青空文庫アーカイブ
藤十郎の恋
菊池寛
人物
坂田藤十郎 都万太夫座の座元、三が津総芸頭と賛えられたる名人
霧浪千寿 立女形、美貌の若き俳優
中村四郎五郎 同じ座の立役
嵐三十郎 同上
沢村長十郎 同上
袖崎源次 同じ座の若女形
霧浪あふよ 同上
坂田市弥 同上
小野川宇源次 同じ座のわかしゅ形
藤田小平次 同上
仙台弥五七 同じ座の道化方
服部二郎右衛門 同じ座の悪人形
金子吉左衛門 同じ座の狂言つくり
万太夫座の若太夫 万太夫座の持主
楽屋頭取
楽屋番 二、三人
その他大勢の若衆形、色子など
宗清の女中大勢
宗清の女房お梶 四十に近き美しき女房
その他重要ならざる二、三の人物
時
元禄十年頃
所
京師四条河原中島
第一場
――四条中島都万太夫座の座付茶屋宗清の大広間。二月の末のある晩。都万太夫座の役者たちによって、弥生狂言の顔つなぎの饗宴が開かれている。百目蝋燭の燃えている銀の燭台が、幾本となく立て並べられている。舞台の上手に床の間を後に、どんすの鏡蒲団の上に悠然と座っているのは、坂田藤十郎である。髪を茶筌に結った色白の美男である。下には、鼡縮緬の引かえしを着、上には黒羽二重の両面芥子人形の加賀紋の羽織を打ちかけ、宗伝唇茶の畳帯をしめている。藤十郎の右には、一座の立女形たる霧浪千寿が座っている。白小袖の上に紫縮緬の二つ重ねを着、天鵞絨《やろう》羽織に紫の野良帽子をいただいた風情は、さながら女のごとく艶《なまめ》かしい。二人の左右に、中村四郎五郎、嵐三十郎、沢村長十郎、袖崎源次、霧浪あふよ、坂田市弥、小野川宇源次、藤田小平次、仙台弥五七、服部二郎右衛門、金子吉左衛門などが居ならんでいる。席末には若衆形や色子などの美少年が侍している。万太夫座の若太夫は、杯盤の闇を取り持っている。
幕が開くと、若衆形の美少年が鼓を打ちながら、五人声を揃えて、左の小唄を隆達節で歌う。
唄「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」
(歌い終ると、役者たち拍手をして慰《ねぎら》う。下手の障子をあけ、宗清の女中赤紙の付いた文箱を持って出る)
女中 藤十郎様にお文がまいりました。
若太夫 (中途で受取りながら)火急の用と見える。(藤十郎に渡す)
藤十郎 (受取りて)おおいかにも、火急の用事と見えまする。ちょっと披見いたしまする。皆の衆御免なされませ。なになに漣子《れんし》どの、巣林《そうりん》より、さて近松様からの書状じゃ。(口の中に黙読する、最後に至りて声を上げる)こんどの狂言われも心に懸り候ままかくは急飛脚をもって一筆呈上仕り候。少長どのに仕負けられては、独り御身様の不覚のみにてはこれなく、歌舞伎の濫觴《らんしょう》たる京歌舞伎の名折れにもなること、ゆめゆめご油断なきよう御工夫専一に願い上げ候。(しばらく考えてまた読み返す)京歌舞伎の名折れにもなること、うむ! なんの仕負けてよいものか。ははは……が、近松様も、この藤十郎を思わるればこそ、いかい御心労じゃ。
千寿 (言葉も女の如く)さようでござりますとも、こんどの狂言には、さすがの近松様も、三日三晩、肝胆を砕かれたとのことじゃ。ほんに、仇やおろそかには思われぬわいのう。
弥五七 (道化方らしく誇張した身振りで)さればこそ前代未聞の密夫《みそかお》の狂言じゃ。傾城買《けいせいかい》にかけては日本無類の藤十郎様を、今度はかっきりと気を更えて、密夫にしようとする工夫じゃ。傾城買の恋が春の夜の恋なら、これはきつい暑さの真夏の恋じゃ。身を焦がすほど激しい恋じゃ。
四郎五郎 夏の日の恋というよりも、恐ろしい冬の恋じゃ。命をなげての恋じゃ。
三十郎 命がけの恋じゃとも。まかり違えば、粟田口で磔《はりつけ》にかからねばならぬ恐ろしい命がけの恋じゃ。
源次 昨日も宮川町を通っていると、われらの前を、香具売《こうぐうり》らしい商人が二人、声高に話して行く。傾城買の四十八手は、何一つ心得ぬことのない藤十郎様が、密夫の所作を、どなに仕活《しいか》すか、さぞ見物衆をあっといわせることだろうと、夢中になっての高話じゃ。
長十郎 藤十郎の紙衣姿《かみこすがた》も、毎年見ると、少しは堪能し過ぎると、悪口をいいくさった公卿衆《くげしゅ》だちも、今度の新しい狂言にはさぞ駭《おどろ》くことでござりましょう。
二郎右衛門 それにしても、春以来大入り続きの半左衛門座の中村七三郎どのに、今度の狂言で一泡吹かせることができると思うと、それが何よりもの楽しみじゃ。半左衛門座に引付けられた見物衆の大波が、万太夫座の方へ寄せ返すかと思うと、それが何よりの楽しみじゃ。
四郎五郎 そうは申すものの、新しい狂言だけに、藤十郎様の苦心も、並大抵ではあるまい。昔から、衆道のいきさつ、傾城買、濡事《ぬれごと》、道化と歌舞伎狂言の趣向は、たいていきまっていたものを、底から覆すような門左衛門様の趣向じゃ。それに京で名高い大経師《だいきょうじ》のいきさつを、そのまま取入れた趣向じゃもの、この狂言が当らないで何としようぞのう。
若太夫 (得意になりながら)四郎五郎様のいわれる通りじゃ。(藤十郎の前に、いざり寄りながら)前祝いに、もう一つ受けて下されませ。傾城買の所作は、日本無類の御身様じゃが、道ならぬ恋のいきかたは、また格別の御趣向がござりましょうな。ははは。
藤十郎 (役者たちの談話を聴いている頃から、だんだん不愉快な表情を示し始めている。若太夫の差した杯を、だまったまま受けて飲み乾す)
千寿 (藤十郎の不機嫌に気が付いて、やや取りなすように)ほんに、若太夫のいう通り、藤十郎様にはその辺の御思案が、もうちゃんと付いているはずじゃ。われらなどただ藤十郎様を頼りにして、傀儡《くぐつ》のように動いていけばよいのじゃ。
若太夫 (千寿の取りなしに力を得たように)今度の狂言に比べますと、大当りだという傾城《けいせい》浅間ヶ嶽の狂言などは、浅はかな性もない趣向でござりまする。密夫の狂言とはさすがは門左衛門様でござりまする。それに付けましても、坂田様にはこうした変った恋の覚えもござりましょうな。はははは……。
藤十郎 (先刻から、ますます不愉快な悩ましげな表情をしている。若太夫の最後の言葉に傷つけられたようにむっとして)さようなこと、なんのあってよいものか。藤十郎は、生れながらの色好みじゃが、まだ人の女房と懇《ねんご》ろした覚えはござらぬわ。
若太夫 (座興のつもりでいったことを真っ向から、突き放され、興ざめ黙ってしまう)
千寿 (再び取りなすように)ほんに、坂田様のいわれる通りじゃ、この千寿とても、主ある女房と懇ろしたことはないわいな。
他の役者たち (皆一斉に笑う)……。
弥五七 それは誰とても同じことじゃ。女|旱《ひで》りがすれば格別、主ある女房にいい寄って、危い思いをするよりも宮川町の唄女《うたいめ》、室町あたりの若後家、祇園あたりの花車《かしゃ》、四条五条の町娘、役者の相手になる上臈《じょうろう》たちは、星の数ほどあるわ。ははは。
源次 だがのう。一|盗《とう》二|妾《しょう》三|婢《ひ》四|妻《さい》というて、盗み食いする味は、また別じゃというほどに、人の女房とても捨てたものではない。
長十郎 さては、そなたには覚えがあるとみえる。
源次 何の覚えがあってよいものか。だがのう、磔が恐ければ、世に密夫の沙汰は絶えようものを、絶えぬ証拠は、今度の狂言に出るおさん茂右衛門じゃ。色事の道はまた別じゃ。はははは。
若太夫 (自分の悄気《しょげ》たことを、隠そうとして)座が淋しい。さあ……若衆たち、連舞《つれまい》なと舞わしゃんせ。
三四人の若衆 あいのう。(立って舞い始める)
藤十郎 (黙々として、ひそかに狂言の工夫をめぐらすごとき有様なりしが、一座の注意が連舞にひかれたる間に、ひそかに座を立つ。正面の障子をあけて、静かに廊下に出ず)
(若衆たちは、舞いつづけている。鼓の音が、激しく賑かになる。役者たちも、浮かれ気味になる)
弥五七 (おかしき様子にて立ち上りながら)わしも連舞の群に入ろうぞ。
四郎五郎 美しき若衆たちと、禿げた弥五七どの。これは一段と面白い取合わせじゃ。鼓はわしが打とうぞ。
(若衆たちと一緒に、弥五七道化たる身振りにて舞う。皆笑いさざめくうちに、舞台回る)
第二場
宗清の離座敷。左に鴨の河原の一部が見える。右に母屋の方へ続く長い廊下がある。絹行燈の光が美しい調度を艶《なまめ》かしく照らしている。
幕が開くと、藤十郎は右の廊下を、腕組みをしながら歩いて来る。時々、立止まって考える。廊下の柱にもたれて考える。またまた、二、三歩、歩みながら、簡単な所作の形を付けてみたりする。ようやく座敷に来る。障子を開けて、人はおらぬかと確かめた後静かにはいる。懐中から書抜きを取出す。
藤十郎 (書抜きを読みながら形を付けてみる)かくなり果つるからは、たとい水火の苦しみも……。(工夫付かざるごとく、書抜きを投げ出して考え始める。立って女の手を取るごとき形をしてみる。また書抜きを開いてじっと見詰める)死出三|途《ず》の道なりとも、御身とならば厭わばこそ……(また絶望したるごとく、書抜きを投げ捨てて頭を抱えて沈思する。気を更えて立ち上り、無言にて動いてみる。工夫ついに付かざるごとく、後へ手を突いて座りながら、低い嘆息の言葉をもらす。とうとう工夫を一時中止したるごとく、床の間に置いてあった脇息を手を延ばして取り、それに右の肱をもたせながら、身を横にする)
(しばらく何事もない。母屋の大広間で打っている鼓の音や、太鼓の音などが、微かに聞えてくる。藤十郎は、静かに目を閉じる。ふと廊下に人の足音が聞える。藤十郎は、ちょっと目を開き、また書抜きを顔に当て、寝た振りをしてしまう。廊下に現れたのは、宗清の女房お梶である。足早に近づくと、何の会釈もなく障子を開ける。藤十郎の姿を見て駭《おどろ》く。)
お梶 あれ、藤様《とうさま》でござりましたか。いかい粗相をいたしました。御免下さりませ。(すぐ去ろうとする。ふと、気が付いたるごとく)ほんとに女子供の気の付かぬ。このように冷える所で、そうしてござっては、御風邪など召すとわるい、どれ、私が夜の具《もの》をかけて進ぜましょう。(部屋の片隅の押入れから夜具を出そうとする)
藤十郎 (宗清の女房であると知ると、起き直って居ずまいを正しながら)おおこれは、御内儀でありましたか。いかい御造作じゃのう。
お梶 何の造作でござりましょう。さあ横になってお休みなさりませ。
(藤十郎はふと、お梶の顔を見る。色のくっきりと白い細面に、眉の跡が美しい。最初は恍然としていた藤十郎の瞳が、だんだん険しく険しくなってくる。お梶は、藤十郎の不思議な緊張に、少しも気付かぬように、羽二重の夜具を藤十郎の背後からふうわりと着せる)
お梶 さあ、お休みなさりませ。あっちへ行ったら、女どもに水なと運ばせましょうわいな。(何気なく去ろうとする)
藤十郎 (瞳がだんだん光って来る。お梶の去るのを、じっと見ていたが、急に思い付いたように後から呼びかける)お梶どの。お梶どの。ちと待たせられい。
お梶 (ちょっと駭いたが、しかし無邪気に)なんぞ御用があってか。(と座る)
藤十郎 (夜具を後へ押しやりながら)ちと、御意《ぎょい》を得たいことがあるほどに、もう少し近く来てたもらぬか。
お梶 (少し不安を感じたるごとく、もじもじし、あまり近よらない。やはり無邪気に)改まってなんの用ぞいのう。おほほほほほ。
藤十郎 (低いけれども、力強い声で)ちと、そなたに聞いてもらいたい子細があるのじゃ。もう少し、近う進んでたもれ。
お梶 藤様《とうさま》としたことが、また真面目な顔をしてなんぞ、てんごうでもいうのじゃろう。(いざり寄りながら)こう進んだが、なんの用ぞいのう。
藤十郎 (全く真面目になって)お梶どの、今日は藤十郎の懺悔《ざんげ》を聴いて下されませぬか。この藤十郎は二十年来、そなたに隠していたことがあるのじゃ。それを今日はぜひにも聴いてもらいたいのじゃ、思い出せば古いことじゃ、そなたが十六で、われらが二十の歳の秋じゃったが、祇園祭の折に、河原の掛小屋で、二人一緒に連舞《つれまい》を舞うたことがあるのを、よもや忘れはしやるまいなあ。(じっとお梶の顔を見詰める)
お梶 (昔を想うごとく、やや恍然として)ほんにあの折はのう。
藤十郎 われらがそなたを見たのは、あの時が初めてじゃ。宮川町の唄女のお梶どのといえば、いかに美しい若女形でも、足元にも及ぶまいと、かねがね人々の噂には聞いていたが、始めて見れば聞きしに勝るそなたの美しさじゃ。器量自慢であったこの藤十郎さえ、そなたと連れて舞うのは、身が退けるほどに、思うたのじゃ……。(じっと、さし俯《うつむ》く)
お梶 (顔を火のごとく赤くしながら、さし俯いて言葉なし)
藤十郎 (必死に緊張しながら)その時からじゃ、そなたを、世にも希なる美しい人じゃと思い染めたのは。
お梶 (さし俯きながら、いよいようなだれて、身体をかすかに、わななかせる)……。
藤十郎 (恋をする男とは、どうしても受取れぬほどの澄んだ冷たい目付きで、顔さえもたげぬ女を、刺し通すほどに鋭く見詰めながら、声だけには、激しい熱情に震えているような響きを持たせて)そなたを見初めた当座は、折があらばいい寄ろうと、始終念じてはいたものの、若衆方の身は、親方の掟が厳しゅうてなあ。寸時も己が心には、委せぬ身体じゃ。ただ心だけは、焼くように思い焦がれても、所詮は機を待つよりほかはないと、思い諦めている内に、二十の声を聞かずに、そなたはこの家の主人、清兵衛どのの思われ人となってしまわれた。その折われらが無念は、今思い出しても、この胸が張り裂くるように、苦しゅうおじゃるわ。(こういいながら、藤十郎は座にも堪えぬげに身悶えをして見せる。が、彼の二つの瞳だけは爛々たる冷たい光を放って、女の息づかいから様子を恐ろしきまでに、見詰めている)
お梶 (やや落着いたごとく、顔を半ば上げる。一旦、蒼ざめ切ってしまった顔が、反動的にだんだん薄赤くなっている。二つの瞳は火のごとく凄じい)……。
藤十郎 (言葉だけは熱情に震えて)人妻になったそなたを、恋い慕うのは、人間の道ではないと心で強う制統しても、止まらぬは凡夫の思いじゃ。そなたの噂をきくにつけ、面影を見るにつけ、二十年のその間、そなたのことを、忘れた日はただ一日もおじゃらぬのじゃ。(彼は舞台上の演技にも、打ち勝つほどの巧みな所作を見せながら、しかも人妻をかき口説く恐怖と不安を交えながら、小鳥のごとく竦《すく》んでいる女の方に詰めよせる)が、この藤十郎も、たとい色好みといわるるとも、人妻に恋しかけるような非道なことはなすまじいと、明暮燃えさかる心を、じっと抑えて来たのじゃが、われらも今年四十五じゃ。人間の定命《じょうみょう》はもう近い。これほどの恋を……二十年来忍びに忍んだこれほどの恋を、この世で一言も打ち明けいで、いつの世誰にか語るべきと、思うにつけても、物狂おしゅうなるまでに、心が乱れ申してかくの有様じゃ。のう、お梶どの、藤十郎をあわれと思召さば、たった一|言《こと》情ある言葉を。なあ! お梶どの。(狂うごとく身悶えしながら、女の近くへ身をすり寄せる。が、瞳だけは刃のように澄み切っている)
お梶 わ……っ。(といったまま泣き伏してしまう)
藤十郎 (泣き伏したお梶を、じっと見詰めている。その唇のあたりは、冷たい表情が浮かんでいる。が、それにも拘らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適わしい熱情を持っている)のうお梶どの。そなたは、藤十郎の嘘偽りのない本心を、聴かれて、藤十郎の恋を、あわれと思わぬか。二十年来、忍びに忍んで来た恋を、あわれとは思《おぼ》さぬか。さりとは、強いお人じゃのう。
お梶 (すすり泣くのみにて答えず)……。
(二人ともおし黙ったままで、しばらくは時刻が移る。灯を慕って来た千鳥の、銀の鋏を使うような声が、手に取るように聞えて来る)
藤十郎 (自嘲するがごとく、淋しく笑って)これは、いかい粗相を申しました。が、この藤十郎の切ない恋を情《つれ》なくなさるとは、さても気強いお人じゃのう。舞台の上の色事では、日本無双の藤十郎も、そなたにかかっては、たわいものう振られ申したわ。ははははははは。
お梶 (ふと顔を上げる。必死な顔色になる。低い消え入るような声で)それでは藤様、今おっしゃったことは皆本心かいな。
藤十郎 (さすがに必死な蒼白な面をしながら)なんの、てんごうをいうてなるものか。人妻に言寄るからは命を投げ出しての恋じゃ。(浮腰になっている。彼の膝が、微かに震える)
(必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなりそばの絹行灯の灯を、フッと吹き消してしまう。闇のうちに恐ろしい躊躇と沈黙が、二人の間にある。お梶は身体を、わなわな震わせながら、男の近づくのを待っている。藤十郎の目が上ずってしまって、足がかすかに震える。ようやく立ち上るとお梶の方へ歩みよる。お梶必死になるが、藤十郎は、そのそばをするりと通りぬけて、手探りに廊下へ出る)
お梶 (男の去らんとするに、気が付いて)藤様《とうさま》! 藤様!(と低く呼びながら、追い縋《すが》ろうとする)
(藤十郎、お梶の追うのに気付いて、背後の障子を閉める。お梶障子に縋り付いたまま身を悶えつつ泣き崩れる。藤十郎やや狼狽しながら、獣のごとく早足に逃げ去る。お梶の泣く声に交じるように千鳥の声が聞える)
第三場
第二場より七日ばかり過ぎたる一日。都万太夫座の楽屋。上手に役者たちの部屋部屋の入口が見える。その中でいちばん目立つのは梅鉢の紋の付いた暖簾のかかった藤十郎の部屋である。真ん中に楽屋番の部屋がある。下手に万太夫座の舞台に通ずる出入口がある。浅黄の暖簾が垂れている。あちらの舞台にては幕が開く前と見え、鼓と太鼓と笛の音が継続して聞える。幕が開くと、狂言方や下回りの役者たちが、五、六人左右に忙しく行き交う。楽屋番が、衣裳、腰の物などを、役者の部屋へ運んで行く。
万太夫座の若太夫が、藤十郎の部屋から出てくる。出合頭に頭取と挨拶する。
頭取 おめでとうござんす。今日も明六つの鐘が鳴るか鳴らぬに、木戸へはいっぱいの客衆でござりまする。
若太夫 めでたいのう。ほんに藤十郎どのじゃ。密夫《みそかお》の身のこなしが、とんとたまらぬと京女郎たちの噂話じゃ。
頭取 これでは、半左衛門の人々も、あいた口が、閉《ふさ》がらぬことでござりましょう。この評判なら百日はおろか二百日でも、打ち続けるは定《じょう》でござりまするのう。
若太夫 なんにしてもめでたいことじゃのう。楽屋中よく気を付けてのう。粗相のないようにのう。こんな大入りの時に限って、火事盗難なぞの過ちがありがちでのう。
頭取 へいへい合点でござりまする。
(二人左右に別れる。下手の出入口から、丁稚を連れた手代風の男が入って来る)
手代風の男 (頭取を呼びかけて)ああもしもし。藤十郎様のお部屋はどこでござりまするか。
頭取 どちらからじゃ。お部屋はすぐここじゃが。
手代風の男 四条室町の備前屋の手代でござりまする。
頭取 おお室町の大尽のお使いでござりまするか。さあ! お通りなさりませ。左から二つ目の部屋じゃ。
手代風の男 なるほどな、梅鉢の紋が付いておりますのう。
(手代風の男、藤十郎の部屋へはいって行く。藤十郎の部屋のすぐ隣から、大経師以春に扮した中村四郎五郎と召使お玉に扮した袖崎源次とが出て来る)
四郎五郎 (源次の袖を捕えながら、ちょっと所作をして)どうも、お前にじゃれかかるところが、うまく行かぬのでのう。今日は三日目じゃが、まだ形が付かぬでのう。昨日藤十郎どのに、教えを乞うてみると、自分で工夫が肝心じゃと、いわしゃれた。さあ、幕の開く前に、もう一度稽古に付き合うてたもらぬか。
源次 おお安いことじゃ。何度でも付き合おう。藤十郎どのに、工夫を尋ねるといつも、強《きつ》い小言じゃ。みんな自分で工夫せいとはあの方の決まり文句じゃ。
四郎五郎 おお一昨年のことじゃ、山下京右衛門が、江戸へ下る暇《いとま》乞いに藤十郎どのの所へ来て、わがみも其許《そこもと》を万事手本にしたゆえに、芸道もずんと上達しましたといわれると、藤十郎どのはいつものように、ちょっと顔を顰《しか》められたかと思うと、「人の真似をする者は、その真似るものよりは必定劣るものじゃ。そなたも、自分の工夫を専一にいたされよ」とにこりともせずに真っ向からじゃ。あの折の京右衛門どののてれまき方を、思い出すと今でも可笑《おか》しくなるのじゃ。
源次 藤十郎どのから、お小言を食わぬ前に、もう一工夫してみよう。
四郎五郎 (急に芝居の身振りをなし)これさ、どっこいやらぬ。本妻の悋気《りんき》と饂飩《うどん》に胡椒《こしょう》はおさだまり、なんとも存ぜぬ。紫色はおろか、身中《みうち》が、かば茶色になるとても、君ゆえならば厭わぬ。
源次 (応じて芝居の身振りをしながら)どうなりとさしゃんせ。こちゃおさん様にいうほどに。あれおさん様、おさん様。
四郎五郎 (やはり身振りを続けながら)やれやかましいその外おさんわにの口、口のついでに口々。(急に役者に立ち返りながら)どうもここのところが、うまく行かぬのじゃ。
(芝居茶屋の花車女に案内され、若き町娘下手の入口より入って来る)
花車女 おお源次さま。ちょうどよいところじゃ、それそれこの間ちょっとお耳に入れた東洞院《とうのとういん》の近江屋のお嬢様でござりまする。
源次 (四郎五郎に、気兼ねをしながら)もう、幕が開《あ》きますほどに、またして下さりませ。
花車女 ほんに情けないことを、いわれますのう。せっかく楽屋まで、来られましたのに、ちょっと言葉なりと交して下さりませ。
源次 (もじもじしながら、娘に対して)ほんに、ようお出でなさりました。
町娘 (同じく恥じらいながら、黙って頭を下げる)
花車女 さあちょっと私の茶屋まで、入らせられませい。ほんのちょっとじゃ。手間はとらせませぬほどに。
源次 そうはしておられませぬわい。もうすぐ開きまする。
花車女 なんのまだ開きまするものかいのう。さあござりませ。(無理に源次の手を取りて、下手の入口より娘を伴うて去る)
(助右衛門に扮した仙台弥五七、手代丁稚に扮した三、四人の俳優と揃うて、右手より出て来る)
甲 この頃の娘は、油断がならぬことじゃ。役者を慕うて楽屋まで、のめのめとはいって来る。
乙 それにしても、袖崎どのは果報じゃ。男知らずの町娘から、あのように慕われては、まんざら憎うはあるまい。はははは。
丙 それにしても、見物人のどよみよう。小屋が、割れるような大入りと見える。
四郎五郎 (相手の源次を失うて、ぼんやり立っていたが)江戸の少長に、この大入りの様子が見せたいのう。
弥五七 ほんとにそうじゃ。この狂言に比べると、浅間ヶ嶽の狂言などは、子供だましじゃ。
四郎五郎 浅間ヶ嶽に立つ煙もだんだん薄うなって行くのじゃ。はははは。
(霧浪千寿、美しいおさんに扮して、部屋から出て来る。金剛が付いている)
弥五七 昨日ちょっとある所で、聞いた噂じゃが、藤十郎どのは、今度の狂言の工夫に悩んだ揚げ句、ある茶屋の女房に恋をしかけ、密夫《みそかお》の心持や、動作《しぐさ》の形を付けたということじゃが、真実《ほんとう》かのう。
四郎五郎 わしは、しかとは知らぬが、千寿どのは、聞いたであろう。その噂は真実かのう。
千寿 そんな噂は、わしも人伝《ひとづて》には聞いたがのう。藤様は、口をつぐんで何もいわれぬのでのう。が、あの宗清で顔つなぎの酒盛があった晩のことじゃが、藤様は狂言の工夫に屈託して、酒盛の席を中座され、そなたたちは、追々酔いつぶれて、別間へ退かれた後のことじゃのう。藤様が、蒼い顔して、息を切らせながら、酒宴の席へ帰って来られると、立てつづけに、大杯で三、四杯|呷《あお》ってからいわれるのに、「千寿どの安堵めされい。狂言の工夫が付き申した」と、いわれたが、平生の藤様とは思われぬほどの恐い顔付きじゃったが、あの晩に……。(と千寿が首を傾けているとき、下手の入口から宗清のお梶が、ひそかに入って来るのに気がついて、口をつぐむ)
弥五七 (役者の道化振りを発揮して)これは、これはお梶どの。ようおいでなされました。ちょっとお尋ねしまする。藤十郎どのが、狂言の稽古の相手はあなた様ではござりませぬか。
お梶 (緊張しながら、しかもつつましやかに)なんでござりまする。藪から棒のお尋ねでござりまするのう。
弥五七 (やはり道化た身振りで)藤十郎どのが、今度の狂言の稽古に、人の女房に偽りの恋をしかけ、靡《なび》くと見て、逃げたとのことでござりまする。もしやお心当りがござりませぬか。
お梶 (つつましやかに、態度をみださず)偽りにもせよ、藤十郎様の恋の相手に、一度でもなれば、女子に生まれた本望でござりますわい。
弥五七 よくぞ仰せられた。ははは。
千寿 (やや取りなすように)ほんに、日頃から貞女の噂高いそなたでなければ、さしずめ疑いがかかるところでござりますのう。楽屋へ御用でござりまするか。さあお通りなさりませ。
お梶 あのう、嵐三十郎様に、お客様からの言伝《ことづて》を。
千寿 さようでござりまするか。さあ、お通りなさりませ。
(お梶、会釈して通り過ぎる。役者の部屋の方へ行かんとして、部屋を立ち出でたる藤十郎と顔を合わす。二人とも、瞬間的に立ち竦《すく》む。お梶ちょっと目礼して行き過ぎる。藤十郎、しばらく後姿を見詰むる)
四郎五郎 (藤十郎の立ち出でたるを見て)今も、そなた様の噂をしてじゃ。今度の狂言について、楽屋の内外に広がった噂を、ご存じか。
藤十郎 (座元らしい威厳を失わないで)一向聞きませぬな。
弥五七 噂の本尊のそなた様が知らぬとは、面妖な。
千寿 藤様にはいわぬがよいわいな。
弥五七 いわいでも、いつかは知れることじゃ。藤十郎様、お聞きなさりませ。今度の狂言の工夫にそなた様がある人妻に恋をしかけたとの噂じゃ。
藤十郎 (快活に笑って)埒《らち》もない穿鑿《せんさく》じゃ。いつぞやも、わしが嵐三十郎の手負武者を介抱すると、あまり手際がよいというて、やれ藤十郎は外科の心得があるなどとやかましい沙汰じゃ。心得がのうても、心得のあるように真実に見せるのが、役者の芸じゃ。油売りになれば、油売った心得がのうても、油売りになって見せるのは芸じゃ。密夫の心得がのうて、密夫の狂言ができねば、盗人の心得がのうては、盗人の狂言はできぬ訳合いじゃ。公卿衆になった心得がのうては、舞台の上で公卿衆にはなれぬ訳合いじゃ。埒もない沙汰じゃ。口性《くちさが》ない京童《きょうわらべ》の埒もない沙汰じゃ。そのような沙汰が伝わっては、藤十郎の身近にいる人様のお内儀に、どのような迷惑をかけようとも計られぬわ。かまえて、打ち消して下さりませ。
千寿 ほんに藤様がいわれる通りじゃ。
弥五七 さすがは藤十郎様じゃ。なるほどなあ。心得がのうては狂言ができぬとなれば、役者は上は摂政関白から下は下司下郎のはしまで、一度はなって見なければ役者にはなれぬはずじゃ。なるほどなあ。
手代風の男 (藤十郎の部屋から出て来て)それでは、失礼いたしますでござりまする。
藤十郎 御苦労でござりました。大尽様に、よう礼をいうて下さりませ。
(手代風の男丁稚とともに去る。幕の開くこといよいよ近くなりしと見え、道具方楽屋方等の往復繁くなる)
藤十郎 (千寿を顧みて)千寿どの。あの闇の中で、そなたと初めて手を取り合うとき、今少し逆上した風を見せてたもらぬか。女はあのようなときは、男よりも身も世もあらぬように逆上するものじゃほどにのう。
千寿 (素直に)あいのう、合点じゃ。今日は作者の門左衛門様も、御見物じゃほどに、一段心を込めてみますわいのう。
藤十郎 さあ、もう幕が開くに程もあるまい。
(千寿の手を取りて行かんとす。急に、楽屋が騒ぎ出す。「自害じゃ。自害じゃ。女の自害じゃ」と道具方や下回りの役者たち、役者の部屋の方へ駆け込む)
頭取 (あわてて駆け込みながら)ああ、声を立ててはならん。見物が騒ぎ出すと、舞台の方がめちゃくちゃじゃ。静かに、静かに。(皆の後から奥の方へはいる)
弥五七 (やっぱり道化方らしいやや上ついた態度で)はて面妖な。自害、しかも女の自害とは。楽屋には、牝猫一匹おらぬはずじゃがのう。
千寿 (同じく不思議そうに)女の自害! はて女の自害!
藤十郎 (思い当ることあるごとく、やや蒼白になりながら黙っている)……。
(道具方楽屋番など、お梶の死体を担いで来る。口々に「宗清のお内儀じゃ」という)
千寿 (駭《おどろ》いて駆け寄りながら)なに! 宗清のお内儀! (ふと気が付いたように、藤十郎の方を振り返る)……。
藤十郎 (千寿の振り返った目を避くるように、目をそらしている)……。
弥五七 いかにも宗清のお内儀じゃ。短刀で胸の下をたった一突きじゃ。
四郎五郎 今ここで話して行かれたのに、瞬く間の最期じゃ。藤十郎様、御覧なされませ、いかな子細かは分かりませぬが、女子には希な見事な最期じゃ。
藤十郎 (引き付けられたように、歩み寄りながら、じっと死顔に見入る。言葉なし)……。
若太夫 (息せきながら、駆け込んで来る)何事じゃ。何事じゃ。なに女の自害! やあ宗清のお内儀じゃ。いかな子細かも知らぬが、なにも万太夫座の楽屋で、自害せいでもよいのを。
千寿 ほんに、楽屋に死にに来ないでも。(ふと、藤十郎の顔を見て黙る)……。
弥五七 こんな不吉なことが、世間に知れると、せっかく湧き立った狂言の人気に、傷が付かぬものでもない。
若太夫 ほんにそれが心配じゃ。皆様、他言は無用にして下されませ。
藤十郎 (黙って死骸を見詰めていたが、急に気を変えて)なんの心配なことがあるものか。藤十郎の芸の人気が女子一人の命などで傷つけられてよいものか。(千寿の手を取りながら)さあ、千寿どの舞台じゃ。
千寿 (真実の女のごとくやさしく)あいのう。
藤十郎 (つかつかと舞台の上へ急いだが、また引返して死体を一目見、ついに思い決したるごとく、退場す。同時に幕の開く拍子木の音が聞えて静かに幕が下る)
――幕――
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1999年1月1日公開
1999年8月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ