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古狢
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)思えば可《い》い

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)お花見|手拭《てぬぐい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「はこがまえ+扁」、第4水準2-3-48、326-2]
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「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」
 寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可《い》い。
「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十《と》ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」
 目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛《たい》を一枚、しるし半纏《ばんてん》という処を、めくら縞《じま》の筒袖《つつッぽ》を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身《つりみ》に取って、尾を空に、向顱巻《むこうはちまき》の結びめと一所に、ゆらゆらと刎《は》ねさせながら、掛声でその量《めかた》を増すように、魚《うお》の頭《かしら》を、下腹から膝頭《ひざがしら》へ、じりじりと下ろして行くが、
「しゃッ、しゃッ。」
 と、腰を切って、胸を反《そ》らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響《ひびき》を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。
「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」
 親仁《おやじ》の面《つら》は朱を灌《そそ》いで、その吻《くちばし》は蛸《たこ》のごとく、魚の鰭《ひれ》は萌黄《もえぎ》に光った。
「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶《せ》るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」
 と黒い外套《がいとう》を着た男が、同伴《つれ》の、意気で優容《やさがた》の円髷《まるまげ》に、低声《こごえ》で云った。
「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」
 人だちの背後《うしろ》から覗《のぞ》いていたのが、連立って歩き出して、
「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。――ここで言っては唐突《だしぬけ》で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲《いずも》の。……茶町という旅館《はたご》間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」
 外套の袖を手で掲げて、
「十貫、百と糶上《せりあ》げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然《ひらり》と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後《うしろ》の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口《こいぐち》に、仲仕とかのするような広い前掛を捲《ま》いて、お花見|手拭《てぬぐい》のように新しいのを頸《えり》に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」
「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱《しか》られるかも知れないけれど、皆《みんな》が蓮根市場《れんこんいちば》というくらいなんですわ。」
「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池《はすいけ》を見に、寄道をしたんだっけ。」
 と、外套は、洋杖《ステッキ》も持たない腕を組んだ。
 話の中には――この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。
 が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠《かれ》の帰省談の中の同伴《つれ》は、その容色《きりょう》よしの従姉《いとこ》なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣《おまいり》の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪《べっぴん》が冴返《さえかえ》って冬空に麗《うらら》かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞《しま》のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細《ほっそ》りとして、抱込《かかえこ》んでやりたいほど、いとしらしい風俗《ふう》である。けれども家業柄――家業は、土地の東の廓《くるわ》で――近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴《よな》れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動《ふるまい》で追々《おいおい》に知れようと思う。
 ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦《にしき》ではない。よって件《くだん》の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖《しんじこ》さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
 湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手《あいて》が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
 いかにも、湖は晃々《きらきら》と見える。が、水が蒼穹《おおぞら》に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺《あたり》は、麓《ふもと》の迫る裾《すそ》になり、遠山は波濤《はとう》のごとく累《かさ》っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端《は》は、巨《おお》きな猪《いのしし》の横に寝た態《さま》に似た、その猪の鼻と言おう、中空《なかぞら》に抽出《ぬきんで》た、牙《きば》の白いのは湖である。丘を隔てて、一条《ひとすじ》青いのは海である。
 その水の光は、足許《あしもと》の地《つち》に影を映射《うつ》して、羽織の栗梅《くりうめ》が明《あかる》く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈《ふ》んで立った――糶売《せりうり》の親仁は、この小春日の真中《まんなか》に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
 ここを入って行きましょうと、同伴《つれ》が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪《しし》の鼻の山裾《やますそ》を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀《こおろぎ》がないていた……」
 蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場《くさっぱ》でしたわね。」
「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒《まんまつぶ》で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸《やしき》の方とは違うんですか。」
 鯛はまだ値が出来ない。山の端《は》の薄《すすき》に顱巻《はちまき》を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更《あらた》めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明《あかり》取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
 と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸《わか》すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢《むじな》の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
 と同伴《つれ》の顔を見た時は、もうその市場の裡《なか》を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の一つ足りないような気がする。今来た入口《はいりぐち》に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹《ゆ》でた豌豆《えんどう》を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履《はき》ものの目立って紅《あか》いのも、もの侘《わび》しい。蒟蒻《こんにゃく》の桶《おけ》に、鮒《ふな》のバケツが並び、鰌《どじょう》の笊《ざる》に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗《のぞ》いている……といった形。
 ――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――
「皆その御眷属《ごけんぞく》が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
 とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜《びん》に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈《じぐちあんどん》が五つ六つあってごらん。――横露地の初午《はつうま》じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭《いや》よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」
「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒《とうがらし》では飲めないよ。」
 と言った。
 市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅《まっか》な蕃椒が夥多《おびただ》しい。……新開ながら老舗《しにせ》と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯《いそ》の香も芬《ぷん》とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩《くるばぶ》で一杯であった。
「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」
 串戯《じょうだん》ではない。日向《ひなた》に颯《さっ》と村雨が掛《かか》った、薄《すすき》の葉摺《はず》れの音を立てて。――げに北国の冬空や。
 二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、
「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」
 という、斜《ななめ》に見える市場の裏羽目に添って、紅蓼《べにたで》と、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火《きつねび》の小提灯《こじょうちん》だか、濡々《ぬれぬれ》と灯《とも》れて、尾花に戦《そよ》いで……それ動いて行く。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」
「可厭《いや》、おじさん。」
 と捩《よ》れるばかり、肩を寄せて、
「気味が悪い。」
「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅《まんだら》が織れよう。」
「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」
「糸が不可《いけな》いとは。」
「……だって、椎《しい》の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗《あずきあらい》ともいうんですわ。」
 後前《あとさき》を見廻して、
「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女《みこ》がそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」
 あなたは知らないのか、と声さえ憚《はばか》ってお町が言った。――この乾物屋と直角に向合《むかいあ》って、蓮根《れんこん》の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森《しん》と暗い、大きな家で、ここを蓮根市《はすいち》とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶《いちだ》の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢《こずえ》である。大昔から、その根に椎の樹|婆叉《ばばしゃ》というのが居て、事々に異霊|妖変《ようへん》を顕《あら》わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪《と》うために来た。……その時分には遊びに往来《ゆきき》もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威《おど》しもしまい。……近所に古狢《ふるむじな》の居る事を、友だちは矜《ほこ》りはしなかったに違いない。
 ――町の湯の名もそれから起った。――そうか、椎の木の大狢、経立《ふッた》ち狢、化婆々《ばけばばあ》。
「あれえ。」
「…………」
「可厭《いや》、おじさんは。」
「あやまった、あやまった。」
 鉄砲で狙《ねら》われた川蝉《かわせみ》のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁《に》げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、
「決して威《おど》す気で言ったんじゃあない。――はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」
 椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩に搦《から》んで、ちょろちょろと首と尾が顕《あら》われた。その上下《うえした》に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝《うね》って通る。……で悚気《ぞっ》としたが、熟《じっ》と視《み》ると、鼠か、溝鼠《どぶねずみ》か、降る雨に、あくどく濡れて這《は》っている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌《しゃべ》って、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。
「そんな事に驚く奴があるものか。」
「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸《たぬき》が居るから。」
 と、大きに蓮葉《はすは》で、
「権《ごん》ちゃん――居るの。」
 獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太で劃《しき》った――(朝市がそこで立つ)――その劃《しきり》の外側を廻って、右の権ちゃん……めくら縞《じま》の筒袖《つつッぽ》を懐手《ふところで》で突張《つっぱ》って、狸より膃肭臍《おっとせい》に似て、ニタニタと顕《あら》われた。廓《くるわ》の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに――市が立つと土足で糶上《せりあが》るのだからと、お町が手巾《ハンケチ》でよく払《はた》いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪《しちりん》の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵《やかん》の湯も沸いていようと、遥《はるか》な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後《うしろ》を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込《ひっこ》んだ工合《ぐあい》が、印《いん》は結ばないが、姉さんの妖術《ようじゅつ》に魅《かか》ったようであった。

 通り雨は一通り霽《あが》ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠《かわせみ》の影が駒下駄を辷《すべ》ってまた映る……片褄端折《かたづまはしょり》に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒《べにはなお》の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状《さま》に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜《びん》、と見ると片手に持った硝子盃《コップ》が、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
 思わず糶声《せりごえ》を立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
 土間はたちまち春になり、花の蕾《つぼみ》の一輪を、朧夜《おぼろよ》にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓《た》めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪《と》う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵《さく》の内外《うちそと》、浄土の逆茂木《さかもぎ》。勿体ないが、五百羅漢《ごひゃくらかん》の御腕《おんうで》を、組違えて揃う中に、大笊《おおざる》に慈姑《くわい》が二杯。泥のままのと、一笊は、藍《あい》浅く、颯《さっ》と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉《じょう》を払い、火箸であしらい、媚《なまめ》かしい端折《はしょり》のまま、懐紙《ふところがみ》で煽《あお》ぐのに、手巾《ハンケチ》で軽く髪の艶《つや》を庇《かば》ったので、ほんのりと珊瑚《さんご》の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然《とろり》となる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
 と頸《えり》の白さを、滑《なめら》かに、長く、傾いてちょっと嬌態《しな》を行《や》る。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
「慈姑《くわい》の田楽、ほほほ。」
 と、簪《かんざし》の珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児《こども》の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――お母《っか》さんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
 今度は、がばがばと手酌で注《つ》ぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、情《なさけ》ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌《どじょう》だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。」
 わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日《おととい》の晩……途中で泊った、鹿落《かおち》の温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半《まよなか》さ。」
「夜半《よなか》。」
 と七輪の上で、火の気に賑《にぎや》かな頬が肅然《じっ》と沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折《つづらおり》とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊《いか》と蝦《えび》は結構だったし、赤蜻蛉《あかとんぼ》に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁《し》みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布《よの》の綿の厚いのがごつごつ重《おもた》くって、肩がぞくぞくする。枕許《まくらもと》へ熱燗《あつかん》を貰って、硝子盃酒《コップざけ》の勢《いきおい》で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠《かわや》へ行《ゆ》くのに、裏階子《うらばしご》を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌《おおいわ》を斫開《きりひら》いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽《かすか》にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍《そば》に大きな石の手水鉢《ちょうずばち》がある、跼《かが》んで手を洗うように出来ていて、筧《かけひ》で谿河《たにがわ》の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈《でんき》が点《つ》いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧《お》されて、薄暗かったと思っておくれ。」
「可厭《いや》あね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
 山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立て籠《こ》むと見えて、薄い靄《もや》のようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿《は》いた草履が、笹葉《ささっぱ》でも踏む心持《こころもち》にバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
 と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧が仄《ほのか》にうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
 お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中《まんなか》の戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、怯《おど》かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条《ひとすじ》、うねうねと伝《つたわ》っている。」
「…………」
「どこからか、細目に灯《あかり》が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄※[#「はこがまえ+扁」、第4水準2-3-48、326-2]《うすひら》ったい処へ、指が立って、白く刎《は》ねて、動いたと思うと、すッと扉《と》が閉《しま》った。招いたような形だが、串戯《じょうだん》じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。」
 その唇が、眉とともに歪《ゆが》んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷《ひや》り、円髷《まるまげ》の手巾《ハンケチ》の落ちかかる、一重《ひとえ》だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟《とっさ》に外套の袖をしごくばかりに引掴《ひきつか》んで、肩と袖で取縋《とりすが》った。片褄の襦袢が散って、山茶花《さざんか》のようにこぼれた。
 この身動《みじろ》ぎに、七輪の慈姑《くわい》が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個《ひとつ》は、こげ目が紫立って、蛙の人魂《ひとだま》のように暗い土間に尾さえ曳《ひ》く。
 しばらくすると、息つぎの麦酒《ビイル》に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥《は》がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。

 一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯《おど》かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音《ね》に紛れる、その椎樹《しいのき》――(釣瓶《つるべ》おろし)(小豆《あずき》とぎ)などいう怪《ばけ》ものは伝統的につきものの――樹の下を通って見たかった。車麩《くるまぶ》の鼠に怯《おび》えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚《びっくり》した、厠《かわや》の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉《と》を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳《ば》せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中《まんなか》の厠は、取壊して今はない筈《はず》だ、と言って、先手に、もう知っている。……
 はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状《ぶざま》に壊れて、向うが薮畳《やぶだた》みになっていたのを思出す。……何、昨夜《ゆうべ》は暗がりで見損《みそこな》ったにして、一向気にも留めなかったのに。……
 ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「――そういえば真中《まんなか》のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細《わけ》があるのかい。」
「おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「もう私……気味が悪いの、可厭《いや》だなぞって、そんな押退《おしの》けるようなこと言えませんわ。あんまり可哀想な方ですもの。それはね、あの、うぐい(※[#「魚へん+成」、第3水準1-94-43、327-15])亭――ずッと河上の、川魚料理……ご存じでしょう。」
「知ってるとも。――現在、昨日《きのう》の午餉《ひる》はあすこで食べたよ。閑静で、落着いて、しんみりして佳《い》い家《うち》だが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。」
「いいえ、あすこの、女中《なかい》さんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代《もよ》さんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻代さんの手なんですよ。」
「おどかしなさんない。おじさんを。」と外套氏は笑ったが。

 ――今年余寒の頃、雪の中を、里見、志賀の両氏が旅して、新潟の鍋茶屋《なべぢゃや》などと併《なら》び称せらるる、この土地、第一流の割烹《かっぽう》で一酌し、場所をかえて、美人に接した。その美人たちが、河上の、うぐい亭へお立寄り遊ばしたか、と聞いて、その方が、なお、お土産になりますのに、と言ったそうである。うぐい亭の存在を云爾《しかいう》ために、両|家《か》の名を煩わしたに過ぎない。両家はこの篇には、勿論、外套氏と寸毫《すんごう》のかかわりもない。続いて、仙女香、江戸の水のひそみに傚《なら》って、私が広告を頼まれたのでない事も断っておきたい。
 近頃は風説《うわさ》に立つほど繁昌《はんじょう》らしい。この外套氏が、故郷に育つ幼い時分《ころ》には、一度ほとんど人気《ひとけ》の絶えるほど寂れていた。町の場末から、橋を一つ渡って、山の麓《ふもと》を、五町ばかり川添《かわぞい》に、途中、家のない処を行《ゆ》くので、雪にはいうまでもなく埋《うず》もれる。平家づくりで、数奇《すき》な亭構《ちんがま》えで、筧《かけひ》の流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐ磧《かわら》で、水は向う岸を、藍《あい》に、蒼《あお》に流れるのが、もの静かで、一層床しい。籬《まがき》ほどもない低い石垣を根に、一株、大きな柳があって、幹を斜《ななめ》に磧へ伸びつつ、枝は八方へ、座敷の、どの窓も、廂《ひさし》も、蔽《おお》うばかり見事に靡《なび》いている。月には翡翠《ひすい》の滝の糸、雪には玉の簾《すだれ》を聯《つら》ねよう。
 それと、戸前《かどさき》が松原で、抽《ぬきん》でた古木もないが、ほどよく、暗くなく、あからさまならず、しっとりと、松葉を敷いて、松毬《まつかさ》まじりに掻《か》き分けた路も、根を畝《うね》って、奥が深い。いつも松露の香がたつようで、実際、初茸《はつたけ》、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。入口に萩の枝折戸《しおりど》、屋根なしに網代《あじろ》の扉《と》がついている。また松の樹を五《いつ》株、六《む》株。すぐに石ころ道が白く続いて、飛地のような町屋の石を置いた板屋根が、山裾に沈んで見えると、そこにその橋がある。
 蝙蝠《こうもり》に浮かれたり、蛍《ほたる》を追ったり、その昔子供等は、橋まで来るが、夜は、うぐい亭の川岸は通り得なかった。外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、麓《ふもと》の出張った低い磧《かわら》の岸に、むしろがこいの掘立小屋《ほったてごや》が三つばかり簗《やな》の崩れたようなのがあって、古俳句の――短夜《みじかよ》や(何とかして)川手水《かわちょうず》――がそっくり想出された。そこが、野三昧《のざんまい》の跡とも、山窩《さんか》が甘い水を慕って出て来るともいう。人の灰やら、犬の骨やら、いずれ不気味なその部落を隔てた処に、幽《かすか》にその松原が黒く乱れて梟《ふくろ》が鳴いているお茶屋だった。――※[#「魚へん+成」、第3水準1-94-43、329-13]《うぐい》、鮠《はや》、鮴《ごり》の類は格別、亭で名物にする一尺の岩魚《いわな》は、娘だか、妻女だか、艶色《えんしょく》に懸相《けそう》して、獺《かわおそ》が件《くだん》の柳の根に、鰭《ひれ》ある錦木《にしきぎ》にするのだと風説《うわさ》した。いささか、あやかしがついていて、一層寂れた。鵜《う》の啣《くわ》えた鮎《あゆ》は、殺生ながら賞翫《しょうがん》しても、獺の抱えた岩魚は、色恋といえども気味が悪かったものらしい。
 今は、自動車さえ往来《ゆきき》をするようになって、松蔭の枝折戸まで、つきの女中が、柳なんぞの縞《しま》お召、人懐《ひとなつっこ》く送って出て、しとやかな、情のある見送りをする。ちょうど、容子《ようす》のいい中年増が給仕に当って、確《たしか》に外套氏がこれは体験した処である。ついでに岩魚の事を言おう。瀬波に翻《ひるが》える状《さま》に、背尾を刎《は》ねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥から活《いき》のまま徒歩で運んで来る、山爺《やまじじい》の一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染《なじみ》だ、と女中が言った。してみると、おなじ獺《おそ》でも山獺が持参するので、伝説は嘘でない。しかし、お町の――一説では、上流五里七里の山奥から山爺は、――どの客にも言うのだそうである。
 水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶《けんえん》であろうと察しらるる。
 さて、「いらして、また、おいで遊ばして」と枝折戸でいう一種綿々たる余韻の松風に伝う挨拶は、不思議に嫋々《じょうじょう》として、客は青柳に引戻さるる思《おもい》がする。なお一段と余情のあるのは、日が暮れると、竹の柄の小提灯《こぢょうちん》で、松の中の径《こみち》を送出すのだそうである。小褄《こづま》の色が露に辷《すべ》って、こぼれ松葉へ映るのは、どんなにか媚《なまめ》かしかろうと思う。

「――お藻代さんの時が、やっぱりそうだったんですってさ。それに、もう十時すぎだったというんです。」
 五年|前《ぜん》、六月六日の夜《よ》であった。明直にいえば、それが、うぐい亭のお藻代が、白い手の幻影《まぼろし》になる首途《かどで》であった。
 その夜、松の中を小提灯で送り出た、中京、名古屋の一客――畜生め色男――は、枝折戸口で別れるのに、恋々としてお藻代を強いて、東の新地――廓《くるわ》の待合、明保野《あけぼの》という、すなわちお町の家《うち》まで送って来させた。お藻代は、はじめから、お町の内に馴染《なじみ》ではあったが、それが更《あらた》めて深い因縁になったのである。

「あの提灯が寂しいんですわ……考えてみますと……雑で、白張《しらはり》のようなんですもの。」――

「うぐい。」――と一面――「亭」が、まわしがきの裏にある。ところが、振向け方で、「うぐい」だけ黒く浮いて出ると、お経ではない、あの何とか、梵字《ぼんじ》とかのようで、卵塔場の新墓に灯《とも》れていそうに見えるから、だと解く。――この、お町の形象学は、どうも三世相《さんぜそう》の鼇頭《ごうとう》にありそうで、承服しにくい。
 それを、しかも松の枝に引掛《ひっか》けて、――名古屋の客が待っていた。冥途《めいど》の首途《かどで》を導くようじゃありませんか、五月闇《さつきやみ》に、その白提灯を、ぼっと松林の中に、という。……成程、もの寂しさは、もの寂しい……
 話はちょっと前後した――うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々|慾張《よくば》って、米俵だの、丁字《ちょうじ》だの、そうした形の落雁《らくがん》を出す。一枚《ひとつ》ずつ、女の名が書いてある。場所として最も近い東の廓《くるわ》のおもだった芸妓《げいしゃ》連が引札《ひきふだ》がわりに寄進につくのだそうで。勿論、かけ離れてはいるが、呼べば、どの妓《おんな》も三味線《さみせん》に応ずると言う。その五年前、六月六日の夜――名古屋の客は――註しておくが、その晩以来、顔馴染にもなり、音信《おとずれ》もするけれども、その姓名だけは……とお町が堅く言わないのだそうであるから、ただ名古屋の客として。……あとを続けよう。

「――みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。」
「飛んだ、おそまつでございます。」
 と白い手と一所に、銚子《ちょうし》がしなうように見えて、水色の手絡《てがら》の円髷《まるまげ》が重そうに俯向《うつむ》いた。――嫋《なよや》かな女だというから、その容子《ようす》は想像に難くない。欄干に青柳の枝垂《しだ》るる裡《なか》に、例の一尺の岩魚《いわな》。※[#「魚へん+成」、第3水準1-94-43、332-17]《うぐい》と蓴菜《じゅんさい》の酢味噌。胡桃《くるみ》と、飴煮《あめに》の鮴《ごり》の鉢、鮴とせん牛蒡《ごぼう》の椀なんど、膳を前にした光景が目前《めさき》にある。……
「これだけは、密《そっ》と取りのけて、お客様には、お目に掛けませんのに、どうして交っていたのでございましょうね。」――

「いや、どうもその時の容子《ようす》といったら。」――
 名古屋の客は、あとで、廓の明保野で――落雁で馴染の芸妓を二三人一座に――そう云って、燥《はしゃ》ぎもしたのだそうで。
 落雁を寄進の芸妓連が、……女中頭ではあるし、披露《ひろ》めのためなんだから、美しく婀娜《あだ》なお藻代の名だけは、なか間の先頭にかき込んでおくのであった。
 ――断るまでもないが、昨日《きのう》の外套氏の時の落雁には、もはやお藻代の名だけはなかった。――
 さて、至極古風な、字のよく読めない勘定がきの受取が済んで、そのうぐい提灯で送って出ると、折戸を前にして、名古屋の客が動かなくなった。落雁の芸妓を呼びに廓へ行く。是非送れ、お藻代さん。……一見は利かずとも、電話で言込めば、と云っても、威勢よく酒の機嫌で承知をしない。そうして、袖たけの松の樹のように動かない。そんな事で、誘われるような婦《おんな》ではなかったのに、どういう縁か、それでは、おかみさんに聞いて許しを得て。……で、おも屋に引返したあとを、お町がいう処の、墓所《はかしょ》の白張のような提灯を枝にかけて、しばらく待った。その薄い灯《あかり》で、今度は、蕈《きのこ》が化けた状《さま》で、帽子を仰向《あおむ》けに踞《しゃが》んでいて待つ。
 やがて、出て来た時、お藻代は薄化粧をして、長襦袢《ながじゅばん》を着換えていた。
 その長襦袢で……明保野で寝たのであるが、朱鷺色《ときいろ》の薄いのに雪輪を白く抜いた友染である。径《みち》に、ちらちらと、この友染が、小提灯で、川風が水に添い、野茨《のばら》、卯《う》の花。且つちり乱るる、山裾の草にほのめいた時は、向瀬《むこうせ》の流れも、低い磧《かわら》の撫子《なでしこ》を越して、駒下駄に寄ったろう。……

 風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下《ひさしさが》りに五月闇《さつきやみ》のように暗くなった。一雨来よう。組合わせた五百羅漢の腕が動いて、二人を抱込《かかえこ》みそうである。
 どうも話が及腰《およびごし》になる。二人でその形に、並んで立ってもらいたい。その形、……その姿で。……お町さんとかも、褄端折をおろさずに。――お藻代も、道芝の露に裳《もすそ》を引揚げたというのであるから。
 一体黒い外套氏が、いい年をした癖に、悪く色気があって、今しがた明保野の娘が、お藻代の白い手に怯《おび》えて取縋った時は、内々で、一抱き柔《やわら》かな胸を抱込《だきこ》んだろう。……ばかりでない。はじめ、連立って、ここへ庭樹の多い士族町を通る間に――その昔、江戸護持院ヶ原の野仏《のぼとけ》だった地蔵様が、負《おぶ》われて行こう……と朧夜《おぼろよ》にニコリと笑って申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟《くっきょう》の勇士が、そのまま中仙道北陸道を負《おぶ》い通いて帰国した、と言伝えて、その負さりたもうた腹部の中窪《なかくぼ》みな、御丈《みたけ》、丈余《じょうよ》の地蔵尊を、古邸《ふるやしき》の門内に安置して、花筒に花、手水鉢に柄杓《ひしゃく》を備えたのを、お町が手つぎに案内すると、外套氏が懐しそうに拝んだのを、嬉しがって、感心して、こん度は切殺された、城のお妾《めかけ》さん――のその姿で、縁切り神さんが、向うの森の祠《ほこら》にあるから一所に行こうと、興に乗じた時……何といった、外套氏。――「縁切り神様は、いやだよ、二人して。」は、苦々しい。
 だから、ちょっとこの子をこう借りた工合《ぐあい》に、ここで道行きの道具がわりに使われても、憾《うら》みはあるまい。

 そこで川通りを、次第に――そうそうそう肩を合わせて歩行《ある》いたとして――橋は渡らずに屋敷町の土塀を三曲りばかり。お山の妙見堂の下を、たちまち明るい廓へ入って、しかも小提灯のまま、客の好みの酔興な、燈籠《とうろう》の絵のように、明保野の入口へ――そこで、うぐいの灯が消えた。
 
「――藤紫の半襟が少しはだけて、裏を見せて、繊《ほっそ》り肌襦袢の真紅なのが、縁の糸とかの、燃えるように、ちらちらして、静《しずか》に瞼《まぶた》を合わせていた、お藻代さんの肌の白いこと。……六畳は立籠《たてこ》めてあるし、南風気《みなみけ》で、その上暖か過ぎたでしょう。鬢《びん》の毛がねっとりと、あの気味の悪いほど、枕に伸びた、長い、ふっくりしたのどへまつわって、それでいて、色が薄《うっす》りと蒼《あお》いんですって。……友染の夜具に、裾は消えるように細《ほっそ》りしても――寝乱れよ、おじさん、家業で芸妓衆《げいしゃしゅ》のなんか馴《な》れていても、女中だって堅い素人なんでしょう。名古屋の客に呼ばれて……お信《のぶ》――ええ、さっき私たち出しなに駒下駄を揃えた、あの銀杏返《いちょうがえし》の、内のあの女中ですわ――二階廊下を通りがかりにね、(おい、ねえさんか、湯を一杯。)……
(お水《ひや》を取かえて参りましょうか。)枕頭《まくらもと》にあるんですから。(いや、熱い湯だ。……時々こんな事がある。飲過ぎたと見えて寒気がする。)……これが襖《ふすま》越しのやりとりよ。……
 私?……私は毎朝のように、お山の妙見様へお参りに。おっかさんは、まだ寝床に居たんです。台所の薬鑵《ゆわかし》にぐらぐら沸《たぎ》ったのを、銀の湯沸《ゆわかし》に移して、塗盆で持って上って、(御免遊ばせ。)中庭の青葉が、緑の霞に光って、さし込む裡《なか》に、いまの、その姿でしょう。――馴《な》れない人だから、帯も、扱帯《しごき》も、羽衣でも※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12、336-10]《むし》ったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分ります。――薄い朱鷺色《ときいろ》、雪輪なんですもの、どこが乳だか、長襦袢だか。――六畳だし……お藻代さんの顔の前、枕まではゆきにくい。お信が、ぼうとなって、入口に立ちますとね、(そこへ。)と名古屋の客がおっしゃる。……それなりに敷蒲団《しきぶとん》の裾へ置いて来たそうですが。」
 外套氏は肩をすくめた。思わず危険を予感した。
「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷《すべ》ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐《とびかか》る勢《いきおい》で、お藻代さんの、恍惚《うっとり》したその寝顔へ、蓋《ふた》も飛んで、仰向《あおむ》けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄の釜《かま》で煮られたんです。
 あの、美しい、鼻も口も、それッきり、人には見せず……私たちも見られません。」
「野郎はどうした。」
 と外套氏の膝の拳《こぶし》が上った。
「それはね、ですが、納得ずくです。すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て――長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、
(――ちょっと事件が起りました。女は承知です。すぐ帰りますから。)――
 分外なお金子《かね》に添えて、立派な名刺を――これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから、(ちょっとどうぞ、旦那。)と引留めて置いて、まだ顔も洗わなかったそうですけれど、トントンと、二階へ上って、大急ぎで廊下を廻《めぐ》って、襖《ふすま》の外から、
(――夫人《おく》さん――)
 ひっそりしていたそうです。
(――夫人さん、旦那様はお帰りになりますが。)――
 ものに包まれたような、ふくみ声で、
(いらして、またおいであそばして……)――
 と、震えて、きれぎれに聞こえたって言います。
 おじさん、妙見様から、私が帰りました時はね、もう病院へ、母がついて、自動車で行ったあとです。お信たちのいうのでは、玉子色の絹の手巾《ハンケチ》て[#「て」は「で」の誤植?、338-2]顔を隠した、その手巾が、もう附着《くッつ》いていて離れないんですって。……帯をしめるのにも。そうして手巾に(もよ)と紅糸《あかいと》で端縫《はしぬい》をしたのが、苦痛にゆがめて噛緊《かみし》める唇が映って透くようで、涙は雪が溶けるように、頸脚《えりあし》へまで落ちたと言います。」
「不可《いけな》い……」
 外套氏は、お町の顔に当てた手巾を慌《あわただ》しく手で払った。
 雨が激しく降って来た。
「……何とも申様がない……しかし、そこで鹿落の温泉へは、療治に行ったとでもいうわけかね。」
「湯治だなんのって、そんな怪我ではないのです。療治は疾《と》うに済んだんですが、何しろ大変な火傷《やけど》でしょう。ずッと親もとへ引込んでいたんですが、片親です、おふくろばかり――外へも出ません。私たちが行って逢う時も、目だけは無事だったそうですけれども、すみの目金をかけて、姉《ねえ》さんかぶりをして、口にはマスクを掛けて、御経を習っていました。お客から、つけ届けはちゃんとありますが、一度来るといって、一年たち三年たち、……もっとも、沸湯《にえゆ》を浴びた、その時、(――男を一人助けて下さい。……見継ぎは、一生する。)――両手をついて、言ったんですって。
 お藻代さんは、ただ一夜《ひとよ》の情《なさけ》で、死んだつもりで、地獄の釜で頷《うなず》いたんですね。ですから、客の方で約束は違えないんですが、一生飼殺し、といった様子でしょう。
 旅行《たび》はどうしてしたでしょう。鹿落の方角です、察しられますわ。霜月でした――夜汽車はすいていますし、突伏《つっぷ》してでもいれば、誰にも顔は見られませんの。
 温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半《よなか》だったんですって。――どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの真中《まんなか》へは入るものではないとは知っていたけれども、誰も入るもののないのを、かえって、たよりにして、夜ふけだし、そこへ入って……情《なさけ》ないわけねえ。……鬱陶《うっとう》しい目金も、マスクも、やっと取って、はばかりの中ですよ。――それで吻《ほっ》として、大《おおき》な階子段《はしごだん》の暗いのも、巌山《いわやま》を視《なが》めるように珍らしく、手水鉢《ちょうずばち》に筧《かけひ》のかかった景色なぞ……」
「ああ、そうか。」
「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、覗《のぞ》いたり、見廻したり、可哀想じゃありませんか。
 ――かきおきにあったんです――
 ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。――それが細い白い手よ。」
「むむ、私のような奴だ。」
 と寂しく笑いつつ、毛肌になって悚《ぞっ》とした。
「ぎゃっと云って、その男が、凄《すさま》じい音で顛動返《ひっくりかえ》ってしまったんですってね。……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。
 もう身も世も断念《あきら》めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」
「厠《かわや》からすぐだろうか。」
「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体《からだ》なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄《きよ》めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭《いや》。……それだとどこで遺書《かきおき》が出来ます。――轢《ひ》かれたのは、やっと夜《よ》の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽《かすか》なお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。――三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」
「もの凄《すご》い。」
「でも、分らないのは、――新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰《すそごし》のたしなみはしてあるのに、衣《き》ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。」
「ああ、縁台が濡れる。」
 と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。
「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白《まっしろ》な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵《みじん》に轢《ひ》かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧《わ》いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。
 堤防《どて》を離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途の椎《しい》の枝に、飛上った黒髪が――根をくるくると巻いて、倒《さかさ》に真黒《まっくろ》な小蓑《こみの》を掛けたようになって、それでも、優しい人ですから、すんなりと朝露に濡れていました。それでいて毛筋をつたわって、落ちる雫《しずく》が下へ溜《たま》って、血だったそうです。」
「寒くなった。……出ようじゃないか。――ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒《とうがらし》か。慌てている。が雨は霽《あが》った。」
 提灯なしに――二人は、歩行《ある》き出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。
「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺《てすり》に寄掛《よりかか》って。」
「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。――まだ麦酒《ビイル》があったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落《しゃれ》てるわね。」
「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻《さっき》いった――八田――紺屋の干場の近くに家《うち》のあった、その男のような気がしたよ。小学校以来。それだって空《くう》な事過ぎるが、むかし懐かしさに、ここいら歩行《ある》かないとは限らない。――女づれだから、ちょっと言《ことば》を掛けかねたろう。……
 それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。――鹿落を日暮方出て此地《ここ》へ来る夜汽車の中で、目の光る、陰気な若い人が真向《まむこう》に居てね。私と向い合うと、立掛けてあった鉄砲――あれは何とかいう猟銃さ――それを縦に取って、真鍮《しんちゅう》の蓋《ふた》を、コツコツ開けたり、はめたりする。長い髪の毛を一振振りながら、(猟師と見えますか。)ニヤリと笑って、(フフン、世を忍ぶ――仮装ですよ。)と云ってね。袋から、血だらけな頬白《ほおじろ》を、(受取ってくれたまえ。)――そういって、今度は銃を横へ向けて撃鉄《うちがね》をガチンと掛けるんだ。(麁葉《そは》だが、いかがです。)――貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢《ぜいたく》なものをやりますな、僕は、主義として、そういうものは用いないです。)またそういって、撃鉄をカチッと行《や》る。
 貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾《さんだん》で鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴《きどうかねどう》からくり胴鳴って通る飛団子、と一所に、隧道《トンネル》を幾つも抜けるんだからね。要するに仲蔵以前の定九郎だろう。
 そこで、小鳥の回向料《えこうりょう》を包んだのさ。
 十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、袂《たもと》から名札を出して、寄越《よこ》そうとして、また目を光らして引込《ひっこ》めてしまった。
 ――小鳥は比羅《びら》のようなものに包んでくれた。比羅は裂いて汽車の窓から――小鳥は――包み直して宿へ着いてから裏の川へ流した。が、眼張魚《めばる》は、蟇《ひきがえる》だと諺《ことわざ》に言うから、血の頬白は、※[#「魚へん+成」、第3水準1-94-43、342-18]《うぐい》になろうよ。――その男のだね、名刺に、用のありそうな人物が、何となく、立っていたんじゃないかとも思ったよ。」
 家業がら了解《わかり》は早い。
「その向《むき》の方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊《どろぼう》や風俗の方ばかりじゃありません。」
「いや、大きに――それじゃ違ったろう。……安心した。――時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」
「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」
「大きな店らしいのに、寂寞《ひっそり》している。何屋だろう。」
「有名な、湯葉屋です。」
「湯葉屋――坊主になり損《そこな》った奴の、慈姑《くわい》と一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場で覗《のぞ》いたっけ。……あれは、面白い。」
「入ってみましょう。」
「障子は開いている――ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可《い》いかい。」
「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、――見学に、ほほほ。」
 掃清めた広い土間に、惜《おし》いかな、火の気がなくて、ただ冷たい室《むろ》だった。妙に、日の静寂間《しじま》だったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺《かねじゃく》に隅を取って、また五つばかり銅《あかがね》の角鍋が並んで、中に液体だけは湛《たた》えたのに、青桐《あおぎり》の葉が枯れつつ映っていた。月も十五に影を宿すであろう。出ようとすると、向うの端から、ちらちらと点《つ》いて、次第に竈《かまど》に火が廻った。電気か、瓦斯《がす》を使うのか、ほとんど五彩である。ぱッと燃えはじめた。
 この火が、一度に廻ると、カアテンを下ろしたように、窓が黒くなって、おかしな事には、立っている土間にひだを打って、皺《しわ》が出来て、濡色に光沢《つや》が出た。
 お町が、しっかりと手を取った。
 背後《うしろ》から、
「失礼ですが、貴方《あなた》……」
 前刻《さっき》の蓮根市《はすいち》の影法師が、旅装で、白皙《はくせき》の紳士になり、且つ指環《ゆびわ》を、竈《かまど》の火に彩られて顕《あら》われた。
「おお、これは。」
 名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸《はすいけやしき》の坊ちゃんであった。
「見覚えがおありでしょう。」
 と斜《ななめ》に向って、お町にいった。
「まあ。」
 時めく婿は、帽子《ソフト》を手にして、
「後刻、お伺いする処でした。」
 驚破す、再び、うぐい亭の当夜の嫖客《ひょうかく》は――渠《かれ》であった。
 三人のめぐりあい。しかし結末にはならない。おなじ廓《くるわ》へ、第一歩、三人のつまさきが六つ入交《いれまじ》った時である。
 落葉のそよぐほどの、跫音《あしおと》もなしに、曲尺《かねじゃく》の角を、この工場から住居《すまい》へ続くらしい、細長い、暗い土間から、白髪《しらが》がすくすくと生えた、八十を越えよう、目口も褐漆《かっしつ》に干からびた、脊の低い、小さな媼《ばあ》さんが、継はぎの厚い布子《ぬのこ》で、腰を屈《かが》めて出て来た。
 蒼白《まっさお》になって、お町があとへ引いた。
「お姥《ばあ》さん、見物をしていますよ。」
 と鷹揚《おうよう》に、先代の邸主は落《おち》ついて言った。
 何と、媼《ばば》は頤《あご》をしゃくって、指二つで、目を弾《はじ》いて、じろりと見上げたではないか。
「無断で、いけませんでしたかね。」
 外套氏は、やや妖変《ようへん》を感じながら、丁寧に云ったのである。
「どうなとせ。」
 唾《つば》と泡が噛合《かみあ》うように、ぶつぶつと一言《ひとこと》いったが、ふ、ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしか鍋《なべ》の列のちょうど土間へ曲角の、火の気の赫《かっ》と強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、肱《ひじ》を張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込《つっこ》んだ。
 が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁《あく》の面《つら》と、べとりと真黄色《まっきいろ》に附着《くッつ》いた、豆府の皮と、どっちの皺《しわ》ぞ! 這《は》ったように、低く踞《しゃが》んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡《もた》げた。
 口のあたりが、びくりと動き、苔《こけ》の青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろと舐《な》め下ろすと、湯葉は、ずり下《さが》り、めくれ下《お》り、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた、その白い顔は、湯葉一枚を二倍にして、土間の真中《まんなか》に大きい。
 同時に、蛇のように、再び舌が畝《うね》って舐め廻すと、ぐしゃぐしゃと顔一面、山女《あけび》を潰《つぶ》して真赤《まっか》になった。
 お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所に固《かたま》った、我が足がよろめいて、自分がドシンと倒れたかと思う。名古屋の客は、前のめりに、近く、第一の銅鍋の沸上った中へ面《おもて》を捺《お》して突伏《つっぷ》した。
「あッ。」
 片手で袖を握《つか》んだ時、布子の裾のこわばった尖端《とっさき》がくるりと刎《は》ねて、媼《ばばあ》の尻が片隅へ暗くかくれた。竈《かまど》の火は、炎を潜めて、一時《いっとき》に皆消えた。
 同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、装《も》り上ったように見透かさるる市街に、暮早き電燈の影があかく立って、銅《あかがね》の鍋は一つ一つ、稲妻に似てぴかぴかと光った。
 足許も定まらない。土間の皺《しわ》が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚《うお》のごとく、手足を刎《は》ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛《ただれ》が紫の皺を、波打って、動いたのである。
 市《いち》のあたりの人声、この時|賑《にぎや》かに、古椎《ふるしい》の梢《こずえ》の、ざわざわと鳴る風の腥蕈《なまぐさ》さ。
 ――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他《ほか》のを選んだ。
 生命《いのち》に仔細《しさい》はない。
 男だ。容色なんぞは何でもあるまい。
 ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書《かきおき》にさえ、黒髪のおくれ毛ばかりも、怨恨《うらみ》は水茎のあとに留めなかったというのに。――
 現代――ある意味において――めぐる因果の小車《おぐるま》などという事は、天井裏の車麩《くるまぶ》を鼠が伝うぐらいなものであろう。
 待て、それとても不気味でない事はない。
 魔は――鬼神は――あると見える。

 附言。
 今年、四月八日、灌仏会《かんぶつえ》に、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町《こうじまち》六丁目、擬宝珠《ぎぼうし》屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂《はなみどう》に詣《もう》でた。寺内に閻魔堂《えんまどう》がある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、
「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」
 唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品《ようほん》を読誦《どくじゅ》する程度の智識では、説教も済度も覚束《おぼつか》ない。
「いずれ、それは……その、如是我聞《にょぜがもん》という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古《みさご》(鮨屋)はいかがです。」
「いや。」
「これは御挨拶。」
 いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。
「朝飯《あさ》を済ましたばかりなのよ。」
 午後三時半である。ききたまえ。
「そこを見込んで誘いましたよ。」
「私もそうだろうと思ってさ。」 
 大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻《くしまき》の女が、もの静《しずか》に来かかって、うつむいて、通過ぎた。
「いい女ね。見ましたか。」
「まったく。」
「しっとりとした、いい容子《ようす》ね、目許《めもと》に恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。」
 三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許《えりもと》が白く、肩が窶《やつ》れていた。
 かねて、外套氏から聞いた、お藻代の俤《おもかげ》に直面した気がしたのである。
 路地うちに、子供たちの太鼓の音が賑《にぎ》わしい。入って見ると、裏道の角に、稲荷神《いなりがみ》の祠《ほこら》があって、幟《のぼり》が立っている。あたかも旧の初午《はつうま》の前日で、まだ人出がない。地口行燈《じぐちあんどん》があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋《あめや》、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴《ほうふつ》した。
 縦通りを真直《まっす》ぐに、中六《なかろく》を突切《つッき》って、左へ――女子学院の塀に添って、あれから、帰宅の途《みち》を、再び中六へ向って、順に引返《ひっかえ》すと、また向うから、容子といい、顔立もおなじような――これは島田髷《しまだ》の娘さんであった――十八九のが行違った。
「そっくりね。」
「気味が悪いようですね。」
 と家内も云った。少し遠慮して、間をおいて、三人で斉《ひと》しく振返ると、一脈の紅塵《こうじん》、軽く花片《はなびら》を乗せながら、うしろ姿を送って行く。……その娘も、町の三辻の処で見返った。春|闌《たけなわ》に、番町の桜は、静《しずか》である。
 家へ帰って、摩耶夫人《まやぶにん》の影像――これだと速《すみやか》に説教が出来る、先刻《さっき》の、花御堂の、あかちゃんの御母ぎみ――頂餅《いただき》と華をささげたのに、香をたいて、それから記しはじめた。
昭和六(一九三一)年七月[#地より1字上げ]



底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
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