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湯島の境内
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)冴《さ》返る

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)早瀬|主税《ちから》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、212-3]
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     湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)

※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、212-3]冴《さ》返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使《こわいろつかい》、両名、登場。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、212-5]上野の鐘の音《ね》も氷る細き流れの幾曲《いくまがり》、すえは田川に入谷村《いりやむら》、
その仮声使、料理屋の門《かど》に立ち随意に仮色を使って帰る。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、212-7]廓《くるわ》へ近き畦道《あぜみち》も、右か左か白妙《しろたえ》に、
この間に早瀬|主税《ちから》、お蔦《つた》とともに仮色使と行逢《ゆきあ》いつつ、登場。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、212-9]往来《ゆきき》のなきを幸《さいわい》に、人目を忍び彳《たたず》みて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留《たちどま》る。
お蔦 貴方《あなた》……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭《いや》だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇《やみ》だ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体《からだ》ですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。……初手《しょて》から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が楽《たのし》みよ。月も雪もありゃしません。(四辺《あたり》を※[#「目へん+句」、第4水準2-81-91、213-8]《みまわ》す)ちょいとお花見をして行《ゆ》きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
※ [#「歌記号」、面区点番号1-3-28、213-10]慥《たしか》にここと見覚えの門の扉《とぼそ》に立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、213-13]風に鳴子《なるこ》の音高く、
時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射《さ》すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可《い》い。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情《なさけ》が貴方に乗憑《のりうつ》ったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日お午《ひる》過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体《からだ》にはちょうど可《い》い空合いでしたから、貴方の留守に、お母《っか》さんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町《いいだまち》へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命《いのち》がけの願《ねがい》が叶《かな》って、容子《ようす》の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母《っか》さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、偶《たま》には一所に連れて出て下さいまし。夫婦《いっしょ》になると気抜《きぬけ》がして、意地も張《はり》もなくなって、ただ附着《くッつ》いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうお母《っか》さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込《ふさぎこ》んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可《いけ》ないと思って強請《ねだ》ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉《ほ》められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日《きのう》、一昨日《おととい》までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊《すり》の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜《くや》しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱《ふさ》いでいるのはその事でしょう。可《い》いじゃありませんか。蹈《ふ》んだり蹴《け》たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母《っか》さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽《たのし》みにしますから、お世帯向は決《け》して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有《ありがた》い、俺《おい》ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母《っか》さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸《かか》るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇《やみ》にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷《きとう》は身勝手、御不沙汰《ごぶさた》の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴《ぐち》を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年《みどし》で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間《ま》よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可《い》い、ついで、と云っては失礼だが、お前|不忍《しのばず》まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証《ないしょ》々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるが可《い》い。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、他《ほか》の事とは違う、信心ごとを止《よ》しちゃ不可《いけ》ない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 詰《つま》らん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来《でか》した、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶《うっとう》しいからって、貴方が脱いだ外套《がいとう》をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可《い》いわ。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、217-13]気転きかして奥と口。
お蔦 (拍手《かしわで》うつ。)
 天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (行《ゆ》きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐《こわ》いんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷《したや》上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃ褄《つま》を取ってりゃ、鬼が来ても可《い》いけれども、今じゃ按摩《あんま》も可恐《こわ》いんだもの。
早瀬 可《よ》し、大きな目を開《あ》いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行《ゆ》きなよ。
お蔦 あい。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、218-8]互に心合鍵に、
早瀬見送る。――お蔦|行《ゆ》く。――
…………………………
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、218-11]はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳《みちとせ》が、
このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕を拱《こまぬ》きものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気が急《せ》いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋《すが》る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗《のぞ》く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のお傍《そば》はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可《いけ》ません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可《い》い。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町《なかちょう》の角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町《まさごちょう》の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決《け》して決して河野《こうの》なんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々《にこにこ》しつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極《きま》りの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可《よ》かった。……堪忍おしよ。いい児《こ》だねえ。
早瀬 可《い》いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、叱らない?
早瀬 …………
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形《まげがた》よ、円髷《まるまげ》の。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)俺《おれ》の位牌《いはい》でも買や可《い》いのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体《からだ》だ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。――位牌と云うのは俺の位牌だ。――
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くと斉《ひと》しく慌《あわただ》しく両手にて両方の耳を蔽《おお》う。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸《どうき》はどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相《かわいそう》に……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体《からだ》がすくむ。(と忙《せわ》しく)早く聞かして下さいな。(と静《しずか》に云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭《いや》。(烈《はげ》しく再び耳を圧《おさ》う)何を聞くのか知らないけれど、貴下《あなた》この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐《こわ》いよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、……でも、可恐《こわ》いから、目を瞑《ふさ》いで。
早瀬 お蔦。
お蔦 …………
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯《じょうだん》じゃ、――貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落《しゃれ》や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。
※ [#「歌記号」、面区点番号1-3-28、222-15]跡には二人さし合《あい》も、涙|拭《ぬぐ》うて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、
お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前を厭《あ》きはしない。
お蔦 ええ、厭かれて堪《たま》るもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他《ほか》に何も鬱《ふさ》ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪《あやし》まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚《さま》せば俺より前に、台所《だいどころ》でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管《きせる》を支《つ》いて、考えると見ればお菜《かず》の献立、味噌漉《みそこし》で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯《ちゃとう》して、合せる手を見るにつけ、咽喉《のど》を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻《さっき》も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後《うしろ》からだまし打《うち》に、岩か玄翁《げんのう》でその身体《からだ》を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思《おもい》をするんだもの、よくせきな事だと断念《あきら》めて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなに拗《す》ねられては、俺は活《い》きてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭《いや》なの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命《いのち》は惜《おし》くはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏《かみほとけ》を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折《くずお》れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然《ぼうぜん》とす。)
早瀬 己《おれ》は死ぬにも死なれない。(身を悶《もだ》ゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋《すが》る。)
※ [#「歌記号」、面区点番号1-3-28、224-10]一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣《なき》の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐《しずか》にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂《たもと》を控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家《かしわや》の奥座敷で、胸に匕首《あいくち》を刺されるような、御意見を被《こうむ》った。小芳《こよし》さんも、蒼《あお》くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死《じに》をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色《けしき》ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命《いのち》を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真《まこと》を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦《こが》れて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体《もったい》ない、意地で先生に楯《たて》を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返《おしかえ》して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍《そば》で聞く俺が極《きま》りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、婦《おんな》を棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際《じんみらいざい》、俺は何とも、他《ほか》に言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確《たしか》に誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分《ききわ》けてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋《すが》って、顔を見合わす。)
※ [#「歌記号」、面区点番号1-3-28、226-18]見る度ごとに面痩《おもや》せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子《かね》がある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取ると斉《ひと》しく)手切れかい、失礼な、(と擲《なげう》たんとして、腕の萎《な》えたる状《さま》)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形《まげがた》の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄《うっちゃ》って行きたいけれど、それでは拗《す》ねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体《じってい》に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜《きゅうり》も出るし、お前さんの好きなお香々《こうこう》をおいしくして食べさせて誉《ほ》められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴《ぐち》らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷《ねびえ》をしては不可《いけ》ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟《つぼみ》を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣《や》って下さいな……それから。
早瀬 (うつむいて頷《うなず》いてのみいる、堪《たま》りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落《しゃれ》に。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊《すり》の同類だ、あいずりだと、新聞で囃《はや》されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻《も》ぬけて、静岡へ駈落《かけおち》だ。少し考えた事もあるし、当分|引込《ひっこ》んでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急《せ》いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹《いとこ》が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可《よ》うござんす。小児《こども》の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返《いちょうがえ》しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌《しゃく》さんの桃割《ももわれ》なんか、お世辞にも誉《ほ》められました。めの字のかみさんが幸い髪結《かみゆい》をしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手《すきて》に使ってもらいますわ。
早瀬 すき手にかい。
お蔦 ええ、修業をして。……貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪を結《ゆ》ましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪に姉《あね》さんかぶりす)円髷《まるまげ》に結《い》って見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。
早瀬 (そのかぶりものを、引手繰《ひったぐ》ってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。
お蔦 (外套を羽織らせながら)あの……今夜は内へ帰っても可《い》いの。
早瀬 よく、肯分《ききわ》けた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。
お蔦 ええ、そうよ。……じゃ、もう一度、雀に餌《えさ》が遣れるのね、よく馴染《なじ》んで、※[#「木+靈」、第3水準1-86-29、229-10]子窓《れんじまど》の中まで来て、可愛いッたらないんですもの。……これまで別れるのは辛かったわ。
早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘《わがまま》を云っておくれ。
お蔦 (猶予《ためら》いつつ)手を曳《ひ》いて。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、229-14]いえど此方《こなた》は水鳥の浮寝の床の水離れ、よしあし原をたちかぬれば、
この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さて行《ゆ》かんとして、お蔦|衝《つ》と一方に身を離す。
早瀬 どこへ行く。
お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行《ある》いてみますわ。
早瀬 (頷《うなず》く。舞台を左右へ。)
お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、駈《か》けつけて下さいよ。
早瀬 (頷く。)
お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体《からだ》を裂いて分れるような。
早瀬 (頷く。)
お蔦しおしおと行《ゆ》きかかり、胸のいたみをおさえて立留《たちど》る、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。
※ [#「歌記号」、面区点番号1-3-28、230-10]実《げ》に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る……
幕外へ。
※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28、230-12]思いぞ残しける。
男は足早に、女は静《しずか》に。
――幕――[#地より2字上げ]
大正三(一九一四)年十月[#地より1字上げ]



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年7月刊行開始
※底本では、※[#「歌記号」、面区点番号1-3-28]からはじまる「唄」は2字下げ、「ト書き」は1字下げの組み。
※底本では、セリフ中で次の行に掛かる場合は行頭から1字下げ。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年2月12日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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