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滑川畔にて
嘉村礒多
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)石磴《いしだん》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)同族相|戮《ころ》した
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)屡※[#二の字点、1-2-22]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)言ひ/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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北鎌倉で下車して、時計を見ると十時であつた。驛前の賣店で簡單な鎌倉江の島の巡覽案内を買ひ、私とユキとは地圖の上に額と額とを突き合せて、圓覺寺の所在をさがしても分らなかつた。
「圓覺寺といふのは、どちらでございませうか?」
ユキが走つて行つて、そこの離々と茂つた草原の中の普請場で鉋をかけてゐる大工さんに訊いて見てから、二人は直ぐ傍の線路を横切り、老杉の間の古い石磴《いしだん》を上つて行つた。
……夏とは言へ、私には、雜誌に携はる身の何彼と多忙で、寸暇もない有樣だつた。私どもの住んでゐる矢來の家の周圍は、有閑階級の人達ばかりで、夏場はみな海や山に暑さを避けて、私ども夫婦は、さながら野中の一軒屋に佗び住むやうな思ひであつた。夕食が濟むと、私は六疊に仰向けになつて團扇を使ふ。暗い電燈、貧弱な机、本箱一つ、雨の夜の淋しさ――大體そんな風の感じである。
私達は低い聲で話し合ふのであつた。
「けふね、前の田部《たべ》さんの六つになるお孃ちやんと仲よしのこの坂を下りたところの子供がね、母親に連れられて前の家に遊びに來ましたのよ、そしていつものやうに、友ちやん、遊ばない、といつて門を入ると、友ちやんの姉さんが、友子はきのふから鎌倉へ避暑ですよつて、ちよつと得意な口調で言ひますと、その子供の母親は、文ちやんも明日から父ちやんと日光へ行くのです、ね文ちやん、さあ歸りませう、と言つて歸りましたの。それがほんとのことか、それとも子供のさびしい氣持を思ひやる母親のその場の出まかせか、聞いてゐてわたしをかしかつたんですよ」
或晩、こんなことをユキから聞かされてゐるうち、突然私は、ユキのために鎌倉行を思ひ立つたのである。元來、私は旅行や散策は嫌ひのはうで、處々方々を歩きまはるといふやうな心の餘裕を憎みたく、大抵の場合一室に閉ぢ籠ることが永年の習癖になつてゐる。でも、一昨年の春の頃、妹夫婦が逗子に來てゐたことがあり、一日、私達は妹夫婦を訪ねての歸途、鎌倉驛で降りて、次の汽車までのわづかの時間で、八幡宮と建長寺とにお詣りして此方、鎌倉だけは何時かゆつくり見て置きたい氣もちがあつた。ユキも、始終、鎌倉に行きたい、江の島が見たい、長谷の大佛さんを拜みたいと、絶えず言ひ/\してゐたものなので、圖らず願ひの叶つた彼女の喜びは、だから一通りではなかつた。が、ちやうど雜誌に面倒な問題が持ち上つてゐて、日がついのび/\になつた。
前の晩ユキは、一帳羅の絹麻をトランクから取出し、襦袢の襟もかけかへ、きちんと疊んで部屋の隅に置き、帶や足袋もいつしよにその上にのせて支度を揃へた。お握りを持つて行きませうか? とユキは言つた。私は笑つてゐた。ユキは、小學校時代の遠足のやうな稚い考を抱いてゐた。寺の境内とか、松原の中とか、溪澗のほとりや砂丘の上で風呂敷の包みを解き、脚をのばして携へて來たお辨當を使うて見たいのであつた……。
圓覺寺の惣門をくぐつて、本殿、洪鐘《こうしよう》、それから後山の佛日庵、北條時宗の墓など訪うて、再び舊街道へ出た。
そして二人は鎌倉の町をさして歩き出した。一歩、かうして都會から離れ、生活から離れると、俄にがつくりと氣力がゆるみ、それに徒歩の疲勞も加はつて兎もすれば不機嫌になり勝ちの私に、ユキは流行おくれのパラソルを翳しかけるのであつた。
私は浴衣の袂から皺くちやのハンカチを出して汗を拭いた。けれど八月も殆ど終りで、東京の熱閙こそまだ喘ぐやうな暑さでも、ここまで來ると、山は深く、海は近く、冷氣がひたひたと肌に觸れて、何くれと秋の間近いことが感じられた。現に、私共の前を歩いてゐる白衣に菅笠を冠つた旅の巡禮の二人連れの老人も、語り合つてゐた。
「もう秋だね」
「さうだとも、秋だよ」
不圖、何かに驚くもののやうに私は立ち留つて、四圍の翠巒《すゐらん》にぽツと紅葉が燃え出してはゐないかしらと、見廻したりした。
街道の左右には、廢墟らしいところが多い。到るところ苔むす礎《いしずゑ》のみがのこつて、穗を吹いてゐる薄や名も知れぬ雜草に蔽はれてゐる。いはゆる骨肉相疑ひ、同族相|戮《ころ》した、仇と味方のおくつき所――何某の墓、何某の墓としるした立札が、そちこちの途の邊に見えた。
私は藁屋根の骨董屋に立寄り、記念にしようと思つて、堆《うづたか》い埃に埋れた棚に硯か文鎭でもないものかと、土間から爪立つて見た。
天秤棒をかついだ草鞋ばきの魚賣りがやつて來る。籠の中でぴち/\跳ねてゐる小魚を、百姓家の婆さんが目笊をかかへて出て道端で買つてゐる。
「安いんですね、まるで棄てるやうな値ですもの。」と、ユキは言つた。
「新鮮なもんだなあ、こんなのだと、僕も食べて見たいな。」と、平素あまり魚類を嗜まない私も羨望の眼をもつて見た。
古風な馬車が、時々、ほこりを立てながら通つてゐる。茶屋の前まで來ると、「今日は結構なお天氣さん。」と、兵隊帽をかぶつた日に燒けた年寄りの御者が、そこの主婦に聲をかけて、また、長い鞭を尻にぴしやりと當て、ゆるり/\馬の歩をすすめて行くのであつた。
やがて建長寺前へ辿り着いた。一昨年半僧坊の石段で、叢から蛇が飛び出た時の不吉な思ひが今だに忘られず、この度はお詣りは止した。山門の前の黒板を見て、昨日が御開帳であつたことが分つた。田舍相撲の土俵のまはりには紙屑や折詰の空箱など散らかつてゐて、賑はひの名殘を留めてゐた。
少憩の後、コブクロ坂を越え、ややして、鶴ヶ岡八幡宮に賽《さい》した。一昨年は震災後の復舊造營中だつた社殿がすつかり出來上つてゐたが、眞新しい金殿朱樓はお神樂の獅子のやうで、不愉快なほど俗つぽく、觀たく思つてゐた寶物の古畫も覗かずに石段を下りた。
「こんなところに隱れてゐたんですか。よく見つからなかつたものですね。」
「その當時の銀杏はもつと/\大きかつたのだらう。何しろ、將軍樣のお通りに、警護の武士の眼をかすめるなんて、屹度、銀杏の幹に洞穴でもあつて、隱れてゐたんでせうよ。」
公曉の隱れ銀杏の前で、一昨年と同じことをユキは訊き、私も同じ答へを繰返しなどして、朱塗りの太鼓橋を渡つて鳥居の前へ出た。
「何處へ行かうかしら?」
呟いてゐるところへ、大塔宮行の自動車が走つて來たので、行かう/\と元氣な聲で言つてユキを顧みながら、私は急ぎ手を上げた。
四五分の後、自動車は、大塔宮護良親王を祀る鎌倉宮に案内した。
清楚な殿宇であつた。私達は、手を洗ひ口を嗽《ゆす》いでから、お賽錢を上げ柏手をうつて拜んだ。それから、他の參拜者の後につゞいて、土牢拜觀の切符を買ひ、社殿の裏手崖下の穴藏の前に立つた。體中の汗が一時に引いたほど、四邊には窈冥《えうめい》たる冷氣がいつばい漾《たゞよ》うてゐた。傍の立札には、建武元年十一月より翌年七月まで八ヶ月間護良親王こゝに幽閉され給ふ、と書いてあつた。
二階堂谷の窖《あな》――といふのはこゝであつたのか! 私は少青年時代に愛讀して手離さなかつた日本外史の、その章を咄嗟に思ひ出して、不意に感動に襲はれて、頭の中がジーンと痺れるのを覺えた。
……はじめ親王が近畿の兵と一しよに志貴山に居られた時、父君の後醍醐帝が、天下も既に定まつたことだし、汝は髮を剃つてもとの坊主になれ、と命じられたが、親王は、高時は誅に伏したけれど、足利尊氏が曲者だから、今のうち之を除かなければと申し入れられても、帝は許されないどころか、却つて尊氏が帝の寵姫と結んでの讒言を信じられ、親王を宮中に囚はれた。親王は憤怨あらせられ、父君に上書して、臣夙に武臣の專恣を憤つて、坊主であつたものが戎衣《じゆうい》を被て、世のそしりを受け、而して、たゞ、君父のためにこの身を忘れた、朝廷の人は誰ひとり役に立つものはない、臣ひとり空拳を張つて強敵に抗したわけである。晝伏夜行、山谷にかくれ、霜雪をふんで、生死の巷をくぐり、どうにか賊を亡ぼしたと思うたのも束の間、圖らずこゝに罪を獲るとは、何んといふ不仕合せなことであらう、日月不孝の子に照らず云々、父子義絶す云々、かう御悲嘆あらせられた。すなはち、こゝに二階堂谷の穴藏に押し籠められ給ひ、後に、淵邊某が弑し奉つたといふのである。淵邊某が白刃を提げて穴の中を窺ふと、親王は燭を焚いてお經を讀んでゐられたが、顧みて蹶起され、(貴樣、おれを殺すつもりか、大逆無道者!)と炬《たいまつ》のやうな眼光で睨まれた、臆しもせず淵邊の野郎が、そのお膝を斫《き》りつけ、御身體に馬乘りになつて咽喉を突きかけると、親王は首を縮めて刃にがくツと噛みつかれ、刀を喰ひ折られた、淵邊は貳刀《じたう》を拔いて、心臟を刺した。親王のお首は刃を喰はへたまんま眼を何時までも瞑《つむ》られなかつた……
おのれ、小癪な、憎い! と親王樣はお思ひ遊ばしたことであらうと、私も淵邊の所行が怨めしく、恐ろしく、思はず齒がみをした。
宮の御最期まで側近に奉仕してゐた、藤原保藤の女|南《みなみ》の方といふ方は、その時、さぞかし騷がれたことであらう。親王樣を庇はうにも、女の腕では庇ふ所詮もないのである。それにしても、犬武士風情のくせしてゐて、親王樣のお首を打ち落すなど、よく/\惡業の強い人間だと思へて私も亦、焦《じ》り焦りと新しい憎しみに煽《あふ》られた。
「この入口は、腰を曲げなければ入れないな。石段になつて、底へ降りられるやうになつてゐるらしい。」と、注連《しめなは》を張つた暗い狹い入口をのぞいて、私は呟いた。
「奧は八疊ほどの廣さですね。」と、ユキも立札を讀んで言つた。
「天井からは水が落ちるだらうが、冬は、どうしてお過ごしなされたのだらう。お食事なんか何ういふ風にして差上げてゐたのだらう。」
「定めし、女の宮人が毒試《どくみ》をして差上げてゐたのでせうよ。その人は殺されなかつたのでせう?」
「あゝ、さうらしい。」
私共は猶穴藏のいぶきに吸ひつけられて、そこを立ち去りかねた。崖の上では、梢が風に鳴つてゐた。
親王のお首を捨て置いたと傳へられるところは、土牢を去る二十歩のところで、小藪の周圍には、七五三《しめ》繩《なは》が繞らしてあつた。藪の前にわづかに三四坪の平地があつて、勅宣の碑が建てられ、別に檜皮ぶきの屋根のついた白木の揚示板に墨痕うるはしく建碑の由來が書いてあつた。
明治六年、明治大帝、最初の特別大演習御統監のため臨幸あらせられた際、この土牢をご覽あそばして、群臣に仰せられた御言葉の一端が誌してある。……朕否徳ニシテ、股肱のたすくるところにより、どうやら、維新の大業をなすことが出來たのだが、こゝに端なくも今、兵部卿親王の土牢の前に來て見て、あゝして建國の業半ばにして、お若いお年で、お悼はしい最後を逐げられた宮の御心事を追懷すれば、朕《ちん》歔欷《きよき》セサルハナシ――大體かういふ意味であつた。
如何にも明治聖帝としては、畏れ多いことながら、わが御身にひきかけ給うて、千萬無量の御實感、御感慨であつたらうと、文字を拾ひ讀んでゐるうちに、おのづと瞼がほてつて、それこそムシケラにも價しない自分如きに相應《ふさは》しからぬが、私はたうとう恐懼の涙を堰止め得なかつた。
ユキに促されて、私は極度の興奮状態で、ふら/\と石段を下り寶物館の前に來て、親王の眞筆、お馬に乘られた木像、お召物の錦の袍など拜觀して、境内の瀟洒な庭に出た。
「朕否徳ニシテ――恐れ入つた御言葉ではないか。勿體ないことには觸れないとして、われわれの場合だつて、否徳――それ以上にも、それ以下にも、たゞ言葉は絶え果てる。何うにもして見ようなきわれわれを憐れみ給ふ廣大なお慈悲であつたのか。僕は、まだまだ人生に失望すべきではなかつた!」
と、私は或種の信念の踊躍を覺え、絶えて久しいお念佛を口に出して、息を呑み息を吐いた。
「あなた、あの親王樣のお召物といふのは、あれをほんたうに着てゐられたのでせうか。わたし、どうも信じられませんの。」
「そんなことが分るものか、馬鹿。」
「一體、どういふ譯で牢屋へお入りになるやうになつたのですかね?」
「馬鹿だなあ。それを知らんのか。女學校の時、歴史で教はつた筈ぢやないの。」
「もう學校を出てからずゐぶんになるものですから、忘れましたの。同窓會の時は、いつでも安藤先生が、琵琶を彈いて十八番の護良親王を歌はれるのを、度々聞かされたのですけど……」
「馬鹿だね。やつぱし、學問してない奴は、駄目、駄目。」
「そんなに馬鹿々々おつしやらずに、話して下さればいいぢやありませんか。忘れたものは仕樣がないんですもの。」
私達は口爭ひを始めたが、鳥居の前に、先刻、十一時半には鎌倉驛前から迎へに來ると車掌の言つた自動車が、もう客を待つてゐたので、急いで行つて乘つた。
そこへ、長谷行きの自動車も來た。來がけに同じ自動車に乘り合せ、境内でも後になり先になりしてゐた、餘所の目の大きい丸髷に結つた奧さんと、娘の女學生、小學生の息子さんの一行は、長谷行きのはうに乘つた。
驛前で自動車を降り、晝食をすますと、直ぐに藤澤行きの電車に乘つた。
長谷で降りて、觀音に詣でた。さすがに古い建物らしく、何十本もの突支棒《つつかひぼう》が、傾いた堂宇を支へてゐた。若い毛唐人が二人、氣味惡い堂内につか/\入つて、蝋燭のともつてゐる觀音像を仰いで早口に喋つてゐたが、御札所のロイド眼鏡をかけた若い坊さんに何事かを問ひ出した。坊さんが、意外にも卷舌の氣取つた發音で、いち/\丁寧に説明してやつてゐるのを、私達は羨ましく見ていた。
「あのお坊さん、よほど出來るのですね。わたし、びつくりしましたわ。」
「あゝ、あゝいふところには、西洋人が始終來るから、それだけの人が置いてあるらしい。」
「あなたなんかも、今のうち語學の勉強をして下さいな。田舍に居る時は、東京へ出さへしたら/\と思つてゐたのに、東京へ出ると、つい怠けてしまふんですからね。ほんとに寶の山に入つて手を拱《こまぬ》くとは、このことですよ。いくらでも夜學にだつて行けるぢやありませんか。」
ユキは坊主の英語に餘程感心したと見えて、微風にそよぐ楓や樫の緑葉に包まれた石段を下りながら、そして大佛へ向ふ道々でも、無暗に私を齒痒く思つて勵ますのであつた。
大佛の前で、先程、鎌倉宮の鳥居の下で別れた親子づれの一行が、そこへ歩いて來た私達を見て、何か囁いていた。私は別だん拜むでもなく、大佛さんの背後に廻ると、正面の圓滿の相を打仰ぐのとは反對に、だだつ廣い背中のへんに、大きな廂窓《ひさしまど》が開いてゐた。
「母ちやん、お倉の窓みたいだね、滑稽だね。」
と、小學生が言つたので、私は、その母の人とちよつと顏を合せて、噴き出した。
右側で、御胎内拜觀の切符を賣つてゐるところに來ると、大佛さんの端坐した臺石からお腹の中に通ずる長方形の入口があり、丁度二三人の人が出て來たので、私は切符を買ひ物好きにも入つて見て、又笑ひ出した。下駄の音がガーンと響く空洞の胎内は、鐵筋コンクリートのビルヂング式になつて、階段を上ると、大佛さんの頤の内側のところに、きらびやかな黄金色の佛像が安置してあつた。
「あなたも上つて來なさい。」
私が上から聲をかけると、ユキは鐵板の急な梯子を半分あがつたあたりで、足に痙攣が來て立ち竦《すく》んだ。ユキは、幾年も坐りづめにお針をしてゐたゝめ、この頃足に強い痲痺が來て往來で動けなくなることが屡※[#二の字点、1-2-22]だつた。
「巫山戲るな。しつかりしろ!」と、私は忌々しいやら、ひどく縁起も惡く、眉をひそめて叱つた。
外へ出ると、何か騙されたやうで、矢鱈に腹立たしさが募つた。
「精神文化といふ奴も、唯その發生に意義があるだけで、形式に墮したら、これぐらゐ下らないことはない。長谷の大佛なんて、實に阿呆なもんだな。馬鹿にしてら。」
「早く江の島へ行きませうよ。」
私達は氷屋の牀机に腰かけて懷から取出した地圖の上に互に指でさし示して、順路の相談をした。
「觀音樣の境内から見た海が、由比ヶ濱といふのですね。わたし、海水浴場が見たいんですの。」
「僕も見たい。江の島へ一應行つてから又引き返すことにしよう。」
私もユキも、關東地方の海水浴場の光景を、まだ一度も見てなかつたのである。が、三十分の後二人は、人々の繁く行交ふ江の島の棧橋から片瀬の海水浴場を眺めて、この何年かの願ひがやつと叶つた嬉しい思ひを語り合ふことが出來た。
「アイ子さんの嫁いでゐらつしやるお家のご別莊が、この近くにあるんですつて。ご隱居さまが、一度遊びに行つたらどうかつて、先達もおつしやつたんですの。」
アイ子さんといふのは、ユキの親しくしてゐる本郷の或家の隱居さんの末つ子で、一昨年淺草のさる物持ちの呉服屋へ嫁いで行かれた。旦那さんは、寫眞と本を買ふことが道樂とかで、大勢の召使にかしづかれ、ほんとに世に缺けたることもない幸福な家庭であるらしかつた。おほかた、あそこで泳いでゐらつしやるでせうよ、とユキは、午後一時の強い日の光を反射した弓状の片瀬海邊の波の百態に戲れてゐる夥しい人の群を見て言つた。
とやかく話しながら橋上を歩いてゐるうち、
「あら!」と、突然ユキは奇聲を上げた。
「あら、奧さんでしたの。」
あちらさんでも、びつくりなすつたらしい。手拭地の浴衣に輕く半幅帶をしめ、榮螺《さざえ》を入れた網袋をさげた女の人を見ない風して、狹い橋を避けるやうにして二三歩すゝむと、旦那さんらしい人にぢつと見られて私は顏を伏せたが、がつしりした體格であること、それから貴族的な日に燒けた丸顏と、上品な飴色の鼈甲眼鏡の印象が眼に留つた。
「こんな恰好をお眼にかけて……」
「あの、只今、お噂してゐたところなんでございますの。」
そんな會話を千切れ/\耳にしながら、私はものの三四分もきら/\光る眩ゆい海の面に眼を落してゐると、ユキが、顏を眞赤にしてあわてゝばたばた走つて來た。
「アイ子さんのご一家ですの。別莊は、小田急の終點の直ぐ傍だから、お待ちしてますから歸りには是非寄つて下さいつておつしやいましたの。旦那さまは、あなたにお會ひしたいやうな口吻《くちぶり》でしたのよ。あなた、お寄りしないでせう?」
私は苦笑してゐた。
棧橋を渡り切つて坂道にとりかゝると、兩側の旗亭から、
「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、これから岩屋まで十五六丁ありますから、一寸休んでいらつしやいまし、サイダーもラムネも冷えてゐます、氷水でも召上つていらつしやいまし。」と、どの家からもどの家からも、同じ長たらしい文句を同じ長たらしい口調で喧しく呼びかける。やがて面前に立ち塞がつた辨天樣の高い石段の下まで登つて、ほツと息を吐いて振り返ると、長谷の大佛で、何處へともなく別れた、例の親子づれに又逢つた。おや! と言つた眼付で、雙方顏を見合せた。
「僕はこの方を上つて行くから、あなたは、あつちの石段から上りなさい。」
私は、男坂《をとこざか》女坂《をんなざか》といふ石柱の文字を見てユキに命ずると、
「母ちやん、僕も男だから、こつちから上らうね。」と、小學生が言つた。
「いゝえ、あんたは子供だからいゝの。母ちやん達と一しよにいらつしやい。」
かう言つて母親は娘と眼を合せて笑つた。私は強い羞恥を覺えて、自分を窘めてゐた。
邊津宮、中津宮、奧津宮――へと、幾曲折した道を息を切らしつゝ上り下りの間も、「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、まだ十五六丁はあります。」と茶屋から煩さく呼ばれて、取つ着きでもさう言つてゐたのに、もうずゐぶん歩いて來てまだ十五六丁はをかしいと訝しく思ひながらも、茶屋に憩うたりした。行くうちに、岩屋道の道しるべを見て、急角度の石段を下りかけると、道中の鬱茂《こんもり》した常磐木の緑に暗くなつてゐる眼先に、忽ち、美しい海景が展けた。石段は崖の中腹の小徑につゞいて、狹い低いトンネルに來た。奧は暗く、入口の周圍の岩の裂目には海ウジが一面に重なり合つてゐた。
「もう行くまい、こはくなつた。」
「えゝ、行きますまい。地震でも來たら大へんですよ。」
二人は後に退いたが、一寸頸を傾げて考へて、いや、行かう、こゝまで來たのだもの、おれと一緒に來い、と私はユキの手を握つて先に立ち、顫《ふる》へてゐるユキをそびくやうにしてトンネルを潛り、危げな棧橋を渡り、やうやく岩屋に入ると、直前の白木の祠《ほこら》に胡坐をかいてゐる蝋石細工の妖しい佛像が眼に入つた。近づくと佛像どころか、白い衣を纏ひ、頭はたいわんぼうずで髮の毛が一本もない人間の子で、それは蝋燭賣りの小僧であつた。折からそこへ祠の背後の窟から三人の女學生が出て、火が消えたわ、點けて頂戴よ、と言ふと、白子は薄氣味惡くニタリと笑つて、運が惡いですぞ、と言つてへん[#「へん」に傍点]な斜視を使つて女學生をからかつた。
私は厭な氣がして引き返さうとしたが、やはり負け惜しみに引き摺られて蝋燭を買ひ、水滴が襟脚を脅かす長窟の中に、四ん這ひのやうになりユキを案内してずんずん入つて行き、大日如來とかいふ石佛を拜んでから外に出たが、窟前から海邊へ下りると、また無性に腹が立つてわれながら憤慨した。
「實に、愚劣だなア。つく/″\日本といふ國に愛想がついた。……かと言つて、愚劣なことに引つかゝつて、好奇心を動かして、窟《あな》の中にこそ/\入るといふのも、愚劣以上の愚劣だけど……」
怒濤が激打する岩岸に、一艘の小舟がつながれてゐた。ユキを先に私も乘つた。船頭は櫂を水に突込んで、體を反らした。稚兒ヶ淵といふのを離れて波は次第に靜かになつた。私は嬉しかつた。ユキは少女時代を瀬戸内海に沿うた漁師町で成長したから、さして水の上が珍らしくないであらうが、私は山國育ちで、こんな小舟に棹したことさへ、半生にないのである。私は舷に凭れてぢつと蒼い水面に視入つた。ふと頭を上げて遙の遠くに、富士や箱根や熱海の、淡い靄につゝまれた緑青色の連山の方をも眺めた。島の西浦の、蓊鬱と茂つた巨木が長い枝を垂れて、その枝から更に太い葛蘿《つたかづら》が綱梯子のやうに長く垂れた下の渚近くをめぐつて、棧橋のそばの岸で私達は舟を棄てた。
「今度は、橋を渡らずに砂濱を歩いて、片瀬の海水浴場に行きませう。」
「うん。」
頭上の棧橋を往き復る混み合つた人々の影が、砂濱の上にまで長く延びてゐた。
「棧橋を渡る人は、誰でも三錢とられるでせうか。島の人は朝に晩に大變ですね。」
「まさか、土地の人は出さないだらう。」
「土牢拜觀五錢、大佛樣御胎内二錢、棧橋を渡れば三錢、岩屋に入れば五錢……どこもかしこもタダでは通しませんね。關所々々では呼び留められて、やれ五錢、やれ三錢……」とユキは、斯う言つてへうきんに笑つた。
私は誘はれて聲を立てゝ笑つた。
一つ所に立つて、左手の長い半月形の濱で地曳網を引く漁師たちの律動的な運動、オーイオーイと遠くの方で渇を愬《うつた》ふ呼び聲、ビール壜に詰めた水を運ぶ女房たち――そうした彼等の生活を、私共は半ば憧憬の心をもつて暫らくの間見てゐた。
何故《なぜ》かしら、私達は一刻も早く由比ヶ濱に行きたかつた。そこで思ふ存分最後に遊びたいのであつた。それに、また、アイ子さんの一家に逢ひはしないかといふ懸念が手傳つて、午さがりの片瀬海水浴場の雜沓の中を、さつさと引きあげた。
電車が腰越に停つた時、ユキは問かかけた。
「あなた、こゝですね腰越といふのは、義經の腰越状といふのは、此處で書いたのですね。」
「腰越状? どういふのであつたかな……」
「あれを知らないんですか。義經が兄の頼朝の誤解をとかうと思つて書いた手紙ぢやありませんか。……幼い時からわれわれ兄弟はお母さんのふところに抱かれて悲しい流浪生活をし、それから皆はちり/″\ばら/\に別れ、自分は自分で鞍馬の山に隱れたり、それ/″\苦勞のすゑ、兄さんを助けて源氏再興を計り、自分は西の端まで平家を迫ひ詰めてやうやく亡ぼして、兄さんに褒めて頂かうと思つて此處まで歸つて見ると、兄さんは奸臣の言を信じて、弟を殺さうとしてゐられる、兄さん、どうぞ弟の眞心を分つて下さいつて、義經が血の涙で書いたといふんでせう。中學校の時、國語の教科書でならつた筈でせうに、あなたつて忘れつぽい人、駄目ですね。」
と、ユキは、護良親王のところで頻りに馬鹿呼ばはりをされた意趣返しに、一氣に滔々百萬言を弄して、喰つてかゝるやうに述べ立てた。
私はをかしくもあつたが、感心して聞いた。
二人は、身體を捩ぢて、窓外の七里ヶ濱の高い浪を見た。帆かけ舟が一艘、早瀬の上を流れてゐた。
「七里ヶ濱ですか。ほれ中學の生徒のボートが沈没したといふのはここですね。……眞白き富士の嶺、みどりの江の島、仰ぎ見るも今は涙――わたしたちの女學生時代には大流行でしたよ。」
「なるほど、僕らも歌つた、歌つた。古いことだね。」
私はちよつとわが眼の輝きを感じた。ユキの歌が、今は悉く空想を離れ、感傷を離れた私を、刹那に若かつた日に連れかへした。同じく口吟みながらユキ自身も乙女心の無心にしばし立ち返つたかもしれないが、それらは、いづれも泡沫の如く消え去る儚いものだつた。
だいぶん經つて、私は思ひ出して訊いた。
「で、頼朝は、どうした?」
「使の者が、駒に跨がつて、鞭を當てて、錬倉の頼朝のところへ手紙を持つて行くと、頼朝は封も切らずに引き破いて、直に召し捕れと部下のものに言ひ付けたんですつて。頼朝つて何處まで猜疑心の強い人間だつたのでせうね。あんなに、血族のものを、誰も彼も疑ぐらずにはゐられないなんて……」
瞬間、私は、深い/\憂鬱に落ち込んで、それきり俛首《うなだ》れて默つてしまつた。
山の麓の勾配に柵をめぐらした廣い牧場で、青草を喰んでゐるのや、太陽に向つて欠伸をしてゐるのや、寢そべつて日向ぼつこをしてゐるのや、さうした牛の群が、車窓の外に瞳を掠めて過ぎた。
「頼朝の墓が僕は見たくなつた。時間があつたら、歸りに見て行きたい。」
と、私は獨言のやうに呟いた。
私達は目指す由比ヶ濱に降り立つた。
晝食のをり鎌倉驛前の運送屋の店頭で、避暑地御引上げの方は何卒當店へ――といふ立看板を見て、私は妙にさびしかつたが、ここに來て見て、やはり、さしもの由比ヶ濱海水浴場も、眼前に凋落を控へてゐることが感じられた。今日明日にも引上げなければならぬ人が多いのではあるまいか。それゆゑ、夏の享樂場、戀の歡樂場に、焦躁が燃え立つてゐると見るのは、私の主觀のせゐばかりであらうか。あゝ何ぞ來ることの甚だ遲かりし――私は、潮風に當りたいため帽子を脱ぎ、ユキは蝙蝠を疊み、並んでそぞろ歩いた。
「あなたも、ちよつと入つてごらんなさいな。海水着は借りられますよ。泳げるでせう?」
ユキの言葉は誘惑である。そして、それに關聯して、自分は十二三まで泳げなかつたこと、村の「賽の神」といふ淵の天狗岩の上で年上の連中の泳ぎを見てゐて、ひとりの白痴にいきなり淵の中に突き落され餘程水を飮んだこと、そんなことから泳ぎを覺え、川では相當の自信を嘗て持つてゐたことなど思ひ返したが、と言つて、眼の前の濱に押し寄す荒い波ぐらゐ、ほんの子供でさへ巧みに乘り越え、自由にあやつる技倆を見ては、私は恥づかしくて裸體になる勇氣が出なかつた。
昆布や魚の頭が濁つた水にきたならしく打ち上げられてゐる片瀬とは異つて、ここの眞砂は穢れず、波は飽まで白かつた。片瀬では殆ど見えなかつた、縞柄の派手な海岸パラソルの點在や、模樣の美しい贅澤な海水着や、裕福らしい西洋人の家族や、すべて、アッパッパを着て丸髷に結つた五九郎の喜劇役者のやうな四十女がブランコに乘り、傍から「母ちやん、このごろ、だいぶんウマくなつたのね。」と小さな女の兒が言つてゐたやうな片瀬とは、品位、教養、階級のいづれもが立ち優れて見えた。富者が永久に貧者を輕蔑し、貧者が永久に富者を嫉む本能を、そして下賤な物に深い同感同情を持ち得ない自分を其儘受容れた。
二人は、無言のまゝ、五歩行つては立ち留り、十歩行つては立ち留つた。
もう夕景が迫つてゐた。
一人はオリーブ色、一人は紅色の海水着を着た、どちらも背丈のすんなり高い若い女が、手に褐色の浮袋をかゝへ、並んで松林の中の別莊に歸つて行くのが繪よりも美しかつた。
濱邊は、だんだんさびれて行つた。
遙か彼方の材木座海水浴場にも夕陽が落ちた。ぎらぎら光る落日を浴びて蠢《うごめ》く人々は豆粒程に小さく見えた。
私達も引き上げねばならなかつた。
「もう、いいだらう。」
「えゝ、十分ですとも。いろいろ見せて頂いて、どうも有り難うございました。」
と、ユキは改まつた口調でお禮を言つた。
別莊から立ち昇る夕餉の煙を見ては、ユキは、何がなし氣忙《きぜは》しい氣持になる。早く吾家へ歸りたいと言つた。
滑川《なめりがは》の畔まで來かかつて、海岸橋下の葦の中に蹲んで釣を垂れてゐる若者を、二人は渚に立つて見てゐた。はツと思ふと竿がまん圓くたわんで、薄暮に銀鱗が光つて跳ね上つた。
「あなたにも、ああした日が來るでせうか、わたしは、わたし達が東京にゐられなくなつたら、わたしの生れ故郷に歸つて、小商賣かお針の塾でも開いて、あなたには毎日釣をさしてあげたいの。そんな安息の日は來ないでせうか。」と、ユキはしみじみと言つた。
「けどね、時偶《ときたま》一日かうした生活を見ると羨ましいが、ぢきに退屈するよ。退屈なり寂寥を拒ぐための鬪ひだよ!」と、私は言下に否定した。
「それもさうですね。兎に角、將來、田舍へ歸るとでも、東京に踏みとどまるとでも、わたしは、あなたの意志通りになりますから。」
まだまだ、これから流轉が續く自分達の生涯に、又と斯ういふ日もすくないであらう今日の行樂を感謝して、二人は都會で働くべく、松林の中の白い道路を蜩《ひぐらし》のリンリンといふ聲を聞きつつ、停車場をさして歩いた。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「文学時代」
1931(昭和6)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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