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すかんぽ
木下杢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)須之《すし》
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(例)到底|釀《かも》し出されぬ
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(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「くさかんむり+左に歹、右に食」、259中-9]蕪《そんぶ》
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字引で見ると、すかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]の和名は須之《すし》であると云ふ。東京ではすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]といふ。われわれの郷里ではととぐさ[#「ととぐさ」に傍点]と呼んだ。漢名は酸模または※[#「※」は「くさかんむり+左に歹、右に食」、259中-9]蕪《そんぶ》である。日本植物圖鑑ではすいば[#「すいば」に傍点]と云ふのが普通の名稱として認められてゐる。今はさう云ふ事が億劫《おくくふ》であるから、此植物に關する本草學《ほんざうがく》的の詮索は御免を蒙《かうむ》る。
震災前、即ち改築前の大學の庭には此草が毎年繁茂して、五月なかばには紅緑の粒を雜《まじ》へた可憐な花の穗が夕映のくさむらに目立つた。學生として僕ははやく此草の存在に注意した。其花の莖とたんぽぽ[#「たんぽぽ」に傍点]の冠毛《くわんまう》の白い硝子《ガラス》玉とを配して作つたスケッチは齋藤茂吉君の舊い歌集の※繪[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、259中-18]として用ゐられた。
此植物は僕には舊いなじみである。まだ小學校に上つて間もない時分、年上の惡少にそそのかされて、春の末、荒野《あらの》の岡に行つた。
「紙に包んでな、鹽を持つて行くのだよ。」
臺所の戸棚をあけて、鹽の壺から鹽を出して紙に包むと云ふ事が、この時ばかりはとても難澁な爲業《しわざ》であつた。そこに人の居ないのをうかがつて、またやがてそこに來る人のけはひのせぬのを確めて、臺所の押入の戸をあけるのである。
匙《さじ》が壺の縁に當つて鹽の粉が敷居の上にこぼれる。指先につまんで紙に取つてもなかなか取りきれない。人の足音がし、急いで懷に入れた紙の袋から懷の中に鹽がこぼれたらしい。
「お前何をしてゐる。」
母だつたので安心した。何も返事をしなかつた。萬が一の爲めに辯解の用意はしてあつた。水が飮みたくなつたからコップを出さうと思つて鹽の壺をたふしたと云ふのである。然し其戸棚はコップのしまつてある戸棚ではなかつた。下男と女中とが話をしながら臺所の庭にはひつて來た。
「おはつ、正吉が鹽をこぼした。片付けてやんなさい。」
下男は、假にここに正吉と呼ぶことにした僕の顏を見て笑つた。僕の企《くはだて》を推量したのであらうと思つた。此下男は一昨年、僕が始めて東京に往つたとき、僕をおぶつて山越をした男である。峠の山ばたで「すいは」といふ灌木の葉を取つて僕に食はしたことがあつた。その「すいは」と云ふのはここに云ふすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]ではない。はつきりとは覺えてゐないが、どうだんつつじ[#「どうだんつつじ」に傍点]のやうな小さい葉であつたと思ふ。
臺所の煤《すす》でてらてらと黒光のする大きな戸の表には、赤と黒との字の刷られた柱暦が貼つてあつた。
さうして外へ出て、兼ねて打合はせて置いた場處で惡少と會ひ、一緒に低い岡に登つて行つたのである。道端には小さな川が流れてゐるが、水が甚だ好く澄んでゐる。今はもうさう云ふものが無くなつた。だが二十前年頃[底本ママ]までは、誰が植ゑたのか、ひとりでに生えたのか、葉の長い石菖《せきしやう》が繁茂してゐた。子供たちは無論、村の人も其名をば知らず、「めはじき」と子供は呼んでゐた。その花の穗を採つて屈《かが》めて、上下の眼瞼《まぶた》に張り赤目をする遊戲があつた。「めはじき」の名は多分それから出たのであらう。別に本當のめはじき[#「めはじき」に傍点]と云ふ草の有ることは後年に至つて之を知つた。
このきれいな小川を見ると、「水番水を頂戴」と云ふ言葉が必然に思ひ出されるのであつた。母の話に、母がまだ少《わか》く、この道の上の禪宗のお寺の寺子屋に通つてゐた頃には、手習の水番と云ふものがあつて、この川まで水を汲みに下りたと云ふ。水番と云ふ制度は、われわれが小學校へ入る少し前までは、小學校にも殘つてゐた。
菫《すみれ》と云ふ花をも此川の縁で覺えた。寺にお會式《ゑしき》の有つた春の夕、祖母と此坂路を降つて來ると、祖母が、「ああここにはこんなに菫が咲いてゐる。それが菫といふ花だよ」と云つて教へてくれた。花に嗜好を持つてゐたのではなかつたが、此紫色の小さい可憐な草花をばかくて夙《はや》くから覺えたのである。
後年、ひめりんだう[#「ひめりんだう」に傍点]とほととぎす[#「ほととぎす」に傍点]とを見付けたのも此路の傍であつた。ほととぎす[#「ほととぎす」に傍点]はその花瓣の斑《ふ》が普通のものとは異つてゐた。いづれも唯一株だけ生えてをり、その附近には同じ花を見なかつた。水の溜つた田のわきにはおほばたねつけばな[#「おほばたねつけばな」に傍点]の[#底本では誤って「の」にも傍点]聚落《しゆうらく》が有つた。おらんだせり[#「おらんだせり」に傍点]に似るこの十字花科植物の一種の風味有つて食ふに堪ふることは、今年始めて之を知つたのである。
さて、前に話した鹽はこれからいり用になるのである。この川に添うて、またかのすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]が簇生《ぞくせい》して居り、幼年の者しばしばそれを嗜《たしな》むのである。花の莖の太く短く、青女《あををんな》の前膊《ぜんぱく》の如き感じを與へるのが最も佳味であつた。その折れ口に鹽をつけて食ふと、一種の酸味と新鮮のにほひとが有る。柄の太い嫩葉《どんえふ》は鹽を振りまぜて兩掌の間に摩《も》んで食ふのである。緑色に染まつた手をば川の水で洗ふ。いたどり[#「いたどり」に傍点]もこの川の縁に生えてゐたがアスパラガスのやうに太く軟い莖は、もつと山深くはひらないでは見出されない。
かかる因縁の有るすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]だから學校の庭にそれを見付けると、ああこんな處にも生えてゐると思つて、なつかしく感じたわけであつた。そして試みに其一莖を取つて口に入れて見ると、唯酸いばかりでたいしてうまいとも思はなかつた。子供の時とおとなになつてからとは味感も變つて來るものかなと其時は考へた。
話はまた小學校時代に戻るが、やはり春の終りの頃、山※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、260下-3]りをする父に從つて山澤の杉、新墾の傾斜地の檢分に往つたことが有る。家からは下男も一緒であり、途中からは、山の番を頼んである「宗さん」といふ人が加つた。杉の樹の檢分と云ふやうな爲事《しごと》はちつとも面白くなく、退屈し切つたが、その時、澤のきれいな水のほとりで喫した中食の事をば、いまでも朦朧と囘想することが出來る。
竹の皮を擴げるとま白い米の三角の握飯が三個現はれて來る。其一面にはつぶさない味噌が塗つてあり、その一部分が黒く焦げてゐる。わきにうす赤い肉の鹽鮭の切身と竹の子の煮たのとが添へてある。
「はれ、お前の辨當には箸がついてゐないな。」
さう云つて父は立ち上り、近くの若葉をつけた灌木から、素直にますぐに伸びた一枝を切り取り、丹念に其皮を剥がし、先端を尖らしてくれた。「さあ、これで食べなさい。」
當時は寄生蟲の害などと云ふ事をまだ世間の人が注意しなかつたので、山※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、260下-22]りの人は皆この清冽な澤の水でもつて辨當を使つたのである。父と僕とは茶のみ茶碗に盛つて飮み、他の人は手ですくつて飮んだ。新しく作つた箸は生々とした晩春の臭ひをただよはした。
これ以上くはしくは其時の光景や人の爲業《しわざ》を思ひ出すことは出來ない。これだけの事を思ひ出すのも、これから話すすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]からの聯想ゆゑである。
「お前あれを知つてゐるか。[#底本では句点が抜けている]」と父が云つて指さした。
水の流の一方にさはさはと、其すかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]の一群が繁茂してゐたのである。それから高まる莖は太く、みづみづしく、いかにも軟かさうである。折つたらぽかりと音を立てて挫《くじ》けさうである。
「あれは食べられるよ、知つてゐるか。」と父が再び問うた。
言下に「さうかね、たべられるのかね」と僕が答へた。そして、その積りでもなかつたが下男の顏を見た。下男の顏は僕に取つて堪へられない表情が浮んでゐるやうに邪推した。
「一本取つてたべて見な。澤山食ふと毒だが、一本位構はなからう。食べたことが無けりや一つ食べて見な。」
そして父は數莖を取つて一座の中央に置いた。鹽がなかつたから、握飯の味噌の一ひらを取つて附けて食べた。
すかんぽに關する第二の話は正味これだけである。もはや其時からはあまりに長い歳月が經過してゐる。青年時代にはまだ樂しい囘想であつた此時の光景が、今では唯一兩百語で話し盡される事柄以外では無くなつてしまつた。
中學から高等學校、それから大學と、われわれの仲間には繪事や文學を好むものが少からず居た。時世が時世であつたから、大學生の時代には學外の新詩社、方寸社等の人々とも其道でのつき合ひをした。しやれて云へば、文酒の會といふべき事も時折り行はれた。「屋上庭園」といふ三號雜誌を刊行したのもその頃の事である。
大學を卒業した。さうすると專門の學問と日々の業務とが待つてゐた。更に一二年すると同好同學の伴侶にも都門を去つて遠く任に赴《おもむ》く人さへも出來て來た。會者定離《ゑしやぢやうり》の悲が葉櫻の頃には心を動かした。
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「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃顏合せねば、知らぬ昔とかはりなきはかなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの眺め。※[#「※」は「あなかんむり+「聰」のつくり」、第3水準1-89-54、261中-16]《まど》の外の入日雲。」
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さう云ふ述懷を作つたことがある。後に山田耕筰君が作曲してくれ、ラヂオでも時々唱はれた。もはや其時の感傷もなく、他人事《ひとごと》のやうに知らぬ人の歌ひ彈ずるを聽聞《ちやうもん》した。
殊にひそかに此歌を獻じた一友とは、大正末年以後唯二囘遭遇しただけである。一生のうちにも一度會へるかどうか疑はしい。會つたところで、往事、黒田清輝先生の處からその「小督《こがう》」のデッサンを借りて來て互に感奮して話し合つたやうな氣分は到底|釀《かも》し出されぬのであらう。
所がすかんぽの話に後日譚が湧出した。それがまたこの藥袋《やくたい》も無い雜文を書く機縁にもなつたのである。
僕は滿洲時代以後植物の醋葉《すいば》を作る道樂を覺えた。然し決して熱心な蒐集家ではなかつた。唯往年支那を旅行して集めたものは、當時理科大學に勤務してゐた大沼宏平さんと云ふ老人に鑑定して貰つた。この人は學者ではなかつたが、アメリカのヰルソンなどと云ふ人が、日本の植物を採集に來た時も案内者に選ばれたほどで、日本の植物の名をば好く知つてゐた。支那産のものは屬名は分つても大半は、直ぐと種名は判じ難かつた。「支那南北記」や「大同石佛寺」のうちに植物の事を顧慮することの出來たのは、洵《まこと》に是人のお蔭である。
東京に出てからは、朝比奈泰彦教授の引合せで久内清孝君を識ることが出來、僕の植物採集は始めてまちやうになりかけ、學生を使嗾《しそう》して一緒に採集に出かけたりしたが、一つは年齡のゆゑ、後には時勢のゆゑで、折角の樂しみは成育を礙碍《がいがい》せられた。
昨年以來はこの乏しい知識に、時節柄、實用性を與へようと思ひ、食べられる野草の實驗に指を染めて見た。もう救荒本草《きうくわうほんざう》※[#「※」は「類」の「大」が「犬」、第3水準1-94-4、261下-26]の圖書を蒐《あつ》める便宜もなくなり、專ら親試《しんし》に頼るのみである。そして既に五十幾種かの自然生の葉莖を食べ試みた。少し煩瑣《はんさ》に亙《わた》るが、その名を、思ひついた順序に書き附けて見よう。
ハコベ。ウシハコベ。タンポポ(葉と根と)。オニタビラコ(葉)。春如※[#「※」は「くさかんむり+宛」、第3水準1-90-92、262上-3]。タチツボスミレ。枸杞《くこ》(葉)。イロハカヘデ(葉)。山吹の新芽。藤の芽と蕾。榎《えのき》の新芽。ギバウシユ。ナヅナ。ヤブカンザウ(新芽)。ツハブキ(莖)。雪の下の嫩葉。ミミナグサ。スズメノヱンドウ。ヒルガホの嫩葉。ツクシ。アカザ(嫩葉及び果實)。カタバミ。ネズミモチの實(炒《い》り粉にしてコオヒイの代用)。ヨメナの新芽。椋《むく》の新芽。桑の新芽。柿の新芽。オホバコ。イヌガラシ。オホバタネツケバナ(水上の葉)。ヰノコヅチの新芽。トトキ(ツリガネニンジン)。スズメノヤリ。イヌビエ。ユヅリハの新芽。ジヤガタラ薯の新芽。ハマビシヤ(ツルナ)。ツユクサの嫩葉。スベリヒユ。クサギの嫩葉。スミレ。ツボスミレ。カラスノヱンドウの莢《さや》等。
ここは其の處でないから其調理法や風味の事はあげつらはない。唯優秀と思はれる數種についてのみ、少しく説明する所があらう。
トトキ、ヤブカンザウ、ギバウシユ、ヨメナ、雪の下、オホバタネツケバナなどは雜草と云つても、昔から風流の意味で人が嗜《たしな》み、世間の評價も既に定まつてゐる。ヤブカンザウの新芽、オホバタネツケバナなどは栽培の野菜に劣らざる味を有してゐる。
ツユクサの新芽は今年始めて試みたが、大に推奬するに足りるものである。佳品としてはアカザの實のつくだ煮を擧げたい。紫蘇《しそ》の實、唐辛《たうがらし》の實を少し雜ぜて之を作ると、朝々の好菜となる。次にはタチツボスミレの天ぷらである。粘液質で、齒當りが甚だ好い。太いタンポポの根もいろいろと使ひ道の有るものである。
可食野菜の事は先づこれぐらゐにして置かう。相當に念を入れて食べ試みたから話すことはまだ澤山有るが、たいして詩的のものではなく、同好の人と談ずべく、世間に吹聽《ふいちやう》するまでの氣にならない。また吹聽するにはもつと十分の用意がいる。量と質とに於て、實際長期に亙る補助食物としての資格が有るか。榮養價は果して幾何《いくばく》。いまだ檢出せられざる微量の毒物を、含有してはゐないか。是等の問題はまだ詳しくは研究せられてゐず、僕としてさういふ研究に入りこむ餘裕を持つてゐるわけではないのである。
それで最後に殘つたすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]の話へと急ぐ。別にこれと云ふほどの事の有るのではなく、唯幾十年ぶりかにそれを食べて見て、「白頭江を渉《わた》つて故郷を尋」ぬる人の如き一種の感興を得たと云ふに止るのである。
大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかつた。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小徑のわきの地面に其|聚落《しゆうらく》の有ることをふと見付けたのである。花莖はいまだ甚だ伸びず、なほ能《よ》く水分を藏し葉柄《えふへい》もかなり太かつた。數日後の夕、寄道してその少許《せうきよ》を採取し、クロオルカルキとか云ふもののうちに漬くること一日、之を短く切つて、まだ廚房に少し殘つてゐた油と鹽とを點じて食べ試みた。そしてその酸き味のあとに舌に觸れる一種の※[#「※」は「くさかんむり+郷の中を皀に換えたもの(郷の旧字)」、第3水準1-91-29、262下-3]澤《きやうたく》に邂逅して、忽然として疇昔《ちうせき》の情を囘想したのである。
すかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]の話は之を以て終る。一箇月以來胃腸に疾《しつ》を得、可食の雜草からは遠ざかつてゐる。
(乙酉《きのととり》六月上浣)[#地より1字上げ]
(昭和二十年七・八月)[#地より1字上げ]
底本:「現代日本文學全集」筑摩書房
1968(昭和43)年4月5日初版発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年1月24日公開
2001年1月30日修正
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