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奈々子
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頭《つむり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66、35-9]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つぶ/\綛の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 其日の朝であった、自分は少し常より寢過して目を覺すと、子供達の寢床は皆殼になつてゐた。自分が嗽に立つて臺所へ出た時、奈々子は姉なるものゝ大人下駄を穿いて、外とへ出ようとする處であつた。凉爐の火に煙草を喫つてゐて、自分と等しく奈々子の後姿を見送つた妻は、
『奈々ちやんはねあなた、昨日から覺えてわたい、わたいつて云ひますよ。
『さうか、うむ。
 答へた自分も妻も同じやうに、愛の笑が自から顏に動いた。
 出口の腰障子につかまつて、敷居を足越《あご》さうとした奈々子も、振返りさまに兩親を見てにつこり笑つた。自分は其儘外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66、35-9]箱から雛を出して追込に入れてゐる。雪子もお兒も如何にも面白さうに笑ひながら※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66、35-10]を見て居る。
 奈々子もそれを見に降りて來たのだ。
 井戸端の流し場に手水を濟した自分も、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66、35-12]に興がる子供達の聲に引かされて、覺えず彼等の後ろに立つた。先に父を見つけたお兒は、
『おんちやんにおんぼしんだ、おんちやんにおんぼしんだ。
と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、
『わたえもおんも、わたえもおんも。
と同じく父に取りつくのであつた。自分はいつもの如くに、おんぼといふ姉とおんもといふ妹とを一所に背負うて、暫く彼等を笑はせた。梅子が餌を持出してきて雛にやるので再び四人の子供は追込みの前に立つた。お兒が、
『おんちやんおやとり、おんちやんおやとり。
といふから、お兒ちやん、おやとりがどうしたかと聞くと、お兒ちやんは、おやとりつち詞を此頃覺えたからさういふのだと梅子が答へる。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、
『お兒ちやんのかんこ、お兒ちやんのかんこ。
と云ひ出した。お兒の下駄を借りたいと云ふのである。父は幼き姉を賺かして其下駄を借さした。お兒は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取替へる、奈々子は滿足の色を笑に湛はして、雪子とお兒の間に挾まりつゝ雛を見る。つぶ/\綛の單物に桃色の彦帶を後に垂れ、小さな膝を折つて其兩膝に罪のない手を乘せて蹲踞んで居る。雪子もお兒もながら、一番小さい奈々子の風が殊に親の目を引くのである。虱が湧いたとかで、頭《つむり》をくり/\とバリガンで刈つて終うた、頭つきがいたづらさうに見えて一層親の目に可愛ゆい。妻も臺所から顏を出して、
『三人が能く並んで蹲踞んでること、奈々ちやんや※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66、37-1]が面白いかい奈々ちやんや。
 三兒は一樣に振返つて母と笑ひあふのである。自分は胸に動悸するまで、此光景に深く感を引いた。
 此日は自分は一日家に居つた。三兒は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。
 三人が菓子を貰ひに來る、お兒が一番無遠慮にやつてくる。
『おんちやん、おんちやん、かちあるかいかち、奈子ちやんがかちだつて。
 續いて奈々子が走り込む。
『おつちやんあつこ、おつちやんあつこ、はんぶんはんぶん。
と云ひつゝいきなり父に取りつく [#あきはママ]奈々子が菓子ほしいといふ時に、父は必ずだつこしろ、だつこすれば菓子やるといふ爲に、菓子のほしい時彼はあつこ/\と叫んで父の膝に乘るのである。一つでは餘り大きいといふので、半分づゝだよと云ひ聞せられる爲に、自分からはんぶんはんぶんといふのである。四才のお兒はがつこといひ、三才の奈々子はあつこと云ふ。年の違ひもあれど、いくらか性質の差も判るのである。六才の雪子は二人の跡から這入つてきて、只しれ/\と笑つて居る。菓子が三人に分配されると、直ぐに去つて終ふ。風の凪いだやうに跡は靜かになる。靜かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思ふ。さう思つて庭を見ると、いつの間にか三人は庭の明地に來て居つた。くり/\頭に桃色の彦帶が一人、角子頭に卵色の兵兒帶が二人、何が面白いか笑もせず聲も立てず、何かを摘んでる樣子だ。自分は只頭りの動くのと彦帶のふら/\するのを暫く見詰めて居つた。自分も聲を挂けなかつた、三人も菓子とも思はなかつたか、やがてはた/\足音がするから顏を出して見ると、奈々子が後になつて三人が手を振つて駈ける後姿が目にとまつた。
 御飯が出來たからおんちやんを呼んでお出と彼等の母が云ふらしかつた。奈々ちやんお先にお出よ奈々ちやんと雪子が叫ぶ。幼き二人の傳令使は見る間に飛込んで來た。二人は同體に父の背に取りつく。
『おんちやん御はんおあがんなさいつて。
『おはんなさい、ハヽヽヽヽ
 父は兩手を廻し、大きな背に又二人を負んぶして立つた。出口が狹いので少し體を横に漸く通る窮屈さを一層興がつて、二人は笑ひ叫ぶ。父の背を降りない内から、二人でおんちやんを呼んできたと母に云ふ騷ぎ、母は猶立働いてる。父と三兒は向合に食卓についた。お兒は四つでも、箸持つことは、まだ本當でない、少し見ないと左手に箸を持つ、又お箸の手が違つたよと云へば、直ぐ右に直すけれど、少しすると又左に持つ、屡注意して右に持たせる位であるから、飯も盛にこぼす。奈々子は一年十ヶ月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物を汚すことも少ないのである。姉等が坐るに狹いと云へば、身を片寄せて席をゆづる、彼れの母は彼れを熟視して、奈々ちゃんは顏構からしてしつかりして居ますねいといふ。
 末子であるから埒もなく可愛といふ譯ではないのだ。此の子はと思ふのは彼れの母許りではなく、父の目にもさう見えた。
 午後は奈々子が一晝寢してからであつた、雪子もお兒も鞦韆に飽き、寢覺めた奈々子を連れて、表の方に居る樣子であつたが、格子戸をからり明けて駈け上りざまに三兒は吾勝ちと父に何か告げんとするのである。
『お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が。
『おんちやん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちやん。
『へんだ、おつちやんへんだ。
 奈々子は父の手を取つて頻りに來て見よとの意を示すのである。父は只氣が弱い、口で求めず手で引立てる奈々子の要求に少しも逆ふことは出來ない。父は引かるゝまゝに三兒の後から表にある水鉢の金魚を見に往つた。五六匹死んだ金魚は外に取捨てられ、殘つた金魚はなまこの水鉢の中にくる/\輪をかいて廻つて居た、水は青黒く濁つてる。自分は早速新しい水をバケツに二はい汲み入れてやつた。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
『きんごおつちやんきんご、おつちやんきんご。
『もう金魚へにやしないねいねいおんちやん、へにやしないねい。
 三兒は一時金魚の死んだのに驚いたらしかつた。父は更に金魚を買ひ足してやることを約束して座に返つた。三人は猶頻りに金魚をながめて年相當な會話をやつてるらしい。

 後から考へた此時の状態を何と云つたらよいか。無邪氣な可憐な、殆ど神に等しき幼きものゝ上に、悲慘なる運命は已に近く迫りつゝありしことを、どうして知り得られよう。
 くり/\と毛を刈つたつむり、つや/\と肥つた其手や足や、撫でゝさすつて、はては舐りまはしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れて終つた。おんもと云ひ、あつこと云ひ、おつちやんと云つた其悲しい聲は永遠に父の耳を離れて終つた。
 此日の薄暮頃に奈々子の身には不測の禍があつた。さうして父は奈々子が此世を去る數時間以前奈々子に別れて終つた、然かも奈々子も父も家に居つて………。いつもならば、家に居れば僅かの間見えなくとも、必ず子供はどうしたと尋ねるのが常であるのに、其日の午後は、どいふものか數時間の間子供をたづねなかつた。跡から思ふと、闇の夜に顏も見得ず別れて終つたやうな氣がしてならない。

 一つの乳牛に消化不良なのがあつて、今井獸醫の來たのは、井戸端に夕日の影の薄い頃であつた。自分は今井と共に牛を見て、牧夫に投藥の方法など示した後、今井獸醫が、何か見せたい物があるからと云はるゝまゝに、今井の宅に打連れて往くことにした。自分が牛舍の流しを出て臺所へあがり、奧へ通つた内に梅子と女中は夕食の仕度に忙しく、雪子もお兒もうろ/\遊んでゐた、民子も秋子も鞦韆に遊んでゐた。只奈々の姿が見えなかつた。それでも自分は敢て怪みもせず、今井と共に門を出た、今井の宅は十二三分間で往かれる所である。
 今井の宅には洋燈もついて外に知人も一人居つた。上がつてから凡そ十五六分も過ぎたと思ふ時分に、あわたゞしき迎へのものは、長女と女中であつた。
『お父さん大へんです、奈々ちゃんが池へ落ちて………。
 それやつと口から出たか出ないかも覺えがなく、人を押しのけて飛出した。飛び出でる間際にも、
『奈々子は泣いたかツ
と問うたら、長女の聲で未だ泣かないと聞えた。自分は其不安な一語を耳に挾さんで、走りに走つた。走れば十分とはかゝらぬ間なれど肥つた自分には息切れがして殆どのめりさうである。漸く家近く來ると梅子が走つてきた。自分は又
『奈々子は泣いたか。
『まだ泣かない、お父さん未だ醫者も來ない。
 自分は周章てながらも六つかしいなと腹に思ひつゝ猶一息と走つた。
 わや/\と騷がしい家の中は薄暗い。妻は臺所の土間に藁火を焚いて、裸體の死兒を温ためようとしてゐる。入口には二三人近所の人もゐたやうなれど誰だか別らぬ。民子、秋子、雪子等の泣聲は耳に入つた。妻は自分を見るや泣聲を絞つて、何だつてもう浮いてゐたんですもの、どうしてえいやら判らないけれど、隣の人が藁火で暖めなければつて云ふもんですから、これで生き返へるでせうか………………。自分は直に奈々子を引取つた。引取ながらも醫者は何と云つた、坂部は居たかと云へば、坂部は家に居つて直ぐくると云ひましたと返辭したのは誰だか判らなかつた。
 水に濡れた紙の如く、とんと手ごたへがなく、頸も手も腰にも足にも、いさゝかだも力といふものはない。父は冷えた吾が子を素肌に押し當て、聞き覺えの覺束なき人工呼吸を必死と試みた。少しも驗はない。見込のあるものやら無いものやら、只わく/\するのみである。かういふ内醫者はどうして來ないかと叫ぶ。仰向けに寢かして心臟音を聞いても見た。素人ながらも、何等生ある音を聞き得ない。水は吐いたかと聞けば、吐かないといふ、併し腹に水のある樣子もない。どうする詮も知らずに着物を暖めてはあてがひ、暖めてはあてがつてるのみ、家中皆立つて手にする事がなくうろ/\してる。妻は叫ぶ、坂部さんが居なければ木下さんへ往けつてこかねい、坂部さんはどうしたんだらうねい。坂部さんへ又見にゆきましたといふものがあつた。妻は上げた時直ぐに奈アちやんやつて呼んだら、どうも返辭をしたやうであつたがねい、返辭ではなかつたのか知ら………。なんだつて浮いてゐたのを見つけたんだもの、よもや池とは思はないから、一番あとで池を見たら浮いてゐたんですもの、と云ふ。
 それでも息を吹返すこともやと思ひながら、浮いて居つたといふ事は、落ちてから時間のあることを意味するから、妻は屡それを氣にする。
『坂部さんが、坂部さんが、
といふ聲は、家中に息を殺させた。それで醫者ならば生返らせる事が出來るかとの一縷の望をかけて、一齊に醫者に思ひをあつめた。自分は其時までも、肌に抱締め暖めてゐた子供を、始めて蒲團の上へ放した。冷然たる醫師は、一二語簡單な挨拶をしながら診察にかゝつた。併し診察は無造作であつた、聽診器を三四ヶ所胸にあてがつて見た後、瞳を見、眼瞼を見、それから形許りに人工呼吸を試み、注射をした、肛門を見て、死後三十分位を經過して居ると云ふ。この一語は診察の終りであつた。多くの姉妹等は今更の如く聲を立てゝ泣く、母は顏を死兒に押當てゝ打伏して終つた。池があぶないあぶないと思つて居ながら、何といふ不注意な事をしたんだらう。自分も今更の如く我が不注意であつた事が悔いられる。醫師は其内歸つて終はれた。
 近所の人々が來てくれる、親類の者も寄つてくる。來る人毎に同じやうに顛末を問はれる。妻は人のたづねに答へないのも苦しく、答へるのは猶更苦しい。勿論問ふ人も義理で問ふのであるから、深くは問ひもせぬけれど、妻は堪らなくなつて、
『今夜わたしはあなたと二人きりで此兒の番をしたい。
と云ひだす。自分はさうもいくまいが、兎に角此所へは置けない、奧へ床を移さねばならぬと云つて、奧の床の前へ席を替さした。枕上に經机を据ゑ、線香を立てた。奈々子は死顏美しく眞に眠つてるやうである。線香を立てゝ死人扱ひをするのが可哀相でならないけれど、線香を立てないのも無情のやうに思はれて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらといふ親戚の助言は聞かなかつた。未だ此の世の人でないとはどうしても思はれないから、燈明を上げるだけは今夜の十二時過からにしてと云つた。
 親戚の妻女誰彼も通夜に來てくれた。平生愛想笑ひをする癖が、弔み詞の間に出るのを強ひて噛殺すのが苦しさうであつた。近所の者の此際の無駄話は實に厭であつた。寄つてくれた人達は當然の事として、診斷書の事、死亡屆の事、埋葬證の事、寺の事など忠實に話してくれる。自分はしやう事なしに、宜しく頼むと云ては居るものゝ、只管眠つてるやうに、花の如く美しく寢て居る此兒の前で、葬式の話をするのは情なくて堪らなかつた。投出してる我が兒の足に自分の手を添へ、其足を我が顏へひしと押當てゝ横顏に伏してゐる妻は、埋葬の話を聞いてるか聞いてゐないか、只悲しげに力なげに、身を我兒の床に横へて居る。手にする事がなくなつて、父も母も心の思ひは愈※[#二の字点、面区点番号1-2-22、43-16]亂れるのである。
 我が子の寢顏につく/″\見入つて居ると、自分はどうしても此兒が呼吸してるやうに思はれてならない。胸に覆うてある單物の或點がいくらか動いて居つて、それが呼吸の爲めに動くやうに思はれてならぬ。親戚の妻女が二つになる子供をつれてきて、そこに寢せてあれば、其兒の呼吸の音が、どうかすると我が兒のそれのやうに聞える。自分は堪へられなくなつて、覆ひの着物を除け、再び我兒の胸に耳をひつつけて心臟音を聞いて見た。
 何程念を入れて聞いても、絶對の靜かさは、到底永久の眠りである。再び動くといふことなき永久の靜かさは、實に冷刻の極みである。
 永久なる眠も冷刻なる靜かさも、猶此儘我が目に留め置くことが出來るならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はある譯なれど、殘酷にして淺薄な人間は、それ等の希望に何の工風を費さない。
 どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臟音の停止を聞くや、猶幾時間も立たない内から、埋葬の協議にかゝる。自分より遠けて、自分の目より離さんと工風するのが人間の心である。哲學がそれを謳歌し、宗教がそれを讚美し、人間の事はそれで遺憾のないやうに説いてゐる。
 自分は今つく/″\と我が子の死顏を眺め、さうして三日の後此の子がどうなるかと思うて、眞に我心の薄弱が情なくなつた。我生活の虚僞殘酷に呆れて終つた。近隣親族の徒が、此美しい寢顏の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに從ふの外ないのであつて見れば、自分も矢張り世間一流の人間に相違ないのだ。自分はかう考へて、浮ぶことの出來ない、到底出づることの出來ない、深い悲みの淵に沈んだやうな氣がした。今の自分は只々自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦めるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲學や宗教やは悉く餘裕のある人共の慰み物としか思へない。自分も今まではどうかすると、哲學とか宗教とか云つて、自分を欺き人を欺いたことが、しみ/″\耻かしくてならなくなつた。
 眞に愛するものを持たぬ人や、眞に愛するものを死なした事のない人に、どうして今の自分の悲痛が解るものか、哲學も宗教も今の自分に何の慰藉をも與へ得ないのは、到底それが第三者の言であるからであるまいか。
 自分はもう泣くより外はない。自分の不注意を悔いて、自分の力なきを嘆いて泣くより外はない。美しい死顏も明日までは頼まれない、我が子を見守つて泣くより外に術はない。
 妻も只泣いた許りで飽足らなくなつたか、部屋に歸つて亡き人の姉々等と過ぎし記憶をたどつて、悔しき當時の顛末を語り合つてる、自分も思はず出て來て其仲間になつた。
 自分が今井と共に家を出てから間もないことであつた。妻は氣分が惡く休み居つたが子供達の姿が暫く目を離れたので、臺所に働き居る姉達に、子供達はどうしてゐると問うた。姉は淀みなく三人が一所に面白さうに遊んでゐますとの答に、妻は安心して休み居つた。それから少し過ぎてお兒が一人上つてきて、母ちやん乳いと云ふのに、又奈々子はと姉等に問へば、そこらに遊んでゐるでせう、秋ちやんが遊びにつれていつたんでせうなどいふを咎めて、それではならない、慥かに見とゞけなくてはなりませんと、妻は今は起き出でゝ、そこかこゝかとたづねさした。隣へ見にやる、菓子屋へ見にやる、下水溝の橋の下まで見たが、まさかに池とは思はないので、最後に池を見たらば………。
 浮いて居つた池に、仰向になつて浮いてゐた。垣根の竹につかまつて、池へ這入らずに上げることが出來た。時間を考へると、初め居るかと問うた時慥かに居たものならば、其後の間は誠に僅かの間に相違ないが、まさか池にと思つて早く池を見なかつた。騷ぎだした時、直ぐに池を見たら間に合つたかも知れなかつた。さういふ生れ合せだと皆は云ふけれど、さう許りは思はれない。あぶないと云つて居ながら、なぜ早く池を埋めて終はなかつたか。考へると何もかも屆かない事許りで。それが殘念でならない。
 妻の繰言は果てしがない。自分もなぜ早く池を埋めなかつたか、取返しのつかぬ過ちであつた。其悔恨はひしひし胸に應へて、深い溜息をする外はない。
[#ここから1字下げ]
『ねいあなた、わたしが一番後に見た時には誰れかの大人下駄を穿いてゐた。あの兒は容易に素足にならなかつたから、下駄を穿いて池へ這入つたかどうか、池のどのへ んから這入つたか、下駄などが池に浮いてでもゐるか、あなた一寸池を見て下さい。
[#ここで字下げ終わり]
 妻のいふまゝに自分は提灯を照らして池を見た。池には竹垣を周らしてある。東の方の入口に木戸を作つてあるのが、いつか毀はれて明放しになつてる、茲から這入つたものに違ひない。せめて此木戸でもあつたらと切ない思が胸に込みあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行して居る。只靜かに滑かで、人一人殺した恐しい水とも見えない。幼ない彼は命取らるゝ水とも知らず、地平と等しい水故深いとも知らずに、這入る瞬間までも笑ましき顏、愛くるしい眼に、疑ひも恐れもなかつたらう。自分はあり/\と亡き人の俤が目に浮ぶ。
 梅子も出てきた、民子も出てきた。二坪には足らない小池の周り、七度も八度も提灯を照らし廻つて、隈なく見廻したけれども、下駄も浮いてゐず、其外亡き人の物らしいもの何一つ見當らない。茲に浮いて居たと云ふあたりは、水草の藻が少しく亂れて居る許り、只一つ動かぬ靜かな濁水を提灯の明りに見れば、只曇つて鈍い水の光り、何の罪を犯した色とも思へない。茲からと思はれたあたりに、足跡でもあるかと見たが、下駄の跡も素足の跡も見當らない。下駄のない處を見ると素足で來たに違ひない。どうして素足で茲へ來たか、平生用心深い兒で、縁側から一度落ちたことも無かつたのだから、池の水が少し下つて低かつたら、落込むやうな事も無かつたらうにと悔まれる。梅子も民子も只見廻しては綴泣きする。沈默した三人は暫く恨めしき池を見やつて立つてた。空は曇つて風も無い。奧の間でお通夜してくれる人達の話聲が細々と漏れる。
『いつまで見て居ても同じだから、もう上がらうよ。
と云つて先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下に或物を認めた。自分は直ぐそれと氣づいて見ると、果して亡き人の着てゐた着物であつた。ぐつしやり一まとめに土塊のやうに置いてあつた。
『これが奈々ちやんの着物だね。
『あア。
 二人は力ない聲で答へた。絣の單物に、メレンスの赤縞の西洋前掛である。自分はこれを見て、又強く亡き人の俤を思ひ出さずに居られなかつた。
 くり/\としたつむり、赤い縞の西洋前掛を掛け、仰向いて池に浮いてゐたか、それを目つけた彼れの母の、其驚き、其周章、悲しい聲を絞つて人を呼びながら引上げた有樣、多くの姉妹等が泣き叫んで走り廻つたさまが、まざ/\と目に見るやうに思ひ出される。
 三人が上つてきて、又一しきり親子姉妹が云つて甲斐ないはかな言を繰返した。
 十二時が過ぎたと云ふので、經机に燈明を上げた。線香も盛にともされる。自分はまだどうしても此の世の人でないとは思はれない。幾度見ても寢顏は穩かに靜かで、死といふ色ざしは少しもない。妻は相變らず亡き人の足のあたりへ顏を添へて打伏してゐる。さうしてまた屡※[#二の字点、面区点番号1-2-22、48-4]起きては我が兒の顏を見守るのであつた。お通夜の人々は自分の仕振りに困じ果てゝか、慰めの詞も云はず、聊か離れた話を話し合うてる。夜は二時となり、三時となり、靜かな空氣は總てを支配した。自分は其間に一人拔け出でゝは、二度も三度も池の周りを見に行つた。池の端に立つては、亡き人の今朝からの俤を繰返し繰返し思ひ浮べて泣いた。
 おつちやんにあつこ、おつちやんにおんも、おつちやんがえい、お兒ちやんのかんこ、お兒ちやんのかんこがえいと聲がするかと思ふほどに耳にある彼兒の詞を、口に云ひさへすれば直ぐ涙は流れる。何遍も何遍もそれを繰返しては涙を絞つた。
 夜が明けさうと氣づいて、驚いて又枕邊に還つた。妻もうと/\してるやうであつた。外の七八人一人も起きてるものは無かつた。只燈明の火と、線香の煙とが、深い眠の中の動きであつた。自分は此靜けさに少し氣持がよかつた。自分の好きな事をするに氣兼が入らなくなつたやうに思はれたらしい。それで別にどういふ事をすると云ふ考があるのでもなかつた。
 夜が明けたら此兒はどうなるかと、恐る/\考へた。それと等しく自分の心持もどうなるかと考へられる。そしてさういふことを考へるのを、非常に氣味わるく恐ろしく感じた。自分は思はず口の内で念佛を始めた、さうして數十遍唱へた。併しいくら念佛を唱へても、今の自分の心の痛みが少しも輕くなると思へなかつた。只自分は非常に疲れを覺えた。氣の張りが全く衰へて、どうなつても仕方がないと云ふ樣な心持になつて終つた。
[#下げて、地より1字あきで]明治42年9月『ホトヽギス』
[#下げて、地より1字あきで]署名   左千夫



底本:「左千夫全集 第三巻」岩波書店
   1977(昭和52)年2月10日発行
初出:「ホトヽギス」発行所名
   1909(明治42)年9月1日発行、第十二巻第十二号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:米田進
校正:松永正敏
2002年4月1日公開
2003年5月16日修正
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