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みさごの鮨
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)旦那《だんな》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)加賀国|山代《やましろ》温泉

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子《れんじ》
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       一

「旦那《だんな》さん、旦那さん。」
 目と鼻の前《さき》に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸《はし》の手をとめた痩形《やせがた》の、年配で――浴衣に貸広袖《かしどてら》を重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
 と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
 客は余り唐突《だしぬけ》なのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠《はたご》でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突《ちょとつ》な質問を受けた事はかつてない。
 ところで決して不味《まず》くはないから、
「ああ、おいしいよ。」
 と言ってまた箸《はし》を付けた。
「そりゃ可《い》い、北国《ほっこく》一だろ。」
 と洒落《しゃれ》でもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
 と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健《じょうぶ》そうで、口許《くちもと》のしまったは可《い》いが、その唇の少し尖《とが》った処が、化損《ばけそこな》った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌《あいきょう》がある。手織縞《ておりじま》のごつごつした布子《ぬのこ》に、よれよれの半襟で、唐縮緬《とうちりめん》の帯を不状《ぶざま》に鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
 これを更《あらた》めて見て客は気がついた。先刻《さっき》も一度その(北国一)を大声で称《とな》えて、裾短《すそみじか》な脛《すね》を太く、臀《しり》を振って、ひょいと踊るように次の室《ま》の入口を隔てた古い金屏風《きんびょうぶ》の陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
 ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野《かのう》の何某《なにがし》在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子《いす》に、楊貴妃《ようきひ》ともたれ合って、笛を吹いている処だから余程《よっぽど》可笑《おか》しい。
 それは次のような場合であった。
 客が、加賀国|山代《やましろ》温泉のこの近江屋《おうみや》へ着いたのは、当日|午《ひる》少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和《やわら》かなちっとも気取《きどり》っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手《もみで》をしながら、御逗留《ごとうりゅう》か、それともちょっと御入浴で、と訊《き》いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈《かが》めつつ畏《かしこま》って、どうぞこれへと、自分で荷物を捌《さば》いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室《ま》が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届《ふゆきとどき》の儀は御容赦下さいまして、まず御緩《ごゆっく》りと……と丁寧に挨拶《あいさつ》をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
 実は小春日《こはるび》の明《あかる》い街道から、衝《つ》と入ったのでは、人顔も容子《ようす》も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯《じゅうたん》の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対《さんぷくつい》も、濃い霧の中に、山が遥《はるか》に、船もあり、朦朧《もうろう》として小さな仙人の影が映《さ》すばかりで、何の景色だか、これは燈《あかり》が点《つ》いても判然《はっきり》分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠《いしどうろう》に、苔《こけ》の真蒼《まっさお》なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯《さっ》と渡る風に静寂な水の響《ひびき》を流す。庭の正面がすぐに切立《きったて》の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿《うね》り蜿り自然の大巌《おおいわ》を削った径《こみち》が通じて、高く梢《こずえ》を上《あが》った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟《かけはし》のように覗《のぞ》かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥《こまどり》の囀《さえず》るような、芸妓《げいしゃ》らしい女の声がしたのであったが――
 入交《いれかわ》って、歯を染めた、陰気な大年増が襖際《ふすまぎわ》へ来て、瓶掛《びんかけ》に炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが件《くだん》の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は可《い》いけれども。……次にまた浴衣に広袖《どてら》をかさねて持って出た婦《おんな》は、と見ると、赭《あか》ら顔で、太々《だいだい》とした乳母《おんば》どんで、大縞のねんね子|半纏《ばんてん》で四つぐらいな男の児《こ》を負《おぶ》ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児《こども》の顔を客の方へ揉出《もみだ》して、それ、小父《おじ》さんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾《ひっかた》げた。
 学士が驚いた――客は京の某大学の仏語《ふつご》の教授で、榊《さかき》三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々《にこにこ》として、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕《あらわ》れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
 昼飯《ひる》の支度は、この乳母《うば》どのに誂《あつら》えて、それから浴室へ下りて一浴《ひとあみ》した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間《まっぴるま》の夜討《ようち》のように働く。……ちょうな、鋸《のこぎり》、鉄鎚《かなづち》の賑《にぎや》かな音。――また遠く離れて、トントントントンと俎《まないた》を打つのが、ひっそりと聞えて谺《こだま》する……と御馳走《ごちそう》に鶫《つぐみ》をたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後《うしろ》から謹んで座敷へ帰ったが、上段の室《ま》の客にはちと不釣合な形に、脇息《きょうそく》を横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを焚《た》いたように赫《かッ》と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟《しょうらい》をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯《ひる》の膳《ぜん》に、一銚子《ひとちょうし》添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上《たちあが》った。
 どこを探しても呼鈴《よびりん》が見当らない。
 二三度手を敲《たた》いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分《だいぶ》に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
 更に応ずるものがなかったのである。
 一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
 何か、茸《きのこ》に酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許《あしもと》へ、衝立《ついたて》の陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々《にこにこ》する。
 どうも、この鼻尖《はなさき》で、ポンポンは穏《おだやか》でない。
 仕方なしに、笑って見せて、悄々《すごすご》と座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
 で、所在なさに、金屏風の前へ畏《かしこま》って、吸子《きゅうす》に銀瓶の湯を注《つ》いで、茶でも一杯と思った時、あの小児《こども》にしてはと思う、大《おおき》な跫足《あしおと》が響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
 どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
 と息を吐《つ》いて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
 と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんな大《でけ》い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
 と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状《つったちざま》に指《ゆびさ》したのは、床の間|傍《わき》の、※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子《れんじ》に据えた黒檀《こくたん》の机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
 と目を円くして、きょろりと視《み》て、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な仕掛《しかけ》だろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
 ――それ、そこで言って、ひょいひょい浮足《うきあし》で出て行《ゆ》く処を、背後《うしろ》から呼んで、一銚子を誂えた。
「可《い》いのを頼むよ。」
 と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
 と振り向いて合点《がってん》々々をして、
「北国一。」
 と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。

       二

「まあ、御飯をかえなさいよ。」
「ああ……御飯もいまかえようが……」
 さて客は、いまので話の口が解《ほど》けたと思うらしい面色《おももち》して、中休みに猪口《ちょく》の酒を一口した。……
「……姐《ねえ》さん、ここの前を右へ出て、大《おおき》な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑《にぎやか》な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家《まちや》の揃った処がある。あれはどこへ行《ゆ》く道だね。」
「それはね、旦那さん、那谷《なや》から片山津《かたやまづ》の方へ行く道だよ。」
「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐油《とうゆ》菅笠屋《すげがさや》の間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う家《うち》だい。」
「白粉《おしろい》や香水も売っていて、鑵詰《かんづめ》だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」
「全くだ、陰気な内だ。」
 と言って客は考えた。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」
 と給仕盆を鞠《まり》のように、とんとんと膝を揺《ゆす》って、
「治兵衛《じへえ》坊主《ぼうず》の家ですだよ。」
「串戯《じょうだん》ではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。」
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で直《じ》きと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。」

 客は、これより前《さき》、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣《や》ろうかとも思ったが、式《かた》のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙《ひま》に、自分で買って来る方が手取早《てっとりばや》い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被《かぶ》らないで、黙《だんま》りで、ふいと出た。
 直き町の角の煙草屋《たばこや》も見たし、絵葉がき屋も覗《のぞ》いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町|行《ゆ》き、一町行き……山の温泉《いでゆ》の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包《うわづつみ》の色も褪《あ》せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫《めぬき》の町の商店でも、経験のある人だから、気短《きみじか》にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚《なまめ》かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢《いきおい》がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動《こなし》は早く褄《つま》を軽く急いだが、裾《すそ》をはらりと、長襦袢《ながじゅばん》の艶《えん》なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向《うつむ》けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄《しお》れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入《べにいり》友染《ゆうぜん》の裏が浅葱《あさぎ》の袖口で、ひったり圧《おさ》えた。
 中脊で、もの柔かな女の、房《ふっさ》り結った島田が縺《もつ》れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀《あわれ》で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後《うしろ》むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出《ひきだ》して、立返る頭髪《かみ》も量《おも》そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花《さざんか》に霜の白粉《おしろい》の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
 うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、宜《よろ》しい。……」
 懐中《ふところ》へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂《たもと》に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片《はなびら》に、日の片あたりが淡くさすように、目が腫《はれ》ぼったく、殊に圧えた方の瞼《まぶた》の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃《ほこり》などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽《あきだる》、漬もの桶《おけ》などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲《たた》くのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
 と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖《しあわせ》だ。……」
 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹《おなか》が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱《ひっかか》えた黒塗《くろぬり》の飯櫃《めしびつ》を、客の膝の前へストンと置くと、一歩《ひとあし》すさったままで、突立《つった》って、熟《じっ》と顔を瞰下《みおろ》すから、この時も吃驚《びっくり》した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
 教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
 と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯《まんま》を食わせようと思うたでね。急《せ》いたわいな、旦那さん。」
 と、そのまま跳廻《はねまわ》ったかと思うと。
「北国一だ。」
 と投げるように駈《か》け出した。
 酒は手酌が習慣《くせ》だと言って、やっと御免を蒙《こうむ》ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静《しずか》に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
 
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
 と言継いで、
「彼家《あそこ》に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
 と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
 また大声で、
「押惚《おっぽ》れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚《びっくり》しただろ、あの、別嬪《べっぴん》に。……それだよ、それが小春《こはる》さんだ。この土地の芸妓《げいしゃ》でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活《い》きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持《かんしゃくもち》の、嫉妬《やきもち》やきで、ほうずもねえ逆気性《のぼせしょう》でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺《たにし》さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒《らち》あかねえさ。脚気《かっけ》山中《やまなか》、かさ粟津《あわづ》の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体《からだ》中|掻毟《かきむし》って、目が引釣《ひッつ》り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子《かね》も、店も田地までも打込《ぶちこ》んでね。一時《いっとき》は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
 ――初女房《ういにょうぼう》、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。摺《す》った揉《も》んだの挙句が、小春さんはまた褄《つま》を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜《よ》がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上《のぼせあが》って、痛痒《いたがゆ》い処を引掻《ひっか》いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈《ふ》んで喰噛《くいかじ》るだよ。血は上ずっても、性《しょう》は陰気で、ちり蓮華《れんげ》の長い顔が蒼《あお》しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々《かッかッ》と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪《かみのけ》さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
 かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂《たもと》に包んだ半紙の雫《しずく》は、まさに山茶花《さざんか》の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」

       三

「そうか――先刻《さっき》、買ものに寄った時、その芸妓《げいしゃ》は泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立《きだて》の優しいお妓《こ》だから、内証《ないしょ》で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼《ばば》も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日《いちんち》二日《ふつか》は講中《こうじゅう》で出入りがやがやしておるで、その隙《ひま》に密《そっ》と逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
 と客は、しめやかに言った。
「厭《いや》な事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗《しつこ》い、嫉妬《しっと》深《ぶか》いのに、口説《くど》かれたらお前はどうする。」
「横びんた撲《は》りこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の巴《ともえ》板額《はんがく》だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……その勢《いきおい》で、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
 肩を振って、拗《す》ねたように、
「要らねえよ。――私《うち》こんなもの。……旦那さん。――旅行《たび》さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視《み》て、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切《しんせつ》は難有《ありがた》いが、いま来たばかりのものに、いつ出程《たつ》かは少し酷《ひど》かろう。」
「それでも、先刻《さっき》来た時に、一晩|泊《どまり》だと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中《やまなか》へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
「緩《ゆっく》り居なされば可《い》いに――では、またじきに来なさいよ。」
 と、真顔で言った。
 客はその言《ことば》に感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
 したたか頭《かぶり》を掉《ふ》って、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿《むこ》さんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯《おまんま》を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
「勿体《もったい》ないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替《へんがえ》だ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室《ま》では遣切《やりき》れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証《ないしょ》でどうともするだよ。」
 客は赤黒く、口の尖《とが》った、にきびで肥《ふと》った顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
 と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「措《お》きなさい、そんな事。」
 と耳朶《みみたぼ》まで真赤《まっか》にした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
 と、飯櫃《めしびつ》に太い両手を突張《つっぱ》って、ぴょいと尻を持立《もった》てる。遁構《にげがまえ》でいるのである。
「お光さんか、年紀《とし》は。」
「知らない。」
「まあ、幾歳《いくつ》だい。」
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、三歳《みッつ》だよ、ははは。」
 と笑いながら駈出《かけだ》した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
「二十《はたち》だ……鼬《いたち》だ……べべべべ、べい――」

       四

 ここに、第九師団|衛戍《えいじゅ》病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園《まんしょうえん》、春日山《かすがやま》などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
 病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
 この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉《いでゆ》の町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い畷《なわて》になる。桂谷《かつらだに》と言うのへ通ずる街道である。病院の背後を劃《しき》って、蜿々《うねうね》と続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の前《さき》に近いから、遠い山も、嶮《けわ》しい嶺《みね》も遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を刷《は》いたおっとりとした青空で、やや斜《ななめ》な陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
 その近山《ちかやま》の裾《すそ》は半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、下《くだ》りめになって、陽の一杯に当る枯草の路《みち》が、ちょろちょろとついて、その径《こみち》と、畷の交叉点《こうさてん》がゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽《みはらし》の野山の中に一つある。一方が広々とした刈田《かりた》との境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた杭《くい》ばかり一本、せめて案山子《かかし》にでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑《のどか》な欠伸《あくび》でも出そうに、その杭に凭《もた》れている。藁《わら》が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり盛《さかん》に植える、杓子菜《しゃくしな》と云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜《れんげな》とも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が暖《あたたか》だから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
 畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家《まちや》、農家が入乱れて、樹立《こだち》がくれに、小流《こながれ》を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中|道《みち》で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯《さっ》と射《さ》す。
 色も空も一淀《ひとよど》みする、この日溜《ひだま》りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅《べに》の葉が柵《しがら》むように、夥多《おびただ》しく赤蜻蛉《あかとんぼ》が群れていた。――出会ったり、別れたり、上下《うえした》にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも闌《たけなわ》に、恍惚《うっとり》したらしく、夢を※[#「彳+尚」、第3水準1-84-33]※[#「彳+羊」、第3水準1-84-32]《さまよ》うように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、漾《ただよ》いつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
 日南《ひなた》の虹《にじ》の姫たちである。
 風情に見愡《みと》れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞《めぐ》らしつつ彳《たたず》んでいるのであった。
 四辺《あたり》の長閑《のど》かさ。しかし静《しずか》な事は――昼飯を済《すま》せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行《あるき》でぶらりと出て、温泉《いでゆ》の廓《くるわ》を一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、媚《なまめ》かしい、紅《べに》がら格子《ごうし》を五六軒見たあとは、細流《せせらぎ》が流れて、薬師山を一方に、呉羽神社《くれはじんじゃ》の大鳥居前を過ぎたあたりから、往来《ゆきか》う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店《さかみせ》の杉葉の下《もと》に、茶と黒と、鞠《まり》の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛《か》んだり、ちょいと鼻づらを引《ひっ》かき合ったり。……これを見ると、羨《うらや》ましいか、桶《おけ》の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗《こいぬ》は出て来ても、村の閑寂間《しじま》か、棒切《ぼうきれ》持った小児《こども》も居ない。
 で、ここへ来た時……前途《むこう》山の下から、頬被《ほおかぶ》りした脊の高い草鞋《わらじ》ばきの親仁《おやじ》が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎《いっしょうびん》をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬《ぷん》とさせて、蛇の茣蓙《ござ》と称《とな》うる、裏白の葉を堆《うずたか》く装《も》った大籠《おおかご》を背負《しょ》ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形《つき》も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇《ほこり》を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰《なまず》のような、小鮒《こぶな》のような、頭の大《おおき》な茸《たけ》がびちびち跳ねていそうなのが、温泉《いでゆ》の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
 客は、陽《ひなた》の赤蜻蛉に見愡《みと》れた瞳を、ふと、畑際《はたぎわ》の尾花に映すと、蔭の片袖が悚然《ぞっ》とした。一度、しかとしめて拱《こまぬ》いた腕を解《ほど》いて、やや震える手さきを、小鬢《こびん》に密《そっ》と触れると、喟然《きぜん》として面《おもて》を暗うしたのであった。
 日南《ひなた》に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛《しらが》が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅《まっか》なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下《もと》に、杭の尖《さき》に留《とま》った。……一度伏せた羽を、衝《つ》と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方《こなた》へ振動かした。
 小狗の戯《たわむれ》にも可懐《なつかし》んだ。幼心《おさなごころ》に返ったのである。
 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒《まっくろ》な厚い大《おおき》な外套《がいとう》の、背腰を屁びりに屈《かが》めて、及腰《およびごし》に右の片手を伸《のば》しつつ、密《そっ》と狙《ねら》って寄った。が、どうしてどうして、小児《こども》のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝《なむさんぽう》、赤蜻蛉は颯《さっ》と外《そ》れた。
 はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児《いぬころ》の形《かげ》も、早や見えぬ。四辺《あたり》に誰も居ないのを、一息の下《もと》に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟《とっさ》に渋面を造って、身を捻《ね》じるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立《こだち》から、広野《ひろの》の中に、もう一条《ひとすじ》、畷《なわて》と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道《あぜみち》があるのが屏風のごとく連《つらな》った、長く、丈《せい》の高い掛稲《かけいね》のずらりと続いたのに蔽《おお》われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈《か》けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟《あわ》の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜を褄《つま》にして、その掛稲の此方《こなた》に、目も遥《はるか》な野原刈田を背にして間《あわい》が離れて確《しか》とは見えぬが、薄藍《うすあい》の浅葱《あさぎ》の襟して、髪の艶《つやや》かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりを扱《しご》いて、思わず撫《な》でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾《つば》と見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男の連《つれ》が居た。縞《しま》がらは分らないが、くすんだ装《なり》で、青磁色の中折帽《なかおれぼう》を前のめりにした小造《こづくり》な、痩《や》せた、形の粘々《ねばねば》とした男であった。これが、その晴やかな大笑《おおわらい》の笑声に驚いたように立留って、廂《ひさし》睨《にら》みに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑《おかし》いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人《としより》にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖《どてら》で出歩行《である》く。勢《いきおい》なのは浴衣一枚、裸体《はだか》も見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の糊《のり》が硬々《こわごわ》と突張《つっぱ》って、広袖の膚《はだ》につかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒《まっくろ》に、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が憑《つ》いたようで、褌《ふんどし》をぶら下げて裸で陸《おか》に立ったより、わかい女には可笑《おか》しかろう……
 いや、蜻蛉釣《とんぼつり》だ。
 ああ、それだ。
 小鬢《こびん》に霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を洩《もら》すと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、堪《たま》らぬといった体《てい》に、裾をぱッぱッと、もとの方《かた》へ、五歩《いつあし》六歩《むあし》駈戻《かけもど》って、捻《ね》じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
 胸を反《そら》して、仰向《あおむ》けに、
「あはははは。」
 たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭《おじぎ》をする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
 やがて、朱鷺色《ときいろ》の手巾《ハンケチ》で口を蔽うて、肩で呼吸《いき》して、向直って、ツンと澄《すま》して横顔で歩行《ある》こうとした。が、何と、自《おのず》から目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
 八口《やつくち》を洩《も》る紅《くれない》に、腕の白さのちらめくのを、振って揉《も》んで身悶《みもだえ》する。
 きょろんと立った連《つれ》の男が、一歩《ひとあし》返して、圧《おさ》えるごとくに、握拳《にぎりこぶし》をぬっと突出すと、今度はその顔を屈《かが》み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
 教授も堪《こら》えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹《ひばら》を腕で圧えたが追着《おッつ》かない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が擽《くすぐ》る! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷《しまだ》も、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
 と、手をふるはずみに、鳴子縄《なるこなわ》に、くいつくばかり、ひしと縋《すが》ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
 勃然《むっ》とした体《てい》で、島田の上で、握拳の両手を、一度|打擲《ちょうちゃく》をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺《ず》らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿《うね》らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが疾《はや》いか。
「きゃあ――」と笑って、衝《つ》と駈《か》けざまに、男のあとを掛稲の背後《うしろ》へ隠れた。
 その掛稲は、一杯の陽の光と、溢《あふ》れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪《こら》えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切《やりき》れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を紅《あか》く、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
「白痴奴《だらめ》、汝《おどれ》!」
 ねつい、怒《いか》った声が響くと同時に、ハッとして、旧《もと》の路へ遁《に》げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱《かわ》そうとしたのが、真横にばったり。
 伸《の》しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
 顔も、髪も、土《どろ》まみれに、真白《まっしろ》な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
 瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
 たかが山家《やまが》の恋である。男女の痴話の傍杖《そばづえ》より、今は、高き天《そら》、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
 草の径《みち》ももどかしい。畦《あぜ》ともいわず、刈田と言わず、真直《まっすぐ》に突切《つっき》って、颯《さっ》と寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁《に》げた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻《さっき》の旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被《かぶ》って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白《まっさお》な顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢《としごろ》だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然《ぶぜん》としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅《くれない》の乱れた婦《おんな》の、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方《あなた》の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑《おか》しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連《つれ》の男は何という乱暴だ。」
「ええ、家《うち》ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中《しんじゅう》の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

       五

「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾《よく》ばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓《げいしゃ》だ。罪も報《むくい》もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道《ごくどう》とか、遊蕩《ゆうとう》とかで行留りになった男の、名は体《てい》のいい心中だが、死んで行《ゆ》く道連れにされて堪《たま》るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目《にわかめくら》の爺《とっ》さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

 掛稲《かけいね》、嫁菜の、畦《あぜ》に倒れて、この五尺の松に縋《すが》って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷《うなず》かれよう。芸妓《げいしゃ》である。そのまま伴って来るのに、何の仔細《しさい》もなかったこともまた断るに及ぶまい。
 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静《しずか》な日南《ひなた》の隙を計って、岐路《えだみち》をあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺《じょうぎょうじ》と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間《ま》に死ぬつもりで、対手《あいて》の袂《たもと》には、商《あきない》ものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀《ナイフ》さえ用意していたと言うのである。
 上前《うわまえ》の摺下《ずりさが》る……腰帯の弛《ゆる》んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退《さが》ってついて来る小春の姿は、道行《みちゆき》から遁《に》げたとよりは、山奥の人身御供《ひとみごくう》から助出《たすけだ》されたもののようであった。
 左山中|道《みち》、右桂谷道、と道程標《みちしるべ》の立った追分《おいわけ》へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤《あご》の尖《とが》った、痩《や》せこけた爺《じい》さんの、菅《すげ》の一もんじ笠を真直《まっすぐ》に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆《やぶれぎゃはん》、草鞋穿《わらじばき》で、とぼとぼと竹の杖《つえ》に曳《ひ》かれて来たのがあった。
 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添《よこぞい》に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大《おおき》な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児《こ》で。これも風呂敷包を中結《なかゆわ》えして西行背負《さいぎょうじょい》に背負っていたが、道中《みちなか》へ、弱々と出て来たので、横に引張合《ひっぱりあ》った杖が、一方通せん坊になって、道程標《みちしるべ》の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流《せせらぎ》は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑《にぎや》かだけれど、俄めくらと見えて、突立《つった》った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着《きんちゃく》ほどな小児《こども》に杖を曳かれて辿《たど》る状《さま》。いま生命《いのち》びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏《たそが》れた。
 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割《ももわれ》ぬれた結立《ゆいたて》で、緋鹿子《ひがのこ》の角絞《つのしぼ》り。簪《かんざし》をまだささず、黒繻子《くろじゅす》の襟の白粉垢《おしろいあか》の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂《まえだれ》と帯の間へ、古風に手拭《てぬぐい》を細《こまか》く挟んだ雛妓《おしゃく》が、殊勝にも、お参詣《まいり》の戻《もどり》らしい……急足《いそぎあし》に、つつッと出た。が、盲目《めくら》の爺《とっ》さんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
「や、姉ちゃん。」――と小児《こども》が飛着く。
 見る見るうちに、雛妓の、水晶のような※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った目は、一杯の涙である。
 小春は密《そっ》と寄添うた。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
 西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆の餅《あんも》を持って来た。」
 ものも言い得ず、姉さんは、弟のその頭《つむり》を撫《な》でると、仰いで笠の裡《うち》を熟《じっ》と視《み》た。その笠を被《かぶ》って立てる状《さま》は、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地蔵菩薩《じぞうぼさつ》のようであった。
 親仁《おやじ》は抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷《やけど》したかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭《おじぎ》をして、
「御免下され、御免下され。」
 と言った。

「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ行《ゆ》くそうです。いま参りましたのは、あの妓《こ》がちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」
 突当《つきあたり》らしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛妓《おしゃく》と囁《ささや》いて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。
 ――来た途中の俄盲目は、これである――
 やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が懇《ねんごろ》に説いたのであった。

「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで堪《たま》るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言《ことば》ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭《いや》だと言います。お庇《かげ》さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦《くるし》みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可《よ》し、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のお言《ことば》ばかりで活《い》きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女《ばいた》だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆《がっかり》して、力が抜けて。何ですか、余り身体《からだ》にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
 と、膝に密《そっ》と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶《つや》濃《こ》き髪の薫《かおり》より、眉がほんのりと香《にお》いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗《まっくら》である。

       六

 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行《ある》き馴《な》れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛《かろう》じて黒白《あいろ》の分るくらいであった。金屏風《きんびょうぶ》とむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁《いこう》の下《もと》に、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神《どうろくじん》のような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」と浴《あび》せ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
 直《すぐ》に小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しい婦《おんな》で、しょんぼりと起居《たちい》をするのが、何だか、産女鳥《うぶめ》のように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
 頼もしいほど、陽気に賑《にぎや》かなのは、廂《ひさし》はずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
 船の舳《みよし》の出たように、もう一座敷|重《かさな》って、そこにも三味線《さみせん》の音がしたが、時々|哄《どっ》と笑う声は、天狗《てんぐ》が谺《こだま》を返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
 小春の藍《あい》の淡い襟、冷い島田が、幾度《いくたび》も、縁を覗《のぞ》いて、ともに燈《ともし》を待ちもした。
 この縁の突当りに、上敷《うわしき》を板に敷込んだ、後架《こうか》があって、機械口の水も爽《さわやか》だったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水《ちょうず》も出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮《しんちゅう》の水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲上《くみあ》げている処、発電池に故障があって、電燈もそのために後《おく》れると、帳場で言っているそうで。そこで中縁《なかえん》の土間の大《おおき》な石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火を点《とも》したように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、艶《えん》になまめかしく颯《さっ》と流してくれて、
「あれ、はんけちを田圃道《たんぼみち》で落して来て、……」
「それも死神の風呂敷だったよ。」
「可恐《こわ》いわ、旦那さん。」

 その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の端《はた》に据《すわ》っているのが幽《かすか》に見える。夕暮の鷺《さぎ》が長い嘴《くちばし》で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟《みみずく》のようになって、とっぷりと暮れて真暗《まっくら》だった。

「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
 と、厠《かわや》の板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
 と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
「可《い》いか、十分に……」
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭台《しょくだい》の火が、その高楼《たかどの》の欄干《てすり》を流れた。
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦人《おんな》の手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お庇《かげ》で白髪が皆消えて、真黒《まっくろ》になったろう。」
 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、実盛《さねもり》の首洗《くびあらい》の池も同じだね。」
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、姦通《まおとこ》め。ううむ、おどれ等。」
「北国一だ。……危《あぶね》えよ。」
 殺した声と、呻《うめ》く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向《むこう》二階で喝采《やんや》、ともろ声に喚《わめ》いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻《こんにゃく》のようにぶるぶると震えて点《つ》いた。

       七

 小春の身を、背に庇《かば》って立った教授が、見ると、繻子《しゅす》の黒足袋の鼻緒ずれに破れた奴《やつ》を、ばたばたと空に撥《は》ねる、治兵衛坊主を真俯向《まうつむ》けに、押伏せて、お光が赤蕪《あかかぶ》のような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
 絨毯《じゅうたん》を縫いながら、治兵衛の手の大小刀《おおナイフ》が、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣《さびむかで》のように蠢《うごめ》くのを、事ともしないで、
「何が、犬にも牙《きば》がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎《やきもちやろう》だ。大《でけ》い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲《は》りこくってやろうかね。」
「ああ、静《しずか》に――乱暴をしちゃ不可《いけな》い。」
 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子《とういす》に掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、汝《おどれ》から先に……当前《あたりまえ》じゃい。うむ、放せ、口惜《くやし》いわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓《げいしゃ》を呼んで遊んだが、それがどうした。」
「汝《おどれ》、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳《あいびき》にうせおって、姦通《まおとこ》め。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子《かね》に世の中が行詰《ゆきづま》って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡《つけまと》うのは卑劣じゃあないか。――投出す生命《いのち》に女の連《つれ》を拵《こさ》えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤《のみ》が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷《ねびえ》をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命《いのち》を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足《つぎたし》をしてやるが可《い》い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔《きれい》だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉《とんぼ》釣る形の可笑《おかし》さに、道端へ笑い倒れる妙齢《としごろ》の気の若さ……今もだ……うっかり手水《ちょうず》に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」と呻《うな》った。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺《たにし》の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活《いか》すもあるものか。――静《しずか》にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命《いのち》の養生をするが可《い》い。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「姐《ねえ》さん、放しておやり。」
「危《あぶね》え、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧《おさ》えていない。婦人《おんな》が起《た》ってそこへ縋《すが》れば、話は別だ。桂清水《かつらしみず》とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可《い》い。婦人《おんな》は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
 また電燈が、滅びるように、呼吸《いき》をひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜《くぐ》って、小《ちっ》こい、庭境《にわざかい》の隣家《となり》の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺《ず》って、窓を這《は》って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
 小春は花のいきするように、ただ教授の背後《うしろ》から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。

       八

 ここの湯の廓《くるわ》は柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡《なび》いて、しっとりと、見附《みつけ》を繞《めぐ》って向合う湯宿が、皆この葉越《はごし》に窺《うかが》われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五|間《けん》間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、湯煙《ゆけむり》の薄い胡粉《ごふん》でぼかして、月影に浮いていて、甍《いらか》の露も紫に凝るばかり、中空に冴《さ》えた月ながら、気の暖かさに朧《おぼろ》である。そして裏に立つ山に湧《わ》き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼《あお》い砂子《すなご》を鏤《ちりば》めた景色は、広重《ひろしげ》がピラミッドの夢を描いたようである。
 柳のもとには、二つ三つ用心|水《みず》の、石で亀甲《きっこう》に囲った水溜《みずたまり》の池がある。が、涸《か》れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗《のぞ》く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖《あたたか》さに枝垂《しだ》れた黒髪はなお濃《こまや》かで、中にも真中《まんなか》に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見|階子《ばしご》に、袖を掛けた柳の一本《ひともと》は瑠璃天井《るりてんじょう》の階子段に、遊女の凭《もた》れた風情がある。
 このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行《あるき》の人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱《あさぎ》に、紺に、茶の旗が、納手拭《おさめてぬぐい》のように立って、湯の中は祭礼《まつり》かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前《のきさき》には、駄菓子|店《みせ》、甘酒の店、飴《あめ》の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女《ゆな》も掛ける。髯《ひげ》が啜《すす》る甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ蟹《がに》の糸である。
 みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
 人の出入り一盛り。仕出しの提灯《ちょうちん》二つ三つ。紅《あか》いは、おでん、白いは、蕎麦《そば》。横路地を衝《つい》と出て、やや門《かど》とざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり静《しずか》になった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若衆《わかいしゅ》たち、とある横町の土塀の小路《こみち》から、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い装《よそおい》でよぎったが、霜の使者《つかい》が通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂然《せきぜん》としたのであった。
 月夜鴉《つきよがらす》が低く飛んで、水を潜《くぐ》るように、柳から柳へ流れた。
「うざくらし、厭《いや》な――お兄《あん》さん……」
 芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸《くぐりど》を細目に背にした門口《かどぐち》に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇《たたず》んだ、影のような婦《おんな》がある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟《じっ》とすかして――そう言った。
「お門《かど》が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家《となり》の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着《くッつ》いた。
 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引《ひっ》かぶった若い衆《しゅ》が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々《うろうろ》する。
 この時であった。
 夜《よ》も既に、十一時すぎ、子《ね》の刻か。――柳を中に真向いなる、門《かど》も鎖《とざ》し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛《とまか》けた大船のごとく静まって、梟《ふくろ》が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷《すべ》ると、帳場が見えて、勝手は明《あかる》い――そこへ、真黒《まっくろ》な外套《がいとう》があらわれた。
 背後《うしろ》について、長襦袢《ながじゅばん》するすると、伊達巻《だてまき》ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔《ぼら》と、比目魚《ひらめ》のあるのを、うっかり跨《また》いで、怯《おび》えたような脛《はぎ》白く、莞爾《にっこり》とした女が見える。
「くそったれめ。」
 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細《ほっそ》りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺《ふ》って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
 これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗《うろこ》を立てて、逆《さかさま》に尖《とが》って燃えた。
 途端に小春の姿はかくれた。
 あとの大戸を、金の額ぶちのように背負《しょ》って、揚々として大得意の体《てい》で、紅閨《こうけい》のあとを一散歩、贅《ぜい》を遣《や》る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗《のぞ》き、火の見を仰いで、移香《うつりが》を惜気《おしげ》なく、酔《えい》ざましに、月の景色を見る状《さま》の、その行く処には、返咲《かえりざき》の、桜が咲き、柑子《こうじ》も色づく。……他《よそ》の旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋《なべ》をかけようとする、夜《よ》なしの饂飩屋《うどんや》の前に来た。
 獺橋《かわうそばし》の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
 犬ほどの蜥蜴《とかげ》が、修羅を燃《もや》して、煙のように颯《さっ》と襲った。
「おどれめ。」
 と呻《うめ》くが疾《はや》いか、治兵衛坊主が、その外套の背後《うしろ》から、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
 獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串戯《じょうだん》だと思ったろう。
「北国一だ――」
 と高く叫ぶと、その外套の袖が煽《あお》って、紅《あか》い裾が、はらはらと乱れたのである。

       九

 ――「小春さん、先刻《さっき》の、あの可愛い雛妓《おしゃく》と、盲目《めくら》の爺《とっ》さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆《みんな》で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可《い》い。
 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界《きょうがい》にある夥間《なかま》だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児《こども》を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可《よ》い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可《よ》かろう。あの盲《めし》いた人、あの、いたいけな児《こ》、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違《まちがい》がないとも限らぬ。その後難《こうなん》の憂慮《うれい》のないように、治兵衛の気を萎《なや》し、心を鎮めさせるのに何よりである。
 私は直ぐに立って、山中へ行く。
 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃《ほこり》が立つ。構わないにしても気が散ろう。
 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽《たのし》み、よくお遊び。」――
 あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更《あらた》めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程《た》ったのは、同じ夜《よ》の、実は、八時頃であった。
 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏《おだやか》でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂《たもと》を振切る。……
 
 お光が中くらいな鞄《かばん》を提げて、肩をいからすように、大跨《おおまた》に歩行《ある》いて、電車の出発点まで真直《まっす》ぐに送って来た。
 道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、蚤《のみ》にくわれても、女《あま》ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
 停車|場《じょう》の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭《うなず》いた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品《ひとしな》下んせね。鼻紙でも、手巾《ハンケチ》でも、よ。」
 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
 このおもみに、トンと圧《お》されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯《じょうだん》だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺《ひきず》るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
 発車した。

 ――お光は、夜《よ》の隙《ひま》のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外《おもて》へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾《あつぶすま》、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言《むつごと》のように語り合う、小春と、雛妓《おしゃく》、爺さん、小児《こども》たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
 黒い外套を来た湯女《ゆな》が、総湯の前で、殺された、刺された風説《うわさ》は、山中、片山津、粟津、大聖寺《だいしょうじ》まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。
 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎《は》ねて起きた。
 寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが貴方《あなた》の、お身代り。……私はおくれました。」
 と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋《すが》った。
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
 と突拍子な高調子で、譫言《うわごと》のように言ったが、
「ようこそなあ――こんなものに……面《つら》も、からだも、山猿に火熨斗《ひのし》を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆《みんな》が賞《ほ》めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」
 立会った医師が二人まで、目を瞬《しばたた》いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
 と、ありなしの縁《えん》に曳かれて、雛妓の小《こ》とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目《めくら》の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀《あみだ》様。おありがたや親鸞《しんらん》様も、おありがたや蓮如《れんにょ》様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」
「そんなものは見とうない。」
 と、ツト杖を向うへ刎《は》ねた。
「私は死んでも、旦那さんの傍《そば》に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」
「勿体ないぞ。」
 と口のうちで呟《つぶや》いて、爺《おやじ》が、黒い幽霊のように首を伸《のば》して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上《うわ》ねむりに見据えたが、
「うんにゃ、道理《もっとも》じゃ。俺《おら》も阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」
 と言うと、持った杖をハタと擲《な》げた。その風采《ふうさい》や、さながら一山《いっさん》の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
[#地から1字上げ]大正十二(一九二三)年一月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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