青空文庫アーカイブ

三尺角拾遺
(木精)
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)冷《ひ》えやしませんか

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|點《てん》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「姉」の正字、「※[#第3水準1-85-57]」の「木」に代えて「女」、715-2]《ねえ》さん

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わか/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「あなた、冷《ひ》えやしませんか。」
 お柳《りう》は暗夜《やみ》の中《なか》に悄然《しよんぼり》と立《た》つて、池《いけ》に臨《のぞ》むで、其《そ》の肩《かた》を並《なら》べたのである。工學士《こうがくし》は、井桁《ゐげた》に組《く》んだ材木《ざいもく》の下《した》なる端《はし》へ、窮屈《きうくつ》に腰《こし》を懸《か》けたが、口元《くちもと》に近々《ちか/″\》と吸《す》つた卷煙草《まきたばこ》が燃《も》えて、其《その》若々《わか/\》しい横顏《よこがほ》と帽子《ばうし》の鍔廣《つばびろ》な裏《うら》とを照《て》らした。
 お柳《りう》は男《をとこ》の背《せな》に手《て》をのせて、弱《よわ》いものいひながら遠慮氣《ゑんりよげ》なく、
「あら、しつとりしてるわ、夜露《よつゆ》が酷《ひど》いんだよ。直《ぢか》にそんなものに腰《こし》を掛《か》けて、あなた冷《つめた》いでせう。眞《ほん》とに養生深《やうじやうぶか》い方《かた》が、其《それ》に御病氣《ごびやうき》擧句《あげく》だといふし、惡《わる》いわねえ。」
 と言《い》つて、そつと壓《おさ》へるやうにして、
「何《なん》ともありはしませんか、又《また》ぶり返《かへ》すと不可《いけ》ませんわ、金《きん》さん。」
 其《それ》でも、ものをいはなかつた。
「眞《ほん》とに毒《どく》ですよ、冷《ひ》えると惡《わる》いから立《た》つていらつしやい、立《た》つていらつしやいよ。其《その》方《はう》が増《まし》ですよ。」
 といひかけて、あどけない聲《こゑ》で幽《かすか》に笑《わら》つた。
「ほゝゝゝ、遠《とほ》い處《ところ》を引張《ひつぱ》つて來《き》て、草臥《くたび》れたでせう。濟《す》みませんねえ。あなたも厭《いや》だといふし、其《それ》に私《わたし》も、そりや樣子《やうす》を知《し》つて居《ゐ》て、一所《いつしよ》に苦勞《くらう》をして呉《く》れたからツたつても、※[#「姉」の正字、「※[#第3水準1-85-57]」の「木」に代えて「女」、715-2]《ねえ》さんには極《きまり》が惡《わる》くツて、内《うち》へお連《つ》れ申《まを》すわけには行《ゆ》かないしさ。我儘《わがまゝ》ばかり、お寢《よ》つて在《い》らつしやつたのを、こんな處《ところ》まで連《つ》れて來《き》て置《お》いて、坐《すわ》つてお休《やす》みなさることさへ出來《でき》ないんだよ。」
 お柳《りう》はいひかけて涙《なみだ》ぐんだやうだつたが、しばらくすると、
「さあ、これでもお敷《し》きなさい、些少《ちつと》はたしになりますよ。さあ、」
 擦寄《すりよ》つた氣勢《けはひ》である。
「袖《そで》か、」
「お厭《いや》?」
「そんな事《こと》を、しなくツても可《い》い。」
「可《よ》かあありませんよ、冷《ひ》えるもの。」
「可《い》いよ。」
「あれ、情《じやう》が強《こは》いねえ、さあ、えゝ、ま、痩《や》せてる癖《くせ》に。」と向《むか》うへ突《つ》いた、男《をとこ》の身《み》が浮《う》いた下《した》へ、片袖《かたそで》を敷《し》かせると、まくれた白《しろ》い腕《うで》を、膝《ひざ》に縋《すが》つて、お柳《りう》は吻《ほつ》と呼吸《いき》。
 男《をとこ》はぢつとして動《うご》かず、二人《ふたり》ともしばらく默然《だんまり》。
 やがてお柳《りう》の手《て》がしなやかに曲《まが》つて、男《をとこ》の手《て》に觸《ふ》れると、胸《むね》のあたりに持《も》つて居《ゐ》た卷煙草《まきたばこ》は、心《こゝろ》するともなく、放《はな》れて、婦人《をんな》に渡《わた》つた。
「もう私《わたし》は死《し》ぬ處《ところ》だつたの。又《また》笑《わら》ふでせうけれども、七日《なぬか》ばかり何《なん》にも鹽《しほ》ツ氣《け》のものは頂《いたゞ》かないんですもの、斯《か》うやつてお目《め》に懸《かゝ》りたいと思《おも》つて、煙草《たばこ》も斷《た》つて居《ゐ》たんですよ。何《なん》だつて一旦《いつたん》汚《けが》した身體《からだ》ですから、そりやおつしやらないでも、私《わたし》の方《はう》で氣《き》が怯《ひ》けます。其《それ》にあなたも舊《もと》と違《ちが》つて、今《いま》のやうな御身分《おみぶん》でせう、所詮《しよせん》叶《かな》はないと斷《あきら》めても、斷《あきら》められないもんですから、あなた笑《わら》つちや厭《いや》ですよ。」
 といひ淀《よど》んで一寸《ちよつと》男《をとこ》の顏《かほ》。
「斷《あきら》めのつくやうに、斷《あきら》めさして下《くだ》さいツて、お願《ねが》ひ申《まを》した、あの、お返事《へんじ》を、夜《よ》の目《め》も寢《ね》ないで待《ま》ツてますと、前刻《さつき》下《くだ》すつたのが、あれ……ね。
 深川《ふかがは》の此《こ》の木場《きば》の材木《ざいもく》に葉《は》が繁《しげ》つたら、夫婦《いつしよ》になつて遣《や》るツておつしやつたのね。何《ど》うしたつて出來《でき》さうもないことが出來《でき》たのは、私《わたし》の念《ねん》が屆《とゞ》いたんですよ。あなた、こんなに思《おも》ふもの、其《その》位《くらゐ》なことはありますよ。」
 と猶《なほ》しめやかに、
「ですから、最《も》う大威張《おほゐばり》。其《それ》でなくツてはお聲《こゑ》だつて聞《き》くことの出來《でき》ないので、押懸《おしか》けて行《い》つて、無理《むり》に其《そ》の材木《ざいもく》に葉《は》の繁《しげ》つた處《ところ》をお目《め》に懸《か》けようと思《おも》つて連出《つれだ》して來《き》たんです。
 あなた分《わか》つたでせう、今《いま》あの木挽小屋《こびきごや》の前《まへ》を通《とほ》つて見《み》たでせう。疑《うたが》ふもんぢやありませんよ。人《ひと》の思《おもひ》ですわ、眞暗《まつくら》だから分《わか》らないつてお疑《うたぐ》ンなさるのは、そりや、あなたが邪慳《じやけん》だから、邪慳《じやけん》な方《かた》にや分《わか》りません。」
 又《また》默《だま》つて俯向《うつむ》いた、しばらくすると顏《かほ》を上《あ》げて斜《なゝ》めに卷煙草《まきたばこ》を差寄《さしよ》せて、
「あい。」
「…………」
「さあ、」
「…………」
「邪慳《じやけん》だねえ。」
「…………」
「えゝ!、要《い》らなきや止《よ》せ。」
 といふが疾《はや》いか、ケンドンに投《はふ》り出《だ》した、卷煙草《まきたばこ》の火《ひ》は、ツツツと橢圓形《だゑんけい》に長《なが》く中空《なかぞら》に流星《りうせい》の如《ごと》き尾《を》を引《ひ》いたが、※[#「火+發」、717-14]《ぱつ》と火花《ひばな》が散《ち》つて、蒼《あを》くして黒《くろ》き水《みづ》の上《うへ》へ亂《みだ》れて落《お》ちた。
 屹《きつ》と見《み》て、
「お柳《りう》、」
「え、」
「およそ世《よ》の中《なか》にお前《まへ》位《ぐらゐ》なことを、私《わたし》にするものはない。」
 と重々《おも/\》しく且《か》つ沈《しづ》んだ調子《てうし》で、男《をとこ》は肅然《しゆくぜん》としていつた。
「女房《にようばう》ですから、」
 と立派《りつぱ》に言《い》ひ放《はな》ち、お柳《りう》は忽《たちま》ち震《ふる》ひつくやうに、岸破《がば》と男《をとこ》の膝《ひざ》に頬《ほゝ》をつけたが、消入《きえい》りさうな風采《とりなり》で、
「そして同年紀《おなじとし》だもの。」
 男《をとこ》は其《その》頸《うなじ》を抱《だ》かうとしたが、フト目《め》を反《そ》らす水《みづ》の面《おも》、一|點《てん》の火《ひ》は未《ま》だ消《き》えないで殘《のこ》つて居《ゐ》たので。驚《おどろ》いて、じつと見《み》れば、お柳《りう》が投《な》げた卷煙草《まきたばこ》の其《それ》ではなく、靄《もや》か、霧《きり》か、朦朧《もうろう》とした、灰色《はひいろ》の溜池《ためいけ》に、色《いろ》も稍《やゝ》濃《こ》く、筏《いかだ》が見《み》えて、天窓《あたま》の圓《まる》い小《ちひさ》な形《かたち》が一個《ひとつ》乘《の》つて蹲《しやが》むで居《ゐ》たが、煙管《きせる》を啣《くは》へたらうと思《おも》はれる、火《ひ》の光《ひかり》が、ぽツちり。
 又《また》水《みづ》の上《うへ》を歩行《ある》いて來《き》たものがある。が船《ふね》に居《ゐ》るでもなく、裾《すそ》が水《みづ》について居《ゐ》るでもない。脊《せ》高《たか》く、霧《きり》と同《おんなじ》鼠《ねずみ》の薄《うす》い法衣《ころも》のやうなものを絡《まと》つて、向《むかう》の岸《きし》からひら/\と。
 見《み》る間《ま》に水《みづ》を離《はな》れて、すれ違《ちが》つて、背後《うしろ》なる木納屋《きなや》に立《た》てかけた數《すう》百|本《ぽん》の材木《ざいもく》の中《なか》に消《き》えた、トタンに認《みと》めたのは、緑青《ろくしやう》で塗《ぬ》つたやうな面《おもて》、目《め》の光《ひか》る、口《くち》の尖《とが》つた、手足《てあし》は枯木《かれき》のやうな異人《いじん》であつた。
「お柳《りう》。」と呼《よ》ばうとしたけれども、工學士《こうがくし》は餘《あま》りのことに聲《こゑ》が出《で》なくツて瞳《ひとみ》を据《す》ゑた。
 爾時《そのとき》何事《なにごと》とも知《し》れず仄《ほの》かにあかりがさし、池《いけ》を隔《へだ》てた、堤防《どて》の上《うへ》の、松《まつ》と松《まつ》との間《あひだ》に、すつと立《た》つたのが婦人《をんな》の形《かたち》、ト思《おも》ふと細長《ほそなが》い手《て》を出《だ》し、此方《こなた》の岸《きし》を氣《け》だるげに指招《さしまね》く。
 學士《がくし》が堪《た》まりかねて立《た》たうとする足許《あしもと》に、船《ふね》が横《よこ》ざまに、ひたとついて居《ゐ》た、爪先《つまさき》の乘《の》るほどの處《ところ》にあつたのを、霧《きり》が深《ふか》い所爲《せゐ》で知《し》らなかつたのであらう、單《たゞ》そればかりでない。
 船《ふね》の胴《どう》の室《ま》に嬰兒《あかご》が一人《ひとり》、黄色《きいろ》い裏《うら》をつけた、紅《くれなゐ》の四《よ》ツ身《み》を着《き》たのが辷《すべ》つて、彼《か》の婦人《をんな》の招《まね》くにつれて、船《ふね》ごと引《ひ》きつけらるゝやうに、水《みづ》の上《うへ》をする/\と斜《なゝ》めに行《ゆ》く。
 其《その》道筋《みちすぢ》に、夥《おびたゞ》しく沈《しづ》めたる材木《ざいもく》は、恰《あたか》も手《て》を以《も》て掻《か》き退《の》ける如《ごと》くに、算《さん》を亂《みだ》して颯《さつ》と左右《さいう》に分《わか》れたのである。
 其《それ》が向《むか》う岸《ぎし》へ着《つ》いたと思《おも》ふと、四邊《あたり》また濛々《もう/\》、空《そら》の色《いろ》が少《すこ》し赤味《あかみ》を帶《お》びて、殊《こと》に黒《くろ》ずんだ水面《すゐめん》に、五六|人《にん》の氣勢《けはひ》がする、囁《さゝや》くのが聞《きこ》えた。
「お柳《りう》、」と思《おも》はず抱占《だきし》めた時《とき》は、淺黄《あさぎ》の手絡《てがら》と、雪《ゆき》なす頸《うなじ》が、鮮《あざ》やかに、狹霧《さぎり》の中《なか》に描《ゑが》かれたが、見《み》る/\、色《いろ》があせて、薄《うす》くなつて、ぼんやりして、一體《いつたい》に墨《すみ》のやうになつて、やがて、幻《まぼろし》は手《て》にも留《とま》らず。
 放《はな》して退《すさ》ると、別《べつ》に塀際《へいぎは》に、犇々《ひし/\》と材木《ざいもく》の筋《すぢ》が立《た》つて並《なら》ぶ中《なか》に、朧々《おぼろ/\》とものこそあれ、學士《がくし》は自分《じぶん》の影《かげ》だらうと思《おも》つたが、月《つき》は無《な》し、且《か》つ我《わ》が足《あし》は地《つち》に釘《くぎ》づけになつてるのにも係《かゝは》らず、影法師《かげぼふし》は、薄《うす》くなり、濃《こ》くなり、濃《こ》くなり、薄《うす》くなり、ふら/\動《うご》くから我《われ》にもあらず、
「お柳《りう》、」
 思《おも》はず又《また》、
「お柳《りう》、」
 といつてすた/\と十|間《けん》ばかりあとを追《お》つた。
「待《ま》て。」
 あでやかな顏《かほ》は目前《めさき》に歴々《あり/\》と見《み》えて、ニツと笑《わら》ふ涼《すゞし》い目《め》の、うるんだ露《つゆ》も手《て》に取《と》るばかり、手《て》を取《と》らうする、と何《なん》にもない。掌《たなそこ》に障《さは》つたのは寒《さむ》い旭《あさひ》の光線《くわうせん》で、夜《よ》はほの/″\と明《あ》けたのであつた。
 學士《がくし》は昨夜《さくや》、礫川《こいしかは》なる其《その》邸《やしき》で、確《たしか》に寢床《ねどこ》に入《はひ》つたことを知《し》つて、あとは恰《あたか》も夢《ゆめ》のやう。今《いま》を現《うつゝ》とも覺《おぼ》えず。唯《と》見《み》れば池《いけ》のふちなる濡《ぬ》れ土《つち》を、五六|寸《すん》離《はな》れて立《た》つ霧《きり》の中《なか》に、唱名《しやうみやう》の聲《こゑ》、鈴《りん》の音《おと》、深川木場《ふかがはきば》のお柳《りう》が※[#「姉」の正字、「※[#第3水準1-85-57]」の「木」に代えて「女」、720-15]《あね》の門《かど》に紛《まぎ》れはない。然《しか》も面《おもて》を打《う》つ一脈《いちみやく》の線香《せんかう》の香《にほひ》に、學士《がくし》はハツと我《われ》に返《かへ》つた。何《なに》も彼《か》も忘《わす》れ果《は》てて、狂氣《きやうき》の如《ごと》く、其《その》家《や》を音信《おとづ》れて聞《き》くと、お柳《りう》は丁《ちやう》ど爾時《そのとき》……。あはれ、草木《くさき》も、婦人《をんな》も、靈魂《たましひ》に姿《すがた》があるのか。



底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
   1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
   1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
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