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女客
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)階子段《はしごだん》から

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)瞳|清《すず》しゅう

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(例)目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》り、
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       一

「謹さん、お手紙、」
 と階子段《はしごだん》から声を掛けて、二階の六畳へ上《あが》り切らず、欄干《てすり》に白やかな手をかけて、顔を斜《ななめ》に覗《のぞ》きながら、背後向《うしろむ》きに机に寄った当家の主人《あるじ》に、一枚を齎《もた》らした。
「憚《はばか》り、」
 と身を横に、蔽《おお》うた燈《ともしび》を離れたので、玉《ぎょく》ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出《いだ》された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳《あおやぎ》見るよう、髪も容《かたち》もすっきりした中年増《ちゅうどしま》。
 これはあるじの国許《くにもと》から、五ツになる男の児《こ》を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留《とうりゅう》している、お民といって縁続き、一蒔絵師《あるまきえし》の女房である。
 階下《した》で添乳《そえぢ》をしていたらしい、色はくすんだが艶《つや》のある、藍《あい》と紺、縦縞《たてじま》の南部の袷《あわせ》、黒繻子《くろじゅす》の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く寛《くつろ》いで、昼夜帯の暗いのに、緩く纏《まと》うた、縮緬《ちりめん》の扱帯《しごき》に蒼味《あおみ》のかかったは、月の影のさしたよう。
 燈火《ともしび》に対して、瞳|清《すず》しゅう、鼻筋がすっと通り、口許《くちもと》の緊《しま》った、痩《や》せぎすな、眉のきりりとした風采《とりなり》に、しどけない態度《なり》も目に立たず、繕わぬのが美しい。
「これは憚り、お使い柄|恐入《おそれい》ります。」
 と主人は此方《こなた》に手を伸ばすと、見得もなく、婦人《おんな》は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書《はがき》の用は直ぐに済んだ。
 机の上に差置いて、
「ほんとに御苦労様でした。」
「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶《ごあいさつ》痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」
「憚り様ね。」
「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」
「何ね、」
「貴下《あなた》、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」
 謹さんも莞爾《にっこり》して、
「お話しなさい。」
「難有《ありがと》う、」
「さあ、こちらへ。」
「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」
「早速だ、おやおや。」
「大分丁寧でございましょう。」
「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」
「寝ました。」
「母は?」
「行火《あんか》で、」と云って、肱《ひじ》を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。
「貴女《あなた》にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝《うたたね》をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」
「女中さんは買物に、お汁《みおつけ》の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日《あした》は田舎料理を達引《たてひ》こうと思って、ついでにその分も。」
「じゃ階下《した》は寂《さみ》しいや、お話しなさい。」
 お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫《な》で、軽《かろ》く衣紋《えもん》を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干《てすり》の前なる障子を閉めた。
「ここが開《あ》いていちゃ寒いでしょう。」
「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」
 と火鉢を前へ。
「開《あけ》ッ放しておくからさ。」
「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」
 時に燈に近う来た。瞼《まぶた》に颯《さっ》と薄紅《うすくれない》。

       二

 坐《すわ》ると炭取を引寄せて、火箸《ひばし》を取って俯向《うつむ》いたが、
「お礼に継いで上げましょうね。」
「どうぞ、願います。」
「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気《のんき》ッちゃありやしない。串戯《じょうだん》はよして、謹さん、東京《こっち》は炭が高いんですってね。」
 主人《あるじ》は大胡座《おおあぐら》で、落着澄まし、
「吝《けち》なことをお言いなさんな、お民さん、阿母《おふくろ》は行火《あんか》だというのに、押入には葛籠《つづら》へ入って、まだ蚊帳《かや》があるという騒ぎだ。」
「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」
「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。
 何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷《ひど》い。まだその騒ぎの無い内、当地《こちら》で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間《なかま》と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少《わか》いもの同志だから、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧《よろい》はなくても、夜一夜《よっぴて》、戸外《おもて》を歩行《ある》いていたって、それで事は済みました。
 内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的《あて》はないのに、夜中一時二時までも、友達の許《とこ》へ、苦《くるし》い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母《おっか》さん、蚊が居ますかって聞くんです。
 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」
 主人《あるじ》は火鉢にかざしながら、
「居ますかもないもんだ。
 ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母《おふくろ》には居るだろうと、口惜《くやし》いくらいでね。今に工面してやるから可《い》い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄《むねんこつずい》でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈《はげし》い中に、疲れて、すやすや、……傍《わき》に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪《たま》らなくって泣きました。」
 聞く方が歎息して、
「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」
 顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言《ことば》であった。
「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧《ひょうろう》でしたな。」
「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」
「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様《かげさま》、どうにか蚊帳もありますから。」
「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下《あなた》。」と優しい顔。
「何、私より阿母ですよ。」
「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体《からだ》一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」
 と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を圧《おさ》えたのである。
「私はまた私で、何です、なまじ薄髯《うすひげ》の生えた意気地のない兄哥《あにい》がついているから起って、相応にどうにか遣繰《やりく》って行《ゆ》かれるだろう、と思うから、食物《くいもの》の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜《せがれ》がないものと極《きま》ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。
 やっちまおうかと、日に幾度《いくたび》考えたかね。
 民さんも知っていましょう、あの年は、城の濠《ほり》で、大層|投身者《みなげ》がありました。」
 同一年《おないどし》の、あいやけは、姉さんのような頷《うなず》き方。
「ああ。」

       三

「確か六七人もあったでしょう。」
 お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤《そろばん》を弾《はじ》くように、指を反らして、
「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」
 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。
「じゃ、九人になる処だった。貴女《あなた》の内へ遊びに行《ゆ》くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの濠端《ほりばた》を通ったんですがね、石垣が蒼《あお》く光って、真黒《まっくろ》な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに這《は》いかかって来るように見えるじゃありませんか。
 引込まれては大変だと、早足に歩行《ある》き出すと、何だかうしろから追い駈《か》けるようだから、一心に遁《に》げ出してさ、坂の上で振返ると、凄《すご》いような月で。
 ああ、春の末でした。
 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。
 自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」
「心細いじゃありませんか、ねえ。」
 と寂《さみ》しそうに打傾く、面《おもて》に映って、頸《うなじ》をかけ、黒繻子《くろじゅす》の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外《おもて》は月の冴《さ》えたる気勢《けはい》。カラカラと小刻《こきざみ》に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。
「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。
 じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭《いや》な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行《ある》いて、行過《ゆきす》ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確《たしか》めて見たくてならんのでしたよ。
 危険千万《けんのんせんばん》。
 だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳《かや》なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計《たつき》の代《しろ》という訳で。
 内で熟《じっ》としていたんじゃ、たとい曳《ひ》くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外《おもて》へ出て、足駄|穿《ば》きで駈け歩行《ある》くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上《あが》り框《がまち》へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母《おっか》さん、お米は? ッて聞くんです。」
「お米は? ッてね、謹さん。」
 と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾《にこ》やかに、
「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許《いくら》するか知らなかった。
 皆《みんな》、親のお庇《かげ》だね。
 その阿母《おふくろ》が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。
 翌日《あす》のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」
 と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。
「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐《すわ》りたかった。」
「まあ、貴下《あなた》、大抵じゃなかったのねえ。」
 フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕《かいな》はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。
「謹さん、沸《わか》しましょうかね。」と軽《かろ》くいう。
「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」
「お湯があるかしら。」
 と引っ立てて、蓋《ふた》を取って、燈《あかり》の方に傾けながら、
「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」

       四

「それでもね、」
 とあるじは若々しいものいいで、
「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所《よそ》から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」
「あら、」
 とて清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直《まっすぐ》に当りながら、
「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢《あ》いに来たんじゃありませんか、酷《ひど》いよ、謹さんは。」
 と美しく打怨《うちえん》ずる。
「飛んだ事を、ははは。」
 とあるじも火に翳《かざ》して、
「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」
「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切《おしき》って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲《ほし》いんですよ。」
 あるじは、屹《きっ》と頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「いいえ、よします。」
「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑《うたがい》の色はなく、別に心あって映ったのであった。
「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。
 こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交《まじ》らない方が気楽で可《い》いかも知れません。お民さん、貴女《あなた》がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人《おんな》が居ようより、阿母《おふくろ》と私ばかりの方が、御馳走《ごちそう》は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」
「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生|貴方《あなた》、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体《からだ》じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人《やど》の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下《あなた》を置いて、他《ほか》に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集《たか》って、」
 と婀娜《あだ》に唇の端を上げると、顰《ひそ》めた眉を掠《かす》めて落ちた、鬢《びん》の毛を、焦《じれ》ったそうに、背《うしろ》へ投げて掻上《かきあ》げつつ、
「この髪を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》りたくなるような思いをさせられるに極《きま》ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極《き》めて、伯母さんには内証《ないしょ》ですがね、これでも自分で呆《あき》れるほど、了簡《りょうけん》が据《すわ》っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」
「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可《い》いから知れやしない。」
 と我儘《わがまま》らしく熱心に言った。
 お民は言《ことば》を途切らしつ、鉄瓶はやや音《ね》に出づる。
「謹さん、」
「ええ、」
 お民は唾《つ》をのみ、
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも、まったくですよ。」
「ほんとうに、謹さん。」
「お民さんは、嘘だと思って。」
「じゃもういっそ。」
 と烈《はげ》しく火箸《ひばし》を灰について、
「帰らないでおきましょうか。」

       五

 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言《ことば》の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢《はかな》げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂《さみ》しい笑顔を上げた。
「ほほほほほ、その気で沢山《たんと》御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭《いや》。」
 といううち涙さしぐみぬ。
「謹さん、」
 というも曇り声に、
「も、貴下《あなた》、どうして、そんなに、優《やさし》くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」
「貴女《あなた》でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」
「ええ? 恩人ですって、私が。」
「貴女が、」
「まあ! 誰方《どなた》のねえ?」
「私のですとも。」
「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持《こもち》になったんですもの。碌《ろく》に小袖《こそで》一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切《だいじ》だった、そのお米のなかった時も、煙草《たばこ》も買ってあげないでさ。
 後で聞いて口惜《くやし》くって、今でも怨《うら》んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子《ごようす》でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶《やつ》れてないで、もっと顔色も可《よ》かったもの……」
「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々《いきいき》していたのだって、貴女、貴女の傍《そば》に居る時の他《ほか》に、そうした事を見た事はありますまい。
 私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。
 ねえ。
 先刻《さっき》もいう通り、私の死んでしまった方が阿母《おふくろ》のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。
 実際私は、貴女のために活《い》きていたんだ。
 そして、お民さん。」
 あるじが落着いて静《しずか》にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔《かんばせ》に、湧上《わきのぼ》るごとき血汐《ちしお》の色。
「切迫詰《せっぱつま》って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処《ところ》が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確《たしか》に信仰していたんだね。
 まあ、お民さん許《とこ》で夜更《よふか》しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣《ねまき》のなりで、寒いのも厭《いと》わないで、貴女が自分で送って下さる。
 門《かど》を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗《やみ》の中まで見送ってくれたでしょう。小児《こども》が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。
 私はまた、曲り角で、きっと、密《そっ》と立停《たちど》まって、しばらく経《た》って、カタリと枢《くるる》のおりるのを聞いたんです。
 その、帰り途《みち》に、濠端《ほりばた》を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖《がけ》をはずれる、背後《うしろ》でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確《たしか》に思った。
 ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭《いや》な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇《かげ》で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」
 とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈《ともしび》の前に落涙した。
「お民さん、」
「謹さん、」
 とばかり歯をカチリと、堰《せ》きあえぬ涙を噛《か》み留めつつ、
「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同《おんな》じなんです、謹さん。慾《よく》にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。
 まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行《ある》きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」
 と差俯向《さしうつむ》いた肩が震えた。
 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、串戯《じょうだん》じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲《ゆずる》(小児の名)さんをどうします。」
「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児《こ》を拵《こしら》えました。そんな、そんな児を構うものか。」
 とすねたように鋭くいったが、露を湛《たた》えた花片《はなびら》を、湯気やなぶると、笑《えみ》を湛え、
「ようござんすよ。私はお濠を楽《たのし》みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄《すご》い死神なら可《い》いけれど、大方|鼬《いたち》にでも見えるでしょう。」
 と投げたように、片身を畳に、褄《つま》も乱れて崩折《くずお》れた。
 あるじは、ひたと寄せて、押《おさ》えるように、棄《す》てた女の手を取って、
「お民さん。」
「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
「煩《うるさ》いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
 とはらりと立って、脛《はぎ》白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下《した》へ下りたが、泣き留《や》まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形《なり》で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋《すが》って泣いじゃくる。
 あるじは、きちんと坐《すわ》り直って、
「どうしたの、酷《ひど》く怯《おび》えたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
 と頬《ほお》に顔をかさぬれば、乳《ち》を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母《おっか》さん。」
「ええ、」
 二人は顔を見合わせた。
 あるじは、居寄って顔を覗《のぞ》き、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
 小児《こども》はなお含んだまま、いたいけに捻向《ねじむ》いて、
「ううむ、内じゃないの。お濠《ほり》ン許《とこ》で、長い尻尾で、あの、目が光って、私《わたい》、私を睨《にら》んで、恐《こわ》かったの。」
 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋《うず》めた。
 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
 からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
 と衝《つ》と立ったが、早急《さっきゅう》だったのと、抱いた重量《おもみ》で、裳《もすそ》を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子《だんばしご》。
「謹さん。」
「…………」
「翌朝《あした》のお米は?」
 と艶麗《はでやか》に莞爾《にっこり》して、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
 と下を向いて高く言った。
 その時|襖《ふすま》の開く音がして、
「おそなわりました、御新造様《ごしんぞさま》。」
 お民は答えず、ほと吐息。円髷《まげ》艶《つや》やかに二三段、片頬《かたほ》を見せて、差覗《さしのぞ》いて、
「ここは閉めないで行《ゆ》きますよ。」
[#地から1字上げ]明治三十八(一九〇五)年六月



底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九巻」岩波書店
   1942(昭和17)年3月30日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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