青空文庫アーカイブ

芥川の事ども
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数年来|萌《きざ》していた

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(例)数年来|萌《きざ》していた

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(例)冒※[#「※」は「さんずい+賣」、読みは「とく」、第3水準1-87-29、24-下段16]
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 芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない。
 死因については我々にもハッキリしたことは分らない。分らないのではなく結局、世人を首肯させるに足るような具体的な原因はないと言うのが、本当だろう。結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は「ボンヤリした不安」であろう。
 それに、二、三年来の身体的疲労、神経衰弱、わずらわしき世俗的苦労、そんなものが、彼の絶望的な人生観をいよいよ深くして、あんな結果になったのだろうと思う。
 昨年の彼の病苦は、かなり彼の心身をさいなんだ。神経衰弱から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔などは、相互にからみ合って、彼の生活力を奪ったらしい。こうした病苦になやまされて、彼の自殺は、徐々に決心されたのだろう。
 その上、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な苦労がつきまとっていったのは、何という皮肉だろう。
 その一の例を言えば興文社から出した「近代日本文芸読本」に関してである。この読本は、凝り性の芥川が、心血を注いで編集したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、出来るだけ多くの人の作品を収録した。芥川としては、何人にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であったのだ。そのため、収録された作者数は、百二、三十人にも上った。しかし、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であったため、たくさん売れなかった。そして、その印税も編集を手伝った二、三子に分たれたので、芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかったくらいである。
 しかるに、何ぞや「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説が生じた。中には、「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん。」と、不平をこぼす作家まで生じた。こうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。芥川としては、やり切れない噂に違いなかった。芥川は、堪らなかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付するようにしたい」と、私に言った。私は、そんなことを気にすることはない。文芸家協会に寄付などすればかえって、問題を大きくするようなものだ。そんなことは、全然無視するがいい。本は売れていないのだし、君としてあんな労力を払っているのだもの、グズグズ言う奴には言わして置けばいいと、私は口がすくなるほど、彼に言った。
 彼が、多くの作家を入れたのは、各作家に対するコムプリメントであったのが、かえってそんな不平を呼び起す種となり、彼としては心外千万なことであったろう。私が、文芸家協会云々のことに反対すると、彼はそれなら今後、印税はあの中に入れてある各作家に分配すると言い出したのである。私は、この説にも反対した。教科書類似の読本類は無断収録するのが、例である。しかるに丁重に許可を得ている以上、非常な利益を得ているならばともかく、あまり売れもしない場合に、そんなことをする必要は絶対にないと、私は言った。その上、百二、三十人に分配して、一人に十円くらいずつやったくらいで、何にもならないじゃないかと言った。私が、そう言えばその場は、承服していたようであったが、彼はやっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許にもれなく贈ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかった。だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ。
 この事件と前後して、この事件などとも関連して、わずらわしい事件が三つも四つもあった。私などであれば「勝手にしやがれ」と、突き放すところなどを、芥川は最後まで、気にしていたらしい。それが、みんな世俗的な事件で、芥川の神経には堪らないことばかりであった。
 その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人の令弟の発病など、いろいろ不幸がつづいていた。
 それが、数年来|萠《きざ》していた彼の厭世的人生観をいよいよ実際的なものにし、彼の病苦と相俟って自殺の時期を早めたものらしい。
 そういう点で、彼の「手記」は、文字通り信じてよく、あれ以上いろいろ憶測を試みようとするのは、死者に対する冒※[#「※」は「さんずい+賣」、読みは「とく」、第3水準1-87-29、24-下段16]である。あの中の女人が、文子夫人でないとしても、その女人との恋愛問題などがある程度以上のものであるはずなく、ただああした女人も求むれば求め得られたという程度のものだろう。あの「女人云々」について、僕宛の遺書には、その消息があるなどと、奇怪な妄説をなすものがあったが、そういう妄説を信ずる者には、いつでも自分宛の遺書を一見させてもいいと思っている。僕宛の遺書は僕に対する死別の挨拶のほか他の文句は少しもない。
 芥川の「手記」をよめば、芥川の心境は澄み渡ってい、落ち付き返ってい、決して生々しい原因で死んだのでないことは、頭のある人間には一読して分るだろう。芥川としては、自殺ということで、世人を駭《おどろ》かすことさえも避けたかったのだ。病死を装いたかったのであろう。

 芥川と自分とは、十二、三年の交情である。一高時代に、芥川は恒藤《つねとう》君ともっとも親しかった。一高時代は、一組ずつの親友を作るものだが、芥川の相手は恒藤君であった。この二人の秀才は、超然としていた。と、いって我々は我々で久米、佐野、松岡などといっしょに野党として、暴れ廻っていたが、僕は芥川とは交際しなかった。
 僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後である。一高を出て、京都に行って夏休みに上京した頃、はじめて芥川と親しくしたと思っている。その後、自分が時事新報にいた頃から、親しくなり、大正八年芥川の紹介で大阪毎日の客員となった頃から、いよいよ親しく往来したと思う。最近一、二年は、自分がいよいよ俗事にたずさわり、多忙なので月に一度くらいしか会わなかった。最近もっとも親しく往来した人は小穴《おあな》隆一君であろう。小穴君は、芥川に師事し日として会わざる日なきありさまであった。
 芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、また僕は芥川の趣味などに義理にも共鳴したような顔もせず、自分のやることで芥川の気に入らぬこともたくさんあっただろうが、しかし十年間一度も感情の阻隔を来したことはなかった。自分は何かに憤慨すると、すぐ速達を飛ばすので、一時「菊池の速達」として、知友間に知られたが、芥川だけには一度もこの速達を出したことがない。
 僕と芥川は、どちらかといえば僕の方が芥川に迷惑をかけた方が多いかと思う。しかし、それにもかかわらず、僕の言う無理はたいていきいてくれた。最近の「小学生全集」の共同編集なども、自殺を決心していた彼としては嫌であったに違いないが、自分の申し出を拒けて僕を不快にさせまいとする最後の交誼として、承諾してくれたのであっただろうと思う。彼が、自分宛の遺書の日付は、四月十六日であるから、もうその頃は、いよいよ決心も熟していたわけである。
 今から考えると、自分は芥川に何も尽すことが出来なかったが、彼は蔭ながら、自分の生活ぶりについて、いろいろ心配していてくれたらしい。去年の十月頃鵠沼にいた頃、僕のある事件を心配して、注意をしてくれ、もし自分の力で出来ることがあったら、上京するから電報をくれというような手紙をくれた。ところが、自分はその事件などは、少しも心配していなかったので、心配してくれなくってもいい旨返事したが、芥川が神経衰弱に悩みながら、僕のことまで考えてくれたことを嬉しく思った。彼は、近年僕が、ちっとも創作しないのをかなり心配したと見え、いつかも、(「文藝春秋」を盛んにするためにも、君が作家としていいものを書いていくことが必要じゃないか)
と言ってくれた。それに対して、
(いや、僕はそうは思わない。作家としての僕と、編集者としての僕は、また別だ。編集者として、僕はまだ全力を出していないから、その方で全力を出せば、雑誌はもっと発展すると思う)
 と、言って僕は芥川の説に承服しなかったが、芥川の真意は僕が創作をちっとも発表しないのを心配してくれたのだろうと思った。
 僕のもっとも、遺憾に思うことは、芥川の死ぬ前に、一カ月以上彼と会っていないことである。この前も「文藝春秋座談会」の席上で二度会ったが、二度とも他に人がありしみじみした話はしなかった。その上、「小学生全集」があんなにゴタゴタを起し、芥川にはまったく気の毒で芥川と直面することが、少しきまり悪かったので、座談会が了った後も、僕は出席者を同車して送る必要もあり、芥川と残って話す機会を作ろうとしなかった。ただ万世橋の瓢亭で、座談会があったとき、私は自動車に乗ろうとしたとき、彼はチラリと僕の方を見たが、その眼には異様な光があった。ああ、芥川は僕と話したいのだなと思ったが、もう車がうごき出していたので、そのままになってしまった。芥川は、そんなときあらわに希望を言う男ではないのだが、その時の眼付きは僕ともっと残って話したい渇望があったように、思われる。僕はその眼付きが気になったが、前にも言った通り芥川に顔を会わすのが、きまり悪いので、その当時用事はたいてい人を通じて、済ませていた。
 死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけていたという。しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らしてくれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼を訪ねなかったのである。彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付きは、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。
 彼が、僕を頼もしいと思っていたのは僕の現世的な生活力だろうと思う。そういう点の一番欠けている彼は、僕を友達とすることをいささか、力強く思ったに違いない。そんな意味で、僕などがもっと彼と往来して、彼の生活力を、刺激したならばと思うが、万事は後の祭りである。
 作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言えると思う。彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。
 彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルというのを知っているか。」
「知らない。君は。」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
 山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らなかった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの果たして幾人いただろう。二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。
 芥川はいろいろの方面で、多くのマインレンデルを読んでいる男に違いなかった。
 数年前、ショオを読破してショオに傾倒し、ショオがいかなる社会主義者よりもマルクスを理解していたことなどを感心していたから、社会科学の方面についての読書などもいい加減なプロ文学者などよりも、もっと深いところまで進んでいたように思う。芥川が、ときどき洩した口吻などによると、Social unrest に対する不安も、いくらか「ボンヤリした不安」の中には入っているようにさえ自分は思う。
 彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻していて、嫌な人間は決してその垣から中へは、入れなかった。しかし、彼が信頼し何らかの美点を認める人間には、かなり親切であった。そして、よく面倒を見てやった。また、一度接近した人間は、いろいろ迷惑をかけられながらも、容易には突き放さなかった。
 皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らないことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろうと思う。
「週刊朝日」に出た芥川家の女中の筆記によると、彼は死ぬ少し前、カンシャクを起して花瓶を壊したという。それはウソかほんとうか知らないが、もっと平生花瓶を壊していたらあんなことにはならなかったと思う。あまりに、都会人らしい品のよい辛抱をつづけすぎたと思う。
 芥川が、「文藝春秋」に尽してくれた好意は感謝のほかはない。その好意に報いるため、また永久にこの人を記念したいから、「侏儒の言葉」欄は、死後も本誌のつづく限り、存続させたいと思う。未発表の断簡零墨もあるようだし、書簡などもあるから、当分は材料に窮しないし、材料がなくなれば彼に関するあらゆる文章をのせてもいいと思う。芥川にもっとも接近していた小穴隆一君に、編集を托するつもりだ。大町桂月氏を記念するために、「桂月」という雑誌さえあるのだから、本誌一、二頁の「侏儒の言葉欄」を設けるのは、適宜なことだと思う。
 なお、ちょっと付言しておくが、彼の最近の文章の一節に「何人をも許し、何人よりも許されんことを望む」という一節があった。文壇人およびその他の人で故人に多少とも隔意の人があったならば、故人のこの気持ちを掬んで、この際釈然としてもらいたいと思う。



底本:『「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻』文藝春秋
   1988(昭和63)年1月10日初版発行
底本の親本:「文藝春秋」昭和2年9月号
入力:山田豊
校正:二宮知美
2001年1月18日公開
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