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父
金子ふみ子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暖簾《のれん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いさかい[#「いさかい」に傍点]
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私の記憶は私の四歳頃のことまでさかのぼることができる。その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。
父が何をしていたのか、むろん私は知らなかった。あとできいたところによると、父はその頃、寿警察署の刑事かなんかを勤めていたようである。
私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。
私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾《のれん》をくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間《ま》がな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差《まなざ》しから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。
私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。肉は食べやすいように小さくむしり魚は小骨一つ残さず取りさり、ご飯やお湯は必ず自分の舌で味って見て、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。
今から考えて見て、むろん私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、なんとかいう氏族の末流にあたる由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとでわがままな若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
私の楽しい思い出はしかしこれだけで幕を閉じる。私はやがて、父が若い女を家へつれ込んだ事に気づいた。そしてその女と母とがしょっちゅういさかい[#「いさかい」に傍点]をしたり罵《ののし》りあっているのを見た。しかも父はそのつど、女の肩をもって母を撲《なぐ》ったり蹴ったりするのを見なければならなかった。母は時たま家出した。そして、二、三日も帰って来ない事があった。その間私は父の友だちの家に預けられたのである。
幼い私にとっては、それはかなり悲しいことであった。ことに母がいなくなった時などは一そうそうであった。けれどその女はいつとはなく私の家から姿をかくした。少くとも私の記憶にはなくなってしまっている。が、その代り私は、自分の家に父の姿を見ることもまた少なくなった。
私は母につれられて父をある家へ――今から考えて見るとそれは女郎屋である――迎えに行ったことを覚えている。そして、父が寝巻き姿のまま起き上って来て、母を邪慳《じゃけん》に部屋の外へ突き出したことをも。でもたまには父は、夜更けた町を大きな声で歌をうたいながら帰って来ることもあった。そうしたとき母は従順に父の衣類を壁の釘にかけたりなんかしていたが、袂《たもと》の中からお菓子の空袋や蜜柑の皮などを取出して、恨めしそうに眺めながらいうのだった。
「まあ、こんなものたくさん。それだのに子どもに土産《みやげ》一つ買って来ないんだよ……」
父はむろん、警察をやめていたのだ。ではこの頃彼は何をしていたのだろう。今に私はそれを知らない。ただ私は、いろんな荒くれた男がたくさん集まって来て一緒に酒を呑んだり、「はな」を引いたりしていたことや、母がいつも、そうした生活についてぶつぶつ呟き、父といさかい[#「いさかい」に傍点]をしていたことを知っているばかりだ。
おそらくこういう生活がたたったのであろう。父はやがて病気になった。そこでなんでも母の実家からの援助で入院したとかで、母はその附添いになり、私は母の実家に引きとられた。そして半年余り、私は実家の曾祖母や小さい叔母たちに背負われて過した。父母に別れたのにも拘らず、その幼い私は、この間わりあい幸福であったように思う。
父が恢復すると、私はまた父の家に引きとられた。その時は私たちは海岸に住んでいた。それは父の病後の保養もあり、弱い私の健康のためでもあったのである。
そこは横浜の磯子の海岸だった。私たちは一日じゅう潮水に浸ったり潮風に吹かれたりして暮した。そしてその時を境として、私の肉体は生れ変ったように健康になったということである。それは私を幸福にしたのだろうか、それとも、私を来るべき苦しみの運命に縛りつけるための、自然の悪戯《いたずら》であったのだろうか、私にはわからない。
私達の健康が恢復すると、私たちはまた引越した。それは横浜の街はずれの、四方を田に囲まれた、十四五軒一|叢《むら》のうちの一軒だった。そしてその家へ引越した冬のある雪の降る朝、私に初めての弟が生まれた。
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私たちの家がむやみに引越したということだけしか覚えていない――私たちの家に、母の実家から母の妹が、だから私の叔母がやって来た。叔母は婦人病かなんか患っていたが、辺鄙な田舎では充分の治療が出来ないというので、私たちの家から病院に通うためだった。
叔母はその頃二十二、三であったろう。顔立ちの整った、ちょっとこぎれいな娘だった。気立てもやさしく、する事なす事しっかりしていて、几帳面で、てきぱきした性質であった。だから人受けもよく、親たちにも愛せられていたようでもある。だが、いつの間にかこの叔母と私の父との仲が変になったようである。
父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の積荷|下荷《おろしに》をノートにとる仕事をしていたが、例によってなにかと口実をつけては仕事を休んでいた。そんな風だから私の家の暮し向きのゆたかである筈はなく、そのためであろう、母と叔母とは内職に麻糸つなぎをしていた。毎日毎日、母はそうして繋いだ三つか四つの麻糸の塊《たま》を風呂敷に包んで、わずかな工賃を貰いに弟を背負っては出かけるのだった。
ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋から出て来ないのが常だった。私はこまちゃくれた好奇心にそそられないわけには行かなかった。私はついにあるとき、そっと爪立ちをして、襖の引手の破目から中を覗いて見た……。
だが、私は別にそれ程驚かなかった。なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面をいくたびか私に見せた。二人はずいぶん不注意だったのだ。そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つ位の年から性への興味を喚び覚まされていたように思う。
母は火の消えたような女で、ひどく叱りもしなければひどく可愛がりもしない。が、父は叱る時にはかなりひどい叱り方をしたが、可愛がる時にはまた調子外れの可愛がり方をした。この二つの性格のいずれが子どもの心をより多く捉えたであろうか。小さい時には私はより多く父になついていた。父のために母がひどい目にあっているのを見なかったならばおそらく私はいつまでも父に親しんでいたろう。けれどいつの間にか私は父よりも母に親しんでいた。で、この頃は私は、どこへ行くにも母の袂にぶらさがってついて歩いていたが、叔母が来てからというもの、父は、私が母について出かけるのを妨げた。いろいろとすかして私を家にひきとめた。今から思うとそれは叔母に対する母の不安を取除かせて自分たちの行為をごまかすためであったに相違ない。なぜなら母が出かけるとすぐ、父は私に小遣銭を握らせて外に遊びに出したからである。いや、むしろ追い出したからである。私は別に小遣銭をねだったのではなかった。だのに、父はいつもよりはたくさんの小遣をくれて永く遊んで来いというのだった。しかも母が帰って来ると父は、母にこういって私のことを訴えるのだった。
「この子はひどい子だよ。わしの甘い事を知って、あんたが出かけるとすぐ、お小遣をせびって飛び出すんだからね」
そのうちに年も暮になった。
大晦日の晩のことを私は覚えている。母は弟をおぶって街に出かけた。父と叔母と私とは茶の間で炬燵にあたっていた。
なんとはなしにしめっぽい[#「しめっぽい」に傍点]じめじめした夜だった。いつにも似ず、父も叔母も暗い顔をしていた。そのうち父はうつぶせ[#「うつぶせ」に傍点]にしていた顔をあげてしんみりとした調子でいった。
「どうしてわしの家はこうも運がわるいだろう。わしにはまだ運が向いて来ないんだね、来年はどうかなってくれればいいが……」
人には運というものがある。それが向いて来ないうちはどうにもならないものだ。これが迷信家の私の父の哲学であった。父がしょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]そんなことをいっているのを私は小さい時から知っている。
二人は何かしきりに話し合っていたが、そのうち叔母は立ち上って押入れから櫛箱を出して来た。
「これにしましょうか」叔母はそのうちの一つの櫛を取って見まわしながらいった。「でも少し好すぎるわねえ。惜しい気がするわ」
父は答えた。
「どうせ捨てるんだ。どんなものを捨ててはならんということはない。櫛でさえあれば……」
叔母はそこで歯の折れた櫛を髪に挿して、頭から振り落す稽古をした。
「そんなにしっかり挿す必要はない。そっと前髪の上に載っけておけばいいんだ」と父はいった。
「うちの玄関口から出て前の空地を少し荒っぽく走ればすぐ落ちるよ」
いわるるままに叔母はその折れた櫛を挿して出かけて行った。そしてものの五分とたたないうちに櫛を振落して叔母が帰って来た。
「それでよし、悪運が遁《に》げてしまった。来年からは運が向いて来る」
父がこういって喜んでいるところへ、母が戻って来た。
母が泣いている弟を背からおろして乳を呑ませている間に、叔母は買物の風呂敷包みを解いた。なんでも、切餅が二、三十切れと、魚の切身が七、八つ、小さい紙袋が三つ四つ、それから、赤い紙を貼った三銭か五銭かの羽子板が一枚、それだけがその中から出て来た。
これが私たちの楽しいお正月を迎えるための準備だったのである。
翌年のお正月に母の実家から叔父が遊びに来た。叔父が帰ると、すぐにまた祖母がやって来て叔母に一緒に帰れといった。けれど、叔母は帰らずに祖母だけが帰って行った。
なんでもそれは、あとで人にきくところによると、正月に遊びに来た叔父は父と叔母とのことを知って、家に帰って話すと、祖母が心配して、お嫁にやるのだからとの理由でつれに来たのだそうである。
だが、父はむろんそれを承知する筈がなく、かえって、叔母の病気がまだよくなっていないのに、今お嫁になどやると生命にもかかわるとおどかしたそうである。
「なに、それはいいんだよ。先方は金持ちなので、貰ったらすぐ医者にかけるという約束になっているんだから」
祖母はこう答えたけれど、父は今度は、いつもの運命論をかつぎ出して、自分が不運続きのため叔母の着物をみな質に入れた、だからこのまま還すわけにはゆかぬとか、叔母は身体が弱いから百姓仕事はとても出来ない、自分もいつまでもこうしてはいないつもりだから、そのうちきっといい縁先を都会に見つけて、自分が親元となって縁づけるなど、いろいろの理窟をつけて還さなかったのだそうである。
哀れな祖母よ、祖母はむろん父のこの言葉を信じなかったに相違ない。けれど、祖母は無智な田舎の百姓女である。この狡猾な都会ものの嘘八百に打勝つことがどうしても出来なかったのである。
祖母は空しく帰って行った。父は厄介神を追っ払って安堵の胸をなでおろした事であろう。ひとり胸の苦しさを増したのは母であったに違いない。実際それからのちの私の家は始終ごたついていた。では叔母は?
叔母とても決して晴やかな気持ちでいたわけではなかろう。叔母がときどき、二月も三月も家にいなくなったのを私は覚えている。そして、それはあとからきいたことではあるが、叔母が父を遁れてひとりこっそりと他人の家に奉公に行っていたのであった。が、そのたびに父は根気よく尋ねまわって、しまいにはとうとう探しあてて来るのであった。
二度目に叔母がつれ戻されたとき、私たちはまた引越した。それは横浜の久保山で、五、六町奥に寺や火葬場を控えた坂の中程にあった。
父は相変らず何もしていないようであったが、そのうちどうして金をつくって来たのかその坂を降りたとっつき[#「とっつき」に傍点]の住吉町の通りに今一軒商店向きの家を借りた。父はその家で氷屋を始めたのだった。
氷屋の仕事は叔母の役目だった。母と子供たちは山の家に残り、父は昼間だけそこに行って帳面をつけたり商売の監督をするのだといっていた。が、それはただ初めの間だけのことで、ほどなくめったに山の家には帰って来なくなった。つまりていよく私たち母子を、父と叔母との二人の生活から追ん出してしまったのである。
私はその時もう七つになっていた。そして七つも一月生れなのでちょうど学齢に達していた。けれど無籍者の私は学校に行くことが出来なかった。
無籍者! この事については私はまだ何もいわなかった。だが、ここで私は一通りそれを説明しておかなければならない。
なぜ私は無籍者であったのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入ってなかったからである。が、なぜ母の籍がそのままになっていたのか。それについてずっとのちに私が叔母からきいた事が一番本当の理由であったように思う。叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯つれ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとの事である。ことによるとこれは、父が叔母の歓心を得るためのでたらめの告白であったかもしれない。ことによるとまた、父のいわゆる光輝ある佐伯家の妻として甲州の山奥の百姓娘なんか戸籍に入れてはならぬと考えたのかもしれない。とにかく、そうした関係から、私は七つになる今までも無籍者なのであった。
母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。けれど黙っていられないのは私だった。なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいとしきりにせがんだ。あまりに責められるので母は差し当たり私を母の私生児として届けようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。
「ばかな、私生児なんかの届が出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」
父はこういった。それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。学校に通わせないのはまだいい。では自分で仮名の一字でも教えてくれたか。父はそれもしない。そしてただ、終日酒を飲んでは花をひいて遊び暮したのだった。
私は学齢に達した。けれど学校に行けない。
のちに私はこういう意味のことを読んだ。そして、ああ、その時私はどんな感じをしたことであろう。曰く、
明治の聖代になって、西洋諸国との交通が開かれた。眠れる国日本は急に目覚めて巨人のごとく歩み出した。一歩は優に半世紀を飛び越えた。
明治の初年、教育令が発布されてから、いかなる草深い田舎にも小学校は建てられ、人の子はすべて、精神的に又肉体的に教育に堪え得ないような欠陥のない限り、男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。そして人民はこぞって文明の恩恵に浴した、と。
だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだ。私は草深い田舎に生れなかった。帝都に近い横浜に住んでいた。私は人の子で、精神的にも肉体的にも別に欠陥はなかった。だのに私は学校に行くことが出来ない。
小学校は出来た。中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。ブルジョワのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を潜った。だがそれが何だ。それが私を少しでも幸福にしたか。
私の家から半町ばかり上に私の遊び友だちが二人いた。二人とも私とおないどしの女の子で、二人は学校へあがった。海老茶の袴《はかま》をはいて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握りあって、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。それを私は、家の前の桜の木の根元にしゃがんで、どんなにうらやましい、そしてどんなに悲しい気持ちで眺めた事か。
ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくってすんだだろう。だが、そうすると、あの子供たちの上にああした悦びは見られなかったろう。
むろん、その頃の私はまだ、あるゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。
私は二人の友だちと一緒に学校に行きたかった。けれど行く事が出来なかった。私は本は読んでみたかった。字を書いてみたかった。けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。父には誠意がなく、母には眼に一丁字もなかった。母が買物をして持って帰った包紙の新聞などをひろげて、私は、何を書いてあるのか知らないのに、ただ、自分の思うことをそれにあてはめて読んだものだった。
その年の夏もおそらく半頃《なかばごろ》だったろう。父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけて来た。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学の出来る学校だったのだ。私はそこに通うことになった。
学校といえば体裁はいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。煤けた薄暗い部屋には、破れて腸《はらわた》を出した薄汚い畳が敷かれていた。その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。それが子供たちの机だった。私のペンの揺籃《ようらん》だった。
おっ師匠さん――子供たちはそう呼ばされていた――は女で、四十五、六でもあったろうか、総前髪の小さな丸髷《まるまげ》を結うて、垢じみた浴衣に縞の前掛けをあてていた。
この結構な学校へ私は、風呂敷包みを背中にななめに縛りつけてもらって、山の上の家から叔母の店の前の往来を歩いて通った。たぶん私と同じような境遇におかれた子供たちであろう。十人余りのものが狭い路地のどぶ板を踏んで通って来るのであった。
父は私をその私立学校に、貧民窟の裏長屋に通わせるようになってから、私に噛んで含めるようにいいきかせるのだった。
「ねえっ、いい子だからお前は、あすこのお師匠さんのところへ行ってることをうちに来る小父さんたちに話すんじゃないよ。それが他人《ひと》に知れるとお父さんが困るんだからね、いいかい」
叔母の店は非常に繁昌したようである。がそれでいてすこしも儲《もう》けがなかったようである。いや儲けがあったのかしれないけれど、なにぶん父が毎日お酒を呑んだり、はな[#「はな」に傍点]をひいたりしているのだからうまく行く筈はなかったのだろう。のみならず、父と叔母とはその頃、世間の噂にのぼるようなのぼせ方であったらしい。
それでも叔母の家はまだよかった。困っていたのは私たち母と子であった。ある日の事である。私たちは何も食べるものがなかった。夕方になっても御飯粒一つなかった。そこで母は、私と弟とをつれて父を訪ねて行った。父はお友だちの家にいた。が、母がどんなに父に会いたいといっても父は出て来なかった。
おそらく母はもう耐《こら》えきれなかったのだろう。いきなりその家の縁側から障子をあけて座敷に上った。明るいランプの下に、四、五人の男が車座に坐って花札をひいていた。
母は憤《いきどお》りを爆発させた。
「ふん、おおかたこんな事だろうと思ってた! うちにゃ米粒一つだってないのに、私だってこの子どもたちだって夕御飯も食べられないって始末だのに、よくもこんなにのびのびと酒を呑んだり花を引いたりしていられたもんだね……」
父も腹立たしそうに血相を変えて立ち上った。そして母を縁から突き落とし、自分も跣足《はだし》のまま飛び降りて母になぐりかかってきた。もし居合わせた男たちが父を後ろから抱き止めて、母をすかしなだめ、父を部屋に連れ戻してくれなかったなら、憐れな母は父にどんな目に合わされたかもしれなかった。
人々のおかげで母はなぐられなかった。その代り、米粒一つも鐚《びた》一文も与えられずに、私たちはその家をすごすごと立ち去らなければならなかった。
悲しい思いを胸におさめながら私たちは黙々と坂道を上っていた。
「おいちょっと待て」
父の声である。私たちは父が米代をもって来てくれたのだと思って急に明るい心になった。ところが実際はそうではなかった。何と残酷な、鬼みたような男で父はあったろう。
立ち止まって救いを待っている私たちに近寄ると、父は大きな声でどなりたてた。
「とくの、よくもお前は人前で俺に恥をかかせたな。縁起でもない、おかげで俺はすっかり負けてしまった。覚えてろ!」
父はもう片足の下駄を手に取っていた。そしてそれで母をなぐりつけた。その上、母の胸倉をつかんで、崖下につき落すと母を脅かした。夜だから見えないが、昼間はよくわかる、あの、灌木や荊《いばら》がからみあって繁っている高い崖下へである。
弟は驚いて母の背中で泣きわめいた。私はおろおろしながら二人の周囲を廻ったり、父の袖を引いて止めたりしたが、そのうちふと[#「ふと」に傍点]、そこから半町ばかり下の路傍の木戸の長屋に小山という父の友人のいることを憶い出した。おいおい泣きながら私はその家へ駈けこんだ。
「やっぱりそうだったのか……」とその家の主人は、食べかけていた夕飯の箸をほうり出して飛んで来てくれた。
私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。おっ師匠さんは子どもに、白砂糖を二斤中元に持って来いといいつけた。おそらくこれがおっ師匠さんの受ける唯一の報酬だったのだろう。けれど私にはそれが出来なかった。生活の不如意のためでもあったろうが、家のごたごたは私の学校のことなどにかまってくれる余裕をも与えなかったためでもあろう。とにかくそんなわけで私は、片仮名の二、三十も覚えたか覚えないうちに、もうその学校からさえ遠ざからなければならなかった。叔母の店は夏の終りまで持ちこたえられなかった。二人はまた山の家へ引きあげて来た。家は一層ごたつき始めて、父と母とは三日にあげず喧嘩した。
二人が争うとき私はいつも母に同情した。父に反感を持ちさえもした。そのために私は母と一緒になぐられもした。ある時などは、雨のどしゃぶる真夜中を、私は母と二人で、家の外に締め出されたりなどした。
父と叔母とはあいかわらずむつまじかった。けれど、実家からはいつも叔母の帰宅を促して来た。そしてとうとう、叔母も帰るといい、父も帰すといい出した。母も私も明るい心になったのはいうまでもなかった。
父はしかし、叔母を帰すについては、叔母をまさか裸では帰されないといった。そして、店をたたんだ金で、その頃十七、八円もする縮緬《ちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》や帯や洋傘《こうもり》などを買ってやった。ちょうど私の小さい時に私の世話を一さい自分でしたように、父は叔母のそれらの買い物を一切自分でしてやった。以前、子に向けた心づかいが今は女に向けられたのである。
もう秋だった。父は叔母のために、旅に立つ荷造りをし、私の家にあった一番上等の夜具までもその中に包みこんだ。
母は弟をおぶって私と一緒に叔母を見送った。
「お嫁入り前のあんたを裸にして帰すなんてほんとにすまない、だけど、これも運がわるいんだとあきらめて……」
母はいくたびかいくたびかこんなことを繰返して途々叔母に詫びた。その眼には涙さえ浮んでいた。
私たちは途中まで送って帰って来た。停車場まで送って行った父は夕方になって帰って来た。
ああなんという朗《ほが》らかな晩だったろう。子ども心にも私はほっと一安心した。静かな、静かな、平和な晩だ!! けれど、けれど、やがて私たちは余りにも静かな生活を余儀なくされなければならなかった。なぜなら、すぐその翌日だったか四、五日たってからだったか、父もまた私たちの家から姿をかくしたからであった。
「ああ、くやしい。二人は私たちを捨てて駈け落ちしてしまったんだ」
と母は歯を噛みしばっていった。
胸に燃ゆる憤怨《ふんえん》の情を抱きながら、藁しべにでもすがりつきたい頼りない弱い心で、私たちはそれから、二人の在所《ありか》を探して歩いた。そしてとうとうある日、私たちの家から持って行った夜具を乾してある家を目あてに二人を見出すには見出したが、私たちはまた、例の下駄の鞭に見舞われただけで、何一つそこからは救いを得なかった。
底本:「日本の名随筆 99・哀」作品社
1991(平成3)年1月25日第1刷発行
1992(平成4)年5月25日第4刷発行
底本の親本:「何が私をこうさせたか」筑摩書房
1984(昭和59)年2月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月19日公開
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