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鐵槌の音
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天《てん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地より5字上げ]明治三十年六月

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)てう/\
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 天《てん》未《いまだ》に闇《くら》し。東方《とうはう》臥龍山《ぐわりうざん》の巓《いたゞき》少《すこ》しく白《しら》みて、旭日《きよくじつ》一帶《いつたい》の紅《こう》を潮《てう》せり。昧爽《まいさう》氣《き》清《きよ》く、神《しん》澄《す》みて、街衢《がいく》縱横《じうわう》の地平線《ちへいせん》、皆《みな》眼眸《がんぼう》の裡《うち》にあり。然《しか》して國主《こくしゆ》が掌中《しやうちう》の民《たみ》十萬《じふまん》、今《いま》はた何《なに》をなしつゝあるか。
 これより旬日《じゆんじつ》の前《まへ》までは、前田《まへだ》加賀守《かがのかみ》治脩公《ちしうこう》、毎朝《まいてう》缺《かゝ》すことなく旭《あさひ》を禮拜《らいはい》なし給《たま》ふに、唯《たゞ》見《み》る寂寞《せきばく》たる墓《はか》の下《した》に、金城《きんじやう》の蒼生《たみ》皆《みな》眠《ねむ》りて、彌望《びばう》、極顧《きよくこ》、活色《くわつしよく》なく、眼《め》の下《した》近《ちか》き鍛冶屋《かぢや》にて、鐵槌《てつつゐ》一打《いちだ》の聲《こゑ》ありしのみ。
 然《しか》るに家業《かげふ》出精《しゆつせい》の故《ゆゑ》を以《もつ》て、これよりさき特《とく》に一個《いつこ》この鍛冶屋《かぢや》を賞《しやう》し給《たま》ひしより、昧爽《まいさう》に於《お》ける市街《しがい》の現象《げんしやう》日《ひ》を追《お》うて趣《おもむき》を變《へん》じ、今日《けふ》此頃《このごろ》に到《いた》りては、鍛冶屋《かぢや》の丁々《てう/\》は謂《い》ふも更《さら》なり、水《みづ》汲上《くみあ》ぐる釣瓶《つるべ》の音《おと》、機《はた》を織《お》る音《おと》、鐘《かね》の聲《こゑ》、神樂《かぐら》の響《ひゞき》、騷然《さうぜん》、雜然《ざつぜん》、業《げふ》に聲《こゑ》ありて默《もく》するは無《な》く、職《しよく》に音《おと》ありて聞《きこ》えざるは無《な》きに到《いた》れり。剩《あまつさ》へ野町《のまち》、野田寺町《のだでらまち》、地黄煎口《ぢくわうぜんぐち》、或《あるひ》は鶴來往來《つるぎわうらい》より、野菜《やさい》を擔荷《にな》ひて百姓《ひやくしやう》の八百物市《やほものいち》に赴《おもむ》く者《もの》、前後疾走《ぜんごしつそう》相望《あひのぞ》みて、氣競《きほひ》の懸聲《かけごゑ》勇《いさ》ましく、御物見下《おものみした》を通《とほ》ること、絡繹《らくえき》として織《お》るが如《ごと》し。
 治脩公《ちしうこう》これを御覽《ごらん》じ、思《おも》はず莞爾《につこ》と、打笑《うちゑ》み給《たま》ふ。時《とき》に炊烟《すゐえん》數千流《すうせんりう》。爾時《そのとき》公《こう》は左右《さいう》を顧《かへり》み、
「見《み》よ我《わ》が黽勉《びんべん》の民《たみ》は他《ひと》よりも命《いのち》長《なが》し。」
[#地より5字上げ]明治三十年六月



底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:米田進
2002年4月24日作成
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