青空文庫アーカイブ
業苦
嘉村礒多
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)假初《かりそめ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)咲子|嫂《ねえ》さまを
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「口へん+穢の右側」、第3水準1-15-21、139-下5]《しやく》りあげた。
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足がふら/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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只、假初《かりそめ》の風邪だと思つてなほざりにしたのが不可《いけな》かつた。たうとう三十九度餘りも熱を出し、圭一郎《けいいちらう》は、勤め先である濱町《はまちやう》の酒新聞社を休まねばならなかつた。床に臥《ふ》せつて熱に魘《うな》される間も、主人の機嫌を損じはしまいかと、それが譫言《うはごと》にまで出る程絶えず惧《おそ》れられた。三日目の朝、呼び出しの速達が來た。熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙が零《こぼ》れるのであつた。
「僕出て行かう」
圭一郎は蒲團から匍《は》ひ出たが、足がふら/\して眩暈《めまひ》を感じ昏倒しさうだつた。
千登世《ちとせ》ははら/\し、彼の體躯《からだ》につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再《ふたゝび》寢かせようとした。
「だけど、馘首《くび》になるといけないから」
千登世は兩手を彼の肩にかけたまゝ、亂れ髮に蔽《おほ》はれた蒼白い瓜實顏《うりざねがほ》を胸のあたりに押當てて、※[#「※」は「口へん+穢の右側」、第3水準1-15-21、139-下5]《しやく》りあげた。「ほんたうに苦勞させるわね。すまない……」
「泣いちや駄目。これ位の苦勞が何んです!」
斯う言つて、圭一郎は即座に千登世を抱き締め、あやすやうにゆすぶり又背中を撫でてやつた。彼女は一層深く彼の胸に顏を埋め、獅噛《しが》みつくやうにして肩で息をし乍ら猶《なほ》暫らく歔欷《すゝりなき》をつゞけた。
冷《ひや》の牛乳を一合飮み、褞袍《どてら》の上にマントを羽織り、間借して居る森川町新坂上の煎餅屋《せんべいや》の屋根裏を出て、大學正門前から電車に乘つた。そして電柱に靠《もた》れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝《ぢ》つと喰ひ合してゐたが、軈《やが》て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低《うなだ》れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。
永代橋《えいたいばし》近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯《しようきひげ》を生やした主人は色の褪《あ》せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹《はくたか》、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐《いひつ》けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。
主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲《うつちや》らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段《はしごだん》を昇つて來た。
「大江さん、お手紙」
「切拔通信?」
「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」
圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにして※[#「※」は「てへん+宛」、第3水準1-84-80、140-上18]《も》ぎ取つた。痘瘡《もがさ》の跡のある横太りの女中は巫山戲《ふざけ》てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰《しか》め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然《どつ》と笑ふ聲が聞えて來た。
圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷の妹からの便りの封筒の上書を、充血した眼でぢつと視つめた。
圭一郎は遠いY縣の田舍に妻子を殘して千登世と駈落ちしてから四ケ月の月日が經つた。最初の頃、妹は殆ど三日にあげず手紙を寄越し、その中には文字のあまり達者でない父の代筆も再三ならずあつた。彼はそれを見る度見る度に針を呑むやうな呵責《かしやく》の哀しみを繰返す許りであつた。身を切られるやうな思ひから、時には見ないで反古《ほご》にした。返事も滅多に出さなかつたので、近頃妹の音信《たより》もずゐぶん遠退いてゐた。圭一郎は今も衝動的に腫物《はれもの》に觸るやうな氣持に襲はれて開封《ひら》くことを躊躇《ちうちよ》したが、と言つて見ないではすまされない。彼は入口のところまで行つて少時《しばらく》階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。
[#ここから1字下げ]
なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙《つゝが》もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可《いけない》とあんなにまで仰云《おつしや》いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何《どう》しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……
お父さまは一週間前から感冒に罹《かゝ》られてお寢《よ》つてゐられます。それに持病の喘息《ぜんそく》も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診《みえ》になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥《かゆ》を召上り乍ら不圖《ふと》思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話《ひそ/\ばなし》の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章《てがみ》差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。川下からのぼつて來る配達夫をお父さまはあの高い丘の果樹園からどこに行くかを凝《ぢ》つと視おろしてゐられます。配達夫が自家《うち》に來てわたくし手招きでお兄さまのお便りだと知らすと、お父さまは狂氣のやうになつて、ほんとにこけつまろびつ歸つて來られます。迚《とて》も/\お兄さまなぞに親心が解つてたまるものですか。
凡そお兄さまが自家を逃亡《でら》れてからといふものは、家の中は全く灯の消えた暗さです。裏の欅山《けやきやま》もすつかり黄葉して秋もいよ/\更けましたが、ものの哀れは一入《ひとしほ》吾が家にのみあつまつてゐるやうに感じられます。早稻《わせ》はとつくに刈られて今頃は晩稻《おくて》の收穫時で田圃《たんぼ》は賑つてゐます。古くからの小作達はさうでもありませんけども、時二とか與作などは未だ臼挽《うすひき》も濟まさないうちから強硬に加調米を値切つてゐます。要求に應じないなら斷じて小作はしないといふ劍幕です。それといふのも女や年寄ばかりだと思つて見縊《みくび》つてゐるのです。「田を見ても山を見ても俺はなさけのうて涙がこぼれるぞよ」とお父さまは言ひ言ひなさいます。先日もお父さまは、鳶《とび》が舞はにや影もない――と唄には歌はれる片田の上田を買はれた時の先代の一方ならぬ艱難辛苦の話をなすつて「先代さまのお墓に申譯ないぞよ」と言つて、其時は文字通り暗涙に咽《むせ》ばれました。お父さまはご養子であるだけに祖先に對する責任感が強いのです。田地山林を讓る可き筈のお兄さまの居られないお父さまの歎きのお言葉を聞く度に、わたくしお兄さまを恨まずにはゐられません。
先日もお父さまが、あの鍛冶屋《かぢや》の向うの杉山に行つて見られますと、意地のきたない田澤の主人が境界石を自家の所有の方に二間もずらしてゐたさうです。お父さまは齒軋《はぎし》りして口惜しがられました。「圭一郎が居らんからこないなことになるんぢや。不孝者の餓鬼奴。今に罰が當つて眼がつぶれようぞ」とお父さまはさも/\憎しげにお兄さまを罵《のゝし》られました。しかし昂奮が去ると「あゝ、なんにもかも因縁因果といふもんぢやろ。お母《つか》ア諦めよう。……仕方がない。敏雄の成長を待たう。それまでに俺が死んだら何んとせうもんぞい」斯うも仰云《おつしや》いました。
咲子|嫂《ねえ》さまを離縁してお兄さまと千登世さまとに歸つていたゞけば萬事解決します。しかし、それでは大江の家として親族への義理、世間への手前がゆるしません。咲子嫂さまは相變らず一萬圓くれとか、でなかつたら裁判沙汰にするとか息卷いて、質《たち》の惡い仲人《なかうど》とぐるになつてお父さまをくるしめてゐます。何んといつてもお兄さまが不可《いけな》いのです。どうして厭なら厭嫌ひなら嫌ひで嫂さまと正式に別れた上で千登世さまと一緒にならなかつたのです。あんな無茶なことをなさるから問題がいよ/\複雜になつて、相互の感情がこぢれて來たのです。今では縺《もつれ》を解かうにも緒《いとぐち》さへ見つからない始末ぢやありませんか。
けれどもわたくしお兄さまのお心も理解してあげます。お兄さまとお嫂さまとの過ぎる幾年間の生活に思ひ及ぶ時、今度のことがお兄さまの一時の氣紛れな出來ごころとは思はれません。或ひは當然すぎる程當然であつたかもしれません。何時かの親族會議では咲子嫂さまを離縁したらいゝとの提議が多かつたのです。それを嫂さまは逸早《いちはや》く嗅知つて、一文も金は要らぬから敏雄だけは貰つて行くと言つて敏雄を連れていきなり實家に歸つてしまつたのです。しかも敏雄はお父さまにとつては眼に入れても痛くないたつた一粒の孫ですもの。敏雄なしにはお父さまは夜の眼も睡れないのです。お父さまはお母さまと一つしよに、Y町のお實家《さと》に詫びに行らして嫂さまと敏雄とを連れ戻したのです。迚も敏雄とお嫂さまを離すことは出來ません。離すことは慘酷です。いぢらしいのは敏ちやんぢやありませんか。
敏ちやんは性來の臆病から、それに隣りがあまり隔つてゐるので一人で遊びによう出ません。同じ年配の子供達が向うの田圃や磧《かはら》で遊んでゐるのを見ると、堪へきれなくなつて涙を流します。時偶《ときたま》仲間が遣つて來ると小踊して歡び、仲間に歸られてはと、ご飯も食べないのです。歸ると言はれると、ではお菓子を呉れてあげるから、どれ繪本を呉れてあげるからと手を替へ品を替へて機嫌をとります。いよいよかなはなくなると、わたくしや嫂さまに引留方を哀願に來ます。それにしても夕方になれば致し方がない。高い屋敷の庭先から黄昏《たそがれ》に消えて行く友達のうしろ姿を見送ると、しくり/\泣いて家の中に駈け込みます。そしてお父さまの膝に乘つかると、そのまま夕飯も食べない先に眠つてしまひます。臺所の圍爐裡《ゐろり》に榾柮《ほだ》を燻《く》べて家ぢゆうの者は夜を更かします。お父さまは敏ちやんの寢顏を打戍《うちまも》り乍ら仰有《おつしや》います「圭一郎に瓜二つぢや喃《なう》」とか「燒野の雉子《きゞす》、夜の鶴――圭一郎は子供の可愛いといふことを知らんのぢやらうか」とか。
先月の二十一日は御大師樣の命日でした。村の老若は丘を越え橋を渡り三々五々にうち伴れてお菓子やお赤飯のお接待を貰つて歩きます。わたくしも敏雄をつれてお接待を頂戴して歩きました。明神下の畦徑《あぜみち》を提籃さげた敏雄の手を扶《ひ》いて歩いてゐると、お隣の金さん夫婦がよち/\歩む子供を中にして川邊《かはべ》りの往還を通つてゐるのが見えました。途端わたくし敏雄を抱きあげて袂で顏を掩《おほ》ひました、不憫《ふびん》ぢやありませぬか。お兄さまもよく/\罪の深い方ぢやありませんか。それでも人間と言へますか。――わたくしのお胎内《なか》の子供も良人が遠洋航海から歸つて來るまでには産まれる筈です。わたくし敏ちやんの暗い運命を思ふ時慄然として我が子を産みたくありません。
お兄さまの居られない今日此頃、敏雄はどんなにさびしがつてゐるでせう、「父ちやん何處?」と訊けば「トウキヨウ」と何も知らずに答へるぢやありませんか。「父ちやん、いつもどつてくる?」つて思ひ出しては嫂さまやわたくしにせがむやうに訊くぢやありませんか。敏ちやんはこの頃コマまはしをおぼえました、はじめてまはつた時の喜びつたらなかつたのです。夜も枕元に紐とコマとを揃へて寢に就きます。そして眼醒めると朝まだきから一人でまはして遊んでゐます。「父ちやん戻つたらコマをまはして見せる」つて言ふぢやありませんか。家のためにともお父さまお母さまのためにとも申しますまい。たつたひとりの敏雄のためにお兄さま、歸つては下さいませんでせうか。頼みます。
春子。[#地から1字上げ]
[#ここで字下げ終わり]
はじめの一章二章は丹念に讀めた圭一郎の眼瞼《まぶた》は火照り、終りのはうは便箋をめくつて駈け足で卒讀した。そして讀んだことが限りもなく後悔された。圭一郎は現在自分の心を痛めることをこの上なく惧《おそ》れてゐる。と言つても彼は自分の行爲をあたまから是認し、安價に肯定してゐるのではなかつた。それは時には我乍ら必然の歩みであり自然の計らひであつたとは思はなくもないが、しかし、さういふ風に自分といふものを強ひて客觀視して見たところで、寢醒めのわるく後髮を引かれるやうな自責の念は到底消滅するものではなかつた。それなら甘んじて審判の笞《しもと》を受けてもいゝ譯であるが、千登世との生活を血みどろになつて喘いでゐる最中、兎《と》や斯《か》う責任を問はれることは二重の苦しさであつて迚《とて》も遣切れなかつた。
圭一郎は濟まない氣持で手紙をくしや/\に丸め、火鉢の中に抛《はふ》り込んだ。燒け殘りはマッチを摺つて痕形もなく燃やしてしまつた。彼の心は冷たく痲痺《しび》れ石のやうになつた。
室内が煙で一ぱいになつたので南側の玻璃《ガラス》窓を開けた。何時しか夕暮が迫つて大川の上を烏が唖々と啼いて飛んでゐた。こんな都會の空で烏の鳴き聲を聞くことが何んだか不思議なやうな、異樣な哀しさを覺えた。
南新川、北新川は大江戸の昔から酒の街と稱《い》つてるさうだ。その南北新川街の間を流れる新川の河岸《かし》には今しがた數艘の酒舟が着いた。滿潮にふくれた河水がぺちやぺちやと石垣を舐《な》める川縁から倉庫までの間に莚《むしろ》を敷き詰めて、その上を問屋の若い衆達が麻の前垂に捩鉢卷で菰冠《こもかぶ》りの四斗樽をころがし乍ら倉庫の中に運んでゐるのが、編輯室の窓から見下された。威勢のいゝ若い衆達の拍子揃へた端唄《はうた》に聽くとはなしに暫らく耳傾けてゐる圭一郎は軈て我に返つて振向くと、窓下の狹い路地で二三人の子供が三輪車に乘つて遊んでゐた。一人の子供が泣顏《べそ》をかいてそれを見てゐた。と忽ち、圭一郎の胸は張裂けるやうな激しい痛みを覺えた。
其年の五月の上旬だつた。圭一郎は長い間の醜く荒《すさ》んだ惡生活から遁《のが》れるために妻子を村に殘してY町で孤獨の生活を送つてゐるうち千登世と深い戀仲になりいよ/\東京に駈け落ちしなければならなくなつた其日、彼は金策のために山の家に歸つて行つた。むしの知らせか妻はいつにもなく彼に附き纒ふのであつたが圭一郎は胸騷ぎを抑へ巧に父の預金帳を持出して家を出ようとした。ちやうど姉の子供が來合せてゐて三輪車を乘りまはして遊んでゐた。軒下に立つて指を銜《くは》へ乍らさも羨ましさうにそれを見てゐた敏雄は、圭一郎の姿を見るなり今にも泣き出しさうな暗い顏して走つて來た。
「父ちやん、僕んにも三輪車買うとくれ」
「うん」
「こん度戻る時や持つて戻つとくれよう。のう?」
「うん」
「何時もどるの、今度あ? のう父ちやん」
「…………」
家の下で圓太郎馬車に乘る圭一郎を妻は敏雄をつれて送つて來た。馬丁が喇叭《らつぱ》をプープー鳴らし馬が四肢を揃へて駈け出した時、妻は「又歸つて頂戴ね。ご機嫌好う」と言ひ、子供は「父ちやん、三輪車を忘れちや厭よう」と言つた。同じ馬車の中に彼の家の小作爺の三平が向ひ合せに乘つてゐた。「若さま。奧さんも坊ちやんも、あんたとご一緒にY町でお暮しなさんせよ。お可哀相ぢやごわせんかい」と詰《なじ》るやうに三平は言つた。圭一郎の頭は膝にくつつくまで降つた。村境の土橋の畦《あぜ》で圭一郎が窓から顏を出すと、敏雄は門前の石段を老人のやうに小腰を曲げ、龜の子のやうに首を縮こめて、石段の數でもかぞへるかのやうに一つ/\悄々《すご/\》と上つて行くのが涙で曇つた圭一郎の眼鏡に映つた。おそらくこれがこの世の見納めだらう? さう思ふと胸元が絞木にかけられたやうに苦しくなり、大粒の涙が留め度もなく雨のやうにポロ/\落ちた。
其日の終列車で圭一郎は千登世を連れてY町を後にしたのである。
千登世は停留所まで圭一郎を迎へに出て仄暗《ほのぐら》い街路樹の下にしよんぼりと佇んでゐた。そして圭一郎の姿を降車口に見付けるなり彼女はつかつかと歩み寄つて「お歸り遊ばせ。お具合はどんなでしたの?」と潤《うる》んだ眼で視入り、眉を高く上げて言つた。
「氣遣つた程でもなかつた」
「さう、そんぢや好うかつたわ」勿論|國鄙語《くになまり》が挾まれた。「わたしどんなに心配したかしれなかつたの」
外出先から歸つて來た親を出迎へる邪氣《あどけ》ない子供のやうに千登世は幾らか嬌垂《あまえ》ながら圭一郎の手を引つ張るやうにして、そして二人は電車通りから程遠くない隱れ家《が》の二階に歸つた。行火《あんくわ》で温めてあつた褥《しとね》の中に逸早く圭一郎を這入らしてから千登世は古新聞を枕元に敷き、いそ/\とその上に貧しい晩餐を運んだ。二人は箸を執つた。
「氣になつて氣になつて仕樣がなかつたの。よつぽど電話でご容態を訊かうかと思つたんですけれど」
千登世は口籠《くちごも》つた。
さう言はれると圭一郎は棘《とげ》にでも掻き※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、146-下12]《むし》られるやうな氣持がした。彼は勤め先では獨身者らしく振る舞つてゐた。自分の行爲は何處に行かうと暗い陰影を曳いてゐたから、それで電話をかけるにしても階下の内儀《かみ》さんを裝つて欲しいと千登世に其意を仄めかした時の慘酷さ辛さが新に犇《ひし》と胸に痞《つか》へて、食物が咽喉を通らなかつた。
「今日ね、お隣りの奧さんがお縫物を持つて來て下すつたのよ」と千登世は言つて茶碗を置き片手で後の戸棚を開けて行李の上にうづだかく積んである大島や結城《ゆふき》の反物を見せた。「こんなにどつさりあつてよ。わたし今夜から徹夜の決心で縫はうと思ふの。みんな仕上げたら十四五圓頂けるでせう。お醫者さまのお禮ぐらゐおくにに頼まなくたつてわたし爲《し》て見せるわ」
「すまないね」圭一郎は病氣のせゐでひどく感傷的になつてゐた。
「そんな水臭いこと仰云《おつしや》つちや厭」千登世は怒りを含んだ聲で言つた。
食事が終ると圭一郎は服藥して蒲團を被り、千登世は箆臺《へらだい》をひろげて裁縫にかゝつた。
「あなた、わたしの方を向いてて頂戴」
千登世は顏をあげて絲をこき乍ら言つた。彼の顏が夜着の襟にかくれて見えないことを彼女はもの足りなく思つた。
「それから何かお話して頂戴、ね。わたしさびしいんですもの」
圭一郎は「あゝ」と頷いて顏を出し二言三言お座なりに主人夫婦が旅に出かけたことなど話柄にしたが、直ぐあとが次《つ》げずに口を噤《つぐ》んだ。折しも、妹の長い手紙の文句がそれからそれへと思ひ返されて腸《はらわた》を抉《ゑ》ぐられるやうな物狂はしさを感じた。深い愁ひにつゝまれた故郷の家の有樣が眼に見えるやうで、圭一郎は何んとしとるぢやろ、と言つて箸を投げて悲歎に暮るる老父の姿が、そして父ちやん何時戻つて來る? とか、父ちやん戻つたらコマをまはして見せるとか言ふ眉の憂鬱な子供の面差が、又|怨《うら》めしげに遣る瀬ない悲味を愬《うつた》へた妻の顏までが、圭一郎の眼前に瀝々《まざ/\》と浮ぶのであつた。しかも同じ自分の眼は千登世を打戍《うちまも》つてゐなければならなかつた。愛の分裂――と言ふ程ではなくとも、何んだか千登世を涜《けが》すやうな例へやうのない濟まなさを覺えた。
圭一郎はものごころついてこの方、母の愛らしい愛といふものを感じたことがない。母子の間には不可思議な呪詛《じゆそ》があつた。人一倍求愛心の強い圭一郎が何時も何時も求める心を冷たく裏切られたことは、性格の相異以上の呪ひと言ひたかつた。圭一郎は廢嫡《はいちやく》して姉に相續させたいと母は言ひ/\した。中學の半途退學も母への叛逆と悲哀とからであつた。もうその頃相當の年配に達してゐた圭一郎に小作爺の倅《せがれ》程の身支度を母はさして呉れなかつた。悶々とした彼がM郡の山中の修道院で石工をしたのもその當時であつた。だから一般家庭の青年の誰もが享樂《たの》しむことのできる青年期の誇りに充ちた自由な輝かしい幸福は圭一郎には惠まれなかつた。さうした彼が十九歳の時、それは傳統的な方法で咲子との縁談が持出された。咲子は母方の遠縁に當つてゐる未知の女であつたに拘らず、二歳年上であることが母性愛を知らない圭一郎には全く天の賜物《たまもの》とまで考へられた。そして眼隱された奔馬のやうな無智さで、前後も考へず有無なく結婚してしまつた。
結婚生活の當初咲子は豫期通り圭一郎を嬰兒《えいじ》のやうに愛し劬《いたは》つてくれた。それなら彼は滿ち足りた幸福に陶醉しただらうか。すくなくとも形の上だけは琴《きん》と瑟《ひつ》と相和したが、けれども十九ではじめて知つた悦びに、この張り切つた音に、彼女の弦は妙にずつた音を出してぴつたり來ない。蕾を開いた許りの匂の高い薔薇の亢奮が感じられないのは年齡の差異とばかりも考へられない。一體どうしたことだらう? 彼は疑ぐり出した。疑ぐりの心が頭を擡《もた》げるともう自制出來る圭一郎ではなかつた。
「咲子、お前は處女だつたらうな?」
「何を出拔《だしぬ》けにそんなことを……失敬な」
火のやうな激しい怒りを圭一郎は勿論|冀《こひねが》うたのだが、咲子は怒つたやうでもあるし、怒り方の足りない不安もあつた。彼の疑念は深まるばかりであつた。そして蛇のやうな執拗さで間がな隙がな追究しずにはゐられなかつた。
「ほんたうに處女だつた?」
「女が違ひますよ」
「縱令《よし》、それなら僕のこの眼を見ろ。胡魔化したつて駄目だぞ!」
圭一郎はきつと齒を喰ひしばり羅漢のやうな怒恚《いか》れる眼を見張つた。
「幾らでも見ててあげるわ」と言つて妻は眸子《ひとみ》を彼の眼に凝つと据ゑたが、直ぐへんに苦笑し、目叩《またゝき》し、
「そんなに疑ぐり深い人わたし嫌ひ……」
「駄目、駄目だ!」
何んと言つても妻の暗い翳《かげ》を圭一郎は直感した。其後幾百回幾千回斯うした詰問を、敏雄が産まれてからも依然として繰返すことを止めはしなかつた。圭一郎はY町の妻の實家の近所の床屋にでも行つて髮を刈り乍ら他哩《たわい》のない他人の噂話の如く裝つてそれとなく事實を突き留めようかと何遍決心したかしれなかつた。が、卒《いざ》となると果し兼ねた。子供の時父の用箪笥《ようだんす》から六連發のピストルを持出し、妹を目蒐《めが》けて撃つぞと言つて筒口を向け引金に指をかけた時、はつと思つて彈倉を覗くと六個の彈丸が底氣味惡く光つてをるではないか! 彼はあつと叫んで危なく失神しようとした。丁度それに似た氣持だつた。若し引金を引いてゐたらどうであつたらう。この場合若し圭一郎が髮床屋にでも行つて「それだ」と怖い事實を知つた曉を想像すると身の毛は彌立《よだ》ちがた/\と戰慄を覺えるのだつた。
しかし遂には其日が來た。
圭一郎は中學二年の時柔道の選手であることから二級上の同じく選手である山本といふ男を知つた。眼のつつた、唇の厚い、鉤鼻《かぎばな》の山本を圭一郎は本能的に厭がつた。上級對下級の試合の折、彼は山本を見事投げつけて以來、山本はそれをひどく根にもつてゐた。或日寄宿舍の窓から同室の一人が校庭で遊ぶ誰彼の顏を戲《たはむ》れにレンズで照してゐると、光線が山本の顏を射たのであつた。翌日山本はその惡戲《いたづら》した友が誰であるかを打明けろと圭一郎に迫つたが彼が頑《かたく》なに押默つてゐると山本は圭一郎の頬を平手で毆りつけた。――その山本と咲子は二年の間も醜關係を結んでゐたのだといふことを菩提寺《ぼだいじ》の若い和尚から聞かされた。憤りも、恨みも、口惜しさも通り越して圭一郎は運命の惡戲《いたづら》に呆れ返つた。しかもこの結婚は父母が勸めたといふよりも自分の方が寧ろ強請《せが》んだ形にも幾らかなつてゐたので、誰にぶつかつて行く術《すべ》もなく自分が自身の手負ひで蹣跚《よろけ》なければならなかつた。そして一日々々の激昂の苦しさはたゞ惘然《まうぜん》と銷沈のくるしさに移つて行つた。
圭一郎は其後の三四年間を上京して傷いた心を宗教に持つて行かうとしたり慰めのための藝術に縋《すが》らうとしたり、咲子への執着、子供への煩惱《ぼんなう》を起して村へ歸つたり、又厭氣がさして上京したり、激しい精神の動搖から生活は果しもなく不聰明に頽廢《たいはい》的になる許りであつた。斯うした揚句圭一郎はY町の縣廳に縣史編纂員として勤めることになり、閑寂な郊外に間借して郷土史の研究に心を紛《まぎ》らしてゐたのだが、そして同じ家の離れを借りて或私立の女學校に勤めてゐた千登世と何時しか人目を忍んで言葉を交へるやうになつた。
千登世の故郷は中國山脈の西端を背負つて北の海に瀕した雪の深いS縣のH町であつた。彼女は産みの兩親の顏も知らぬ薄命の孤兒であつて、伯父や伯母の家に轉々と引き取られて育てられたが、身内の人達は皆な揃ひも揃つて貪婪《どんらん》で邪慳《じやけん》であつた。十四歳の時伯父の知邊《しるべ》である或る相場師の養女になつてY町に來たのであつた。相場師夫婦は眞の親も及ばない程千登世を慈《いつくし》んで、彼女の望むまゝに土地の女學校を卒業さした上更に臨時教員養成所にまで進學さしてくれたのだが、業|半《なかば》でその家が經濟的に全く崩壞してしまひ、軈《やが》て養父母も相次いで世を去つてしまつたので、彼女は獨立しなければならなかつた。
さうして薄倖の千登世と圭一郎とが互ひに身の上を打明けた時、二人は一刻も猶豫して居られず忽ち東京に世を憚《はゞか》らねばならぬ仲となつた。
千登世はさすがに養父母の恩惠を忘れ兼ねた。わけても彼女に優しかつた相場師の臨終を物語つてはさめ/″\と涙をこぼした。寒い霰《あられ》がばら/\と板戸や廂《ひさし》を叩き、半里許り距離の隔つてゐる海の潮鳴が遙かに物哀しげに音づれる其夜、千登世は死人の體に抱きついて一夜を泣き明したことを繰返しては、人間の浮生の相を哀しみ、生死のことわりを諦めかねた。彼女はY町の偏邊《かたほとり》の荒れるに委せた墳墓のことを圭一郎が厭がる程|屡《しば/\》口にした。まだ新しい石塔を建ててなかつたこと、二三本の卒塔婆《そとば》が亂暴に突きさゝれた形ばかりの土饅頭にさぞ雜草が生ひ茂つてゐるだらうことを氣にして、窃《そ》つと墓守に若干のお鳥目《てうもく》を送つてお墓の掃除を頼んだりした。
千登世の無常觀――は過去の閲歴から育《はぐく》まれたのだつた。時折りその感情が潮流のやうに一時に彼女に歸つて來ては彼女をくるしめた。校正で據《よんどころ》なく歸りの遲くなつた夜など、電車の送迎に忙しいひけ時から青電車の時刻も迫つて絶間々々にやつて來る電車を、一臺送つては次かと思ひ、又一臺空しく送つては次かと思ひ、夜更けの本郷通は鎭まつて、鋪道の上の人影も絶えてしまふその頃まで猶《なほ》も一徹に圭一郎の歸りを今か/\と待ちつゞけずにはゐられない千登世の無常觀は到底圭一郎などの想像もゆるさない計り知れない深刻なものであつた。
次の日の午前中に圭一郎は主人に命じられた丈の仕事は一氣に片付けて午後は父と妹とに宛て長い手紙を書き出した。
「僕は幾ら非人間呼ばはりをされようと不孝者の謗《そし》りを受けようと更に頭はあがらないのです。けれども千登世さんだけはわるく思つて下さいますな。何が辛いといつても一番辛いことはお父さんや春子に彼女が惡者の如く思はれることです。然《さ》う思はれても僕のこの身に罰が當ります。僕の身に立つ瀬がないのですから」斯うした意味のことを疊みかけ疊みかけ書かうとした。
圭一郎はこれまで幾回も同じ意味のことを、千登世に不憫《ふびん》をかけて欲しいといふことを父にも妹にも書き送つたが、どうにも抽象的にしか書けない程自分自身が疚《やま》しかつた。
生活の革命――さういふ文字が齎《もたら》す高尚な内容が圭一郎の今度の行爲の中に全然皆無だといふのではなく、寧ろさうしたものが多量に含まれてあると思ひたかつた。が、靜かに顧みて自問自答する時彼は我乍ら唾棄の思ひがされ冷汗のおのづと流れるのを覺えた。
妻の過去を知つてからこの方、圭一郎の頭にこびりついて須臾《しゆゆ》も離れないものは「處女」を知らないといふことであつた。村に居ても東京に居ても束の間もそれが忘れられなかつた。往來で、電車の中で異性を見るたびに先づ心に映るものは容貌の如何ではなくて、處女だらうか? 處女であるまいか? といふことであつた。あはよくば、それは奇蹟的にでも闇に咲く女の中にさうした者を探し當てようとあちこちの魔窟を毎夜のやうにほつつき歩いたこともあつた、縱令《よし》、乞丐《こじき》の子であつても介意《かま》ふまい。假令《たとへ》獄衣を身に纒ふやうな恥づかしめを受けようと、レエイプしてもとまで屡思ひ詰めるのだつた。
根津の下宿に居たある年の夏の夜、圭一郎は茶の間に招かれて宿のをばさんと娘の芳ちやんと二人で四方山《よもやま》の話をした。キヤツキヤツ燥《はしや》いでゐた芳ちやんは間もなく長火鉢の傍に寢床をのべて寢てしまつた。暑中休暇のことで階上も階下もがら空きで四邊はしんと鎭まつてゐた。忽ち足をばた/\させて蒲團を蹴とばした芳ちやんは眞つ白な兩方の股を弓のやうに踏張つた。と、つ…………………みたいなものが瞥《ちら》と圭一郎の眼に這入つた。
「あら、芳ちやん厭だわ」
をばさんは急いで蒲團をかけた。圭一郎は赧《あか》らむ顏を俯向《うつむ》いて異樣に沸騰《たぎ》る心を抑へようとした。をばさんさへ居なかつたらと彼は齒をがた/\顫《ふる》はした。彼の頭に蜘蛛が餌食を卷き締めて置いて咽喉を食ひ破るやうな殘忍的な考が閃めいたのだ。
斯うした獸的な淺間しい願望の延長――が千登世の身體にはじめて實現されたのであつた。彼は多年の願ひがかなへられた時、最早前後を顧慮する遑《いとま》とてもなく千登世を拉《らつ》し去つたのであるが、それは合意の上だと言へば言へこそすれ、ゴリラが女を引浚《ひつさら》へるやうな慘虐な、ずゐぶん兇暴なものであつた。もちろん圭一郎は千登世に對して無上の恩と大きな責任とを感じてゐた。飛んで灯に入る愚な夏の蟲にも似て、彼は父の財産も必要としないで石に齧《かじ》りついても千登世を養ふ決心だつた。が、自分ひとりは覺悟の前である生活の苦鬪の中に羸弱《ひよわ》い彼女までその渦の中に卷きこんで苦勞させることは堪へ難いことであつた。
圭一郎は、父にも、妹にも、誰に對しても告白のできぬ多くの懺悔を、痛みを忍んで我と我が心の底に迫つて行つた。
結局、故郷への手紙は思はせ振りな空疎な文字の羅列に過ぎなかつた。けれども一國《いつこく》な我儘者の圭一郎に傅《かしづ》いて嘸々《さぞ/\》氣苦勞の多いことであらうとの慰めの言葉を一言千登世宛に書き送つて貰ひたいといふことだけはいつものやうに冗《くど》く、二伸としてまで書き加へた。
圭一郎が父に要求する千登世への劬《いたは》りの手紙は彼が請ひ求めるまでもなくこれまで一度ならず二度も三度も父は寄越したのであつた。父は最初から二人を別れさせようとする意志は微塵も見せなかつた。別れさしたところで今さらをめ/\村に歸つて自家の閾《しきゐ》が跨がれる圭一郎でもあるまいし、同時に又千登世に對して犯した我子の罪を父は十分感じてゐることも否《いな》めなかつた。鼎《かなへ》の湯のやうに沸き立つ喧《やかま》しい近郷近在の評判や取々の沙汰に父は面目ながつて暫らくは一室に幽閉してゐたらしいが其間も屡便りを送つて來た。さま/″\の愚痴もならべられてあるにしても、何うか二人が仲よく暮らして呉れとかお互に身體さへ大切にして長生してゐれば何時か再會が叶ふだらうとか、其時はつもる話をしようとか書いてあつた。そして定《きま》つたやうに「何もインネンインガとあきらめ居候」として終りが結んであつた。時には思ひがけなく隣村の郵便局の消印で爲替が封入してあることも度々だつた。村の郵便局からでは顏|馴染《なじみ》の局員の手前を恥ぢて、杖に縋《すが》りながら二里の峻坂を攀《よ》ぢて汗を拭き/\峠を越えた父の姿が髣髴《はうふつ》して、圭一郎は極度の昂奮から自殺してしまひたいほど自ら責めた。
圭一郎は何處に向かはうと八方塞がりの氣持を感じた。心に在るものはたゞ身動きの出來ない呪縛《じゆばく》のみである。
圭一郎は社を早目に出て蠣殼町《かきがらちやう》の酒問屋事務所に立寄つて相場を手帳に記し、それから大川端の白鷹正宗の問屋を訪うてそこの主人の額に瘤《こぶ》のある大入道から新聞の種を引出さうとあせつてゐるうちに電氣が來た。屋外へ出るともう四邊は眞つ暗だつた。川口を通ふ船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく亂れてゐた。
彼は更に上野山下に廣告係の家を訪ねたが不在であつた。廣小路の夜店でバナナを買ひ、徒歩で切通坂《きりどほしざか》を通つて歸つた。
食後、千登世はバナナの皮を取りながら、
「でも樂になりましたね」と、沁々した調子で言つた。
「さうね……」
圭一郎も無量の感に迫られた。
「あの時、わたし……」彼女は言ひかけて口を噤《つぐ》んだ。
あの時――と言つた丈で二人の間には、その言葉が言はず語らずのうちに互の胸に傳はつた。圭一郎は父の預金帳から四百圓程盜んで來たのであつたが、それは一二ケ月の間になくしてしまつた。そして一日々々と生活に迫られてゐたのであつた。食事の時香のものの一片にも二人は顏見合はせて箸をつけるといふ風だつた。彼は血眼になつて職業を探したけれど駄目だつた。
「わたし、三越の裁縫部へ出ませうか、あそこなら何時でも雇つてくれるさうですから」
千登世は健氣《けなげ》に言つたが、圭一郎は情なかつた。
丁度その時、酒新聞社の編輯者募集を職業案内で見つけて、指定の日時に遣つて行つた。彼が二十幾人もの應募者の先着だつた。中にはほんのちよつとした應對で飽氣なく[#「飽氣なく」は底本では「飽氣つく」と誤記]斷られる奴もあつて、殘る半數の人たちに、主人は、銘々に文章を書かせてそれをいち/\手に取上げて讀んでは又片つ端から慘《むご》く斷り、後に圭一郎と、口髭を立派に刈込んだ金縁眼鏡の男と二人程殘つた。主人は圭一郎に、
「とに角、君は、明日九時に來て見たまへ」と、言つた。
「眞面目にやりますから、どうぞ使つて下さい。どうぞよろしくお願ひいたします」
圭一郎は丁寧にお叩頭《じぎ》して座を退り齒のすり減つた日和《ひより》をつつかけると、もう一度お叩頭をしようと振り返つたが、衝立《ついたて》に隱れて主人の顏は見えなかつた。圭一郎は、如何にも世智にたけたてきぱきした口調で、さも自信ありさうに主人に話し込んでゐる金縁眼鏡の男の横面を、はりつけてやりたい程憎らしかつた。
屋外に出るとざつと大粒の驟雨《しうう》に襲はれた。家々の軒下を潜るやうにして走つたり、又暫らく銀行の石段で雨宿りしたりしてゐたが、思ひ切つて鈴成りに混《こん》だ電車に乘つた時は圭一郎は濡れ鼠のやうになつてゐた。停留所には千登世が迎へに出て土砂降の中を片手で傘を翳《かざ》し片手で裾を高く掻きあげて待つてゐた。そして、降車口に圭一郎のずぶ濡れ姿を見つけるなり、千登世は急ぎ歩み寄つて、
「まあ、お濡れになつたのね」と眉根に深い皺を刻んで傷々《いた/\》しげに言つた。
圭一郎は千登世の傘の中に飛び込むと、二人は相合傘で大學の正門前の水菓子屋の横町から暗い路地に這入つて行つた。歩きながら圭一郎は酒新聞社での樣子をこま/″\千登世に話して聽かせた。
「とに角、明日も一度來て見ろと言つたんですよ」
「ぢや、屹度《きつと》、雇ふ考へですよ」
と彼女は言つたが、これまで屡繰り返されたと同じやうな空頼みになるのではあるまいかといふ豫感の方が先に立つて千登世はそれ以上ものを言ふのが辛かつた。
「雇つてくれるかもしれん……」
圭一郎は口の中で呟いた。けれ共、頼み難いことを頼みにし獨り決めして置いて、後で又しても千登世を失望させてはと考へた。さう思へば思ふ程、金縁眼鏡の男がうらめしかつた。
「ほんたうに雇つてくれるといゝが……」
圭一郎は思はず深い溜息を洩らした。
「悄氣《しよげ》ちや駄目ですよ、しつかりなさいな」
斯う千登世は氣の張りを見せて圭一郎に元氣を鼓舞《つけ》ようとした。が、濡れしをれた衣服の裾がべつたり脚に纒つて歩きにくさうであり、長く伸びた頭髮からポトリ/\と雫の滴《したゝ》る圭一郎のみじめな姿を見た千登世の眼には、夜目にも熱い涙の玉が煌《きら》めいた。
運好く採用されたのだつたが、千登世はその夜のことを何時までも忘れなかつた。「わたし泣いてはいけないと思つたんですけれど、あの時――だけは悲しくて……」彼女は思ひ出しては時々それを口にした。
千登世は食後の後片づけをすますと、寛《くつろ》いだ話もそこ/\に切り上げ暗い電燈を眼近く引き下して針仕事を始めた。圭一郎は檢温器を腋下に挾んでみたが、まだ平熱に歸らないので直ぐ寢床に這入つた。
壁一重の隣家の中學生が頓狂な發音で英語の復習をはじめた。
What a funy bear !
「あゝ煩さい。もつと小さな聲でやれよ」兄の大學生らしいのが斯う窘《たしな》める。
中學生は一向平氣なものだ。
Is he strong ?
「煩さいつたら!」兄は悍《たけ》り立つた金切聲で叱り附けた。
圭一郎と千登世とは思はず顏を合せて、クス/\笑ひ出した。が、直ぐ笑へなくなつた。その兄弟たちの希望に富む輝かしい將來に較べて、自分達の未來といふものの何んとさびしい目當てのないものではないかといふ氣がして。
軈《やが》て、夜番の拍子木の音がカチ/\聞えて來る時分には、中學生の寢言が手に取るやうに聞える。夢にまで英語の復習をやつてるらしい。階下でも内儀《かみ》さんが店を閉めた。四邊は深々と更けて行く。筋向うの大學の御用商人とかいふ男が醉拂つて細君を呶鳴る聲、器物を投げつける烈しい物音がひとしきり高かつた。暫らくすると支那|蕎麥屋《そばや》の笛が聞えて來た。
「あら、また遣つて來た!」
千登世は感に迫られて針持つ手を置いた。
千登世は、今後、この都を去つて何處かの山奧に二人が侘住ひするやうになつても、支那蕎麥屋の笛の音だけは忘れ得ないだらうと言つた。――駈落ち當時、高徳の譽高い淨土教のG師が極力二人を別れさせようとした。そのG師の禪房に曾《か》つて圭一郎は二年も寄宿し、G師に常隨してその教化を蒙つてゐた關係上、上京すると何より眞つ先きにG師に身を寄せて一切をぶちまけなければ措《お》けない心の立場にあつたのだ。G師の人間的な同情は十分持ち乍らも、しかし、G師自身の信仰の上から圭一郎の行爲を是認して見遁すことはゆるされなかつた。G師は毎夜のやうに圭一郎を呼び寄せて「無明煩惱シゲクシテ、妄想顛倒ノナセルナリ」……今は水の出端《でばな》で思慮分別に事缺くけれど、直に迷ひの目がさめるぞ、斯うした不自然な同棲生活の終《つひ》に成り立たざること、心の負擔に堪へざること、幻滅の日、破滅の日は決してさう遠くはないぞ、一旦の妄念を棄て別れなければならぬ。――斯う諄々《じゆん/\》と説法した。圭一郎は生木を裂かれるやうな反感を覺えながらも、しかし、故郷の肉親に對する斷ち難き愛染は感じてゐるのだから、そして心の呵責《かしやく》は渦を卷いてゐるのだから、そこの虚を衝《つ》かれた日には良心的に實際|適《かな》はない感じのものだつた。圭一郎がG師から兎や斯うきつい説法を喰つてゐる間、千登世は二階で一人わびしく圭一郎の歸りを待ちながら、人通りの杜絶《とだ》えた路地に彼の下駄の音を今か/\と耳を澄ましてゐる時、この支那蕎麥屋の笛を聞いて、われを忘れて慟哭《どうこく》したといふのである。千登世にしてみれば、別れろ/\と攻め立てられてG師の前に弱つて首垂《うなだ》れてゐる圭一郎がいぢらしくもあり、恨めしくもあり、否、それにも増して、暗い過去ではあつたがどうにか弱い身體と弱い心とを二十三歳の年まで潔《きよ》く支へて來た彼女が、選りも選んで妻子ある男と駈落ちまでしなければならなくなつた呪うても足りない宿命が、彼女にはどんなにか悲しく、身を引き裂きたい程切なかつたことであらう……。
支那蕎麥屋は家の前のだら/\坂をガタリ/\車を挽いて坂下の方へ下りて行つたが、笛の音だけは鎭まつた空氣を劈《つんざ》いて物哀しげに遙かの遠くから聞えて來た。一瞬間、何んだか北京とか南京とかさうした異郷の夜に、罪業の、さすらひの身を隱して憂念愁怖の思ひに沈んでゐる自分達であるやうにさへ想へて、圭一郎もうら悲しさ、うら寂しさが骨身に沁みた。
「もう寢なさい」と圭一郎は言つた。
「えゝ」
と答へて千登世は縫物を片付け、ピンを拔き髮を解《ほぐ》し、寢卷に着替へようとしたが、圭一郎は彼女の窶《やつ》れた裸姿を見ると今更のやうにぎよつとして急いで眼を瞑《つぶ》つた。
圭一郎の月給は當分の間は見習ひとして三十五圓だつた。それでは生活を支へることがむづかしいので不足の分は千登世の針仕事で稼ぐことになり「和服御仕立いたします」と書いた長方形の小さなボール紙を階下の路地に面した戸袋に貼りつけた。幸ひ近所の人達が縫物を持つて來てくれたのでどうにか月々は凌《しの》げたが、その代り期日ものなどで追ひ攻められて徹夜しなければならないため、千登世の健康は殆ど臺なしだつた。
「こんなに髮の毛がぬけるのよ」
千登世は朝髮を梳《す》く時ぬけ毛を束にして涙含み乍ら圭一郎に見せた。事實、彼女の髮は痛々しい程減つて、添へ毛して七三に撫でつけて毳《むくげ》を引き※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、157-下6]《む》しられた小鳥の肌のやうな隙間が見えた。圭一郎の心の底から深い憐れさが沁み出して來るのであつたが、彼女の涙も度重なると、時には自分達の存在が根柢から覆へされるやうな憤りさへ覺えた。さう言つて責めてくれるな! と哀訴したいやうな、苦しいのはお互ひさまではないか! と斯う彼女の弱音に荒々しい批難と突つ慳貪《けんどん》な叱聲を向けないではゐられないエゴイスチックな衝動を感じた。
酷《ひど》い夏痩せの千登世は秋風が立つてからもなか/\肉付が元に復《もど》らなかつた。顏はさうでもなかつたけれど、といつても、二重顎は一重になり、裸體になつた時など肋骨が蒼白い皮膚の上に層をなして浮んで見えた。腰や腿《もゝ》のあたりは乾草のやうにしなびてゐた。ひとつは榮養不良のせゐもあつたが……。
圭一郎はスウ/\小刻みな鼾《いびき》をかき出した細つこい彼女を抱いて睡らうとしたが、急に頭の中がわく/\と口でも開いて呼吸でもするかのやうに、そしてそれに伴つた重苦しい鈍痛が襲つて來た。彼はチカ/\眼を刺す電燈に紫紺色のメリンスの風呂敷を卷きつけて見たが又起つて行つて消してしまつた。何も彼も忘れ盡して熟睡に陷ちようと努めれば努める程|彌《いや》が上にも頭が冴えて、容易に寢つけさうもなかつた。
立てつけのひどく惡い雨戸の隙間を洩るゝ月の光を面に浴びて白い括枕《くゝりまくら》の上に髮こそ亂して居れ睫毛《まつげ》一本も動かさない寢像のいゝ千登世の顏は、さながら病む人のやうに蒼白かつた。故郷に棄てて來た妻や子に對するよりも、より深重な罪惡感を千登世に感じないわけには行かない。さう思ふと何處からともなく込み上げて來る強い憐愍《れんみん》がひとしきり續く。かと思ふとポカンと放心した氣持にもさせられた。
全體これから奈何《どう》すればいゝのか? 又奈何なることだらうか? 圭一郎は幾度も/\寢返りを打つた。――
(昭和三年)[#地から1字上げ]
底本:「日本文學全集34 梶井基次郎・嘉村礒多・中島敦集」新潮社
1962(昭和37)年4月20日発行
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年2月27日公開
青空文庫作成ファイル:
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