青空文庫アーカイブ

仇討三態
菊池寛

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)越《こし》の御山《みやま》永平寺

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)雪|作務《さむ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おとよ[#「おとよ」に傍点]
-------------------------------------------------------

     その一

 越《こし》の御山《みやま》永平寺にも、爽やかな初夏が来た。
 冬の間、日毎《ひごと》日毎の雪|作務《さむ》に雲水たちを苦しめた雪も、深い谷間からさえ、その跡を絶ってしまった。
 十幾棟の大伽藍を囲んで、矗々《ちくちく》と天を摩している老杉《ろうさん》に交って、栃《とち》や欅《けやき》が薄緑の水々しい芽を吹き始めた。
 山桜は、散り果ててしまったが、野生の藤が、木々の下枝《しずえ》にからみながら、ほのかな紫の花房をゆたかに垂れている。
 惟念《ゆいねん》にも、僧堂の生活がようやく慣れてきた。乍入《さにゅう》当時の座禅や作務の苦しさが今では夢のように淡く薄れてしまった。暁天の座禅に、とろとろと眠って、巡香の驚策《きょうさく》を受くることも数少なくなった。正丑《しょううし》の刻の振鈴に床を蹴って起き上ることも、あまり苦痛ではなくなった。午前午後の作務、日中|諷経《ふぎん》、念経、夜座《やざ》も、日常の生活になってしまった。
 挂塔《けいとう》を免《ゆる》されたのが、去年の霜月であったから、安居《あんご》はまだ半年に及んだばかりであったけれども、惟念の念頭からは、諸々《もろもろ》の妄念が、洗わるるごとくに消えて行った。心事は元より未了であったけれども、心《しん》澄み、気冴えた暁天の座などには、仏種子《ぶっしゅし》が知らず知らず増長して、かすかながらも、悟道に似た閃きが、心頭を去来することがあった。
 親の敵《かたき》を求めて、六十余州を血眼になって尋ね歩いた過去の生活が、悪夢のように思い出される。父親を打たれたときの激怒、復讐を誓ったときの悲壮な決心、それが今でもまざまざと思い出されるが、もう実感は伴わない。四、五年の間は、関東関西と、梭《おさ》のように駆け回った。が、そのうちに、こんなに焦っても、時機が来なければ討てるものではないと考えた。彼は、江戸に腰を落ち着けて、二年ばかりゆっくりと市中を尋ね歩いた。が、敵の噂をさえきくことができなかった。彼はまた焦りはじめた。江戸を立って久しぶりに東海道を上ったのが、元禄三年の秋で、故郷の松江を出てから八年目、彼は三十の年を迎えていた。畿内から中国、九州と探し歩いたそれからの三年間にも、彼は敵に巡り合わなかった。江戸を出るときに用意した百両に近い大金も、彼が赤間ヶ関の旅宿で、風邪の気味で床に就いた時には、二朱銀が数えるほどしか残っていなかった。
 彼は、門付《かどづけ》をしながら、中国筋を上って、浪華《なにわ》へ出るまでに、半年もかかった。浪華表の倉屋敷で、彼は国元の母からの消息に接した。母は、自分が老衰のために死の近づいたのを報じて、彼が一日も早く仇を討って帰参することを、朝夕念じていると書いていた。彼は、母の消息を手にして、心が傷《いた》んだ。十一年の間、空しく自分を待ちあぐんでいる痛ましい母の心が、彼を悲しませた。彼は新しい感激で、大和から伊勢へ出て、伊勢から東山道を江戸へ下った。が、敵《かたき》らしいものの影をさえ見なかった。尋ねあぐんだ彼は、しようことなしに奥州路を仙台まで下ってみた。が、それも徒労の旅だった。江戸へ引っ返すと、碓氷峠を越えて信濃を経て、北陸路に出て、金沢百万石の城下にも足を止めてみた。が、その旅も空しい辛苦だった。近江から京へ上ったのが、元禄九年の冬の初めである。国を出てから、十四年の月日が空しく流れていた。故郷の空が、矢も楯もたまらないように恋しかった。二十二で、故郷を出た彼は、すでに初老に近かった。母が恋しかった。安易な家庭生活が恋しかった。無味単調な仇討の旅に、彼はもう飽き飽きしていた。が、一旦、仇討を志した者が、敵《かたき》を討たないで、おめおめと帰れるわけはなかった。行き暮れて辻堂に寝たときとか、汚い宿に幾日も降り籠められていたときなどには、彼はつくづく敵討が嫌になった。彼は、いっそ京か浪華かで町人になり下って、国元の母を迎えてのどかな半生を過そうかとさえ思った。が、少年時代に受けた武士《さむらい》としての教育が、それを許さなかった。彼は自分の武運の拙さが、しみじみ感ぜられた。それと同時に、自分の生涯をこれほど呪っている父の敵が、恨めしかった。彼は敵に対する憎悪を自分で奮い起しながら、またまた二年に近い間、畿内の諸国を探し回った。
 浪華の倉屋敷で、国元の母が死去したという知らせを得たのは、彼が三十八の年である、故郷を出てから十六年目であった。
 恐ろしい空虚が、彼の心を閉した。すべてが煙のように空《むな》しいことに思われた。千辛万苦のうちに過した十六年の旅が、ばかばかしかった。敵に対する憎悪も、武士の意地も、亡父への孝節も、すべてが白々しい夢のように消えてしまった。
 彼は間もなく、浪華に近い曹洞の末寺に入って得度《とくど》した。そこで、一年ばかりの月日を過してから、雲水の旅に出て、越《こし》の御山《みやま》を志して来たのである。
 瞋恚《しんい》の念が、洗われた惟念の心には、枯淡な求《もとめ》の道の思いしか残っていなかった。長い長い敵討の旅の生活が、別人の生涯のようにさえ思われはじめた。
 その日は、維那《ゆいな》和尚から薪作務《まきさむ》のお触れが出ていた。ほがらかな初夏の太陽が老杉を洩れて、しめっぽい青苔《あおごけ》の道にも明るい日脚が射していた。
 百名を越している大衆に、役僧たちも加わった。皆は思い思いの作務衣《さむえ》を着て、裏山へ分け入った。ぼろぼろになった麻衣《あさごろも》を着ているものもいた。袖のない綿衣《わたごろも》を着ている者もあった。雲水たちの顔が変っているように、銘々の作務衣も変っていた。惟念には初めての薪作務が、なんとなく嬉しかった。彼は僧堂の生活に入って以来、両腕に漲《みなぎ》ってくる力の過剰に苦しんでいた。
 杣夫《そま》が伐ってあった生木を、彼は両手に抱えきれぬほどの束にした。二十貫に近い大束を軽々と担ぎ上げた。勾配のかなり激しい坂を、駆けるように下って来た。二十間ばかり勢いよく馳せ下った彼は、先に行く雲水を追い越すわけにもいかないので、速度を緩めた。その男の担いでいる束は、彼の束の三分の一もなかった。が、その男は、その束の下で、あやうげに足を運んでいる。
 広い道へ出るまでは、追い越すわけにはいかなかった。彼は、その男について歩いた。見るともう六十に近い老人である。同参の大衆ではなく、役僧であることがすぐ分かった。半町ばかり後からついて行くうちに、彼は老僧の着ている作務衣に気がついた。老僧の作務衣は、その男が在俗の時に着た黒紋付の羽織らしかった。その羽二重らしい生地が、多年の作務に色が褪せて、真っ赤になっている。紋の所だけは、墨で消したと見え、変に黒ずんでいる。惟念はついおかしくなって思わず微笑をもらした。が、ふとその刹那にこの人も元は武士《さむらい》だったなと思った。彼は何気なくその墨で黒ずんでいる紋を見つめていた。それは、ほとんど消えかかっているけれども、丸の内に二つの鎌が並んでいるという珍しい紋だった。
 惟念の全身の血が急に湧き立った。二つの鎌が並んでいる紋、それは彼が過去十六年の仇討の旅の間、夢にも忘れなかった仇敵の紋である。父の敵は、召し抱えられてから間もない新参であったため、部屋住みだった彼は、ただ一、二度顔を合わしただけである。その淡い記憶が、幾年と経つうちに薄れてしまって、他人からきいた人相だけが、唯一の手がかりであった。その中でも、敵の珍しい紋所と、父が敵の右|顎《あご》に与えてあるはずの無念の傷跡とが、目ぼしい証拠として、彼の念頭を離れなかった。彼は先に行く武士《さむらい》、擦れ違う武士《さむらい》、宿り合わした武士《さむらい》、そうした人々の紋所を、血走った目で幾度か睨んだことだろう。
 惟念は担いでいる薪束を放り出して、老僧の首筋を、ぐいと掴んで、その顔を振り向けたい気がした。彼は右の顎を見たかったのである。十六年の苦しい旅の朝夕に、敵に対して懐いた呪詛と憎悪とが、むくむくと蘇ってきた。が、すぐに彼に反省の心が動いた。一旦、瞋恚の心を捨てて弁道の道にいそしんでいる者が、敵の紋所を見たからといって、心をみだすべきではない。それは捨て去ったはずの煩悩に囚われることである。まして、広い日本国中に、二つない紋所とは限っていない。故郷の松江でこそ珍しい紋所でも、他国へ行けば、数多い紋所であるかもわからない。実際、江戸の町住居《まちずまい》をしたとき、通りがかりの若衆が同じ定紋を付けているのを見て、すわや敵の縁者とばかり、後をつけて行って、彼が敵とは縁も由縁《ゆかり》もない、旗本の三男であることを、突き止めたことさえある。おそらくこの老僧も、かの若衆と同じ場合であろう。十六年の間、もがき苦しんでも邂逅《かいこう》し得えなかった敵に、得度した後に、悟道の妨げになるようにと偶然会わせるほど、天道は無慈悲なものではあるまい。もしまたそれが正真の敵であったとして、自分はどうしようというのだ。僧形になっている身で、人を殺すことはできない。一旦、還俗《げんぞく》した後、僧形になっている敵を討ってめでたく帰参しようというのか。おめおめと敵を討ち得ないで出家した者が、敵が見つかったからといって、還俗することは、そのこと自身において卑怯である。帰参のときに、一旦、僧形になったいい訳が立つわけではない。
 彼は、ともすればみだれ立とうとする心を、じっと抑えた。老僧が、薪束を右の肩に担いでいるために、右の顎が隠されているのこそ幸いである。彼は、その右の顎を見まいと思った。ちょうどその時に彼は広い道へ出た。彼は老僧の方を振り向きもしないで、一目散に駆け抜けた。
 が、天道は皮肉に働いた。昼時の行斎《ぎょうさい》が終って、再び薪作務が始まったときである。彼は、燃え上ろうとする妄念の炎を制しながら、薪束を作っていた。彼は不足している薪を集めようとして、周囲を見回した。四、五間かなたに生えている榧《かや》の木の向うに、伐られたその枝が、うず高く積まれているのを見出した。榧の木の下を潜って、彼が向う側へ出た時である。今までは、心づかなかったその木陰に、昼前の老僧が俯向きながら薪を束ねている。と思った刹那、老僧は彼の足音をきいて半身を上げた。彼は、嫌でもその顎を見ずにはいられなかった。傷が古いために色こそ褪せていたが、右の口元から顎にかけて、かすった太刀先がありありと残っている。
「おのれ!」
 彼は、口元まで、そんな言葉が出かかった。が、彼の道心は勝った。彼は一瞬の間、老僧を見つめると、踵《きびす》を翻して自分の薪束の所へ帰った。
 でも、彼の心は容易には収まらなかった。彼は、薪束の中の太い棒を見ていると、それを真向に振り翳《かざ》して、敵の坊主頭を叩いてやりたかった。まだ、一年と安居《あんご》をしていない彼の道心は、ともすれば崩れかけた。彼は、足下の薪束を茫然と見つめながら迷った。迷った末に、彼は辛うじて自分の妄執に打ち勝った。
 が、自分の心が不安でならなかった。一旦は思い捨てても、どういう機会に、再び妄念に囚われるかもしれない。どんなはずみで相手を打ち殺すかもしれない。彼は、自分の道心の勝利を、何かに誓っておきたかった。二度と再び、未練な妄執に囚われないために、何かに誓っておきたかった。
 それは、敵の老僧に打ち明けておくより、いいことはないと考えついた。在俗の折の妄執として、話しておこう。そして、現在の自分が、それに打ち勝ち得たことを相手に話しておこう。そして、敵の手をとって、快く笑おう。敵にそれと明かした以上、どんなに妄執の力が強くとも、束《つが》えた言葉を破ることはないだろう。彼はそう思うと、でき上がった薪束を、痩せた肩に担ぎ上げて、歩みさろうとする老僧を呼び止めた。
「何御用!」
 彼は、敵の言葉を初めて耳にしたのである。また、心が乱れようとするのを抑えた。
「貴僧にききたいことがある」
「なんじゃ」
 老僧は落ち着きかえっている。
「余の儀でない。貴僧はもと雲州松江の藩中にて、鳥飼八太夫とは申されなかったか」
 僧の顔色は動いた。が、言葉は爽やかであった。
「お言葉の通りじゃ」
「しからば重ねて尋ね申す。貴僧は松江におわした時、同家の山村武兵衛を打った覚えがござろうな」
 さすがに老僧の顔色は変った。が、言葉はなお神妙であった。
「なかなか。して、其許《そこもと》は何人《なんびと》におわすのじゃ」
 老僧は、かなり急《せ》き込んだ。
 惟念は、努めて微笑さえ浮べながらいった。
「愚僧は、今申した山村武兵衛の倅、同苗武太郎と申したものじゃ。御身を敵と付け狙って、日本国中を遍歴いたすこと十余年に及んだが、武運拙くして会わざること是非なしと諦め、かような姿になり申したのじゃ」
 老僧は老眼をしばたたいた。
「近頃神妙に存ずる。愚僧は、今申した通りの者じゃ。御自分の父を打って松江表を立ち退き、その後諸国にて身上を稼ぎ申したが、人を殺した報《むく》いは覿面《てきめん》じゃ。いずこにても有付《ありつ》く方《かた》なく、是非なく出家いたしたのじゃ。ここで御身に巡り合うのは、天運の定まるところじゃ。僧形なれども子細はござらぬ。存分にお討ちなされい」
 老僧の言葉は晴々しかった。
 惟念は淋しい微笑を浮べた。
「討つ討たるるは在俗の折のことじゃ。互いに出家|沙門《しゃもん》の身になって、今更なんの意趣が残り申そうぞ。ただ御身に隔意なきようにと、かくは打ち明け申したのじゃ。敵を討つ所存は毛頭ござらぬわ」
 老僧は折り返していった。
「いやいや、さようではござらぬぞ。ここは、御自分よくよく覚悟あるべきところじゃ。われらは、身上の有付きなきための、是非なき出家じゃ。御自分は違う。われらを討ち申されて帰参なさるれば、本領安堵は疑いないところじゃ。その上、我らを許して安居《あんご》を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢《りょうひつ》などは思いも及ばぬことじゃ。在俗の折ならば、なかなか討たれ申すわれらではないが、かようの姿なれば、手向いは仕らぬ。早々、お討ちなされい!」
 老僧の言葉は道理至極だ。惟念は、老僧を討とうという激しい誘惑を刹那に感じたが、それにもようやくにして打ち勝った。
「ははははは、何を申されるのじゃ。この期《ご》に及んで武儀の頓着は一切無用じゃ。愚僧は、もはや分別を究《きわ》め申した。御身を敵と思う妄念は一切断ち申す。もし、貴僧にお志あらば、亡父の後生菩提をお弔い下されい!」
 彼はそう潔くいい放つと、両手にも余る薪束を軽々と担ぎ上げながら、御堂の倉庫を指して一散に駆け下った。
 薪作務があったために、その夜は「夜座《やざ》各景」の触れがあった。それは夜の禅座の休止を意味していた。が、惟念には、その夜は大事の一夜であったから、自分一人単前に打座した。
 隣単の雲水たちが、相集って法螺《ほら》を吹いているのも耳にかけず、座禅三昧に心を浸した。いかに出家の身であるとはいえ、眼前にある父の敵を許したということが、執拗な悔恨となって心頭を去来したが、それがいつの間にか薄れてしまうと、神々しい薄明が心のうちをほのかに照らすような心持がした。初更の来たことを報ずる更点の太鼓と共に、いつもは大衆と共に朗読する「普勧座禅儀《ふかんざぜんぎ》」を口のうちで説えた。高祖|開闢《かいびゃく》の霊場で、高祖の心血の御作《ぎょさく》たる「座禅儀」を拝誦するありがたさが彼の心身に、ひしひしと浸み渡った。
 彼が開枕板《かいちんばん》の鳴るのを合図に、座禅の膝を崩すまで、彼の心は初夏の夜の空のように澄み渡って、一片の妄念さえ痕を止めていなかった。
 激しい薪作務の疲れのために、隣単の雲水たちは、函櫃《はこびつ》から蒲団を取り出して、それに包まると、間もなく一斉に寝入ってしまったのだろう。十四間四面の広い僧堂のかしこからもここからも、安らかな鼾《いびき》の声が高くきこえてきた。が、惟念には、昼間の疲れにもかかわらず、眠りはなかなか来なかった。座禅のために澄み切った心が、いつまでもいつまでも続いた。が、子《ね》の刻が近づくと、ついとろとろした。
 彼は、夜半何事となくふと目覚めた。宵から、右の肩を下にして続けていたためだろう。右半身が痺れたように痛んだ。彼は、寝返りを打とうとした。が、不思議に彼の身体は動かなかった。彼は目を開いた。彼は、自分の顔の上におぼろげながら、人の顔を見た。聖龕の前の灯明の光しかない、ほの暗い堂内では、それが何人《なんびと》であるか、容易にはわからなかった。が、相手は彼が目覚めたのを知ると、明らかに狼狽した。
 彼は、その狼狽によって、相手が昼間の老僧であることが分かった。それと同時に、その老僧の右の手に、研ぎ澄まされた剃刀《かみそり》がほの白く光っているのを見た。が、彼にはそれを防ごうという気もなかった。向うから害心を挟んできたのを機会に、相手を討ち取ろうという心も、起らなかった。ただ、自分が許し尽しているのに、それを疑って自分を害そうと企てた相手を憫む心だけが動いた。が、それもすぐ消えた。彼には、右半身の痺れだけが感ぜられた。
「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」
 彼は、口のうちで呟くようにいいながら、狭い五布《いつの》の蒲団の中で、くるりと向きを変えた。夢とも現《うつつ》ともない瞬間の後に、彼は再び深い眠りに落ちていた。
 役僧の一人が、永平寺を逐電したのは、その翌日である。

     その二

 越後国|蒲原郡新発田《かんばらごおりしばた》の城主、溝口|伯耆守《ほうきのかみ》の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに、親の敵和田直之進が、京師室町四条上るに、児医師《こどもいし》の看板を掲げて、和田淳庵という変名に、世を忍んでいるのを探り当てた。
 それを初めに知ったのは、弟の忠三郎であった。二度目に上方へ上ったとき、兄弟は京と大坂に別れて宿を取った。別々に敵を尋ねるための便宜だった。
 弟の忠三郎が、三条通りを何気なく歩いていたとき、彼は町家の軒先に止まった医師のそれらしい籠を見た。籠の垂《た》れを内から掲げながら、立ち出でた総髪の男を見たとき、彼は嬉しさのあまり躍り上りたかった。それは紛れもなく和田直之進だった。彼は、即座に名乗りかけて、討ち果したいと思ったが、兄のことがすぐに心に浮んだ。八年の間、狙いながら、肝心の場所にいあわさない兄の無念を想像すると、自分一人で手を下すことは、思いも寄らなかった。彼は逸《はや》る心を抑えながら、直之進が再び籠に乗るのを待ったのである。
 彼は、敵の在《あ》り処《か》を突き止めると、小躍りしながら、すぐ京を立って、伏見から三十石で大坂へ下った。が、その夜遅く、兄の宿っている高麗橋の袂《たもと》の宿屋を尋ねたとき、不幸にも兄が大和から紀州へ回るといい置いて、三日前に出発したことを知った。彼の落胆ははなはだしかった。彼は、油で煮られるようないらいらしさで兄の帰宿を七日の間空しく待ち明かした。それでも、兄の忠次郎は、八日目に飄然として帰って来た。
 兄は、弟から敵発見の知らせをきくと、涙をこぼして嬉しがった。兄弟は、その夜のうちに大坂を立って、翌朝未明に京へ入った。
 が、翌朝、弟が敵の家の様子を探るため、その家の前を通ったとき、意外にも、忌中の札が半ば閉ざされた門の扉に、貼られてあるのを見た。弟は愕然とした。彼はあわてふためきながら、隣家について、死者の何人《なんびと》であるかをきいた。死んだ者は、紛れもなく和田直之進であった。
 弟は、最初それを容易には信ずることができなかった。自分たちに発見されたのを気づいたために、自分たちを欺こうとする敵の謀計《はかりごと》ではないかと思った。が、弔問の客の顔にも、近隣の人々の振舞にも、死者を悼む心がありありと動いていた。直之進の死を疑う余地は、少しも残っていなかった。
 兄弟は、その夜三条小橋の宿屋で、相擁して慟哭《どうこく》した。短気でわがままな兄は、弟が見つけたときに、なぜ即座に打ち果さなかったかを責めた。が、その叱責が無理であることは、叱責している兄自身がよく分かっていた。兄は、切腹する切腹すると叫びながら、幾度も短剣を逆手《さかて》に持った。そのたびに温厚な弟が制した。果ては、兄弟が手をとって慟哭した。彼らの慟哭は、夜明けまでも続いた。
 八年の辛苦が、ことごとく水泡に帰した。張りつめた気が、一時に抜けた。兄弟は、うつけ者のごとく、ただ茫然として数日を過した。
 弟が、ようやく兄を慰めて、郷里の新発田へ帰って来た。弟は、京都を立つ前、ひそかに所司代へ願い出て、敵直之進が、横死した旨の書状を貰った。
 兄弟の家は、八百石を取って、側用人を務むる家柄であった。藩では、さすがにこの不幸な兄弟を見捨てなかった。兄忠次郎に旧知半石を与えて、馬回りに取り立ててくれた。
 が、忠次郎は怏々《おうおう》として楽しまなかった。その上、兄弟についての世評が、折々二人の耳に入った。それは、決して良い噂ではなかった。二人は、敵を見出《みいだ》しながら、躊躇して、得討《えう》たないでいる間に、敵に死なれたというのは、まだよい方の噂だった。悪い方の噂は、兄弟をかなり傷つけていた。和田淳庵という医師が病死したからといって、それが直之進であるとは決っていない。ことに父が討たれたときに、弱冠であった忠三郎が敵の面体を確かに覚えていようはずがない。その忠三郎が、一目見たからといって淳庵が直之進であると決めてしまうのは、不|穿鑿《せんさく》であると。これは、兄弟にはかなり手痛い非難であった。が、もっとひどい噂があった。兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。和田淳庵という名もない医師が死んだのを、直之進が病死したのだといいこしらえて、帰参のいい訳にしたのだと。兄はそんな流言を聞くごとに、血相を変えていきり立った。彼はそうした噂をいいふらすものと、刺し違えて死のうと思っていた。が、そうした流言は、誰がいいふらすともなく、風のごとく兄弟の身辺を包んで流れるのであった。
 兄弟にとっていちばん悲しいことは、そうした世の疑いを解くべき機会が、永久に来ないことだった。
 年が明けると安政四年であった。兄弟にまつわる悪評も、やっぱり年を越えていた。が、安政四年の秋となり、冬となると、さすがに、兄弟のことを取り立てていう者もなくなった。短気な忠次郎も、腹を立てる日が、少なくなっていた。
 が、兄弟が食うべき韮は、まだ尽きてはいなかった。
 それは安政四年も押し詰まった十二月十日、同藩士の久米幸太郎兄弟が、父の仇、滝沢休右衛門を討って、故郷へ晴がましい錦を飾ったことである。
 それが、なんという辛抱強い敵討であったろう。兄弟の父の弥五兵衛が、同藩士中六左衛門の家で、囲碁の助言から滝沢休右衛門に打たれたのが、文化十四年十二月、長男幸太郎が七歳、次男盛次郎が五歳のときであった。兄弟が伯父板倉留二郎の手に人と成って、伯父甥三人、永の暇《いとま》を願って、敵討の旅に出たのが、文政十一年、兄幸太郎が十七歳、弟盛次郎が十五歳の秋だった。伯父の留二郎は、四十二歳であった。
 三人は文政から天保、弘化、嘉永、安政と、三十年間、日本国中を探し回った。幸太郎が安政四年に、陸奥国牡鹿郡折《むつのくにおじかごおりおり》の浜の小庵に、剃髪して黙昭と名乗って隠れて忍んでいる休右衛門を見出したのは、安政四年十月六日のことだった。
 不幸にも、弟の盛次郎と伯父留二郎は、幸太郎と別れて関八州を尋ねていた。幸太郎は思った。弟や伯父の三十余年に渡る艱難も、ただこの敵に一刀恨まんためである、自分が一人で討ったならば、二人がさぞ本意なく思うであろうと。が、幸太郎は思い返した。二人は、今いずこにいるのか、先に手紙を出したが返事がない。敵の休右衛門は、七十を越した極老《ごくろう》の者である。二人の音信《たより》を待つうちに、いつ病死するかもしれない。二人には、不義であろうとも、一日も早く多年の本懐を達するに若《し》くはないと。幸太郎は、そう決心すると、翌七日、黙昭を欺き寄せて多年の本懐を達したのである。
 父の弥五兵衛が討たれてから四十一年目、兄弟が敵討の旅に出てから三十一年目、兄の幸太郎は四十七歳、弟の盛次郎は四十五歳、伯父の留二郎は七十二歳の高齢であった。
 兄弟がめでたく帰参したときは、新発田藩では、嫡子主膳正|直溥《なおひろ》の世になっていた。が、君臣は挙《こぞ》って、幸太郎兄弟が三十年来の苦節を賛嘆した。幸太郎は、亡父の旧知百五十石に、新たに百石を加えられた、盛次郎は新たに十五石五人扶持を給うて近習の列に加えられた。
 一藩は兄弟に対する賛美で、鼎《かなえ》の沸くようであったが、その中で、鈴木兄弟だけは無念の涙をのんでいた。
 人々は幸太郎兄弟を褒める引合として、きっと鈴木兄弟を貶《けな》した。
「鈴木忠三郎は、兄を迎えるために、便々と日を過したというが、幸太郎殿の分別とは雲泥の違いじゃ。敵を探し出しながら、おめおめと病死させるとはなんといううつけ者じゃ」
 が、そんな非難はまだよい方だった。
「三十年の辛抱に比ぶれば、八年の辛苦がなんじゃ」
「八年探して、根の尽きる武士《さむらい》に、幸太郎兄弟の爪の垢でも、煎じて飲ませたい」
 世評は、成功者を九天の上に祭り上げると共に、失敗者を奈落の底へまで突き落さねば止まなかった。
 幸太郎兄弟が帰参してから十日ばかり経った頃だった。兄弟の帰参を祝う酒宴が、親類縁者によって開かれた。
 幸か不幸か、鈴木忠次郎は、久米家とは遠い縁者に当っていた。彼は、病気といってその席に連《つら》なるまいかと思ったが、悪意のある世評が、「あれ見よ。鈴木忠次郎は、面目なさに幸太郎殿の祝宴から逃げたぞよ」と、後指を指すことは、目に見えているように思われた。
 きかぬ気の彼は、必死の覚悟でその酒宴に連なった。彼は初めから黙々として、一言も口を利かなかった。一座の者の幸太郎兄弟に対する賞賛が、ことごとく針のように、彼の胸に突き刺さった。が、中座することは、彼の利かぬ気が許さなかった。
 夜の更けると共に、一座の客は減っていた。幸太郎は鈴木兄弟の不運をすでに知っていたのだろう。客の減るのを計って、座を立つかと思うと、杯を持ちながら忠次郎の前へ来た。半知になっていても、忠次郎の方が家格は遥かに上であった。
「貴殿からも、杯を一つ頂戴いたしたい」
 幸太郎は、忠次郎が蒼白《まっさお》な顔をしながらさした杯を快く飲み干しながら、
「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」
 幸太郎の言葉には、真摯な同情が籠っていた。自分でも敵を狙ったものでなければ、持ち得ない同情が含まれた。
 忠次郎はそれをきくと、つい愚痴になった。無念の涙がはらはらと落ちた。
「お羨ましい。お羨ましい。なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」
 忠次郎は、声こそ出さないが、男泣きに泣いた。
 幸太郎は、それを制するようにいった。力強くいった。
「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命《じょうみょう》を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」
 そういったかと思うと、三十年間の櫛風沐雨《しっぷうもくう》で、銅《あかがね》のように焼け爛れた幸太郎の双頬《そうきょう》を、大粒の涙が、ほろりほろりと流れた。
 忠次郎の傷ついた胸が、温かい手でさっと撫でられたように一時に和《なご》んでいた。
 二人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。

     その三

 宝暦三年、正月五日の夜のことである。
 江戸牛込二十騎町の旗本鳥居孫太夫の家では、お正月の吉例として、奉公人一統にも、祝酒《いわいざけ》が下された。
 ことに、旧臘十二月に、主人の孫太夫は、新たにお小姓組頭に取り立てられていた。二十一になった奥方のおさち殿が、この頃になって、初めて懐胎されたことが分かった。
 慶《よろこ》びが重なったので、家中がひとしお春めいた。例年よりは見事な年暮《ねんぼ》の下され物が、奉公人を欣ばした。五日の晩になって、年頭の客も絶えたので、奉公人一統に祝い酒を許されたのであった。
 主人の孫太夫は、奉公人たちの酒宴の興を妨げぬ心遣いからであろう。日が暮れると、九段富士見町の縁類へ、年始のためだといって、出かけて行った。
 家老や用人たちは、表座敷の方でうち寛《くつろ》いでいた。中間や小者や女中などは、台所の次の間で、年に一度の公けの自由を楽しんでいた。
 二更を過ぎた頃になっても、酒宴の興は少しも衰えなかった。若い草履取や馬丁は、この時だというように、女中に酌をしてもらいながら、ぐいぐいと飲み干した。
 松の葉崩しや海川節《かいせんぶし》を歌い出すものがある。この頃はやり出した吾妻拳を打ち出すものがある。立ち上って踊り出すものがある。
 台所で立ち働いていた料理番の嘉平次までが、たまらなくなって、板前の方をうっちゃらかして酒宴の席へ顔を出した。
「嘉平か? 御苦労! もう食い物の方はたくさんだ。さあ! 貴公もそこへ座って一杯やれ!」
 中間の左平が、それを見ると、すぐに杯をさした。
 嘉平次は、六十を越していた。が、彼は新参ではあるが、一家中で誰知らぬ者もない酒好きであった。さっきから、燗番をしながら、樽から徳利の方へ移すときに、茶碗で幾杯も幾杯も盗み飲みをしたので、すでにとろりとした目付をしていたが、目の前にあった杯洗の水をこぼすと、元気よくこれを前に突き出した。
「親方、俺はそんなもんじゃまだるっこい! これで、ぐいとやりてえ!」
「いよう豪勢だ!」
 彼は、一座の賞賛を受けながら、杯洗で三杯まで重ねた。さすがに最後の一杯は飲み渋った。酔いが、健康らしい褐色の老顔にもありありと現れた。
「嘉平次さん! お前さんの包丁は、また格別だな、いつもお上のお残り頂戴で、本当に味わったのは今日が初めてだが、お前さんが自慢するだけあらあ!」
 草履取の中間が真正面《まとも》から賞め立てた。
「えへへへへへへ」お調子者の嘉平次は、上機嫌になりながら、そのだらしない口元から、落ちそうになる涎《よだれ》を、左の手で幾度も拭った。
「きけば、お前さんは、上方で鍛え上げた腕だそうだが、料理はなんといっても上方だなあ!」
 中間頭の左平までが、子細らしく感心してみせた。
「えへへへへへ、えへへへへへ」嘉平次は、おだて上げられて、いやしい嬉しそうな笑いが、止めどなく唇から洩れた。
「なんでもお前さんは、若い時は大名のお膳番を勤めたことがあるそうだが、本当かな!」
 お庭番の中間が、意識して嘉平次を煽《おだ》てにかかった。
「うむ! なるほど、なるほど」
 一座の者は、初めてきいたように感嘆した。好人物の嘉平次を煽ててやろうという心がみんなの心に少しずつ湧いていた。
「えへへへへへ、そいつを知っておられると、お恥かしい!」
 嘉平次は、恥かしそうに、頭を掻いた。が、恥かしそうにしたのは、表面だけである。彼が大名のお膳番を勤めたということは、彼の好んでつく嘘だった。彼は、酒を飲むと決ったようこの嘘をついた。もう、この屋敷へ来てからも、二、三度は繰り返した嘘である。
 本当に、讃州丸亀の京極の藩中でお膳番を勤めたのは、彼の旧主の鈴木源太夫である。彼は源太夫の家に中間として長い間仕えていたために、見様見真似に包丁の使い方を覚えたのに過ぎないのである。
「お膳番といえば、立派なお武士《さむらい》だ!」
 お庭番の中間が、のしかかるように、煽てた。嘉平次は、そういってくれるのを待っていたのである。が、彼はまた頭を掻いてみせた。
「お膳番なんて、武士《さむらい》のはしくれでさ、知行といって、僅か二十石五人扶持、足の裏にくっついてしまいそうな糊米ほどしかありませんや」
 彼は、いかにもそれを軽蔑したような口調で、二十石五人扶持といったが、彼の旧主の鈴木源太夫の知行でさえ、本当は十石三人扶持しか取っていなかった。
「二十石五人扶持! 俺たちは、生涯にたった一度でもいいから、ありついてみたいものだ!」
 お庭番の中間は、執拗に油をかけた。
「立派な上士格だ!」中間頭の左平までが、相槌を打った。
 嘉平次は、相好を崩しながら、えへらえへらと笑った。実際お膳番を勤めていたのは、旧主の鈴木源太夫ではなくして、自分であったような気持にさえなっていた。
「道理で、包丁の味が違ってらあ!」
「この三杯酢の味なんか、お大名料理の味だ!」
 嘉平次は、有頂天になっていた。彼は、お大名のお膳番の苦心談といったようなものを、話しはじめようかと思っていた。が、話題は彼の予期しない方へそれてしまった。
「そのお前さんが、どうしてまた、二十石の武士を棒に振りなさったのだ!」
 左平が、崩れていた膝頭を立て直しながらきいた。嘉平次は、ちょっと狼狽した。彼は、ただ自分が昔お膳番を勤めていたとさえ思われさえすればよかったのだ。それから先の嘘は、少しも準備してはいなかったのだ。
「それがさあ! それがさあ!」彼は、ちょっといいよどんだが、すぐ旧主の源太夫が、どうして十石の武士を棒に振ったかということを思い出した。それは、彼に用意されている手近の嘘だった。
「それがさあ! 酒の上の過ちで、つい朋輩と口論に及んで武士の意地から……」
 嘉平次はいつの間にか、無意識のうちに、武士らしい口調になっていた。
「よくあるやつだ! それで相手を見事にやりなさったのだな!」
「まったく……」
 嘉平次は武士《さむらい》らしく凜然と答えた。
「うむ!」
「なるほど」
「うむ!」
 一座は固唾《かたず》をのんでしまった。それはいままでのような煽《おだ》て半分の感嘆ではなかった。それは、料理といったような、人間として武士としての末技に対する感嘆ではなかった。武士そのものに対する感嘆だった。嘉平次は、自分が本当に武士であり、勇士であるように幻覚を感じた。
 一座の者は、みんな熱心にその詳細を知りたそうな顔付をしている。彼は一座の者を満足させると同時に、もっと自分が英雄視せらるる快感を味わいたかった。彼は旧主の鈴木源太夫が朋輩の幸田|某《なにがし》を打ち果した前後の様子を、古い二十年近い昔の記憶から探り出していた。が、旧主の源太夫の刃傷《にんじょう》には、少しも武士らしいところはなかった。朋輩の幸田某の妻に横恋慕をして、きかれなかった恨みから、幸田の家を訪ねて対談中に、相手の油断を見すまして、不意に斬りつけたのである。その上に、逃げ出そうとするところを、幸田の妻に追いかけられて、一太刀斬りつけられたように覚えている。それをそのままに話すことは、一座の不快と反感とを買うことである。彼は、その話を訂正しながら話しはじめた。
「口論の始まりというのはな。その男が、槍術が自慢でな。その日も、俺と槍術の話になったのじゃが、つい議論になってなあ。相手が、『料理番の貴殿に、武術の詮議は無用じゃ』と、口を滑らしたのが、お互いの運の尽きじゃ。武士として、聞き捨てならぬ一言と思ったから、『料理番の刀が切れるか切れぬか、受けてみい!』と斬りつけたのじゃ」
「うむ!」
「うむ!」
「うむ!」
 一座の中間たちは、嘉平次の話しぶりに、すっかり魅せられてしまった。
 自分のいっていることが、本当は嘘でなくして真実であるような得意さを感じた。
「俺はな、子供の時から、竹内流の居合が自慢でなあ!」
 彼はそういって、皆に気を持たせた。
「うむ!」
「うむ!」
 中間たちは、口々に呻った。
「抜打の勝負じゃ。はははははは」嘉平次は、浩然として笑った。
 一座はしーんとした。
「柄に手がかかったと思ったときには、もう相手の肩口から迸った血が、さっと、まだ替えてから間もない青畳の上に散っていた」
 実際、嘉平次の頭の中にも、そうした光景がまざまざと浮んだ。
「ほほう!」
「うむ!」
 中間たちの感嘆は絶頂に達した。
「家人なども、定めし出合いましたろうな」
 中間頭の左平の言葉遣いまでが、すっかり改まっていた。中間たちは、嘉平次が斬りかかる中間小者などを、左右に斬り払う勇壮な光景を予想していた。が、嘉平次はもっと別な点で、自分の武士を上げたかった。
「いや、中間小者などは、俺の太刀先に恐れをなして誰一人向かって来ぬ。が、さすがに連れ添う内儀じゃ。夫の敵とばかり、懐剣を逆手に俺に斬りかかって来た」
 話が急に戯曲的な転回をしたので、一座ははっとどよめいた。嘉平次は、自分の話の効果を確かめるように、悠然と一座を見回した。
「不憫ながら、一刀の下におやりなすったか」お庭番の中間が、待ちきれないようにきいた。さっきのように、煽て半分、揶揄《からかい》半分の口調などは微塵も残っていなかった。
「そうは思ったが、あまりに不憫でな。しかもまだ縁付いてきてから一年にもならない若い内儀じゃ。ことに、深い宿意があって打ち果したという敵じゃなし、女房の命まで取るのは無益《むやく》だと思ったから、斬りかかる懐剣の下を潜って、相手の利腕を捕えた。はははは、その時には、女と思って油断をしたために、つい薄手を負ったのが、この二の腕の傷じゃ」
 彼は、自分の腕をまくって、二の腕の傷を見せた。それは、彼が丸亀を退散して、京の四条の茶屋の板前を勤めていたとき、血気の朋輩と喧嘩をして、お手の物の包丁で斬りつけられた傷である。彼は、それを時にとっての証拠として、自分の話に動かせない真実性を加えたのであった。彼は、自分の当意即妙に、自分で感心した。
「どれ! どれ!」一座のものは、杯盤の間を渡って来て、彼の傷に見入った。もう、誰一人として、彼の話を疑っているものはなかった。
「それで、その内儀はどうなすった!」
 皆は話の結末をききたがった。
「持っていた懐剣を放させて、そこへ突き放したまま悠々と出てきたが、さすがに、後を追うて来るものはなかった。その足で、すぐ退転いたしたが、もう二十年に近い昔じゃ。今から考えると短慮だったという気もするが、武士の意地でな。武士としてこれ堪忍ならぬところじゃ!」
「道理じゃなあ。が、御身様の仕儀に、一点のきたないところもない。それをいい立てて、立派な主取りでもできるくらいじゃ」
「料理人などをさせておくのは、まったくもって惜しいものだ! 推挙さえあれば、その腕で三十石や、五十石はすぐじゃ!」
 嘉平次は、鷹揚に笑った。
「こう年が寄ると、仕官の望みなぞは、毛頭ないわ。御身たちにこうして昔話などするのが、何よりの楽しみじゃ」
「嘉平次殿のお杯を頂戴しよう」
 皆は次々に嘉平次の杯を貰った。
 彼は生れて六十幾年の間に、今宵ほど、得意な時はなかった。彼は、平生の大酒に輪をかけて、二升に近い酒を浴びていた。
 その夜、大酔した嘉平次が、蹣跚《まんさん》として自分のお長屋へ帰ろうとして、台所口を出たときだった。
「親の敵!」という悲痛な叫びと共に、匕首《あいくち》が闇に閃いたかと思うと、彼は左の脇腹を抉《えぐ》られて、台所口の敷居の上に、のけざまに転倒した。
 家人たちが、銘々酔顔を提《さ》げて駆け集ったとき、つい先頃奉公に上ったばかりの召使いのおとよ[#「おとよ」に傍点]という女が、半身に血を浴びながら、
「親の敵を討ちました。親の敵を討ちました」と、絶叫していた。
 幸田とよ[#「とよ」に傍点]女の敵討は、丸亀藩孝女の仇討として、宝暦年間の江戸市中に轟き渡った。江戸の市民は、まだ二十になるかならぬかのかよわい少女の悲壮な振舞いを賛嘆し合った。とよ[#「とよ」に傍点]女の仇討談が、読売にまで歌われていた。それによると、父の幸田源助が討たれたとき、とよ[#「とよ」に傍点]女は、母の胎内に宿ってから、まだ三月にしかなっていなかった。母は、夫の横死の原因が自分であることを知っていたために、亡夫のために貞節を立て通した。とよ[#「とよ」に傍点]女が十六のときに、母は不幸にして、他界した。彼女は、死床にとよ[#「とよ」に傍点]女をよんで、初めて父の横死の子細を語って、仇討の一儀を誓わしめたというのであった。貞節悲壮な母子《おやこ》に対する賞賛は、江戸の隅々にまで伝わった。
 嘉平次が、敵の鈴木源太夫であることについて誰も疑いを挟まなかった。町奉行の役人が、検死の時、念のためにというので、丸亀藩の屋敷へ人を迎えにやったが、ちょうど藩主が在国していたので、定府たちの間には、鈴木源太夫を見知っているものは、一人もいなかった。
 ただ、当人のとよ[#「とよ」に傍点]女だけには、敵の傷の場所が、母の遺言の通り、眉間になくして、二の腕にあったのが、ちょっと気になった。が、すぐ、母は夫を打たれたときに気が動転していたために、相手の眉間に飛びついていた血潮を、手傷だと思い違ったのだろうと思い直した。
 とよ[#「とよ」に傍点]女の孝節が、藩主の上聞に達して、召し還された上、藩の家老の次子を婿養子として、幸田の跡目を立てられて、旧知の倍の百石を下しおかれたのは、同じ宝暦五年の九月のことである。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月26日公開
2003年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ