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乱世
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戊辰《ぼしん》正月
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(例)杉山|弘枝《ひろえ》
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(例)[#ここから2字下げ]
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一
戊辰《ぼしん》正月、鳥羽伏見の戦で、幕軍が敗れたという知らせが、初めて桑名藩に達したのは、今日限《きょうぎ》りで松飾りが取れようという、七日の午後であった。
同心の宇多熊太郎という男が、戦場から道を迷って、笠置を越え、伊賀街道を故郷へと馳せ帰って来たのである。
一藩は、愕然とした。愕然としながらも、みんな爪先立てて後の知らせを待っていた。
公用方の築麻市左衛門が帰って来たのは、十日の午前であった。彼は、本国への使者として浪花表で本隊と離れ、大和伊賀をさ迷った末、故郷へ辿《たど》りついたのである。従って、彼は敗戦についてもっと詳しい知らせを持っていた。慶喜《よしのぶ》公が、藩主越中守、会津侯、その他わずか数名の近侍のものと、夜中潜かに軍艦に投じて、逃るるように江戸に下ったこと、幕軍をはじめ、会桑二藩の所隊は、算を乱して紀州路に落ちて行ったこと、朝廷では討幕の軍を早くも発向せしめようとしていることなどが、彼によって伝えられた。
一藩は、色を失った。薩長の大軍が、錦の御旗を押し立てて今にも東海道を下って来るといったような風聞が、ひっきりなしに人心を動かした。
桑名は、東海道の要衝である。東征の軍にとっては、第一の目標であった。その上、元治元年の四月に、藩主越中守が京都所司代に任ぜられて以来、薩長二藩とは、互いに恨みを結び合っている。薩長の浪士たちを迫害している。ことに、長州とは蛤門の変以来、恨みがさらに深い。彼らは、桑名が朝敵になった今、錦旗を擁して、どんなひどい仕返しをするかもわからない。
藩中が、鼎《かなえ》のわくように沸騰するのも無理もなかった。藩主も留守であって、一藩の人心を統一する中心がない。その上、多くの家庭では、思慮分別のある屈強の人たちは、藩主に従うて上京している。紀州路へ落ちたという噂だけで、今はどこを漂浪《さすら》っているかわからない。留守を守っている人々は、老人でなければ女子供である。そうした家庭では、狼狽してなすところを知らないのも当然である。
市左衛門が帰って来たその夜、城中の大広間で、一藩の態度を決するための大評定が開かれた。
血気の若武者は、桑名城を死守して、官軍と血戦することを主張した。が、それが無謀な、不可能な、ただ快を一時に遣《や》る方法であることは、誰にもわかっていた。隣藩の亀山も、津の藤堂も勤王である。官軍を前にしては、背後にしなければならぬ尾州藩は、藩主同士こそ兄弟であるが、前年来朝廷に忠誠を表している。なんらの後立《うしろだて》もなく、留守居の小勢で血戦したところで、一揉みに揉み潰されるのは、決っている。
死守説は少数で、すぐ敗れた。その後で、議論は東下論と恭順論との二つに分かれた。東下論は硬論であり、恭順論は軟論であった。
家老の酒井孫八郎や、軍事奉行、杉山|弘枝《ひろえ》は、東下論を主張した。彼らの主張はこうであった。城を守って一戦することは華々しいことであるが、この小勢では一日も支えがたい。が、それかといって、藩主|定敬《さだたか》公がまだ恭順を表されない前に、城を出でて官軍に降るということは、相伝の主君に対して不忠である。従って、我々の採る道は、今の場合一つしかない。それは、城をいったん敵に渡して、関東に下り、藩主越中守の指揮に従い、幕軍と協力して、敵に当るより外はないというのだった。
それに対して、政治奉行の小森九右衛門、山本主馬などが恭順論を主張した。彼らは天下の大勢を説き、順逆の名分を力説して、この際一日も早く朝威に帰順するのが得策であるというのであった。
恭順東下の議論は、二日にわたって決しなかった。そのうちに、鎮撫使の橋本少将、柳原侍従が、有栖川宮の先発として、京師を発したという知らせが早くも伝わった。
その知らせに接して、評定の人々は更に焦った。が、諸士の議論は、容易に一致しなかった。藩中第一の器量人といわれている家老の酒井孫八郎が、とうとうこんなことををいい出した。今、敵は眼前に迫っている。必死危急の場合である。小田原評定をやって、一刻をも緩《ゆる》うすべき時ではない。昨日今日の様子では、この上いくら評定を重ねても、皆が心から折れ合うことなどは望み得ない。その上恭順がよいか東下がよいか、そのいずれが本当に正しいかは、人間の力では分かるものではない。それよりも、いっそ東下と恭順との二つの籤《くじ》を作って、藩主定綱公以下を祭った神廟の前で引いてみよう、その出た籤によって、一藩の態度を決しようではないか、というのであった。
議論に疲れていた――また心のうちでは、帰趨に迷うていた――多くの藩士たちは、挙《こぞ》ってその説に賛成した。
こうして、籤は作られた。発案者の酒井が選ばれて、籤を引いた。引かれた籤は東下の籤であった。東下の籤が出た以上、恭順論者も諦めてそれに従う外はなかった。
藩老たちは、一藩の士卒を城中に呼び集めて、評定の経過を語った後、関東へ発足するについての用意を命じた。命じられた藩士たちは、家財を取り片づけ、妻子を、縁故縁故を辿って、城下の町、在の百姓に預けるなど、一藩は激しい混乱に陥った。
が、そこに思わざる反対が起った。それは、お目見得以下の軽輩の士が一致しての言い分であった。彼らは太平の世には、上士たちの命令を唯々諾々としてきいていた。が、一藩が危急に瀕すると、そこに階級の区別はだんだん薄れていた。階級が物をいわずして数が物をいうのであった。三百名に近い下士たちは、足軽組頭矢田半左衛門、大塚九兵衛を筆頭として、東下論に反対した。彼らの言い分はかなり筋道が通っていた。
関東へ下るということは、将軍家及び藩主|定敬《さだたか》公と協力して官軍に当るというのであるが、しかし将軍家が必ず官軍に反抗するとは決っていない。否、将軍家も定敬公も、錦旗の旗影《はたかげ》を見られると、すぐ恭順せられるかもしれない。もし、そうした場合には、我々が捨てぬでもよい城を捨てて関東へ下ったことは、全然徒労になる。その上、そこまで官軍に反抗するとなると、藩祖楽翁公が禁裡御造営に尽された功績も、また近く数年|禁闕《きんけつ》を守護して、朝廷に恪勤を尽した忠誠も、没却されてしまうばかりでなく、どんな厳罰に処せられて、当家の祭祀が絶えてしまうようなことがないとも限らない。そうした危険を冒すよりも、今日《こんにち》の場合は、一日も早く朝廷に謝罪恭順して、桑名松平家の社稷《しゃしょく》を全うすることが、何より大切である。それには、当家には先代の御子の万之助様がある。当主|定敬《さだたか》公は、美濃高須藩からの御養子であるが、万之助様は、当家の正統である。定敬公が、禁闕に発砲して、朝敵の悪名を被《き》ていられる以上、万之助様を擁立して、どこまでも朝廷に恭順の誠を表するのが得策であるというのである。
藩士たちは、武士の面目の上から、東下を潔しとし、恭順を斥《しりぞ》けていたものの、心のうちでは、皆差し迫る妻子との別離を悲しみ、住み馴れた安住の地を離れて、生還の期しがたい旅に出る不安に囚われ、銘々心のうちでは、二の足を踏んでいたのであるから、多くの藩士たちは、口には出さないが、下士たちの絶対恭順論に心を傾けずにはいなかった。神籤《みくじ》のために、嫌々ながら、東下論に従っていた恭順論者は、再び自説を主張し始めた。かくて、一藩はまたもや激しい混乱に陥った。
東下論の主張者である酒井孫八郎、杉山弘枝はおどろいて、下士たちの鎮撫方を、政治奉行の小森、山本に交渉した。二人は、彼ら自身恭順論者でありながら、必死に下士たちを宥《なだ》めて、籤に当って決った藩論に従わしめようと焦った。が、下士たちはその主張を固守して、一歩も退《ひ》かなかった。一方東下論者の酒井、杉山は、神籤によって決った東下を、明日にも実行しようと迫った。政治奉行の小森と山本とは、東下論者と下士たちの板挟みになって、下士たちの鎮撫不能の責任を負うて、城中で屠腹してしまった。それは十二日の午前であった。
二人の死を、転機としたように――二人の死をまったくの犬死にするように、下士たちの恭順論は、いつの間にか藩論を征服していた。東下論者は、声を潜めてしまった。
藩老たちは、同夜左のごとき、一書を尾州藩へ送って、朝廷へ帰順の取成しを、嘆願したのである。
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今般大阪表の始末|柄《がら》、在所表へ相聞え、深奉恐入候に付き上下一同謹慎|罷在《まかりあり》候。抑も尊王の大義は兼て厚く相心得罷在候処|不図《はからず》も、今日の形勢に立至り候段、恐惶嘆願の外無御座候。何卒《なにとぞ》平生の心事御了解被成下大納言様御手筋を以乍恐朝廷へ御取成寛大の御汰沙|只管奉歎願誠恐誠惶《ひたすらせいきょうせいこうたんがんたてまつる》 謹言
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酒井孫八郎
吉村又右衛門
沢|采女《うぬめ》
三輪権右衛門
大関五兵衛
服部|石見《いわみ》
松平|帯刀《たてわき》
[#地より1字上げ終わり]
成瀬|隼人正《はいとのしょう》様
[#ここで字下げ終わり]
次いで、同月十八日、官軍の先鋒が鈴鹿を越えたという報をきくと、同文の嘆願書を隣藩亀山藩へ送った。
二十一日、鎮撫使から御汰沙の手控えが、亀山藩の手を通して、桑名藩にいたされた。文面は、次の通りであった。
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先般松平越中守依願帰国被仰候処|豈料《あにはか》ラン闕下ニ向ツテ発砲始末全ク反逆顕然不得止速ニ桑城退治ノ折柄過ル二十一日石川宗十郎ノ家来ニ托シ歎願ノ趣有之旁々万之助並ニ重臣一同浪花ヨリ分散ノ諸兵ヲ引連レ四日市本営ヘ罷出御処置|可承《うけたまわるべく》トノコト
追テ参上ノ儀ハ二十三日夜五ツ|時期《どき》限ニ候其節宗十郎一手ノ内ヲ以テ誘引可有之事
[#ここで字下げ終わり]
一藩の人々は、愁眉を開いた。帰順がいれられたからである。が、一藩の人々が愁眉を開いたと反対に、生命《いのち》の危険を感じ始めた十三人の人々があった。それは、鎮撫使からの手控えの中に、はっきりと名指されている「浪花ヨリ分散ノ諸兵」であった。
七日に馳せ帰った宇多熊太郎、十日に帰った築麻市左衛門を筆頭とし、その後数日の間に、近畿の間で、桑名藩の本隊と分かれ、思い思いの道を取って本国の桑名に帰っていたものが、すべて十三人。彼らはいわゆる「浪花ヨリ分散ノ諸兵」であり、鳥羽伏見の戦場で、錦旗に向って発砲したものに違いなかった。
鎮撫使からの御汰沙によって、彼らがその本営に召《め》し出《いだ》される以上、彼らの運命は決ったといってもよかった。官軍では、桑名の投降をいれると同時に、錦旗に発砲したこれらの諸兵を斬って、朝威を明らかにしようとしているのだ――と、一藩の人たちは考えた。十三人の人たちが、他の人々よりも早く、それに気がついたはむろんである。彼らは当日、家を出るときに、銘々の妻子と水杯を掬《く》み交わした。
幼年の主君万之助の乗った籠の後から、麻上下を付けて、白い鼻緒の草履を穿《は》いて、とぼとぼと付き従うて行く彼らを、一藩の人々はあわれな犠牲者として見送った。
万之助主従は、四日市の町に入ると、瓦町の法泉寺で四つ時まで休憩した後、亀山藩士の名川力弥に導かれて、官軍の本営真光寺に出頭した。万之助と重臣たちは式台の上に上ることを許された。十三人の敗兵たちは、白洲の上に蹲《うずくま》っていた。
衣冠束帯の威儀を正した鎮撫使の橋本少将が、厳かな口調で、次のようにいい渡した。
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越中守反逆顕然無道至極今更申迄モ無之為征討発向ノ処嘆願ノ趣有之旁々書面ノ通可心得
一、本城ヲ掃除シ朝廷ニ可奉差上事
一、帯刀ノ者|不残《のこらず》寺院ヘ立退恭順可罷在事
[#ここで字下げ終わり]
十三人に対して、決った処分はいい渡されなかった。が、万之助及び重臣たちが、桑名に帰されずに、四日市の法泉寺に抑留されたように、十三人の敗兵は、鳥取藩士の警護に付されて、四日市の北一里にある海村、羽津の光明寺に幽閉されてしまった。そこからは、海蔵川原の刑場がつい目の先に見えていた。
二
桑名藩で、馬回り使番を勤めて、五十石の知行を取っていた新谷《しんたに》格之介も、十三人の中に交っていた。
彼は、今年二十五歳の青年であった。父が、慶応元年の三月に死んだので、当時二十二になった格之介が跡目を相続した。翌慶応二年の春に、彼は妻のおもとを娶《めと》った。
新婚の夢|円《まど》かであった格之介は、その夏、不意に京都在番を命ぜられて、数人の同僚と出京して以来、所司代屋敷のお長屋のむさくるしい部屋で、一年半に近い間、満されない月日を送っていた。夜ごとの寝覚めに、本国に残してきた、うら若い妻を思いながら。
鳥羽伏見で、敵方に錦旗が翻《ひら》めくと同時に、味方の足が浮いていつとなく総崩れとなり、淀の堤を退去したとき、彼はいつの間にか味方の諸隊と離れていた。離れていたというよりも、意識して離れたといってもよかった。彼は、この道を取れば、味方に離れるかもしれぬと思いながらも、田圃の中の小道を南へ走ったのである。それが、奈良街道へ出たときも、彼は後悔していなかった。乱軍の場合に、道に迷ったといえば、いい訳は立つ。本隊と一緒に落ちて行けば、薩長の大軍に、西と東とから取り囲まれるに違いない。本国へ退くにも退かれない。激しい切羽詰った戦《いくさ》が、しばしば繰り返されるのに違いない。そう考えると、彼はどうにも、味方の後を追うて行く気がしなかった。
巨椋《おぐら》の池の堤に出たときは、戦場の銃声も途絶えて、時々思い出したように、大砲《おおづつ》の音がかすかにきこえてくるだけだった。本隊を離れたのを幸いに、道に迷ったといって、本国へ帰って、世の静まるのを待とう。そう考えると、故郷の家庭の有様が、まざまざと目の前に浮んできた。旧臘《きゅうろう》京都を立つ前に、藩の御用飛脚から受け取った妻の消息の文面が、頭のうちに、消しても消しても浮んでくる。それに続いて妻の、初々《ういうい》しい笑顔が浮んでくる。結婚の当時、彼女は十六になったばかりであった。赤いてがらのかかった大丸髷が、彼にはまたなく、いじらしく考えられた。彼の足は矢も楯も堪らないように、故郷の方へ向いていた。
彼が、奈良から、伊賀街道を伊勢に出《い》で、桑名に達したのは、一月の十二日であった。
彼は故郷へ帰って来たものの、心ひそかに藩からのお咎《とが》めを恐れていた。が、それ自身危急に瀕している藩は、こうした敗兵たちに対する処分などは、思いも及ばなかった。むしろ、次々に馳せ帰って来る敗兵たちから、上国の形勢をきくことを、欲していたのであった。
妻のおもとは、格之介の不時の帰宅を小躍りして欣《よろこ》んだ。格之介も、自分の行動がいい結果に終ったことを欣んだ。厳密にいえば――うまくいい訳が立っても、落伍の罪がなんのお咎めもなく済んだことを、格之介はこの上なき僥倖に思った。
差し迫る一藩の大事に脅えながらも、蜜のような歓楽の日が、この若い夫婦の間に、幾日か過ぎた。それが、再び恐ろしい不幸によって、めちゃめちゃにされるまで。
敗兵お召出しの個条が、官軍からの御沙汰にあるときいたとき、格之介は色を失った。錦旗に発砲した以上、命がないかもしれない。そうした考えが、ひしひしと彼の胸に迫ってくる。愛妻のおもとと水杯を交わすとき、格之介は、不覚にも涙を流した。
三
光明寺に、十三人が閉じこめられてから数日経った。本堂に続いた二十畳に近い書院が、彼らの居室に当てられた。住持の好意によって、手回りの品物が給せられた。警護の鳥取藩士は、彼らにかなり寛大だった。が、生死の間に彷徨している彼らは、みんな怏々《おうおう》として楽しまなかった。
人間は、何かの感情に激すると、臆病者でもかなり潔く死ぬことがある。忠君とか愛国とか憤怒とか慷慨とか、そうした感激で、人は潔く死ねる。が、そうした感激がなく、死が素面《すめん》で人間に迫ってくる場合には、大抵の人間が臆病になってしまう。十三人の場合が、そうであった。彼らは、蛤門の戦や鳥羽伏見の戦には、かなり勇敢に戦った人たちである。が、戦場から本隊と別れて故郷へ帰って来て以来、忠節とか意地とかいった感激的な心持が、心のうちに緩んでいる。そこへ、死は不意に彼らの顔をのぞき込んできたのである。宇多熊太郎、築麻市左衛門など、剛胆をもってきこえた武士までが、ここへ来て以来、かなり沈んでいる。まして、最初からあまり勇敢でない新谷格之介が、心のうちで脅えきっていたのは当然である。
最初、彼らは自分たちの境遇については、何も話さなかった。みんな注意して、それに触れるのを避けた。それに触れることが、誰にとっても不快であったからである。
「万之助様のお身の上は、どうなったであろう」
彼らの一人がいった。
「本城の明渡しは、もう無事に済んだかしらん」
他の一人がいった。
「紀州へ落ちた人たちは、あれからどうしたであろう。まさか、紀州家が見殺しにはしないだろう」
第三の人がいった。
彼らは、努めて自分たち以外の人々の身の上を心配しているように、お互いに見せかけた。が、そんなふうに話をし始めても、少しもはずまなかった。銘々自分自身、心のうちに自分たちの身の上を思う心が、暗澹としていたからである。
一日経ち二日経ち、彼らの生死の不安がますます濃くなってくるにつれ、彼らはもう他人のことなどは、話している余裕がなくなっていた。
二十七日の午後である。十三人の中では、いちばん軽輩の近藤小助という男が、とうとう口を切った。それは、皆が口に出したくて、しかも妙な外見から、口に出せなかった言葉である。
「時に、われわれは一体どうなるというのだろう。もう四日にもなるのに、なんの御沙汰もない」
彼は、小声で同僚にそう話しかけた。が、異常に緊張している十二人の耳は、小助の囁きをきき落さなかった。みんなは、一斉に小助の方を見た。
「さあ! それじゃて」いちばん年輩の足軽小頭が、小助の問を受けて答えた。「もう、なんとか御沙汰があるはずじゃが、もしかすると、京都へいったん伺いを立てたのかな。もしそれだと往復四日かかるとして、御沙汰があるのは、今日か明日じゃて。もう、どんなに遅くても二、三日じゃ」
「首が飛ぶのがかい」
小助は、蒼白い顔に苦笑をもらしながら、そういった。みんなは、じろりと小助の方を見た。その目には、不吉な不快な言葉を無遠慮に使う小助に対する非難が、一様に動いていた。
「いや、そうとは限るものか。朝廷の御主旨は万事御仁慈を旨とせられるというから、取るに足らぬ我々の命を召さるるはずはない、取越苦労はせぬものじゃ!」
足軽小頭は、小助を窘《たしな》めるようにいった。
「いや、お言葉じゃが、鎮撫使の参謀には、長州人がいるというからな。長州人と我々とは、元治以来、犬と猿のように啀《いが》み合っているからな。長州征伐の時、幕府の軍勢が浪花を発向の節、軍陣の血祭に、七人の長州人を斬ったことがござるじゃろう。あれは、桑名藩が蛤門の戦で捕えた俘虜だった。あれを長州人はひどく恨んでいるそうじゃから、あの轍で、征東の宮が伊勢をお通りになるときに、きっとわれわれは、その血祭というのになってしまうのだ」
小助は、絶望したように、自棄《やけ》半分にいちばん彼らにとって不利な想像を喋り散らしていたが、みんなは、それを単に、小助の想像だと貶《けな》してしまうわけにはいかなかった。
鎮撫使からの、手控えのうちに、「浪花ヨリ分散ノ諸兵」と、指摘されてある以上、それは彼らに対する有罪の宣告文であった。彼らが刑罰を受けなければならぬことは明らかだった。刑罰を受けなければならぬ以上、彼らは死を覚悟する必要があった。こうした乱世にあっては、死罪以下の刑罰は、刑罰ではなかったからである。
「あはははは、みんなこれじゃこれじゃ。覚悟をしておれば、何も狼狽《うろた》えることはない」
十三人の中では、いちばん身分の高い築麻市左衛門が、左の手で首筋を叩きながら、快活に笑ったが、それに次いで、誰も笑い出す者はなかった。いや、市左衛門の笑い声までが、一種悲惨な調子を帯びて、消えて行った。
格之介は、縁側の柱にもたれて、皆の話をきかぬような顔をしながら、そのくせいちばん気にしてきいていた。首だとか覚悟だとかいうような言葉が話されるごとに、彼の目の前が暗くなるような気持になっていた。
彼はどう考え直しても、覚悟といったような心持を想像することができなかった。彼は殺されるという気持を、頭の中に思い浮べても、身震いがした。
が、格之介が嫌がろうが嫌がるまいが、死は刻々、十三人の身の上に襲いかかってくるように感ぜられた。
四
翌二十八日は、朝から快く晴れた。春が来たことが、幽囚の人たちにも感ぜられた。寺が高地にあるために、塀越しに伊勢湾の波が見えた。波の面《おもて》までが、冬らしい暗緑色を捨てて、鮮やかな緑色に凪《な》いでいた。
空を覆う樫の梢を[#底本では「空を覆樫の梢を」]洩れた日の光が、庭の蒼い苔の上を照らしていた。庭の右手には、建仁寺垣があって、垣越しに墓地が見えた。山から出てきたらしいひたき[#「ひたき」に傍点]が、赤と青の翼をひらめかしながら、午前中、墓石の上をあちこち飛び回っていた。
墓地は、黒い板塀に囲われていた。塀の向うには、草が蒼みかけようとする広い空地があった。そこで時々、警護の鳥取藩士が、調練をしていた。
一昨日あたりから、料紙硯《りょうしすずり》を寺から借りて、手紙を認《したた》めるものが多くなっていた。今日は、それがことに激しい。そうした手紙がどういう内容を持っているかは、みんなに分かっていた。
「木村氏、その後は拙者が拝借したい」と一人がいうと、
「その次は、拙者に」
第三の人が、そばからいう。
料紙と硯とは、次から次へと渡った。そうして、午前中に五、六人も手紙を認めた。が、格之介はそうした心持になることができなかった。彼は覚悟とか遺書とか、そうしたことをできるだけ考えまいとした。自分の頭がそうした方面へ走るのをできるだけ制止した。王道をもって、新政の要義としている朝廷が、妄《みだ》りに陪臣の命を取るようなことは、万に一つもないと考えようとした。また、もし我々が斬られるのなら、四日市の本営に呼び出されたあの晩か、遅くともあの翌日には、斬られているはずである。今まで、捨てておかれるはずはない。
桑名藩を罰するというのなら、藩主の定敬《さだたか》公か、鳥羽伏見の戦いで全軍を指揮した森弥左衛門をでも斬るのが当然である。自分のような、五十石取の使番を。
彼は、一生懸命にできるだけ有利に明るく考えようとした。が、同僚の誰彼が、遺書を認めているのを見ると、暗い穴の中へでも引きずり込まれるような、いやな心持がした。自分の明るい想像がめちゃめちゃに掻き乱されるのであった。
午後のことである。格之介の前に立ちはだかって、じっと空地の方を見ていた徒士《かち》の木村清八が、独言《ひとりごと》のようにいった。
「ああ、あそこへ家が建つのだな。だんだん暖かくなるのだから、普請にはいい候《ころ》だな」
木村の言葉をきく前から、格之介はそれに気がついていた。さっきから、材木を積んだ一台の車が、どこからともなく、空地へ引かれて来ている。その材木を、大工らしい男が三人、車から下している。
ここに来てから、四日の間、ぼんやり床の間や天井や、庭や墓地などを見ていた格之介は、そうしたものに、かなり飽き飽きしていた。彼はこうして新しい見物《みもの》ができたことを、欣んだのである。
「うむ! 家を建てるのかな。が、こんな田圃の中にぽっつり建てるわけはない。木組をしてからどこかへ運んで行くのだろう」
彼は、心のうちでそんなことを考えながら、じっと大工たちの働くのを見ていた。
が、それを見ているのは、格之介と木村清八とだけではなかった。どんなに、死が迫ってきている時でも、人間は退屈をするものである。十三人の中で、さっきから碁を囲んでいる築麻市左衛門と宇多熊太郎との外は、みんな外へ出て大工の働くのを見ていた。
三人の大工は、材木を下してしまうと、銘々に手斧を使い始めていた。手斧が、木に食い入る音が澄み渡った早春の空気の中に、しばらくは、快く響いていた。
が、そのうちに縁側に立っている人々は、単純な大工の動作に飽いて、いつとなく部屋の中へ入ってしまった。格之介と清八とだけは、まだ縁側を離れなかった。
大工は、その材木で幾本となく高い柱をこさえていることは明らかだった。そして、一方の端を、土の中へでも打ち込むように尖らせているのだった。そのうちに、そうした丸い柱の数も格之介にはわかった。
大工は十本の柱を、こさえ上げてしまうと、今度は車に積み残してあった材木を下しにかかった。
見ると、それは幅が一尺ぐらい、長さが一間ぐらいあろうと思われる板だった。厚みは一寸にも近かった。板の数は、数えると五枚あった。
「怪《おか》しいなあ。一体、何をこさえるのだろう」
そばにいる清八が、首を傾げながら呟いた。格之介にもそれが不思議に感ぜられていた。彼も大工が何を作ろうとするのか、少しも見当がつかなかった。
そのうちに大工は、銘々一枚の板と二本の柱とを揃えると、板の両端へ一本ずつの柱を当てがった。
「おや!」と、思っているうちに、大工は道具箱から一尺に近い鎹《かすがい》を取り出して、柱と板との継目に当てがうと、大きい金槌へ、いっぱいの力を籠めながら、カーンと鋭く打ち込んだ。
今まで、好奇心だけで見ていた清八が、ちらりと格之介の顔を振り返った。清八の顔には、血の気がなかった。唇がびくびく動いた。それを見返した格之介が、もっとあわれな顔をしていたことはむろんである。二人は、さっきからうかうかと、獄門台が作られるのを見ていたのである。
「こりゃいかん! 諸君、あんなものを作っている。あんなものを」
清八は、救いを求めるような悲鳴をあげた。五、六人続いて、縁側に飛び出して来た。が、みんな一目見ると、色を変えてしまった。誰もなんともいわないで、縁側の上に釘付にされたように立っていた。
碁を囲んでいた築麻市左衛門までが、立ち上ってきた。さすがに彼も、一目見ると、かすかではあるが顔色が変った。
「うむ! 謎をかけおったな。われわれに、覚悟をせよという謎だな」
彼は重くるしい口調で、みんなの沈黙を破った。
いちばんおしまいに出て来た宇多熊太郎は、いちばん動じていなかった。
「もう諸君! 今夜がお別れじゃ! 刻限は明日の夜明けだな、案ずるに」
彼は苦笑しながら、みんなを見返った。
「五人だけは梟首《さらしくび》か。拙者は免れぬな、あははは」
市左衛門がそういった。彼は獄門台の数を数えてみたのである。
格之介は、さっきから、止めようとしても止らない胴震いが、身体のどこからともなく、全身に伝わってくるのである。
獄門台の数が五つ。それを数えたときに、彼は自分の死首がその上に載っているような気がした。もうそれで、彼が殺されて、梟首されることは確かだった。十三人の中で八人まで軽輩の士である。お目見得以上の士は五人しかいない。彼はその五人の中で、家の格式がちょうど真ん中に位している。
「五人だけは、獄門になるのは分かった。が、後の八人はどうなるのだろう。斬首かな、それとも命だけは助かるかもしらん」
足軽の中で、いちばん年輩の男が、そういった。彼はまだ一|縷《る》の望みを繋いでいた。
「助かる! たわけたことをいわれる! 今になって助かることを考える。積ってもみるがいい。五人の方々が梟首される以上、われわれが助かるはずがあるものか。武士たるものに、梟首は極刑じゃ。五人の方々を極刑にする以上、われわれを許すはずがない。打首だけなら、まだ仕合せじゃ。御覧なされい! 今にも、もう一台材木を引いた車が参るから」
加藤小助が、地獄の獄卒ででもあるように、憎らしげにそういった。そのくせ、彼の顔色にも人間らしい色が残っていなかった。
八人の軽輩の人たちは、加藤の言葉を不快に思った。が、その真実を認めないわけにはいかなかった。五人の上士たちが梟首にされる以上、残りの八人が、たとい梟首は免がれるにしても、打首だけは確かな事実だった。
ことに、五人の中に入っている格之介が死を免がれ得るような理由は、少しも考えられなかった。死は、ただ時の問題として、彼の前に迫ってきた。彼も、どうにかして死を待ち受ける準備をしなければならなかった。
獄門台が、すっかりでき上って、その気味の悪い格好をずらりと地上に並べている時だった。燃ゆる赤熊《しゃぐま》の帽子を着た鳥取藩の士官が空地へ現れた。士官が、何か合図すると、大工たちは一つの獄門台を、三人で担ぎながら、寺の方へ近づいて来た。何をするのかと思っていると、寺の板塀の上に、獄門台の板が、ぬっと現れた。見ると、今までは気がつかなかったが、板のちょうど中央に、死首を突きさす釘が打ってあって、それが夕日の光を受けて、きらきらと光っているのだった。
それを見ると、宇多熊太郎は、縁側の板を踏み鳴らしながら怒った。
「ああ、あんないやなことをしやがる。あんな嫌がらせをする!」
が、怒り得るものは幸いだった。格之介は、それを見ると、恥も見栄もなく、身体ががたがたと震え出した。
五つの獄門台は、次々に塀に立てかけられた。真新しい材木が、古い板塀の上にまざまざと夕日の中に浮んでいる。
「ああ残念! 諸君、こんな汚らわしいものを見ていないで、障子を閉めようではござらぬか。武士たるものを、罪人同様に辱めおる。ああ、こうと知ったら、匕首《あいくち》の一本ぐらい隠しておるところであった」
宇多熊太郎は、忌々《いまいま》しそうに舌打ちした。
みんなは、部屋に入って、障子を閉めた。が、格之介には、障子越しに五つ並んだ獄門台がありありと見えた。
それきり、夕食の時まで、誰も一口も口をきかなかった。
夕食の膳が出ると、築麻市左衛門は、所化《しょけ》の僧に酒を所望した。
「各々方、今夜はお別れでござる。我々に無礼を働く鳥取藩士への面当《つらあて》に、明日は潔い最期を心掛けようではござらぬか。各々方が、平生の覚悟を拝見しとうござる」
十二人までは、さすがに悪びれたところはなかった。杯が、しめやかに回った。
が、格之介は、飯も咽喉《のど》へは通らなかった。一杯食った飯が、もどしそうにいつまでも胸に支《つか》えていた。
彼はどうしても死ぬ気にはなれなかった。切羽詰まって死ぬにしても、もう一度妻の顔が見たかった。もう一度妻と――妻と最後の名残を惜しみたかった。が、妻などということを考えないでも、死そのものが、どうしても嫌だった。彼は、どうにかして死にたくなかった。まして、殺された後に、自分の首が獄門台に晒されることを考えると、どんなことをしても死を免がれたかった。もう、とっぷりと暮れてしまった障子の外の闇のかなたに、白木の獄門台が、ずらりと並んでいることを考えると、水のような寒気《さむけ》が全身を流れるのであった。
そのあくる朝、桑名の藩士たちは銘々、覚悟を決めて床を離れた。が、起き出《い》でたものは、十三人ではなかった。格之介は、夜のうちに警護の者の目を盗んで逃亡してしまっていたのである。
五
「臆病者! 卑怯者!」
十二人は、口々に格之介を罵《ののし》った。が、中には、うまく逃亡した格之介に対する心のうちの羨望をそうした言葉で現しているものもあった。
築麻市左衛門から、格之介逃亡の旨を、警護の鳥取藩士に申し出でた。さすがに、その推定された逃亡の理由まではいわなかった。敵《かたき》となっている他藩の人に対し、同藩の者を臆病者にはしたくなかったからである。
「有様《ありよう》は、関東へ下って、慶喜《よしのぶ》公の麾下《きか》に加わって、一働きいたそうとの所存と見え申す」
市左衛門は、格之介逃亡の理由を、こう説明した。
それをきいた鳥取藩の隊長は、苦い顔をした。
「それは近頃、心外なことじゃ。武士は敵味方に別れても相身互いじゃと存じたによって、かほどまで寛大な取扱いをいたしたのは、われらが寸志じゃに、それが各々方に分からなかったとは心外千万じゃ。いや、ようござる! 鎮撫使から預った大事な囚人を逃したとあっては、拙藩の恥辱でござるほどに、草を分けても探し出す所存でござる。各々方を信用したのが、拙者の不覚でござる」
隊長は、かなり憤慨して、開き直った。
市左衛門も、相手から寛大な取扱いという言葉をきくと、むっとした。武士たるものに、汚らわしい刑具を見せつけて侮辱を与えておきながら、よくもそんなしらじらしいことがいえると思った。
「ふむ! あれで寛大な取扱いと申さるるか」
彼は、吐き出すようにいった。
「いかにも」隊長は、屹《きっ》となって答えた。「拙者の計いで、各々方に、かほど自由を与えてござるのが分からないのか。錦旗に発砲した朝敵じゃほどに、手枷《てかせ》をかけても言い分はないはずじゃ。それを立ち居も、各々方の随意にさせてある。番兵も付けず、看視もいたさないのは、なんのためじゃ。武士たる各々方が、一旦、恭順を表せられた以上、万に一つ間違いはないと思ったからじゃ。それを、盗人か何かのように、夜中ひそかに脱走する……」
「いわれな!」市左衛門は、中途で激しく遮《さえぎ》った。「それほど、われわれを武士として扱うといわるる貴殿が、あの図は何事じゃ。われわれは町人百姓ではござらぬぞ。朝廷の御処置が決ったら、いつにても首を差し伸べる覚悟はいたしてござる。それをあの指図は何事じゃ。貴殿こそ、われわれを盗人か無宿者同様に心得てござる。あれが、武士を遇する道か。あれが、武士に対する寛大の取扱いか」
市左衛門の目は血走った。もし、彼が帯刀を許されていたならば、彼の手はきっと、その柄頭《つかがしら》を握りしめたに違いない。
市左衛門に指さされて、鳥取藩の隊長は、墓地を越えて、板塀の方を見た。彼の目にも、黒い板塀とはっきりした対照をなしてぬっと突き出ている獄門の首台が、目に映った。それを一瞥したときに、彼は明らかに狼狽した。
「やあ! これはこれは、いかい不念じゃ。許されい、許されい」
詫びようとする隊長を押えて、市左衛門は勝ち誇ったようにいった。
「われわれは武士でござる。あのように御親切に悟されいでも、腹を切る覚悟は、平生からいたしてござる。今日か、ただしは明日か、時刻をさえ知らして下されば、それでたくさんじゃ」
市左衛門の憤慨を頷きながらきいていた隊長は、彼の言葉の終るのを待って態度を改めた。
「それはとんでもないお考え違いじゃ。拙者の不念から、部下のもののいたした粗相じゃ。各々方にあのような不吉なものを見せて、なんとも申しわけがござらぬ。お気に止められるな。各々方を処刑、そのような御沙汰は気もないことじゃ。いや、昨夜も本営へ参ってきいた噂によれば、桑名藩の方は、主従ともなんのお咎《とが》めもなかろうとのことじゃ。あの獄門台でござるか……」
そういって、彼は次のように話をした。
ちょうど、有栖川宮の先発たる橋本少将、柳原侍従が、錦旗を擁して伊勢へ入ったと同時に、近江から美濃へ入った官軍の別働隊があった。彼らは、赤報隊と称して、錦の御旗を先頭に立て、二百人に近い同勢が、鎮撫使の万里小路《までのこうじ》侍従を取り囲んでいた。彼らの多くは、陣羽織に野袴を穿いて旧式の六匁銃などを持っていたが、右の肩口には、いずれも錦の布片《きれ》を付けていた。彼らは、美濃に入ってから、所在に農兵を募った。美濃の今尾、竹越伊予守の城下に達したときは、同勢七百人に近かった。小藩の今尾では、不意の官軍におどろいて、家老が城下の入口まで出迎えた。彼らは今尾藩へ三千両、城下の町人に二千両の軍用金を命じて、一旦、悠々と軍隊を休めてから、南に下って、大垣の南八里の高須藩へ殺到した。
高須の、松平|中務大輔《なかつかさたゆう》の藩中も、錦旗の前には、目が眩んでしまった。赤報隊は、そこでも一万両に近い軍用金を集めた。今尾高須の二藩を慴服《しょうふく》させた赤報隊は、意気揚々として、桑名藩へ殺到しようとして、桑名城の南、安永村に進んで、青雲寺という寺に本営を敷いた。その夜である。鳥取藩と芸州藩の諸隊が、この青雲寺を取り囲んだのは。錦の布片《きれ》を付けた同士が、激しく戦った。ここまで付いて来た農兵隊は、蜘蛛の子を散らすように逃亡した。偽《にせ》の万里小路侍従は、流弾に斃《たお》れた。その場で殺された者が、五十人に近かった。捕われたものが十七人。それが明朝、海蔵川原の刑場で斬られるというのである。そのうちで、偽の万里小路侍従と他の四人の首とが梟首せられるというのであった。
「獄門台は、右のような次第で作らせたものでござる。地上においては、調練の邪魔になるほどに、あのような粗相をいたしたのでござろう。不念の段は、拙者から幾重にもお詫びいたす。許されい、許されい。これはとんでもない粗相じゃった、はははははは。が、間違いで、めでたいめでたい」
きいているうちに、桑名藩の人々の相好が崩れていた。隊長の語り終った頃には、それが湧き立つような哄笑に変っていた。彼らは、腹を抱えて笑いながらも、目にはいっぱいの涙を湛えていた。
六
その誤解は、うちとけた哄笑で済んでしまったけれど、鳥取藩士の格之介に対する追及は、それでは済まなかった。彼らは藩の面目にかかわる一大事だから、どうあっても探し出すと揚言した。東海道筋には、官軍が満ち満ちている故に、江戸へ下り得るはずはない、近在に潜んでいるに違いないとあって、十人、二十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索した。その中の一隊は、員弁《いなべ》川に添うて濃州街道を美濃の方へ探して行った。
桑名の西北六里、濃州街道に添うて、石榑《いしぐれ》という山村があった。山から石灰石を産するので、石灰を焼く窯《かま》が、山の中にいくつも散在した。一隊がこの村に達したとき、村人の一人は、この石灰を焼く窯の一つに武士体の男が二、三日来潜んでいることを告げた。それをきいた一隊の人々は、勇み立った。彼らは庄屋に案内させて、その窯を右と左から取り囲んだ。
火のない窯の中からおどろいて飛び出したのは、格之介であった。彼は自分の家の若党の実家を頼って、人目に遠い山中の窯の中に、かくまわれていたのであった。彼は官兵を見ると狼狽した。捕えられることは、彼にとっては死を意味していた。彼は、身を翻して、窯の背後《うしろ》の、二間ばかりの谷を飛び越えると、雑木の生い茂った山の中腹へ、逃げ込もうとした。
「えい! まだ逃げおる! 未練なやつじゃ、射て! 射て! かまわぬ、射て!」
隊長は苛って叫んだ。
二、三人の兵士が、新式のゲーベル銃で折敷の構えをした。激しい銃声が、山村の静かな空気を動かした。格之介のやせた細長い身体が、雑木の幹の間でくるくる回ったかと思うと、仰向《あおむけ》ざまに倒れたまま、動かなかった。
越えて数日、海蔵川原に並んで立っていた五つの獄門台から、赤報隊の元凶たちの首級《しるし》は取り捨てられていた。そしてその後《あと》、代りに、その中央の獄門台に、若い武士の首級が一つ晒されていた。
捨札には達筆で、次のように書いてあった。
[#地から1字上げ]桑名藩 新谷格之介
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右者京畿ニ於テ錦旗ニ発砲シタルニ依ツテ羽津光明寺ニ謹慎仰付候ニモ拘ラズ潜カニ脱走ヲ企テ江戸ニ下向再ビ錦旗ニ抵抗致サントシタル段重々不埒至極依テ銃殺ノ上梟首スルモノナリ
戊辰二月[#地から1字上げ]官軍参謀
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格之介を除いた十二人の人々は、その年の四月、なんのお咎めもなく無事に帰藩を許された。
格之介の逃亡の理由が分かるにつれ、桑名藩士も官軍の人たちも、格之介が風声鶴唳《ふうせいかくれい》におどろいて逃走を企て、捨てぬでもよい命を捨てたことを冷笑した。
が、どうして格之介をわらうことができよう。彼は確かに、自分の首が載る獄門台が作られるのを見ていたのである。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月26日公開
2003年9月7日修正
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