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俊寛
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)治承《じしょう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)北山|時雨《しぐれ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)かすか[#「かすか」に傍点]
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一
治承《じしょう》二年九月二十三日のことである。
もし、それが都であったならば、秋が更《た》けて、変りやすい晩秋の空に、北山|時雨《しぐれ》が、折々襲ってくる時であるが、薩摩潟《さつまがた》の沖遥かな鬼界ケ島《きかいがしま》では、まだ秋の初めででもあるように暖かだった。
三人の流人《るにん》たちは、海を見下ろす砂丘《さきゅう》の上で、日向《ひなた》ぼっこをしていた。ぽかぽかとした太陽の光に浴していると、ところどころ破れほころびている袷《あわせ》を着ていても、少しも寒くはなかった。
四、五日吹き続いた風の名残りが、まだ折々|水沫《みなわ》を飛ばす波がしらに現れているものの、空はいっぱいに晴れ渡って、漣《さざなみ》のような白雲が太陽をかすめてたなびいているだけだった。そうした晴れ渡った青空から、少しの慰めも受けないように、三人の流人たちは、疲れ切った獣のように、黙って砂の上に蹲《うずくま》っている。康頼《やすより》は、さっきから左の手で手枕をして、横になっている。
康頼も成経《なりつね》も俊寛《しゅんかん》も、一年間の孤島生活で、その心も気力も、すっかり叩きのめされてしまっていた。最初、彼らは革命の失敗者として、清盛《きよもり》を罵《ののし》り、平家の一門を呪い、陰謀の周密でなかったことを後悔し、悲憤慷慨《ひふんこうがい》に夜を徹することが多かった。が、一月、二月経つうちに、そうした悲憤慷慨が、結局鬼界ケ島の荒磯に打ち寄する波と同じに、無意味な繰り返しに過ぎないことに気がつくと、もう誰も、そうしたことを口にする勇気も無くしていた。その上に、都会人である彼らに、孤島生活の惨苦が、ひしひしと迫ってきた。毎日のように、水に浸した乾飯《ほしい》や、生乾きの魚肉のあぶったものなどを口にする苦しみが、骨身にこたえてきた。彼らは、そうした苦痛を圧倒するような積極的な心持は、少しも動かない。彼らは苦痛が重なれば重るほど、しょげきってしまい、飯を食うほかは、天気のよい日は海浜《かいひん》の砂地で、雨の降る日は仕方なくその狭い小屋の中で、ただ溜息と愚痴とのうちに、一日一日を過していた。そのうちに三人とも激しい不眠症に襲われた。その中でも、神経質の康頼がいちばんひどかった。彼は、夜中眠られない癖がついてしまったので、昼間よく仮寝《うたたね》をする。さっきからも、横になったかと思うと、もうかすか[#「かすか」に傍点]ないびきを立てている。長い間、剃刀《かみそり》を当てない髯《ひげ》がぼうぼうとしてその痩せこけた頬を掩《おお》うている。その上、褪《あ》せた唇の下端《した》には、涎《よだれ》が今にも落ちそうに湛《たた》えている。
成経は成経で、妖怪《もののけ》に憑《つ》かれたような、きょとんとした目付きで、晴れた大空を、あてどもなく見ながら、溜息ばかりついている。俊寛は、一緒に陰謀を企てた連中の、こうした辛抱のない、腑甲斐のない様子を見ていると、自分自身までが情なくなる。陰謀を企てた人間として、いますこしは男らしい、毅然《きぜん》としたところがあってもいい。刑罰のもとに、こうまでへこたれてしまわなくってもいいと思う。彼は、成経がもう一度溜息をついたら、それを機会に、たしなめてやろうと思いながら、じっと成経の顔を見据えていたが、成経はそれと悟ったわけでもあるまいが、くるりと俊寛の方へ背を向けると、海の方へ向いたまま、これもしばし、まどろむつもりだろう、黙り込んでしまった。
二人の友達が黙ってしまうと、俊寛の心も張合いが抜けたように、淡い悲しみに囚われる。彼にも、島の生活がたまらなく苦痛になってきた。都へ帰りたい。そうした渇きに似た感情で、胸を責められるその上、成経、康頼らの心持と、自分の心持とが日に増しこじれてくることを感じた。人間が、三人集まるときは、きっとその中の二人だけが仲よくなり、一人だけは孤立する傾きのあるものだが、今の場合には、それがことに激しかった。康頼も、成経も、彼らの生存が苦しくなればなるほど、愚痴になってくる。そして、過ぎ去った謀反《むほん》の企てを心のうちで後悔しはじめる。人間はいかなる場合でも、自分を怨《うら》まないで、他人を怨む。そして、陰謀の発頭人であった西光《さいこう》を怨む。ひいては西光といちばん親しかった俊寛を怨む。彼らを、こうした絶海の孤島で悶《もだ》えさせるのは、清盛の責任でなくして、本当は、西光が陰謀を発頭したためであるかのようなことをいう。西光の人格や陰謀の動機をよく理解している俊寛には、彼らのそうした愚痴が、癪《しゃく》に触って仕方がない。彼の神経は、日に増しいらいらする。そうして、何かのはずみから、つい気色《けしき》ばんで、言い争う。二人は俊寛を煙たく思いはじめる。そして、剛腹な俊寛に一致して反抗の気勢を示す。そして、お互いに心持を荒《すさ》ませる。
この頃、俊寛はよく、二人が意識して、自分を疎外しているのを感ずる。硫黄《いおう》を採りに行く時でも、海藻を採りに行くときでも、よく二人きりで行ってしまう。その上、三人でいるときでも、二人はよく顔を寄せ合って、ひそひそ話を始める。そんなとき、俊寛はたまらない寂寥《せきりょう》と不快を感ずる。三人きりの生活では、他の二人に背かれるということは、人間全体から背かれるということと同じことだった。俊寛は、そうした心苦しさを免れようとして、自分一人で行動してみようかと考えた。が、一日自分一人で、離れていると、激しい寂しさに襲われる。そして、意気地なく成経と康頼との所へ帰ってくる。そして再び、不快な感情のうちに、心を傷つけながら生活していく。
今朝も、鹿《しし》ケ谷《たに》の会合の発頭人は誰だということで、俊寛は成経とかなり激しい口論をした。成経は、真の発頭人は西光だといった。だから、西光だけは、平相国《へいそうこく》がすぐ斬ったではないかといった。俊寛は、いな御身《おんみ》の父の成親《なりちか》卿こそ、真の発頭人である。清盛が、御身の父を都で失わなかったのは、藤氏《とうし》一門の考えようを、憚《はばか》ったからである。その証拠には、備前へ流されるとすぐ人知れず殺されたではないかといった。父のことを、悪しざまにいわれたので、日頃は言葉すくない成経も、烈火のように激して、俊寛と一刻近くも激しく言い争った。二人が、口論に疲れて、傷つけられた胸を懐きながら、黙ってしまうまで。
成経と康頼とが、横になっているいぎたない[#「いぎたない」に傍点]様子を見ていると、俊寛は意地にもその真似をする気にはなれなかった。彼は、胸のうちの寂しさとむしゃくしゃした鬱懐《うっかい》とをもらすところのないままに、腕組をして、じっと考える。すると、いつもの癖であるように、妻の松の前や、娘の鶴の前の姿がまばろしのように、胸の中に浮んでくる。それから、京極の宿所の釣殿《つりどの》や、鹿ケ谷の山荘の泉石《せんせき》のたたずまいなどが、髣髴《ほうふつ》として思い出される。都会生活に対するあこがれが心を爛《ただ》らせる。たくさん使っていた下僕《しもべ》の一人でもが、今|侍《かしず》いていてくれればなどと思う。
俊寛が、こうした回想に耽《ふけ》っているとき、寝入っていたと思った成経が急に立ち上った。彼は、悲鳴とも歓声ともつかない声を出したかと思うと、砂丘を海の方へ一散に駆け降りた。
彼は、波打|際《ぎわ》に立つと、躍るように両手を打ち振った。
「判官どの。白帆にて候ぞ。白帆にて候ぞ」
そういって、康頼に知らせると、また悲鳴のような声をあげながら、浜辺を北へ北へと走った。
康頼も、あわただしい声にすぐ起き上った。俊寛も、白帆だときくと、すぐ立ち上らずにはいられなかったが、白帆が見えるといって成経が浜辺を走ったことは、これまでに二、三度あった。彼はよく白雲の影を白帆と間違えたり、波間に浮ぶ白鳥から、白帆の幻影を見た。
康頼は、さすがにすぐ後に続いて走ったが、俊寛はまたかと思いながら、無言のまま、跡からついて行った。成経と康頼とは砂浜を根よく走りつづけた。俊寛も、彼らの熱心な走り方を見ると、自分の足並みが、いつの間にか、急ぎ足になるのをどうともすることができなかった。
そのうちに、疑い深い俊寛の瞳にも、遥かかなたの水平線に、波に浮んでいる白千鳥のように、白い帆をいっぱいに張りながら、折柄の微風に、動くともなく近づいて来る船の姿が映らずにはいなかった。
俊寛も、狂気のように走り出した。三人は半町ばかり隔りながら、懸命に走った。お互いに立ち止って待ち合せる余裕などはなかった。走るに従って、白帆もだんだん近づいて来るのだった。それは、九州から硫黄を買いに来る船のような小さい船ではなかった。
成経は、感激のために泣きながら走っている。康頼もそうだった。俊寛も、胸が熱くるしくなって、目頭《めがしら》が妙にむずがゆくなってくるのを感じた。見ると、船の舳《へさき》には、一流の赤旗がへんぽん[#「へんぽん」に傍点]と翻《ひるがえ》っている。平家の兵船だと思うと、その船に赦免《しゃめん》の使者が乗っていることが三人にすぐ感ぜられた。
船は、流人《るにん》たちの姿を見ると、舳を岸の方へ向けて、帆をひたひたと下ろしはじめた。やがて、船は岸から三反とない沖へ錨《いかり》を投げる。三人は岸辺に立ちながら、声を合せて欣《よろこ》びの声をあげた。さすがに、俊寛をも除外しないで、三人は、手をとりあったまま、声をあげて泣きはじめたのである。
二
船は、流人たちの期待に背《そむ》かず、清盛からの赦免の使者、丹左衛門尉基康《たんさえもんのじょうもとやす》を乗せていた。が、基康の持っていた清盛の教書は、成経と康頼とを天国へ持ち上げるとともに、俊寛を地獄の底へ押し落した。俊寛は、狂気のように、その教書を基康の手から奪い取って、血走る目を注いだけれども、そこには俊寛とも僧都《そうず》とも書いてはなかった。俊寛は、激昂のあまり、最初は使者を罵《ののし》った。俊寛の名が漏れたのは、使者の怠慢であるといいつのった。が、基康が、その鋒鋩《ほうぼう》を避けて相手にしないので、今度は自分を捨てて行こうとする成経と康頼に食ってかかった。そして、成経と康頼とを卑怯者であり、裏切者であると罵倒した。成経が、それに堪えかねて、二|言《こと》三|言《こと》言葉を返すと、俊寛はすぐかっとなって、成経に掴《つか》みかかろうとして、基康の手の者に、取りひしがれた。
それから後、幾時間かの間の俊寛の憤りと悲しみと、恥とは喩《たと》えるものもなかった。彼は、目の前で、成経と康頼とがその垢《あか》じみた衣類を脱ぎ捨てて、都にいる縁者から贈られた真新しい衣類に着替えるのを見た。嬉し涙をこぼしながら、親しい者からの消息を読んでいるのを見た。が、重科を赦免せられない俊寛には、一通の玉章《たまずさ》をさえ受くることが許されていなかった。俊寛は、砂を噛み、土を掻きむしりながら、泣いた。
船は、飲料水と野菜とを積み込み、成経と康頼とを収めると、手を合わして乗船を哀願する俊寛を浜辺に押し倒したまま、岸を離れた。
そして、俊寛をもっと苦しめるための故意からするように、三反ばかりの沖合に錨を投げて、そこで一夜を明かすのであった。
俊寛は、終夜浜辺に立って、叫びつづけた。最初は罵り、中途では哀願し、最後には、たわいもなく泣き叫んだ。
「判官どの、のう! 今一言申し残せしことの候ぞ。小舟なりとも寄せ候え」
「基康どの、僧都をあわれと思召《おぼしめ》さば、せめて九|国《ごく》の端までも、送り届け得させたまえ」
が、俊寛の声は、渚《なぎさ》を吹く海風に吹き払われて、船へはすこしもきこえないのだろう。闇の中に、一の灯もなく黒く纜《もや》っている船からは、応という一声さえなかった。
夜が更《ふ》くるにつけ、俊寛の声は、かすれてしまった。おしまいには、傷ついた海鳥が泣くようなかすかな悲鳴になってしまった。が、どんなに声がかすれても、根よく叫びつづけた。
そのうちに、夜はほのぼのと明けていった。朝日が渺々《びょうびょう》たる波のかなたに昇ると、船はからからと錨を揚げ、帆を朝風にばたばたと靡《なび》かせながら巻き上げた。俊寛は、最後の叫び声をあげようとしたけれども、声はすこしも咽喉《のど》から出なかった。船の上には、右往左往する水夫《かこ》どもの姿が見えるだけで、成経、康頼はもとより、基康も姿を現さない。
見る間に船は、滑るように動き出した。もう、乗船の望みは、すこしも残ってはいなかったが、それでも俊寛は船を追わずにはいられなかった。船は、島に添いながら、北へ北へと走る。俊寛は、それを狂人のように、こけつまろびつ追った。が、三十町も走ると、そこは島の北端である。そこからは、翼ある身にあらざれば追いかけることができない。折から、風は吹きつのった。船の帆は、張り裂けるように、風を孕《はら》んだ。船は見る見るうちに小さくなっていく。俊寛は、岸壁の上に立ちながら、身を悶えた。もう声は、すこしも出ない。ただ、獣のように岸壁の上で狂い回るだけだった。
船は、俊寛の苦悶などには、なんの容赦もなく、半刻も経たないうちに、水平線に漂《ただよ》う白雲のうちに、紛れ込んでしまった。船の姿を見失ったとき、俊寛は絶望のために、昏倒《こんとう》した。昨夜来叫びつづけた疲労が一時に発したのだろう、そのまま茫として眠り続けた。
彼は、その岸壁の上で、昏倒したまま、何時間眠っていたかは、自分にも分からなかった。一度目覚めたときは、夜であった。彼は、自分の頭の上の大空が、大半は暗い雲に覆われて、そのわずかな切れ目から、二、三の星が瞬《またた》いているのを見た。彼は激しい渇きと、全身を砕くような疼痛《とうつう》を感じた。
彼は、水を飲みたいと思いながら、周囲を見回した。が、岸壁の背後は、すぐ磽※[#「※」は「石に角」、第3水準1-89-6、346-20]《ぎょうかく》な山になっているらしく、小川とか泉とかが、ありそうに思えなかった。それでも、激しい渇きは、彼を一刻もじっとしていさせなかった。彼は、寝ていた岩から、身を剥《は》がすようにして立ち上った。立ち上るとき、身体のもろもろの関節が、音を立てて軋《きし》るように思った。彼は、それでも這《は》うようにして、岸壁を降りることができた。彼は昼間(それは昨日であるのか一昨日であるのか分からなかったが)夢中で走った道を、二町ばかり引返した。彼は、昼間そこを走ったとき、榕樹《ようじゅ》が五、六本生えていて、その根に危く躓《つまず》きそうになったのを覚えていた。彼の濁ってしまっている頭の中でも、榕樹の周囲を探せば水があるかも知れないという考えが、ぼんやり浮んでいた。
が、榕樹の生えている周囲を、海の水あかりで、二、三度探して回ってみたけれども、そこらは一面に唐竹《からたけ》が密生しているだけで、水らしいものは、すこしも見当らない。俊寛は、その捜索に残っていた精力を使いつくして、崩れるように地上へ横たわると、再び昏々として眠りはじめた。
二度目に目が覚めたとき、それは朝だった。疲れ萎《しな》びている俊寛の頬にも、朝の微風が快かった。彼が目を開くと、自分の身体の上に茂り重っている蒼々《そうそう》たる榕樹の梢《こずえ》を洩れたすがすがしい朝の日光が、美しい幾条の縞《しま》となって、自分の身体に注いているのを見た。さすがに、しばらくの間は、清らかな気持がした。が、すぐ二、三日来の出来事が、悪夢のように帰ってき、そして激しい渇きを感じたので、彼はよろよろと立ち上った。それでも、縹渺《ひょうびょう》と無辺際《むへんざい》に広がっている海を、未練にももう一度見直さずにはいられなかった。が、群青色《ぐんじょういろ》にはろばろと続いている太平洋の上には、信天翁《あほうどり》の一群が、飛び交《こ》うているほかは、何物も見えない。成経や康頼を乗せた船が、今まで視野の中に止っているはずはなかった。
彼が再び地上に身を投げたとき、身を焼くような渇きと餓えとが、激しく身に迫ってきた。
彼は、赦免の船が来て以来、何も食っていないのだった。基康はさすがに彼をあわれがって、船の中で炊《かし》いだ飯を持って来てくれたのであるが、瞋恚《しんい》の火に心を焦《こが》していた俊寛は、その久しぶりの珍味にも目もくれないで、水夫《かこ》の手から、それを地上に叩き落とした。むろん、今でも自分の小屋まで帰れば乾飯《ほしい》もたくさん残っている。が、俊寛には一里に近い道を歩く勇気などは、残っていなかった。
激しい渇きと餓えとは、彼の心を荒《すさ》ませ、自殺の心を起させた。彼は、目の前の海に身を投げることを考えた。そうして、なぜ基康の船がいるうちに、死ななかったかを後悔した。基康や、あの裏切者の成経や康頼の目前で死んだならば、すこしは腹癒《はらい》せにもなるのだったと思った。今死んでは犬死にであると思った。が、死のうという心は変らなかった。帰洛《きらく》の望みを永久に断たれながら暮していくことは、彼には堪えられなかった。二十間ばかり向こうの岸に、一つの岩があり、その下の水が、ことさらに深いように見えた。
彼が、決心して立ち上ったとき、彼はふと水の匂いを嗅いだ。それは、真水《まみず》の匂いであった。極度に渇している彼の鼻は、犬のように鋭くなっているのだった。彼は、水の匂いを嗅ぐと、その方角へ本能的に走り出した。唐竹の林の中を、彼は獣のように潜《くぐ》った。十問ばかり潜ったとき、その林が尽きて、そこから岩山が聳《そび》えていた。
ふと、そこに、大きい岩を背後《うしろ》にして、この島には珍しい椰子《やし》の木が、十本ばかり生えているのを見た。そしてその椰子に覆われた鳶色《とびいろ》の岩から、一条の水が銀の糸のように滴《したた》って、それが椰子の根元で、小さい泉になっているのを見た。水は、浅いながらに澄み切って、沈んでいる木の葉さえ、一々に数えられた。渇し切っている俊寛は、犬のようにつくばって、その冷たい水を思い切りがぶがぶ飲んだ。それが、なんという快さであっただろう。それは、彼が鹿ケ谷の山荘で飲んだいかなる美酒にも勝《まさ》っていた。彼が、その清冽《せいれつ》な水を味わっている間は、清盛に対する怨みも、島にただ一人残された悲しみも、忘れ果てたようにすがすがしい気持だった。彼は、蘇《よみがえ》ったような気持になって立ち上った。そして、椰子の梢を見上げた。すると、梢に大きい実が二つばかり生《な》っているのを見た。俊寛は、疲労を忘れて、猿のようによじ登った。それを叩き落すと、そばの岩で打ち砕き、思うさま貪《むさぼ》り食った。
彼は、生れて以来、これほどのありがたさと、これほどのうまさとで、飲食したことはなかった。彼は椰子の実の汁を吸っていると、自分の今までの生活が夢のように淡く薄れていくのを感じた。清盛、平家の一門、丹波少将《たんばのしょうしょう》、平判官《たいらのはんがん》、丹左衛門尉《たんさえもんのじょう》、そんな名前や、そんな名前に対する自分の感情が、この口の中のすべてを、否、心の中のすべてを溶かしてしまうような木の実の味に比べて、まったく空虚なつまらないもののような気がしはじめた。
俊寛は、口の中に残る快い感覚を楽しみながら、泉のほとりの青草の上に寝た。そして、過去の自分の生活のいろいろな相《そう》を、心の中に思い出してみた。都におけるいろいろな暗闘、陥擠《かんせい》、戦争、権勢の争奪、それからくる嫉妬、反感、憎悪。そういう感情の動くままに、狂奔《きょうほん》していた自分のあさましさが、しみじみ分かったような気がした。船を追って狂奔した昨日の自分までが、餓鬼《がき》のようにあさましい気がした。煩悩《ぼんのう》を起す種のないこの絶海の孤島こそ、自分にとって唯一の浄土ではあるまいか。康頼や成経がそばにいたために、都の生活に対する、否、人生に対する執着が切れなかったのだ。この島を仮のすみかと思えばこそ、硫黄ケ岳に立つ煙さえ、焦熱地獄に続くもののように、ものうく思われたのだ。こここそ、ついのすみか[#「すみか」に傍点]だ。あらゆる煩悩と執着とを断って、真如《しんにょ》の生活に入る道場だ。そう思い返すと、俊寛は生れ変ったような、ほがらかな気持がした。
ふと、寝がえりを打つと、すぐ自分の鼻の先に、撫子《なでしこ》に似た真っ赤な花が咲いていた。それは、都人《みやこびと》の彼には、名も知れない花だった。が、その花の真紅《しんく》の花弁が、なんという美しさと、清らかさを持っていたことだろう。その花を、じっと見詰めていると、人間のすべてから知られないで、美しく香《にお》っている、こうした名も知れない花の生活といったようなものが考えられた。すると、孤島の流人である自分の生活でさえ、むげ[#「むげ」に傍点]に生甲斐のないものだとは思われなくなった。彼は、自殺しようとした自分の心のあさはかさを恥じた。彼の心には、今新しい力が湧いた。彼は勇躍して立ち上った。そして、海岸へ走り出た。いつもは、魂も眩《くら》むようにものうく思われた大洋が、なんと美しく輝いていたことだろう。十分昇り切った朝の太陽のもとに、紺碧《こんぺき》の潮が後から後から湧くように躍っていた。海に接している砂浜は金色《こんじき》に輝き、飛び交うている信天翁《あほうどり》の翼から銀の光を発するかと疑われ、いつもは見ることを厭っていた硫黄ケ岳に立つ煙さえ、今朝は澄み渡った朝空に、琥珀色《こはくいろ》に優にやさしくたなびいている。
俊寛は、童《わらべ》のようなのびやかな心になりながら、両手を差し広げ、童のように叫びながら自分の小屋へ駆け戻った。
三
島に来て以来一年の間、俊寛の生活は、成経や康頼との昔物語から、謀反の話をして、おしまいにはお互いの境遇を嘆き合うか、でなければ、砂丘の上などに登りながら、波路《なみじ》遥かな都を偲《しの》んで溜息をつきながら、一日を茫然と過ごしてしまうのであったが、俊寛はそうした生活を根本から改めようと決心した。
彼は、つとめて都のことを考えまいとした。従って、成経や康頼のことを考えまいとした。彼は、成経や康頼が親切に残して置いてくれた狩衣《かりぎぬ》や刺貫《さしつら》を、海中へ取り捨てた。長い生活の間には、衣類に困るのは分かりきっていた。が、困ったら、土人のように木の皮を身に纏《まと》うても差支えないと考えた。
その上、三人でいた間は、肥前《ひぜん》の国《くに》加瀬《かせ》の荘《しょう》にある成経の舅《しゅうと》から平家の目を忍んでの仕送りで、ほそぼそながら、朝夕《ちょうせき》の食に事を欠かなかった。そのためでもあるが、三人は大宮人《おおみやびと》の習慣を持ちつづけて、なすこともなく、毎日暮していた。俊寛は、そうした生活を改め、自分で漁《すなど》りし、自分で狩りし、自分で耕《たがや》すことを考えた。
彼は、そういう生活に入る第一歩として、成経や康頼の記憶がつきまとっている今までの小屋を焼き捨て、自分で発見したあの泉の畔《ほとり》に、新しい家を自分で建てることを考えた。
彼は、その日から、泉に近い山林へ入って、木を伐った。彼が持っている道具は、一挺の小さい鉞《まさかり》と二本の小太刀であった。周囲が一尺もある木は、伐り倒すのに四|半刻《はんどき》近くかかった。が、彼が額《ひたい》に汗を流しながら、その幹に鉞を打込むとき、彼は名状しがたい壮快な気持がする。清盛に対する怨みなどは、そうした瞬間、泡のように彼の頭から消え去っている。そして、その木が鉞の幾落下《いくらっか》によって、力尽き、地を揺がせて倒れるとき、俊寛の焼けた顔には、会心の微笑《えみ》が浮ぶ。彼は、そうして伐り倒した木の枝を払い、一本ずつやっとの思いで、泉の畔に引いてくる。彼は、その粗《ラフ》な丸太を地面に立て、柱とした。小太刀や鉞で穴を掘ることは、かなり骨が折れた。ことに、そういう仕事に用いることで、これから先の生活にどんな必要であるかもしれない道具が破損することを、恐れねばならなかった。屋根は、唐竹で葺《ふ》いた。この島の大部分を覆うている唐竹は、屋根を葺くのには、藁よりもはるかに秀れていた。木の枝を、横にいくつも並べて壁にした。そして、近所から粘《ねば》い土を見出して、その上から塗抹《とまつ》した。彼は、この新しい家を建てるために、二十日ばかりもかかった。が、彼は自分の住む家を自分で建てることが、どんなに楽しみの仕事であるかが分かった。その間、清盛に対する怨みや、妻子に対する恋しさが、焼くように胸に迫ることがある。そんなとき、彼は常よりも二倍も三倍も激しく働く。むろん、島に夕暮が来て、日が荒寥《こうりょう》たる硫黄ケ岳のかなたに落ち、唐竹の林に風が騒ぎ、名も知れない海鳥が鳴くときなど、灯もない小屋の中に蹲《うずくま》っている俊寛に、身を裂くような寂しさが襲ってくる。が、昼間の激しい労働が産む疲労は、すぐ彼をそうした寂しさから救ってくれ、そして彼に安らかな眠りを与えてくれる。
新しい小屋ができたとき、彼はその次には、食物のことを考えた。三人で食い残した乾飯《ほしい》は、まだ二月、三月は、俊寛一人を支えることができた。が、成経がいなくなった今は、成経の舅から仕送りがあるはずはなかった。今は、自分で食物を耕し作るよりほかはなかった。俊寛は、新しい小屋から、二町ばかり隔った所に、やや開けた土地があり、硫黄ケ岳に遠いために硫黄の気がすこしもないことを知った。
彼は、そこを冬の間に開墾し、春が来れば麦を植えようと思った。が、差し当っては、漁《すなど》りと狩をするほかに、食料を得る道はなかった。
彼は、堅牢《けんろう》な唐竹を伐って、それに蔓《つる》を張って弓にした。矢は、細身の唐竹を用い、矢尻は鋭い魚骨を用いた。本土ならば、こうした矢先にかかる鳥は一羽もいなかっただろうが、この島に住んでいる里鳩《さとばと》、唐鳩《からばと》、赤髭《あかひげ》、青鷺《あおさぎ》などは、俊寛の近づくのをすこしも恐れなかった。半日、山や海岸を駆け回ると、運び切れないほどの獲物があった。
今までの彼は、狩はともかく、漁《すなど》りはむげ[#「むげ」に傍点]に卑しいことだと思っていた。ひたすらに都会生活に憧れていた彼は、そうしたことを真似てみようという気は起らなかった。が、現在の彼は、土人に習って漁りをしてみようと考えた。その頃の島は、鰻《うなぎ》を取る季節であった。永良部鰻《えらぶうなぎ》は、秋から冬にかけて島の海岸の暖かい海水を慕って来て、そこへ卵を産むのであった。土人は、海水の中に身を浸してそれを手捕りにした。俊寛も、それに習った。最初は、いくど掴《つか》んでも掴み損ねた。土人は、あやしい言葉で何かいいながら、俊寛をわらった。が、俊寛は屈しなかった。三日ばかりも、根よく続けて試みているうちに、魯鈍《ろどん》で、いちばん不幸な鰻が、俊寛の手にかかる。五日と経ち、七日と経つうちに、どんな敏捷な鰻でも俊寛の手から逃れることができなくなってくる。彼は、何十匹と獲《え》た鰻のあごに蔓を通し、それを肩に担ぐ。蔓が、肩に食い入るように重い。が、自分が獲ったのであると思うと、一匹だって、捨てる気はしない。小屋へ帰ってから、彼は小太刀で腹を割《さ》き、腸《わた》を去ってから、それを日向《ひなた》へ乾す。半月ばかり鰻を取っているうちに、小屋の周囲は乾した鰻でいっぱいになる。そのうちに、鰻の取れる季節は、過ぎ去ってしまう。そして、冬が来た。冬の間、俊寛は畑を作ることに、一生懸命になった。彼は、まず畑のために選定した彼の広闊《こうかつ》な土地へ、火を放った。そして、雑草や灌木《かんぼく》を焼き払った。それから、焼き残った木の根を掘返し、岩や小石を取去った。彼の鉞は、今度は鍬《くわ》の用をした。道具がないために、彼の仕事は捗《はかど》らなかった。土人の所に行けば、鍬に似たものがあるのを知っていた。が、報酬なしに土人が何物をも貸さないことを知っていた。が、彼の精根は、そうしたものに、すべて打ち克《か》った。冬の終る頃には、一町近い畑が、彼の力に依って拓《ひら》かれた。彼に今最も必要なことは、そこに蒔《ま》かねばならない麦の種であった。彼は、麦の種を土人が手放さないのを知っていた。彼は、それと交易《こうえき》するために、自分の持物の中で、土人の欲しがりそうなものをいろいろ考えてみた。土人の欲しがりそうなものは、自分の生活にも欠くべからざるものだった。俊寛は、ふと鳥羽《とば》で別れるとき、妻の松の前から形見《かたみ》に贈られた素絹《しろぎぬ》の小袖を、今もなおそのままに、持っているのに気がついた。それは、現在の彼にとって、過去の生活に対する唯一の記念物だった。彼は、一晩考えた末、この過去の生活に対する記念物を、現在の生活の必須品《ひっすひん》に換えることを決心した。彼は、いとしい妻の形見を一袋の麦に換えた。そして、それを彼が自分で拓いた土地に、蒔いた。
自分で拓いた土地に、自分の手で蒔いた種の生えるのを見ることは、人間の喜びの中では、いちばん素晴らしいものであることを、俊寛は悟った。ほのかな麦の芽が、磽※[#「※」は「石に角」、第3水準1-89-6、353-20]《ぎょうかく》な地殻からおぞおぞと頭を擡《もた》げるのを見たとき、俊寛は嬉し涙に咽《むせ》んだ。彼は跪《ひざまず》いて、目に見えぬ何物かに、心からの感謝を捧げたかった。
鬼界ケ島にも春はめぐってくる。島の周囲の海が、薄紫に輝きはじめる。そして、全島には、椿《つばき》の花が一面に咲く。信天翁《あほうどり》が、一日一日多くなって、硫黄ケ岳の中腹などには、雪が降ったように、集っている。
生れて初めての自然生活は、俊寛を見違えるような立派な体格にした。生白かった頬は、褐色に焼けて輝いた。去年、着続けていた僧侶の服は、いろいろのことをするのに不便なので、思い切ってそれを脱ぎ捨て、思い切って皮かつらを身にまとった。生年三十四歳。その壮年の肉体には、原始人らしいすべての活力が現れ出した。彼は、生え伸びた髪を無造作に藁《わら》で束ねた。六尺豊かの身体は、鬼のような土人と比べてさえ、一際《ひときわ》立ち勝《まさ》って見えた。
彼は、時々自分の顔を、水鏡《みずかがみ》で映して見る。が、その変りはてた姿を、あさましいなどと思ったことはない。むろん現在の彼には、妻子が時々思い出されるだけで、清盛のことなどは、念頭になかった。平家が、千里のかなたで奢《おご》っていようがいまいが、そんなことは、どちらでもよかった。それよりも彼は、自分が植えつけた麦が成長するのが、一日千秋の思いで待たれた。
麦の畑に生《お》うる雑草を取ることは、彼の半日の仕事として、十分だった。が、午後からは海岸へ出て、毎日のように鰤《ぶり》を釣った。糸は太い蔓《つる》を用い、針は獣の骨で作った。三、四尺の大魚は、針を入れると同時に、無造作に食いつく。それを引き上げるのが、どんなに壮快であっただろう。それは、魚と人間との格闘であった。俊寛は危うく海の中へ、引きずり込まれそうになる。それを、岩角へ足をふんばって、ぐっと持ち堪《こた》える。魚はそのかかった針をはずそうとして、波間で白い腹をかえしながら身を悶《もだ》える。そうした格闘が、半刻近くも続く。そのうちに、魚の力が弱ってくる。それでもなお、身体を激しく捻《ね》じ曲げながら、水面に引き上げられる。
この豪快な鰤約が、この頃の俊寛にとっては、仕事でもあり、娯楽でもあった。四尺を越す大魚を三、四匹繋いで、砂の上を小屋まで引きずって帰るのは苦しい仕事であった。が、それを炙《あぶ》ると、新鮮な肉からは、香ばしい匂いが立ち、俊寛の健啖《けんたん》な食欲をいやが上にも刺激する。
彼は、毎日のように、近所の海角《うみかど》に出て、鰤を釣った。彼は、その魚から油を取って、灯火《ともし》の油にしようと考えたのである。
鰤は、群を成して島の周囲をめぐっていた。俊寛は、その群を追うて、自分の小屋から一里近くも遠方へ出ることもあった。
その日も、俊寛は、鰤を釣るために硫黄ケ岳のすぐ麓の海岸まで行った。そこからは土人の部落が、半里とも隔っていなかった。土人たちは、本土の人間を恐れ嫌った。三人でいたときは、土人たちは遠方から三人の姿を見ると、避けた。俊寛一人になってからは、恐れはしなかった。が、一種気味の悪いもののように、決して近づいては来なかった。俊寛も、なるべく土人と交渉することを避けた。土人の部落へは、できるだけ近寄らないようにした。が、その日は、近所の海岸には、鰤の姿が見えないため、それを探しながら、とうとう、土人の部落近くまで来てしまった。
彼の針に、そこの海岸で、今まで上ったことのないような大魚がかかった。それは、鰤としても珍しい五尺を越える大魚だった。彼は、その岩角で、一刻近くも、それを釣り上げるために、奮闘した。彼は魚が逸しようとするときには、それに逆《さから》わないように手の中の蔓を延ばした。もう延ばすべき蔓がなくなると、蔓は緊張して、水を切りながらキイキイ鳴った。
彼は、魚が頭が自分の方へ向けたと知ると、その機を逸しないで、蔓を手早く手元へ繰り寄せる。一間ばかりの水底まで来た魚は、奇怪な姿を見せながら、狂い回る。が、水際までは決して上らない。そして、俊寛の手が、少しでも緩《ゆる》むと矢のように、沖へ逸走する。彼は蔓を延ばしたり、緩めたりすることによって、水中の魚を疲らせようとする。半裸体のまま岩頭に立って活動する俊寛の姿は、目ざましいものであった。
とうとう、俊寛はその五尺を越ゆる大魚を征服してしまう。岩の上に釣り上げられた後も、なお跳躍して海に入ろうとする魚の頭を、俊寛はそばの大石で一打ちする。魚は尾や鰭《ひれ》を震わせながら、死んでしまう。俊寛は、その二十貫を越える大魚の腹に足をかけながら、初めて会心の微笑をもらす。
その時俊寛は、ふと人の気配を感じた。魚を釣るために、夢中になっていた俊寛は、気がついて周囲を見回した。見ると、いつの間に近寄ったのだろう。一人の土人の少女が、十間ばかりの後方に立ちながら、俊寛の姿をじっと見詰めているのだった。おそらく俊寛の勇ましい活躍を先刻から見ていたのだろう。
年は、十六、七であったろう。が、背丈《せたけ》はすくすくと伸びて、都の少女などには見られないような高さに達していた。腰の周囲に木の皮を纏《まと》っただけで、よく発達した胸部を惜し気もなく見せていた。髪は梳《くしけず》らず、蔓草をさねかずら[#「さねかずら」に傍点]にしていた。色は黒かったが、瞳が黒く人なつこく光っていた。
長い間、女性と接したことのない俊寛は、この少女を一目見ると、自分の裸体が気恥かしくなって、思わず顔が赤くなった。が、相手が少しの猜疑《さいぎ》もなく、無邪気に自分を凝視《ぎょうし》しているのを見ると、俊寛はそれに答えるように、軽い微笑を見せずにはいられなかった。少女は微笑はしなかったが、そのもの珍しげに瞠《みは》っている目に、好意を示す表情が動いたことは確かだった。俊寛は、久しぶりに人間から好意のある表情を見せられたので、胸がきゅっとこみ上げてくるように感じた。
彼は、再び針を海中に投じた。魚は、すぐ食いついた。その魚を引き上げる間、少女は熱心に見物している。そして第三番目の針を投じても、少女は去らない。俊寛は、少女の方を振向きながら時々、微笑を見せる。少女は、硫黄《いおう》を採るために来たのだろう。が、硫黄を入れる筥《はこ》をそばへ置き捨てたまま、いつまでも俊寛が鰤を釣り上げるのを見ている。
とうとう夕暮が来た。俊寛は、釣り上げた魚を引きずりながら、自分の小屋への道を辿《たど》る。一町ばかり歩いて、後を振返った。少女も家路《いえじ》に向おうとして立ち上っている。が、歩き出さないで、俊寛の方を、じっと見詰めている。
俊寛は、その日から自分の生活に新しい希望が湧いたことに気がつく。彼は、その翌日も同じ場所に行った。すると、昨日の少女が、昨日彼女が蹲《うずくま》っていたのと同じ場所に蹲っているのを見る。俊寛の胸には、湧き上るような欣《よろこ》びが感ぜられる。今日こそ、昨日よりももっと大きい鰤を釣り上げて少女に見せてやろうと思う。が、昨夜の間に、鰤はこの海岸を離れたとみえ、いくら針を投げても、手答えがない。
彼はいらいらして、幾度も幾度も針を投げ直す。が、幾度投げ直しても、手答えがない。彼は、少女が退屈して、立ち上りはしないかと思うといらいらしてくる。が、少女はじっと蹲ったまま身動きもしない。俊寛は、ほかの釣場所を探ろうと思うけれども、少女がもし随《つ》いてこなかったらと思うと、この場所を動く気はしない。そのうちに、俊寛は疲れて、針を水中に投じたまま、手を休めてしまう。
その時に、突然かの少女が叫び始めた。俊寛は、最初彼女が、何か自分に話しかけているのではないかと思った。が、少女は天の一方を見詰めながら叫んでいる。そのうちに、俊寛は、その叫び声の中に、ある韻律《いんりつ》があるのに気がつく。
そして、この少女が歌をうたっているのだということが分かる。それは朗詠《ろうえい》や今様《いまよう》などとは違って、もっと急調な激しい調子である。が、そのききなれない調子、意味のまったく分からない詞《ことば》の中に、この少女の迫った感情が漲《みなぎ》っているのを俊寛は感ぜずにはいられなかった。
俊寛は、やるせなくこの少女がいとしくなる。歌い終ると、少女は俊寛の方へその黒い瞳の一|瞥《べつ》を投げる。俊寛はたまらなくなって立ち上り、少女の方へ進む。すると、今まで蹲っていた少女は、急に立ち上って五、六間向うへ逃げる。が、そこに立ち止まったまま、それ以上は逃げようとはしない。俊寛は、微笑をしながら手招きする。が、少女は微笑をもってそれに答えるけれども、決して近寄らない。俊寛は、じれて元の場所へ帰る。すると、少女も元の場所へ帰って蹲る。そして、時々思い出したように歌いつづける。
その翌日も、俊寛は同じ場所に行った。その翌々日も、俊寛は同じ場所へ行った。もう鰤を釣る目的ではなかった。
幾日も幾日も、そうした情景が続いた後、少女はとうとうその牝鹿《めじか》のようにしなやかな身体を、俊寛の強い双腕《もろうで》に委してしまった。
俊寛は、もう孤独ではなかった。かの少女は、間もなく俊寛のために、従順な愛すべき妻となった。むろん、土人たちは彼らの少女を拉《らっ》したのを知ると、大挙して俊寛の小屋を襲って来た。二十人を越す大勢に対して、すこしも怯《ひる》むところなく、鉞《まさかり》をもって立ち向った俊寛の勇ましい姿は、少女の俊寛に対する愛情を増すのに、十分であった。が、恐ろしい惨劇《さんげき》が始まろうとする刹那、少女はいちはやく土人の頭《らしい》らしい老人の前に身を投じた。それは、少女の父であるらしかった。老人は、少女から何事かをきくと、怒り罵《ののし》る若者たちを制して、こともなく引き上げて行った。
その事件があった後は、俊寛の家庭には、幸福と平和のほかは、何物も襲って来なかった。
手助けのできた俊寛は、自分たちの生活を、いろいろな点でよくしていった。都会生活の経験のよいところだけを妻に教えた。無知ではあったが、利発な彼女は俊寛のいうことを理解して、すこしずつ家庭生活を愉快にしていった。
結婚してからすぐ、俊寛は、妻に大和《やまと》言葉を教えはじめた。三月経ち四月経つうちには、日常の会話には、ことを欠かなかった。蔓草のさねかずらをした妻が、閑雅《かんが》な都言葉を口にすることは、俊寛にとって、この上もない楽しみであった。言葉を一通り覚えてしまうと、俊寛は、よく妻を砂浜へ連れて行って、字を書くことを教えた。浅香山《あさかやま》の歌を幾度となく砂の上に書き示した。
妻は、その年のうちに、妊娠した。こうした生活をする俊寛にとって、子供ができるということは普通人の想像も及ばない喜びだった。俊寛は、身重くなった妻を嘗《な》めるように、いたわるのであった。翌年の春に、妻は玉のような男の子を産んだ。子供ができてからの俊寛の幸福は、以前の二倍も三倍にもなった。
俊寛の畑は毎年よく実った。彼は子供ができたのを機会に、妻に手伝わせて、小屋を新しく建て直した。もう、どんな嵐が来ても、びくともしないような堅牢なものになった。
男の子が生れたその翌年に、今度は女の子が生れ、その二年目に、今度はまた男の子が生れた。子供の成長とともに、俊寛の幸福は限りもなく大きくなっていった。鬼界ケ島に流されたことが、自分の不運であったか幸福であったか分からない、とまで考えるようになっていた。
四
有王《ありおう》が、故主の俊寛を尋ねて、都からはるばると九|国《ごく》に下り、そこの便船を求めて、硫黄商人の船に乗り、鬼界ケ島へ来たのは、文治《ぶんじ》二年の如月半《きさらぎなか》ばのことだった。
寿永《じゅえい》四年に、平家の一門はことごとく西海《さいかい》の藻屑《もくず》となり、今は源家の世となっているのであるから、俊寛に対する重科も自然消え果てて、赦免の使者が朝廷から到来すべきはずであったが、世は平家の余類追討に急がわしく、その上、俊寛は過ぐる治承三年に、鬼界ケ島にて絶え果てたという風聞さえ伝わっていたから、俊寛のことなどは、何人《なんびと》の念頭にもなかった。
ただ、故主を慕う有王だけは、俊寛の最期を見届けたく、千里の旅路に、憂《う》き艱難《かんなん》を重ねて、鬼界ケ島へ下ったのである。
島へ上陸した有王は、三日の間、島中を探し回った。が、それらしい人には絶えて会わなかった。島人には、言葉不通のため、ききあわすべき、よすがもなかった。そのうちに、便乗してきた商人船の出帆の日が迫った。今は俊寛が生活した旧跡でも見たいと思って、人の住む所と否とを問わず、島中を縫うように駆け回った。
四日目の夕暮、有王は人里遠く離れた海岸で、人声を聞いた。それが思いがけなくも大和言葉であった。有王は、林の中を潜って、人声のする方へ行った。見ると、そこは、ひろびろと拓かれた畑で、二人の男女の土人が、並んで耕しているのであった。しかも、彼らは大和言葉で、高々と打ち語っているのであった。有王は、おどろきのあまりに、畑のそばに立ち竦《すく》んでしまった。有王の姿を見たその男は、すぐその鍬を捨ててつかつかとそばへ寄って来た。
その男は、じっと有王の姿を見た。有王も、じっとその姿を見た。その男の眉の上のほくろを見出すと、有王は、
「俊寛|僧都《そうず》どのには、ましまさずや」
そう叫ぶと、飛鳥のように俊寛の手元に飛び縋《すが》った。
その男は、大きく頷いた。そして、その日に焼けて赤銅《しゃくどう》のように光っている頬を、大粒の涙がほろほろと流れ落ちた。二人は涙のうちに、しばらくは言葉がなかった。
「あなあさましや。などかくは変らせたまうぞ。法勝寺《ほうしょうじ》の執行《しぎょう》として時めきたまいし君の、かくも変らせたまうものか」
有王は、そう叫びながら、さめざめと泣き伏した。が、最初|邂逅《かいこう》の涙は一緒に流したが、しかしその次の詠嘆には、俊寛は一致しなかった。俊寛は逞しい腕を組みながら、泣き沈む有王の姿を不思議そうに見ていた。
彼は、有王が泣き止むのを待って、有王の右の手を掴《つか》んで、妻を麾《さしまね》くと、有王をぐんぐん引張りながら、自分の小屋へ連れて帰った。有王は、その小屋で、主《しゅ》に生き写しの二人の男の子と三人の女の子を見た。俊寛は、長男の頭を擦《さす》りながら、これが徳寿丸《とくじゅまる》であるといって、有王に引き合せた。その顔には、父らしい嬉しさが、隠し切れない微笑となって浮んだ。
が、有王はすべてをあさましいと考えた。村上天皇の第七子|具平親王《ともひらしんのう》六|世皇孫《せいのこうそん》である俊寛が、南蛮の女と契《ちぎ》るなどは、何事であろうと考えた。彼は、主《あるじ》が流人になったため、心までが畜生道に陥ちたのではないかと嘆き悲しんだ。
彼は、その夜、夜を徹して俊寛に帰洛《きらく》を勧めた。平家に対する謀反の第一番であるだけに、鎌倉にある右府《うふ》どのが、僧都の御身の上を決して疎《おろそ》かには思うまいといった。
俊寛は、平家一門が、滅んだときいたときには、さすがに会心の微笑《えみ》をもらし、妻の松の前や鶴の前が身まかったということをきいたときには、涙を流したが、帰洛の勧めには、最初から首を横に振った。有王が、涙を流しての勧説《かんぜい》も、どうすることもできなかった。
夜が明けると、それは有王の船が、出帆の日であった。有王は、主の心に物怪《もののけ》が憑《つ》いたものとして、帰洛の勧めを思い切るよりほかはなかった。
俊寛は、妻と五人の子供とを連れながら、船着場まで見送りに来た。
そこで、形見にせよといって、俊寛が自分で刻んだ木像をくれた。それは、俊寛が、彼自信の妻の像を刻んだものだった。俊寛の帰洛を妨げるものは彼の妻子であると思うと、有王はその木像までが忌《いま》わしいものに思われたが、主の贈物をむげにしりぞけるわけにもいかないので、船に乗ってから捨てるつもりで、何気なくそれを受取った。
別れるとき、俊寛は、
「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。松の前が、鶴の前が生き永らえていたらまた思うようもあるが、今はただひたぶるに、俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」
そんな意味をいった。その大和言葉が、かなり訛《なまり》が激しいので、有王は言葉通りには覚えていられなかった。
有王の船が出ると、俊寛及びその妻子は、しばらく海辺に立って見送っていたが、やがて皆は揃って、彼らの小屋の方へ歩き始めた。五人の子供たちが、父母を中に挟んで、嬉々として戯《たわむ》れながら帰って行く一行を、船の上から見ていた有王は、最初はそれを獣か何かの一群《ひとむれ》のようにあさましいと思っていたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、自分の頬を伝っているのに気がついた。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月28日公開
2000年9月7日修正
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