにやまない情慾の発作によって、あるいは素晴らしい旧時代の退屈からの要求によってあらゆる絵画が動き出したのではないかとさえ私は考える。
人間が自然に各様式の風貌《ふうぼう》を以て生れては来るのであるが、便宜上馬に類する者、狸《たぬき》に類するもの狐《きつね》に類するものを集めて、狸面、狐面と区別すると、説明がしやすいからだろうと思う。自分自身もつい他人との混雑を避けて、つい似たもの同志がより集って後期印象派とか何々と称するに到るものかも知れない。
中には俺《お》れは狐だとは思っていないのに狐の部に入れられて内心困っている者もないとはいえないだろう。
要するに画家が絵画に対する本当の心の動きは、それは本能の動きであり、何の理由もなく、ただ次から次へと、貪《むさぼ》るが如く新らしいものが描きたいというに過ぎない。強い制作力ある画家ほど、飽きやすく、貪慾《どんよく》にして我儘《わがまま》である。
古人はよく九星とかいうものによって人の性格を定めて見る事をする。私はよく知らないが、九紫《きゅうし》はどんな性格であり五黄《ごおう》の寅歳《とらどし》の男女は如何に意地強きかといったりする。その星の強さというものに似たものを、私は画家の性格のうちに見る。本当の自個をよく生かす画家の星の強さは他の凡百の弱き画家の上に作用して皆|悉《ことごと》く自分と同じ真似《まね》をさせてしまう。自分の流感を他人の全部へ感染させるが如きものであり、感染するものこそ弱き星の性格者であり自ら好んで感染してしまうのである。
性慾の本能が常に同じものを嫌い、常に新らしきものを要求し、それを得てまた更に更新してその終る処を知らず、遂《つい》に死を賭《と》するに至るといった調子と画家の心とは殆《ほと》んど同じ形をとっている。
誰れが何んといっても、何が何んであろうとも、流派が何で、シュールがどうなってもいい。常に自分の慾情が猛烈でさえあればそれが万事であり、その星の強さが、世界を征服するといった具合になるのだと私は思っている。そしてそれが画家の本音でもあると考える。さて最後に鋭き表現力だ。
殊に近代の画家は、先生のいわゆる師風を継承する必要もなく、狩野元信《かのうもとのぶ》の元の一字を頂戴《ちょうだい》する必要もない。師風である処の印象派を今日廃業したといって直ちに破門をされる心配もない。もし破門されれば速かに出て行けばそれでいい。
主人ゆずりの娘を頂戴したくなければ嫌だといって差支《さしつか》えない時代である。他の世界はどうか知らないが絵画の世界ではそうである。万事が許されているのだ。芸術の世界には絶対の自由が許されているはずだ。
従って、一度この国に住めば終生絵画の足は洗えない。カンヴァスの上だけの自由は普通人の夢にも与えられていない天地なのである。
であるのに、人間は、永久に縛られていたいものである。あまり永く先祖伝来の何物かで縛りつづけられて来たわれわれは、さア思う存分の自由を与えてやるから足を延ばせといわれても逆に不安を感じ水に溺《おぼ》れんとするものが、何物か例えば棒切れや藁屑《わらくず》でさえも握りしめるといった風に、面喰《めんくら》って手近の何物かにしがみつくものである。
昔は一人の親方、先生、師匠に一生を捧《ささ》げたが、今は一人の先生を離れて明るい世界へ泳ぎ出した。ところで自由な波を一人明らかに乗り切る天才は地球上のあらゆる画家を知らぬ間に自分一人にしがみつかせている事になったりする。
セザンヌという人は知らぬ間にどれだけ多くの弟子を集めたか、昔の弟子は師弟の関係は重大なる関係だったが今は知らぬ間に大勢の親分であり、知らぬ間に親分はまた捨てられてもいたりする。
近代の科学は地球を縮めてしまったが故に、一人の天才の仕事は直ちに全世界に紹介されやすく、同時に世界の画家が自由に師と定め、また師を去り次の天才へ走るという事も近代の出来事である。ともかくも弱きものが強きものにしがみつく事は、やむをえないけれども、あらゆるものを速《すみや》かに卒業して、自分自身の力によって泳ぎ得るものが近代の技法を感得するものだろう。
9 自然を前に、自然を背後に
最初の一筆から最後の一筆に至るまで自然の前で行う処の絵画の技法は、印象派初期の人たちによって初められたものであると私は記憶する。
それは、あまりに人間が安易な想像にのみよって製作していると常にそれが自然とのよき連関によって成立ってさえいればいいが、ついややもすると、単なる想像によって画家は知っているだけの同じ事を同じ色彩と同じ手段によって何回でもくり返す傾向を生じてくる。従って何千人の画家が悉《ことごと》く気不症《きぶしょう》な仕事をつづけてしまうがために、画道は衰弱しつづけ世界は眠気《ねむけ》を催すに至る。
その時あまりの世の腐り方と眠む気に腹を立てたる者どもは、つい、この際人間のケチな想像力を離れてもとの自然の力へ帰りたい、もとの野獣となりたいと叫ぶ。ここでその反動として起ったのが最後まで自然の前で仕事をする事にあったと考える。その仕事は全く近代絵画への最初の方向転換であり、大成功だったと思う。これによって十八、九世紀に充満していた腐り切った陰鬱《いんうつ》の空気を完全に払い去った事は近代フランス印象派画家、マネ、モネ、ピサロ等の一団の恩恵であらねばならぬ。
自然の前で仕事する方法は、私の画道の修業時代もまたこの勢力、この方法の最盛期でもあったために、私は最後まで自然の前に立つ技法を学んだ。従って自然なしでは柱なき家でありテレスコープなき潜航艇でもある。
さて自然の前でする技法の特質は、想像にのみよるものが陥りやすい処のマンネリズムから飛び離れ得る事であり、また、画家が自然から直接パレットの上に絵具を調合すると、彼は不知の間に一つの不知の調子と色彩をカンヴァスの上へ現し得る事である。
彼と、筆と、絵具と、カンヴァスの間に、も一つ、何か彼の知らない一つの不思議な力が常に働いている事である。その力が絵を彼と共に完成して行き、彼にもわからぬ力を画面に与える。
彼が自然を背にして勝手に色彩を弄《もてあそ》ぶ時この不思議な力は働かない。
そんな訳で自然の前でした仕事を、もし自宅で空だけの一部を記憶によって描き直そうとする時、如何にパレットの上で絵具を交ぜ合せて見ても、再び自然の前で一秒間に作ったはずのその色と調子を出す事が出来ないのである。それを無理から直して行くうちに空は妙に沈んで色彩は死んで行く。全く直接の写実というものが絵画を生かし力づけて行く事は驚くべきものがある。
しかしながら、写実は万事ではない。これによって最も新鮮な世界はもたらされたが、この方法は全世界に行き渡ってしまった今日、さて、その次にはこの方法が大体、一つの反動によって起った仕事であるがために、要するにその欠陥も発見されて来た。それはあまりに自然の前に立ち、その命令にのみよって一筆を動《うごか》す事の習慣から、見ているものだけは描き得るが、実物を離れては画家は何一つとして描き得ない。自然を離れては画家は頭へ形と色と調子の記憶力を完全に失ってしまった事である。それと共に、心の働きを極端に自然物の陰へ追い込んでしまったものである。従ってここに心の動きの制限された処の、ただ形と光線と色彩との何の奇もなき風景の切り取り画と人物のスケッチ類の多くが、再び揃《そろ》えの衣裳《いしょう》によってこの世に並び出したものである。
元来如何なる芸術品であっても制作というものは、昔から人を避けて一室に籠居《ろうきょ》し、専念その仕事に没頭する傾向あるべきものだが、近代の外光派以来、混雑の往来に立ちながら、あるいは風景において、空における一点の雲の去来を気にして、その雲が立ち去るまでは筆を動かす事が出来なくて待っていたりするものすらある。晴れたる風景画は晴れたる日の幾日かを要求し、雨の日の絵は同じ雨を毎日|註文《ちゅうもん》して見たりするが、それは画家のためのみの存在には非《あ》らず、勝手気ままに晴れて行く。
これでは旅をするにも宿屋の滞在にもいらぬ費用も必要であり、その上一枚の絵を失敗しては立つ瀬もなかろう。
印象派の持つ欠陥によってまた絵画は衰弱と退屈を現し初め、画家の本能は、性慾は、当然、動かずにはいないだろう。
即ち印象派以後の立体派、フォーヴの一群、その他シュール・レアリズムのそれらに至るまで、近代の各様式による絵画の技法は、直接の自然写生から再び絵画の本来の性質である処の画室制作にまで立ち戻ろうとしている。あるいは画室制作と自然写生との混合によって制作する態度を続けている画家もある。
即ち現代の絵画は、全く自然を元の如く画家の背後へ廻してしまいつつある。またなお自然を前にしながら背をむけているもの、及び、なお自然そのものの前に忠実に立てるものの三種類の画家が今日共存していると思う。
要するに現代人の想像力を極端にまで表現しようとするもの、形と色調と力を自然から引出しつつ自然の形に変化を極端に与えようとするもの、ただ自然そのものをそのままの形に、といっているものの三種である。
だがしかし、如何に自然を背にしてもまた自然を前にしても、要するに人は結局地球の上に立っているに過ぎない事において変りはない。所詮《しょせん》人間は地球を脱出する事が出来ない如く人の心と自然との形のデリケートなる連関によってあらゆる傾向の芸術は生れて行くのではないか。
自然の前でも後ろでもいい、要は常に鋭き感性とその貪慾《どんよく》を以て、画家は、素晴らしい仕事をさえやってのければそれが万事である。
昔の日本画家の例えば光琳《こうりん》宗達《そうたつ》などのあの、空想的な素晴らしい絵画の背後に、彼の自然からの忠実な、綿密な写生|帖《ちょう》がどれだけ多く存在したか、浮世絵画家の版下《はんした》絵にどれだけの紙が貼《は》り重ねられて一本の線、一人の顔が描き改められているかを知る必要がある。モデルを見ずに描いたというミケランジェロはどれだけ多くの死体を研究したか、大雅堂《たいがどう》はどれだけ多くの山水を巡礼して歩いたかを知らなくてはならぬ。
工房でのみ仕事する芸術家は常に驚くべき写実をその押入れの中に隠しているのだ。押入れの空《から》っぽの空想的作家こそ自ら死の道を行くものである。それはいつの時代にあっても永久に変らない一事である。
自然を前にする処の印象派風の描法は、ありのままの自然の一部を切り取り、画面に構図を作り、見たままの色彩をそのままに現して行く。絵の具は重なって行き、重なった色彩と、調子と筆触はまた次の調子と色彩と筆触によって埋められて行く。そしてまた次の日に同じ事が繰り返えされて画面の全体のリズムが整い、自然とのよろしき連関を保って画家がよしと思う時、即ち絵画は仕上がるのである。そのよし[#「よし」に傍点]と思う時が大切な時である。リズムと調子に鈍感なるものはいつまで描いていてもよしと思う時がなく、終《つい》に描き過ぎて折角の絵をなぶり殺しとする事がある。自分の絵の仕上り時を発見する事が、その画家の力量だという言葉さえあった。
従って、自然の前で仕事をなす画家は、どんな味が最後に画面に盛られるか、如何なる答がこの運算によって現れるかを知らない場合が多い。最後の予想は最後の一筆まで判然しないといってもいい位だ。
黒田清輝という先生に私は教《おしえ》を受けた事があるが、自分はどんな絵が出来上るかを常に知らずに描いている。初めから、かかる絵を描きたいと思った事がないといわれた事を記憶する。印象派画家の仕事は皆多分にこの傾向を持っている。
後期印象派以後近代に至る諸傾向の画家の仕事は、いよいよ画家自身の心の動きに執着を持ち出してしまったと思う。そして彼らは自然の前に立ってはいるがそしてその手法としては同じく色彩と筆触と調子を画面に盛ってはいるが、しかし自然そのものとは全く異った有様を画面に創造しつつある如く見える。側《かたわ》らに立って見るものは、その画家が何を描きつつあるのかわからない事さえありがちである。それ位いの程度において画家は自然の上に自分の心を蔽《おお》い被《かぶ》せている。そして自然からは自分以上の何物かを汲《く》み出しつつ画面に自分の心と自然のリズムとのよき化合物を盛り上げている。私は後期印象派に属せしめられている処の、ゴーグ、セザンヌもその代表的の画人であるが、それ以後のマチス、ドラン、キッスリング、ディュフィ等もまたかかる傾向による技法を行いつつある人たちだと思う。
なおルオー、シャガール、ピカソ、キリコ等のものになると、もう殆《ほとん》ど制作に対しては自然の前には決して立たないであろうとさえ感じられる。それは悉《ことごと》く心の働きがその大部分を占領してしまっている。
しかしながら、ただ注意すべき事は、ピカソ、ルオー等、皆あらゆる古き画風と技法の卒業者であり、また、彼らの絵には不思議に強き立体感と現実性を備えている事である。この現実性の強き存在と、その不思議なる立体感なき心の簡単なる超自然の超現実的亡霊などはあまりにも莫迦莫迦《ばかばか》しき童謡であり童話であるに過ぎない。日本で咲いた超現実派に時々このかよわき童謡の立看板を見る事も淋しい気のする事である。
要するに近代絵画は確実なる方程式を組み立て、かくの如く、あるいは右へあるいは左へ、黒く、白く、画家の心の動きに従って確実な形式の上に答が盛られて行く必要があると思う。ただ何んとなく答が出るのではない。答は直ちに確実なる予定通りに現れるという技法を近代の画家は取りつつあると思う。
そこで、近代の絵画は、かくありたいと予定すれば、自然の中から、それに適合するだけのものを汲《く》み出すのである。それ以外のものは、未練もなく捨て去る。必要なものを摘出して不必要なる多くのものを悉く省略してしまうのである。
ところで力ある作家は、複雑なる運算によって答に必要なものを吸収するが、頭の悪い作家は、あるいは基礎的工事を欠く処の作家は、必要なものまでも捨ててしまい、捨つるべきものを拾って見たり、結局画面は混雑してただ心の亡霊と自然の糟《かす》だけが画面に漂う。
要するに近代絵画の構成は鋭き心によって、自然を取捨選択し、自由に画の材料を駆使し、自然を変形し、気随なる気ままを確実なる基礎の上に立てなくてはならない。
先ず印象派風の描法は、どんなに画家の頭が曇っていても、下手でも素人でも、ただ自然に万事を依頼して描いているが故に、間違った処でそれは何かじめじめとした鬱陶《うっとう》しい平凡な写生画が現れるに過ぎないけれども、この近代の心を発揚したるはずの技法にして神経鈍き絵画の、その答の間違いたる間抜け面《づら》などは、そしてしかも平気ですましていたりしては、真《まこ》とに悲しい滑稽《こっけい》に外ならない。
殊に近代におけるある種の描法、例えばヴラマンクの如き風のものは一気に答にまで迫る処の気合術ともいえる。先生は徒《いたず》らに気合をかけても誰れ一人としてその気に打たれるものなき時まことにまた悲しくも憐《あわ》れである。
空腹なる先生の気合術は徒らなる努力である。先ず飯を食べてからの気合術であらねばならぬ。気合術に限らず、いつの時代にあっても、絵画の仕事は、空腹者が直ちに写実を軽蔑《けいべつ》して画室に籠《こも》ったとしたら、それは悲惨なる結果を表すであろう。先ず順序として、そっとそのまま捨てて置けばそれでいい、自ら餓死して行くにきまっている。
要するに新らしき何物かを創造せんとするものは、それはカンヴァスの作り方でも絵の具の並べ方でも、パレットナイフの使用でも、褐色《かっしょく》の乱用でも黒の悪用でも何んでもない。それは人間の誰れよりも強い星の性格と、貪慾《どんよく》なる本能と、鋭き神経と、体力と而して最も秀《すぐ》れたる表現力を兼ね備えているものでなければならないと思う。そのどれかを欠いでいるものは、必ず多少の不運を感じるであろう。
殊に、如何ほど、貪慾なる本能はあっても表現の才能なき画家の幕切れは悲しいと同時に、表現力のみあってよき神経と強き星を欠く処の画家は、商業美術と看板へその方向を転換する機会が最も多く与えられ、またその事によって世のために働き得るものであろうと思う。なおその上に近代の人間にとっての特別なる生活の重荷はまた画家の才能と星の強さと、その貪慾をどれ位いの程度に歪《ゆが》めつつあるかを思い、近代における画家の仕事のいよいよ複雑なる困難さを私は考える。
従って近代の画家は基礎的な仕事は大切と思いながらも、ついせっかち[#「せっかち」に傍点]となり、つい空腹のまま飛び出して手軽な大作を乱造せんとする傾向も認められる。大体において近代の技法が甚だせっかち[#「せっかち」に傍点]にして粗雑で、ちょっと見た時大変立派で、暫《しばら》く見ていると穴だらけのガタ普請《ぶしん》であり、味なき世界を呈しがちである事は近代技法の悪の半面でもあろう。
10 近代の生活と新技法
近代の一般の傾向を見るに活動写真はその映画館で悉《ことごと》くの封切を鑑賞し、お料理法と趣味講座と英語と体操はラジオで勉強し、野球は夏の大仕合を見ておき、絵画は秋の大展覧会を鑑賞すればそれで日本の芸術は先ず一年間の重要なる傾向を悉く知っておく事が出来る。あるいはそれ以上、フランス画壇の最新の潮流までも共にその大略を遠望する事さえ出来る。とすればこの不景気にして、しかも大作を収容すべき家なき芸術愛好家は、その無数の壁面の一枚の絵を持ち帰って狭い部屋へ懸けて見る必要はどうもなさそうである。友人の誰れかでもあるとか、特殊な関係のものはまた格別の義理人情が加わるが故に座右に置いてもいいが、先ず何の関係もなく頼まれもしない多くの絵画は、単に鑑賞しておけばそれでいい訳ではある。殊に銀座を散歩する如く、秋の季節において友人と、女の友と、断髪の彼女とともに漫歩の背景として展覧会場を撰ぶ事は、甚だ適当でもある。即ち日本における尖端《せんたん》芸術の封切りを彼女と共に味《あじわ》いつつ、会場にあっては誰れ彼れの知友に出会い、談笑し、彼女を紹介し、また人の女を羨《うらや》みなどする事も悪い事ではない。
さて画家はこれら漫歩の背景のための封切り絵を作らんがため、一年の間内職やらその他あらゆる方法によって生活と戦争しながら、あるいは親の足を噛《かじ》りながら、親の足を噛る事も当節はなかなか素人の考える位い容易な仕事でもないそうだが、様々の苦労を尽している次第である。
ともかく画家は封切りのために働く処の給料なき役者でもある。そして画家は何が何んでも封だけは切って見せたいという本能を持っている。
ところで、一度封を切った作品はも早や古手となってしまって二度の勤めは嫌がられる傾向を持ったりするので、勢いその絵は小品ならば万一にでも生活の一助とならぬ事もないが、大作であったりしては、画室で埃《ほこり》をあびて重ねられて行く。従ってただ一回の封切りが画家の生命ともなりつつある事は芸術のために喜ばしき現象とは思えない。
一九三〇年型の自動車の出現は去年のぼろ自動車を広場へ山積せしめるであろう如く、即ち近代の洋画家はその場限りの技法の華々《はなばな》しき効果をのみ考えはしないだろうか。これは近代の生活の様式と展覧会の組織と、画家の心との間に連関する処の悲しき連関ではないかとも思う。近代絵画に対するこれは私の持つ重大なる不安でもある。
さて私は、近代の新らしい油絵はどうして描けばよいかという事については一切述べなかったようである。しかし、どうしたら新式の絵が素人にも一朝にして描き得るかという便利な話がこの世に本当に存在するとは私には信じられない。もっとも一週間速成油絵講習会といった風の事を企てる香具師《やし》もあるだろうけれども、先ず正直な処さような話し位い莫迦《ばか》々々しいものはない。
恋愛は横町のカフェー何々の彼女となすべし、その技法は斯々《かくかく》と教えられて早速取りかかってはあまり素晴しく成功する見込みはなさそうに思われる。
それで私は主として近代の油絵の技法に対する心構えに関して多く喋《しゃべ》って見たつもりである。
ガラス絵雑考
私は、ガラスというものについて特殊な愛着を持っている。ガラスでさえあれば何んだっていい。上等の古いカットグラスから氷屋のコップ、写真のレンズ、虫めがねにいたるまで同じ程度において愛着を感じ、ことに色ガラスの色感くらい私を陶酔させるものはない。安物の指輪の赤いガラス玉、支那めし屋の障子に嵌め込まれたる色ガラス、暗の夜に輝くシグナルの青と赤など、ことに私はその青色により多くの陶酔を覚える。何か心不安なる折、何かが癪に障る時、苛々する時このシグナルの青色の光を眺めると一時この世の何物をも忘れ去ることができる。それは私にとってのカルモチンである。
昔の散髪屋とか湯屋の装飾品としての懸け額に日本名勝風景などの類や役者の似顔や、美人、いなせな男が絞りの手拭を肩に掛けたる肖像等を浮世絵末期的手法によって、これもまたガラスへ描かれてあるのを私は見た。あるいは手箱の表の装飾として美人のガラス絵が嵌め込まれているのも昔は多かった。私は子供の時からそのガラスに描かれてあるところの不思議な光沢と色感の魅惑に迷わされがちだった。
だいたいガラス絵(ビードロ絵ともいわれている)というものはガラスの裏といってもガラスに表裏はないようだが、ともかく、ガラスの一方から絵を描いて、その裏側へ絵の答を表していく技術なのである。普通の絵のごとく表から観賞するのではない。ガラスへ塗った色彩をその裏側から見ると絵具の面の反対がことごとくガラスに吸収されてまったく色ガラスを見るのと同じ効果を表す。
昔、話はちがうがガラス写しの写真というものがあった。あれは色彩がなく、単に白と黒との調子のものであるが、しかしちょうどガラス絵と同じ仕事を写真でやったものである。
古きガラス写しの写真のもっとも古風なものは、その周囲を美しい金属のフレームで飾られ、打ち出し模様ある革製の箱に収められてことのほか悦ばしきものであった。今や人々は祖先の肖像を入れたまま仏壇の引き出しの底深くしまい込んで忘れているであろうかも知れないが一度取り出して観賞して見るがいいと思う。
しかし多少新しい時代のものは白き桐箱に入っている。あれはもうわれわれには興味が持てない。
さてガラス絵のことだが私はその歴史に関しても知りたいと思っているが、なにしろ欧州、インド、支那、日本といった具合にかなり手広い諸国で製作されているかのようである上にその絵には署名あるものがない。年代も記されていないので、誰が、どこで、どうして作ったのかわからない。私の持っている、マドモアゼルロアソンという文字が記されている二人の娘の肖像も、まったくオランダあたりから渡来したのかと思っていたが、よく見るとそれは支那製である事がわかった。あるいは案外長崎辺りで作った日本品であるかも知れない。ところで私はだいたい、ガラス絵だからといって何でも買って集めたり歴史を調べたりする余暇も興味もないので、ただわからないままにそのよきものを眺めて楽しんでいるだけである。
私の現在所持しているものの中でも、あるいはその他でもっとも多く見受けるガラス絵の種類を大別すると、純国産ともいえるところの浮世絵末期的なる職人芸術であるところの美人、名勝、風俗、役者等のものと、次には長崎あるいは支那で多く造られたであろうところの西洋人、西洋名勝、西洋風俗絵、オランダ風車のある風景に点景人物が添えられたもの等がある。これはその技法はまったく陰影あるところの油絵風である。たぶん、西洋の油画、版画とか、石版、銅版画の類よりのコピーであろうと思われる。
次には純粋の支那国産的なるものがある。これは支那絵の描法をもって線と色彩によって濃厚にかつおもしろく描かれてある。
以上の三種類のものがもっとも現在でも多く見当たるところのものである。日本国産的のものは画品は下がるものもあるが下がった中にまた捨て難い味と強い色感と末期的浮世絵風を私は発見する。そして簡単な線で囲み平面を塗りつぶしたる描法によってよき単化が偶然にも行なわれてはなはだ得難いものもある。
風景画などの中には、その点景人物のことごとくは、当時の人物写真の美人を切り抜いて貼りつけてあるものがある。そして風景だけは描かれている。俗っぽいものだがその考案に愛矯が持てる。
支那国産的な画風を持つものに私はもっとも美しい美人絵や静物の類を発見する。また鏡台とか手箱の類の引き出しのなかから数枚のエロチックが現れるものもある。私が近頃支那の土産としてもらったものなどは、ほとんど紙に類する程度のうすきガラスに描かれている男女の絵だった。そのうすくて波打てるガラスはまた格別の味を感ぜしめる。
支那風のガラス絵のガラスはいったいに、質がうすくて波を打っている。泡がある。私は近頃だんだんその波と泡あるうすきガラスに興味をそそられる。
同じく支那出来のものの中には、西洋画のコピーがはなはだ多い。それは何かつまらない輸入絵とか版画類からの模製と思うが、この種類の中にはずいぶん美しいものが多い。陰影と調子が深く応用されていて、むしろその原画のつまらないものを支那人の心と手とガラスの効果によって、それを宝玉にまで翻訳したというべきものがある。
私は近頃では主として支那出来のものに興味が傾いている。
フランス、ドイツにおける新しい画家でガラス絵を試みるものあると聞くが、私はその作品を見ないから何ともいえないが、多分おもしろいものと思う。
しかしながら現代の作家を別として、要するにガラス絵なるものは署名のないところの職人芸術であり農民美術であったにすぎない。だから非常に偶然にも宝玉を発見し、またほとんど多くが俗悪なガラス玉にすぎないが、しかしその宝玉もまた、本物の玉でなくガラス玉であるところの卑近なる宝玉であり、泥中の蓮でもある。
ガラス絵のよきものを探す興味はすなわち泥中に蓮を求める興味でもあり酩酒屋のガラス戸を覗いて見る感興でもある。したがってどんなガラス絵でもガラスでさえあればいいとはいかない。ややもすると閉口さされる位のものがある。
さてそれらのガラス絵の技術はその職人がことごとくいなくなったために判然としないが、つい先頃まで大阪ではその最後の一人のガラス絵職の老人がいたらしいので話を聞こうと思ったところがすでに死んだあとだった。支那や朝鮮では、目下製造されつつあるようだが、それは主として支那絵や日本画の方法と同じく墨をもって線描きが施され、泥絵具が膠で溶解されて塗られているものである。絵具としては泥絵具、金銀泥が用いられている。あるいは、粉末の泥絵具をニスの類を交えてペンキのごとくして用いられていると考えられるものもある。
現在でもなお朝鮮で作られているところの手箱や箪笥の扉等の装飾のために嵌め込まれたもので水牛の角を薄くセルロイドのごとく透明となし、これに山水鳥獣がおもしろく描かれてあるのを私は見た。それはやはり泥絵具と墨であり絵具は膠で固められているようだ。
私はガラス絵を観賞する興味も持ってはいるがしかし私は自分でガラス絵を描いてみたいと思う心が強いので結局、めんどうがなくてすぐ手もとにあるところの油絵具を用いて描くことを考えた。それには私はメディアムとして速乾漆液をそのまま柔らかな日本風の彩色筆に含ませて油絵具をきわめて薄くほとんどお汁《つけ》の状態にまで溶解してガラス面へ塗って行く方法をとっている。
それがもっとも効果がよく、第一早く乾燥するので短気な私にとっては都合がいい。その代わりあまりに早く乾燥するので多少ぼかしはやり難いが、これは熟練によらなければならない。
筆洗いとしてはアルコールを用いている。手のよごれやガラスの掃除にも重宝である。
しかしながら多少の大作でもやるとすれば速乾漆液では乾きが早過ぎて不便だ。やはり日本絵具を膠で溶解してゆっくりと描いて行く必要があると思う。
しかしながら私の考えでは、ガラス絵はなるべく小品のミニアチュールとして、手のひらへ乗せて味わう程度のものがもっとも好ましいものであると思う。それのためには油絵具がもっとも調子の深さを表すためにも便利である。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和五年六月)
私のガラス絵に就いて
私は前述べました如く、此の美しい効果を持つ技法を、も一度生かして、もっと画家の仕事へ引き入れて、吾々が水彩やグワッシュを用いる如くガラス絵を試みる様にし度いと思うのであります。それで私は、ナルべく簡単で便利な方法を、種々工夫して見たのです。
私が目下便利だと思って使用している製作材料
(A) 油絵具使用の場合
[#ここから2字下げ、折り返して10字下げ]
顔料(油絵具) を用います、普通油絵に使うだけの種類は必要です。
(金銀泥) 泥は大変美しい装飾的効果を現わすものです、私はよく金泥で署名をします。
[#ここで字下げ終わり]
油[#以下「A」と「B」は「油」の下で二行に分かれ、「A」「B」の下に上向きのくくり記号]A ヴェルニアタブロー Vernis a tableaux
B 速乾漆液 工業用薬品店にあります。
右二種の油をAを7Bを3位いの割合に混合して使用します。此の割合は時に多少、変更してもよいのです。速乾が多くなると早く固まり過ぎて、広い部分など塗るのにむら[#「むら」に傍点]が出来て困る事があります。又ヴェルニばかり多量では、乾きが遅くて、あとから筆を重ねると、先きの絵具が皆動いて了います。現在私は速乾漆液のみを用いて描きます。
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
筆 非常に軟かいものがよいので、私は日本画の彩色筆を、大小五六本と、面相筆を二三本用意しています。
筆洗い 石油、アルコールを併用します。即ち石油で先ず洗った後に、尚おアルコールでよく洗って置くのです。アルコールは主として、速乾を洗い落すのです。或は手先きのよごれた時や、ガラス面の掃除に使用します。また描き損じた絵を洗い落すにも、アルコールが一番重宝であります。
ガラス 油絵で云えばカンヴァスに当るものです、描くべき此のガラスは、成る可く薄くて、凸凹や泡のないものを選び度いのです。昔しのものは、殆んど紙の如く薄いのを用いています。中々味のあるものです。私は便利の上から、写真の乾板の古いものを、常に使用します。写真屋とか製版所へ行けば、いくらでも古いものを売ってくれます。
又特に波打てる泡だらけのガラスも面白いものです。
ガラス切り これも必要です。自分の描き度いと思う大きさに、ガラスを切断する必要があります。ガラスを切る事は、多少習練を要します。不用なガラスを何枚も切って見ると、コツ[#「コツ」に傍点]がわかるものです。ガラス切りの種類も、色々ありますが、矢張り、本式の、金剛石がついていると称するものが、一番いいでしょう。
パレット これは普通の油絵のパレットでよろしい。或はブリキ板を使ってもいいでしょう。最も注意を要する事はパレットの掃除です。ヴェルニや速乾が交じっている絵具を、そのまま捨てて置くと、何んとしても取れなくなるし、次の調色の非常な邪魔を致しますからパレットナイフで掃除した上をアルコールで拭う事です。。
[#ここで字下げ終わり]
(B) 粉末絵具使用の場合
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顔料 図案用粉末絵具を使用してもよいが、色調がどうも卑しくなりますから、日本画用の胡粉、朱、白緑、白群青、群青、黄土、岱赫、金銀泥等を用うるのが最もいい様です。
膠 それ等の絵具は日本絵を描く時と、同じ方法で膠を以て絵具をとき、墨を以て線描きを施した上を塗って行くのです。西洋画風に描くには線を省き、調子のみを以て描いて行く。
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ガラス絵製作の順序
先ず、一枚の風景画を作ろうとします。第一に必要なるは、早速モティフとして適当な場所を探しに出なくてはなりません。これは鉛筆とクレイオンとスケッチ帖位いあればいいでしょう。
都合のいいモティフに出会ったとすると、それを充分正確に写生することです。そしてそれへ、覚えの色だけを塗って置くのです。色彩の記憶さえ確かなら、鉛筆の素描だけでもいいのですが成る可く色彩も施して置く方が、絵の調子を破らず、楽くに仕上げる事が出来ます。手古摺る事が少ないのです。
スケッチした素描淡彩を、家へ持ち帰えって、その上へ同じ大きさのガラスをのせ、決して位置がくるわない様にして、絵具を前記の油で溶解し乍ら、少しずつ塗って行くのであります。或は粉末絵具を以って。
ガラスは勿論、アルコールで充分美しく、掃除して置く必要があります。
ここで普通の絵とは違って、特別な考えが必要である事は、絵の結果、即ち答えが、裏手へ現われるのですから、普通の絵の如く、幾度も色を重ねて、仕上げて行く事が出来ない事です。一度塗った色彩や線は、最後の一筆であり結果の色であります。それで、描くべき順序が、普通の絵とは全く反対になるわけです。例えば空全体を塗って置いて、あとから月を描こうとしても、それは駄目です。空の色に蔽われて了って、月は画面へ決して現われないでしょう、即ち月は、何よりも真先きへ描いて置く必要があります。そして、あとから空全体を塗りつぶさなくてはならないのです。若しも雲があれば、雲も月と共に、先きへ描いて置かなくてはならないのです。
林檎を描くとします。その光ったハイライトの部分は、先きに描いて置くのです。次に暗い影を描くのです。最後に赤い全体の球を塗りつぶすのであります。
滑稽な事には、自分の署名などは、左文字で一番最初に、記して置かねばならない事です。
それをうっかりして、先きへ描いて置くべきものを忘れて了って、あとで弱る事があります。例えば裸体人物の時に、臍を忘れて、腹全体を塗りつぶして、あとから表を返して見て、驚く事があります。こんな時には、臍の部分だけ、あとから絵具を、アルコールで拭い取らなければなりません、地塗りとか、空とかバックなどは、最後の仕事です。樹木などは、葉の一枚一枚の点々は先きに、葉の全体の固まりは、後から塗ります。道路の点景人物は先きに、石ころも先きに道全体の色は、最後に塗りつぶさねばなりません。
時々裏返えして見て、仕上って行く絵の調子を眺め、次の仕事を考える必要もあります。あまり度々裏返えして見てばかり居ると、勢や気合いが抜けて絵が大変いじけて了うものであります。ある程度までは、度胸や胆力が必要です。
処で仕上った絵は、実物の風景とは、左右が反対になっています。丁度エッチングの場合と同じ事であります。
絵具の塗り方は、あまり厚くぬらない方がいいのです。なるべく淡く、サラサラとつけて行く方がよろしい。ガラスの透明を利用してタッチを表わす工夫をするとよいのです。或は淡い、絵具を二三回も重ねて、重く濃厚な部分や、軽く半透明な場所なども作るのです。すると、ガラス特有の味が出るものです。
顔料に就いては、油絵具を用いた場合も、粉絵具を用いた場合も、その描法に変りはありません。その効果に於て、油絵具の方は少し濃厚であります。粉末絵具は、自然粉っぽい気がして、サラサラとした感じがします。極く小品には油絵具がよく、少し大ものには粉末絵具が適している様であります。絵具ののびもよろしい。古いガラス絵などは、主として粉末絵具が使ってある様に思えます。
一枚のガラス面が、殆んど絵具で塗りつぶされた時は、絵が仕上った時であります。
出来上った絵は、よく乾かす事が必要です。乾くとその絵具のついてある面へ、その絵の調子によって、黒い紙か或は藍、或は鼠色の紙をガラスと同じ大きさに切って当てます。その紙の地色によって、絵の調子を、強めたり弱めたりする事が出来ます。
色紙を当てると、次に馬糞紙の様な厚紙を、これもガラスと同じ大きさに切ってすて、周囲を細い色紙か何かで、糊付けにして了います。こうすると、ガラスで手を傷けたりすることもなく少し位い取り落しても、こわれる事はありません。斯うして一枚の絵の仕上げを終るのであります。
画面の大きさの事
画面の大きさを考える事は、重要な事であります。油絵は八号位いから百号、二百号、三百号とどれ位いでも大きく描く事も出来、又その材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです。処で水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります。水彩と云う材料は、そんな大ものを引受ける力がありません。何んとしても小品の味であります。
ガラス絵は特に、大ものはいけない様であります。第一馬鹿に大きいガラスと云うものが、人に何時破れるかも知れぬと云う不安を与えていけません。
それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります。筆触もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
そんなわけで、大体に於てガラス絵の大作と云うものは、昔しから尠ない様です。日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので、怠屈な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります。Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心もちのする色の輝きです。宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭の様に、ごろごろ道端に転がって居れば、馬の糞と大して変りは無いでしょう。
私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二三寸四方から五寸位い、と思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろ左様に小さい作品である上に、殆んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描も必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません。どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな玩具となって了う事も怖れねばならないのであります。
要するにガラス絵と云っても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
食物で云えばガラス絵などは、間食の如きものでしょう。間食で生命を繋ぐ事は六つかしい。米で常に腹を養って置かなくてはなりません。
その上ガラス絵は大体に於て趣味的な仕事ですから、あまりに変なガラス絵のみに熱中し、油絵を忘れて製作していると多少鼻もちならぬ趣味臭さを発散して不愉快ですから、これも亦間食として作るべきでしょう。あり過ぎる趣味は全く臭くていけません。
額縁の事
ガラス絵とその額縁との関係は、中々重大であります。何んと云っても、二三寸の小品の事ですから、これに厭な額縁がついていれば、その小さな画面は飛ばされて了います。充分中の光彩を添えるだけのものでなくてはならないでしょう。
支那のものでは、よく紫檀の縁がついています。上品でいいものです。古いビードロ絵にはそれは西洋風のいい味を持つ古めかしい縁がついています。
私は額縁屋へ喧かましく云って造らせたりしますが、どうも云う事を聞かないので癪だから致方なく、私は場末の古道具屋をあさって、昔の舶来縁の古いのを探しまわるのです。古額は案外美しいものがあります。昔し渡った鏡のフチなど今も散髪屋などによく残っていますが、中々いいものがあるのです。こんなものは古道具屋では、あまり価値が無いものですから、気の毒な様なねだんで売ってくれます。こんなのを常に買い込んで置いて、時に応じてその画面の寸法に合わせて、額縁屋で切らせ、組み合させるのです。すると絵にピッタリと合った味が、成立する事があります。
先ず以上その大略の事は申したつもりであります。
大和魂の衰弱
私自身の経験から云うと、私達ちの学生時代は、自分等の作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうと云う事をあまり好まないと云う気風が多かった様に記憶する。殊に展覧会前などに於て持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌な奴めと考えられた位いのものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概判っているもので、それが判らない位いの鈍感ならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そして尚お、先生達ちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
学校や研究所は自分達ちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞め合い、悪口をいい合い、或は自分を批判し尽して以て満足していたものであった。
初めて文展が出来た時、私達ちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者共は、ひそかにお互の眼を掠めて作品を持って先生達ちの内見を乞いに伺うものが現れた様だった。左様な所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做されていて、敢えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷につつみ、そっと先生の門を敲くと云った具合であったらしい。又学生の分在であり乍ら文展に絵を運ぶと云う事は少年が女郎買いすると同じ程度に於て人目を憚ったものである。或は、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったとも云えるが、文展出品は内密を主んじる風があった。
私などは、殊の外恥かしがり屋の故を以てか、浅草や千束町へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そして吾々はそれによってある気位いを自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声|粛《シュク》々時代と云えば云える。東洋的大和魂がまだ吾々の心の片隅に下宿していたと云っていいかも知れない。
その私達ちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々とは何んですかと訊ねられる事に立ち到った。今に大和魂と云った位いでは日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
勿論、画学生は数から云って、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私達ちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目な研究者があった訳であろう。然し、嫌な奴も存在したであろう。
目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。田舎の図画の教師達や図案家、名家の令嬢、妻君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人達の余技として、絵画が普及し、隆盛になりつつある様である。
それは真とに日本文化の為めに結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上に於ては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何ともする事が出来ないのである。そしてただ、一寸、入選さえ毎年つづけていれば、それで校長と親族へ申訳が立つと云う位いの、安価な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
お引立てを蒙る、御愛顧を願う、と云う文句は米屋か仕立屋の広告文で最早や無いのである。芸術家は常に各展覧会に於て特別のお引立てと御愛顧を蒙らなければならないが為めに、年末年始、暑中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立っても居ても居られないと云う場合に立ち到っているかの如くである。
従って近頃位い、各先輩や審査員の家へ絵を持って廻る画学生の多い時代はかつて無いと云っていいかも知れない。
批評を受けることは必ずしも悪い事では無いが、それが単に絵の批評だけであるならいいが、或はそれ以外の点に目的がある如き頗るややこしい[#「ややこしい」に傍点]場合がかなりあるのである。
とに角一度審査員の目に触れさせて置く必要があると云う考えから、無理やりに見せにくると云う事が無いとは断言出来ない事を私達ちは感じる。その証拠に、この絵はよくないから駄目だと考えますと云った筈の絵が矢張り出品されている事も多いのである。
ひどいのになると、頼み甲斐ある先生のみを撰んで一つの絵を持ち廻っている人達ちさえあるものである。そして、悉く内意を得て置くと名誉にありつき易いと云う考案である。
それを吾々が何も知らず、うっかりと、時間を捧げて苦しい思いを噛み殺し乍ら正直に何とか批評をさせられる訳である。後に到ってその男が各人の玄関へ立ち現れたと聞くに及んで私達は淫婦にだまされたよりも尚お更らの不愉快を感じる事屡々である。それらの人種を私達は廻しをとる[#「廻しをとる」に傍点]男と呼んでいる。
全く、近代世相に於ける人の心は単純なる大和魂では片づけられない。今の時代にそんな野暮な事は流行しませんよと云われれば全くそれまでの話である。廻しをとる位の事は全くの普通事だと云えば左様らしくもある。中元御祝儀と暑中見舞と、相変りませず御愛顧を願わなければ全く以て、食って行けない時代であるかも知れない。然し乍ら、左様に苦労してまで描かねばならぬ程、面白い油絵であり且売れる見込みのあるべき油絵ではあるまいと思うのだが。
私は秋の季節になると近頃よくこんな事を考えさされるのである。
洋画ではなぜ裸体画をかくか
私の考えでは、人間はお互い同士の人間の相貌に対してことのほか美しさを感じ、興味を覚え強い執着を持ち、その心を詳らかに理解するものであると思うのです。
それは何しろわれわれは同類でありますから、私達が犬や馬や虎や牡丹やメロンやコップや花瓶や猫の心を理解し、その形相を認めることが出来るより以上によく認め理解し得るものであると思うのであります。
よく判り、よく理解出来、その相貌の美しさを詳細に知ることが出来、強く執着するが故にその美を現そうとする心もしたがって強く、その表現も簡単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。
それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それはきわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和四年六月)
挿絵の雑談
よほど以前の事だが、宇野浩二《うのこうじ》氏が鍋井《なべい》君を通じて自分の小説の挿絵《さしえ》を描いて見てくれないかという話があった。自分は挿絵を全く試みた事がなかったが挿絵というものには相当の興味を持っていたし、小説家と自分とが知り合って共同出来る場合には殊《こと》に仕事もしやすいので、いつか描いて見てもいいといって置いた事があった。ところで最も困る問題は、私が常に東京にいない事だった。大概の小説が東京を中心として描かれているのだから、私が関西にいては、その日その日の原稿の往復に、どれだけ手数を要するか知れない上に絵を作る上からでも、例えば、誰れでもが知っている銀座のタイガアを道頓堀《どうとんぼり》の美人座でごまかして置く訳には行かない。
新聞小説なら、原稿が三、四十回分でもすでに出来上ってさえいてくれたら、私がしばらくの間を東京で暮して仕上げてしまえば出来る訳であるが大概の場合、長編の原稿は、その日その日、一回分ずつ画家の方へ廻されてくるのであるから、到底地方に居据《いすわ》っていては出来る仕事ではないのであった。
そんな事や何かで、ついそのままになっていた処が、突然私は大阪朝日から邦枝完二《くにえだかんじ》氏の「雨中双景」の挿絵を頼まれたので、時代ものは背景の関係も尠《すくな》いし、居据っていながら描けるので、つい引受けて見たのが挿絵を試みた最初だった。次に最近再び邦枝氏の「東洲斎写楽《とうしゅうさいしゃらく》」を描く事になった。
それから現在の谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》氏の「蓼《たで》喰《く》う虫」だが、これは谷崎氏が私の家から近いのと、背景が主として阪神地方に限られている点から私は引受けても大丈夫だと考えた。
挿絵を試みようかという心になった因縁が宇野氏にありながら、そして最近再び話が宇野氏との間に持ち上ったのだが、それだのに氏のものをまだ描く機会がないのも妙な因縁である。
私自身が小説を読む場合、勿論私は絵かきの事だから私の心に絵かきとしての想像が浮び過ぎるためかも知れないが、どうも挿絵があまり詳細に事件や主人公や風景を説明し過ぎて実感が現れ過ぎていると、私はかえって私の心に現れて来るものを大変邪魔される事が多いので、かえってむしろ挿絵がなければいいと思う事さえある。小説は三面記事ではないのだから、事件や人物をさように詳《つまびら》かに説明する事はいらない事だと思う。それで私は小説によって私自身の心に起った想像の中から絵になる要素をなるべく引出して正直に絵の形に直して皆さんへ伝える事に努力したいと思う。そして挿絵は挿絵として味《あじわ》い、小説は小説として味い得るようにしたいと考えている。要するに挿絵は小説の美しき伴奏であればいいと思う。なお新聞の紙面が、それあるがためにより美しく見え、小説が賑《にぎや》かに見え、小説のある事件が画家の説明によって読者の心を縛らないようにしたいと思っている。
私の貧しい経験では、時代ものは相当の参考資料さえ整頓《せいとん》すれば絵を作る事は比較的容易であると思うが、現代ものになるとモチーフの万事が実在の誰れでもが知っている処のものであるから相当の写生が必要であり、同時に写生そのものは挿絵ではないので、それを絵に直す処に画家の興味があり、実在が挿絵と変じて現れるまでの段階と手数に、かなりの興味が持てるのである。
そしてその画稿が紙面に現われた時の感じというものは、また別の趣きを現すものである。下絵の時に気附かなかった欠点が紙面に現れてから目立つ時もある。ちょっとした不満な点を見出《みいだ》すときその日一日私は不愉快である。
しかしながら挿絵は普通の油絵の如く、一人一枚の所有でなく、一枚が何万枚となり各人が悉《ことごと》く所有し得る事なども、挿絵の明るき近代的な面白さである。
挿絵は、新聞の紙質や製版の種類についても考える必要があると思う。目下の、日本の新聞紙の紙質では、どうも網目版がうまく鮮明に現れにくい。絵を線描のみでなく淡墨《うすずみ》を以て調子づけたりする事も結構だが、どうも鮮明を欠く嫌いがある。最も朝刊の小説の方では挿絵の画面が三段位いを占領しているから相当がまん出来るが、夕刊の二段ではどうも網目版は見劣りがするし、上方の写真ニュースや広告と混同してしまって引立たない。
それで、私は主として線のみを用いて凸版を利用し黒と白と線の効果を考えている。
挿絵としては、詳細な写実を私はあまり好まないが、それは写実がいけないのでなく、下手な写実から起る処の不愉快な実感の現れを私は嫌がるのである。本当の意味の写実は最も必要で、その写実が含まれていない限り、人の想像を豊《ゆたか》にする事は出来ない。大体、従来の日本画風の挿絵家等の作品は共通して実感はあっても写実が足りないので何か頗《すこぶ》る薄弱な存在となってしまっているのを見る。その時に際し石井|鶴三《つるぞう》氏のものが大変よく見えたのは、彫刻家であるだけ、デッサンの正確さによって立体感までが現れてよき意味の写実によって絵が生きた事などが原因しているといっていいと私は思う。
しかしながらまた、よほど以前の浮世絵師の手になる挿絵に私は全く感心する。人物の姿態のうまさ、実感でない処の形の正確さ、そして殊に感服するのは手や足のうまさである。昔の浮世絵師の随分つまらない画家の描いた絵草紙類においても、その画家の充分の努力を私は味《あじわ》い得るのである。そしてかなりの修業を積んでいると見えて、その形に無理がなく、そして最もむつかしい処の手足が最もうまく描きこなされている事である。
手足のうまさの現れを私は昔の春画において最も味い得るものと思う。あれだけの構図と姿態と手足を描くにはちょっとした器用や間に合せの才能位いでは出来ないと思う。かなりの修業が積まれている。
挿絵のみならず、油絵や日本画の大作を拝見する時、その手足を見ると、その画家の技量と修業の深浅を知る事が出来るとさえ私は思っている。かく雑然と書いていると長くなるので擱筆《かくひつ》する。
画室の閑談
A
京都、島原《しまばら》に花魁《おいらん》がようやく余命を保っている。やがて島原が取払われたら花魁はミュゼーのガラス箱へ収められてしまわなければならぬ。しかし、花魁は亡《ほろ》んでも女は決して亡びないから安心は安心だ。
芸妓《げいぎ》、日本画、浄るり、新内《しんない》、といった風のものも政府の力で保護しない限り完全に衰微してしまう運命にありそうな気がする。
油絵という芸術様式も、これから先き、どれ位の年月の間、われわれの世界に存在出来るものかという事々を考えて見る事がある。如何に高等にして上品な芸術であっても人間の本当の要求のなくなったものは何によらず、惜《おし》んで見てもさっさと亡びて行く傾向がある。
大体、人間が集って、何となく相談の上芸妓を生み出し、人間が相談の上、浄るりを創《つく》り、子供を生み、南画を描き、女給を生み、油絵を発明させたように思われる。油絵が岩石の如く人間発生以前から存在していた訳ではない。
全く、如何に花魁は女給よりも荘厳であるといっても、我々背広服の男が彼女と共に銀座を散歩する事は困難だ。今やすでに、現代の若者が祇園《ぎおん》の舞妓《まいこ》数名を連れて歩いているのを見てさえ、忠臣蔵の舞台へ会社員が迷い込んだ位の情ない不調和さを私は感じるのである。
この芸術こそ再び得がたいものであるが故に保存すべきものだと話しが決った時、その芸術は衰微|甚《はなは》だしい時であると見ていいと思う。父を一日も永く生かしてやりたいと願う時、父は胃癌《いがん》に罹《かか》っている。
何々の職人は広い東京にたった一人、京都に一人、平家物語りを語り得るものは名古屋に一人、芸妓は富田《とんだ》屋、花魁は島原、油絵描きはパリに幾人にしてそれでおしまいという事にならぬとは限らない。
最近、最も景気がよくて盛んな国、アメリカにどんな画家が輩出しているのか、寡聞《かぶん》な私は知らないのである。アメリカでは映画と広告美術があれば事は足《た》っているかも知れない。また従って優美な美術家を今更自分の国から出そうとも考えていない如く見受けられもする。彼らは最早や油絵芸術を骨董品《こっとうひん》と見なしているのかも知れない。そしてアメリカ人は、支那の古美術と古画と浮世絵を以《もっ》て彼らの美術館を飾ると同じ心を以てパリの近代絵画の信用あるものを選んで買い込んでいる。先ず最も新らしい、現代らしい頭のいいやり口だといえばいえる。しかしながら万事金の力で不足を補う処の何だか下等にして憎さげな態度はしゃくにさわるけれども、アメリカという国は急に衰微するとは思えない。
とにかく、政府や富豪の力で保護しなければ衰えそうな芸術は、何んと霊薬を飲ませて見た処で辛《かろ》うじてこの世に止《とど》め得るに過ぎなくなるにきまっている。従ってその最盛期におけるだけの名人名工はその末世にあっては再び現われるものでない。ところで油絵芸術はまだ末世でもあるまいと私の職業柄いっておかなければ都合が悪いけれども、本当の事は、私にはわからない。
B
この間、私が見た芝居では、天王寺屋兵助という盲目の男が五十両の金|故《ゆえ》に妻を奪われ、自分は殺され、まだその他にも人死にの惨事が出来上《できあがっ》たようだった。全く人間の生命も金に見積るとセッターや、セファード、テリヤよりも案外安値なものである。
絵描き貧乏と金言にもある通り、その一生といってもこれは主として私の一生の事だが、それを金に換算すると随分安い方に属していると思う。
酒は飲めず、遊蕩《ゆうとう》の志は備わっているが体力微弱である私は、先ず幸福に対する費用といえば、すこぶる僅少《きんしょう》で足りる訳である。たとえば散歩の時カフェー代と多少のタクシと活動写真観覧費とレストウランと定食代位のものかと考える。職業柄の材料費というものは案外素人の考えるほどにはかからぬものである。
またさように資本をこの方面につぎ込んで見た処で、その多量な生産を誰れが待っているという訳のものでは更にない。徒《いたず》らに押入れの狭さを感じるわけである。
先ず一年のうちに四、五枚の点数がそろえば秋の二科へ出すだけの事である。そして仲間うちの者たちのために、いいとか悪いとか、いわれてしまえば用は足る都合になっている。ほめられたからといって、どう生活がよくなる訳でもなく、悪口されたといって失職するものでもない。
やがて秋の季節が終りを告げる時、額縁代と運送費を支払えば一年の行事は終る。先ずこれ位の事が辛うじて順調に繰返し得るものは幸福だという事になっている。
宗右衛門町のあるお茶屋では、一ケ月千円以上の支払あるお客への勘定書《かんじょうがき》には旦那《だんな》の頭へ御の一字をつけ足して何某御旦那様と書く事になっている。その御旦那様の遊興費にくらべても画家の生涯はばかばかしくも安値である。
一台の機関車、一台の電車、一台のバスキャデラク、飛行機を見てさえも、これは俺《おれ》の一生よりも少し高い、これは絵描き何人分の生活だ、という浅間《あさま》しき事を考えて見たりする。たまたまわれわれの一生よりも安価な品物や、天王寺屋兵助を見るに及んで何となき愛情を私は感じる。
もしも、人間としての体格が立派で、生活力が猛烈で、人間の味《あじわ》い得るあらゆる幸福は味って置きたいという、そして大和魂《やまとだましい》というものを認め得ない処の近代的にして聡明《そうめい》な絵描きがあったとしたら、絵画の道位その人にとって古ぼけた邪道はないかも知れない。
C
私は最近、二科の会場でパリ以来|久方《ひさかた》ぶりの東郷青児《とうごうせいじ》君に出会った、私は東郷君の芸術とその風貌《ふうぼう》姿態とがすこぶるよく密着している事を思う。なお特に私は彼自身の風貌に特異な興味を感じている。そしてそれは、最も近代的にして、色の黒い、そして何処《どこ》かに悪の分子を備えている処の色男である事だ。私はあれだけの体躯《たいく》と風貌と悪とハイカラさと、芸術とを持ち合せながら本人の出演を少しも要求しない処の絵画芸術に滞在している事を甚だ惜んで見た。甚だ御世話な事ではあるがと思っていたが。
D
私は絵を描く事以外の余興としてはスポーツに関する一切の事、酒と煙草《たばこ》と、麻雀《マージャン》と将棋と、カルタと食物と、あらゆる事に心からの興味が持てない。ところでただ一つ、何故か気にかかるものは活動写真である。それで、映画は散歩のついでに時々眺める事にしている。近来、日本製のものがかなり発達したという話だが、私は以前二、三の日本映画を見て心に恥入ってしまってから、まだ当分のうち決して見ない事にしている。
しかし、その西洋のものといえども、私の健忘症は見たものを次から次へと忘れて行くが、私はアドルフマンジュという役者を忘れ得ない。私は彼のフィルムは昔からなるべく見落とさぬように心がけている。
私は彼が「パリの女性」に出て成功した以前、随分古くから至極つまらぬ役において、現われているのをしばしば見た。随分|嫌味《いやみ》な奴だと思っていたが、また現れればいいと思うようになり、その嫌味な奴が出て来ないと淋しいという事になって来た、幸いにも彼は出世してくれたので、私は遠慮なく彼の嫌味に接する事が出来る事は私の幸いである。
も一つ、私は欧洲大戦以前、チャップリン出現以前における、パリパテー会社の喜劇俳優、マックスランデーを非常に好んでいた。私はかなり、むさぼる如く彼のフィルムを眺めたものだった。彼の好みは上品で、フランス人で、色男で、そして女に関する上品な仕事がうまかった。その点マンジュに共通した点がある。
ところが欧洲の大戦によって彼の姿を見失って、チャップリンの飛廻るものこれに代った。
その後、ふと私はパリでマックスが復活せる力作を見るを得て、私は心の底から笑いを楽しむ事が出来た。最後に、私は日本で、彼の「三笑士」を見たが、間もなく彼は死んでしまった。多分それは自殺だと記憶する。
とかく生かしておきたい者は死んで行く。
構図の話
構図は絵を作る上においてもっとも重大な仕事である。自然を写すことは絵の第一の仕事ではあるけれども、自然そのものはすこぶる偶然なものであり、すこぶる無頓着に配列されているものである。
そこでその偶然と無頓着な自然全部を、無選択に一枚の限られた画面へ盛ることは出来ない。そこでその現そうとする画面へ、その自然のどれだけを都合よく切り取り、どんな具合に配置すれば形もよく、見てすこぶる愉快であろうかを考えなくてはならない。そこでまずわれわれは自然に向かうと同時に構図を考えなくてはならないのである。
ところでその無頓着である自然は、また自然と偶然と無頓着とによって、すでに複雑にして美しい無数の構図をこの地球の上に構成しているといっていいと思う。われわれ画家はその自然が構成する構図のすこぶるよろしき一部分を小さな自分の画面へ切り取って頂戴すればいいのである。その切り取り方と画面への配置の方法が問題である。まず初学者としてはこの方法によって画面の構図を定め、しかる後はただ写実であると思う。
それ以上初学者が構図ばかりを気にかけ、構図のために構図をするようであってはかえって面白くないと思う。一草一木さえ写す技能なしにいたずらに画面の構図ばかりを気に病んで、勝手気ままに自然を組みかえてみたり樹木をかえたりすることは、人間の顔が気に入らないからといって口を目の上へおきかえる位の間違いを起こすおそれがある。
これは絵の構図ではないが、人間もまた偶然に出来た自然物ではあるが、その生きるという必要上、種々雑多の諸道具類が実に都合よく完全に備わり、格好よく構成されているようである。それでもわれわれはかなりうるさく、あれは美人だとか、拙い面だとか、可愛いとかヴァレンチーノだとか勝手な批評をするのが常である。これも偶然に出来たところの構図を、いいとか悪いとかいって批評するわけである。
人間は、神様が作ったといわれている人間の顔でさえ左様に文句を並べて、少しでもいい構図を求めようとするのである。よい構図は人の心を愉快にし、安心、安定を得さしめるものである。
そんなに人間は、人間の面の批評をするが、まず大体において、人間の構成はよく出来ているものであると私は思う。もし人間をわれわれがはじめて造り出さねばならないものだったら、その組立てについては随分まごつくことだろうと思う。そして案外不便でかつ、可笑しな形のものを作り上げて笑われるかも知れない。
まずいろいろと文句はいうがその目鼻を移動させることはかなりの危険が伴うからやらない方が安全であると私は思う。そして充分自然を愛し、自然に頼ることが安全だと思う。自然は無頓着であるからしたがって千差万別である。一つとして同じものが作られていない。ところで人間のやる仕事は、何に限らず事を一定したがっていけない。今や人の顔はヴァレンチーノが流行だといえば皆ヴァレンチーノとしてしまうかもしれない。だから人間を作ることを人間に任せておいては同じ型ばかり作りたがる故に危険である。結局一平凡なる無数の顔が製造されて、人間は退屈してしまわなければならない不幸が現れる。
私はしたがって変化ある面白い構図は、自然をよく観察し自然にしたがってよき選択をするところから生じて来るものであると考える。
今一枚の風景画を作ろうとする。一○号というカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スを持ち出す。自然の全体を一○号へ全部残りなく描き込んでしまうことは人間わざでは出来ない。われわれは自然のごく一部分を、この一○号という天地へ切り取って嵌め込まなければならないのである。
ここで自然の中から、自分が見て愉快であるところの図柄を探し出す必要が起こって来る。すなわち構図で苦労することになるのである。
例えば富士山と雲と、樹木と人家と岩とが画面の中央において縦の一直線となって重なり合ったとしたら、いかにも図柄が変だと、誰の心にも感じられるのである。こんな場合画家は歩けるだけ歩きまわって、富士山と樹木と雲と人家と岩とが何とか相互によろしき配置を保つように見える場所を探さねばならないのである。
またあるいは、画面の中央において横の一直線へ山と人家といったものが並列しても可笑しなものである。
また同じ距離の辺りに、同じ高さの木と家と人と山とが横様に並び空と地面がだだ広く空いているということも不安定である。
こんな場合、風景の中を選択のために走り廻ることが面倒臭いからといって、いい加減のところへいい加減の木を付け足してみたり、でたらめの人物を描き添えてみたりする人もあるが、これはよほど熟達した人でない限りは大変危険である。人間の顔の道具を勝手に置きかえて化物とするようなものである。私はどこまでも自然の構成そのものからよき構図を発見してカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スへ入れるということが、一番安全であると思う。
それではよき構図とはどんなものかというのに、それは一概にもいえないが、大体それは人間の五体が美しい釣合を保っている如くうまい釣合が一つの画面に保たれることがよろしいのである。
まず人間の五体を見るのに、その顔においては、左右に均しい眼がある。ただ眼が二つ左右にあるだけは喧嘩別れのようでいけないからといって、鼻が両者を結びつけている。それだけでは少し下方が空き過ぎるところから、口をもって締めているのである。両眼の上と鼻の下にはまゆとひげが生じて唐草の役目を勤めている。まったく顔はよき構成である。
次に胴体である。再び左右のシンメトリーを保つ美しい半球の乳房である。その上にある二つの桃色の点である。それから腹である。もしあの腹に臍という黒点がなかったらどうだろう。あの腹は大きな一つの袋とも見えて随分滑稽なものだろう。その下では線が集まって美しい締りをつけてある。次に両足だ。これがまた中央は垂直線、外側が斜線である。下へ降りる途中があまりに長いからというので膝においてよろしき位のアクサンがある。それから両足となって地上に落着くものである。五本ずつの指ともなる。このよろしき構成はあらゆる絵の構図のよい手本であり、相談相手ともなりはしないだろうかと思う。
よき構図は左様に人間の五体の釣合の如く、樹木の枝の如く、音律のよき調和の如く、美しい縞柄の如く、画面の上にすこぶるよろしく保たれたところの明暗と物と物と、色と色と、形と形と線と線とのもっとも都合よきリズムの調和であらねばならない。
したがって右方ばかりへ主要なものが集まり過ぎたり下へものが下がり過ぎたり、右と左に同じものがあって、それを連絡すべき何物もなかったり、上方が重過ぎたり、画面の真中へすべてのものが集まり過ぎたり一方ばかり明る過ぎたり竪にものが並び過ぎたり、また風景としては空が一つも見えなかったりすることはいけない。
また半分からちぎれたような図柄なども不安である。例えば活動写真の場合でも、どうかすると写真がガタリと半分下へ落ちてしまってつぎ目が幕面へ現れることがある。そんな場合、チャップリンの顔が下に現れ上方から足と靴とが下がっているという構図である。われわれは早く直してもらいたいと思う。われわれは不安でたまらない。
こんな構図を、初めて絵をかく人はしばしば作ることがある。まさか足を上へ描くことはないが、人物を妙に半端なところから半分画面へはみ出したようにかくことがよくあるものである。
静物の構図も風景と大差はない。その原理は一つであるが、静物は自然とは違って、その構図はよほど人工的に工夫の出来るものである。すなわち静物は器物、花、果物、椅子、テーブルといったところの財産でいえば動産であるからいかようにも動かすことが出来るのだ。ところでこれはあまりに人間の自由になり過ぎるためにかえって災いを招き、いつも一定して変化あるよき構図が得られないことになったり嫌味なわざとらしい構図が出来上がるものであるから注意せねばならない。われわれはなるべく静物写生のためにわざわざ机を飾ってみたり、ちゃぶ台の上へギターをのせてみたりすることはどうかと思う。それよりも私は自然にとりちらかされた室内の情景に偶然よき構図やモティフを発見する方がよいと思う。構図のために構図を作ることはどうかすると嫌味を起こさしめる。
写生による風景や静物以外、大きな壁画であるとか、あるいは何百号への大作などする場合、たんに自然の一角を切り取って嵌め込むだけでは絵はまとまらない。
そこで何人かの群像や風景および草木、花鳥の類をばいかに組み合わせいかに配置するかが大作としては重大な仕事となってくる。しかしこれは初学者にはあまり用事のないことであるが、西洋などでは大作の用意のために、研究中にとくに構図のみの研究のために多くのタブローを画学生は作っている。日本では壁画の需要が殆どない上に建築との関係上、大作が流行しなかった傾きもあり、その上印象派の写生による小味専門というべき絵が永く日本を占領していた関係上、あるいは絵画の技術がまだ自然に向かっての写実を勉強するところの初学の道程に止まっていたために、構図の研究ははなはだ画家の間にも怠られがちであったと思う。画家が多くの材料によって一つの大作をまとめるためにはまず構図は第一の条件であり最後の効果をも与えるものである。[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和二年一月)
真似
落語家が役者の声色を真似ますが、真似ることそのものがその芸当の目的でありますから、その声色なり様子なりが、真物らしく出来た時にはその芸術の目的は達せられたわけです。
真似はいつまで経っても真似であって、真物ではありません。真物になっては面白くありません。
上手な声色を聞いていると、まったくその舞台の光景を思い出してぼんやりとしてしまいます。そしてそれに似させてくれている落語家が大変有難い人のように思われて来ます。その労を謝したい気になります。ついにはその落語家が好きになってしまいます。
私はよくこんなに真物らしくやれるものならいっそのこと役者になってしまえばどうかと、考えることがありますが、しかしこれは似させるという技術が面白いのであって、真物にうっかり転職してくれては大変です。蓄音機はやはり機械であることが有難いのです。蓄音機が呂昇になりきってしまってはもう何もかも台なしです。
人間以外のものでも、真似るということに大変興味を持っているものがあります。狐が美人の真似をします、狸が腹鼓みを打ちます、ある種の鳥類は誰でも知っている通りいろいろの声色を使います。その他、猿あるいは人間でも猫八氏などは素晴らしいものです。
狸などは昔は鼓の真似事をやったものですが、最近は科学文明の影響を受けて彼らの芸当も変化を来たしました。
私の知人の家の庭に住む狸は昼の間に聞いておいたいろいろの音響をば夜中になってから復習するそうです。オートバイの爆音、自動車の音などはなかなか上手だといいます。
オートバイの音は騒々しい嫌な音響でありますが、狸がこの音を真似ると、聞き手は何ともいえない雅味を感じるのです。狸の個性の現れだろうと思います。狸自身も真似る興趣というものを本能的に感じているのでしょう。
人間も猫八はじめ芸術家達などもいろいろの真似をします。真似は昔から芸術には深く悪縁が絡んでいるもので、真似はいけないと排斥しながらもいろいろな形式においてつきまとって来るものです。これからさきも永久に真似はなくならないことでしょう。
狐なども苦心の結果、素晴らしい美人と化けすました時に、ある種の人間が彼女のために接吻でもしたとすれば、狐は自分の芸術の迫真の技に思わずほほ笑んで満足したことでしょう。
こんな天才的な狐が一匹現れると、およそ百の若い狐達はその化け方に感動します。そしてその様式について大いに研究したり、見習ったり、あるいは奥義の伝授を受けるために馳せ参じたりしますでしょう。
すると今度は彼らの化け方にも種々な様式が発見され、創造されて行くことになります。こうなると化け芸術も進歩発達して行くことになります。ついにはヤヤコシクなって、ちょっと一度は整理する必要ぐらいは起こって来ます。何狐は何派に属するとか、何狐は何派の何々イズムであるとかいうことになって来ます。狐の世界においても、黒田重太郎氏の出現を待たなければならないことになります。
ところが多くの狐達の中には真似ることの本当の興味を忘れてしまって、様式ばかりを眺めて気をもむ連中が多く輩出してくるかもしれません。あんな連中はもう本当の人間の研究がおろそかになってしまったものですから、一流の美人に化けすましたつもりでいましても、本当の人間はとうていだまされません。美人の裾からはチラチラと毛だらけの尻尾がブラ下がっているのです。
狐も初めは偶然の思い付きで女に化けてみたものが、ついにはその化け方について苦労をしなければならぬことになって来るのです。化ける興味を本職にやりだしたものだから、こうなってくるのは止むを得ません。そのうちにはある様式を守る集団のいくつかが現れ、一方は王子に一方は伏見にという具合に集まります。そして化け展とか何とかいうのを開催して、この道の進歩発達を計るということになります。そしてお互いに奴らの芸術は何だといい合います。狐の世界もまた多事であります。
これらも皆真似ることの興味がいろいろと変化して、ヤヤコシクなったものだろうと思います。真似ることの興味も善い意味に使われた場合には人を楽しませるものですが、これが悪用されると大変迷惑を与えます。
お姫様を喰ってしまってそのお姫様に化けすましたりなどすると、霊鏡に照らされて本性を見破られたりします。或いは贋造紙幣を製造したりする男が出来たり、或いはドランの絵を写真版からコピーして展覧会へ持ち出したりします。その他自分を偉く見せるために、支那の及びもつかぬ聖人の真似をしてみたり、若いのに老人の真似をして通がってみたり、そしてひそかに自己の性慾の強きを嘆いてみたりする悲惨なものも出来て来るのです。
昔の支那の画家の作にはよく何々の筆意に倣うなどと断ってあるのがありますが、あれは大変気もちのよいものであります。日本の油絵なども(油絵に限りませんが)これを一々断り書きをするようにしたら批評家も、一々霊鏡を持ち出す面倒が省けてよろしいのですけれども。
しかしながら当今は狐の威力の方が強いので、霊鏡はいつも曇りがちで、なお田舎の散髪屋の鏡同様凸凹だらけのものが多いので、あまりあてには決してなりません。
[#地から1字上げ](「アトリエ」大正十三年十二月)
ピカソ雑感
ピカソの絵は常に新しいようでまた古い馴染でもある。つい近頃も私は洋行当時の古トランクを開けて、そのナフタリンと西洋の下宿屋にいた時の香気とをなつかしみながら嗅いでいたら、その中からピカソ画集が出て来た。それは大戦直後のベルリンで私が安くいろいろの書物を買った中に交っていたものである。退屈まぎれに眺めてみると、いつもの馴染の絵がいろいろ並んでいる。そしてその制作年代を見ると、一番新しいところで一九二〇年頃であり、古いのは一九一二年代のものさえある。そして現在にいたるまでピカソはまたどれ位の絵を描き、どれだけの変化をしたかを考えると、とてもカメレオン位のなまぬるさでは競争が出来ないかも知れない。
しかしながらいかに変化してもカメレオンはやはりカメレオンで決して豚にもならず人間にもなり得ないと同じく、ピカソは一貫して常にピカソであるところが面白い。何かギターの半分と四角と三角とが交り合っても、点々が並んでも、斜線が重ねられても、あるいはまた古格によって女の肖像がすっきりと描かれても、あるいは古めかしい彫刻を直ちに絵画にまで変形させてみても、いかに転々してみても常にピカソはピカソとしか見えない。
極端な浮気性というものを私はピカソにおいて発見する。一年に五人の情人を取りかえることは日本人にとっては相当くたびれる仕事であり、ただそれだけで満足であり、なかなか芸術にまで手がとどかない。何しろ、今の日本はまだまだ他人の精力を借用して生きているために、一人の女房に精魂を吸い取られてヘトヘトである。
なお私の感心するところはその私のカバンの中の古い画集以後、今日にいたるまでの絵業には老年からくる衰弱とか勉強の連続から来る草臥《くたび》れとか、気力の衰えとか飽き飽きしたとかいう憐れさを見せないことである。大体西洋の大家は死ぬまでくたびれないのはいいことだと思う。
もし日本人が一生の間のある期間において、ピカソの一〇分の一だけの元気と浮気と無茶苦茶の大胆さを示したとしたら、きっと昂奮して死ぬか、あるいは二、三年のうちに萎びてしまうであろう。
あるいは年のせいという温気を感じ出して余生を柔順なる紳士と化けて続けるであろう。
それからピカソの絵についても一つ感じることは、写実の力を素晴らしく備えていることである。あれだけの力をもってすることならばどんな浮気も許されるであろう。とにかくピカソの写実力と、その不老不死の力と、悪魔的浮気根性と不思議な圧力等においてまったくわれわれは多少羨んでもいいと思う。しかしどうもピカソは、まったく東洋には昔から決してなかったものばかりを持っているところの毛唐人中の毛唐である。
[#地付き](「美術新論」昭和五年一月)
絵画き[#「絵画き」はママ]の日記
油絵描きの日常生活というものは、それが順調であればあるほど実に単調きわまるものである。それは第一、生活が貧弱でなっていないからそれ以上何か面白いことがやってみたくとも出来ないことがその主な原因かも知れない。まずその日その日辛うじて無事に絵を描いて暮すことが出来ていれば、実にそれだけで、めでたき限りの順調といわねばならないのである。したがってどうも絵描きの日記などに大そう面白いというものはどうもあまりないようである。
彼は起きた、モデルが来た、絵を描いた、仕上がった、あるいはてこずった、怒った、椅子を投げた、妻君が弱った、散歩してライスカレーを食べて機嫌がなおった、寝た、月末が来た、困った、何とかした、という位が私の毎日の日記かも知れない。
こんなことが一生涯続くのかと思うと、あまり面白いものとは思えない、したがって日記などつける気にもなれない。がしかしこの単調な順序が一歩間違うともう絵が一枚も描けなくなるのである。
例えば妻子家族の病気とか、あるいは恋愛関係、それから起こる喧嘩口論や悲劇やうるさい雑用が引きつづきどしどし起ころうものなら絵描きは休職だ。その代り日記は面白くなるだろう。
文士などはその点結構だと思う。なるべく複雑でうるさい恋愛関係でも持ち上がってややこしければややこしいだけ多く神経が動き出し、やがては何か書けることともなり稿料ともなるわけかと思う。
ところで絵描きはこんな場合、神経だけは文士と同じくらい昂ぶるけれども、その神経はかえって絵の邪魔をする神経であって、まったく作画のためには何の役にも立たないものであるから厄介だ。
ロダンは賢い芸術家だから、人は二つの熱情に仕えることは出来ないといって、なるべく結構な問題が向こうから招待しても平に避けているのである。私の如きうっかり者は招待されるとついその手に乗りたがる傾向があるので大いに用心している次第である。
それでまず近頃、私は辛うじて絵を描いて暮している。すなわち朝起きてそうして寝たというすこぶる平凡単調な生活を危いながらも大切に守っている。したがって日記として書き記すべき何事もない。
ところが二、三日前から絵を邪魔する要素であるところの胃病が起こった。胃病が起こると必ず夢を見る。昨夜見た阿呆らしい夢を付録としてちょっと紹介しておく。
一台の飛行機が西の空から飛んで来た。私は見ていた。それが近所の湯屋の煙突へ衝突したのだ。おやと思う瞬間、両翼はもぎれてしまって魚のような胴体がフワリフワリと中空を泳いでいるのだ。二人の飛行家がその上で狂人の如く駆けまわっているのがよく見えた。私はどうすることかと見ていると二人はパラシュートを持って飛んだのだ。一つは赤で一つは白だった。それが馬鹿に綺麗だった。そして二人とも電線に引っかかったのであった。下で見ていた群集の一人が電線はおかしいぞと叫んだ。しかし私はそれでほっと安心をして朝の九時まで寝てしまった次第である。
シュールレアリズム
シュールレアリズム的傾向ある作品に、相当の興味を私は感じますし、またキリコあたりの(もっとも本ものを見ないから大きなこともいえませんが)写真版位で見ても、かなりの不思議な新鮮さを感じることが出来ます。ことに印象派紫派等の作品の伝統を今に支えている風景画など多いわが国では、それらの傾向ある作品に接し、あるいはシュールと声を聞いただけでも退屈せる若いものにとってはうさを晴らさせるに充分な力があります。
私はどんなイズムに限らずどしどしと歓迎していいと思います。今まで日本へ到来したイズムは皆相当日本の画壇のために役立って来ています。また日本人はそれを応用することにかけては鋭い人種です。
ただ淋しいことには一度もまだ日本内地でイズムが製造されたり発生したことのないことです。どんなつまらないイズムでもパリで製造されたものは、神様の所業らしく日本へ伝わることです。世界の片田舎に住んでいるのははなはだ淋しいことです。藤田嗣治氏の画業でさえも、もしあの画風を日本内地で製造していたら、あれほどフランス人と日本人を同時に驚かしてみることは出来なかったかも知れません。それは余談ですが、何しろイズムを製造するにはまだ当分フランスパリで作ってみなければ作り甲斐も製造の致し栄えもありません。近頃の日本の広告美術家達は画家達よりもモダンの尖端に立っています。それで、シュールレアリズムなどは、もはや百貨店の店頭にまで応用されているように思えます。さてまた次のイズムの到来をお池の鯉の如く口を開いて待っていることでしょう。
眼
妙なもので、絵に熱中している時は文章が書けません。手紙でさえも葉書一枚でさえも書くのが嫌になる。結局絵をかいている間は無言でいたいというのが本当です。ところで手紙がすらすら書けたり、何かつまらない随筆を頼まれたりしてそれが多少興味を持って書くことが出来たりすることが重なってくると、絵を描く仕事が大変うとましいことと思われて来る。そしてパレットの絵具がかたまって幾週間を過ぎてしまうことさえある。
絵は眼の神経と、感覚から生まれてくる産物です。文学は主として心の働きのみによるもので、眼はただ軍艦の探海燈の如く人間の手の如く、足の如く、ただ普通の便宜上の役目をさえ掌っていればことは足りるのであります。したがって絵の仕事のみ夢中になっていると、視神経は驚くべき敏感さを増してくる。普通人には見えないところの色彩を画家は認め、感じ、線のあらゆる形相を知り、微妙にして微細なる明暗を識別し、同時に形と調子と色彩と線の大調和を感得するようなものでしょう。
それで私の経験ではあまりお喋りをし続けたり、文章を書いたりしたあとは眼の神経が多少うとくなるのを感じます。したがって絵画を構成する諸要素を発見することの鈍感さ、自然が発散するリズムを認め感じることの鈍さを感じます。
で、画家は無言でただぼんやりと常に黙って仕事をしていればそれでいいわけです。その方がまず幸福なのですが、私はどうも非常な淋しがり屋であるために絵を描かないその間は、何か喋ってみたく誰かと話をしていたく思うのです。まァ画家の性格としては多少悩み多くて不幸な方かも知れません。
写生旅行に伴ういろいろの障害
私はかつて写生旅行をして満足に絵を作って帰ったためしは一度もありません。必ずてこずるか、中途で止すか、あるいは重い荷物を引摺り廻って絵具箱の蓋もあけずに帰って来るかです。それでだんだん写生旅行に出ることが嫌になって、近頃は殆ど出なくなってしまいました。自分の画室で神経を休めて、制作する時のような落着いた調子には、どうも旅さきでは行かないものであります。
旅が嫌になる原因は随分いろいろあるので一口にはいえませんが、なぜそう落着いた気持ちになれなれないかと申しますと、これは人々によっては案外平気なことで、あるいは一向障害の数に入らないことかも知れませんが、神経やみのものにとっては例えば日本の今の旅行に関する設備等も随分西洋画を描くものにとっては、不便でうるさく出来上がっているようです。日本画は今も昔も筆一本と写生帖とさえあれば用は足りるのですが、西洋画は大きな荷物の七ツ道具を引摺り歩かねばなりません。仕事は全部野外の仕事です。したがって晴曇風雨のことも考えなければなりませんし宿屋の居心地も重大です。宿から出て題材の場所まで通う間の心づかいなどもあります。途中石に躓いても機嫌が悪くなって、一日の仕事に影響します。その位のものですから日本の宿屋の仕組みなどは、かなり気分をいらいらさせます。総体日本の宿屋はホテルでもそうですが、新婚旅行とか、実業家の遊山とか、道楽息子の芸者連れとか、避暑とか、何とかのためには至極便利に出来ていますが、絵描きの仕事のためには不便というよりはむしろ本当に調和が取れないことに出来上がっているのです。
まず旅館へ到着します。玄関の馬鹿気て大き過ぎた花瓶や松の日の出の金屏風など見ても早や気がおじけます。女中が代る代る出て来て世話を焼きます。これは結構なことですが、後の報酬のことが気にかかります。床の間の前には厳めしい「キョウソク」というて、私らは芝居の殿様が使うもの位に思っていたようなものが置かれてある。紫檀の机や卓上電話が輝いてあることもたまにはあります。
考えるとわれわれが今運んで来た荷物はまったく調和の取れないものでありまして、その不調和な荷物の中から絵具箱をゴソゴソ取り出しますと女中が何物かという目付きで眺めます。枠という乱暴な仕掛けのものを取り出してトワールを張ります。トワールもフランスの田舎の宿などで見るとなかなかいい味のものですが、日本の宿でこれを見るとまことに粗野な布としか見えません。これを持参の金槌でもってガンガンと釘を打ち出します。なかなか勇気の必要な仕事です。私はいつもこの勇気が出かかってへこんでしまいます。
不調和は部屋の中だけではありません。宿屋全体から見ても不調和です。まず右隣りの部屋には若い男女が海水着を着けてみたり外してみたりしています。左側の部屋では憎々しい男が四、五名の芸者と寝ながら花札を弄んでいます。その隣その隣と考えるとまったく悲観せずにはいられません。
総体が遊びであります。画家は仕事です。それでは憤然としてここを立ち去るとしますか、どこへ行っても大同小異です。思い切ってトワールを張って、何かいい場所を探し当てに出てみるとします。かなり神経がゆがんでしまっているので何を見ても一向つまらない風景に見えて来ます。汗だらけになって白いトワールを提げたまま舞いもどります。また大袈裟な玄関が気にかかります。また女中が眺めます、番頭が眺めます、男女の客が眺めます、気持ちは暗くなるばかりです。天候のことも考えます。滞在一週間の予定が翌日から雨と来ます。もう仕事は出来ない上に、心労は増します。私は雨の日の旅館の退屈は思っても堪らないのです。立ってみたり坐ってみたり、寝てみたり起きてみたり、いらいらして来て終いには悲しくなって腹が立って来ます。すると隣近所の人情がますます気にかかり出します。
もう一刻も猶予がなりません、描きかけの絵はぬれたまま巻きこんでしまって、取り敢えず宿屋から逃げ出します。逃げ出してからでもまだ今支払った茶代は少しケチではなかったか位のいらぬ心配までが出て来ます。
また汽車に乗ります、走っている間窓からの眺めは素敵です、素敵な場所には汽車も止まらず、人家もなく宿もありません、再び目的地へ着くとそこは相変わらぬ停車場前の情景が展開されます。またかと思うともうたまらなく帰りたくなるのです。すなわち帰りの切符を買い求めてしまうことになるのですが、その時は肩の荷の軽さを覚える次第であります。
これが外国でありますと随分の気苦労も多いですが、日本のようなこの不調和が少しもありません。宿屋と、風景と、人情と、画家の仕事と、そして食物とが随分うまい具合に調子が合って行くので画家は楽しんで毎日の仕事に夢中になれるのですが、今のような日本の状態ではちょっと望み難いことでありましょう。まだ他に多くの苦情もあるのですがこの位で止めときます。
因果の種
誰れでも同じ事かも知れないが、どうも私はどんなにちょっと[#「ちょっと」に傍点]した絵を仕上げる場合でも、必ずそれ相当の難産をする。
極く安らかに玉の様な子供を産み落したと云う例は、皆目無いのである。
その難産を通り越すか越さないかが一番の問題である。越せばとに角絵は生れる。越さない時は死産とか流産とか或は手古摺りとか云うものである。
難産が習慣となっている私にとっては、偶に軽い陣痛位いで飛び出したりすると、如何にもその作品に自信が持てないのである。情けない事である。
それでは難産で苦しんだ時の絵は必ず上等で、玉の如き子供であるかと云うに、それが決して左様ではない。ただ妙な関係で絡みついて了って一と思いに殺して了う訳にも行かない処のものが生れたりなどするのである。
本当のお産だってそうだ。一年間も母親は苦しんだ上、命をかけて生み落した筈の其子は、必ず上等であるとはきまっていない。でも自分達夫婦の分身であり、母親は命をかけた関係上、実は人間よりも狸に近いものであるに拘らず、ふとんや綿で包んで大切にしている。
それを吾々他人が、一寸綿の中を覗いて見ると、全くの狸であり、昆虫であり、魚である場合が多いのだから悲しむべき事である。
殊に、不具や低能児を抱いている母親の愛情などは又格別のものであるらしい。
絵だってその通りで、私は三年間を此作品に捧げたとか私の霊魂を何んとかしたとか、私は神を見たとか云うふれ出しだから、一体どんなものが現れたのかと思って見ると神様が狸であったり、霊魂が狐であったりする場合の方が多いのだ。
もし、本当の事ばかりを不作法に云う批評家があって、命をかけて抱いているその赤ん坊を一々、おや鯛だね、おや狐でいらっしゃいます。お化けかと思ったと申して歩いたら、全くそれは一日も勤まらない処の仕事であるかも知れない。心ではいもむし[#「いもむし」に傍点]だと思っても、そこは女らしいとか、まア可愛いとか、天使の様だとか、何んとか馬鹿気た讃辞でも呈して置かねばならないものなのである。
処で私自身、全く私は命をかけつつ、そして殆んど無収入で以て、しかも日々難産をつづけ、其奇怪なる昆虫を生み落しつつあるのである。そして人間の情けなさは馬鹿な母親の如く、いもむしや狸にも似た我が子の眼玉へ接吻したりなどする事になる。
然し、私は、不幸な事にも接吻し乍らも変な顔をしていやがるなと、心の底では思っている。然しその子は何かの因縁とか因果の種とか云うべき怖ろしいものだとあきらめて抱いている次第である。
処が此の変なものを生み出す為めの難産には随分の体力が必要である。私が一番情けなく思うのはこの体力の不足である。
殊に油絵と云うものは西洋人の発明にかかる処の仕事だけあって、精力と体力とで固めて行く芸術だと云っていいかと思う位いのものである。神経の方は多少鈍くとも油絵の姿だけは出来上るものだと云って差支えない。
私は、日本人全体が西洋人程の体力を有っていない事を認めている。それは性慾や食慾に就いて考えても同様である。
日本人の中でも私などは最も体力の貧しい人である。私が徴兵検査の時、体重が十貫目しかなかった。検査官の一番偉い人が十貫目と云う字と私の顔とを見比べて、どうかお大切になさいと云って、いの一番で解放してくれたものである。
以来、私は、もう死ぬかと思いつつ、印度洋を越えてフランス迄も出かけて今尚お生きてはいるが、生きている事に大した自信をもっていない私が、難産をつづけ乍ら因果の種を抱こうと云うのであるからこれも亦因果な事である。
世には病身にして且つ人一倍淫乱だという者がよくあるものだ。私はその淫乱かも知れない。しかも此の行いだけは止めるにも止められない。而して難産であり、病弱である。
その上、文明がまだ中途半端で混とんとしているので、西洋画家の生活が殆んど成立っていないから、全く生活とは無関係であり、勝手な仕事となって居り、しかも多情多淫であっては、やがては疲れはてて、奇怪なる低能児を抱えたまま行き倒れて了うのではあるまいかと云う事を、私の虫が私に知らせてくれるのである。
現に行き倒れつつある多くの先輩を見るに及んで情けなく思う。最近、ある新聞の三面で、ある名妓のなれのはてが行き倒れていたと云う記事を読んだが、その時も私はよそ事とは思えず心が重くなった事である。
これは私の絵に対する態度だか、何んだか一向わからない事を云って了ったが何卒御容赦を願う。
近代洋画家の生活断片
日本人は昔から芸術家を尊敬するところの高尚なる気風を持つ国民である。その代りややもすると芸術家は仙人か神様あがりの何者かである如く思われたりもする。めしなどは食わないものの如く、生殖器など持たない清潔な偶像とあがめられる。結構だが近頃はおいおいとそれが迷惑ともなりつつあるようでもある。ことに近代では神様や仙人そのものの価値と人気が低下しつつあるようだからなおさらでもある。
だいたい芸術家のその作品はいわば自分が楽しんだところの糟みたいなようなものだから、それを売ろうというのは虫が良過ぎるという説をなすものさえたまにはある。まったくのところ芸術家は大金持ちであるか、臓腑なきものであるかであるとすれば、その説もいいけれども舌があり胃腑を持ち、その上に妻子を携え、仕事に愛着を持てば糟だといって捨ててしまうには忍びないだろう。生まれた子供は皆これ楽しんだ糟だからことごとく殺してしまってもいいとはいえない。
私は経済学者でもなく実業家でもないので、現代日本はどんなに貧乏か、不景気か知らないけれども、あまり景気がいいという評判だけは聞かされていない。その時代に芸術家志望者、油絵制作希望者は素晴らしい勢いで増加しつつあるのは不思議な現象だ。毎年の二科帝展等の出品搬入数を見ても驚くべき数を示している。これだけの胃と生殖器を持てる神様の出現は、一種の不安なしでは眺めていられない気がする。
すなわち日本画の世界の如くあるいはフランスの如く、画商人というものがあり、鑑賞家への仲介すべき高砂屋があり、高砂屋によって市価が生み出され、完全に商業化された組織があって、しかもなお神様は貧乏を常識としているのだが、それらの組織がなく、完全なる高砂屋なく、愛好家と神様との直接行動であっては、まったくもって神様も努力を要することである。
ある愛好家は、絵は欲しいと思っても展覧会で名を出して買うことを怖れるという話を聞いたことがあった。それは誰それは油絵の理解者であり、金があると伝わると、八百よろずの神々がその一家へ参集してくるというのだ。
さて、これが高砂屋の参集ならば片っぱしから謝絶しても失礼ではないが、何しろ皆神経を鋭がらせた、芸術的神様の集まりである。失礼にわたってはならない。なかなか以てやりにくいという。しかしながらケチな愛好家でもある。
しかし、目下東京に二、三の高砂屋が現れて相当の功績を挙げている様子だと聞くが、まだ画界全般にわたっては、なんらの勢力を持たない小さな存在に過ぎない。この、組織不備の間にあって、つい起こりやすいのはいかさま的高砂屋である。資本なくて善人の神様を油揚げか何かで欺しておき、絵はほしいがどこで何を買ったらよいのか、不案内という愛好家や、少しも油絵などほしいとも思わない金持ちの応接室へ無理矢理に捻じ込むものがあったり、作品を持ち逃げしたりする高砂屋もあるらしい。
とかく色男には金と力が不足していると古人は嘆じた如く、本当の現代油絵の理解者達にも金不足の階級者がことの外多い。展覧会を一年のうちに何回か眺めておけば、日本現代の油絵からフランス現代にいたるまでことごとく安値に観賞し尽すことが出来る。何も好んでその一枚を家へ持ち帰る必要あらんやといえるだろう。しかしながら時たまそのうちの一枚を買って帰りたいと思って会場を漫歩したとしたら、あの無数にぎっしりと並んだ絵のさてどれがいいのか、悪いのか、われわれの如く毎日絵の世界に暮しているものでもちょっと見当がつきかねるだろうと思う。腹の虫が収まっている時は皆よく見えたり腹が斜めである時は何もかもことごとく汚なく見えたりする。まァ名を知っている画家の描いたものは何となくよく見え、よく了解も出来たりする。知らない人の作品はなかなか記憶へ入って来るものではない。
時には雑誌や新聞の展覧会評の切抜きを道案内書として、展覧会を眺めて廻る忠実なる鑑賞家も大阪の二科展会場等で時々見受ける。
まず左様な愛好家が一枚の絵を買うのに迷うのも道理だ。大金持ならばまず番頭か何かに今年の二科の絵は全部買い上げようと命じさえすればいいわけだが、一枚を選択するには骨が折れるだろう。
ところで絵画の価格表を通覧するにまず目下、日常のテーブル、鏡台、蓄音機、コダスコープ、洋服、帽子、靴等に比して、油絵というものは高値だ。一枚の油絵で何がどれだけ買えるかを思うと、まったく現代の絵画はついあとまわしとする傾向が起こってくるかも知れない。
ある人が展覧会を見に来て、高い価格の絵は上手で安いのは下手なのかと私に訊ねたことがあった。もちろん大阪の会場でのことだ。高いものはよいと、昔から大阪ではいい伝えられているのだから無理もない。何か油絵画家の内閣とか、帝展の大将とかが相談の上、彼の相場は何円彼は何円と決定するのかも知れないとこの人は思っていたらしい。
もちろん日本画の世界とか、フランスにあっては画商人の多くがその仲間で市価を製造するが、日本の洋画の世界には左様な組織[#「組識」は底本では「組識」]はまだ現れていないので、画家は勝手気ままの思わくだけの価格を自作につけるので画家がヒステリーを起こしている時などは時々非常に高価か、馬鹿に低廉であるかも知れないし、どうせ売れもしない大作だとあきらめるとやけ糞で何万円とつけてみたりするのだ。まったくもって価格がよい絵を示しているわけでもないと私がいったらその人は大いに失望した。
しかしいかにあてにならぬ価格でも、もう洋画が流行してから明治、大正を過ぎた今日である。何となく画家のうちにもおおよその見当を自分で発見して来た如くである。やはり西洋の画商のしきたりをまねたものと思うが、絵画の号数に応じてその各自の地位、自惚れを考慮に入れて、価格を定めつつある。すなわち一号を何円と定める、一号を仮に一〇円とすると一〇号の大きさの油絵は一〇〇円であり、一号を二〇円と定めると一〇号が二〇〇円になるわけだ。
さて各自が勝手な市価だが現在では大体において一号五〇円以下では決して売らないという大家もあり、なおそれ以上彼らを眼下に見下ろして俺は国際的の御一人だから一号三〇〇円以下では売らないといったりすることもあるようだが、内実はいかに相なっているかそれは素人にはわからない。しかしまず常識的な画家の相当の作品は一号一〇円から五〇円の間を低迷しているように私には思える。
さて、現代画家でもっとも高く、もっとも多くの自作をもっとも手広く売り拡めんがためには、金持ちの応接間はことごとく上がり込むだけの勇気と、手打ちうどんの如き太き神経を必要とするだろう。自分で絵を作り価格を考え、外交員ともなり、自個の芸術的存在を明らかにし、その作品のよろしきものだという証拠の製造もやるといえば、まったく精力と健康も必要だろう。それで本当にいい作品が出来れば幸いだが、天は二物を与えずともいわれている。
それらの健康と太き神経なく、金持ちの応接室と聞いただけでも便通を催すという潔癖なる神様で、パトロンも金もなかったら、この現代ではいかに善き作品を作っても、作れば作るほど、食物が得られない。さてパトロンなるものも左様に多く転がって存在するわけでもなく、万一あったとしても、それはかの愛妾達がする体験を画家もやってみねばならないことであり、神経が尖っていれば辛抱は出来ないだろう。
近頃、研究所へ通う多くの画学生達や展覧会への相当の出品者達で本当に何もかもを打ち捨て、絵に噛りついているという人達の存在がいよいよこの世では許されなくなって来たものであるか、必ず何か他に余業を持っている人達が多くなって来つつある如く思える。新進作家にして同時に小学校の訓導であり、百貨店の宣伝部員であったり、図案家であったり、会社員であったり、ヱレヴェーターボーイであったりする。今にバスガールや女給で相当の出品者を発見することになればそれも面白いと思う。
日曜画家という名が現れている。すなわち日曜だけ画家となり得る生活を持つところの半分の神様すなわち半神半人の一群である。これらはまったく芸術とは関係なき仕事においてわが臓腑と、妻子を養いつつ日曜は神様になろうとする近代の傾向である。近頃、非常に多い画人の中にはこの種の日曜画家は案外多いものだろうと私は思う。
悲しいことには絵画の様式は複雑であり、たった一日で完成すべき性質を欠いているがためにここに、絵画の本質と日曜との間に悲劇が起こってくる。
油絵という芸術が現代生活上の必要からおいおいと日曜のみの仕事になっていったら、会社員の俳句ともなり、娘さんの茶道、生花、長唄のおけいこともなり、普及はするが淋しい結果になりはしないかと思う。
その代り相当の優秀な作家が、絵によって世の役に立つところの仕事、世の中に絵の描けない人達のためにつくすべき仕事に向かって流れて行くことは私は悪くないと思う。美しく近代的なショーウィンドを構成し、ペンキ看板はよりよくなり、女の衣服は新鮮であり新聞紙や雑誌は飾られ、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵は工夫され、ポスターと新薬は面目を改めていくだろう。都会は美しさを増す。
しかながら一軒のかしわ屋の看板を描くために五〇人の画家が押し寄せたとしたらどうだ。どうしていいかにも私も見当がつかない。
だが、やきもきと何かと戦っているところの若いものはまだいいとして、本当に芸術に噛りつきながらもつぶしの利かない、しかも世の中の焦点から消えて行く日本の老大家達の末もあまり明るいものではない、かと思われる。
[#地から1字上げ](「セレクト」昭和五年三月〜四月)
秋の雑感
秋の大展覧会というものは、例えば二科にしても、先ず五十銭の入場料を支払えば、日本全体の今年度に於ける新芸術の進歩、方向その他一切の技術から遠くフランス画壇の意向から、その尖端の新柄の土産に至るまで、悉くを眺めつくす事が出来る甚だ便利な封切りものの常設館でもある。
ここで秋の封切りを一度観賞しておくと、若い男女は日本の新芸術からフランスの風向きに至るまでを一年間は有効に話の種として交際する事が出来る。
もし私が若い男だったら、やはり断髪の近代女性と共にあの会場を散歩して見るであろう。そしてピカソ、ドラン、シュール・レアリズムは、と云った事を口走り乍ら、その無数の大作を私達の背景として漫歩するだろう。そしてその中の一枚を彼女へのお土産として、彼女のピアノの上の壁の為めに買ってやるには少々高価であり過ぎる。そこで絵はがきを買って待たせておいた自動車へ埋まり、銀座へ出て、ハンドバックを買ってやるかも知れない。
その訳でかどうか知らないが、あの幾百枚の油絵の中で、何点が見知らぬ人に買われて行くかを注意して見ると、全く驚くべき少数のものが引取られるのみである。東京はまだいい、大阪での開催中において、毎年一枚かせいぜい二枚か売れて行くだけであると云うと何か嘘のような、税務署への申告のような話だが本当なのだ。それも調べて見ると何かの縁につながれたる人情を発見すると云う有様である。
だが展覧会は売る為めの仕事ではないと云えば又それまでの事ではあるが、画家の一年中の代表作が売れて行く事は悪い現象でもあるまい。
だが近代の展覧会はいよいよ形が壮大となり、秋季大興行の一つとなって来つつある。そして近代の画家は一年中、食物と戦いつつ若き男女の漫歩に適するハイカラなる背景を無給で製造している訳でもある。何千人の人達が散歩して了い画界の潮流を示して了うと直ちに引込めてあとは画室の納屋へ永久に立てかけておく。
せめてそれでは、入場者が全国野球大会の一日分位いでもあって、その五十銭の入場料の配当にでも出品作家が預かればまず生活の一部分は救われるだろうが、現在の如き程度であっては、展覧会は来年度の開催が保証されれば幸福と考えねばならない次第だそうである。
そこで現代の若き作家は商品見本を秋に示し、一年間は潜行して画商と、番頭と、作者を兼業しつつ多忙を極め、なるべく嫌らしく立廻って漸く生存する事が出来るだろう。
* * * *
だが、画家の絵を作りたがる心根は又いじらしいものである。如何にいじめられ、望みを奪われ、金が無くとも、ただ絵が描き度いという猛烈な本能に引ずられて、我々は仕事をしているために、決して画家は如何に条件が悪くとも、怠業をしたり示威的な行動を起したりはしない。何んだって構わない。自分の一年中の仕事の封が切って見せたくて堪らないのだ。たれかの背景となりたくて堪らないのである。だから画家が不出品同盟とか脱退とかいって怒るのは、必ず鑑査に関する時か、自己の名誉、権力についての時ばかりだといっていい。それが芸術家の性慾だ。
全く画家の製作慾も、性慾そのものよりも強い。性慾は制限すれば健康を増すが、画家から筆を奪うと彼は病気になる。
さて、展覧会では絵画は背景であり、見本市場であり、競争場であり常設館であるとすれば、勢い素晴らしき存在と人気が若き画家の常識ともなり勝ちだ。
従って絵画は、その画面を近頃著るしく拡大しつつあり、何か不思議な世界を描いて近所の絵画をへこまそうと企て、あるいは日本以上に展覧会と画家で充満せるパリでは、藤田氏の奇妙な頭が考案されたりするのも無理では決してないだろう。
日本の近代の絵にしてもがどうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり、尚いよいよ発達するはずだと思う。
かくして秋の大展覧会は野球場であり常設館となって、素晴らしい人気を博し得れば幸いである。私も亦なるべく大勢の婦人達を誘って近代的漫歩のために何回も訪問する事に努力したい。
然し乍ら若くて野心ある画家は、空中美人大観兵式でも、らくらくと描き上げるだけの夢と勇気を持つが、もう多少の老年となれば左様な事も億劫にして莫迦らしく、若い男女の為めの背景となるところの興味も失って了う。つい洗練された自分の芸術境の三昧に入り度がり、籠居して宝玉の製造に没頭する。
情けない事には、巴里の如くその玉を引取るべき画商がなく、展覧会は完全に登竜門の大競技場となり漫歩の背景となりつつあるが為めにこの常設館のイルミネーションの中で完成されたる滋味ある宝玉も同居するのだから、甚だそれはねぼけた存在と見え勝ちである。玉から云えば他の作品はポスターでありポスターから云えば玉はねぼけた存在であると云う。又そう云う処に若い心が発散するのである。然し若き尖端は永久に尖端ではあり得ない。やがて今の尖端人は又玉を製造する日が来る。そして次の尖端の邪魔をする訳である。
私は芸術家が宝玉と化けた時、これを何か適当な陳列棚へ集めて、尖端の大競争場裡から救い上げて見度いと思う。でないと、全く球場に埋まる老いたる玉が気の毒であり、芸術の完成を萎びさせていけないと思う。尖端と元気のみが芸術だとは云えないから。
かげひなた漫談
東洋画には陰影がない。強いて凹みを作らねばならぬ時には淡墨をもって隈というものをつける。これは単に凹んだ場所をやや暗くするだけのものであって、その隈どりの方向によってこの世の太陽が今どちらに存在するかといったことは一切わからない。この現実の太陽光線とは一向無関係であるところのたんなる凹みであるに過ぎない。
ところが西洋画における陰影は必ず太陽のある位置がわかるところのこの世の影である。もちろん西洋でもうんと古代の初期絵画になると一種の隈で現実世界の光線とは無関係になっていることがあるが、相当絵画が進歩してからのものは非常にいよいよ太陽光線によって現れたところのこの世界のあらゆる光線の強弱階段を描いている。印象派などは極端に太陽光線ばかりを描いたようだが、ともかく影とひなたは油絵の母体であり相貌といっていい。だから日本画の技術のみを習得した画家には絶対に油絵は早速試みることは出来ないが、洋画家はちょっと道楽に日本画の墨画を試みてもまずいながらも成功する例が沢山ある。それは自分達人種の伝統にからみついているところのお里へちょっと帰りさえすれば出来る仕事であるのだ。西洋人は素人でも子供でもが何か絵を描こうとする時必ず影とひなたから描いて行く、そして絵の心得なきものでも容易に遠近と立体とを表現することが出来る。
西洋の神様や幽霊の絵は足だけは宙に浮かび上がっているが、やはり太陽の光を浴びているところの確実なる地上の存在となって立っている。幽霊でさえもまず半透明体位のところで、やはり光線を浴びてまごついている。中世紀の宗教画やバーンジョーンズの神様の絵など見ると神様達はちょうど靴か下駄の如く何か変な形のものを足へ履いて、そこから焔が立ち昇っていて、この世の太陽光線によって光と反射と影を伴うて立っている。だから私はややもすると神様とは信じられないで宝塚の少女歌劇を見ている心が起きてくる場合がある。フットライトに照し出された、芝居の神様を思い浮かべることがある。かの壷坂霊験記を見ると、観音様がなんといっても人間のことだから、完全に日本画の如く線と、平面と、半透明体とになり切れないものだから、やむなくきらきらする衣裳を電燈に輝かせつつ光と影を持ったまま岩と雲の間に立ち現れ、われこそは観音也とのたまう。もし役者が完全に透明となる薬でもあれば、彼らは直ちに服用して線となり透明体と化してしまうであろう。
で私などはどうも陰影ある竜とか観音、神様などをば習慣的に好まなくなっている。ただあらましの線だけ与えてくれれば当方で勝手な観音や神様を呼んで、勝手にありがたがってみたりすることに慣れている。
日本のエロチックな浮世絵の裸体とか足にしてもがもちろん影がないので、その線条の赴くところにしたがって観音は自然を空想しながらよろしく当てはめて行く。その点はまことに画家の仕事は楽で便利である。ほんの略画、素描、一部のアウトラインだけを示すと、日本人は勝手な色彩なり想像を篏め込んでくれる仕掛けとなっている。一本の指で万事を悟らせる一休禅師のコツもこれであろう。二、三本の柳の数条の線へ幽霊と文字で記してさえも、勝手に怖ろしがってくれる、悟りの早い気の利いた人種であり好ましい東洋精神である。
もしこれを無風流で禅の心得なき西洋人に見せたら、どうも本当に合点が行かないので一向何の顔もしないかも知れない。地図ですかと訊かれては、ノンノン、幽霊ですよ、それドロドロなどいって見てもなんとも感じないので阿呆らしくなって仕舞うだろう。ドロドロといえば直ちに怖ろしがらねばならぬという礼儀を知らないのだから困るのだ。
でもこの東洋の世界をば科学文明は仙人と道釈人物、幽霊、鶴亀、竜の類を追い出し、あるいは動物園へ収容してしまった。そして一本の指くらいでは何も悟ってはくれない。はなはだ現実的で科学的で理論的で、批判的構成的、立体的にして陰あるところ必ず太陽のある世界へとうとう暴露してしまった。
そしてこの世は、少女歌劇の神様が征服しつつあるともいえる。近頃のシュールレアリズムの類にしてもが、あのキリコなどの作画を見ても、室内に馬がいたり、大戦争が始まっていたりする。実に超現実とは見えるけれどもしかし実に正方形の室内が確実に存在し、まさに大戦争が立体的な箱の中にさもほんものらしく始まっている。シュールであるがあくまで現実的である点に不思議な誘惑を私は感じる。
日本人描くところのシュールは超の方は容易に出来るのだが、何しろ永い星霜を仙人と鶴と亀とを友としていた関係上、なかなかレアリズムとか写実とか、光線の階調の研究とかいう不粋な方面はどうもまだ板につかない関係もあるが、なかなかレアリズムの方がうまく行かないとみえて何かせんべいの如く平坦にしてややもすると大津絵とばけてしまうこともある。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和五年九月)
暑中閑談
この世に住んでいる以上は、ごく少々でも自分の世界に極楽を見出す必要はある。でないとあまりにも憐れだから。しかしこの世といってもパリの都もこの世だし、アメリカもロシアもこの世だが、われわれのこの世は日本現代である。この日本現代のこの世こそは極楽の中でもはなはだ不安定な極楽だと思えてならない。なぜだかわれわれ絵描き渡世するものにはよくわからないが、どうも安定な感じだけはしないことは確かだ。私等の仕事の絵画の構図と構成は第一の条件として安定を求めている。そして統一である。昔から天地人といって、少々先端的な例ではないが、天地人の構図はあらゆる方面にも用いられている構図の基礎である。
色彩においても調子においても、画面の全面にわたってその軽重濃淡配置よろしき時絵画は仕上がり、人はその画面に向かって安心して見ほれることが出来る。機関車、飛行機、軍艦の安定は絵画の調子の安定より以上に必要だろうと思う。調子、色彩、リズムの不整頓な絵画を見せて死傷者を出した展覧会というものはない。
しかしながら明治以来われわれは単位のまったく違った文化の将来によっていわゆる過渡期という年代があまりにも永く続いているので、極楽は不安定なものだとさえ習慣によって思ってしまうようにさえなりつつあるような気さえする。だが一枚の絵でさえも調子を合せるに一〇日もかかることがあるし、構図の安定に幾日間を費やしてなおまとまらないのだから、この極楽世界の混乱をパンやゴムで消して見ても、何時仕上がるか見当がつかないかも知れない。
とにかく家庭、建築、人情、風俗、生活の形式、儀礼等がある年代を経て工夫統一され、よろしき調和を現して滑らかに進行している時代ではその生活、風俗、浮世の雑景はそのままにどの一角を切り取っても画面に絵としてのよろしき構図を形造るものであり、それがためについその風俗、生活の有様が画家の絵を作る本能を都合よく刺戟する。
由来、画家というものははなはだ本能的な存在であって、描くに足るだけの対象物に出会うとどうあっても描いてみたいので、そこに理由や理屈を見出しているのんきな寸暇が見出せないのである。それは恋愛としかしてそれに続く性慾の性急にも似ているといっていい。そこに何か不都合な障害があってそれを描くことが差し止められると神経衰弱的傾向を現し自狂的となりやすい。
だから安定にして統一ある生活の美しさがあれば、画家は直ちにその生活を描くにきまっていると思う。近頃の戦争文学にしてもがそうである。世界大戦の休止して約十年の後人間はやっと戦争を芸術として味わうだけの安定を得たのである。日本では関東大地震の名画はまだ現れない。
生活の天地人が定まらない限りややもすると、画家は天国へ志を預けてしまうことさえある。ある時代には画家はことごとく達磨と鶴と、仙人と竹石にのみ安定を発見した時もある。と同時にある時代では極端に生活を芸術の対象とした時代もある。かの浮世絵全盛期ではほとんど仙人も達磨も天からのそのそ降りて来て、ひどい達磨などは美人の裾に感じて立ち上がって踊り出したりしている。まずこれなどは生活の安定を少し通り過ぎた時代だったに違いない。
さてこの現代の不安不統一をきわめた風俗人情を持てるわが極楽世界では、画家はどれだけ現代生活を芸術へ織り込んでいるかと思ってみるに、どうもむしろ反対にある時代に画家達が現世を逃避して鶴や、仙人、道釈人物、竹石、支那楼閣山水のみ描いて心を慰めたと同じように現代画家は生活から遠ざかって静物、裸体、地球のしわとしての山水、風景を描いているようだ。大体静物はいつの時代でも桃は桃であり、花は花である。風俗習慣を除去した裸像は常に永久にただの人間の肉体そのものであり、風景は地球の凸凹であるわけだから、そこに人工的な不統一や混乱がないので、ちょうど鶴や雲や竹石を描くのと同じ都合である。
さて私はまた日本画の展覧会を眺めることがあるが、その描かれている世界は何かといえば、春信や春草がその頃を描いた如く、この現在の風景を描いているものはあまりない。主としてそれは過去の日本支那の風俗人物美人であり、天平であり、絵巻物は雨月物語、栄華物語、西遊記であり、肖像は平清盛であり、頼朝である。美人は多く徳川期から招待されたるマネキン嬢である。風景は信貴山縁起、信実の風景であり、大雅堂であり、点景は仙人である。たまたまピアノ弾く現代娘もあるにはあるが、その絵の様式はさても美しく仕上げられたる人形仕立てであり、清元によってカルメンとカチューシャと女給の恋を現さんとて企てたるナンセンスをさえ感じることが出来るのである。
清元とか浄瑠璃の様式というものはまったく、現代女給や女学生の心理を表すには少々不適当なテンポと表情をそなえている如く、日本絵の様式が現代のあらゆるものたとえばビルディングの前に立てるサラリーマンの肖像を描くには折合いが悪く、強いて試みると不調和から来る笑いを観者に与え勝ちである。なおさらそれを芸術の域にまで将来することは尋常の力わざではない。バスガールと車掌の六曲屏風というものがあったら、さて別荘のどの部屋へ立てたらいいか。これならまだ油絵の様式でさえ描けばまた何とか応用の途はある。要するに結局、時代は如何に変遷しても日本画の展覧会は雲と波と鶴と何々八景と上代美人と仏像である。それでもしも日本画の展覧会を西欧都市で開催でもすると、日本に汽車はあるかと訊くところのタタミ、ハラキリ的西洋人はうっかりと東洋天国を夢想して今に吉祥天女在世の生活にあこがれ、日本人はことごとく南宋的山水の中で童子をしたがえて琴を弾じ、治兵衛は今も天満で紙屋をしているように思ってくれたりするかも知れない。そしてはるばるやって来ると富士山の下で天人がカフェーを開いているし、新開の東京にはフォーブとシュールレアリズムとプロレタリア芸術が喧嘩をしていたりするわけだから、少々ばかり驚くことだろう。
すなわち彼らは腹立ちのあまり日本はなぜあの古き天国へ還元しないか、油絵なぞ描くのがそもそも誤りだと、さも親切らしき訓戒を与えて去って行くこともある。この訓戒こそは都会人が田舎へ行くと、誰でも一応は申してみたくなる口上である。私が西洋からの帰途上海へ上陸した折、ちょうど支那人の洋画展覧会があったのでのぞいてみた。するとほとんど拙いものはかえって支那的な感じを持っていたが少々出来のいいのは大概日本の帝展風だった。何故帝展と同じものを描くのか、支那にはもっと支那らしい……と例の口上がいってみたくなったが、さて私はこの口上だけは軽々しくいうべきものではないと思った。支那の若い作家はまた彼らの天国を勝手自由に求めているのだから、いらない世話はしない方がいい。
さて、若き力ある西洋画家が最新の技法を将来して日本の土を踏むや、彼らは大概一年間はどうしようかを考える。その折角の最新芸術様式によって日本の何者を生かそうかと考える時、生きそうな何者も容易に発見出来ないことがある。古い伝統の上にようやくと重なり重なって統一せるパリの都会とその生活の落着きと、美しさの上に立って動く芸術の様式であり、その様式によって直ちに写し出すことの出来る人間生活、日常風景、都会雑景である。例えばモンマルトル辺りの古びた家並と鎧窓の続くパリの横町と、フランス的な横文字の看板の美しい配列に陶酔せるユトリロふうであるとしても、日本現代の都市へ帰朝すれば、八階のビルディングの下に下駄の如き長家が並び、アッパッパ、学名ホームドレス着用の草履をはいた奥様と女中の点景と、仁丹と福助足袋の広告は、画面構成上少々勝手が違い過ぎはしないか。ここに一年や二年は如何にあのアッパッパと仁丹を表現すべきかについて考えた結果、落胆と、失望と、不勉強と、生活難はどしどしと攻めよせてくる。
といった悩みはざらにある。すなわち東洋回顧を始めて立体と調子と厳格なる写形的技術をもって障子と襖とかたびらの爺さんを描いてみると、釣り鐘で提燈の風情を現す位の牛刀の味を示す。
すなわち日本画家が現代生活相を怖れる如く西洋画家も現代生活の諸相を避けて、彼らは永久に地球のしわであるところの山水を描き、永久に人間であるところの裸体の安定を描き、常に新鮮なる食慾を放散するところの菜果を描いて画面に統一をつけているように思える。だから展覧会ではどうも現代肖像画のいい作品が少なく風俗画が絶無でありがちである。
しかしながら油絵は写実を基礎とするが故に、如何に回避しても現代的風景は人物に静物に、風景に必ず織り込まれて来ることは避け難い。東洋画の如くうるさいところは空白として金箔で埋め、動物園の鶴を雲上に飛ばすだけの自由が技法的にも許されてはいないのである。その背景である現代世相を如何に処理するかの見当が合理的に発見された時に、初めて油絵の技術は日本的に成長して行くのではないかとさえ私は思っている。
もしもマチスとピカソを招待して一カ月ばかり牛込あたりの下宿屋へ美校学生とともに下宿させたとしたら、彼らはあの世界有数の技術と立体感を如何に発揚するか見ものだろうと思う。煙草盆と机と、茶色の壁紙と雨漏り地図と、桃三個並べて、日本における画家の生活をしみじみ考えるであろうかどうか。私はピカソでないので一向見当がつかないが、一度招待して描かせてみたい。案外日本の画家の方が下宿で制作するコツをよく知っていてうまいかも知れない。
近頃面白いことには絵画材料店に静物用の壷とバック用のインド更紗の安いイミタシオンと、果実を並べる台等を売っていることである。かくしてまでも西洋館の背景を造る必要もなさそうだが、下宿屋の二階ではまったくその人体と静物の背景には困るだろうと思う。これは同情すべきである。今に裸女用マチス型ソファー、バッグ、シーツ、枕、一組何円のセットが現れ帝展風、二科御用静物セット、裸女兼用といったものが安価で売り出されるかも知れない。
しかしながら日本の現代は必ずしも左様にセットを用いなくとも今や何パーセントの日本人はベッドと洋室とパジャマで寝ている。かえって私は純日本的な日本髷の裸女と背景が一〇〇号の力作で現れたらむしろ嫌らしいと思う。臥裸婦というわけのわからぬ名題によって、船底枕に友禅の掛布団、枕もとに電気スタンド、団扇、蚊やり香、しかしてあまりの暑さに臥裸婦となった光景ははなはだ生活的だから描いてみてもいいわけだが、さてこれはあまりにも日本人の伝統が第何感を刺戟せずにはおかない。あまりにもぴったりするところのものである。
ところでソファーとか寝台は部屋の装飾であり、人に見せて多少自慢とする傾向あるものである。そこでソファーの上の人体、寝台上の臥裸婦は日本の閨房程の感じを現さないですむところに、背景としての使用に適当しているという点がある。現れていいものが現れているのだから当然であるが、日本の枕は隠しておくべきものが現れるのだからはなはだ恐縮である。
現れたる水泳着の足をさっぱりと観賞し得るが、隠されたる裾からの一寸の白い足は驚くべきものを放射する。
とにかく私なども私自身が洋室に起臥している関係から、裸女は必ず西洋的背景を使っているが、それもまた現代日本の生活であり、また画家としては画家の生活でもあるのだと私は考えている。そして要するに裸女の永久の腹と乳と尻とを描けばいいのである。
とにかく現代の生活は、日本画家にも西洋画家にも描きづらいものであるらしい。したがって風俗画はことに発達しない傾向がある。もし完全にどの日本の一角を切り取っても必ず絵になるという画家があったら、それは充分なる漫画家であらねばならぬ。あるいはブルジョアがタイピストを膝に乗せて往来を行く汗だくの兵隊の行列を眺めている光景を描くかも知れないところの傾向的画家であるかも知れない。私はもし技術さえ確実であるならば、傾向的作家のうちから現代日本の風俗画のいいものが生まれるかも知れないとさえ思うことがある。
底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年8月17日第1刷発行
「小出楢重全文集」五月書房
1981(昭和56)年9月10日発行
「油絵新技法」アトリヱ社
1930(昭和5)年10月20日発行
底本の親本:「油絵新技法」アトリヱ社
1930(昭和5)年10月20日発行
※オリジナルの「油絵新技法」に収録された作品を、まず「小出楢重随筆集」からとりました。(油絵新技法、挿絵の雑談、画室の閑談)
続いて、「小出楢重全文集」で不足分を補いました。(ガラス絵雑考、洋画ではなぜ裸体画をかくか、構図の話、真似、ピカソ雑感、シュール・レアリズム、眼、写生旅行、近代洋画家の生活断片、かげひなた漫談、暑中閑談)
どちらにもない、「私のガラス絵に就いて」、「大和魂の衰弱」、「因果の種」、「秋の雑感」は、「油絵新技法」に収録されたものを、「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて表記をあらため、組み入れました。
※「小出楢重随筆集」と「小出楢重全文集」に見られる疑問点への対処に当たっては、「油絵新技法」を参照しました。ただし「人間の腹のただ一点である処の臍[#「臍」は底本では「腸」]」は「小出楢重全文集」に拠りました。
入力:小林繁雄
校正:米田進
2002年12月17日作成
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