青空文庫アーカイブ
光の中に
金史良
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)身装《みなり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)いかにも最|猛者《もさ》のように
×:伏せ字
(例)狂的に××してもいない
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本の注によれば…]
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一
私の語ろうとする山田春雄は実に不思議な子供であった。彼は他の子供たちの仲間にはいろうとはしないで、いつもその傍を臆病そうにうろつき廻っていた。始終いじめられているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる。又誰かが転んだりすれば待ち構えたようにやんやと騒ぎ立てた。彼は愛しようともしないし又愛されることもなかった。見るから薄髪の方で耳が大きく、目が心持ち白味がかって少々気味が悪い。そして彼はこの界隈のどの子供よりも、身装《みなり》がよごれていて、もう秋も深いというのにまだ灰色のぼろぼろになった霜降《しもふ》りをつけていた。そのためかも知れないが、彼のまなざしは一層陰鬱で懐疑的に見える。だが妙なことに彼は自分の居所を決して教えようとはしなかった。私は大学からS協会への帰りみちなど、押上駅の前で二三回彼に遇ったことがある。彼の歩いて来る方向からすれば、どうやら彼は駅裏の沼地あたりに住んでいるようだった。それでいつか私はこう質《たず》ねたものである。
「駅の裏に住んでいるの?」
すると慌てて頭《かぶり》をふった。
「違うやい。僕の家は協会のすぐ傍だよ」
勿論途方もない嘘である。彼は学校からの帰りに、わざわざここへ遠廻りして遊びに来ると、夜の部がひけるまでは決して帰ろうとはしなかった。聞けば婆やの部屋で飯を貰って食べたことも一度ならずあったようである。私ははじめそんなに彼に注意を向けてはいなかった。だが或る晩彼が薄暗い婆やの部屋で飯をかき込んでいる様を見た時は、はっと驚いて立ち止ったのである。「へんだな」と私は自分に云った。だが私はどういう意味でそう云ったのか、はっきりはしなかった。そしてもう一度「へんだな」と呟いた。その恰好がどうも私には曰《いわ》くがありそうでなかなか思い出せなかった。ちぢかんだ丸背にしろ、顔にしろ、口の恰好にしろ、箸の使いわけまでも。しまいには私は息苦しくなって黙ったまま彼の傍を離れて行った。だがその後というもの、私は彼のことをあまり気にしなくなった。その中に彼と私の間にはまことに奇妙な事件が一つ起ったのである。――
その頃私はこのS大学協会のレジデント(寄宿人)だった。ただ私の仕事といえば、そこの市民教育部で夜の二時間程英語を教えていればよかった。それでも場所が江東近くの工場街で、習いに来る人々が勤労者であるだけに、二時間の授業といっても骨が折れた。昼間へとへとに仕事で疲れている彼等であってみれば、余程こちらが緊張してかからない限り、みなはうつらうつらまどろんでしまうからである。
夜の部で元気なのはやはり子供部である。私たちの教室のすぐ下がその教場になっていて、いつもわあっと彼等の騒ぎ立てる音が聞えて来た。私の生徒たちはその音に驚いて腰を掛けなおすといった工合である。古いピアノがきんきん鳴り始めると、子供達は一斉に「われらはすこやかに、いざ育とう」という歌を、屋根でも飛んでしまいそうな元気な勢で張り上げた。
(もう時間だな)と思うが早いか、今度は豆でも挽き立てるような騒ぎが湧き上る。子供たちは階段をわれ先にと駆け上って来るのだ。授業を終えて教室を出ようとした私は、すぐに子供たちにつかまって、全《まる》で鳩飼いじいさんのようになるのだった。甲は肩にのり、乙は腕にすがりつき、丙はしきりに私の前を小躍りしながらはね上る。幾人かは私の洋服や手を引張り、或は後から声を立てて押しやって私の部屋まで来る。そこで戸を開けようとすると、もはや先からはいって待ち伏せていた子供たちが、一生懸命になって開けさせまいとしている。こちらでも子供たちが蟻のようにたかってしきりに開けようとする。こういう時にきまって山田春雄ははたから邪魔をするのだった。
「ほっときなよ。ほっときなよ。あーあーあー」
と叫びながら、私の鼻先の前で気味よさそうにひょうきんな踊りをしてみせた。とうとうこちらが凱歌を上げてなだれ込んで行くと、室内では先から待ち構えていた六七人の少女がきゃあきゃあしながら悦び立てた。
「南《みなみ》先生! 南先生!」
「あたいも抱っこして」
「あたいも」
「あたいも」
そう云えば私はこの協会の中では、いつの間にか南《みなみ》先生で通っていた。私の苗字は御存じのように南《なん》と読むべきであるが、いろいろな理由で日本名風に呼ばれていた。私の同僚たちが先ずそういう風に私を呼んでくれた。私ははじめはそんな呼び方が非常に気にかかった。だが後から私はやはりこういう無邪気な子供たちと遊ぶためには、却ってその方がいいかも知れないと考えた。それ故に私は偽善をはる訳でもなく又卑屈である所以《ゆえん》でもないと自分に何度も云い聞かせて来た。そして云うまでもなくこの子供部の中に朝鮮の子供でもいたならば、私は強いてでも自分を南《なん》と呼ぶように主張したであろうと自ら弁明もしていた。それは朝鮮の子供にも又内地の子供にも感情的に悪い影響を与えるに違いないからだと。
ところが、或る晩のこと子供たちと騒いでいる所へ、私の生徒の一人が真蒼《まっさお》にひきつったような顔をしてはいって来た。それは自動車の助手をしながら夜になると英語や数学を習いに来る李という元気な若者であった。彼は戸を閉めると挑《いど》みかかるような調子で私の前に立ちはだかった。
「先生」それは朝鮮語だった。
私ははっと思った。子供たちもどういう意味かは知らないが何か嶮しい空気にけおされて、彼と私の顔をかわるがわる見守っていた。
「さあ、又後で遊ぶんだ。これから先生は用事があるんだから」と私は落着きをつくろいながら口元に微笑みさえ浮べた。
子供たちはすごすごと出て行った。だが山田春雄のまなざしばかりは異様な光を点《とも》して、さぐるようにじっと私を見つめていた。私は今だにその薄光りしていた目を忘れることは出来ない。彼は蟹のように横歩きで方々へぶち当りながらぬけ出るのだった。
「まあお掛けなさい」私は二人きりになった時静かに朝鮮語で話しかけた。「ついお互い話し合うような機会もありませんでしたね」
「そうです」李は立ったまま叫んだ。「私は実際あなたにどちらの言葉で話しかけていいか分りませんでした」彼の言葉の中には若者らしい憤りがのたうっていた。
「勿論私は朝鮮人です」という自分の答は心なしかいささかふるえを帯びていた。恐らく彼に対しては少くとも苗字のことが気にかかっていたのであろう。或は平気な気持でいられなかったのも、その点自分の身の中に卑屈なものをつけていた証拠に違いなかった。そこで私は寧《むし》ろ少しばかりうろたえながら、こう質ねてしまった。「何かお気にさわるようなことでもあったでしょうか」
「あります」彼は昂然と云った。「どうして先生のような人でさえ苗字を隠そうとするのです」
私は咄嗟《とっさ》で言葉につまった。
「まあ落着いて坐ろうじゃありませんか」
「どうしてか、私はそれが訊きたいのです。私は先生の眼や顴骨《かんこつ》や鼻立から、きっと朝鮮人であるのに違いないと思いました。だがあなたはそんな素振り一つしなかったようです。私は自動車の助手をしています。寧ろ私のような職場の人々に苗字のことでいろいろ気拙《きまず》いことが多い筈です。だが」彼は波打つ激情の余り吃《ども》り出した。どうして彼はこんなにまで興奮しているのであろうか。「だが私はそんな必要を認めないのです。私はひがみたくもなければ、又卑屈な真似もしたくないのです」
「全くです」私はかすかに呻《うめ》くように云った。「私も君の云うことと同感です。だが私としては子供達と愉快にやってゆきたかっただけのことです」廊下では相も変らず先の子供たちが騒ぎ合いながら、時々戸を開けては洟《はな》たれ顔で覗いたり、目をつぶって舌を出してみせたりした。「例《たと》えば私が朝鮮の人だとすれば、ああいう子供たちの私に対する気持の中には、愛情というものの外に悪い意味での好奇心といっていいか、とにかく一種別なものが先に立って来ると思うのです。それは先生として先ず淋しいことです。いや寧ろ怖ろしいことに違いない。だからと云って私は自分が朝鮮人だということを隠そうとするのではない。ただ皆さんがそういう風に私を呼んでくれた。又私もそうことさらに自分は朝鮮人だとしゃべり廻る必要も認めなかっただけなんです。だが君にそういう印象を少しでも与えたならば、私は何とも弁解のしようもないのです……」
と云った時、戸を開けて覗き込んでいた子供の中、突然大きな声で喚いたものがある。
「そうれ、先生は朝鮮人だぞう!」
山田春雄だった。瞬間廊下はしんとなった。私も一寸ばかり面喰わずにはいられなかった。そこで努めて気を落着けるようにしてこう云った。
「いずれ又会ってゆっくり話しましょう」
李はわなわな手をふるわせながら出て行った。山田をはじめ二三の子供たちが逃げ出すようだった。私は呆然と立ち尽していた。一瞬間電光のように俺こそ偽善者ではないかという考えが閃《ひらめ》いたのである。階下の方ではがんがんと鐘の音が聞えていた。子供たちは騒ぎたてながら雲のように下りて行く、その音が恰《あたか》も遠い所からのように響いて来た。すると戸がそっと開いて忍び足でやって来た山田が、背をちぢかめて隙間から部屋の中を覗き込むのだった。それから、
「やい朝鮮人!」と云って舌をペろりと出して見せると、追われるように再び逃げて行った。
これ以来、益々山田春雄は意地悪くなって私につきまとって来た。私が彼に一層の注意をむけるようになったのはそれ以後のことである。
成程そう考えてみれば、ずっと以前から彼は私を疑りの目で監視しながらつきまとっていたようであった。時々私が言葉尻などにひっかかって舌が廻らないような場合にも、よくそれを真似て殊更《ことさら》にわらい立てたりするのは彼だった。彼は最初から私を朝鮮出身だとにらんでいたのに違いない。でありながらも彼はいつも私につきまとい、私の部屋に来てはよくいたずらをした。それというのも彼は一種の愛情に似たものを私に対して感じていたためであろうか。ところがそのこと以来は、私を極度に敬遠しているとみえ、なかなか近寄っては来ないで、私のぐるりを一層うろうろとつきまとうだけだった。今に私がへまでもしたら一隅で意地悪く悦び立てようと身構えでもしているように。だが私は恐らく誰よりも愛情深い態度でいつも彼に臨んだ。私はむしろ彼を宥《ゆる》したかったのである。そして出来るだけ彼を研究し徐々に指導して行こうと決心した。私は先ずこういう風に考えたのだった。貧しい彼の一家は今まで朝鮮に移住生活を続けていた。その時に彼も外地へ渡った一般の子供のようにつむじ曲りの優越感を持たされて帰ったのであろう。だが私は或る日とうとう見兼て真赤に怒ってしまった。その時も私は教場に下りて子供達と遊んでいたが、二三度私の方をわざとらしく気遣ってから、急に何でもないことに怒って、傍の小さな女の子を実に残忍な程までに腕をふり廻して打ったのである。女の子は泣きながら逃げて行った。彼は逃げて行くのを追いかけながら、
「朝鮮人ザバレ、ザバレ――」と喚き立てた。
ザバレと云うのは捕えろという意味の朝鮮語で、朝鮮移住の内地人がよく使う言葉だった。勿論女の子は朝鮮人ではない。私に対して見よがしに言ってみるのであろう。私は飛んで行って山田の襟首をつかまえると、前後見さかいなしに頬打ちを喰わした。
「何んということをする奴だ!」
山田は声をひそめて何も云わなかった。ただそれは木偶《でく》のように私のするがままになっていた。泣きもしなかった。そして荒々しい息づかいをしながら、下の方からじっと私の顔を見上げた。殊更に目が白かった。子供達は私の廻りを囲んでつばを呑んでいる。彼の目にはふと一粒の涙がにじみ出したように見えた。だが彼はしずかに涙をおしこらえたような声で叫んだのである。
「朝鮮人の莫迦《ばか》!」
二
元来S協会は帝大学生が中心となっている一つの隣保事業の団体で、そこには托児部や子供部をはじめとして市民教育部、購買組合、無料医療部等もあって、この貧民地帯では親しみ深い存在となっていた。赤ちゃんや、子供のためには勿論、日常の細々した生活にまで、それはもう切りはなされないような緊密な連りをもっていた。そしてここへ通う子供達の母の間には「母の会」もあって、お互いに精神的な交渉や親睦を計るために、彼女たちは月二三度ずつ集まるのだった。だが今までついぞ一度も山田春雄の母は顔を出したことがなかった。自分の子供が夜遅くまでここへ来て遊んでいることを知っていようものなら、たとえ他の母達のように関係大学生達への温かい感謝の念からではないにしろ、時には親として自分の子供に対する心配からでもやって来ようというものではないか。――私はこの異常な子供に関心を持つとともに、こういう彼の家庭からして知らねばならないと考えたのである。
間もなく週末の三日続きの休みを利用して、子供達がどこかの高原ヘキャンプ生活に出掛けるようになった時、私は山田を自分の部屋に呼んで来た。山田は今までこんな機会にはいつも参加出来なかったことを私は知っている。
「どうだね、君も行くかい」
少年は頑《かたく》なに黙っていた。彼はこういう場合はこちらがどんなにやさしく持ちかけてもいつも疑り深くなるのだった。
「今度は君も行こうね」
「…………」
「どうしたんだね、君もお母さんを連れて来たらいいよ。父ちゃんでも構わない、どなたか父兄の方が来て承諾すればいいことになっているからね」
「…………」
「連れて来る気かい」
山田は首を振った。
「じゃ行かないの?」
「…………」
「費用は先生が出してやる」
彼は空々しい目で私を見上げた。
「そうしようね」
「…………」
「そんなら君のうちに先生が一緒に行って話してやろうか」
彼は慌てたように又首を振った。
「でも三日もとまって来るんだから、父ちゃんや母ちゃんの許しを受けないわけにはゆかないだろう?」
「先生も山に行くの?」その時になってやっと少年はずるそうに訊ねた。「行かない?」
「うん、先生は駄目だ、今度は留守番をすることになったんだ」
「じゃ僕も行かないや」
彼はひそやかな微笑を唇の上に浮べた。
「どうしてだね?」
すると彼はいーと歯をむいて白痴のように顎を突き出してみせた。
こういう風にして私はかねがね彼の家を一度訪問してみようと思いながら、とうとう果すことが出来なかった。彼はどうしたのかその隙を与えてくれないのである。
いよいよ土曜日が来て、S協会子供部の百余名は悦びざわめきながら上野駅へ列をなして出掛けたが、やはりその時間になるまで山田は見えなかった。だが後から屋上に用を思い出して上って行った私は驚いてしまった。物干台の柱にもたれて山田春雄が遠く並んで行く子供たちの行列をじっと眺めている。私は何とはなしに目頭が熱くなるのを感じた。物音に気附いて振り向いた彼はひどくまごついたようである。私は強いて笑いを作りながら彼の肩を後からそっと抱いてやった。
「そうら、あすこにアドバルンが上っているだろう」
「うん」彼は消え入りそうな声で云った。煤《すす》けた煙突や黒々した建物を越えて遠くの上野公園あたりに、二つ三つそれが尾をひいて浮んでいる。私はふと彼を温かくいたわってやりたいような気持になった。
「なあ春雄、これから先生は暇だから一緒に上野へでも行こうかい」
少年は見上げながらにっと笑った。
「じゃ行こう。先生は学校にも用事があるから丁度いい」
学校に用事があると云ったのは勿論嘘だった。そんなにも心にもないことを云う程、私は内心山田をはばかって遠慮しているのだろうか。
「へえ」彼は目をみはった。「先生も帝大なの?」彼はほんとに驚いたのに違いなかった。
「朝鮮人も入れてくれるかい?」
「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば……」
「嘘云ってらい。僕の学校の先生はちゃんと云ったんだぞ、この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」
「ほう、そんなことを云う先生もいるのかい。それで生徒は泣いたのかい」
「うん泣くもんか、泣きやしねえよ」
「そうか、何という子供だい。一度先生の所へ連れて来てごらん」
「いやだい」彼はせき込んだ。「いないんだよ、いないんだよ」
「おかしなことを云うね」
「誰にも云わないんだよ、云わないんだよ」
彼はむきになって取り消した。全くへんな子供だなあと私は思った。丁度それと殆んど同じ瞬間だった。もしや彼がその朝鮮の子供ではないかという考が不意に浮んで来たのは。私は驚いたように彼の顔をじっと見つめた。彼は顔をこわばらせ警戒するように後ずさりした。そして急に一目散に階段をかけ下りながら叫ぶのだった。
「うん、僕、帽子をかぶって来るよ」
私は静かに首をふりながら階段を下りて行った。
だが私は玄関口から近い階段まで下りかけた時に、下の方で並々ならぬことがもち上っているのを知った。息をひそめてもみ合いながら、医療部の医師や看護婦や購買組合の男たちが、玄関口に横着けにされた自動車から一人のみすぼらしい恰好をした婦《おんな》を運び込んでいる。その後から助手の李がひどく興奮しているとみえ、肩で呼吸をきらしながらはいって来るのが見えた。婦の頭は血まみれになって後へぐんなりと垂れている。春雄がその傍をぶるぶるふるえながら二三歩ついて来たが、私を見附けるとぎょっとして立ち竦《すく》んだ。私はすぐに李の方へ近附いて行って、心配そうにどうしたことだと質ねた。すると彼は歯ぎしりしながら叫んだ。
「亭主に刃物で頭をやられたんです」医療部の戸口でがやがやしていた人々は皆驚いて彼の方へ振り向いた。「あの婦は朝鮮の人です。亭主は内地人の、これはひどい悪党なんだ」それからハンケチで首筋をふこうとしたとたんに、傍の方でうろたえている山田春雄を見附けると、彼は恐ろしい勢で少年の方へ飛びかかった。
「丁度こいつだ。こいつのおやじなんだ」彼は山田の手首をねじ曲げながら恰も犯人でも挙げたように「こいつの、こいつの」と口に泡をふくんで叫ぶのだった。その声はもはや興奮のあまり泣声にかわっていた。
山田はひどく苦しそうに悲鳴を上げながら、
「違うんだよ、違うよ」と喚いた。「朝鮮人なんか僕の母じゃないよ、違うんだよ、違うんだよ」
男達が中にはいってようやく二人をひき放した。私は殆んど茫然としていたのである。李君はいきりたって再び襲いかかり山田の背中を勢にまかせて蹴りつけたので、春雄はよろめきながら私の方へ抱きついて来た。そしてわーっと泣き出した。
「僕は朝鮮人でないよ、僕は、朝鮮人でないんだようー、なあ先生」
私は彼の体をしっかりと抱いてやった。私の目頭には熱いものがじーんとこみ上げて来るのを感じた。あの李のやけのような取り乱し方にしろ、又この少年のいたましい叫び声にしろ、私はどちらも責められないような気持だった。その場へぐったりとして倒れそうであった。婆やが一先ず山田を連れ出したので、やっとその場が収拾のついたようなものである。李君は激しく罵るように皆の前で云った。
「あいつのおやじは博徒《ばくと》の人でなしなんだ。つい先日監獄から帰って来たんだ。その間あの気の毒な婦は飲まず食わずにどんなに苦しんだか知れないや。その間中僕のうちへ、近処でなつかしいもんだから、やって来ては御飯を貰って行ったんだ。だのにあの悪党野郎は監獄から出ると、僕の所へ自分の嬶《かか》がゆききをしていたというので、ひどいやきを入れちゃったんだ。助かりやしねえ、もう助かりやしねえんだ」
彼はひーんと洟をかんだ。医療室から人が出て来て静かにしてくれるように云った。私は李を少しばかり離れた所へ連れて行きながら質ねた。
「君は山田春雄の家を知っているんですね」
「知っているもいないもないです」彼は忌々《いまいま》しそうに云った。「奴も駅裏の沼地に住んでいるんです」
「そうですか、随分ひどいもんだね。どうして君の家へゆききしたというのでいじめたのでしょう?」
彼は歯を食いしばった。
「そ、それは僕のお袋が朝鮮服を着ているからなんです。それで朝鮮人のところへ行くなってんです。へん、ふざけてらあ、莫迦《ばか》野郎奴が、あの前科者奴は何だと思うんです。たかがあいのこ[#「あいのこ」に傍点]じゃねえか」そして目の前に相手をおいたとでも云うように叫び声を上げた。
「野郎、覚えておくがええぞ、一度でも出会《でくわ》したなら、貴様の首ねっこはもうねえと思うんだぞ、やい、この半兵衛野郎!」
「え、半兵衛?」私は驚いて問い返した。
「そうです」彼は息を切らしながら云った。「ひどい悪党です、残忍な奴なんです、へん、だがな、今度こそ僕が承知しねえからな、野郎! 嬶の殺人罪をきせてやるからな」
「半兵衛」私は再び呟いてみた。どう考えてもそれは確かに私には耳なれの名前である。
「半兵衛、半兵衛」私は何度も口ずさんでみたが、記憶の中を空廻りするだけでどうしても思い起せなかった。
その時に医師の矢部君が出て来たので、私たちは彼の方へ駆け寄って経過をきいた。彼の話では生命には別状もないだろうが、何しろひどい刺傷でどうしても一カ月の入院治療は要するから、今に意識を返すのを待って、どこかほかの病院へ移さねばならないとのことだった。李はその話を聞くと真蒼になって声をふるわせ、亭主が何しろ半兵衛で鐚銭《びたせん》一文持たないごろつきであるから、入院などとても覚束《おぼつか》ない、助けると思ってここに治るまで寝かせてくれとすがり附いて頼んだ。
「先生、お願いです、僕の方でお粥だのそんなのは持ちますから、先生……」
だが実際のところここは医療部といっても、有志医学士が二三人昼間やって来て簡易治療にたずさわるという程度で、重傷患者を入院させるという程の所ではなかった。それで矢部君も暗然として首をひねりながら、私にどうしたものだろうと訊ねるのだった。私はすぐ近処の相生病院の尹医師を思い出したので、その方へ電話でお願いすることにした。それは貧民救済医院といったもので、資金が朝鮮の労働者たちのか細い懐から出ているだけに、朝鮮人にはいろいろ特典があった。丁度空いているベッドがあったために工合よく話がまとまった。それで再び彼女は担ぎ出された。もはや頭や顔には白い繃帯が何重にも厚ぼったく巻かれていた。それは丁度羽根のとれたとんぼのようにみじめだった。彼女は私たちに護られながら小路をぬけた所にある古ぼけた相生病院に運ばれた。手術台にのせられた時にもほんの少ししか意識がないようだった。彼女は二言三言呻いたようだったが、はっきりと聞きとることが出来なかった。体の小さい、弱々しそうな女だった。指先は蝋のように真蒼で血の気も通っていないようだった。その傍で尹医師は矢部君の話に耳を傾けながら、いろいろな医具の準備をととのえていた。私は彼等が再び彼女の繃帯をほどこうとするのを見て静かにその部屋から出て来た。
外はだんだん険しい空模様になっていた。風が出て来た。藤棚の葉っぱが激しく揺れていた。
病院には半兵衛も春雄も現われなかった。
三
日の暮れる頃はもうどしゃ降りになっていた。ますます風もひどくなり、雨は桶を流したような威勢で降り出した。窓ががたがたふるえ電灯が明滅していた。子供は一人も来ていなかった。ただ二階で数学の授業がひっそりと行われているだけだった。
私は食堂の方で二三の同僚たちや婆やと山へ行った子供部のことを心配し合っていた。だが私の脳裡には先程起った事件のショックがやきついてどうしても離れなかった。と云っても私はその事をどうしたのか、まともに考えてみようとはしないのだった。私自身その怖ろしさにけおされていたのかも知れない。私はただ目を蔽いたかった。
その時に凄じい風が吹き附けて唸りを上げ、どーんと勝手口の扉が吹き飛ぶような音が無気味に響いた。一同はびくっとして息を殺した。近寄って行った婆やはあっと悲鳴を上げてたじろいだ。駆けて行って見れば、扉は倒れ雨と風の中に山田春雄が竦然《しょうぜん》として立っていた。折も折、稲光りがぴかぴか光ってそれは幽霊のようにおののいて見えた。
「どうしたんだ、春雄」私は彼を抱え込んではいって来た。そしてそのまま二階の自分の部屋へ上って行った。何とも云えない気持だった。ずぶ濡れになった着物を脱がし、タオルで体をふいて寝床へ横にさせた。彼の体はわなわなふるえていた。熱いお茶をやると何杯もがぶがぶ飲んだ。そこで漸く元気を取り戻して、悲しそうに私を見上げるのだった。私は何となく胸の中も打ち解けるような、ほかほか温かいしんみりとしたものを感じた。この少年は又どんなことがあって、こういう嵐の夜中をやって来たのであろう。
「病院へ行って来たのかい?」
彼は口をひくひくさせたかと思うと急にいーと引張るように泣き出した。
「莫迦だな、泣いたりして」
「違うんだよ。病院へ行きやしないよ。行きやしないよう」
「まあ、いいよ」私の声はかすれていた。「まあいいんだよ」
「うん」
彼はすぐに安心したように肯いた。そこでぽかぽか暖かそうに蒲団の中に足をのばして首をすぼめて見せた。私にはそれがこよなくいじらしいものに見えた。彼の目はきらめき、口元はにっこりと微笑を浮べたのである。すっかり私に心を許したというものであろう。私は彼の心の世界にもこういう美しいものがひそんでいるに違いないと考えた。本能的な母親に対する愛情にしろ、どうしてこの少年にだけ欠けていると考えていいのだろうか。それはただ歪められたのに過ぎないのだ。私は近所の人々からいためつけられ擯斥《ひんせき》されている一人の同族の婦を想像した。そして内地人の血と朝鮮人の血を享けた一人の少年の中における、調和されない二元的なものの分裂の悲劇を考えた。「父のもの」に対する無条件的な献身と「母のもの」に対する盲目的な背拒、その二つがいつも相剋しているのであろう。殊に身を貧苦の巷に埋めている彼であって見れば、素直に母の愛情の世界へひたり込むことをさし止められたのに違いない。彼はおおっぴらに母に抱き附くことが出来ない。だが「母のもの」に対する盲目的な背拒においても、やはり母に対する温かい息吹はひしめいていたのであろう。彼が朝鮮人を見れば殆んど衝動的に大きな声で朝鮮人朝鮮人と云わずにはおれなかった気持を、私はおぼろながらに理解出来ないでもない。だが彼は私を見た最初の瞬間から朝鮮人ではあるまいかと疑いの念を抱きながらも、始終私につきまとっていたではないか。それは確かに私への愛情であろう。「母のもの」に対する無意識ながらの懐かしさであろう。そしてそれは私を通しての母への愛の一つの歪められた表現に違いない。その実彼は母の病院へ訪ねて行くかわりに私の所へやって来たのかも知れないのだ。母を訪ねる気持と何が違うのであろう。こう考えて来ると私はたとえようもない悲しい気持になって、彼のいが栗頭を撫でてやりながら、強いて笑顔をつくり、
「母ちゃんの病院へ行こうかい?」と質ねてみた。
彼は悲しそうに首を振った。
「どうして?」
彼は答えなかった。
だんだん嵐もしずまりかけたのであろう。小雨が時々思い出したように軒をふりたたいている。私は窓を開けてそろそろ晴れ渡りそうな空を眺めた。遠い北の方の空にはちぎれ雲の合間から、二つ三つ星さえ光り出していた。
「もう晴れそうだよ、ねえ、君、これから一緒に見舞に行ってみる?」
答えがない。見れば彼は蒲団をすっぽりと被っていた。
「父ちゃんは行ったのかい」
「行くもんか」後は蒲団の中でやや反抗的に云った。
「おかしな父ちゃんだね。母ちゃんが気の毒じゃないか」
「…………」
「それなら父ちゃんの所へは帰るつもりだね。父ちゃんだってきっとうちで心配しているよ」
「…………」彼は顔を出してすねたような目附をした。「僕はここでいいよ」
「うん、そりゃ……」私はしどろもどろ仕方なさそうに云った。「ここでもいいけれど……」
丁度数学の授業がひけたとみえて、廊下がどやどやざわめき出した。暫くするとドアにノックがして李が悄然と現われたが、山田の寝ているのを見るとはっと顔をこわばらせた。私はいささかあわて気味に、外へ出て話しましょうと彼を廊下へ連れ出した。
「先生は朝鮮人呼ばわりされるのに困って」と彼は罵るように叫んだ。「あいつをいよいよ抱き込もうと云う訳ですね」
「失礼なことを云うな」私はどうしたことか、かっとなって呶鳴《どな》った。確かに私は彼の出現に戸惑いしたのであろう。
「山田はこのひどい雨の中にやって来たんです。そして帰るに帰る所がないんだ」
「誰が帰る所もないと云うのです? あの気の毒な婦人こそそうです。今の餓鬼は自分のおやじの所へ行けばいいんだ。ああ呪われろ、悪党奴!」それから急に彼はへなへなになって哀願するように啜り泣いた。「どうして先生はあの気の毒な婦に対して同情しないんです。あの可哀そうな婦のことを考えないのです……」
「どうか止めてくれ」私は頼むように云った。私の言葉はふるえていた。どうしていいのか頭がくらくらして分らなかった。
「先生……」
「止めてくれんのか!」私は突然断末魔のような叫び声を上げた。気まで狂いそうだった。
彼はよろよろと立ち去った。私は激しい格闘でもした人のようにぐったりとなって壁によりかかった。
勿論私は純情な李を理解することが出来るのだと自分に云った。過去において私自身もそういう時期をとおって来たからである。だが私はその次の瞬間、自分が現在は南《みなみ》と呼ばれていることがじーんと電鈴のように五官の中へ鳴り響いて来るのを感じた。それで私は驚いたようにいつもの様々な云いわけの理由を考え出そうとした。だがもはや駄目だった。
「偽善者奴、お前は又偽善をはろうと云うのだな」私の傍で一つの声が聞えた。「お前も今は根気が続かなくて卑屈になって来ているじゃないか」
私はびっくりし、それからさげすむように云い返した。
「卑屈になるまい、なるまいとどうして僕はいつもいきまいていなければならないんだ。それが却って卑屈の泥沼に足をつっ込み始めた証拠ではないか……」
だが私はしまいまでを云い切る勇気がなかった。今まで私は自分がすっかり大人になっていると思い込んでいた。子供のようにひがんでもいなければ、若者のように狂的に××してもいないのだと。だがやはり私はお安く[#「お安く」に傍点]卑劣を背負い込んだまま寝そべっていたのだろうか。それで今度は自分に詰め寄った。お前はあの無垢な子供たちと少しも距たりをもちたくないためだと云った。だが結局、自分をしきりに隠そうとするおでん屋に来た朝鮮人とお前は何が違うと云うのだ! そこで私は抗弁のためとでもいうように李のことをやりこめようとした。それなら一時の感傷にせよ激情にせよ「俺は朝鮮人だ、朝鮮人だ」と喚いているおでん屋の男と、貴様は一体何が違うと云うのだ。それは又自分は朝鮮人ではないと喚き立てる山田春雄の場合と本質的な所、何の相違もないではないか。私は毛色の違うトルコ人の子供でさえこちらの子供と角力をとりながら無邪気に戯れているのを見る。だがどうして朝鮮人の血を享けた春雄だけはそれが出来ないのだ? 私はその訳を余りにもよく知っている。だから私はこの地で朝鮮人であることを意識する時は、いつも武装していなければならなかった。そうだ、確かに私は今自分一人の泥芝居に疲れている。
私は暫くの間そのまま茫然としていた。もう李はそこにはいなかった。私はよろめくようにして自分の部屋へ帰って来た。
部屋は薄暗かった。私は春雄の寝床の傍へ近寄って行った。その時私ははっと驚いて目を瞠《みは》った。えびのように体をちぢかめて自分の右腕を枕にし目を半ば開いたまま寝ついている山田春雄の寝姿。私は思わず口に手をあてて声をかみ殺した。
「あっ、半兵衛の子だ!」とうとう私は思い出したのだった。今まで目の前にちらつきながらどうしても思い起せなかった、半兵衛。「半兵衛の子だ!」
私は顛倒せんばかりに驚いた。あ――これは又何ということであろう。私はこういう恰好をして寝ている半兵衛をどれ程長い間見て来たのか知れない。だらしなげにぽかんとしている口や、大きな目に老人のような隈がふちをえがいている様までも、父に丸うつしではないか。その子が又そっくり同じ様子をして私の傍に寝ているのだ。実に私はその半兵衛とは二カ月余りも同じ留置場に寝起きしていた。彼のことを思うだけでも背筋には冷っこいものが走るのを感じた。それは私が一層春雄を愛しているからである。私の脳裡には一瞬間、この変質的な春雄がしまいには父のような人間になりはせぬかという怖ろしい予感が走ってぞっと身慄いした。
思えば先年の十一月のことである、私がM署の留置場で半兵衛に会ったのは。その時彼はにやにやしながら私の方へ寄りかかって来た。皺《しな》びた馬面《うまづら》に大きな目がでれりとして薄気味悪い男だった。だがおや朝鮮人だなと私は思った。
「おう! お前のシャツ貸せ!」彼は私の洋服のボタンをはずしかけた。私は幾らか興奮していたので、無造作に振りきって隅の方へ腰を下ろした。他の連中は皆何かを気味悪く期待するような目附で、私たちをかわるがわる見守った。
「野郎やりやがったな」彼は如何にも切り口上で出た。「この朝鮮人野郎、おれを見損いやがったな」
彼は腕をまくし上げた。その時廊下を歩いていた看守が格子窓から覗き込んで、
「山田、坐っておれ!」と呶鳴ったので、それを聞いて私は彼が内地人であることをはじめて知った。
彼はにたっと歯をむき出して笑うと、大人しく自分の席へもどった。そこで用もなしに上服《うわぎ》をとって外から見えないように壁にかけるとけろりとしていた。弁当の箸を折ってそれを釘のようにさし込んでいた訳である。私は思わず吹き出しそうなのをやっとこらえた。その時に彼のすぐ傍で居眠りをしている鬚《ひげ》もじゃな小男が頭を彼の方へもたせかけたと見るや、いきなり彼は荒くれた拳骨《げんこつ》を男の頭上へごつんと打ち下ろした。そしていかにも凄い権幕でにらみつける。その夕彼は私には弁当を渡さなかった。自分でがつがつかき込んで貪《むさぼ》り食べていた。私にはその瞬間の彼の様子が今にも見えるような気がする。それでいつだったか、春雄が食事をしている所を見てふと半兵衛のことを思い出しそうにさえなった程である。
彼は一人の卑怯な暴君だった。みなに恐れられながらも陰では非常に憎まれていた。彼は必要以上に看守の目を恐れているが、そのかわり新入者や弱い者に対してはひどい乱暴をしていた。中でも物凄い権幕で啖呵《たんか》を切ることは、彼の最も得意とする所に属するらしかった。「こちとらはな、これでも江戸八百八町を股にかけて歩いて来た男なんだ。余りふざけるねえ、手前のようなこそ泥とはちと訳が違おうぜ……」
留置場の様子から見れば、彼の他に相棒と思われるのも都合六七人はいた。彼の啖呵に従うとすれば、彼等は浅草を縄張りとしている高田組で、有名な俳優連を恐喝して大金をせしめたのだった。その中で自分はいかにも最|猛者《もさ》のように云いふらした。だがどうやらその連中の中でも「足らず者」という意味で、半兵衛と呼び捨てにされているらしいのはすぐに分った。私は今だに彼の本名を知らない。その中に私は彼にも馴れて来たし彼の素性もほぼ理解することが出来た。それと共に私の席もだんだん彼に近づいて行った。というのは監房内では古い者程格子扉の傍へ近附くようになるからである。ついに私は半兵衛と向い合って坐るようになり、寝る時は丁度隣り合うようになった。彼は私に対してはもはや温順しくなったが、しかし一緒に寝るのは私にはひどい苦痛だった。彼の口臭も我慢ならない程臭いけれど、何より一晩中股ぐらをごしごしかいて明かすのである。自分でも梅毒だと云った。私はもうそれが頭にまで来ているのだろうと考えた。いつかの夜半彼は妙にしんみりとなって私に質ねたものである。
「君は朝鮮のどこだい?」
「北朝鮮だ」
「おらは南朝鮮で生れたぜ」彼はずるそうに私の気色を覗《うかが》うのだった。そしてひーんと打ち消すように鼻で笑ってみせた。だが私は強いて驚くような気色を見せまいとした。
「そうか」
すると彼は歯をむき出した。
「ほんとうだよ」
勿論こういう話は二人でこそこそと云いかわすのだ。
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」
「ほう……」私は思わず目を丸くした。
彼はいかにも小気味よさそうににやにやした。私は彼に何か訳合があるに違いないと考えた。
「朝鮮に行って貰ったのかい」
「おかしくって、面倒臭せえや。じかに洲崎の朝鮮料理屋に親方とかけ合いに行ってさ、この女をおらあの手に渡せ、でねえとこっちが承知しねえぞ、障子に火を附けてやらあとおどかしたんだ。すると野郎たち蒼くなってくれやがった訳さ」
彼はじろりと横目で私を見た。折しもさし込んで来た夜明けの月の光にその目は一層凄惨な影を宿していた。
だが翌朝はけろりとして、いつ自分がそんなことを云ったんだろうというような調子である。やはりいつものように弱い者をいじめ、新入者の弁当は取り上げた。だが私はその晩以来ますます彼のことを不審におもうようになった。それでも彼が警察の中で山田と呼ばれているからには、内地人であるに違いなかった。それでは彼の母が朝鮮人であるかも知れないと考えたが、ついぞ確かめることが出来ずに私は起訴猶予となって出て来たのである。――
そして私は今ようやく彼のことを思い出したのだった。私は何という迂闊《うかつ》さであろう。苗字の符合からしてもそれ位はとうに感附いていそうなものではないか。最初に山田春雄を見た瞬間から、私の眼の前には半兵衛の映像がかすかながらの光芒をもってちらついていた筈だった。だが私はそれが半兵衛であることに気附くことが出来なかった。或は春雄に対する愛情からして、ひそかにそれが半兵衛であることを私は怖れていたのかも知れない。
「半兵衛」私はもう一度静かに呟いた。
だが春雄はすやすやと心よい眠りにおちている。私の網膜には、
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」と云っていた半兵衛の卑屈な笑い顔が幾重にも浮び上って来た。するとそれがいつの間にか今度は春雄の寝姿の上にのりうつってしまった。その時かすかに春雄は呻き声を出したようである。彼は顔をひくひく痙攣させたと思うと、うーうーうなされながら寝返りをうって驚いたように目を瞠った。
「どうしたんだ、夢でもみたのかい」
私は汗だくになっている彼の首筋をふきながら訊いた。
彼は再び目をとじると譫言《うわごと》のように呟いた。
「父ちゃんが今度は僕を片附けるんだって」
四
私も一晩中うつらうつらとしてとりとめのない夢ばかりみていた。朝、目をさましてみたらもはやそこには春雄はいなかった。私は驚いたように相生病院へ行ってみればいいのだと自分に云った。その日は日曜日で春雄にも学校がない筈である。いつの間にか私はそこの玄関に立って呼鈴を鳴らしていた。丁度よく尹医師が出て来て、私を春雄の母親の病室へ連れて行きながら云った。
「何でも山田貞順という名前になっているよ。朝鮮の人じゃないんだね。言葉の調子や貞順という字づらがおかしいと思って、負傷した瞬間の模様を朝鮮語で訊いてみたが口を噤《つぐ》んで答えないんだよ。ただ倒れたのだと日本語で云うんだ」
「ううん、そうか」私はしどろもどろで云った。「傷は大丈夫かい」
「まあ、大丈夫だよ。だがどうしても顔面に刀傷の痕はつくんだろうね。全く気の毒な程ひどい傷がこめかみの所に出来るんだよ。そうれ、あそこなんだ、……山田さん、お子さんの協会の先生がいらっしゃいましたよ」
春雄はいなかった。十二畳位の部屋に寝台が五つ程交互に並んでいて、いずれにも病者が沈み込んでいた。その隅の方に彼女が横たわっていた。白い繃帯でぐるぐる巻かれた顔の中に口と鼻の所だけが少しばかり明いてみえる。彼女はじっとしたまま何も答えない。尹医師は回診のために席をはずしてくれた。私は彼女にどういうふうに話しかけたものだろうかと一寸ばかり当惑した。
「どんなにかお痛みのことでしょう。春雄君も随分心配していたようです」とつい言葉のはずみで山田のことをひっぱり出した。「実は私、春雄君の通っている協会の先生だもんだから……私、南《なん》と申します」
彼女は心なしか少しばかり体を動かしたように思われた。きっと彼女は私が朝鮮の苗字をしているので驚いたのに違いないと考えた。
「あ、あ」彼女は指先を小刻みにふるわせながら呻いた。
「春雄……春雄がほんとうに妾のことを……」
「…………」私は答えるに言葉がなかった。
「あは」彼女は感動の余り嗚咽《おえつ》した。「妾の春雄が、ほんとうに……妾を心《すん》配すると……云ったでしょうか……」
私もほろ苦い気持になった。だがいきおい春雄のことで彼女を慰めねばならなくなった。
「私は毎日春雄君と遊んでいるのです。時にはいろいろ気を落しなさるようなこともあるでしょう。だがまだほんの子供だし、その中にはきっとお母さんとしても自慢の出来るような春雄になると思うのです」私は実際にもそう考えていた。彼に今日の性格を与えたいろいろなものに思いを馳《は》せて、温かい手をさしのべ指導して行くならば、必ずや彼はだんだん深い自分の人間性に目覚めるであろうと信じた。
だが彼女は答えなかった。息を殺して私の云うことに注意を向けているばかり。私は続けた。
「始めはやはりあなたが春雄を連れて朝鮮へ帰るよりほかはないと考えました」
彼女はびくっとした。
「あなたのためにも又春雄の将来のためにもそれが一番いいと思ったのです。だが、あなたにはやはり今も半兵衛さんを大事にするような気持があるのでしょうね」
「アイゴ……何も訊かないで下さい」彼女は小さな声で哀れ深く云った。「私の主《す》人ですもの……」
「何も隠しへだてなさることはないと思います。私はかねがね半兵衛さんのこともよく知っているのです」
「あ」と彼女はさすがに驚いて声を呑んだ。彼女は全く沈没したように呻いた。「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもう咽《むせ》び声になっていた。
彼女は今もやはりこういう奴隷のような感謝の念をたよりにして生きているのだろうか、私は無道な半兵衛のことを思い出してたとえようもない愁然とした気持になった。いつか洲崎の朝鮮料理屋をおどかして連れて帰ったというのは丁度この女である筈だった。卑怯で残忍な半兵衛にしてみれば、この寄るべない朝鮮の女にいかにも目を附けて貰い受けそうな話ではないか。彼女は始めから彼のいけにえとして択《えら》ばれたのに過ぎない。あの怖ろしい薄莫迦の半兵衛に比べればこれは又何といういたいたしい婦であろう。私には彼女等夫婦の日常の生活さえ想像することが出来そうに思えた。彼女は毎日いじめられるのであろう。すってんてんに転びながら合掌して拝むのに違いない。そういう所から春雄のような異質的な子供も出来た筈であった。妾は朝鮮人でありますと彼女はいかにも悲しく云っていた。彼女の方では又もしかすれば自分が内地人と結婚していることを一種の誇りと思って、この逆境に生きてゆくせめてもの慰めとしているのかも知れない。私は寧ろあの半兵衛に向って彼女が激しい憎悪をもっていることを期待し、そして同じ郷国から出て来た者として義憤の悦びに酔いたかった。だが私は見事に肩すかしを食わされたではないか。
「先生」
「え」
「妾、お願《ねか》いすることがあります」
「お話して下さい」
「お願《ねか》い……します。どうか妾の春雄の……相手をしないで……下さいませ」
「…………」私は黙ったままじっと彼女を見守った。彼女は今にも泣き出さんばかりの声であった。
「……春雄は……一人でもよく遊びます……」だが傷がひどくうずいて痛み出したのであろう、彼女は再び死者のようになった。だが又かすかに呻き声を出しながら「一人で……幾人の子供の……声も……真似て……にぎやかに……遊ぶのです……踊りがうまいのです。妾悲しゅうございました。どこかで見て来ては……一人で一生懸命踊ります……そして自分でも泣いています……」
「やはり朝鮮人だと云って外でいじめられるからでしょうか?」
「だが今は泣きません」彼女は力をこめて強く打消した。
「春雄は内地人テ[#「テ」に傍点]す……春雄はそう思っています……あの子は妾の子ではありません……それを……先生が邪魔するのは……妾悪いと思います……」
「私は半兵衛さんも南朝鮮で生れたというふうに聞いているのですが……」
「え……そうです……母が私のように朝鮮人でした。……だが今は……朝鮮といえば言葉だけでも……あの人はオコリます……」
「だけど春雄君は朝鮮人の私に非常になついて来ました。実は昨夜あの子は私の部屋で泊って行ったのです」
「…………」
「その中にあの子供のあなたに対する態度もだんだん変って行くだろうと思うのです」それから励ますように云い張った。「きっと近い中に春雄はあなたに対する愛情をよび返すでしょう。春雄が私になついて来たことはあながち私に対する愛情からだけではなく、実はあなたに対する愛の一つの違った表わし方だと思うのです。きっと春雄は愛情というものに餓えているのに違いありません。あなたに素直な愛情をよせることも出来なく、又あなたの愛情を純真に受けいれることの出来ない春雄でした。だがそれはだんだんとなおって行くことと思いますが……」
「そうでしょうか」彼女は寧ろ絶望的に深く溜息をついた。
「……あの子が……」
その時に戸口から一人の朝鮮服を着た老婆が転ぶようにはいって来た。私はそれとなしに、彼女が李の母であることが一目見て分った。それで私は少しばかりベッドの傍を離れて立った。老婆は貞順の無慙な姿を見附けるなり、ふーと息を吐き出して朝鮮語で慨《なげ》いた。
「何ちゅうむごい事だよ。きっとあの悪党に天罰がおちるだよ。なあ、春雄の母ちゃん。わしを分るのけえ、李チャンの母だよ。李チャンの。しっかり気をもって早く治すのでっせ、分ったけえ」
貞順は指先をふるわせて辺りをまさぐった。老婆はその手をとった。
「傷でも治ったら今度こそ見附からねえように郷里へ逃げて帰るのでっせ。いつかみてえに又戻って来るでねえだよ。何もええことああるもんでねえだろ」
貞順は呻いた。老婆は急に何か思い出したとみえ急いで風呂敷包をほどくと、夏蜜柑を二つばかり取り出した。
「夏蜜柑だよ。食べると喉の乾きが少しはなおるかも知れねえよ」そこで彼女は一生懸命になって皮をむきはじめた。
「李チャンがおばさんにやってくれと買って来たんだよ。あれも今日から免許状が下りて一人前になったちゅうて喜んでな」
「どうぞお大事にして下さい」やはり私はその場を外した方がいいと考えたので、そう云うと戸口の方へ進んで行った。その時何か春雄の母の息苦しそうな、ほそぼそした朝鮮語が聞えたので私ははっと立ち止った。彼女は老婆に向って朝鮮語で哀願するように云うのだった。
「おばさん。……妾、やはり帰りませんわ……それに妾の顔にひどい傷が出来るそうですの……そうなれば……あの人……妾を売り飛ばそうとも云えませんし……誰もこんな妾なんか買いはしませんもの……」それから痙攣でも起したように急に起き上ろうとした。
「あ!」
「お前さん、どうしたんだよ」老婆は慌てて彼女を抱えて寝床の中へ落着かせた。
「……何か……音がしたの」彼女は気でもふれたように息を切らした。「おばさん……春雄が来るのです。そうれ妾を訪ねて来るのです……」それから急に金切り声で叫び出した。
「おばさん出て行って下さい。……隠れて下さい!」
「誰も来やしねえだよ、誰も見えやしねえじゃねえか」老婆は悲しそうに泣き声をしぼった。
私は忍び足で戸口を出て来たがどうしたのか汗がびっしょりだった。その時私は誰かの小さな影が廊下のかどを慌てて横ぎったように思った。誰かははっきりと見分けがつかなかったが、おや、ほんとうに春雄ではなかったのかという考えがさっとひらめいた。私は急いでその曲り角まで行くと不審そうに辺りをながめた。果して私の推測は間違いではなかった。二階へ上る階段の裏側の薄暗い隅の方に、山田春雄が射すくめられたように身を隠したまま目を光らしていたのである。
「どうしたんだね」私は近寄って行った。
慌てて彼は首を振った。そしておびえたようにますます隅の方へ尻ごみした。何か隠し物でもあるのか、右の手を後の方へぎゅっと廻して放さなかった。今に悲鳴でも出しそうだった。
「母ちゃんの見舞に来たんだね」私は喉元が熱くなるのを感じながら云った。非常に感動したのだった。「母ちゃんは今も君が見たいと云っていたよ」
彼は一層強く首を振った。私は不満な気持になって彼の体を引き寄せた。彼は後手を放さなかった。それは何か白い小さな紙包を握りつぶして一生懸命に隠そうとしている。瞬間春雄は母のために何か持って来たのだなと私は思った。自分の母を見舞いに来ていながら人の前を憚《はばか》ったり、知られまいとしたりせねばならないのは、何と悲しいことであろう。私は寧ろ少年のそういう姿が何とも云えない程いじらしいものに思えた。私は云った。
「きっと母ちゃんが喜ぶよ」
その時突然彼は私の体に頭を埋めながら啜り泣きをはじめた。
「莫迦だな」
彼はますます激しく泣いた。その時どうしたはずみか白いもみくしゃになった小さな紙包がずり落ちた。私はそれを見て少からず異様な気持になった。きざみ煙草の紙包である。それは私が今朝起きた時に、机の上や抽斗《ひきだし》の中を随分さがしたがとうとう見附からなかった「はぎ」の古い包である。
「なあんだ、それで先生をこわがっているのか。ただ先生にそうことわって持って来ればよかったんだよ。さあ、これからそんなことは気を附ければいいんだ。それ、それ、母ちゃんが待っているよ、持って行っておやり、左側の三番目の部屋だよ」それから彼を元気附けるように肩をたたいてやった。「何だ、山田らしくもない。これからな、先生は協会へ帰って待っているよ。君が来たら昨日約束したように二人で上野へ遊びに行こうね」
彼はわーと泣き出した。私の心もゆらいでいた。だが病院の中にいるのは彼をますます窮屈にさせるだろうと思ったので、彼に病室を教えてから私は急いでそこから出て来た。そして何故彼が私の所から煙草を持って来たのだろうかといろいろと考えをめぐらしてみた。彼の母が吸うのだろうとしか想像がつかなかった。何という思わぬだしぬけたことをする少年であろう、私にはその時にも半兵衛が監房の中で上服を壁にかけてにたにたしていたことが思い出された。
五
一時間ばかりして山田春雄は再び私の前に姿を現わした。だが彼は指を口に咥《くわ》えたまま足元ばかり眺めていた。何だかすっきりした安堵もあるのだろうか。口元が今にも綻《ほころ》びそうにさえ思われた。何か素敵な事をした子供が大人の前でてれているようでもある。今まで彼の面上にこれ程素直な子供らしい影が現われたことがあろうか。彼はもうすっかり私を信じているのに違いなかった。だが私もひそやかに微笑を浮べるだけで何も訊かなかった。「さあ、出掛けようか」と帽子をとり乍《なが》ら一言云っただけである。
前夜の嵐の後をうけてうすら寒い位の午後だった。広小路で市電を下りた時は丁度日曜で押し合いへし合いの雑沓ぶりである。いつの間にか呑まれるように松坂屋の入口まで来たので、私は別に用事はないものの彼の手を引いてはいって行った。中も非常に込んでいた。春雄がエスカレーターに乗ろうというので二人で並んで乗った時は、さすがに彼は幸福そうで晴々としていた。私もみちあふれるような歓びを全身に感じた。少年春雄は今|凡《すべ》ての人々の中にいるんだという考えが、私にはどうしても不思議な程に嬉しくてならなかった。彼は春雄であると同時に今は私の傍に立ち又人々の中にもいるのだ。二人は相並んで三階まで運んでもらった。そこでも人込みの間を縫いながら私達は五階か六階かの所まで上って行くと、食堂の一隅に向い合って腰を掛けたのである。だがその実二人は必要以上の言葉はいくらも交さなかった。彼はアイスクリームとカレライスをとり私はソーダ水を飲んだ。
「うまいかい」
「うん」彼は皿の上に顔をつけたまま私を上目で見た。「デパートのカレライスはうまいんだなあ」
そこからエレベーターで下りて来ると、一階の特売場で彼のアンダーシャツを一円で買った。彼はにこにこしながら包の紐を長くぶら下げて出て来た。
公園も珍しい人出であった。私達は石段を上って大通りに出た。こんもりとした木立は午後の淡い光をうけてものうそうに静かにゆらいでいた。空はどんよりと濁り風は折々高い木の梢に雨のような響きをたてている。だだっ広い大通りにはお上りさん風情の婦や男たちがぞろぞろと歩いていた。少年はいつの間にか新しいアンダーシャツに着替えて、ぼろぼろの上服を脇にかかえたまま、時々口笛などを吹き鳴らした。私は何とも云えない程彼がしおらしくなって来た。だが私はあまり彼に言葉をかけることが出来なかった。突然彼が私の袖を引きながら云った。
「先生云うのかい」
「何をだい」
見ると彼の目はいつものように猜疑と反逆の光をともしていた。私ははっと気がついた。煙草の一件を云うのだった。
「云うもんか、誰にも云いやしないよ、可哀そうな母ちゃんのために持って行ったんだもの、今日は実に君が善い行いをしたと先生は思っている位だ。母ちゃんは煙草が好きなんだろう?」
「好いていやしないよ」と彼は妙にしょげて渋々《しぶしぶ》呟いた。「母ちゃんは血が出たら……いつもきざみ煙草を傷にはっていたんだもの、僕ちゃんと知っていたんだもの」
成程と私は思わず息をのんだが、どうしたことか驚きの色さえ顔にあらわすことは出来なかった。私の目先が急にぼうと霞んで来たような気持だった。×××××××××[#底本の注によれば、欠落した9字は初出では「半兵衛に打たれて」となっている]血を流しては、彼女はいたましくもきざみ煙草をつばで練っては、幾つも幾つも傷口にはりつけていたのに違いなかった。丁度彼女の郷里の百姓達がそんな風にして傷を治そうとするように。
「そうか」
私たちはいつの間にか交番に近い所まで来ていた。その傍に頑丈そうな体重計がおいてあった。私はそれを見ると、とりつくろうように振り向いて淋しく笑いかけながら計ってみないかと質ねた。すると彼は悦んで飛びのった。余りに激しい力を一時に受けたので針がてんてこ舞いをし始めた。案外重いようだった。その時春雄は何かに驚いたとみえ、私の方へ飛びかかりながら小さく指で大通りをさしてみせた。何だろうと思って彼のさしている方を振り向いてみると、丁度一台の自動車が私たちの傍へすうっと横着けになるのだった。
「おや」と思ってみると運転手台で李が新しい帽子の庇《ひさし》に一寸ばかり指を上げてにこっと挨拶をしてみせた。私も嬉しくなって彼の方へ近寄って行った。
「お目出度う、先程病院で君のお母さんが云ってましたよ。うまくいったそうですね」
春雄は別に悪びれずに私の傍へよりそうて来た。それを見て李は工合悪そうに目を逸《そ》らした。
「え、今先私も病院へ行って来たんですよ」それなら彼はそこで春雄にも会った筈だった。黒い美しい目をしばたたきながら、さすがに彼は悦びをつつみ隠せずに珍しくはしゃいだ。
「僕もやっと一人前ですよ、随分これはいい車でしょう。三七年型だけれどわりに新しいし、エンジンもしっかりしていますよ」
そこで鷹揚にセルモーターを踏んだ。私の目にはありきたりのフォード型でそれ程いいようにも思われなかったが、「成程いい車ですね」と答えた。「今日はこの春雄君と一緒に遊びに来たんですよ」そして少年を引き立てるように続けた。「今も僕は気が附かなかったが春雄君が教えてくれたんでね」
「どうです、ひとつ乗ってみませんか。動物園にでも行くんでしょう」彼は戸を開けてしきりにすすめ出した。
二人は仕方なしに手をとって乗り込んだ。動物園の入口まではいくらもなかった。
「どうですか乗り心地がいいでしょう」彼は私たちを下ろしながら云った。この純真な若者には今日という日がたのしくてならないのであろう。「ほかのお客さんもみんなそう云ってくれましたよ」
「そう、新しくて気持がいいですね」私は正直に云った。
そこで彼は満足して見事にハンドルを操り切り返しをやると、先刻のように指を一寸立てて別れを告げ、ぶーぶー警笛を鳴らして人を散らしながら河豚《ふぐ》のように走って行った。春雄はじっと立ったまま羨望に満ちたまなざしで車を見送っていた。私は何という恵まれたうれしい日だろうと考えた。
「李君は立派な運転手になったね。君は大きくなったら何になる積りだい」私は春雄を顧みながら楽しそうに質ねた。
「僕、舞踊家になるんだよ」彼はいきなり明るい声で叫んだ。
「ほう」私は驚いて彼を見つめた。一時に彼の体が光彩を放ち出した様に思われた。「舞踊家になるのか」ふとこれは実に素晴しい舞踊家になれるかも知れないぞと考えた。
「そうか」
「うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど明るいところでは駄目だよ。舞踊は電気を消して暗い所でやるもんさ。先生は嫌いかい?」
「ううん、それはきっと素晴しいことだろうな。そう見れば君は体も実にいいぜ」私は夢想するように云った。
「先生も踊りがとても好きなんだ……」
私の目の前には、この異常な生れをもつ、傷めつけられ歪められて来た一人の少年が、舞台の上で脚を張り腕をのばして、渡り合う赤や青の様々な光を追いながら、光の中に踊りまくる像がちらついて見えた。私の全身は瑞々《みずみず》しい歓びと感激にあふれて来るのを感じた。彼も満足そうに微笑を浮べながら私を見守った。
「先生だって踊りを作ったことがある位だよ。先生も暗い所で踊るのが好きなんだ。そうだ。これからは先生と一緒に踊りを稽古しよう。うまくなったらもっと偉い先生の所へ連れて行こうな」私は何も作りごとを並べているのではなかった。私も一時は舞踊家になろうと思って創作舞踊を試みた覚えさえあった。
「うん」彼の目は青い星のように輝いていた。
(そうだ、近い中に協会の傍のアパートにでも移って行こう。そこで一先ず二人きりになるんだ)と私は自分に云い聞かせるのだった。彼がどうこれから豹変《ひょうへん》するかは知らない。寧ろ又私を立ち所に裏切るには違いない。だが頑なにこちこちといじけ固っていた気持を、ほんの少しでもほぐしかけて来たこの機会を、私は逃してはならないと思ったのだ。
どうしたものかその時二人は浮かれ浮かれて老木の間をぬけて弁天様の傍を通っていた。そこにもここにも昨夜の嵐の跡が残って、折れた枝が落ちかかったり雨に洗われた地面に所々わくら葉が落ちたりしていた。鳩の群が弁天様の屋根や五重の塔のまわりをにぎやかに飛び交っていた。灯籠の傍に出ると下の方に茂みの合間を通して不忍池が見渡される。それは鏡をのべたように夕陽に照り返り時々ぎらぎらと金色に光ってみえた。五つ六つボートが浮んでいた。池に渡した石橋のてすりには多勢の人々がもたれて水面をながめている。何んだか軽い霧が立ちこめはじめているように思われた。もうだんだんと夕暮になって来るのであろう。ゆるやかにそれが池をつたわってこちらの方へ次第にひろがって来るように感ぜられる。それにつれて二人の心はますます清澄なものにしずまって行くのであった。
「動物園というのがここまで来てしまったね」
「だけど僕、ボートに乗りたいな」彼ははにかみながら云った。
「そうか、じゃ下りて行こう」
そこからは長い段々が続いていた。私と春雄はそれを一つ一つ下りて行った。彼は一段下の方を歩いて、恰も老人でも連れているように用心深そうに私の手を引きずって行くのだった。だが彼は中段まで下りて来ると急に立ち止って、私の体にぴったりよりついて私を見上げながら甘えるようにこう云った。
「先生、僕は先生の名前を知っているよう」
「そうか」私はてれかくしに笑って見せた。「云ってごらん」
「南《なん》先生でしょう?」そう云ったかと思うと彼は私の手に自分の脇にかかえていた上服を投げ附けて、嬉々としながら石段をひとり駆け下りて行くのだった。
私もほっと救われたような軽い足取りで倒れそうになりながら、たたたっと彼の後を追うて下りて行った。
底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 I」河出書房新社
1973(昭和48)年2月28日
※初出:「文芸首都」1939(昭和14)年10月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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