青空文庫アーカイブ
本の装釘
木下杢太郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)異《こと》やうの楽み
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一構|鞦《しりがい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)かなめもち[#「かなめもち」に傍点]
-------------------------------------------------------
新村博士の随筆集「ちぎれ雲」が出版書肆から届けられた。其表紙の絵をば著者と書房とから頼まれて作つたのであるから、其包を開くときにまた異《こと》やうの楽みがあつた。新村博士の頼となれば何を措いても諾はなければなるまいと思ひ、五月の雨雲に暗い日曜日の朝の事であつた、紙を捜して図案を考へた。小さい庭には小手鞠の花がしをらしく咲き乱れてゐた。隣の庭には枇杷の実がやうやく明るみかけてゐた。
小手鞠、雪柳は、わたくしは夏の花よりも秋の枯葉を好む。お納戸《なんど》、利久、御幸鼠、鶯茶、それにはなほ青柳《あをやぎ》の色も雑つて、或は虫ばみ、或はねぢれたのもあり、斑らに濃い地面の色の上に垂れ流れるのは自らなる絵模様である。東北では気候が遅れるから、夏初め其少しく蕾を現はしたころ、木の葉はまだちらほらとしか出ない。其風情も亦甚だ好い。さすがに茶人は好んでその秋の枯枝を挿花にする。
其日にはどの枝も殆ど満開であつた。地《ぢ》を梅鼠がかつた濃い茶にして、其一枝を写し試みた。
六月の始め隣の枇杷はいよいよ熟した。この三四年実の枯れ、蕾のつぶだつのを見て過した。それは暦のやうであつた。そして天行の健かにして、且つ倏忽なるのを感じないわけには行かなかつた。
枇杷の花やつひこなひだは実だつたが
それは庸事《ただごと》であるが実感である。
終日枇杷を写して更紗やうの模様にした。ところがその時はまだ先生の新著の名前をば聞いて居なかつた。小手鞠と枇杷と、この二枚の絵を、書肆を通じて、博士に示すと、博士はあとの物を選ばれた。今贈られた本を見ると「ちぎれ雲」が其名である。そして其標題の事象の季は秋であるといふ。ちぎれ雲に枇杷の実を配したのは、心有る為草《しぐさ》とは謂へなかつた。先生は猿蓑の
たゝらの雲のまだ赤き空 去来
一構|鞦《しりがい》つくる窗のはな 凡兆
枇杷の古葉に木芽《このめ》もえたつ 史邦
を引いて此不調和を取りつくろつて下すつた。唯この本の初めの部には草木に関する考証幾篇かが有り、其内容にはこの表紙のまんざらそぐはぬこともあるまいと自ら慰めた。
それよりも前に、わたくしは小堀杏奴夫人からも其著書の表紙の図案を頼まれてゐた。其時は本の装釘の事などまるで頭になかつたが、わざわざ尋ね来られての頼みに、かれこれ思ひめぐらして逢着したのは、今から三十余年前、即ち大正二年の夏八月、伊豆の湯ケ島で作つた渓流の写生画である。当時三越が賞を懸けて江戸褄の図案を募集したことがある。それで思ひ付いてそれに通ずる四つの図案を考へた。第一は「春」で、下部に前景として赤黒い鳥居の上半が出で、その傍に半ば開いた桜の花の樹が枝を張る。水桶と縄のぼんでんとを立てのせた屋根も見え、その向ふには船の檣が乱れ立つところである。着物の裾に鳥居はどうかと思つた。「夏」は繁りはびこる岸辺の白樫の柯葉の隙間に沸白の渓流が透かし見え、岩の上に鶺鴒が尾を動かすところである。「秋」は濃茶の色に二三株のさび赤んだ杉の梢が山のはざまに聳えるところである。「冬」は雪持の万年青に紅い実ののぞいてゐるところである。無論募集には応じなかったが、若し応じて選に当つたとしたら其当時では尤も新様の江戸褄となつたであらう、洋風の写生をそのまま図案化したものであつたから。其後数年にして、同じ店の江戸褄の募集の選に当つた作品のうちに、ポプラの樹を前景としてその梢を鳥の翔り過ぐるといふやうなのもあつた。わたくしのかつて企てたやうな方角の図案であつた。
この九月の或る日曜日に、その「夏」の部を本の表紙にあふやうに画いたのであるが、板下として手際好く為上げるのには中々骨が折れた。若し印刷がうまく行つたらこれは見よい装釘ともならう。本の題はまだきまつて居なかつたやうであるから、それとこの図案との附《つき》が好く行くかどうかは知らぬ。杏奴女史の先君の為めには、同じ大正二年に、其翻訳にかかる「フアウスト」の為めに装幀の図案をした。Buchschmuck von Masao Ota とわざわざ銘記せられた。思へばわたくしの本の装釘に係はつたのも古い時からである。
多分同じ頃であつたらう。杏奴夫人の先君はわたくしに嘱するに、令息類君の為めに鍾馗の絵を作ることを以てした。わたくしは小石川田町の何とかと云つた呉服屋から大幅の金巾《かなきん》の布《きれ》を買い求め、下宿に帰つて、鏡におのが姿を写し、顔をしかめて画像のモデルとした。履があまり大きに過ぎたのを除いては自分の気にもかなふものであつた。後年ずゐぶん久しぶりで、杏奴夫人の令先堂を其臨終に近い臥床に奉問した。其枕頭には魔除けの為めに曩日の鍾馗の画像が立てかけられてあり、わたくしは二十幾年ぶりかに、ゆくりなくも此分身に邂逅したことがあつた。
幼少の頃、郷家では呉服太物の商売をしてゐた。時々東京の店から仕入物の大きな荷物が到着した。わたくしには子供ながら、中形の模様の好悪、唐桟の縞の意気無意気を品評することが出来た。殊にフラネル、綿フラネルの、当時なほイギリス風の趣味を伝へた縞柄には、今の言葉でいふと、異国情緒を感じたものであつた。また虹のいろの如く原色を染めまぜた毛糸の束《たば》は不思議な印象を与えたものである。後にパリでオツトマンがかかる色彩諧調によつて幾多の絵を作つてゐるのを看た。昔流行つた無地の面子《めんこ》の淡紫、淡紅の色、また古渡りの器皿の青貝の螺鈿の輝き、その惹起する感情は孰れも相似てゐるが、わたくしは其齎らす情緒の成因を分析する術を知らない。
大学生の頃は、ドイツのエス・フイツシヤアが其発行する文学書に美しい更紗模様の図案を施した。ホフマンスタアルのさう云ふ本を幾冊も買ひ求めたが、皆大震災の時失つてしまつた。さういふものがわたくしの本の表紙の図案に或る影響を与えてゐることは疑が無い。
大正八年アララギ発行所がわたくしの「食後の唄」を出版してくれた。今のアララギの傾向とはまるで相合はぬものであつたが、当時は文壇がまだ甚だ分化せず、かかる雑糅が何の奇もなく行はれてゐた。これは四海多実三の侠気により上梓せられたもので、北原白秋君が序をかいてくれ、島木赤彦君が校正をしてくれた。発行部数は少く、其半ばは発行書肆に於て大震災で焼け失せた。島木君は古典に親しむ者であつたから、わたくしがわざと匹田《しつた》と下町風の称呼で振仮名をしたのを、匹田《ひきだ》と直したりなどした処もあつた。その集の装釘は小糸源太郎君に頼んで、唐桟模様にして貰つた。それは江戸趣味に直したエス・フイツシヤア本であつた。
同じモチイフは「木下杢太郎詩集」では成功しなかつた。
與謝野寛・與謝野晶子両詩宗は既に歴史のうちの名となつた。わたくしは今考へて、其新詩社に通つた頃と其あとの数年ほど楽しかつた時は無いと思ふ。まだ富士見町に住んで居られる時、晶子夫人から本の装釘を頼まれた。それはどの本の為めといふのではなかつた。当時わたくしは名古屋の閑所《かんじょ》に住み、その庭のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]とどうだん[#「どうだん」に傍点]の葉をていねいに写生した。うち忘れた頃それが晶子夫人の歌集「心の遠景」の表紙と其紙函との装飾に用ゐられた。この集の発行は昭和三年六月の事である。わたくしは名古屋を去つて仙台に在つた。木版は孰れも伊上凡骨が其弟子を督して彫刻する所であつた。無頓着に引いた細い線を克明に彫つてくれたのを見て気の毒と思つた。
もち[#「もち」に傍点]のうちではかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が其葉の色が一番美しい。殊に春落葉する前に、暗示の古葉を着け、これに新芽の淡緑と壮葉の藍鼠とが交るのが、色取が好い。
今も勤先の窓の前に幹の繁いかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が一本有る。春になると写生したい衝動を起す。雨宮傭蔵君の為めに画帖に即席に写したことはあるが、本の表紙の為めに画かうと思つたことは嘗て無かつた。来年の春は一つ写してやらうと思ふ。
春にして細葉冬青《もち》の枯葉の
色紅く音も無く散りゆくは
秋の落葉に比して
さみしきかなや、ひとしほ
*
草の芽に落葉や雨のしめやかさ
とは大正十五年の春、名古屋のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]を見て作つた詩である。
仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙著「雪櫚集」は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみ[#「どくだみ」に傍点]とちどめぐさ[#「ちどめぐさ」に傍点]をあひしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。
同じ年に出た小宮豊隆君の「黄金虫」がやはりこの庭の写生画を其本の表紙に用ゐた。それは一種のぎばうし[#「ぎばうし」に傍点]のスケツチである。普通のものに較べて葉も小さく、花の茎も短く、殊に葉にはちりめんじわが寄つてゐる。何でももとは舶来の種だと云ふことである。これは表紙の図案にしようなどと思つたのでなく、板下の用意もなく、鉛筆の筋などが雑然として残つてゐた。木版師はそんな不用意の部分をも丹念に板に刻んだ。その刷上《すりあが》りは上の方であつた。
之を見て結城哀草果君が其歌集の表紙模様を作つてくれと云つた。それでやはり不用意に写して置いた庭の万年青の写生画一枚を上げた。昭和十年に出た「すだま」がその集である。板も印刷も甚だ好かつたが原画が少しぞんざいに過ぎた。一体わたくしの表紙画は多くは庭の草木の寓目の写生であるから、其|地《ぢ》のいろはいつも茶いろである。ちかごろは旅先でゆつくり写生をするやうな事は無いので、モチイフが限られるのである。
まだ其前に谷崎潤一郎君の為めに其「青春物語」の装釘をしたことがある。此書は昭和八年の出版に係る。他ならぬ谷崎ゆゑに引受けたが、本の表紙にしようとなると中々いい趣好が思ひ浮ばなかつた。いろいろの蛇、殊に台湾の紅、藍、色あざやかなのを雑ぜて気味わるく美しい文様を作らうと思つたが、写生が無くては思ふやうに行かないから断めた。また開いた山百合の幾つかの隙間にルノワアルばりの裸形の女を、ちやうど朝鮮の李王家の美術館に在る葡萄の蔓の間に唐子《からこ》を染付けた水差の模様のやうにあひしらはうかと思つたが、それは失敗した。モデルについて裸体を写すの便宜が無かつたからである。結果到着したところは、わかむきの銘仙の柄に見るやうなやたら縞であつた。裏打をした宣紙に臙脂・代赭・藍・浅緑・黒など、太い縞細い縞を定規で引きまた染めると、其堺目が程好くにじんで好看を呈したが、之を板木に彫ると境界が鋭く硬くなり、且つエオジン、インヂコの絵具では日本絵具の生臙脂・藍で画いたやうな色調にはならなかつた。且つ画稿では見立たなかつた平行線のゆがみが気に懸つて見え出した。
これには扉の図案をも添へ、カルトンの体裁をも考へた。実際この二つのものを考へてやらないと好い釣合は得られないのである。
そのうちに、日夏耿之介君から手紙が来て、中央公論社から出す其選集の表紙の模様をつくれと云つて来た。それはちやうどわたくしの選集と同じ型であると云ふ。小堀杏奴夫人がわたくしを尋ねられたのは、それより後の事であつたが、座敷に灯がつき、庭が暗くなると、思ひかけず、履脱《くつぬぎ》の上にあつたベコニアの葉が光り出した。背景になるもち[#「もち」に傍点]の繁みが黒ずんで来たので、ベコニアの葉の紅緑がくつきりと明るく目立つたのである。是れは表紙になると其時考へた。そして十月の或る日曜日にそれを為上げた。まだ試《ため》しずりを見ないからどういふ風に出来るか分らない。始めはもち[#「もち」に傍点]の葉を克明に写して暗い背景としようと思つたが、あまり煩はしい故、藍一色にした。
それからは天下の草木、どれを見ても表紙の図案に見えぬものは無い。殊におほけたで[#「おほけたで」に傍点]の紅花のふさふさと垂れるのは頗る食慾をそそるのであつた。道端に有るゆゑ日々目に附く。
おほけたで今日も盛りと見て過ぐる
このおほけたで[#「おほけたで」に傍点]の有る庭の近くには山茱萸の木が有る。さんしゆゆ[#「さんしゆゆ」に傍点]は東京に在つては、とさみづき[#「とさみづき」に傍点]、いぬのふぐり[#「いぬのふぐり」に傍点]などと共に春を告げる花である。嫩緑、新芽を思はせるさんしゆゆ[#「さんしゆゆ」に傍点]の花の一杯に咲き乱れたところ、ゆつくりと写生して見たい。
同じく季節は違ふが、古び汚れた白茶色の壁に蔦の茎が蔓延し、初夏嫩葉をつけたのは自らなる唐草模様である。
今年であつたか青龍展に姫女※[#「※」は「くさかんむり」+「宛」、第3水準1-90-92、109−9]《ひめぢよをん》を大きな紙にいつぱい画いた人があつた。この草の茎は時として人の胸に達する高さにもなるが、其画では人の頭までほど高く、従つて花は菊の花ぐらゐの大さに為上げられてゐた。青龍展のこの悪趣味をわたくしは私かにメガロマニアと呼んでゐるが、あれを尺大に縮めてくれたら、好い本の表紙になると思つて看て過ぎた。
ちからしば[#「ちからしば」に傍点]などといふ雑草が群り繁るのを見ると、これも図案になる。めひしば[#「めひしば」に傍点]のはびこる空地は、その柔らかさ駱駝の毛の織物に優るとも劣らぬ感じである。あれをゆつくりと写したら類のない本の表紙とならう。
或日或処でふと窓の外を窺ふと、秋の暮に近い弱い日が羽目板の裾に当り、禾本科の草の蔭をシルヱツトのやうに写してゐた。それに濃淡が有り、而も自然の奥行を想像せしめた。是こそ絶好の本の表紙だと思つた。その草はと目を移すと、なほ幾ばくかの穂を止めたえのころぐさ[#「えのころぐさ」に傍点]であつた。こんなものも見方によると、あんなにも美しい模様になるかなと嘆ぜざるを得なかつた。
そしてたふとい日曜日のいくつかを費してなほ三枚の本の表紙の図案を作つた。その一つは藍、紫の実を垂らしたひいらぎなんてん[#「ひいらぎなんてん」に傍点]の葉と茎とである。これは家の門内の籬に沿うて植ゑられてゐるものである。地《ぢ》の色は濃茶《こいちや》である。それに若茶柳から松葉納戸・明石鼠に至るまでのさまざまの色をした葉が乱れ垂れるのである。
も一つは藤の葉である。縁日の鉢植ゑを庭に移すと一二年はなほ花を開いた。近ごろは花は咲かず、其葉、其蔓が低く地を被ふ。或る十月の日曜日の朝ふとそれに目を移すと、黒く古ばんだ硬い葉の間に、杪春の新芽を思はせるかよわい小葉が雑つてゐる。其一つ一つの葉弁のねぢれた様はロダンを酔はしめた裸女の腰のひねりにも似ている。これを写さでは有るまいと思ひ、鉛筆で輪廓を取り、好半日を費した。それからは、夜、為事をしまつたあと、三十分、一時間づつ地の色を伝した。葉・茎を白く抜くのであるから、幾夜かを費した。そしたら白く抜けいでた葉に彩色をするのが惜しくなつた。甚だ不倫な言ひざまで恐縮の極であるが、わたくしはレオナルドオのモナ・リザよりは寧ろ其サン・ジエロニモの画を愛する。レオナルドオのあの鋭くして柔軟な素描《すがき》を残したジエロニモこそ世にもこよない物である。ああ丹念に油彩で為上げると、モナ・リザの神秘な微笑も硬くいかめしいものになる。夜郎のこの藤の葉も白く残して置きたかつたが、過猶不及といふ孔夫子の戒に背いてしまつた。わたくしは藤の葉を螺鈿貝のやうに明るく光らせたかつたが、塗り上げたかつたが、出来上つたものは、頗る英米的の合理主義になつてしまつた。
この夏仙台に往つた時、小宮豊隆君がも一度其著書の為めに表紙画を作れと云つた。まだその積りでゐるかどうかは知らぬが、このうちの一枚はひそかに其為めに画いたのである。
やはり十月の或朝の事であつたが、わたくしが学校へ行かうとして門をあける前に、その小庭に不思議なものを見た。カステラの屑が一ところに落ちかたまつてゐるかの如き様態のままである。
ポルツガル人は日本にカステラの製法を伝へた。数年前日本に在つたポルツガルの公使カルネイロ氏の説く所に拠ると、ポルツガルではそれを Bolo de Castella' エスパニヤの菓子といふ。それからカステラといふ日本語になつたのだらうと云ふことである。同じポルツガル人《びと》はシヤムにもスポンジケイクの製法を教へた。シヤムではそれを Kanom Farang と呼ぶ、シヤムには尚 Oeufillet の菓子を伝へた。そのシヤムの名は Foi Thong である。近ごろけぶな事と思ひ、食指動き、片唾をのみつつ近く熟視すると、それは一種の蕈であつた。河村清一博士の蕈の図譜がいまちよつと見当らぬから、其名を知る由がないが、其一つ一つの大さは小指の先ほどであつた。無論大小がある。それは真竹の根の地上に三寸ばかり現はれた処に発してゐた。其まはりには乾いた土が、蟻の塔のやうな明るい粒々で、梨子地の箒目を描いてゐた。夕日が竹叢に当ると地面に参差交横の稀影を描いた。或る日曜日の午後は空が雲で被はれてゐた。地上に紙を展べてこの蕈のむれを写し、添ふるに二三片の柘榴の落葉を以てした。昔風の年寄りの江戸褄のやうになり、予期した効果を得ることが出来なかつた。
朝早く大学の池の畔に行つて、濁つた水の上に張り出した椎の太幹と其葉とを写したことがあつた。この頃は見たままの写生を自らなる図案にするといふのが目あてであつた。顕微鏡でのぞく黴の類《たぐひ》にも其器官に美しい装ひをするものがある。何の必要であらう。何物の為めの装飾であらう。考へたつて分りやうはない。蝨といふいやしい虫でも、其棲む環境に対する聯想を離れて、生きた姿其者を窺ふと、甲冑いかめしい美しいつくりである。然しそれとて、我々が考へるやうに「美」の為めに出来上つたものではない。食ふか食はれるかの必然がそこに到らしめた結果である。凡て好く生きるものは美しい。年頃の人には女の乳房さへ美しく見える。戦も亦美しい。より好く生きようといふ民族の願望がそれを美と感ぜしめるのである。老いたもの朽ちたものも美しいといふ人がある。それは憐みの心がさう思はせるのであらう。老いた人が次の代の為めに夢を伝へる姿は、それは本来の美しさである。密林の朽木がわかい下草の肥《こやし》になる犠牲の様態には、畏敬に伴ふ美があらう。
アナトオル・フランスの小説の中に、フランスの民族は世界の文化の為に十分の貢献を尽した。よしんば其国が滅んでも思ひ残す所は有るまいといふ句があつた。どの小説であつたかと、その後捜して見たが、つひ見当らなかつた。その句はフランスの讖をなした。然しさう云ふ風に自ら憐むの美を以て得心することが出来ようか。
未来に栄える実用を包蔵しないものも亦美であらうか。わたくしに在つては心悄然たる時には美を感じない。わたくしが庭、小径の草木を見て心を動かし、それを本の表紙の図案に為立てるのにも、わたくしの感知しない、未来に栄える実用を伴ふものが、向ふかこつちかどつちかのうちに有るからだと思つてゐる。この忙しい今の時の幾日かをかかる戯れに費したことは、かうとでもいひわけしないと心がおさまらない。それにしても八月、九月、十月はなほ多少の閑があつた。十一月に入つて寸刻の余裕もない。「文学」から原稿を求められ、十一月のいまの日になつて更に催促を受けた。それでいつか書きかけて置いたこの原稿を、今夜いそいで書き足したが、時計を見ると既に午前一時を過ぎてゐる。あすはまた沢山為事がある。朝起きるのがつらいからと思つて、ここで筆を擱くことにした。(昭和十七年葭月既朔)
底本:「日本の名随筆 別巻87・装丁」作品社
1998(平成10)年5月25日発行
底本の親本:「木下杢太郎全集 第一八巻」岩波書店
1983(昭和58)年2月発行
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年10月30日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ