青空文庫アーカイブ

崖の下
嘉村礒多

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)煎餅屋《せんべいや》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)何程|捩込《ねぢこ》んで行つても

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)ぱたり[#「ぱたり」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)くしや/\の中折帽の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋《せんべいや》の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍《やゝ》色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。
 圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を殘して千登世と駈落ちして來てから滿一年半の歳月を、樣々な懊惱《あうのう》を累《かさ》ね、無愧《むき》な卑屈な侮《あなど》らるべき下劣な情念を押包みつゝ、この暗い六疊を臥所《ふしど》として執念深く生活して來たのである。彼はどんなにか自分の假初《かりそめ》の部屋を愛し馴染《なじ》んだことだらう。罅《ひゞ》の入つた斑點に汚れた黄色い壁に向つて、これからの生涯を過去の所爲と罪報とに項低《うなだ》れ乍ら、足に胼胝《たこ》の出來るまで坐り通したら奈何《どう》だと魔の聲にでも決斷の臍《ほぞ》を囁かれるやうな思ひを、圭一郎は日毎に繰返し押詰めて考へさせられた。
 圭一郎は先月から牛込の方にある文藝雜誌社に、この頃偶然事から懇意になつた深切な知人の紹介で入社することが出來た。彼の歡喜は譬《たと》へやうもなかつた。あの三多摩壯士あがりの逞《たくま》しく頬骨の張つた、剛慾な酒新聞社の主人に牛馬同樣こき使はれてゐたのに引きかへて、今度はずゐぶん閑散な勿體ないほど暢氣《のんき》な勤めだつたから。しかしそれも束の間、場慣れぬせゐも手傳ふとは言へ、とかく世智に疎《うと》く、愚圖で融通の利かない彼は、忽ち同輩の侮蔑と嘲笑とを感じて肩身の狹いひけめを忍ばねばならぬことも所詮は致し方のない悉《みな》わが拙《つたな》い身から出た錆であつた。圭一郎は世の人々の同情にすがつて手を差伸べて日々の糧を求める乞丐《こじき》のやうに、毎日々々、あちこちの知名の文士を訪ねて膝を地に折つて談話を哀願した。が智慧の足りなさから執拗に迫つて嫌はれてすげなく拒絶されることが多かつた。時には玄關番にうるさがられて脅《おど》し文句を浴せられたりした。彼はひたすらに自分を鞭うち勵ましたが、日蔭者の身の、落魄の身の僻《ひが》みから、夕暮が迫つて來ると味氣ない心持になつて、思ひ惱んだ眼ざしを古ぼけて色の褪せたくしや/\の中折帽の廂《ひさし》にかくし、齒のすり減つた日和《ひより》の足を曳擦つて、そして、草の褥《しとね》に憩ふ旅人の遣瀬ない氣持を感じながら、千登世を隱蔽してあるこの窖《あなぐら》に似た屋根裏を指して歸つて來るのであつた。――彼女との結合の絲が、煩はしい束縛から、闇地を曳きずる太い鐵鎖とも、今はなつてゐるのではないかしら? 自分には分らない。彼は沈思し佇立《たちどま》つて荒い溜息を吐くのであつた。精一杯の力を出し生活に血みどろになりながらも、一度自分に立返ると荒寥たる思ひに閉されがちだ。何處からともなく吹きまくつて來る一陣の呵責《かしやく》の暴風に胴震ひを覺えるのも瞬間、自らの折檻《せつかん》につゞくものは穢惡《あいあく》な凡情に走《は》せ使はれて安時ない無明の長夜だ。自分はこの世に生れて來たことを、哀しい生存を、狂亂所爲多き斯《か》く在ることの、否定にも肯定にも、脱落を防ぐべき楔《くさび》の打ちこみどころを知らない。圭一郎は又しても、病み疲れた獸のやうな熱い息吹を吐き、鈍い目蓋を開いて光の消えた瞳を据ゑ、今更のやうに邊《あたり》を四顧するのであつた。……

「何にを今から、そんなに騷ぐんだい! まだ家も見つかりはしないのに!」
 或る日社から早目に歸つて來た圭一郎の苛々《いら/\》した尖つた聲に、千登世はひとたまりもなく竦《すく》み上つて、
「見つかり次第、何時でも引き越せるやうにと思つて……」と微かな低聲《こごゑ》で怖々言つて、蒼ざめた瓜實顏をあげて哀願するやうな眼付を彼に向け、そして片付けてゐたトランクの蓋をぱたり[#「ぱたり」に傍点]と蔽うた。
 其トランクは、彼女の養父の、今は亡くなつた相場師の彼女へ遺された唯一の形見だつた。相場師の臨終の枕元に集《つど》うた甥や姪や縁者の人たちは、相場師が息を引き取つた後で貰つて行くべき、物品を、貪狼《たんらう》の如き眼をかゞやかして刻一刻と切迫して來る今際《いまは》の餘喘《よぜん》の漂ふ室内の隅々までも見渡してゐた。彼等は目ぼしい物は勿論、ほんの我樂多《がらくた》までかつぱらつて行つたのだが、相場師が壯年の時分に支那や滿洲三界まで持ち歩いて方々の税關の檢査證や異國の旅館のマークの貼りつけてある廢物に等しいこの大型のトランクだけは、流石《さすが》に千登世に殘された。これは養母の在りし日の榮華の記念物である古琴と共に東京へ携へて來たのであつた。
 千登世は貧しい三四枚の身のまはりのものを折り疊んで其トランクに納めてゐた。聲を荒げて咎《とが》め立てした後で堪らない哀傷が彼の心を襲うた。圭一郎等は、住慣れたこの六疊にしばしの感慨をとゞめてゐることはゆるされない。移轉は一刻も猶豫できない切羽詰《せつぱつま》つた状態に置かれてゐた。つい最近のことである。千登世が行きつけの電車通りのお湯が休みなので曾つて行つたことのない菊坂のお湯に行つて隅つこで身體を洗つてゐると直ぐ前に彼女に斜に背を向けた銀杏返《いてふがへし》の後鬢の階下の内儀《かみ》さんにそつくりの女が、胡散《うさん》臭くへんに邊に氣を配るやうにして小忙しくタオルを使つてゐた。はつと見るとその人には兩足の指が拇指《おやゆび》を殘して他は一本も無いのである。彼女は思はず戰慄を感じてあつ[#「あつ」に傍点]と立てかけた聲を呑んで、ぢつとその薄氣味惡い畸形の足を凝視《みつ》めてゐた、途端、その女は千登世を振り返つた。とやつぱり階下の内儀さんではないか! 刹那、内儀さんは齒を喰ひ縛り恐ろしい形相《ぎやうさう》をして、魂消《たまげ》て呆氣にとられてゐる彼女にもの[#「もの」に傍点]も言はず飛び退《の》くやうに石鹸の泡も碌々拭かないで上つてしまつた。これまで何回、千登世は内儀さんをお湯に誘つたかしれないが内儀さんは決して應じなかつたし、夏でも始終足袋を穿いて素足を見せないやうにしてゐたので、圭一郎も幾らか思ひ當るふし[#「ふし」に傍点]もあつたのであるが、兎に角、その夜は二人はおち/\睡れなかつた。果して内儀さんは翌日から圭一郎等に一言も口を利かなかつた。千登世が階下へ用達しに下りて行くと棧《さん》も毀《こは》れよとばかり手荒く障子を閉めて家鳴りのするやうな故意の咳拂ひをした。彼等は怯《おび》えて氣を腐らした。内儀さんと千登世とは今日の日まで姉妹もたゞならぬほど睦《むつまじ》くして來たし、近所の人達が千登世のところへ持つて來る針仕事を内儀さんは二階まで持つて上つてくれ、急ぎの仕立がまだ縫ひ上つてない場合は千登世に代つて巧く執成《とりな》してくれ一日に何遍となく梯子段《はしごだん》を昇り降りして八百屋酒屋の取次ぎまでしてくれたり、二人は内儀さんの數々の心づくしを思ふと、心悸《しんき》の亢進を覺えるほど滿ち溢れた感激を持つてゐた矢先だつたので。故郷の家から圭一郎に送つて寄越す千登世には決して見せてはならない音信を彼女には内密に窃《そ》つと圭一郎に手渡す役目を内儀さんは引き受けてくれる等、萬事萬端、痒《かゆ》いところに手の屆くやうにしてくれた思ひ遣りも、その夜を境に掌を返すやうに變つてしまつた。圭一郎の弱り方は並大抵ではなかつた。「ちえつ! 他人の不具な足をじろ/\見るなんて奴があるものか! 女がそんな愼みのないことでどうする!」圭一郎は癇癪を起して眼を聳《そばだ》てて千登世に突掛つた。「わたし惡うございました」と彼女は一度は謝《あやま》りはしたが、眉をぴり/\引吊り唇を顫はして「こんな辛いこつたらない、いつそ死んでしまふ!」とか「そんなにお非難《せめ》になるんなら、たつた今わたしあなたから去つて行きます!」とか、つひぞ反抗の色を見せたことのない千登世も、身に火の燃え付いたやうに狂はしく泣きわめいた。二人は毎日々々、千登世の針仕事の得意を遠去らない範圍の界隈を貸間探しに歩き廻つた。探すとなればあれだけ多い貸間もおいそれとは見當らない。圭一郎は郷里の家の大きな茅葺《かやぶき》屋根の、爐間の三十疊もあるやうなだゝつ廣い百姓家を病的に嫌つて、それを二束三文に賣り拂ひ、近代的のこ瀟洒《ざつぱり》した家に建て替へようと強請《せが》んで、その都度父をどんなに悲しませたかしれない。先々代の家が隆盛の頂にあつた時裏の欅山《けやきやま》を坊主にして普請《ふしん》したこの家の棟上式《むねあげしき》の賑ひは近所の老人達の話柄になつて今も猶ほ傳へられてゐる。「圭一郎もそないな罰當りを言や今に掘立小屋に住ふやうにならうぞ」と父は殆ど泣いて彼の不心得を諫《いさ》め窘《たしな》めた。圭一郎は現在、膝を容るる二疊敷、土鍋一つでらち[#「らち」に傍点]あけよう、その掘立小屋が血眼になつて探し廻つても無いのである。つい先夜、西片町のとある二階を借りに行つた。夫婦で自炊さして貰ひたいといふと、少ない白髮を茶筅髮《ちやせんがみ》にした紫の被布を着た氣丈な婆さんに顏を蹙《しか》め手を振つて邪慳《じやけん》に斷られての歸途、圭一郎は幾年前の父の言葉をはたと思ひ出し、胸が塞がつて熱い大粒の泪が堰《せ》き切れず湧きあがるのであつた。
 片端《かたは》の足を誰にも氣付かれまいと憔悴《やつれ》る思ひで神經を消磨してゐた内儀さんの口惜しさは身を引き裂いても足りなかつた。さては店頭に集る近所の上さん連中をつかまへて、二階へ聞えよがしに、出て行けがしに彼等の惡口をあることないことおほつぴらに言ひ觸らした。鳶職《とびしよく》である人一倍弱氣で臆病な亭主も、一刻も速く立退いて行つて欲しいと泣顏《べそ》を掻いて、彼等にそれを眼顏で愬《うつた》へた。
 世間は淺い春にも醉うて上野の山に一家打ち連れて出かける人達をうらめしい思ひで見遣り乍ら、二人は慘めな貸間探しにほつつき歩かねばならなかつた。

 二人は、近所の口さがない上さん達の眼を避けるため黎明前に起き出で、前の晩に悉皆《すつかり》荷造りして置いた見窄《みすぼ》らしい持物を一臺の俥《くるま》に積み、夜逃げするやうにこつそりと濃い朝霧に包まれて濕つた裏街を、煎餅屋を三町と距《へだ》たらない同じ森川町の橋下二一九號に移つて行つた。
 全く咄嗟《とつさ》の間の引越しだつた。千登世が縫物のことで近付きになつた向う隣りの醫者の未亡人が彼等の窮状を聞き知つて買ひ取つたばかりのその家の目論《もくろん》でゐた改築を沙汰止みにして提供したのだつた。家は三疊と六疊との二た間で、ところ/″\床板が朽ち折れてゐるらしく、凹んだ疊の上を爪立つて歩かねばならぬ程の狐狸《こり》の棲家にも譬《たと》へたい荒屋《あばらや》で、蔦葛《つたかづら》に蔽はれた高い石垣を正面に控へ、屋後は帶のやうな長屋の屋根がうね/\とつらなつてゐた。家とすれ/\に突當りの南側は何十丈といふ絶壁のやうな崖が聳え、北側は僅かに隣家の羽目板と石垣との間を袖を卷いて歩ける程の通路が石段の上の共同門につゞいてゐた。若し共同門の方から火事に攻められれば寸分の逃場はないし、また高い崖が崩れ落ちやうものなら家は微塵に粉碎される。前の日に掃除に來た時二人は屹立《そばだ》つた恐ろしい斷崖を見上げて氣臆《きおくれ》がし、近くの眞砂町の崖崩れに壓し潰された老人夫婦の無慘《むごたら》しい死と思ひ合はせて、心はむやみに暗くなつた。圭一郎は暫時考へた揚句、涙含《なみだぐ》んでたじろぐ千登世を叱※[#「※」は「口へん+它」、第3水準1-14-88、163-下12]して、今は物憂く未練のない煎餅屋の二階を棄て去つたのである。
 崖崩れに壓死するよりも、火焔に燒かれることよりも、如何なる亂暴な運命の力の爲めの支配よりも圭一郎が新しい住處を怖《お》じ畏れたことは、崖上の椎《しひ》の木立にかこまれてG師の會堂の尖塔が見えることなのだ。
 駈落ち當時、圭一郎は毎夜その會堂に呼寄せられて更くるまで千登世との道ならぬ不虔《ふけん》な生活を斷ち切るやうにと、G師から峻烈な説法を喰つた。が、何程|捩込《ねぢこ》んで行つても圭一郎の妄執の醒めさうもないのを看破つたG師の、逃げるものを追ひかけるやうな念は軈《やが》て事切れた。會堂の附近を歩いてゐる時、行く手の向うに墨染の衣《ころも》を着た小柄のG師の端嚴な姿を見つけると、圭一郎はこそ/\逃げかくれた。夜半に眼醒めて言ひやうのない空虚の中に、狐憑《きつねつ》きのやうに髮を蓬々《ぼう/\》と亂した故郷の妻の血走つた怨みがましい顏や、頭部の腫物を切開してY町の病院のベッドの上に横たはつてゐる幼い子供の顏や、倅《せがれ》の不孝にこの一年間にめつきり痩衰へて白髮の殖えたといふ父の顏や、凡て屡※[#「※」は「二の字点」、第3水準1-2-22、164-上10]の妹の便りで知つた古里《ふるさと》の肉親の眼ざしが自分を責めさいなむ時、高い道念にかゞやいた、蒼天の星の如く煌《きら》めくG師の眼光も一緒になつて、自分の心に直入し、迷へる魂の奧底を責め訶《さいな》むのであつた。さうした場合、圭一郎は反撥的にわつ[#「わつ」に傍点]と聲をあげたり、千登世をゆすぶり覺まして何かの話に假託《かこつ》けて苦しみを蹶散《けち》らさうとするやうな卑怯な眞似をした。
 ちやうど、引越しの日に雜誌は校了になり、二三日は閑暇《ひま》なからだになつた。
 夜、膝を突き合せて二人は引越し蕎麥《そば》を食べた。小さな机を茶餉臺《ちやぶだい》代りにして、好物の葱《ねぎ》の韲物《あへもの》を肴に、サイダーの空壜に買つて來た一合の酒を酌み交はし、心ばかりの祝をした。
「大へん心配やら苦勞をかけました。お疲れでございませう」
と彼女は慌《あわたゞ》しく廻る身の轉變に思ひを唆《そゝ》られてか潤んだ聲で言つた。
「いや、貴女こそ……」
と圭一郎は感傷的になつて優しく口の中で呟いた。千登世を慈《いつく》しんでくれてゐる大屋の醫者の未亡人への忘れてはならぬ感謝と同時に、千登世に向つても心の中で手を支へ、項《うなじ》を垂れ、そして寢褥《ねどこ》に入つた。誰に遠慮氣兼ねもない心安さで手足を思ふさま伸ばした。壁は落ち、襖《ふすま》は破れ、寒い透間の風はしん/\と骨を刺すやうに肌身を襲ふにしても、潤んだ銀色の月の光は玻璃《ガラス》窓を洩れて生を誘ふがに峽谷の底にあるやうな廢屋《はいをく》の赤茶けた疊に降りた。四邊は※[#「※」は「「闃」で「門」の中「目」のかわりに「自」をあてる」、164-下17]《しん》と聲をひそめ、犬の遠吠えすら聞えない。ポトリ/\とバケツに落ちる栓のゆるんだ水道の水音に誘はれて、彼は郷里の家の裏山から引いた筧《かけひ》の水を懷しく思ひ出した。圭一郎はいきなり蒲團を辷り出て机に凭掛《よりかゝ》り、父に宛てて一軒の家を持つた悦びを誇りかに葉書にしたゝめたが、直ぐ發作的に破いてしまつた。
「あなた、今朝は、ゆつくりおやすみなさいね」
 明る朝、曉方早く眼ざめた二人は、どうにかして暗處をこゝまで辿りついて來た互ひの胸の中を寢物語りにしてゐたが、間もなく千登世は斯う言つて寢床を離れた。すこし熱の出た圭一郎は組み合せた兩掌で顏を蔽ひ、鈍痛を伴つて冷える後頭部の皿を枕に押しつけてゐると、突如と崖上の會堂から磬石《けいせき》を叩く音が繁く響いて來た。圭一郎はあわてて拇指《おやゆび》で耳孔を塞いだ。が、駄目だ。G師につゞく百人近い學舍に寄宿してゐる帝大生の勤經《ごんぎやう》の聲は押し拂はうとても、鎭まつた朝の空氣をどよもして手に取るやうに意地惡く聞えて來る。彼は忌々《いま/\》しさに舌打ちし、自棄《やけ》くそな捨鉢の氣持で空嘯《そらうそぶ》くやうにわざと口笛で拍子を合はせ、足で音頭をとつてゐた。が、何時しか眼を瞑《つぶ》つてしまつた。「愛欲之中《アイヨクシチユウ》。……窈窈冥冥《ヤウヤウミヤウミヤウ》。別離久長《ベチリクチヤウ》」嘗《か》つて學舍でG師に教はつて切れ/″\に諧《そら》んじてゐる經文が聞えると、心の騷擾《さうぜう》は彌増《いやま》した。「顛倒上下《テンダウジヤウゲ》。……迭相顧戀《テチソウコレン》。窮日卒歳《グニチソチサイ》……愚惑所覆《グワクシヨブ》」――暫らくすると、圭一郎は被衾《よぎ》の襟に顏を埋め兩方の拳を顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1-94-6、165-下2]《こめかみ》にあて、お勝手で朝餉《あさげ》の支度をしてゐる千登世に聞えぬやう聲を噛み緊めてしくり/\哭《な》いてゐた。彼は奮然として起き直り、薄い敷蒲團の上にかしこまつて兩手を膝の上に揃え、なにがなし負けまいと下腹に力を罩《こ》めて反衝《はねか》へすやうな身構へをした。
 さうした毎朝が、火の鞭を打ちつけられるやうな毎朝が、來る日も來る日もつゞいた。が、圭一郎もだん/\それに馴れて横着になつては行つた。
 G師は、ともかく一應別居して二人ともG師の信念を徹底的に聽き、その上で、うはずつた末梢的な興奮からでなしに、眞に即《つ》く縁のものなら即き、離る縁のものなら[#「ものなら」は底本では「ものなる」と誤記]離るべしといふのであつたが、しかし、長く尾を引くに違ひない後に殘る悔いを恐れる餘裕よりも、二人の一日の生活は迫りに迫つてゐたのである。父の預金帳から盜んで來た金の盡きる日を眼近に控えて、溺れる者の實に一本の藁を掴む氣持で、圭一郎は一人の※[#「※」は「夕+寅」、第4水準2-5-29、165-下19]縁《つて》もない廣い都會を職業を探して歩いた。故郷に援助を求めることも男のいつぱしで出來ないのだ。彼は一切の矜《ほこ》りを棄ててゐた。社會局の同潤會へ泣きついて本所横網の燒跡に建てられた怪しげなバラックの印刷所に見習職工の口を貰つたが、三日の後には解雇された。彼は氣を取り直して軒先にぶら下つてゐる「小僧入用」のボール紙にも、心引かれる思ひで朝から晩まで街から街を歩いた。上野の市設職業紹介所には降る日も缺かさず通つて行つて、そして、迫り來る饑《ひも》じさにグウ/\鳴る腹の蟲を耐へて澁面つくつた若者や、腰掛の上に仰向けになつてゐる眼窩《がんくわ》の落窪んだ骸骨のやうなよぼ/\の老人や、腕組みして仔細らしく考へ込んでゐる凋《しぼ》んだ青瓢箪《あをべうたん》のやうな小僧や、さうした人達の中に加つて彼は控所のベンチに身を憩《やす》ませた。みんなが皆な、大きな聲一つ出せないほど窶《やつ》れて干乾びてゐる。と中に、セルの袴を穿いて俺は失業者ではないぞと言はぬ顏に威張り散らし、係員に横柄な口を利く角帽の學生を見たりすると、初めの間はその學生同樣に袴など穿いて方々の職業紹介所を覗いてゐた時のケチ臭い自分の姿を新に喚起して圭一郎は恥づかしさに身内の汗の冷たくなるのを覺えた。横手のガードの下で帽子に白筋を卷いた工夫長に指圖されて重い鐵管を焦げるやうな烈日の下にえんさこらさ[#「えんさこらさ」に傍点]と掛聲して運んでゐる五六人の人夫を彼は半ば放心して視遣つてゐた。仕事に有付いてゐるといふことだけで、その人夫達がこの上もなく羨望されて。又次の日には千登世と二人で造花や袋物の賃仕事を見つけようと芝や青山の方まで駈け廻つて、結局は失望して、さうして濕つぽい夜更けの風の吹いて來る暗い濠端《ほりばた》の客の少い電車の中に互ひの肩と肩とを凭《もた》せ合つて引つ返して來るのであつた。
 斯うして酒新聞社に帶封書きに傭はれた時分は、月半ばに餘す金は電車賃しかなかつた。その頃、ルバシュカを着た、頭に禿のある豆蔓《まめづる》のやうに脊丈のひよろ/\した中年の彫塑家《てうそか》が編輯してゐた。ルバシュカは三日にあげず「奧さん、五十錢貸して貰へませんか」と人の手前も憚らないほど、その男も貧乏だつた。それでもそのルバシュカは、長い腕を遠くから持つて來て環を描きながらゴールデンバットだけは燻《くゆら》してゐた。その強烈な香りが梯子段とつつきの三疊の圭一郎の室へ、次の間の編輯室から風に送られて漂うて來ると、彼は怺《こら》へ難い陋《さも》しい嗜慾に煽《あふ》り立てられた。圭一郎は片時も離せない煙草が幾日も喫めないのである。腦がぼんやりし、ガン/\幻惑的な耳鳴りがし、眩暉《めまひ》を催して來ておのづと手に持つたペンが辷り落ちるのだつた。彼は堪りかねて、さりげなくルバシュカに近寄つて行き、彼の吐き出すバットの煙を鼻の穴を膨らまして吸ひ取つては渇を癒《いや》した。
 ルバシュカが晝食の折階下へ降りた間を見計つて、彼は、編輯室に鼠のやうにする/\と走つて行つて、敏捷《はしこ》くルバシュカのバットの吸さしを盜んだ。次の日も同じ隙間を覗つて吸さしのコソ泥を働いた。ルバシュカは爪楊枝《つまやうじ》を使ひながら座に戻ると煙草盆を覗いて、
「怪《け》つたいだなあ、吸さしがみんななくなる、誰かさらへるのかな。」
と呟いて怪訝《けげん》さうに首を傾げた。人の良いルバシュカは別に圭一郎を疑ぐる風もなかつたが、圭一郎は言ひあらはし難い淺間しさ、賤劣の性の疚《やま》しさを覺えて、耳まで火のやうに眞赤になり、背筋や腋の下にぢり/\と膏汗《あぶらあせ》が流れた。
 數日の後、ルバシュカは無心が度重なるといふので、二人の子供と臨月の妻とを抱へてゐる身の上で馘首《くわくしゆ》になり、圭一郎は後釜へ据ゑられた。
 ……………………
 圭一郎は、崖下の家に移つて來た頃から、今度の雜誌社では給料の外に、長い談話原稿を社長の骨折りで他の大雜誌へ賣つて貰つたり、千登世は裁縫を懸命に稼いだりして、煙草錢くらゐには事缺かないのである。彼は道ゆくにも眼を蚊の眼のやうに細めてバットの甘い匂ひに舌を爛《たゞ》らして贅澤に嗅ぎ乍ら歩くのである。電車に乘らうとして、火のついてゐるバットを捨て兼ね、一臺でも二臺でも電車をおくらして吸ひ切るまでは街上に立ちつくしてゐるのであつたが、急ぎの時など、まだ半分も吸はないのに惜氣もなくアスファルトの上に叩きつけることもあつた。さうした場合、熱き涙を岩石の面にもそゝぎ――と言つた、思慕渇仰に燃えた狂信的な古の修行人の敬虔なる衝動とは異つた吝嗇《りんしよく》な心からではあるけれども、圭一郎は、吸さしのバットの上に熱い涙を、一滴、二滴、はふり落すこともあるのであつた。
 寄越す手紙寄越す手紙で郷里の家に起るごた/\の委細を書き送つて圭一郎を苦しめぬいた妹は、海軍士官である良人が遠洋航海から歸つて來るなり、即刻佐世保の軍港へ赴いた。圭一郎は救はれた思ひで吻《ほつ》とした。けれども彼はY町の赤十字病院に入院してゐるといふ子供の容態の音沙汰に接し得られないことを憾《うら》みにした。いよ/\頭部の惡性な腫物の手術を近く施すといふ妹の最後の便りを、その頃まだ以前の勤先である靈岸島濱町の酒新聞社に通つてゐた一月の月始めに受取つて以降、彼はある不吉な終局を待受けて見たりする心配に絶えず氣を取亂した。圭一郎は割引電車に乘つて行つて、社の扉のまだ開かれない二十分三十分の間を永代橋の上に立ち盡して、時を消すのが毎朝の定りだつた。流れに棹《さをさ》して溯《さかのぼ》る船や、それから渦卷く流れに乘つて曳船に曳かれ水沫《しぶき》を飛ばし乍ら矢の如く下つて行く船を、彼は欄干に顎を靠《もた》し、元氣のない消え入るやうにうち沈んだ心地で、半眼を開いた眼を凝乎《ぢつ》と笹の葉ほどに小さく幽かになつて行く同じ船の上に何處までも置いてゐるのであつたが、誰かの足音か聲かに覺まされたもののやうに偶《ふ》と正氣づいて俄《にはか》に顏を擡《もた》げ、遠く波濤にけむる朝の光を帶びた廣い海原を茫然と眺めるのであつた。そして、藍色《あゐいろ》を成した漂渺《へうべう》とした海の遙か彼方に故郷のあることが思はれ病兒の身の上が思はれ、眼瞼の裏は煮え出して唏泣《すゝりな》け、齒はがた/\と顫《ふる》へわなゝいた。
 妹の最後の手紙には、病院には母が詰切つて敏雄の看護をしてゐる趣きがしたゝめてあつた。妻の咲子は假病を使つて保養がてらと稱《い》つてY町の實家に歸つてゐるが、つい[#「つい」に傍点]眼と鼻の間である病院へ意地づくで子供の重い病を見舞はうともしないこと、朝は一番の圓太郎馬車で、夜は最終の同じガタ馬車で五里の石ころ道を搖られて歸る父は、さうした毎日の病院通ひにへと/\に憊《つか》れてゐること、扁桃腺まで併發して、食物は一切咽喉を通らず、牛乳など飮ますと直ぐ鼻からタラ/\と流れ出るさうした敏雄も可傷《いたはし》さの限りだけれど、父の心痛を面《まのあたり》に見るのはどんなに辛いことか、氣の毒で迚《とて》も筆にも言葉にもあらはせない、兄さん、お願ひだから、お父さまに、ほんとにご心配かけてかへす/″\も濟まないとたつた一言書き送つて欲しいと、妹はこま/″\と愚痴つぽく書き列べた。そして又、切開後の結果の如何に依つては敏雄の小學校への入學を一年延期したい父の意嚮《いかう》だとも妹は亂れがちな筆で末尾に書添へてゐた。
 ――その入學期の四月は、餘すところ一週日もないのである。彼は氣が氣でなかつた。ともすれば氣が遠くなつて錢湯で下足札を浴槽《ゆぶね》の中に持ち込むやうな迂闊なことさへ屡※[#「※」は「二の字点」、第3水準1-2-22、169-上5]だつた。もういくら何んでも、退院だけはしてゐる筈なのだらうが? 圭一郎は、雜誌社の机で、石垣に面した崖下の家の机で、せめてハガキででも子供の今日此頃を確めようと焦つた。幾度もペンを執らうと身を起したが心は固く封じられて動かうとはしなかつた。
 圭一郎は默然として手を拱《こまぬ》き乍ら硬直したやうになつて日々を迎へた。
 櫻の枝頭にはちらほら花を見かける季節なのに都會の空は暗鬱な雲に閉ざされてゐた。二三日|霙《みぞれ》まじりの冷たい雨が降つたり小遏《こや》んだりしてゐたが、さうした或る朝寢床を出て見ると、一夜のうちに春先の重い雪は家のまはりを隈《くま》なく埋めてゐた。午《ひる》時分には陽に溶けた屋根の雪が窓庇《まどびさし》を掠めてドツツツと地上に滑り落ちた。
「あつ、あぶない!」
と圭一郎は、慄然《りつぜん》と身顫ひして兩手で机を押さへて立ち上つた。故郷の家の傾斜の急な高い茅葺《かやぶき》屋根から、三尺餘も積んだ雪のかたまりがドーツと轟然《ぐわうぜん》とした地響を立てて頽《なだ》れ落ちる物恐ろしい光景が、そして子供が下敷になつた怖ろしい幻影に取つちめられて、無意識に叫び聲をあげた。
「どうなすつたの?」
 千登世はびつくりして隣室から顏を覗けた。
 圭一郎は巧に出たら目な言ひわけをして其場を凌《しの》いだが、さすがに眼色はひどく狼狽《あわ》てた。彼は、その日は終日性急な軒の雪溶けの雨垂の音に混つて共同門の横手の宏莊な屋敷から泄《も》れて來るラヂオのニュースや天氣豫報の放送にも、氣遣はしい郷國の消息を知らうと焦心して耳を澄ました。
 夜分など机に凭《よ》つてゐるとへん[#「へん」に傍点]に息切れを覺え、それに頭の中がぱり/\と板氷でも張るやうに冷えるので、圭一郎は夕食後は直ぐ蒲團の中に腹匍《はらば》ひになつて讀むともなく古雜誌などに眼を晒《さら》した。千登世が針の手をおく迄は眠つてはならないと思つても、體の疲れと氣疲れとで忽ち組んだ腕の中に顏を埋めてうと/\とまどろむのであつた。……「敏ちやん!」と狂氣のやうに叫んだと思ふと眼が醒めた。その時は夜は隨分更けてゐたが千登世はまだせつせと針を運んでゐたので、魘《うな》される圭一郎をゆすぶり醒ましてくれた。
「夢をごらんなすつたのね」
「あゝ、怕《おそ》ろしい夢を見た……」
 確かに「敏ちやん」と子供の名前を大聲で呼んだのだが、千登世には、それだと判らなかつたらしい。平素彼は彼女の前で噫《おくび》にも出したことのない子供の名を假令《たとひ》夢であるにしても呼んだとしたら、彼女はどんなに苦しみ出したかしれなかつた。彼は息を吐《つ》いて安堵の胸を撫でた。圭一郎は夢の中で子供に會ひに故郷に歸つたのだ。宵闇にまぎれて村へ這入り閉まつてる吾家の平氏門を乘り越えて父と母とを屋外に呼び出した。が、親達は子供との會見をゆるしてくれない。會はしたところで又直ぐ別れなければならないのなら、お互にこんな罪の深いことはないのだからと言ふ。折角子供見たさの一念から遙々歸つて來たのだから、一眼でも、せめて遠眼にでも會はしてほしいと縁側で押問答をしてゐると、「父ちやん」と筒袖のあぶ/\の寢卷を着た子供が納戸《なんど》の方から走つて現れた。
「おゝ、敏ちやん!」と聲の限り叫んで子供に飛びかからうとした時、千登世にゆすぶられてはつ[#「はつ」に傍点]と眼が醒めた。
「どんな夢でしたの?」と千登世は訊いた。
 圭一郎は曖昧《あいまい》に答へを逸《そら》して、いい加減に胡麻化した。
 若し夢の中で妻の名でも呼んだら大へんだといふ懸念に襲はれ、その夜からは、寢に就く時は恟々《びく/\》して手を胸の上に持つて行かないやうに用心した。僅かに眠る間にのみ辛じて冀《こひねが》ひ得らるる一切の忘却――それだのに圭一郎の頭は疲れた神經の疾患から冴え切つて、近所の鷄の鳴く時分までうつら/\と細目を繁叩《しばたゝ》きつゞけて寢付けないやうな不眠の夜が幾日もつゞいた。
 一ケ月の日が經つた。ある温暖《あたゝか》い五月雨《さみだれ》のじと/\降る日の暮方、彼が社から歸つて傘をすぼめて共同門を潜ると、最近向うから折れて出て仲直りした煎餅屋の内儀《かみ》さんが窓際で千登世と立話をしてゐたが、石段を降りると圭一郎の姿を見つけるなり千登世に急ぎ暇乞《いとまごひ》して、つか/\と彼の方へ走つて來て、ちよつと眼くばせするといきなり突き當るやうにして一通の手紙を渡してくれた。圭一郎は千登世の目を偸《ぬす》んで開いて見ると、まだ到底全治とは行かなくとも兎に角に無理して子供が小學校へあがつたといふ分家の伯父からの報知だつた。圭一郎は抑へられてゐた壓石《おもし》から摩脱《すりぬ》けられたやうな、活き返つた喜びを感じた。
 軈《やが》て何喰はぬとりすました顏をして夕餉《ゆふげ》の食卓に向つた。彼は箸を執つたが、千登世はむつちりと默りこくつて凝乎《じつ》と俯向《うつむ》いて膝のあたりを見詰めてゐた。彼は險惡な沈默の壓迫に堪へきれなくて、
「どうしたの?」と、自分の方から投げ出して訊いた。
「あなた、先刻《さつき》、内儀さんに何を貰ひました?」と、彼女はかしらをあげたが眼は意地くねて惡く光つてゐた。
「何にも貰やしない」
 千登世は冷靜を保つて、「さう、さうでしたの」と嗄《しやが》れた聲で言つた。圭一郎を信じようとする彼女の焦躁があり/\と面に溢れたが、しかし彼女は到底我慢がしきれなかつた。睫毛《まつげ》一ぱいに濡らした涙の珠が頻《しき》りに頬を傳つて流れた。
 圭一郎は迚も包み隱せなかつた。
「さうでせう。だつたら何故かくすんです。何故そんなにかくしだてなさるんです。お見せなさい」
 仕方なく圭一郎は懷《ふところ》から取出して彼女に渡した。彼女は卷紙持つ手をぶる/\顫はし乍ら、息を引くやうにして眼を走らせた。
「ほんたうにすまないわ!」と千登世は聲を絞つて言ふなり、袂を顏に持つて行つて疊の上に突つ伏した。肩先が波のやうに激しくゆらいだ。
「ね、あなた、あなたはお國へお歸りなさいな。わたしのことなどもうお諦めなすつて、お國へ歸つて行つて下さい。わたし、ほんたうに、お父さまにもお子さんにもすまないから……」
 泣き腫れて充血した氣味惡い白眼を据ゑた顏をあげて彼女にさう言はれると、圭一郎は生きてゐたくないやうな胸苦しさを覺えた。が、威嚇《おど》したり、賺《すか》したりして、どうにかして彼女の機嫌を直し氣を變へさせようと焦りながらも、鞄を肩に掛け、草履袋《ざうりぶくろ》を提げ、白い繃帶の鉢卷した頭に兵隊帽を阿彌陀《あみだ》に冠つた子供の傷々《いた/\》しい通學姿が眼の前に浮かんで來ると、手古摺らす彼女からは自然と手を引いてひそかに圭一郎は涙を呑むのであつた。
 圭一郎の心は、子供の心配が後から/\と間斷なく念頭に附き纒うて、片時も休まらなかつた。
 子供は低腦な圭一郎に似て極端に數理の頭腦に惠まれなかつた。同年の近所の馬車屋の娘つこでさへも二十までの加減算は達者に呑み込んでゐるのに、彼の子供は見かけは悧巧さうに見える癖に十迄の數さへおぼつかなかつた。圭一郎は悍《たけ》り立つて毎日の日課にして子供に數を教へた。
「一二三四五六七、さあかずへてごらん」といふと「一二三五七」とやる。幾度繰り返しても繰り返しても無駄骨だつた。子供はたうとう泣き出す。彼は子供を一思ひに刺し殺して自分も死んでしまひたかつた。小學時代教師が黒板に即題を出して正解《とけ》た生徒から順次教室を出すのであつたが、運動場からは陣取りや鬼ごつこの嬉戲の聲が聞えて來るのに圭一郎だけは一人教室へ殘らなければならなかつた。彼の家と仲違《なかたがへ》してゐる親類の子が大勢の生徒を誘つて來てガラス窓に顏を押當てて中を覗きながらクツ/\とせゝら笑ふ。負け惜しみの強い彼はどんなに恥悲しんだことか。さうした記憶がよみがへると、このたはけもの奴! と圭一郎は手をあげて子供を撲《ぶ》ちはしたものの、悲鳴をあげる子供と一緒に自分も半分貰ひ泣いてゐるのであつた。また子供はチビの圭一郎の因果が宿つて並外れて脊丈が低かつた。子供が學校で屹度《きつと》一番のびりつこであることに疑ひの餘地はない。圭一郎は誰よりも脊丈が低く、その上に運わるく奇數になつて二人並びの机に一人になり、組合せの遊戲の時間など列を逃げさせられて、無念にも一人ポプラの木の下にしよんぼりと指を銜《くは》へて立つてゐなければならなかつた。それにも増して悲しかつたのは遠足の時である。二列に並んだ他の生徒達のやうに互に手と手を繋《つな》いで怡《たの》しく語り合ふことは出來ず、辨當袋を背負つて彼は獨りちよこ[#「ちよこ」に傍点]/\と列の尻つぽに小走り乍ら跟《つ》いて行く味氣なさはなかつた。斯うしたことが、痛み易い少年期に於いて圭一郎をどれほど萎縮《いぢ》けさしたことかしれない――圭一郎は、一日に一回は、必ずさうした自分の過ぎ去つた遠い小學時代に刻みつけられた思ひ換へのない哀しい回想を微細に捕へて、それをそつくり子供の身の上に新に移し當て嵌《は》めては心を痛めた。と又教師は新入生に向つてメンタルテストをやるだらう。「××さんのお父さんは何してゐます?」「はい。田を作つて居られます」「××さんのは?」「はい。大工であります」「大江さんのお父さんは?」と訊かれて、子供はビツクリ人形のやうに立つには立つたが、さて、何んと答へるだらう? 「大江君の父ちやんは女を心安うして逃げたんだい。ヤーイ/\」と惡太郎にからかはれて、子供はわつと泣き出し、顏に手を當てて校門を飛び出し、吾家の方へ向つて逸散に駈け出す姿が眼に見えるやうだつた。子供ごころの悲しさに、そんな情ない惡口を言つてくれるなと、惡太郎共に紙や色鉛筆の賄賂《わいろ》を使うて阿諛《へつら》ふやうな不憫《ふびん》な眞似もするだらうがなどと子供の上に必定《ひつじやう》起らずにはすまされない種々の場合の悲劇を想像して、圭一郎は身を灼《や》かれるやうな思ひをした。

「あなた、奧さんは別として、お子さんにだけは幾ら何んでも執着がおありでせう?」
 千登世は時偶《ときたま》だしぬけに訊いた。
「ところがない」
「さうでせうか」彼女は彼の顏色を試すやうに見詰めると、下唇を噛んだまゝ微塵動《みじろぎ》もしないで考へ込んだ。「だけど、何んと仰言《おつしや》つても親子ですもの。口先ではそんな冷たいことを仰云つてもお腹の中はさうぢやないと思ひますわ。今に屹度、お子さんが大きくなられたらあなたを訪ねていらつしやるでせうが、わたし其時はどうしようかしら……」
 千登世は思ひ餘つて度々|制《おさ》へきれない嗟《なげ》きを泄《も》らした。と忽ち、幾年の後に成人した子供が訪ねて來る日のことが思はれた。自分のいかめしい監視を逸《のが》れた子供は家ぢゆうのものに甘やかされて放縱そのもので育ち、今に家産も蕩盡し、手に負へない惡漢となつて諸所を漂泊した末、父親を探して來るのではあるまいか。額の隱れるほど髮を伸ばし、薄汚い髯を伸ばし、ボロ/\の外套を羽織り、赤い帶で腰の上へ留めた足首のところがすり切れた一雙のズボンの衣匣《かくし》に兩手を突つ込んだやうな異樣な扮裝でひよつこり玄關先に立たれたら、圭一郎は奈何《どう》しよう。まさか、父親の圭一郎を投げ倒して猿轡《さるぐつわ》をかませ、眼球が飛び出すほど喉吭《のどぶえ》を締めつけるやうなことはしもしないだらうが。彼は氣が銷沈した。
 圭一郎は子供にきつくて優し味に缺けた日のことを端無くも思ひ返さないではゐられなかつた。彼は一面では全く子供と敵對の状態でもあつた。幼少の時から偏頗《へんぱ》な母の愛情の下に育ち不可思議な呪ひの中に互に憎み合つて來た、さうした母性愛を知らない圭一郎が丁年にも達しない時分に二歳年上の妻と有無なく結婚したのは、ただ/\可愛がられたい、優しくして貰ひたいの止み難い求愛の一念からだつた。妻は、豫期通り彼を嬰兒《えいじ》のやうに庇《かば》ひ劬《いた》はつてくれたのだが、しかし、子供が此世に現れて來て妻の腕に抱かれて愛撫されるのを見た時、自分への寵《ちよう》は根こそぎ子供に奪ひ去られたことを知り、彼の寂しさは較ぶるものがなかつた。圭一郎は恚《いか》つて、この侵入者をそつと毒殺してしまはうとまで思ひ詰めたことも一度や二度ではなかつた。
 ――圭一郎が離れ部屋で長い毛絲の針を動かして編物をしてゐる妻の傍に寢ころんで樂しく語り合つてゐると、折からとん/\と廊下を走る音がして子供が遣つて來るのであつた。「母ちやん、何してゐた?」と立ちどまつて詰めるやうに妻を見上げると、持つてゐた枇杷《びは》の實を投げ棄てて、行きなり妻の膝の上にどつかと馬乘りに飛び乘り、そして、きちんとちがへてあつた襟をぐつと開き、毬栗頭《いがぐりあたま》を妻の柔かい胸肌に押しつけて乳房に喰ひついた。さも渇してゐたかの如く、ちやうど犢《こうし》が親牛の乳を貪《むさぼ》る時のやうな亂暴な恰好をしてごく/\と咽喉を鳴らして美味《うま》さうに飮むのだつた。見てゐた彼は妬《ねた》ましさに見震ひした。
「乳はもう飮ますな、お前が痩せるのが眼に立つて見える」
「下《した》がをらんと如何《どう》しても飮まないではきゝません」
「莫迦《ばか》言へ、飮ますから飮むのだ。唐辛しでも乳房へなすりつけて置いてやれ」
「敏ちやん、もうお止しなさんせ、おしまひにしないと父ちやんに叱られる」
 子供はちよいと乳房をはなし、ぢろりと敵意のこもつた斜視を向けて圭一郎を見たが、妻と顏見合せてにつたり笑ひ合ふと又乳房に吸ひついた。目鼻立ちは自分に瓜二つでも、心のうちの卑しさを直ぐに見せるやうな、僞りの多い笑顏だけは妻にそつくりだつた。
「飮ますなと言つたら飮ますな! 一言いつたらそれで諾《き》け!」
 妻は思はず兩手で持つて子供の頭をぐいと向うに突き退けたほど自分の劍幕はひどかつた。子供は眞赤に怒つて妻の胸のあたりを無茶苦茶に掻き※[#「※」は「てへん+劣」、第3水準1-84-77、175-上7]《むし》つた。圭一郎はかつと逆上《のぼ》せてあばれる子供を遮二無二おつ取つて地べたの上におつぽり出した。
「父ちやんの馬鹿やい、のらくらもの」
「生意氣言ふな」
 彼は机の上の燐寸《マッチ》の箱を子供|目蒐《めが》けて投げつけた。子供も負けん氣になつて自分目蒐けて投げ返した。彼は又投げた。子供も又やり返すと、今度は素早く背を向けて駈け出した。矢庭に圭一郎は庭に飛び下りた。徒跣《はだし》のまゝ追つ駈けて行つて閉まつた枝折戸《しをりど》で行き詰まつた子供を、既事《すんでのこと》で引き捉へようとした途端、妻は身を躍らして自分を抱き留めた。
「何を亂暴なことなさいます! 五つ六つの頑是ない子供相手に!」妻は子供を逸速く抱きかかへると激昂のあまり鼻血をたら/\流してゐる圭一郎を介《かま》ひもせず續けた。「何をまあ、あなたといふ人は、子供にまで悋氣《りんき》をやいて。いゝから幾らでもこんな亂暴をなさい。今にだん/\感情がこじれて來て、たうとうあなたとお母さんとのやうな取返しのつかない睨み合ひの親子になつてしまふから……ね、敏ちやん、泣かんでもいゝ。母さんだけは、母さんだけは、お前を何時迄も何時迄も可愛がつて上げるから、碌でなしの父ちやんなんか何處かへ行つて一生歸つて來んけりやいゝ」
 このやうな憶ひ出も身につまされて哀しく、圭一郎は子供に苛酷だつたいろ/\の場合の過去が如實に心に思ひ返されて、彼は醜い自分といふものが身の置きどころもない程不快だつた。一度根に持つた感情が、それは決して歳月の流れに流されて子供の腦裏から消え去るものとは考へられない。甘んじて報いをうけなければならぬ避けがたい子供の復讐をも彼は覺悟しないわけにはいかなかつた。
 圭一郎は息詰るやうな激しい後悔と恐怖とを新にして魂をゆすぶられるのであつた。そして捕捉しがたい底知れない不安が、どうなることであらう自分達の將來に、また頼りない二人の老い先にまで、染々《しみ/″\》と思ひ及ぼされた。
 同じ思ひは千登世には殊に深かつた。
「わたし達も子供が欲しいわ。ね、お願ひですからあんな不自然なことは止して下さいな」
「…………」
「手足の自由のきく若い間はそれでもいゝけれど、年寄つてから、あなた、どうなさるおつもり? 縋《すが》らう子供のない老い先のことを少しは考へて見て下さい。ほんたうにこんな慘めなこつたらありやしませんよ。とりわけ私達は斯うなつてみれば誰一人として親身のもののない身の上ぢやありませんか。わたし思ふとぞつとするわ」
 千登世は仕上の縫物に火熨斗《ひのし》をかける手を休めて、目顏を嶮しくして圭一郎を詰《なじ》つたが、直ぐ心細さうに萎《しを》れた語氣で言葉を繼いだ。
「でもね、假令《たとへ》、子供が出來たとしても、戸籍のことはどうしたらいゝでせう。わたし、自分の可愛い子供に私生兒なんていふ暗い運命は荷なはせたくないの。それこそ死ぬより辛いことですわ」
 圭一郎は急所をぐつと衝かれ、切なさが胸に悶えて返す言葉に窮した。Y町で二人の戀愛が默つた悲しみの間に萌《きざ》し、やがて拔き差しのならなくなつた時、千登世は、圭一郎が正式に妻と別れる日迄幾年でも待ち續けると言つたのだが、彼は一剋《いつこく》に背水の陣を敷いての上で故郷に鬪ひを挑むからと其場限りの僞りの策略で言葉巧みに彼女を籠絡《ろうらく》した。もちろん圭一郎は千登世を正妻に据ゑるため妻を離縁するなどといふ沒義道《もぎだう》な交渉を渡り合ふ意は毛頭なかつた。偶然か、時に意識的に彼女が觸れようとするY町での堅い約束には手蓋を蔽うて有耶《うや》無耶に葬り去らうとした。ばかりでなく圭一郎は、縱令《よし》、都大路の塵芥箱《ごみばこ》の蓋を一つ/\開けて一粒の飯を拾ひ歩くやうな、うらぶれ果てた生活に面しようと、それは若い間の少時《しばらく》のことで、結局は故郷があり、老いては恃《たの》む子供のあることが何よりの力であり、その羸弱《ひよわ》い子供を妻が温順《おとな》しくして大切に看取り育ててくれさへすればと、妻の心の和平が絶えず祷《いの》られるのだつた。斯うした胸の底の暗い祕密を覗かれる度に、われと不實に思ひ當る度に、彼は愕然として身を縮め、地面に平伏《ひれふ》すやうにして眼瞼を緊めた。うまうまと自分の陋劣《ろうれつ》な術數《たくらみ》に瞞《だま》された不幸な彼女の顏が眞正面に見戍《みまも》つてゐられなかつた。
 圭一郎は、自分に死別した後の千登世の老後を想ふと、篩落《ふるひおと》したくも落せない際限のない哀愁に浸るのだつた。社への往復に電車の窓から見まいとしても眼に這入る小石川橋の袂で、寒空に袷《あはせ》一枚で乳母車を露店にして黄塵を浴びながら大福餅を燒いて客を待つ脊髓の跼《かゞま》つた婆さんを、皺だらけの顏を鏝塗《こてぬ》りに艶裝《めか》しこんで、船頭や、車引や、オワイ屋さんにまで愛嬌をふりまいて其日々々の渡世を凌《しの》ぐらしい婆さんの境涯を、彼は幾度千登世の運命に擬しては身の毛を彌立《よだ》てたことだらう。彼は彼女の先々に涯知れず展《ひろ》がるかもしれない、さびしく此土地に過ごされる不安を愚しく取越して、激しい動搖の沈まらない現在を、何うにも拭ひ去れなかつた。
 圭一郎は電車の中などで水鼻洟《みづばな》を啜つてゐる生氣の衰へ切つて萎びた老婆と向ひ合はすと、身内を疼《うづ》く痛みと同時に焚くが如き憤怒さへ覺えて顏を顰《しか》めて席を立ち、急ぎ隅つこの方へ逃げ隱れるのであつた。
 陽春の訪れと共に狹隘《せゝつこま》しい崖の下も遽《にはか》に活氣づいて來た。大きな斑猫《ぶちねこ》はのそ/\歩き廻つた。澁紙色をした裏の菊作りの爺さんは菊の苗の手入れや施肥に餘念がなかつた。怠けものの配偶《つれあひ》の肥つた婆さんは、これは朝から晩まで鞣革《なめしがは》をコツ/\と小槌で叩いて琴の爪袋を内職に拵《こしら》へてゐる北隣の口達者な婆さんの家の縁先へ扇骨木《かなめ》の生籬《いけがき》をくゞつて來て、麗かな春日をぽか/\と浴び乍ら、信州訛で、やれ福助が、やれ菊五郎が、などと役者の聲色《こわいろ》や身振りを眞似て、賑かな芝居の話しで持切りだつた。何を生業に暮らしてゐるのか周圍の人達にはさつぱり分らない、口數少く控へ目勝な彼等の棲家へ、折々、大屋の醫者の未亡人の一徹な老婢があたり憚《はゞか》らぬ無遠慮な權柄《けんぺい》づくな聲で縫物の催促に呶鳴り込んで來ると、裏の婆さん達は申し合せたやうにぱつたり彈んだ話しを止め、そして聲を潜めて何かこそ/\と囁き合ふのであつた。
 天氣の好い日には崖上から眠りを誘ふやうな物賣りの聲が長閑《のどか》に聞えて來た。「草花や、草花や」が、「ナスの苗、キウリの苗、ヒメユリの苗」といふ聲に變つたかと思ふと瞬《またゝ》く間に、「ドジヨウはよござい、ドジヨウ」に變り、軈《やが》て初夏の新緑をこめた輝かしい爽かな空氣の波が漂うて來て、金魚賣りの聲がそちこちの路地から聞えて來た。その聲を耳にするのも悲しみの一つだ。故郷の村落を縫うてゆるやかに流れる椹野川《ふしのがは》の川畔の草土手に添つて曲り迂《くね》つた白つぽい往還に現れた、H縣の方から山を越えて遣つて來る菅笠を冠つた金魚賣りの、天秤棒《てんびんぼう》を撓《しな》はせながら「金魚ヨーイ、鯉の子……鯉の子、金魚ヨイ」といふ觸れの聲がうら淋しい諧調を奏でて聞えると、村ぢゆうの子供の小さな心臟は躍るのだつた。學校から歸るなり無理強ひにさせられる算術の復習の憶えが惡くて勝ち氣な氣性の妻に叱りつけられた愁ひ顏の子供の、「父ちやん、金魚買うてくれんかよ」といふ可憐な聲が、忍びやかな小さな足音が、三百餘里を距たつたこの崖下の家の窓に聞えるやうな氣がするのであつた。
 いつか梅雨期の蒸々した鬱陶しい日が來た。霧のやうな小雨がじめ/\と時雨《しぐ》れると、何處からともなく蛙のコロ/\と咽喉を鳴らす聲が聞えて來ると、忽然、圭一郎の眼には、都會の一隅のこの崖下の一帶が山間に折り重つた故郷の山村の周圍の青緑にとりかこまれた、賑かな蛙鳴きの群がる蒼い水田と變じるのであつた。さうして今頃は田舍は田植の最中であることが思はれた。昔日の激しい勞働を寄る年波と共に今は止してゐても、父の身神には安息の日は終《つ》ひに見舞はないのである。何十年といふ長い年月の間、雨の日も風の日も、烈しい耕作を助けて父と辛苦艱難を共にして來た、今は薄日も漏れない暗い納屋の中に寢そべつて徒《いたづ》らに死を待つやうにして餘生を送つてゐる老年の運命にも、圭一郎は不愍《ふびん》な思ひを寄せた。
 鼠色のきたない雨漏りの條《すぢ》のいくつもついてゐる部屋の壁には、去年の大晦日《おほみそか》の晩に一高前の古本屋で買ひ求めた、ラファエル前派の代表作者バアーンジョンの「音樂」が深い埃を被て緑色の長紐で掛けてあつた。正面の石垣に遮られる太陽が一日に一回明り窓からぎら/\と射し込んだ。そして、額縁に嵌《は》められた版畫の中の、薔薇色の美しい夕映えに染められた湖水や小山や城に臨んだ古風な室でヴァイオリンを靜かに奏でてゐる二人の尼僧を、黒衣の尼さんと、それから裾を引きずる緋の襠《うち》かけを纒うた尼さんの衣を滴《したゝ》る燦《あざや》かな眞紅に燃え立たせた。圭一郎は溢れるやうな醉ひ心地でその版畫を恍惚と眺めて呼吸をはずませ倚《よ》り縋《すが》るやうにして獲がたい慰めを願ひ求めた。現世の醜惡を外に人生よりも尊い蠱惑《こわく》の藝術に充足の愛をさゝげて一すぢに信を獲る優れた悦びに心を驅つて見ても、明日に、前途に、待望むべき何《ど》れ程の光明と安住とがあるだらう? とどのつまり、身に絡《から》まる斷念の思ひは圭一郎の生涯を通じて吹き荒むことであらうとのみ想はれた。
 ……………………
(昭和三年)[#地から1字上げ]



底本:「日本文學全集34 梶井基次郎・嘉村礒多・中島敦集」新潮社
   1962(昭和37)年4月20日発行
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年3月9日公開
青空文庫作成ファイル:
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