青空文庫アーカイブ

紅玉
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)停車場《ステェション》の方

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(例)水|汲《く》むぞ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小児等《こどもら》を※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みまわ》す。
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時。
  現代、初冬。
場所。
  府下郊外の原野。
人物。
  画工。侍女。(烏の仮装したる)
  貴夫人。老紳士。少紳士。小児五人。
   ――別に、三羽の烏。(侍女と同じ扮装)
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小児一 やあ、停車場《ステェション》の方の、遠くの方から、あんなものが遣《や》って来たぜ。
小児二 何だい何だい。
小児三 ああ、大《おおき》なものを背負《しょ》って、蹌踉々々《よろよろ》来るねえ。
小児四 影法師まで、ぶらぶらしているよ。
小児五 重いんだろうか。
小児一 何だ、引越かなあ。
小児二 構うもんか、何だって。
小児三 御覧よ、脊《せな》よりか高い、障子見たようなものを背負ってるから、凧《たこ》が歩行《ある》いて来るようだ。
小児四 糸をつけて揚げる真似《まね》エしてやろう。
小児五 遣れ遣れ、おもしろい。
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凧を持ったのは凧を上げ、独楽《こま》を持ちたるは独楽を廻す。手にものなき一人《いちにん》、一方に向い、凧の糸を手繰る真似して笑う。
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画工 (枠張《わくばり》のまま、絹地の画《え》を、やけに紐《ひも》からげにして、薄汚れたる背広の背に負い、初冬《はつふゆ》、枯野の夕日影にて、あかあかと且つ寂《さみ》しき顔。酔える足どりにて登場)……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖《ステッキ》に突掛《つッか》くる状《さま》、疲切ったる樵夫《きこり》のごとし。しばらくして、叫ぶ)畜生、状《ざま》を見やがれ。
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声に驚き、且つ活《い》ける玩具《おもちゃ》の、手許《てもと》に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児《こども》、衝《つ》と開いて素知らぬ顔す。
画工、その事には心付かず、立停《たちど》まりて嬉戯《きぎ》する小児等《こどもら》を※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みまわ》す。
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 よく遊んでるな、ああ、羨《うらやま》しい。どうだ。皆《みんな》、面白いか。
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小児等、彼の様子を見て忍笑《しのびわらい》す。中に、糸を手繰りたる一人《いちにん》。
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小児三 ああ、面白かったの。
画工 (管《くだ》をまく口吻《くちぶり》)何、面白かった。面白かったは不可《いか》んな。今の若さに。……小児《こども》をつかまえて、今の若さも変だ。(笑う)はははは、面白かったは心細い。過去った事のようで情《なさけ》ない。面白いと云え、面白がれ、面白がれ。なおその上に面白くなれ。むむ、どうだ。
小児三 だって、兄さん怒るだろう。
画工 (解し得ず)俺《おれ》が怒る、何を……何を俺が怒るんだ。生命《いのち》がけで、描《か》いて文部省の展覧会で、平《へえ》つくばって、可《い》いか、洋服の膝を膨らまして膝行《いざ》ってな、いい図じゃないぜ、審査所のお玄関で頓首《とんしゅ》再拝と仕《つかまつ》った奴《やつ》を、紙鉄砲で、ポンと撥《は》ねられて、ぎゃふんとまいった。それでさえ怒り得ないで、悄々《すごすご》と杖《つえ》に縋《すが》って背負《しょ》って帰る男じゃないか。景気よく馬肉《けとばし》で呷《あお》った酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げっそり空腹《すきばら》と来て、蕎麦《そば》ともいかない。停車場《ステェション》前で饂飩《うどん》で飲んだ、臓府《ぞうふ》がさながら蚯蚓《みみず》のような、しッこしのない江戸児擬《えどッこまがい》が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。
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他の小児《こども》はきょろきょろ見ている。
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小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸目をつけて手繰っていたんだぜ。
画工 何だ、糸を着けて……手繰ったか。いや、怒りやしない。何の真似だい。
小児一 兄さんがね、そうやってね、ぶらぶら来た処がね。
小児二 遠くから、まるでもって、凧の形に見えたんだもの。
画工 ははあ、凧か。(背負ってる絵を見る)むむ、そこで、(仕形《しかた》しつつ)とやって面白がっていたんだな。処で、俺がこう近くに来たから、怒られやしないかと思って、その悪戯《いたずら》を止《や》めたんだ。だから、面白かったと云うのか。……かったは寂《さみ》しい、つまらない。壮《さかん》に面白がれ、もっと面白がれ。さあ、糸を手繰れ、上げろ、引張れ。俺が、凧になって、上《あが》ってやろう。上って、高い空から、上野の展覧会を見てやる。京、大阪を見よう。日本中を、いや世界を見よう。……さあ、あの児《こ》来て煽《あお》れ、それ、お前は向うで上げるんだ。さあ、遣れ、遣れ。(笑う)ははは、面白い。
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小児等しばらく逡巡《しゅんじゅん》す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背《せなか》を抱《いだ》いて、凧を煽る真似す。一人は駈出《かけだ》して距離を取る。その一人《いちにん》。
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小児三 やあ、大凧だい、一人じゃ重い。
小児四 うん、手伝ってやら。(と独楽を懐にして、立並ぶ)――風吹け、や、吹け。山の風吹いて来い。――(同音に囃《はや》す。)
画工 (あおりたる児の手を離るると同時に、大手を開いて)こうなりゃ凧絵だ、提灯屋《ちょうちんや》だ。そりゃ、しゃくるぞ、水|汲《く》むぞ、べっかっこだ。
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小児等《こどもら》の糸を引いて駈《かけ》るがままに、ふらふらと舞台を飛廻り、やがて、樹根《きのね》に※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》となりて、切なき呼吸《いき》つく。
暮色到る。
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小児三 凧は切れちゃった。
小児一 暗くなった。――ちょうど可《い》い。
小児二 また、……あの事をしよう。
その他 遣ろうよ、遣ろうよ。――(一同、手はつながず、少しずつ間をおき、ぐるりと輪になりて唄う。)
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青山、葉山、羽黒の権現《ごんげん》さん
あとさき言わずに、中はくぼんだ、おかまの神さん
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唄いつつ、廻りつつ、繰り返す。
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画工 (茫然《ぼうぜん》として黙想したるが、吐息して立ってこれを視《なが》む。)おい、おい、それは何の唄だ。
小児一 ああ、何の唄だか知らないけれどね、こうやって唄っていると、誰か一人踊出すんだよ。
画工 踊る? 誰が踊る。
小児二 誰が踊るって、このね、環《わ》の中へ入って踞《しゃが》んでるものが踊るんだって。
画工 誰も、入ってはおらんじゃないか。
小児三 でもね、気味が悪いんだもの。
画工 気味が悪いと?
小児四 ああ、あの、それがね、踊ろうと思って踊るんじゃないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思っても。だもの、気味が悪いんだ。
画工 遣ってみよう、俺を入れろ。
一同 やあ、兄さん、入るかい。
画工 俺が入る、待て、(画を取って大樹の幹によせかく)さあ、可《い》いか。
小児三 目を塞《ふさ》いでいるんだぜ。
画工 可《よし》、この世間《よのなか》を、酔って踊りゃ本望だ。
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青山、葉山、羽黒の権現さん
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小児等《こどもら》唄いながら画工の身の周囲《まわり》を廻《めぐ》る。環の脈を打って伸び且つ縮むに連れて、画工、ほとんど、無意識なるがごとく、片手また片足を異様に動かす。唄う声、いよいよ冴《さ》えて、次第に暗くなる。
時に、樹の蔭より、顔黒く、嘴《くちばし》黒く、烏《からす》の頭《かしら》して真黒《まっくろ》なるマント様《よう》の衣《きぬ》を裾《すそ》まで被《かぶ》りたる異体のもの一個|顕《あらわ》れ出で、小児《こども》と小児の間に交《まじ》りて斉《ひと》しく廻る。
地に踞《うずくま》りたる画工、この時、中腰に身を起して、半身を左右に振って踊る真似す。
続いて、初《はじめ》の黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏。樹蔭より顕れ、同じく小児等の間に交って、画工の周囲を繞《めぐ》る。
小児等は絶えず唄う。いずれもその怪《あやし》き物の姿を見ざる趣なり。あとの三羽の烏出でて輪に加わる頃より、画工全く立上り、我を忘れたる状《さま》して踊り出《いだ》す。初手の烏もともに、就中《なかんずく》、後《あと》なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁《ちょうりょう》す。
彼等の踊狂う時、小児等は唄を留《とど》む。
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一同 (手に手に石を二ツ取り、カチカチと打鳴らして)魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂《さみ》しく囃《はや》す)ほんとに来た。そりゃ来た。
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小児のうちに一人《いちにん》、誰とも知らずかく叫ぶとともに、ばらばらと、左右に分れて逃げ入る。
 木《こ》の葉落つ。
木の葉落つる中に、一人《いちにん》の画工と四個の黒き姿と頻《しきり》に踊る。画工は靴を穿《は》いたり、後の三羽の烏皆|爪尖《つまさき》まで黒し。初《はじめ》の烏ひとり、裾をこぼるる褄紅《つまくれない》に、足白し。
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画工 (疲果てたる状《さま》、※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と仰様《のけざま》に倒る)水だ、水をくれい。
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いずれも踊り留《や》む。後の烏三羽、身を開いて一方に翼を交わしたるごとく、腕を組合せつつ立ちて視《なが》む。
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初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、こうはなりたくないものだわね。――そのうちに目が覚めたら行《ゆ》くだろう――別にお座敷の邪魔にもなるまいから。……どれ、(樹の蔭に一むら生茂《おいしげ》りたる薄《すすき》の中より、組立てに交叉《こうさ》したる三脚の竹を取出《とりいだ》して据え、次に、その上の円《まろ》き板を置き、卓子《テェブル》のごとくす。)
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後の烏、この時、三羽《みッつ》とも無言にて近づき、手伝う状《さま》にて、二脚のズック製、おなじ組立ての床几《しょうぎ》を卓子の差向いに置く。
初《はじめ》の烏、また、旅行用手提げの中より、葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶を取出だし卓子の上に置く。後の烏等、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコップを取出だして並べ揃う。
やがて、初の烏、一|挺《ちょう》の蝋燭《ろうそく》を取って、これに火を点ず。
舞台|明《あかる》くなる。
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初の烏 (思い着きたる体《てい》にて、一ツの瓶の酒を玉盞《ぎょくさん》に酌《つ》ぎ、燭《しょく》に翳《かざ》す。)おお、綺麗《きれい》だ。燭《あかり》が映って、透徹《すきとお》って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹《にじ》の、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳《かざ》して御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環《ゆびわ》の球《たま》に似てること。
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三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。
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 ああ、玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねえ。(烏の頭《かしら》を頂きたる、咽喉《のど》の黒き布をあけて、少《わか》き女の面《おもて》を顕《あらわ》し、酒を飲まんとして猶予《ためら》う。)あれ、ここは私には口だけれど、烏にするとちょうど咽喉だ。可厭《いや》だよ。咽喉だと血が流れるようでねえ。こんな事をしているんだから、気になる。よそう。まあ、独言《ひとりごと》を云って、誰かと話をしているようだよ……
 (四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みまわ》す)そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子《テェブル》が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽《かすか》な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒《ふちょう》で、黙っていて、暗号《あいず》が出来ると、いつも奥様がおっしゃるもんだから、――卓子さん(卓をたたく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸《こっくり》さん、そのままだもの。活《い》きてるも同じだと思うから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事な事を饒舌《しゃべ》ったんだから、お前さん聞いたばかりにしておいておくれ。誰にも言っては不可《いけ》ないよ。ちょいと、注《つ》いだ酒をどうしよう。ああ、いい事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後《あと》の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項《うなじ》を抱《いだ》いて仰向《あおむ》けにす。)
 酔ぱらいさん、さあ、冷水《おひや》。
画工 (飲みながら、現《うつつ》にて)ああ、日が出た、が、俺は暗夜《やみ》だ。(そのまま寝返る。)
初の烏 日が出たって――赤い酒から、私のこの烏を透かして、まあ。――画《え》に描いた太陽《おひさま》の夢を見たんだろう。何だか謎のような事を言ってるわね。――さあさあ、お寝室《ねま》ごしらえをしておきましょう。(もとに立戻りて、また薄《すすき》の中より、このたびは一領の天幕《テント》を引出し、卓子《テェブル》を蔽《おお》うて建廻す。三羽の烏、左右よりこれを手伝う。天幕の裡《うち》は、見ぶつ席より見えざるあつらえ。)お楽《たのし》みだわね。(天幕を背後《うしろ》にして正面に立つ。三羽の烏、その両方に彳《たたず》む。)
 もう、すっかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他《ほか》に、烏の姿ありて立てるに心付く。されどおのが目を怪《あやし》む風情。少しずつ、あちこち歩行《ある》く。歩行くに連れて、烏の形動き絡《まと》うを見て、次第に疑惑《うたがい》を増し、手を挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉《ひと》しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞《しゃが》めば踞むを透《すか》し視《なが》めて、今はしも激しく恐怖し、慌《あわただ》しく駈出《かけいだ》す。)
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帽子を目深《まぶか》に、オーバーコートの鼠色なるを被《き》、太き洋杖《ステッキ》を持てる老紳士、憂鬱《ゆううつ》なる重き態度にて登場。
初《はじめ》の烏ハタと行当る。驚いて身を開く。紳士その袖を捉《とら》う。初の烏、遁《のが》れんとして威《おど》す真似して、かあかあ、と烏の声をなす。泣くがごとき女の声なり。
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紳士 こりゃ、地獄の門を背負《しょ》って、空を飛ぶ真似をするか。(掴《つかみ》ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と地に座《ざ》す。三羽の烏はわざとらしく吃驚《きっきょう》の身振《みぶり》をなす。)地を這《は》う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。
初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。
紳士 ははあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くじゃな。
初の烏 はい。
紳士 うむ、(重く頷《うなず》く)聞えた。とにかく、汝《きさま》の声は聞えた。――こりゃ、俺の声が分るか。
初の烏 ええ。
紳士 俺の声が分るかと云うんじゃ。こりゃ。面《つら》を上げろ。――どうだ。
初の烏 御前様《ごぜんさま》、あれ……
紳士 (杖《ステッキ》をもって、その裾《すそ》を圧《おさ》う)ばさばさ騒ぐな。槍《やり》で脇腹を突かれる外に、樹の上へ得《え》上る身体《からだ》でもないに、羽ばたきをするな、女郎《めろう》、手を支《つ》いて、静《じっ》として口をきけ。
初の烏 真《まこと》に申訳のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達《せんだ》って、奥様がお好みのお催しで、お邸《やしき》に園遊会の仮装がございました時、私《わたくし》がいたしました、あの、このこしらえが、余りよく似合ったと、皆様がそうおっしゃいましたものでございますから、つい、心得違いな事をはじめました。あの……後で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少うございますものですから、自分の買もの、用達《ようた》しだの、何のと申して、奥様にお暇を頂いては、こんな処へ出て参りまして、偶《たま》に通りますものを驚かしますのが面白くてなりませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様に申訳のございません失礼をいたしました。どうぞ、御免遊ばして下さいまし。
紳士 言う事はそれだけか。
初の烏 はい?(聞返す。)
紳士 俺に云う事は、それだけか、女郎《めろう》。
初の烏 あの、(口籠《くちごも》る)今夜はどういたしました事でございますか、私《わたくし》の形《なり》……あの、影法師が、この、野中の宵闇《よいやみ》に判然《はっきり》と見えますのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私《わたくし》と一所に動きますのでございますもの。
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三方に分れて彳《たたず》む、三羽の烏、また打頷《うちうなず》く。
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 もう可恐《おそろし》くなりまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい――あの、そして……御前様は、いつ御旅行さきから。
紳士 俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲《あざ》ける口吻《くちぶり》)汝《きさま》たちは、俺が旅行をしたと思うか。
初の烏 はい、一昨日から、北海道の方へ。
紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸の周囲じゃ。
初の烏 はあ、(驚く。)
紳士 俺の旅行は、冥土《めいど》の旅のごときものじゃ。昔から、事が、こういう事が起って、それが破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎる遣方《やりかた》じゃが、せんという事には行《ゆ》かなかった。今云うた冥土の旅を、可厭《いや》じゃと思うても、誰もしないわけには行《ゆ》かぬようなものじゃ。また、汝等《きさまら》とても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人《おっと》か、可《え》えか、俺がじゃ、ある手段として旅行するに極《きま》っとる事を知っておる。汝《きさま》は知らいでも、怜悧《りこう》なあれは知っておる。汝とても、少しは分っておろう。分っていて、その主人が旅行という隙間《すきま》を狙う。わざと安心して大胆な不埒《ふらち》を働く。うむ、耳を蔽《おお》うて鐸《すず》を盗むというのじゃ。いずれ音の立ち、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。いつの事か。一体、いつ頃の事か。これ。
侍女 いつ頃とおっしゃって、あの、影法師の事でございましょうか。それは唯今《ただいま》……
紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等《きさまら》三人の黒い心が、形にあらわれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様、私《わたくし》は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎《めろう》、俺の衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
侍女 ええ。
紳士 さあ、言え。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方《くれがた》の事でございます。美しい虹《にじ》が立ちまして、盛りの藤の花と、つつじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭《かしら》で、胸に炎の搦《から》みました、真紅《しんく》なつつじの羽の交《まじ》った、その虹の尾を曳《ひ》きました大きな鳥が、お二階を覗《のぞ》いておりますように見えたのでございます。その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視《なが》めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空《あおぞら》の中に漲《みなぎ》った大鳥を御覧――お傍《そば》に居《お》りました私《わたくし》にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭《かしら》は私の簪《かんざし》に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭《かしら》を兜《かぶと》に、尾を草摺《くさずり》に敷いて、敵に向う大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭《かしら》を水に浸して、うなだれ悄《しお》れている。どれ、目を遣《や》ろう――と仰有《おっしゃ》いますと、右の中指に嵌《は》めておいで遊ばした、指環《ゆびわ》の紅《あか》い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 そして、雪のようなお手の指を環《わ》に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚《はだ》へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯《さっ》と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々《きらきら》と輝きました。その時でございます。お庭も池も、真暗《まっくら》になったと思います。虹も消えました。黒いものが、ばっと来て、目潰《めつぶ》しを打ちますように、翼を拡げたと思いますと、その指環を、奥様の手から攫《さら》いまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木《こ》の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢《こずえ》を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤《まっか》な、まん円《まる》な、大きな太陽様《おひさま》の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足《はだし》で庭へ駈下《かけお》りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま塀の外へまた飛びましたのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事といっては一度もなかったのでございます。
紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が覚えてからも、止《や》むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥《ふしょう》はなかった。――それがその時、汝《きさま》の手で開いたのか。
侍女 ええ、錠《じょう》の鍵《かぎ》は、がっちりささっておりましたけれど、赤錆《あかさび》に錆切りまして、圧《お》しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴《くちばし》から落しました奥様のその指環を、掌《てのひら》に載せまして、凝《じっ》と見ていましたのでございます。
紳士 餓鬼《がっき》め、其奴《そいつ》か。
侍女 ええ。
紳士 相手は其奴じゃな。
侍女 あの、私《わたくし》がわけを言って、その指環を返しますように申しますと、串戯《じょうだん》らしく、いや、これは、人間の手を放れたもの、烏の嘴から受取ったのだから返されない。もっとも、烏にならば、何時《なんどき》なりとも返して上げよう――とそう申して笑うんでございます。それでも、どうしても返しません。そして――確《たしか》に預る、決して迂散《うさん》なものでない――と云って、ちゃんと、衣兜《かくし》から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおっしゃいました。それから日を極《き》めまして、同じ暮方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あの、烏の装束をお誂《あつら》え遊ばしました。そして私《わたくし》がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶってやろう、とおっしゃって、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひょっと、野原に遊んでいる小児《こども》などが怪しい姿を見て、騒いで悪いというお心付きから、四阿《あずまや》へお呼び入れになりました。
紳士 奴は、あの木戸から入ったな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚《びっくり》するのを御覧、と私《わたくし》にお囁《ささや》きなさいました。奥様が、烏は脚では受取らない、とおっしゃって、男が掌《てのひら》にのせました指環を、ここをお開きなさいまして、(咽喉《のど》のあく処を示す)口でおくわえ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、もうその時から。毒蛇め。上頤下頤《うわあごしたあご》へ拳《こぶし》を引掛《ひっか》け、透通る歯と紅《べに》さいた唇を、めりめりと引裂く、売女《ばいた》。(足を挙げて、枯草を踏蹂《ふみにじ》る。)
画工 ううむ、(二声ばかり、夢に魘《うな》されたるもののごとし。)
紳士 (はじめて心付く)女郎《めろう》、こっちへ来い。(杖《ステッキ》をもって一方を指《ゆびさ》す。)
侍女 (震えながら)はい。
紳士 頭《かしら》を着けろ、被《かぶ》れ。俺の前を烏のように躍って行《ゆ》け、――飛べ。邸を横行する黒いものの形《かた》を確《しか》と見覚えておかねばならん。躍れ。衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
侍女、烏のごとくその黒き袖を動かす。おののき震うと同じ状《さま》なり。紳士、あとに続いて入《い》る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
三羽の烏 (声を揃えて叫ぶ)おいらのせいじゃないぞ。
一の烏 (笑う)ははははは、そこで何と言おう。
二の烏 しょう事はあるまい。やっぱり、あとは、烏のせいだと言わねばなるまい。
三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被《ひっかぶ》るのだな。
二の烏 かぶろうとも、背負《しょ》おうとも。かぶった処で、背負った処で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間《なかま》うちで帳面づらを合せて行《ゆ》く、勘定の遣《や》り取りする。俺たちが構う事は少しもない。
三の烏 成程な、罪も報《むくい》も人間同士が背負いっこ、被《かぶ》りっこをするわけだ。一体、このたびの事の発源《おこり》は、そこな、お一《いち》どのが悪戯《いたずら》からはじまった次第だが、さて、こうなれば高い処で見物で事が済む。嘴《くちばし》を引傾《ひっかた》げて、ことんことんと案じてみれば、われらは、これ、余り性《たち》の善《い》い夥間でないな。
一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言わせれば、善いとも悪いとも言おうがままだ。俺はただ屋の棟で、例の夕飯《ゆうめし》を稼いでいたのだ。処で艶麗《あでやか》な、奥方とか、それ、人間界で言うものが、虹の目だ、虹の目だ、と云うものを(嘴《くちばし》を指す)この黒い、鼻の先へひけらかした。この節、肉どころか、血どころか、贅沢《ぜいたく》な目玉などはついに賞翫《しょうがん》した験《ためし》がない。鳳凰《ほうおう》の髄《ずい》、麒麟《きりん》の鰓《えら》さえ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落《さかおと》しの廂《ひさし》のはずれ、鵯越《ひよどりごえ》を遣ったがよ、生命《いのち》がけの仕事と思え。鳶《とび》なら油揚《あぶらあげ》も攫《さら》おうが、人間の手に持ったままを引手繰《ひったぐ》る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜《くわ》えてな、スポンと中庭を抜けたは可《よ》かったが、虹の目玉と云う件《くだん》の代《しろ》ものはどうだ、歯も立たぬ。や、堅いの候《そうろう》の。先祖以来、田螺《たにし》を突《つッ》つくに練《きた》えた口も、さて、がっくりと参ったわ。お庇《かげ》で舌の根が弛《ゆる》んだ。癪《しゃく》だがよ、振放して素飛《すっと》ばいたまでの事だ。な、それが源《もと》で、人間が何をしょうと、かをしょうと、さっぱり俺が知った事ではあるまい。
二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様《しゃかさま》より間違いのない事を云うわ。いや、またお一どのの指環を銜えたのが悪ければ、晴上がった雨も悪し、ほかほかとした陽気も悪し、虹も悪い、と云わねばならぬ。雨や陽気がよくないからとて、どうするものだ。得ての、空の美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬《しゃくやく》か、牡丹《ぼたん》か、菊か、猿《えて》が折って蓑《みの》にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。ざっと虹のような花よ。人間の家《や》の中《うち》に、そうした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩《まぶし》い虹のような、その花のパッと咲いた処は鮮麗《あざやか》だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命《いのち》を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望《ながめ》はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔《ま》いた紅《あか》い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子《ビイドロ》の器《うつわ》の中へ密《そっ》と蔵《しま》ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後|掴《つか》み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒《まっくろ》よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一《おなじ》かい、別して今来た親仁《おやじ》などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦《から》めて吹いて、右の不思議な花を微塵《みじん》にしょうと苛《あせ》っておるわ。野暮《やぼ》めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花《あだばな》なりとも美しく咲かしておけば可《い》い事よ。
三の烏 なぞとな、お二《ふた》めが、体《てい》の可《い》い事を吐《ぬか》す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎《わろ》だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、突こう、嘗《な》みょう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉《のど》、嘴《くちばし》を、カチカチと噛鳴《かみな》らいておるのでないかい。
二の烏 さればこそ待っている。桜の枝を踏めばといって、虫の数ほど花片《はなびら》も露もこぼさぬ俺たちだ。このたびの不思議なその大輪の虹の台《うてな》、紅玉の蕊《しべ》に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子《ひなげし》が散って実になるまで、風が誘うを視《なが》めているのだ。色には、恋には、情《なさけ》には、その咲く花の二人を除《の》けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人《あるじ》というものはな、淵《ふち》に棲《す》むぬし、峰にすむ主人《あるじ》と同じで、これが暴風雨《あらし》よ、旋風《つむじかぜ》だ。一溜《ひとたま》りもなく吹散らす。ああ、無慙《むざん》な。
一の烏 と云ふ嘴《くちばし》を、こつこつ鳴らいて、内々その吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏 ははははは、俺達だ、ははははは。まず口だけは体《てい》の可《い》い事を言うて、その実はお互に餌食《えじき》を待つのだ。また、この花は、紅玉の蕊《しべ》から虹に咲いたものだが、散る時は、肉になり、血になり、五色《ごしき》の腸《はらわた》となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇《あんこう》のひも、という珍味を、つるりだ。
三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪《たま》らぬわ。(ばたばたと羽を煽《あお》つ。)
二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳《ぬりぜん》、錦手《にしきで》の木《こ》の葉の小皿盛となるまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽《たのし》ませておかねばならん。網で捕《と》ったと、釣ったとでは、鯛《たい》の味が違うと言わぬか。あれ等を苦《くるし》ませてはならぬ、悲《かなし》ませてはならぬ、海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏 むむ、そこで、椅子《いす》やら、卓子《テェブル》やら、天幕《テント》の上げさげまで手伝うかい。
三の烏 あれほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽《おお》うて手伝うとは悟り得ず、薄《すすき》の中に隠したつもりの、彼奴等《あいつら》の甘さが堪《たま》らん。が、俺たちの為《な》す処は、退いて見ると、如法《にょほう》これ下女下男の所為《しょい》だ。天《あめ》が下に何と烏ともあろうものが、大分権式を落すわけだな。
二の烏 獅子《しし》、虎《とら》、豹《ひょう》、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、鷲《わし》、鷹《たか》、みさごぐらいなものか、餌食を掴んで容色《きりょう》の可《い》いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎の実を拝んだ形な。鶴とは申せど、尻を振って泥鰌《どじょう》を追懸《おっかけ》る容体などは、余り喝采《やんや》とは参らぬ図だ。誰も誰も、食《くら》うためには、品も威も下げると思え。さまでにして、手に入れる餌食だ。突《つつ》くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙《むざん》さ、いや、またその骨の肉汁《ソップ》の旨《うま》さはよ。(身震いする。)
一の烏 (聞く半ばより、じろじろと酔臥《よいふ》したる画工を見ており)おふた、お二どの。
二の烏 あい。
三の烏 あい、と吐《ぬか》す、魔ものめが、ふてぶてしい。
二の烏 望みとあらば、可愛い、とも鳴くわ。
一の烏 いや、串戯《じょうだん》は措《お》け。俺は先刻《さっき》から思う事だ、待設けの珍味も可《い》いが、ここに目の前に転がった餌食はどうだ。
三の烏 その事よ、血の酒に酔う前に、腹へ底を入れておく相談にはなるまいかな。何分にも空腹だ。
二の烏 御同然に夜食前よ。俺も一先《いっさき》に心付いてはいるが、その人間はまだ食頃《くいごろ》にはならぬと思う。念のために、面《つら》を見ろ。
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三羽の烏、ばさばさと寄り、頭《こうべ》を、手を、足を、ふんふんとかぐ。
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一の烏 堪《たま》らぬ香《におい》だ。
三の烏 ああ、旨《うま》そうな。
二の烏 いや、まだそうはなるまいか。この歯をくいしばった処を見い。総じて寝ていても口を結んだ奴は、蓋《ふた》をした貝だと思え。うかつに嘴《はし》を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚《いじきたな》の野良犬が来て舐《な》めよう。這奴《しゃつ》四足《よつあし》めに瀬踏《せぶみ》をさせて、可《よ》いとなって、その後で取蒐《とりかか》ろう。食ものが、悪いかして。脂のない人間だ。
一の烏 この際、乾《ひ》ものでも構わぬよ。
二の烏 生命《いのち》がけで乾ものを食って、一分《いちぶん》が立つと思うか、高蒔絵《たかまきえ》のお肴《とと》を待て。
三の烏 や、待つといえば、例の通り、ほんのりと薫って来た。
一の烏 おお、人臭いぞ。そりゃ、女のにおいだ。
二の烏 はて、下司《げす》な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。
三の烏 おお、蘭奢待《らんじゃたい》、蘭奢待。
一の烏 鈴ヶ森でも、この薫《かおり》は、百年目に二三度だったな。
二の烏 化鳥《ばけどり》が、古い事を云う。
三の烏 なぞと少《わか》い気でおると見える、はははは。
一の烏 いや、こうして暗やみで笑った処は、我ながら無気味だな。
三の烏 人が聞いたら何と言おう。
二の烏 烏鳴《からすなき》だ、と吐《ぬか》すやつよ。
一の烏 何も知らずか。
三の烏 不便《ふびん》な奴等。
二の烏 (手を取合うて)おお、見える、見える。それ侍女《こしもと》の気で迎えてやれ。(みずから天幕《テント》の中より、燭《とも》したる蝋燭《ろうそく》を取出だし、野中に黒く立ちて、高く手に翳《かざ》す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾《すそ》に踞《しゃが》む。)
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薄《すすき》の彼方《あなた》、舞台深く、天幕の奥斜めに、男女《なんにょ》の姿|立顕《たちあらわ》る。一《いつ》は少《わかき》紳士、一は貴夫人、容姿美しく輝くばかり。
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二の烏 恋も風、無常も風、情《なさけ》も露、生命《いのち》も露、別るるも薄《すすき》、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、勝手になれ。(怪しき声にて呪《じゅ》す。一と三の烏、同時に跪《ひざまず》いて天を拝す。風一陣、灯《ともしび》消ゆ。舞台一時暗黒。)
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はじめ、月なし、この時薄月出づ。舞台|明《あかる》くなりて、貴夫人も少《わかき》紳士も、三羽の烏も皆見えず。天幕あるのみ。
画工、猛然として覚《さ》む。
魘《おそ》われたるごとく四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みま》わし、慌《あわただ》しく画《え》の包をひらく、衣兜《かくし》のマッチを探り、枯草に火を点ず。
野火《やか》、炎々。絹地に三羽の烏あらわる。
凝視。
彼処《かしこ》に敵あるがごとく、腕を挙げて睥睨《へいげい》す。
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画工 俺の画を見ろ。――待て、しかし、絵か、それとも実際の奴等か。
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[#地から2字上げ]――幕――
[#地から1字上げ]大正二(一九一三)年七月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店
   1942(昭和17)年10月15日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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