青空文庫アーカイブ

海郷風物記
木下杢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕭《しめや》か

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)其他|天草《あまくさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+方」、第3水準1-14-10]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 夕暮れがた汽船が小さな港に着く。
 點燈後程經た頃であるからして、船も人も周圍の自然も極めて蕭《しめや》かである。その間に通ふ靜かな物音を聞いてゐると、かの少年時の薄玻璃《うすはり》の如くあえかなる情操の再び歸り來るのではないかと疑ふ。
 艀舟《はしけ》から本船に荷物を積み入るる人々の掛聲は殊に興が深い。
「やつとこ、さいやの、どつこいさあ。」
「やれこら、さよな――。」
 と、その「さよな」といふ所から、揃つた聲の調子が急に下つて行くのを聞くのは、眞に悲哀の極みである。諸ろの日本俗謠の暗潮をなす所の一種の哀調が、亦此裡に聞き出されるからである。
 強ひて形容すれば、銅青石《アヅリツト》の溶けてなせるが如き冷き冬の夜の空氣の内に――その空氣は漁村の點々たる燈火をもにじませ、將た船の鐘の徒らに風に驚く響にさへ朗かなる金屬の音を含ませる程にも濃いのであるが――そのうちに、かの「やれこらさよな、やこらさのおさあ。」を聞かされるのであるから。
 それからまた船が出て行くのである。人と自然との靜かなる生活の間を、黒い大きな船が悠然として悲しき汽笛を後に殘して航行を始める。
 そのあとに、まだ耳鳴りのやうに殘つて居る謠《うた》の聲や人のさけびは、正に古酒「LEGENDE」の香ひにも、較ぶれは較ぶべきものであらう。(明治四十三年十二月二十九日伊豆伊東に於て)

 海濱に於ける人間の生活とそこの自然との交渉ほど、予等の興味を引く自然觀相の對象は蓋し鮮い。鹿兒島は久しく他郷と交通を謝絶して居たから其風物は甚だ珍らしいさうであるが、予は未だ漫遊の機を得ない。其他|天草《あまくさ》、島原等の九州の諸港でも、紀州沿岸の江浦でも、近く房州、伊豆等に於ても、天候や地勢や生業等の諸條件を稍等しくして居るものの間には、亦必ず共通な人間生活及び其表現を見出し得るのである。ゲエテが古い伊太利亞紀行を讀んでも、殊に其エネチア、ナポリ、シシリヤ等の諸篇は同樣の興味からして予等の膝を打たしめるのである。
 温和なる氣侯が彼等を怠惰にする。荒海の力と音とに對する爭が彼等の筋肉を強大にし、其音聲を太く、語調を暴くする。それにも拘らず、常に遠く人里から離れて居る彼等の生活が夫婦間の愛情を濃かにする。誰かあの岩疊の體格、獰猛な顏容の裡に此種の sentimentalisme を豫期しよう。が、同時に、海濱に於ける作業に必然要求せらるる共同生活が、仕事の責任者を無くすと同時に仲間同志の思遣りを深くすると云ふ事は確かである。年寄つた漁夫は小さい子供等を始終叱責して居るけれども、其粗暴な言葉の裏にはきつと快活な諧謔を潜ませて置くのである。この共同生活が實際また、かの渡り鳥や旅行者の心安さのやうに、生活と云ふものを如何にも愉快さうなものにして居る。そして又青い――青い彼方から雲のやうに湧いて來る他郷の船舶、新しい貨物、知らない人々や、その方言乃至珍らしい物語や時花歌《はやりうた》を迎へるのに慣れて居ると云ふ事が、彼等の心を非常に romantique にし、且容易に妄誕を信ぜしむるに至る。そこで「海坊主」「船幽靈」の話が生れる。また荒れた日に水平線に立つ水柱を「龍」といふ奇怪な生物の力に歸せねば止まぬのである。將又この羅曼底《ロマンチツク》が實生活にも働くのである。で彼等は祭典を華美にする。其儀式を莊嚴にする。例へば、偶然海岸に漂着した櫛をも――それが橘姫の遺愛の櫛だなどとして――神社に祀る。神主はしかつめらしくそれに和田津海の神社と云ふ名を命ずる。案内記を書く人は古老の傳説を事可笑しく誇張して、櫛漂着一件の考證をする。けれども無學の漁夫や其息子たちはそんな事は知らないから、此神社を龍宮さんと呼び※[#「にんべん+方」、第3水準1-14-10]はせる。それも音を訛つて「りゆうごんさん」にしてしまふのである。然しまたそれからして、反つてこの神社の正體が橘姫の櫛でも、浦島の玉手箱でもなく、「海」だ――限も知らぬ海だ――彼等素朴なる漁夫に(人間の心の約束上、自然)さう解釋せられて、形象を賦せられたる所の海の精靈だと云ふ事を暴露するに至るのである。そんな事は奈何でも可い。もうかの捕捉し難き海の精靈も、ソロモンの壺のやうなこの小さい祠の中に藏められれば、既に彼等の實際生活の役に立たねばならぬ。新しい船の新造下《しんぞおろ》しの時には、港頭を漕いで見せびらかす爲めの口實に、拜み祭られるといふ半間な役をするのである。實は、そのあとで酒を飮む爲めに、日頃素振の氣に食わぬ若い娘を海に入れる爲めに――其前の因縁《いはれ》ありげな儀式として彼等はこれらの海神の祠を拜するに過ぎないのだ。この新造下しの儀式は今は廢つた。海に入れられて水でびしよびしよに濡れた若い娘たちの痛ましい笑顔は、儀式といふ崇高な藝術的活動の裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつたに相違ない。而して又一方には此種の羅曼底と結合して、變り易き天候に支配せらるる其日其日の生活が著しく彼等を現世的にし、而して冬も尚鮮かなる雜木山の代赭、海の緑、橘の實の黄色――是等の自然の色彩が彼等の心、服裝、實用的工藝品にけばけばしい原始的の grotesque を賦與する。――誰でも海郷に來てあの「萬祝《まいはひ》」と云ふ着物、船の裝飾などを見たならば直ぐに同じ感想を懷くに相違ない。
 今日の午過ぎ、またぶらぶらと海岸を漫歩したのである。すると正月の事であるからして、船は何れも陸に揚げてあつて、胴の間には竹、松、橙を飾り、艫には幟を立ててある。小さい船のは、白か赤かの布である。少し高い所から見ると、殊に赤い旗は、土耳古玉のやうに眞青な海面の前に、強くにゆつと[#「にゆつと」に傍点]浮び出て、いかにも鮮かである。自然といふ印象派畫工《アンプレツシヨニス卜》の目もさむるやうな此筆觸の手際には實際感心せしめられるのである。またやや大きな船になると、幟の意匠も亦複雜になる。或ひは長方形の眞岡の布の上端に、横に藍の條を引く。その下に、それに并べて赤の條を引く。次には黒の紋所である。太い圓の輪を染める。輪の中に蔦を入れる。而して布の下端は水淺黄の波模樣である。或は黒の條、赤の條、丸に澤瀉の紋、その下の波の模樣に簑龜を斑らに染め拔いたのもある。或は波の代りに、斜めに引かれたる赤條で旗の下端を三角に仕切り、そこを黒く染めて白の井桁を拔いたのもある。紋は上り藤で中に大の字がはひる。紋と赤條との中に横に「正徳丸」と染め出される。一體船の名も、漁夫の狹い聯想作用に制限せられるので、また土地の關係、日常の簡單な精神生活を暗示する處が面白い。「不動丸」「天神丸」「妙法丸」などは日頃信心する神佛に因縁《ゆかり》のある名である。「青峰丸」「清通丸」に至つては唯彼等の語彙の貧しい事を示すに止る。而して彼等の色彩に對する要求は之を以つて滿足せずに、汽船宿の搏風を赤く塗り、和洋折衷の鰹船の舷を群青で飾るのである。
 東京では冬は、市街は澁い銀鼠と白茶の配調《アランジマン》が色彩の主調である。縱令《よし》天保の法度が出なかつたとした所で、よしまたその爲めに表《おもて》を質素にし裏を贅澤にすると云ふ樣な傾向にならなかつたとした所で、派手な冬の衣裳は周圍と調和せぬのである。故に一頃流行つた小豆色、活色《かついろ》の羽織は、動物園の中の暗い水族館の金魚を思ひ出させたのである。江戸が澁い趣味を東京に殘したのも故ある事だ。またゲエテはナポリ人《びと》が馬車を赤くし、馬首に旗を飾り、色斑らな帽子を被るのは趣味の野蠻なのではなくて、明るい周圍の爲めだと云つてゐる。同じ意味でこの土地に青い船が出來、あの「萬祝」の着物が出來るのである。
 自然でさへも輕佻である。一日の内に海や空が幾度色を變へるか知れはしない。遠く、水平線上に相模の大山の一帶が浮んで居る。予の見たのは夕方であつた。緑の水の上の、入日を受けた大山の影繪《シルエツト》は眞に一個の乾闥婆城《フアタア・モルガアナ》であつた。その赤と云つても單調の赤ではない。燈火に照らされた鮮かな自然銅鑛の赤である。而してその日かげの紫は、正に濁つた螢石《フリウオリイン》の紫である。其間にも殊に光つた岬影の一部は、あかあかと熱せられたる電氣暖爐の銅板より外に比較の出來ない光澤に閃めいて居た。遠く、こなたの渚からその不思議な陸影を眺めて居ると、いつか心は亞刺比亞奇話のあやしい情調の國へ引き入れられるやうに思はれる。
[#ここから2字下げ]
「濱の眞砂に文かけば
また波が來て消しゆきぬ。
あはれはるばる我《わが》おもひ
遠き岬に入日《いりひ》する」
[#ここで字下げ終わり]
 一條の微かなる浪の高まりがあるかなきかのやうに、その銅城のほとりから離れて來て、段々と色は濃く、形は明かになつて――人に擬して云ふならば、或諧謔を思ひついた人が、遠くから話相手と目指す人に笑ひながら近《ちかづ》くやうに――この波の高まりも段々と渚に近寄り、遂に笑の破裂するやうに、「ざ、ざ、ざ、ざ、ざ……」とさわがしく黒く囁やき、かくて沸騰せる波頭《なみがしら》は「ざつくろん――」と長く引いて碎ける。青い水の築牆は全く白い音の泡となつてしまふのである。それから水は、磨かれた蛇紋石の樣な滑かな渚をすべり、「ざざああ――るろ、るろ、るろ――」といふやうな優しい、然し彈性の抵抗ある音と言葉とを立てながら、さうしてまた靜かに「すら、すら、すら……」と引いて行くのである。もうその時は第二の波が高まつて、既に波頭が散り初めた時であつた。――かうして波は厭かず、やさしいいたづらを續ける。で、その引いてゆく波の一すぢ、泡の一つ一つにまで、折しも西山に近いたる夕日の影が斜めに當つて、かくてシヤボン玉《だま》の色のやうな美しい夢の模樣を現はすのである。
 かくの如き波の主なる運動の間に、また長い小説の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《エピソオド》に比す可き小さい葛藤がある。殊に渚を引く波の歸るもの、ゆくものの間に、かの蟻の挨拶のやうな表情、輕ろき優しきさんざめきがあるのである。
 靜かに心を靜めて、この波のなす曲節を聞いて居ると、かの漁夫の集會の時に歌ふ「船唄《ふなうた》」の調子を思ひ出さずには居られなかつた。彼がこれを生んだと云つては餘りに牽強ではある。然し海や波、その心持がこの唄の曲節と深い關係のないと云ふ事は全く考へられない。その唄のゆるやかに流れてゆく時、突然音頭を取る人の高い轉向《モヂユラシオン》に驚かされる事がある。それは突然大きい波が碎けた時の心持によく似て居る。またその唄の下に高い問答のやうな調子が長く續く所のあるのは、濱邊の聲高の生活が靜かな夕波の曲節を崩すのによく似て居るのである。
 この時も、予は亦突然|艀舟《はしけ》を陸《をか》にあげる人々の叫聲に驚かされた。船の陰で姿は見えないけれども、其聲からして、如何に人々が船を背負ふやうに腰をかがめて居るか、如何に綱を引いて居るかが想像せられた。「よう、よう、よう、よいや、よう、よう、……」といふ懸聲が 〔cadence'〕 に聞えるのである。
 ――その間に、僅か三十分許りしか經たぬのに、もう空も海も全く更衣《ころもがへ》をしてしまつた。自然銅のやうな赤も消えて、一面に日を受けた菫の花の青色でぎざぎざと大山一帶の 〔modele'〕 が平面的に現出した。殊に空は、それも水平線に近き所は、ちやうど試驗管の底に澱むヨオドの如く、重い鬱憂《メランコリツク》な紫に淀んでしまつたのであつた。
 その時に、一つの汽船の陰がかすかなる陸影の裾に現はれた。
 ――ぶらぶらと川口に出たら、ごみを燒いたあとに、こんもりと灰が積んであつた。阿夫利神社神璽の印をおした紙、南無普賢大荒神守、火不能燒、水不能漂、とかいた護符などが散らばつて居た。是等は海濱に棲む、「心」を持つた自然が作りだす所の一種の分泌物である。
 恰も遠き汽船に第一の汽笛を鳴らしたのである。
[#地から2字上げ](正月二日)

 今日は午後偶然に、例の萬祝《まいはひ》を著た人々のぞろぞろと街頭を通り過ぐるのに遭遇した。この二十人ばかりの人の中には子供も大分雜じつて居た。おとなの人々は、多くはその上に黒い紋付を羽織つて居たが、兔に角、七子か羽二重の紋付の裾から紅緑の彩色の高砂の尉姥、三番叟、龜に乘る人、「大漁」の扇を持つ人、また龍宮、寶船、七福神などの模樣の出て居る所は、また南國の海邊に似付かはしい「眞面目《まじめ》」の服裝であると頷かしめる。
 是等の老少不同の雜然たる人の群がこの一樣の服裝で統一されてゐると云ふ 〔paralle'lisme〕 はちやうど若沖の群鷄圖と同じ意味で著しく視官に媚びるけれども、同時に人をして彼等を diminutif に觀察せしむるに至るのである。それ故いよいよ藝術的である。
 遠くには海の青が見え、四周には冬の田圃、村里の傳説を有する山と森、生活しつつある市街の半面がある。そして街道の兩側には川、芝居小屋、料理屋、果物屋がある。その中を歩いてゆくこの二三十人の人の群を想像して見たまへ。
 殊に子供の腰揚げが深く、辨財天、毘沙門天、布袋、福祿壽の腰から下が青縞《めく》の地にかくれて、裾と足とだけが見えるのは興が深い。
 夜は水上の、燈あかるき船から船唄が聞えてきた。若し他郷の人の、此聲に慣れないものが聞いたならば、恐らくあれが人の聲の集りであるとは信じまい。實際それ程よく海の波の響に似かようて居るのである。
 二日の朝乘り初めと云つて、夜の暗いのに船を沖に出して、釣絲を繋がぬ竿で鰹を釣るまねをするさうである。その話は幾年も幾年も聞いたから、もとはさうしたのであらう。近頃は唯だ陸の船の上で節《せち》を祝ふに過ぎない。(正月三日[#「三日」は底本では「四日」])

 正月四日は坊さまの年頭廻りの日である。漁夫《れふし》の萬祝《まいはひ》とは違つたにぎやかな服裝が街《まち》のあちこちで見られた。
 始終動いて居て、而かも永久に不變なる大蒼海を後景として、金襴の法衣の僧侶の群を見るのは非常に愉快である。更らに兩者の間に町の歴史を結び付けて考へると、一味の――長篇小説の最終の頁を忍ばせる趣が出る。
 無知なりし昔の時代は幸福であつた。科學的知識を以つて教義を議し、阿頼耶識《あらやしき》を檢めようとするやうな時代は既に末世の事である。加持力《カトリツク》の儀典、行列から離れて、授戒會の儀式を離れて、而かも尚蒸々たる衆生は、神人を忘るる底の莊嚴なる醉《ゑひ》を、そも何れの經典から搜し出さうとする。
 日の暮れしがた、川に臨んだ浴室で晩鐘の聲を聞いた。官能の快感と冥想の甘味とが薄明と温泉の湯氣とを充たせる小さい室の中に溶けて行くのである。(正月四日)

 夕方二階の欄干《らんかん》から海を見下ろして居ると、海岸に連つた家々の屋根の上を汽船の檣だけが通つて居る所であつた。家が途切れた時大きい船の腹が見えたが、ちやうど強い夕日に照り付けられたのであるから、黒のペンキは怪しい褐色に光り、殊に赤い窓の扉はきらきらと事々しく輝いて居た。甲板上の船客も亦一々分明に見わけられたが、知らぬ人の旅ながら、出て行くものを見送るのは何となく心さびしい。少時《しばらく》の間に船は遠くなるのである。さうすると、とろりとろりと最後の笛を鳴らす。水平に近《ちかづ》く頃には、ちやうど八月の青草の中に一つ開いた落花生の花のやうな黄ろい燈をともしたのである。
 千七百八十七年三月二日ナポリにてとある日附のゲエテが伊太利亞紀行の中にも同じ心持が書いてある。「海及び船舶も此地に於ては亦全く別種の面目を呈して居る。」といふ當り前の書き出しから、前日強い北風《トラモンタアネ》に送られてパレルモに向けて航行したる弗列戛艇《フレガツテエ》の事を報じ、「かの風なれば今度の航海には三十六時間以上はかからないだらう」と推察を下したりなどして居る。「かの艦の滿々と風を孕んだ帆がカプリとミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]の岬との間を走り、遂に何方ともなく姿をかくしたのを見送つた時、予の心は限りもなき憧憬の念に滿された。若しも自分の戀人がああして遠く去つてゆくのを見たならば、きつと人はこがれ死《じに》に死んでしまふに相違ない。」と書いてある。今も昔も人の心に變りはないと思はれる。
 予が窓下に、昔讀んだ事があるといふ記憶を唯一のたよりに、かの紀行の内からやうやうこの頁を搜しあてた頃には、既に海は暗く、向《さ》きの船影は既に見る可からざるに至つた。旅行記の面白さは、例へば陸游が入蜀記の土地の景物を舒し舊址を弔ふ文などの末に、晩に大風となり船人纜を増すとか、夜|雨《あめふ》るとか、蚊が多くて、始めて復た※[#「巾+廚」、第4水準2-12-1]を設けたとかいふ短い言葉で、唯時の關係より外には全く聯絡のない事を書いてあるので、却つて躍然と旅中の趣が目前に彷彿たるに至ると同じく、ゲエテの上記の感傷的な記述の直ぐ次の行には、今は巽風《シロツコ》が出たから、是れが強くなつたらモロの邊の波は一入興深い事だらうなどと書いてあるから、如何にもこの詩人の多情な性格と南歐の風物とがよく見えるのである。
 閑話休題《あだしごとはさておき》、松浦佐用姫、鬼界が島の俊寛などの物語にも同じ心持がはひつて居るが、行くと來るとの別れこそあれ、「沖の暗いのに白帆が見える。」の歌は俗謠の絶唱であると思ふ。それに比べると「蒸氣や出てゆく、煙は殘る」の歌は少し下品だ。が、然し尚ほ生活と歌謠との間に密接なる關係のある事は近頃の唱歌に優る事萬々である。(一月五日夜)

 やや大きい額の中央に、ほんの形を現はすと云ふまでに鰹船の畫がかいてある。木の板の上へ、漆喰に混ぜた繪の具で厚くでこでこと盛り上げられて居る。船には二三十人の木偶《でく》の坊が紺色の繪の具で並列せしめられた。そしてそれらの人の中から十幾本かの釣竿が立つて居るのである。それが不器用な垂直線になつて並立してゐるが、その一つ一つの釣絲の先きに鰹がくつついて居る。船の舳の所に二つの白い鳥が浮いて居る。一群の鴎は、聲をも想像させる位に船の後ろに飛び亂れて居る。水平線は高い。そこには岩石から成る島があつて、島影から朝日が出懸けて居る所である。額の上部には大きく「奉納」と書いてある。明治四十一年寅季秋の奉獻に係るのである。
 同じ構圖のがも一枚ある。それに小さい島の代りに水平線に盛に噴煙しつつある大島が畫かれて居た。で船の下の波の中には、何れも釣竿の先を目がけて集れる數十の鰹が浮いてゐるのである。
 小さい山腹の神社の幕にも鰹の繪が染めてある。その間から日が出て居るのであるが、ちやうどそこの所が絞り上げられて居た。「海上安全」の文字と共に。
 こんな原始的な漁村の藝術は、實際自分の眼が見たので無ければ面白くない。もしその郷土の地勢を見、産業を檢べ、其歴史を知る眼が見たならば、却つて異國の大藝術を見た時よりも、もつと懷かしい、感深き印象を得るに違ひないと思ふ。
 小さい郷社を出て、隣接する寺の鐘樓の邊から眺望すると、南國の冬の海は一種の温味ある青色の表面を織り出して居る。海のあなたの岬には午前の淡い日影を受けた一部落の屋根が連つて居る。山腹の神社さえ見える。殊にそこに今日祭典があるのであるからして、幾竿かの幟が立つて居るのであるが、透明なる空氣を通して、その布の、乃至港の帆船の帆のはためきさへも耳に聞える許りによく見えるのである。正に是れ一種の「廣重情調」である。即ち視感を動かす繪畫的刺戟は直ちに海郷の傳説を聯想せしむる契點となるのである。前景としては、下つてゆく道の途中なる山門。大なる山櫻と柑子の木の群。四百年の松。及び眼下の海濱の赤き船の旗である。而して嚮に云ふ所の奉納の額は、かかる郷土を背景として鑑賞せねばならぬのである。
 土地柄、日蓮や曾我兄弟を對照とした額も少くない。これは亦違ふ方角の街區の寺で見られた。祖師堂の壁を飾る多くの額の内では船乘彌三郎の事を畫いたのが尤も興味があつた。この郷の一角を名所圖會の鳥瞰景に見たものが、額面の右の上部の大半を占め、その岬の鼻は尚左半の大部分に延びて居る。船乘彌三郎は小さい傳馬船に乘つて、今しもぱつと投網を打つた所である。途端金光は赫灼として海底の金佛から起つた。――然し繪馬の畫工は、もつと著しく土地と云ふものの概念を現はさうと欲したらしかつた。即ち海上に烟を吐く所の大島を畫きそへたのである。而してまた岬邊の一小島をも畫き漏らさなかつた。且一個の圖案としての因襲的興味を尊重する此の無名の畫工は、更に水平線上の二個の帆影、海を昇る朝暉の赤き後光を添加するを以つて、多くの效果を收むるものと考へたに相違ない。
 つまらない冥想を樂しんだあとで予等は寺の坂を下つた。それから小學校の庭でする消防出初式の稽古を見、冬の日の田圃の心持よい暖色を樂しみながら、午少し前の比《ころほ》ひ、かの祭典の催のある街區に入つたのである。
 海郷の祭典が如何に愉快なる諧調を四圍の自然とそこの住民との間に造り出したかに就いては更に筆を新にして報告せねばならぬ。予は今は勞れて居る。これから一つ湯にはひらうと思ふ。
 今日もさうであつたが、をととひの晝間は春のやうな風が此町を音づれた。庭の葡萄の枯葉、石菖、野芹などを眺めてゐると、陽炎で目が霞んだ。それから田圃へ出たら例の稻村が淡く日を受けて居た。その下の田の土の色、畔《くろ》の草の色――是等は他の季節に見る事の出來ない親《した》しみ、懷《なつ》かしみを藏してゐる。日本の油畫ではややふるくは久米氏の稻村の畫、山本森之助氏の山麓の農家の畫、それから一昨年かの白馬會の跡見泰氏の田圃の畫の外にはかう云ふ致《おもむき》を寫したのは見ない。早く Exoticomanie が過ぎてかういふ地方色をゑがいた畫が見たい。
 これから温泉である。あの硫化水素の臭ひと温い液體の輕い壓力とは兎に角氣持がよい。人間をのらくら者にさせる丈の力は十分ある。今日、日沒の少し前、街道を歩いて温泉の一廓に出たらまた忽ちこの臭ひに襲はれたのであつた。田舍とは云ひながら、その賑かな街道に、煙草屋、下駄屋、小間物屋の間に共同の温泉場があつて、外から裸形の人影が覗かれるなどは、全く異郷の感じがする。道傍に立つ柳、石の道陸神、湯槽から出て川に流るる湯の匂ひ、冬の穩かなる日の微かなる風、また野邊の揚雲雀、藺の田に淀む脂などは正に蕪村の詩趣である。
 かう云ふ土地に生れて、今の世は知らず、昔ののんきな時代の人が怠け者か道樂者にならないと云ふ筈はないのである。さう云ふ人々の逸話も亦ここ彼方《かしこ》の家庭に殘つてゐる。その人々の多くは小高い山腹の墓の下に眠つて居る。その家は或はなくなり、或は今に殘つて、其あとの人々を住まして居る。
 Vedi Napoli e poi muori !(正月七日夕刻。)

 で、祭の事を書かう。をととし君と一緒に見たあの祭だ。予は四年目に一度あるものと思つて居たら、さうではなくて隔年にあるのであつた。そんなら君にさう言つてやるのだつたのに。今年はもう慣れて居たから大して心を動かすやうな事は無かつた。一昨年《をととし》は、君には言はないで居たが、十幾年の間と云ふもの、全く忘れて居たいろいろの物を突然見せられたのだからして、すつかり少年時の情調の中へ移されてしまつて、可笑しい事だが虚言《うそ》ではない、止めても止めても涙が出る位に感動したのだつた。
 今朝實は偶然遠來の少《わか》い親類の人を案内して、所謂舊跡廻りをして、山の途中から幟の立つて居るのを望見して始めて此の街區に祭典のあると云ふ事を知つたのである。それから、遂に、此町の内でも尤も海に親しい一小區域に出たのである。一瞥の下に予は如何に今日の凪の好い日であるかを知つた。溶かさない群青のやうに濃い海の一端に、岸に近く、一艘の船が盛裝せられて居る。青い水面の上の赤、白、黄――旗、幕、造花等の裝飾――是等は十分予の視感を喜ばすに足るのである。況んや、それが更に海邊の住民の生活の象徴であるに於てをや。此區に近づくに從つて高く聳やぐ幟、街道を跨ぐ提灯、幣束を付けた榊、夏蜜柑の枝、蝦、しめ蠅の類が見え出して來た。祭典の繪畫的要素は忽ちに予等にお祭の情調を吹き込んだのである。
 高い、海と家とを直下に瞰《み》おろす例のお宮の石段には既に大勢押し懸けて居たのである。で予等も人の波を分けて石段を登つて行つた。例の青龍、白虎等の四神を頭に付けた鋒、錦の旗、榊の枝、其他|御酒錫《おみきすゞ》、供餅などを持つた人々が嚴肅に石段の上に並ぶ。そして何か重大なる事を期待して居るやうな顏をする。彼等は上の狹い廣場の鹿島踊の終るのを待つて居るのである。それが終へたらば直ちに動き出さうとするのである。そして坂下に集つて居る十人許りの男の子供は、皆法螺の貝の口を脣に當てて居る。また踊が終へたら鳴らさうとするのである。――此時既に予等は、海の波の諧音にも比すべき歌聲を聞いて居たのである。それは鹿島踊の人々の歌であつた。
 狹い、崖の上の廣場の石の鳥居の下で、三十人許りの烏帽子白丁の人々が踊ををどつて居るのである。人の相貌《フイジオノミイ》に對しては殊に深い興味を有する予は、直ちに是等の人々の内から面白い表情や骨骼を搜し出したのである。が、取り分けて予の心を動かしたのは、その側に立つて歌だけを唄ふ四人の謳者《うたひて》の極めて眞面目な顏であつた。
 歌の文句は善く分らない。「鎌倉の御所のお庭に椿を植ゑて、植えて育てて云々」といふのや「それ彌勒《みろく》の船の云々」といふのやの外には頓と解する事が出來なかつたが、それを音頭取つて歌ふ最端の一人は、海濱で屡見るやうな、まるで粘土で燒いた假面のやうな顏を持つた老人であつて、眼瞼縁炎《ブレフアリイチス》のしよぼしよぼした、灰白の睫毛の眼は一層その相貌をまじめにしたのである。この人は紋付の羽織を着て袴を穿かぬ。第二第三の人は揃ひの袴を着けて脇差をさして居る。比較的年はわかい。殊に第三の男は屈強な筋肉の、正に典型的の漁夫顏《れふしがほ》である。而も其の態度は異常に嚴格である。また假面的相貌に、絶大なる何物かに向つて心からの頌歌《ほめうた》を唄ふやうな極めて敬虔なる表情を刻んで居るのであつた。第四の人はまた年寄で、同じく袴をばはかなかつた。
 此四人は、或は聲を揃へて歌ふ。或は少時《しばし》息を凝して踊の人の答の歌を待つやうに默す。或は踊の人々と共に唄ふ。
 踊は左の手に幣束の柄を持ち右に扇を持つて歌ひながら踊るのである。ちよつと見た所では何《ど》う規律があるのか分らない。子供のする蓮華のはなの遊びのやうに開いたり萎んだりする。時々ごちやごちやんと圓く集つてしまつて、扇と幣束とを膝の前に寢かして、「そこ、そこ、そこ、そこやあれ、そこやれ、はいや」といふ。それで一節が終へたのである。それから復再び繰り返して踊る。
 兎に角此踊といふものは、かかる屈強なる、最早分別も出た男のするものとしては甚だ馬鹿氣たものである。それ程價値あるものとは思はれない。それにも拘らず、一人ならず二十三十の人が揃つて踊る――而かも嚴肅な顏を以て、少しも詰らないと云ふやうな風もしないで踊るのを見ると、何か知らん、觀者は非常に感傷的な悲哀又は悲壯の心持になるのである。總じて多くの人が揃つて一事を演ずるといふ場合には、そこに一種の「力」の感じを生ずるものであるが、その活動の目的が大なるものより小なるものに行くに從つて、この感じに崇高、悲壯乃至可憐の第二の心持が附いて來る。多くの僧侶が涅槃の釋尊を一齊に諦視する古畫の表には悲壯がある。單に美しい藤娘や鷹匠の踊の地《ぢ》を附ける爲めに二十人の樂人が歌を唄ひ三味線を彈くのを見るときには、人をして涙ぐましむる哀愁がある。此の鹿島踊がそれを見る人々を動かすのはその二つの孰れの作用であるかは知らないけれども、兎に角一種の力を印象せられ、而して踊そのものはつまらないものだと感じたる見物は、この力の源をこの踊――この人間活動の裏に求めて止まぬのである。――即ち踊そのものの爲ではなかつたのである。而して是れは所謂「御神體」を崇め、それを喜ばすが爲めに行はれたのだと云ふ事を發見するに至る。そこで人の注意が此御神體の上に集るのである。
 鳥居を潜つて又一つ石段を登るとそこにまた鰹の幕や、蛭子の面で飾られた拜殿があつた。榊が立ち、提灯が弔るされる。一群の人は亦此の處に於ても堂内の一物に注視して居るのである。
 即ち新しき筵を敷いた神殿の床の上には、黄ろい綸子や藍の玉蟲の綾などの直衣を着た禰宜が色斑らに並ぶ。其側には脇差をさした漁夫が禮裝して坐る。此際予の氣付いた所によるに、黒羽二重などの羽織に大きな紋のついたのは可いが、下の着物は淺黄の辨慶とか、淺黄のあらい薩摩縞のやうなのが多かつた。親讓りの絲織の晴衣と云ふやうなものは固よりあつたが、まだ新しいのに年に似合はず、派手なのがあつたのである。かかる漁夫の眼に媚びるやぼな色や縞柄の着物を、少し窮屈に着て居るのを見てさへも、何か妙な哀深い心持になつた。
 而して是等の人は、一種の莊重なる儀式を以て御神體を御輿の中に移す。「今御輿へ魂を移したぞ」といふ私語が子供等のうちに擴まる。で皆な感動したらしい顏付をする。
 神秘――昔から今に懸けて地上のあらゆる人々の求めあかした者はそれでは無いか。原子分子の假説で宇宙の規律のやや整然と説明されさうになると、人々は驚いて新なる不可思議を求める。そして新に發見した電子といふ鍵で第二の扉を開けようと努力する。宗教藝術は勿論の事であるが、一見 niladmirali に見える朴訥なる科學も亦人間の世界に神秘を餘計にしようと努力するやうに見えるのである。所で予は此魂移しの儀式に於て、あまりに手輕に神秘《ミスチツク》を求め得て、それで滿足した昔の人の寛濶を思うてほほ笑まずには居られなかつたのである。魂移しが濟むと突然鐵砲がなる。
「え、どつこい、どつこい」
「そおらああ……」
 と、ちやうど唄の應答の半であつた踊の人々は驚いて踊を休めてかたまる。坂下では子供等がけたたましく法螺の貝を吹き出す。三十人許りの壯者に擔がれた神輿は拜殿前の石段を下つて鳥居の下の廣場に出る。群集が道を開《あ》ける。赤、緑、黄色の旗がゆらゆらと動き初める。
 御輿は崖の上の狹い平地に出た。そして蹌踉《よろ》け出した。年老いたる二三の漁夫は心配さうに小走りに走つて往つて、この暴れる神體を宥めようとした。
「ぶうぢやつかん、ぢやつかん、ぢやつかん」と云ふ言葉がある。子供等の言ひなせる擬音の言葉である。ぶうといふのは法螺の貝の音である。ぢやつかん、ぢやつかんとは御輿に飾る珠や風鐸の響を模したのであらう。そのやうに今も神輿がゆれながら響いたのである。
 高い坂の上から狹い街路を下瞰して居ると、今しも坂を下つた御輿が屋根と屋根との間に現はれた所である。法螺の貝はものものしげに鳴る。而して幾度か止まり幾度か蹌踉《よろめ》いて、子供等の小さい胸を痛ましめた神輿は、突然何か思ひ付いたやうに細い道を東の方に驅つて行つた。
 山腹の石の鳥居、その下は直ぐ崖で、海に沿ふ家の屋根が見える。そこに青い海面から拔けて白の幟が立つ。而して水平線の彼方には房總の山が眠る。この光景は既になつかしい廣重の情調である。而してこの種の情調の中に、凡てを破壞する現代文明の波にも破られずに、尚能く昔の面影を止むる祭典及び其他の年中行事を殘して居ると云ふ事はめづらしい事である。實際はこの鹿島踊の如きも必しも珍らしいものでは無いかも知れぬ。香取、鹿島の兩社は遠く藤原氏の時代から勢力のあつた社で、その末社も少くはないだらう。隨つて鹿島踊、鹿島の事つげ、船唄の類もまだ全國の諸所に殘つて居るかも知れないが、然し盆踊はつい近頃まではあんなに盛であつたのが、今は殆ど全廢してしまつた。此種の祭典もやがて遠からず無くなつてしまふのだらう。だから予も冗漫を厭はずに目に見た所をそのまま書き付けようと思つたのである。
 それから予等は神輿の跡は追及しないで、後にその着く可き海岸で待つて居た。をととし見て覺えて居る所では、やはりそこに踊がもう一度あつて、それから裸體の男が三十人許りで御輿と人々とを船に乘せるのであつた。
 やがてそれも濟んだと見えて、岸に繋いであつた船が動き出した。怪しい人のどよもしが遠くから聞えて來る。船には各二本の竹竿を立て、それに燈籠と幟とを付け、數條の造花をしだらした。この二艘の主な船を中心にして、其他四五艘の小さい船がそれを取り卷く。また別に一艘、彩色を施した彫物の屋臺で飾つた、俗に「御船《おふね》」といふ船がある。それには舳の所に肩衣を付け大小を差した人が坐つてゐる。
 是等の船が動き出して、艪を漕ぐ人の姿は見えるけれども船は中々に近よらぬ。こなたの海岸には見物の群が増してはや五六百の人を數へられるやうになつた。陸に揚げてある多くの船は是等の人々によつて占領された。海岸に立つ二階屋の窓には女子供、新しき※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》――さう云ふ人達が首を出す。而して實際こんな狹い町では何處《どこ》の誰が何處に居ると云ふ事が愉快なる穿鑿の種になり、それが歸宅の後家人に告げられると、女達の夜の爐邊の話題を賑かし、それからそれへの穿鑿が更に人の家の親類縁者の事に移り、かくて話はやうやう一つ前の人一代《ジエネラシオン》に飛ぶ。そして遂に日常の話に物語の情調を添へるに至るのである。
 陸の船の上にまた二人の漁夫の子が乘つて居た。その一人は羨ましさうに他《ほか》の子の持つ二つの小さい薄荷水の罎を諦視《みつ》めて居た。遂には彼はそれを要求するに至つた。そこで小さい爭が始まる。然し結局兄と見えた一人が一本を配ち與へる事に極まつた。が、與へるその前に罎中の大半の靈液《ネクタアル》は傾け盡されたのである。此 〔e'pisode〕 も亦、待ちに待つて退屈しきつた人々には恰好な笑艸であつた。けれども一罎を貰ひ得た本人は多少の物議の末に、はや甘んじて、もう勿體なささうに罎の口を嘗め出したのである。
 船唄と鹿島歌との掛合の間に、「え、どつこい、どつこい」と云ふ refrain で金剛杖で船の板をうつ拍子が明かに聞えて來て、こなたの濱も色めき出した。即ち二人の若者は勢よく着物を脱いで女達に渡し、それから海を清む可く、藻屑を浚ふ可く冷い海水の中に飛び込んだ。そこで輕い感動が見物の間に現はれて來る。單に儀式とは見えない眞面目を以てこの二人の男は海の中を驅け廻る。祭典の遊戲的活動は愈※[#二の字点、1-2-22]まじめなものに鍍金されてしまふ。Lipps の自己投入の説では無いけれども、見物さへも自《みづか》ら海に入つた時のやうな筋肉の緊張を覺えて、隨つて、御船を待つ心は愈※[#二の字点、1-2-22]切になる。御輿の魂は六百の見物に乘り移つたのである。
 然し此場の situation の面白さは予が立つ處より、寧ろかの二階の窓から見たものの方が優れて居るだらう。明け放つた後景の窓のあなたには暗示的な青い海が見える。その方を眺めながら八九人の女子供の群が立つ。時々下の方から騷がしいざんざめきが聞える。もしその内の一人の女が、下の出來事の經過を Hofmannsthal ばりの美しい言葉で語つたら一篇の戲曲が出來るかも知れない。
 船の船唄も明かになる。それを唄ふ人の顏も讀めて來る。白い直衣の禰宜が渚に立つて遙拜する。忽ち四五十人の若者が裸體《はだか》になつて海に飛び込む。或人は神輿にかかる。他の人は一人一人鹿島踊の人を背に乘せて渚に運んでやる。それを肩に取る樣も異樣で、いきなり、ぐつと胸倉を掴んでかつぐ。すると背の人は枚を喞んで、幣束樂器の類を持つた左の手を前に突き出してよいよいと叫ぶ。暫時はよい、よい、そりや、と叫ぶ聲で渚がふさがる。小さい法螺の貝を持つ兒童までが同じ型をする。榊を外す、それを受取る。海の波に色々の彩文がうつる。既に渚に上つた子供は法蝶の貝を吹く。――それらの事が濟むと復踊が始まるのである。
 船唄及び鹿島踊の事に關しては予は何の知識をも持つて居ない。二三の人にも尋ねて見たが分らなかつた。敢てそれを窮めようと云ふ氣もなかつたから其儘にした。唯予がこの種の人間活動に就いて愉快に感ずる所は、昔の人の生活が藝術的であつた事である。神社と云ふものがあり、その内の神を祭ると云ふので目的が神秘に化せられる。天平勝寶の昔に貴人より庶民に至るまで、形にせられたる人心の象徴たる大佛に禮拜したと同じ意味である。嚴格なる老幼の序、階級、制度等に對する不平や反抗も凡て此の神秘《ミスチツク》が融解したのである。たとへ人間の知を求める心は凡て不可解を闡明し、思想の不純を澄まさなければ休まないとした所で、然し一方には亦新しい神秘がなくては滿足が出來ないやうにも見える。實は今朝小學校の廣場で消防組の若衆たちの稽古を見た。中隊若しくは大隊教練であつて、其嚮導を務める人は在郷軍人である。人間はどうしても共同の活動を要求するのであるから、昔の馬鹿氣たお祭の遊戲に比して此の種の有目的の文化的行爲は贊成するに足るのであるが、其の目的が、明かであればあるだけ、信仰及び獻身の心持がなくなるのは止むを得ない。
 軍國主義の外に衆生の心を統一せしむるに足る巨大なる磁石はどこに求められるだらうか。(同日夜)

 夜、一種の好奇心からちよつと芝居小屋を覗いて見た。この海邊の小さい町の人々が如何なる遊樂を求めるかをも知りたいと思つたのであつたが、別に珍らしい發見もしなかつた。特殊の事もなかつたからである。今の樣な交通の便利の時に、東京から遠くない所にさう云ふ者を求めると云ふ事は第一無理であるが、然し舞臺と見物とは非常に親密である。いやな敵役には蜜柑の皮が抛られる。花道は子供等の群に占領せられて居て、揚幕があいて松前五郎兵衞の女房が出て來ると途中で思入れをする場所を作る爲めに、小さい聲で先づ子供等を叱らなければならぬ。そこでわらわらと子供等が逃げ出す。
 汚い淺黄の着物をきた五郎兵衞が拷問にかけられて醜い顏をする。粗末な二重舞臺の上では役人が手習でもするやうな大きな字で口供を取つてゐる。かう云ふ所から藝術の幻影郷を抽き出すには隨分無理な 〔e'limination〕 をしなければなるまいと思ふが、見物は一向平氣で見とれて居るのである。然し此地《ここ》も東京と同じく、三十未滿の人達は松前五郎兵衞は愚か、もう白井權八、鈴木主水、梅川忠兵衞なんぞの傳説、及び其藝術的感情とは全く沒交渉であるからして、隙つぶしといふ外に大して面白くもなささうに、偏に鮨や蜜柑を食べてゐるのである。彼等の遊樂、戀愛乃至放蕩は全く數學的だ。よし Rhythme はあつても 〔Me'lodie〕 はない。少くとも二十年前には、良い事か惡い事か知らないが、まだ民間に音樂といふものがあつたのである。
 それでも四十恰好の、少しは鼻唄でも歌ひさうな男が、時々取つて付けたやうに「よい、チヨボ、チヨボ」などと呼んで居た。その内に色々の商家の名を染めた汚い幕が引かれる。するとどやどやと子供等が飛び出して幕の中へ首を突き込んで、引いて行く役者を見送るのである。
 不快になつて小屋を出て、暇乞にと縁者を訪ねた。そして偶然人一代前の世の話が出て面白かつた。其内容が餘りに特殊で、事に關與した人や、乃至それらの人の運命を知つた者でなければ興味がないから、報告する事は止める。唯然し君とてもかういふ想像はする事が出來るだらう。即ち東京からさう遠くない港へ、押送り、乃至珍らしい蒸氣船で、「窮理問答」「世界膝栗毛」「學問のすすめ」「倭國字西洋文庫」と云つたやうな本がはひつて、本棚の「當世女房氣質」「北雪美談」を驅逐し、英山等の華魁《おいらん》繪、豐國、國貞等の役者の似顏、國滿が吉原花盛の浮繪《うきゑ》などの卷物の尾《しり》に芳虎の『英吉利國』の畫、清親が「東京名所圖」其他「無類絶妙英國役館圖」「第一國立銀行五階造」の圖などが繼ぎ足され、獵虎帽の年寄りが太陽は無數に西の海底にたまり、地の下の大鯰が地震を起すなどといふ須彌山説《しゆみせんせつ》の代りに西洋の窮理を説いた時があつたといふ事である。予の眼にはその時代の人々の姿がまだありありと殘つてゐる。そして古い文庫ぐらに其時の遺物を搜し出す心持は一種特別である。「横濱へ通ふ蒸氣は千枚張りの共車この家《や》へ通ふは人力車《りんりきしや》」の其頃は多少 exotiqeque であつた甚句の歌と共に、純然たる昔の風俗並びに歌謠の殘つて居た時の事がどうかして鮮明に思ひ浮べられる時は、涙も催さむ許りに悲しくなる事がある。
 もと押送りに乘つて東京通ひをして、仕切も取り勘定も濟ました後の早朝出帆に、檣を立てる唄で靈岸島の岸の人を泣かしたといふ船頭も尚生きて居るけれども、もう唄も覺えて居ない。
 子供等もおしろおしろの白木屋の才三さん、丈八ッさんと云ふやうな毯唄は歌はぬ。其代り幸ひにそんな唄を今きくと、聯想は朦朧たる過去の世界を開いてくれる。
 然しそれから尚聯想を追究してゆくとかう云ふ世界が段々と崩された迹が思ひ出される。其中にも尤も深く予に印象を與へたものは此町に耶蘇教の入《はひ》つて來た沿革である。初めは小さい家に日曜日の夜々赤い十字の提灯が點された。それが廢れた頃怪しい一人の男が突然まだ寂しかつた頃の此郷に來て、毎夜十字街に立つて説教したのである。それは西洋から歸つて來たこの郷の人であつた。後に其人の新しい、感情的な人格はこの一郷の多くの青年に深い感化を與へた。
 さう云ふ風な事を思ひ出しながら今の状態に思ひ比べて見ると、十年十五年の間にもいろんな世相の變遷がある。と、考へると同時に何《なん》か自分の背後に強大なる力が隱れて居るやうに思はれる。
 それからまた暗い海へ出て、恣《ほしいまま》な冥想に耽つたのである。
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夕暮れがたの濱へ出て
二上り節をうたへば、
昔もかく人の歌ひ※[#「候」のくずし字、383-上-22]と
よぼよぼの盲目《めくら》がいうた。
さても昔も今にかはらぬ
人の心のつらさ、懷《なつか》しさ、悲しさ。
磯の石垣に
薄紅《うすくれなゐ》の石竹の花が咲いた。[#地付き](同日深更)
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 昨夜《ゆうべ》は空が眞黒《まつくろ》であつたが、今朝六時半に起きた時も亦冬とは云ひながらあまり暗かつた。それでも日の出る頃には曇つた空が段々と明るくなる。そこへ遠くで汽笛がなる。
 汽船宿には派手な縞の外套を小脇に抱へた大學生や、鼠の二重廻の男、洋服を着た十三四の女の子、その紫紺色の外套が殊に美しかつたことやなどが大勢集つてゐて、一種の繪模樣を造り出して居た。
 昨夜は近い山に雪が降つた。かう云ふ事は南方の海國には珍しいので、人々はその噂を以て朝の挨拶に代へて居た。で、町の人は皆朝日を受けた山を見たのである。山腹の畑、松や蜜柑の樹、また遠山の皺《しわ》、それらの上には紫いろの白い雪が積つて、そのあひまあひまの山の色は種々《いろいろ》な礦石で象眼したやうに美しい。殊に遠い峰は赤沸石《エエランヂツト》のやうな半透明な灰緑色を呈して、ぼんやりと漠々たる大空の内に沈んでゐる。唯ここかしこに白雲の※[#「さんずい+翁」、第4水準2-79-5]淡が――鋭く小刀で、彫まれたやうに――風もないのに動いて居る。
「成程ゆうべは寒《さみ》いともつたら、ほれ山《やま》ああんなに積つた。」で濱に立つ漁夫《れふし》でも、萬祝の古着で拵へた半纏で子供を背負つた女房でも、皆《みんな》額に手を翳して山の方を見た。
 汽船に乘つてから町の方を見ると、一列の人家が山脈の直下に見え、三千石の平地がその下にありさうには思はれない。見送人の歸りゆく樣、また始められる其日の仕事などが遠くに見える。何《なん》か人生といふものの機關《からくり》、その歸趨、その因果が明かに久遠の相下に見えるやうな氣がして妙な心地になつた。
 その内に鐘がなつて、Go《ゴオ》 off《オフ》 ! が人から人に傳へられた。



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「三田文学」
   1911(明治44)年6〜7月号
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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