青空文庫アーカイブ

一握の砂
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東海《とうかい》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、245-上8]呻《あくび》
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函館なる郁雨宮崎大四郎君
同國の友文学士金田一京助君
この集を兩君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを兩君の前に示しつくしたるものの如し。從つて兩君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知る人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡兒眞一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の藥餌となりたり。而してこの集の見本刷りを予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
著者


明治四十一年夏以後の作一千餘首中より五百五十一首を拔きてこの集に收む。集中五章、感興の來由するところ相邇きをたづねて假にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。


一握の砂

我を愛する歌

東海《とうかい》の小島《こじま》の磯《いそ》の白砂《しらすな》に
われ泣《な》きぬれて
蟹《かに》とたはむる

頬《ほ》につたふ
なみだのごはず
一握《いちあく》の砂を示《しめ》しし人を忘れず

大海《たいかい》にむかひて一人《ひとり》
七八日《ななやうか》
泣きなむとすと家を出《い》でにき

いたく錆《さ》びしピストル出《い》でぬ
砂山《すなやま》の
砂を指もて掘《ほ》りてありしに

ひと夜《よ》さに嵐来《あらしき》たりて築《きづ》きたる
この砂山は
何《なに》の墓《はか》ぞも

砂山の砂に腹這《はらば》ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出《い》づる日

砂山の裾《すそ》によこたはる流木《りうぼく》に
あたり見まはし
物言《ものい》ひてみる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握《にぎ》れば指のあひだより落つ

しっとりと
なみだを吸《す》へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

大《だい》という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来《きた》れり

目をさまして猶起《なほお》き出《い》でぬ児の癖《くせ》は
かなしき癖ぞ
母よ咎《とが》むな

ひと塊《くれ》の土に涎《よだれ》し
泣く母の肖顔《にがほ》つくりぬ
かなしくもあるか

燈影《ほかげ》なき室《しつ》に我あり
父と母
壁のなかより杖《つゑ》つきて出《い》づ

たはむれに母を背負《せお》ひて
そのあまり軽《かろ》きに泣きて
三歩あゆまず

飄然《へうぜん》と家を出《い》でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど

ふるさとの父の咳《せき》する度《たび》に斯《か》く
咳の出《い》づるや
病《や》めばはかなし

わが泣くを少女等《をとめら》きかば
病犬《やまいぬ》の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

何処《いづく》やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細《ぼそ》さを
今日《けふ》もおぼゆる

いと暗き
穴《あな》に心を吸《す》はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂《しと》げて死なむと思ふ

こみ合《あ》へる電車の隅《すみ》に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ

浅草《あさくさ》の夜《よ》のにぎはひに
まぎれ入《い》り
まぎれ出《い》で来《き》しさびしき心

愛犬《あいけん》の耳斬《き》りてみぬ
あはれこれも
物に倦《う》みたる心にかあらむ

鏡《かがみ》とり
能《あた》ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽《あ》きし時

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗《あら》へば心戯《おど》けたくなれり

呆《あき》れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗《ちやわん》を箸《はし》もて敲《たた》きてありき

草に臥《ね》て
おもふことなし
わが額《ぬか》に糞《ふん》して鳥は空に遊べり

わが髭《ひげ》の
下向く癖《くせ》がいきどほろし
このごろ憎《にく》き男に似たれば

森の奥より銃声《じうせい》聞ゆ
あはれあはれ
自《みづか》ら死ぬる音のよろしさ

大木《たいぼく》の幹《みき》に耳あて
小半日《こはんにち》
堅《かた》き皮をばむしりてありき

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止《よ》せ止せ問答

まれにある
この平《たひら》なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴《き》く

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍《ほそ》をまさぐる

高山《たかやま》のいただきに登り
なにがなしに帽子《ぼうし》をふりて
下《くだ》り来しかな

何処《どこ》やらに沢山《たくさん》の人があらそひて
鬮引《くじひ》くごとし
われも引きたし

怒《いか》る時
かならずひとつ鉢《はち》を割《わ》り
九百九十九《くひやくくじふく》割りて死なまし

いつも逢《あ》ふ電車の中の小男《こをとこ》の
稜《かど》ある眼《まなこ》
このごろ気になる

鏡屋《かがみや》の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩《あゆ》むものかも

何《なに》となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下《お》りしに
ゆくところなし

空家《あきや》に入《い》り
煙草《たばこ》のみたることありき
あはれただ一人居《い》たきばかりに

何がなしに
さびしくなれば出《で》てあるく男となりて
三月《みつき》にもなれり

やはらかに積れる雪に
熱《ほ》てる頬《ほ》を埋《うづ》むるごとき
恋してみたし

かなしきは
飽《あ》くなき利己《りこ》の一念を
持てあましたる男にありけり

手も足も
室《へや》いっぱいに投げ出《だ》して
やがて静かに起きかへるかな

百年《ももとせ》の長き眠りの覚《さ》めしごと
※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、245-上8]呻《あくび》してまし
思ふことなしに

腕拱《うでく》みて
このごろ思ふ
大《おほ》いなる敵《てき》の前に躍《をど》り出 《い》でよと

手が白く
且《か》つ大《だい》なりき
非凡《ひぼん》なる人といはるる男に会ひしに

こころよく
人を讃《ほ》めてみたくなりにけり
利己《りこ》の心に倦《う》めるさびしさ

雨降れば
わが家《いへ》の人誰《たれ》も誰も沈める顔す
雨霽《は》れよかし

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか

この日頃
ひそかに胸にやどりたる侮《くい》あり
われを笑はしめざり

へつらひを聞けば
腹立《はらだ》つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

知らぬ家《いへ》たたき起して
遁《に》げ来《く》るがおもしろかりし
昔の恋しさ

非凡《ひぼん》なる人のごとくにふるまへる
後《のち》のさびしさは
何《なに》にかたぐへむ

大《おほ》いなる彼の身体《からだ》が
憎《にく》かりき
その前にゆきて物を言ふ時

実務には役に立たざるうた人《びと》と
我を見る人に
金借りにけり

遠くより笛の音《ね》きこゆ
うなだれてある故《ゆゑ》やらむ
なみだ流るる

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲《ほ》しくなりたり

死ぬことを
持薬《ぢやく》をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

路傍 《みちばた》に犬ながながと※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、246-下4]呻《あくび》しぬ
われも真似《まね》しぬ
うらやましさに

真剣になりて竹もて犬を撃《う》つ
小児《せうに》の顔を
よしと思へり

ダイナモの
重き唸《うな》りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし

剽軽《へうきん》の性《さが》なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり

気の変る人に仕《つか》へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

龍《りよう》のごとくむなしき空に躍《をど》り出《い》でて
消えゆく煙
見れば飽《あ》かなく

こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後《のち》のこの疲れ

空寝入《そらねいり》生※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、247-上8]呻《なまあくび》など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため

箸止《はしと》めてふっと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな

朝はやく
婚期《こんき》を過ぎし妹の
恋文《こひぶみ》めける文《ふみ》を読めりけり

しっとりと
水を吸ひたる海綿《かいめん》の
重さに似たる心地《ここち》おぼゆる

死ね死ねと己《おのれ》を怒《いか》り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

親と子と
はなればなれの心もて静かに対《むか》ふ
気まづきや何《な》ぞ

かの船の
かの航海の船客《せんかく》の一人にてありき
死にかねたるは

目の前の菓子皿《くわしざら》などを
かりかりと噛《か》みてみたくなりぬ
もどかしきかな

よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ

何がなしに
息《いき》きれるまで駆《か》け出《だ》してみたくなりたり
草原《くさはら》などを

あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年《ことし》も思ひ過ぎたる

ことさらに燈火《ともしび》を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと

浅草の凌雲閣《りよううんかく》のいただきに
腕組みし日の
長き日記《にき》かな

尋常《じんじやう》のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔

こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終わる

時ありて
子供のやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業《わざ》かな

とかくして家を出《い》づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きざるごとし

路傍《みちばた》の切石《きりいし》の上に
腕拱《く》みて
空を見上ぐる男ありたり

何やらむ
穏《おだや》かならぬ目付《めつき》して
鶴嘴《つるはし》を打つ群を見てゐる

心より今日《けふ》は逃げ去れり
病《やまひ》ある獣《けもの》のごとき
不平逃げ去れり

おほどかの心来れり
あるくにも
腹に力のたまるがごとし

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋《やどや》の夜具《やぐ》のこころよさかな

友よさは
乞食《こじき》の卑《いや》しさ厭《いと》ふなかれ
餓《う》ゑたる時は我も爾《しか》りき

新しきインクのにほひ
栓抜《せんぬ》けば
餓ゑたる腹に沁《し》むがかなしも

かなしきは
喉《のど》のかわきをこらへつつ
夜寒《よざむ》の夜具にちぢこまる時

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

我に似し友の二人《ふたり》よ
一人は死に
一人は牢《らう》を出《い》でて今病《や》む

あまりある才を抱《いだ》きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ

打ち明けて語りて
何か損《そん》をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

人並《ひとなみ》の才《さい》に過ぎざる
わが友の
深き不平もあはれなるかな

誰《たれ》が見てもとりどころなき男来て
威張《ゐば》りて帰りぬ
かなしくもあるか

はたらけど
はたらけど猶《なほ》わが生活《くらし》楽にならざり
ぢっと手を見る

何もかも行末《ゆくすゑ》の事みゆるごとき
このかなしみは
拭《ぬぐ》ひあへずも

とある日に
酒をのみたくてならぬごとく
今日《けふ》われ切《せち》に金《かね》を欲《ほ》りせり

水晶《すゐしやう》の玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何《なに》の心ぞ

事もなく
且《か》つこころよく肥《こ》えてゆく
わがこのごろの物足らぬかな

大いなる水晶の玉を
ひとつ欲《ほ》し
それにむかひて物を思はむ

うぬ惚《ぼ》るる友に
合槌《あひづち》うちてゐぬ
施与《ほどこし》をするごとき心に

ある朝のかなしき夢のさめぎはに
鼻に入《い》り来《き》し
味噌《みそ》を煮《に》る香《か》よ

こつこつと空地《あきち》に石をきざむ音
耳につき来《き》ぬ
家《いへ》に入《い》るまで

何がなしに
頭《あたま》のなかに崖《がけ》ありて
日毎《ひごと》に土のくづるるごとし

遠方《ゑんぱう》に電話の鈴《りん》の鳴るごとく
今日《けふ》も耳鳴る
かなしき日かな

垢《あか》じみし袷《あはせ》の襟《えり》よ
かなしくも
ふるさとの胡桃焼《くるみや》くるにほひす

死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避《さ》けて
怖《こは》き顔する

一隊の兵を見送りて
かなしかり
何《なに》ぞ彼等のうれひ無《な》げなる

邦人《くにびと》の顔たへがたく卑《いや》しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ

この次の休日《やすみ》に一日寝てみむと
思ひすごしぬ
三年《みとせ》このかた

或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭《ぱん》に似たりと思ひけるかな

たんたらたらたんたらたらと
雨滴《あまだれ》が
痛むあたまにひびくかなしさ

ある日のこと
室《へや》の障子《しやうじ》をはりかへぬ
その日はそれにて心なごみき

かうしては居《を》られずと思ひ
立ちにしが
戸外《おもて》に馬の嘶《いなな》きしまで

気ぬけして廊下《らうか》に立ちぬ
あららかに扉を推《お》せしに
すぐ開《あ》きしかば

ぢっとして
黒はた赤のインク吸ひ
堅くかわける海綿《かいめん》を見る

誰《たれ》が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕《ゆふべ》

うすみどり
飲めば身体《からだ》が水のごと透《す》きとほるてふ
薬はなきか

いつも睨《にら》むラムプに飽《あ》きて
三日《みか》ばかり
蝋燭《らふそく》の火にしたしめるかな

人間のつかはぬ言葉
ひょっとして
われのみ知れるごとく思ふ日

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日《けふ》もさまよひて来《き》ぬ

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来《き》て
妻《つま》としたしむ

何《なに》すれば
此処《ここ》に我ありや
時にかく打驚《うちおどろ》きて室《へや》を眺むる

人ありて電車のなかに唾《つば》を吐《は》く
それにも
心いたまむとしき

夜明けまであそびてくらす場所が欲《ほ》し
家《いへ》をおもへば
こころ冷《つめ》たし

人みなが家《いへ》を持つてふかなしみよ
墓に入《い》るごとく
かへりて眠る

何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ

人といふ人のこころに
一人づつ囚人《しうじん》がゐて
うめくかなしさ

叱《しか》られて
わっと泣き出《だ》す子供心
その心にもなりてみたきかな

盗むてふことさへ悪《あ》しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家《が》もなし

放《はな》たれし女のごときかなしみを
よわき男の
感《かん》ずる日なり

庭石《にはいし》に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒《いか》りいとしも

顔あかめ怒《いか》りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな

いらだてる心よ汝《なれ》はかなしかり
いざいざ
すこし※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、253-下15]呻《あくび》などせむ

女あり
わがいひつけに背《そむ》かじと心を砕《くだ》く
見ればかなしも

ふがひなき
わが日《ひ》の本《もと》の女等《をんなら》を
秋雨《あきさめ》の夜《よ》にののしりしかな

男とうまれ男と交《まじ》り
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁 《し》む

わが抱《いだ》く思想はすべて
金《かね》なきに因《いん》するごとし
秋の風吹く

くだらない小説を書きてよろこべる
男憐《あは》れなり
初秋《はつあき》の風

秋の風
今日《けふ》よりは彼《か》のふやけたる男に
口を利《き》かじと思ふ

はても見えぬ
真直《ますぐ》の街をあゆむごとき
こころを今日は持ちえたるかな

何事も思ふことなく
いそがしく
暮らせし一日《ひとひ》を忘れじと思ふ

何事も金金《かねかね》とわらひ
すこし経《へ》て
またも俄《には》かに不平つのり来《く》

誰《た》そ我《われ》に
ピストルにても撃《う》てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

やとばかり
桂《かつら》首相に手とられし夢みて覚《さ》めぬ
秋の夜の二時

 煙

    一

病《やまひ》のごと
思郷《しきやう》のこころ湧《わ》く日なり
目にあをぞらの煙《けむり》かなしも

己《おの》が名をほのかに呼びて
涙せし
十四《じふし》の春にかへる術《すべ》なし

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

かの旅の汽車の車掌《しやしやう》が
ゆくりなくも
我が中学の友なりしかな

ほとばしる喞筒《ポンプ》の水の
心地《ここち》よさよ
しばしは若きこころもて見る

師も友も知らで責《せ》めにき
謎《なぞ》に似る
わが学業のおこたりの因《もと》

教室の窓より遁《に》げて
ただ一人
かの城址《しろあと》に寝に行きしかな

不来方《こずかた》のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五《じふご》の心

かなしみといはばいふべき
物の味《あぢ》
我の嘗《な》めしはあまりに早かり

晴れし空仰《あふ》げばいつも
口笛を吹きたくなりて
吹きてあそびき

夜寝ても口笛吹きぬ
口笛は
十五の我の歌にしありけり

よく叱《しか》る師ありき
髯《ひげ》の似たるより山羊《やぎ》と名づけて
口真似もしき

われと共《とも》に
小鳥に石を投げて遊ぶ
後備大尉《こうびたいゐ》の子もありしかな

城址《しろあと》の   
石に腰掛《こしか》け
禁制の木《こ》の実 《み》をひとり味《あぢは》ひしこと

その後《のち》に我を捨てし友も
あの頃は共に書読《ふみよ》み
ともに遊びき

学校の図書庫《としよぐら》の裏の秋の草
黄《き》なる花咲きし
今も名知らず

花散れば
先《ま》づ人さきに白の服着《ふくき》て家出《いへい》づる
我にてありしか

今は亡き姉の恋人のおとうとと
なかよくせしを
かなしと思ふ

夏休み果《は》ててそのまま
かへり来《こ》ぬ
若き英語の教師もありき

ストライキ思ひ出《い》でても
今は早《は》や吾が血躍《おど》らず
ひそかに淋《さび》し

盛岡《もりをか》の中学校の
露台《バルコン》の
欄干《てすり》に最一度《もいちど》我を倚《よ》らしめ

神有りと言ひ張る友を
説《と》きふせし
かの路傍《みちばた》の栗《くり》の樹《き》の下《もと》

西風に
内丸大路《うちまるおほぢ》の桜の葉
かさこそ散るを踏《ふ》みてあそびき

そのかみの愛読の書《しよ》よ
大方《おほかた》は
今は流行《はや》らずなりにけるかな

石ひとつ
坂をくだるがごとくにも
我けふの日に到り着きたる

愁《うれ》ひある少年《せふねん》の眼に羨《うらや》みき
小鳥の飛ぶを
飛びてうたふを

解剖《ふわけ》せし
蚯蚓《みみず》のいのちもかなしかり
かの校庭の木柵《もくさく》の下《もと》

かぎりなき知識の慾《よく》に燃ゆる眼を
姉は傷《いた》みき
人恋ふるかと

蘇峯《そほう》の書《しよ》を我に薦《すす》めし友早く
校《かう》を退 《しりぞ》きぬ
まづしさのため

おどけたる手つきをかしと
我のみはいつも笑ひき
博学の師を

自《し》が才《さい》に身をあやまちし人のこと
かたりきかせし
師もありしかな

そのかみの学校一のなまけ者
今は真面目《まじめ》に
はたらきて居《を》り

田舎《ゐなか》めく旅の姿を
三日《みか》ばかり都に曝《さら》し
かへる友かな

茨島《ばらじま》の松の並木の街道を
われと行きし少女《をとめ》
才《さい》をたのみき

眼を病みて黒き眼鏡《めがね》をかけし頃
その頃よ
一人泣くをおぼえし

わがこころ
けふもひそかに泣かむとす
友みな己《おの》が道をあゆめり

先《さき》んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老《お》ゆ

興来《きようきた》れば
友なみだ垂《た》れ手を揮《ふ》りて
酔漢《ゑひどれ》のごとくなりて語りき

人ごみの中をわけ来《く》る
わが友の
むかしながらの太《ふと》き杖《つゑ》かな

見よげなる年賀の文《ふみ》を書く人と
おもひ過ぎにき
三年《みとせ》ばかりは

夢さめてふっと悲しむ
わが眠り
昔のごとく安からぬかな

そのむかし秀才《しうさい》の名の高かりし
友牢《らう》にあり
秋のかぜ吹く

近眼《ちかめ》にて
おどけし歌をよみ出《い》でし
茂雄《しげを》の恋もかなしかりしか

わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず

友はみな或日四方《あるひしはう》に散り行《ゆ》きぬ
その後八年《のちやとせ》
名挙《なあ》げしもなし

わが恋を
はじめて友にうち明けし夜《よる》のことなど
思ひ出《い》づる日

糸切れし紙鳶《たこ》のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな

    二

ふるさとの訛《なまり》なつかし
停車場《ていしやば》の人ごみの中に
そを聴《き》きにゆく

やまひある獣《けもの》のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴《ひごとき》きし雀《すずめ》の鳴くを
三年《みとせ》聴かざり

亡《な》くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る

その昔
小学校の柾屋根《まさやね》に我投げし鞠《まり》
いかにかなりけむ

ふるさとの
かの路傍《みちばた》のすて石よ
今年も草に埋《うづ》もれしらむ

わかれをれば妹《いもと》いとしも
赤き緒《を》の
下駄《げた》など欲《ほ》しとわめく子なりし

二日《ふつか》前に山の絵《ゑ》見しが
今朝《けさ》になりて
にはかに恋しふるさとの山

飴売《あめうり》のチャルメラ聴《き》けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし

このごろは
母も時時《ときどき》ふるさとのことを言ひ出 《い》づ
秋に入《い》れるなり

それとなく
郷里《くに》のことなど語り出《い》でて
秋の夜《よ》に焼く餅《もち》のにほひかな

かにかくに渋民村《しぶたみむら》は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

田も畑《はた》も売りて酒のみ
ほろびゆくふるさと人《びと》に
心寄する日

あはれかの我の教へし
子等《こら》もまた
やがてふるさとを棄《す》てて出《い》づるらむ

ふるさとを出《い》で来《き》し子等の
相会《あいあ》ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出《い》でしかなしみ
消ゆる時なし

やはらかに柳あをめる
北上《きたかみ》の岸辺《きしべ》目に見ゆ
泣けとごとくに

ふるさとの
村医《そんい》の妻のつつましき櫛巻《くしまき》なども
なつかしきかな

かの村の登記所《とうきしよ》に来て
肺病《はいや》みて
間もなく死にし男もありき

小学の首席を我と争《あらそ》ひし
友のいとなむ
木賃宿《きちんやど》かな

千代冶等《ちよぢら》も長《ちやう》じて恋し
子を挙《あ》げぬ
わが旅にしてなせしごとくに

ある年の盆《ぼん》の祭に
衣貸《きぬか》さむ踊れと言ひし
女を思ふ

うすのろの兄と
不具《かたは》の父もてる三太《さんた》はかなし
夜《よる》も書読《ふみよ》む

我と共に
栗毛《くりげ》の仔馬《こうま》走らせし
母の無き子の盗癖《ぬすみぐせ》かな

大形《おほがた》の被布《ひふ》の模様の赤き花
今も目に見ゆ
六歳《むつ》の日の恋

その名さへ忘られし頃
飄然《へうぜん》とふるさとに来て
咳《せき》せし男

意地悪《いぢわる》の大工の子などもかなしかり
戦《いくさ》に出《い》でしが
生きてかへらず

肺を病む
極道地主《ごくだうぢぬし》の総領《そうりやう》の
よめとりの日の春の雷《らい》かな

宗次郎《そうじろ》に
おかねが泣きて口説《くど》き居《を》り
大根《だいこん》の花白きゆふぐれ

小心《せうしん》の役場の書記の
気の狂《ふ》れし噂《うはさ》に立てる
ふるさとの秋

わが従兄《いとこ》
野山の猟《かり》に飽《あ》きし後《のち》
酒のみ家《いへ》売り病《や》みて死にしかな

我ゆきて手をとれば
泣きてしづまりき
酔《ゑ》ひて荒《あば》れしそのかみの友

酒のめば
刀《かたな》をぬきて妻を逐《お》ふ教師《けうし》もありき
村を遂《お》はれき

年ごとに肺病《はいびやう》やみの殖《ふ》えてゆく
村に迎へし
若き医者かな

ほたる狩《がり》
川にゆかむといふ我を
山路《やまぢ》にさそふ人にてありき

馬鈴薯《ばれいしよ》のうす紫の花に降《ふ》る
雨を思へり
都《みやこ》の雨に

あはれ我がノスタルジヤは
金《きん》のごと
心に照れり清くしみらに

友として遊ぶものなき
性悪《しやうわる》の巡査の子等《こら》も
あはれなりけり

閑古鳥《かんこどり》
鳴く日となれば起《おこ》るてふ
友のやまひのいかになりけむ

わが思ふこと
おほかたは正《ただ》しかり
ふるさとのたより着《つ》ける朝《あした》は

今日聞けば
かの幸《さち》うすきやもめ人《びと》
きたなき恋に身を入《い》るるてふ

わがために
なやめる魂《たま》をしづめよと
讃美歌うたふ人ありしかな

あはれかの男のごときたましひよ
今は何処《いづこ》に
何を思ふや

わが庭の白き躑躅《つつじ》を
薄月《うすづき》の夜《よ》に
折《を》りゆきしことな忘れそ

わが村に
初めてイエス・クリストの道を説《と》きたる
若き女かな

霧ふかき好摩《かうま》の原《はら》の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来《く》れば
襟《えり》を正《ただ》すも

ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽《かろ》くなり
心重《おも》れり

ふるさとに入りて先《ま》づ心傷《いた》むかな
道広くなり
橋もあたらし

見もしらぬ女教師《をんなけうし》が
そのかみの
わが学舎《まなびや》の窓に立てるかな

かの家《いへ》のかの窓にこそ
春の夜《よ》を
秀子《ひでこ》とともに蛙聴《かはづき》きけれ

そのかみの神童《しんどう》の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと

ふるさとの停車場路《ていしやばみち》の
川ばたの
胡桃《くるみ》の下に小石拾《ひろ》へり

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

 秋風のこころよさに

ふるさとの空遠《とほ》みかも
高《たか》き屋《や》にひとりのぼりて
愁《うれ》ひて下《くだ》る

皎《かう》として玉をあざむく小人《せうじん》も
秋来《あきく》といふに
物を思へり

かなしきは
秋風ぞかし
稀《まれ》にのみ湧《わ》きし涙の繁《しじ》に流るる

青に透《す》く
かなしみの玉に枕《まくら》して
松のひびきを夜もすがら聴《き》く

神寂《さ》びし七山《ななやま》の杉
火のごとく染めて日入《い》りぬ
静かなるかな 

そを読めば
愁《うれ》ひ知るといふ書焚《ふみた》ける
いにしへ人《びと》の心よろしも

ものなべてうらはかなげに
暮れゆきぬ
とりあつめたる悲しみの日は

水潦《みづたまり》
暮れゆく空とくれなゐの紐《ひも》を浮べぬ
秋雨《あきさめ》の後《のち》

秋立つは水にかも似る
洗《あら》はれて
思ひことごと新しくなる

愁《うれ》ひ来て
丘にのぼれば
名も知らぬ鳥啄《ついば》めり赤き茨《ばら》の実《み》

秋の辻《つじ》
四《よ》すぢの路《みち》の三すぢへと吹きゆく風の
あと見えずかも

秋の声まづいち早く耳に入《い》る
かかる性《さが》持つ
かなしむべかり

目になれし山にはあれど
秋来《く》れば
神や住まむとかしこみて見る


わが為《な》さむこと世に尽《つ》きて
長き日を
かくしもあはれ物を思ふか

さららさらと雨落ち来《きた》り
庭の面《も》の濡《ぬ》れゆくを見て
涙わすれぬ

ふるさとの寺の御廊《みらう》に
踏《ふ》みにける
小櫛《をぐし》の蝶《てふ》を夢にみしかな

こころみに
いとけなき日の我となり
物言ひてみむ人あれと思ふ

はたはたと黍《きび》の葉鳴れる
ふるさとの軒端《のきば》なつかし
秋風吹けば

摩《す》れあへる肩のひまより
はつかにも見きといふさへ
日記《にき》に残れり

風流男《みやびを》は今も昔も
淡雪《あわゆき》の
玉手《たまで》さし捲《ま》く夜《よ》にし老《お》ゆらし

かりそめに忘れても見まし
石だたみ
春生《お》ふる草に埋《うも》るるがごと

その昔揺藍《ゆりかご》に寝て
あまたたび夢にみし人か
切《せち》になつかし

神無月《かみなづき》
岩手《いはて》の山の
初雪の眉《まゆ》にせまりし朝を思ひぬ

ひでり雨さらさら落ちて
前栽《せんざい》の
萩《はぎ》のすこしく乱《みだ》れたるかな

秋の空廓寥《くわくれう》として影もなし
あまりにさびし
烏《からす》など飛べ

雨後《うご》の月
ほどよく濡《ぬ》れし屋根瓦《やねがはら》の
そのところどころ光るかなしさ

われ饑《う》ゑてある日に
細き尾を掉《ふ》りて
饑ゑて我を見る犬の面《つら》よし

いつしかに
泣くといふこと忘れたる
我泣かしむる人のあらじか

汪然《わうぜん》として
ああ酒のかなしみぞ我に来《きた》れる
立ちて舞《ま》ひなむ

※[#「※」は「蚊」の「文」に代えて「車」、第3水準1-91-55、266-下16]鳴《いとどな》く
そのかたはらの石に踞《きよ》し
泣き笑ひしてひとり物言ふ

力なく病《や》みし頃《ころ》より
口すこし開《あ》きて眠《ねむ》るが
癖《くせ》となりにき

人ひとり得《う》るに過ぎざる事をもて
大願《たいぐわん》とせし
若きあやまち

物怨《ゑ》ずる
そのやはらかき上目《うはめ》をば
愛《め》づとことさらつれなくせむや

かくばかり熱《あつ》き涙は
初恋の日にもありきと
泣く日またなし

長く長く忘れし友に
会ふごとき
よろこびをもて水の音聴《き》く

秋の夜の
鋼鉄《はがね》の色の大空に
火を噴《は》く山もあれなど思ふ

岩手山《いはてやま》
秋はふもとの三方《さんぱう》の
野に満つる虫を何《なに》と聴くらむ

父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家《いへ》持たぬ児《こ》に

秋来《く》れば
恋《こ》ふる心のいとまなさよ
夜《よ》もい寝《ね》がてに雁《かり》多く聴く

長月《ながつき》も半 《なか》ばになりぬ
いつまでか
かくも幼く打出《うちい》でずあらむ

思ふてふこと言はぬ人の
おくり来《き》し
忘れな草《ぐさ》もいちじろかりし

秋の雨に逆反《さかぞ》りやすき弓《ゆみ》のごと
このごろ
君のしたしまぬかな  

松の風夜昼《よひる》ひびきぬ
人訪《と》はぬ山の祠《ほこら》の
石馬《いしうま》の耳に

ほのかなる朽木《くちき》の香《かを》り
そがなかの蕈《たけ》の香りに
秋やや深し

時雨《しぐれ》降るごとき音して
木伝《こづた》ひぬ
人によく似し森の猿《さる》ども

森の奥
遠きひびきす
木《き》のうろに臼《うす》ひく侏儒《しゆじゆ》の国にかも来《き》し

世のはじめ
まづ森ありて
半神《はんしん》の人そが中に火や守りけむ

はてもなく砂うちつづく
戈壁《ゴビ》の野に住みたまふ神は
秋の神かも

あめつちに
わが悲しみと月光《げつくわう》と
あまねき秋の夜《よ》となれりけり

うらがなしき
夜《よる》の物の音洩《ねも》れ来《く》るを
拾《ひろ》ふがごとくさまよひ行《ゆ》きぬ

旅の子の
ふるさとに来《き》て眠るがに
げに静かにも冬の来《き》しかな

 忘れがたき人人

    一

潮《しほ》かをる北の浜辺《はまべ》の
砂山のかの浜薔薇《はまなす》よ
今年も咲けるや

たのみつる年の若さを数《かぞ》へみて
指を見つめて
旅がいやになりき

三度《みたび》ほど
汽車の窓よりながめたる町の名なども
したしかりけり

函館《はこだて》の床屋《とこや》の弟子《でし》を
おもひ出《い》でぬ
耳剃《そ》らせるがこころよかりし

わがあとを追ひ来《き》て
知れる人もなき
辺土《へんど》に住みし母と妻かな

船に酔《ゑ》ひてやさしくなれる
いもうとの眼《め》見ゆ
津軽《つがる》の海を思へば

目を閉ぢて
傷心《しやうしん》の句を誦《ず》してゐし
友の手紙のおどけ悲しも

をさなき時
橋の欄干《らんかん》に糞塗《くそぬ》りし
話も友はかなしみてしき

おそらくは生涯《しやうがい》妻をむかへじと
わらひし友よ
今もめとらず

あはれかの
眼鏡《めがね》の縁《ふち》をさびしげに光らせてゐし
女教師よ

友われに飯《めし》を与へき
その友に背《そむ》きし我の
性《さが》のかなしさ

函館《はこだて》の青柳町《あをやなぎちやう》こそかなしけれ
友の恋歌《こひうた》
矢ぐるまの花

ふるさとの
麦のかをりを懐《なつ》かしむ
女の眉《まゆ》にこころひかれき

あたらしき洋書の紙の
香《か》をかぎて
一途《いちづ》に金《かね》を欲《ほ》しと思ひしが

しらなみの寄せて騒《さわ》げる
函館の大森浜《おほもりはま》に
思ひしことども

朝な朝な
支那《しな》の俗歌《ぞくか》をうたひ出づる
まくら時計を愛《め》でしかなしみ

漂泊《へうはく》の愁《うれ》ひを叙《じよ》して成《な》らざりし
草稿《さうかう》の字の
読みがたさかな

いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来《こ》しかたのをかしく悲し

函館の臥牛《ぐわぎう》の山《やま》の半腹《はんぷく》の
碑《ひ》の漢詩《からうた》も
なかば忘れぬ

むやむやと
口の中《うち》にてたふとげの事を呟《つぶや》く
乞食《こじき》もありき

とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
山に入《い》りにき
神のごとき友

巻煙草《まきたばこ》口にくはへて
浪《なみ》あらき
磯《いそ》の夜霧に立ちし女よ

演習のひまにわざわざ
汽車に乗りて
訪《と》ひ来《き》し友とのめる酒かな

大川《おほかは》の水の面《おもて》を見るごとに
郁雨《いくう》よ
君のなやみを思ふ

智慧《ちゑ》とその深き慈悲《じひ》とを
もちあぐみ
為《な》すこともなく友は遊べり

こころざし得《え》ぬ人人の
あつまりて酒のむ場所が
我が家なりしかな

かなしめば高く笑ひき
酒をもて
悶《もん》を解《げ》すといふ年上の友

若くして
数人《すにん》の父となりし友
子なきがごとく酔《ゑ》へばうたひき

さりげなき高き笑ひが
酒とともに
我が腸《はらわた》に沁《し》みにけらしな

※[#「※」は「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1-14-91、271-下8]呻噛 《あくびか》み
夜汽車の窓に別れたる
別れが今は物足《ものた》らぬかな

雨に濡れし夜汽車の窓に
映《うつ》りたる
山間《やまあひ》の町のともしびの色

雨つよく降る夜の汽車の
たえまなく雫《しづく》流るる  
窓硝子《まどガラス》かな

真夜中の
倶知安駅《くちあんえき》に下《お》りゆきし
女の鬢《びん》の古き 痍《きず》あと

札幌《さつぽろ》に
かの秋われの持てゆきし
しかして今も持てるかなしみ

アカシヤの街※[#「※」は「榎」の「夏」に代えて「越」、第3水準1-86-11、272-上7]《なみき》にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記《にき》に残れり

しんとして幅広き街《まち》の
秋の夜の
玉蜀黍《たうもろこし》の焼くるにほひよ

わが宿の姉と妹《いもと》のいさかひに
初夜《しよや》過ぎゆきし
札幌の雨

石狩《いしかり》の美国《びくに》といへる停車場の
柵《さく》に乾《ほ》してありし
赤い布片《きれ》かな

かなしきは小樽《をたる》の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ

泣くがごと首ふるはせて
手の相《さう》を見せよといひし
易者《えきしや》もありき

いささかの銭借《ぜにか》りてゆきし
わが友の
後姿《うしろすがた》の肩《かた》の雪かな

世わたりの拙《つたな》きことを
ひそかにも
誇《ほこ》りとしたる我にやはあらぬ

汝 《な》が痩《や》せしからだはすべて
謀叛気《むほんぎ》のかたまりなりと
いはれてしこと

かの年のかの新聞の
初雪の記事を書きしは
我なりしかな

椅子《いす》をもて我を撃《う》たむと身構《みがま》へし
かの友の酔《ゑ》ひも
今は醒《さ》めつらむ

負けたるも我にてありき
あらそひの因《もと》も我なりしと
今は思へり

殴《なぐ》らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな

汝三度《なれみたび》
この咽喉《のど》に剣《けん》を擬《ぎ》したりと
彼告別《かれこくべつ》の辞《じ》に言へりけり

あらそひて
いたく憎《にく》みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来《き》ぬ

あはれかの眉《まゆ》の秀《ひい》でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑《ゑ》みしが

わが妻に着物縫《ぬ》はせし友ありし
冬早く来《く》る
植民地かな

平手《ひらて》もて
吹雪《ふぶき》にぬれし顔を拭《ふ》く
友共産を主義とせりけり

酒のめば鬼《おに》のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ

樺太《からふと》に入《い》りて
新しき宗教を創《はじ》めむといふ
友なりしかな

治《をさ》まれる世の事無《ことな》さに
飽《あ》きたりといひし頃こそ
かなしかりけれ

共同の薬屋開き
儲《まう》けむといふ友なりき
詐欺《さぎ》せしといふ

あをじろき頬《ほほ》に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人《あきびと》

子を負《お》ひて
雪の吹き入《い》る停車場に
われ見送りし妻の眉《まゆ》かな

敵として憎みし友と
やや長く手をば握《にぎ》りき
わかれといふに

ゆるぎ出《い》づる汽車の窓より
人先《ひとさき》に顔を引きしも
負《ま》けざらむため

みぞれ降る
石狩《いしかり》の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな

わが去れる後《のち》の噂《うはさ》を
おもひやる旅出《たびで》はかなし
死ににゆくごと

わかれ来《き》てふと瞬《またた》けば
ゆくりなく
つめたきものの頬をつたへり

忘れ来《き》し煙草《たばこ》を思ふ
ゆけどゆけど
山なほ遠き雪の野の汽車

うす紅《あか》く雪に流れて
入日影《いりひかげ》
曠野《あらの》の汽車の窓を照《てら》せり

腹すこし痛《いた》み出《い》でしを
しのびつつ
長路《ちやうろ》の汽車にのむ煙草《たばこ》かな

乗合《のりあひ》の砲兵士官《はうへいしくわん》の
剣の鞘《さや》
がちゃりと鳴るに思ひやぶれき

名のみ知りて縁《えん》もゆかりもなき土地の
宿屋《やどや》安けし
我が家《いへ》のごと

伴《つれ》なりしかの代議士の
口あける青き寐顔《ねがほ》を
かなしと思ひき

今夜こそ思ふ存分《ぞんぶん》泣いてみむと
泊《とま》りし宿屋の
茶のぬるさかな

水蒸気
列車の窓に花のごと凍《い》てしを染《そ》むる
あかつきの色

ごおと鳴る凩《こがらし》のあと
乾《かわ》きたる雪舞ひ立ちて
林を包《つつ》めり

空知川《そらちがは》雪に埋《うも》れて
鳥も見えず
岸辺《きしべ》の林に人ひとりゐき

寂莫《せきばく》を敵とし友とし
雪のなかに
長き一生を送る人もあり

いたく汽車に疲れて猶《なほ》も
きれぎれに思ふは
我のいとしさなりき

うたふごと駅の名呼びし
柔和《にうわ》なる
若き駅夫《えきふ》の眼をも忘れず

雪のなか
処処《しよしよ》に屋根見えて
煙突《えんとつ》の煙《けむり》うすくも空にまよへり

遠くより
笛《ふえ》ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入《い》る

何事も思ふことなく
日一日《ひいちにち》
汽車のひびきに心まかせぬ

さいはての駅に下《お》り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入《い》りにき

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路《くしろ》の海の冬の月かな

こほりたるインクの罎《びん》を
火に翳《かざ》し
涙ながれぬともしびの下《もと》

顔とこゑ
それのみ昔に変らざる友にも会ひき
国の果《はて》にて

あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓《をり》を啜《すす》るごとくに

酒のめば悲しみ一時に湧《わ》き来《く》るを
寐《ね》て夢みぬを
うれしとはせし

出《だ》しぬけの女の笑ひ
身に沁《し》みき
厨《くりや》に酒の凍《こほ》る真夜中

わが酔《ゑ》ひに心いためて
うたはざる女ありしが
いかになれるや

小奴《こやつこ》といひし女の
やはらかき
耳朶《みみたぼ》なども忘れがたかり

よりそひて
深夜《しんや》の雪の中に立つ
女の右手《めて》のあたたかさかな

死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉《のんど》の痍《きず》を見せし女かな

芸事《げいごと》も顔も
かれより優《すぐ》れたる
女あしざまに我を言へりとか

舞《ま》へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒《あくしゆ》の酔《ゑ》ひにたふるるまでも

死ぬばかり我が酔《ゑ》ふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁《ささや》きし人

いかにせしと言へば
あをじろき酔《ゑ》ひざめの
面《おもて》に強《し》ひて笑《ゑ》みをつくりき

かなしきは
かの白玉《しらたま》のごとくなる腕に残せし
キスの痕《あと》かな

酔《ゑ》ひてわがうつむく時も
水ほしと眼《め》ひらく時も
呼びし名なりけり

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家《いへ》に
かよひ慣《な》れにき

きしきしと寒さに踏めば板軋《いたきし》む
かへりの廊下の
不意のくちづけ

その膝《ひざ》に枕《まくら》しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり

さらさらと氷の屑《くづ》が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな

死にしとかこのごろ聞きぬ
恋がたき
才《さい》あまりある男なりしが

十年《ととせ》まへに作りしといふ漢詩《からうた》を
酔《ゑ》へば唱《とな》へき
旅に老《お》いし友

吸ふごとに
鼻がぴたりと凍《こほ》りつく
寒き空気を吸ひたくなりぬ

波もなき二月の湾《わん》に
白塗《しろぬり》の
外国船が低く浮かべり

三味線《さみせん》の絃《いと》のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜《よ》に

神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒《あかん》の山の雪のあけぼの

郷里《くに》にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味《さみ》にうたへるゆふべ

葡萄色《えびいろ》の
古き手帳にのこりたる
かの会合《あひびき》の時と処かな

よごれたる足袋穿《たびは》く時の
気味《きみ》わるき思ひに似たる
思出《おもひで》もあり

わが室《へや》に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出《い》づる日

浪淘沙《らうとうさ》
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな

    二

いつなりけむ
夢にふと聴《き》きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり

頬《ほ》の寒き
流離《りうり》の旅の人として
路問《みちと》ふほどのこと言ひしのみ

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

ひややかに清き大理石《なめいし》に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ

世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳《ひとみ》の
今も目にあり

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ》の
瑕《きず》のごと
流離の記憶消しがたきかな

函館《はこだて》のかの焼跡《やけあと》を去りし夜《よ》の
こころ残りを
今も残しつ

人がいふ
鬢《びん》のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし


馬鈴薯《ばれいしよ》の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり

忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種《たね》にまたなる
忘れかねつも

病《や》むと聞き
癒《い》えしと聞きて
四百里《しひやくり》のこなたに我はうつつなかりし

君に似し姿を街《まち》に見る時の
こころ躍《をど》りを
あはれと思へ

かの声を最一度聴《もいちどき》かば
すっきりと
胸や霽《は》れむと今朝《けさ》も思へる

いそがしき生活《くらし》のなかの
時折《ときおり》のこの物おもひ
誰《たれ》のためぞも

しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出《い》でなむ

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ

わかれ来《き》て年《とし》を重ねて
年《とし》ごとに恋しくなれる
君にしあるかな

石狩《いしかり》の都《みやこ》の外の
君が家
林檎《りんご》の花の散りてやあらむ

長き文《ふみ》
三年《みとせ》のうちに三度《みたび》来《き》ぬ
我の書きしは四度《よたび》にかあらむ

 手套を脱ぐ時

手套 《てぶくろ》を脱《ぬ》ぐ手ふと 休《や》む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり

いつしかに
情《じやう》をいつはること知りぬ
髭《ひげ》を立てしもその頃なりけむ

朝の湯の
湯槽《ゆぶね》のふちにうなじ載《の》せ
ゆるく息《いき》する物思ひかな


夏来《く》れば
うがひ薬の
病《やまひ》ある歯に沁《し》む朝のうれしかりけり

つくづくと手をながめつつ
おもひ出《い》でぬ
キスが上手《じやうず》の女なりしが

さびしきは
色にしたしまぬ目のゆゑと
赤き花など買はせけるかな

新しき本を買ひ来て読む夜半《よは》の
そのたのしさも
長くわすれぬ

旅七日《たびなのか》
かへり来《き》ぬれば
わが窓の赤きインクの染《し》みもなつかし

古文書《こもんじよ》のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙《すひとりがみ》をなつかしむかな


手にためし雪の融《と》くるが
ここちよく
わが寐飽《ねあ》きたる心には沁 《し》む

薄れゆく障子《しやうじ》の日影《ひかげ》
そを見つつ
こころいつしか暗くなりゆく

ひやひやと
夜は薬の香《か》のにほふ
医者が住みたるあとの家《いへ》かな

窓硝子《まどガラス》
塵《ちり》と雨とに曇《くも》りたる窓硝子にも
かなしみはあり

六年《むとせ》ほど日毎日毎《ひごとひごと》にかぶりたる
古き帽子も
棄《す》てられぬかな

こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな

赤煉瓦《あかれんぐわ》遠くつづける高塀《たかべい》の
むらさきに見えて
春の日ながし

春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦造《づくり》に
やはらかに降る

よごれたる煉瓦の壁に
降りて融《と》け降りては融くる
春の雪かな

目を病《や》める
若き女の倚《よ》りかかる
窓にしめやかに春の雨降る

あたらしき木のかをりなど
ただよへる
新開町《しんかいまち》の春の静けさ

春の街《まち》
見よげに書ける女名《をんなな》の
門札《かどふだ》などを読みありくかな

そことなく
蜜柑《みかん》の皮の焼くるごときにほひ残りて
夕《ゆふべ》となりぬ

にぎはしき若き女の集会《あつまり》の
こゑ聴《き》き倦《う》みて
さびしくなりたり

何処《どこ》やらに
若き女の死ぬごとき悩《なや》ましさあり
春の霙《みぞれ》降る

コニャックの酔《ゑ》ひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな

白き皿《さら》
拭《ふ》きては棚《たな》に重《かさ》ねゐる
酒場の隅《すみ》のかなしき女

乾きたる冬の大路《おほぢ》の
何処《いづく》やらむ
石炭酸《せきたんさん》のにほひひそめり

赤赤《あかあか》と入日《いりひ》うつれる
河ばたの酒場の窓の
白き顔かな

新しきサラドの皿《さら》の
酢《す》のかをり
こころに沁 《し》みてかなしき夕《ゆふべ》

空色《そらいろ》の罎より
山羊《やぎ》の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけり

すがた見の
息《いき》のくもりに消されたる
酔《ゑ》ひうるみの眸《まみ》のかなしさ

ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨《くりや》にのこるハムのにほひかな

ひややかに罎《びん》のならべる棚の前
歯《は》せせる女を
かなしとも見き

やや長きキスを交《かは》して別れ来《き》し
深夜の街の
遠き火事かな

病院の窓のゆふべの
ほの白《じろ》き顔にありたる
淡《あは》き見覚《みおぼ》え

何時《いつ》なりしか
かの大川《おほかわ》の遊船《いうせん》に
舞《ま》ひし女をおもひ出《で》にけり

用もなき文《ふみ》など長く書きさして
ふと人こひし
街に出《で》てゆく

しめらへる煙草《たばこ》を吸へば
おほよその
わが思ふことも軽《かろ》くしめれり

するどくも
夏の来《きた》るを感じつつ
雨後《うご》の小庭《こには》の土の香《か》を嗅《か》ぐ

すずしげに飾《かざ》り立てたる
硝子屋《ガラスや》の前にながめし
夏の夜の月

君来るといふに夙《と》く起き
白シャツの
袖《そで》のよごれを気にする日かな

おちつかぬ我が弟の
このごろの
眼のうるみなどかなしかりけり

どこやらに杭《くひ》打つ音し
大桶《おほをけ》をころがす音し
雪ふりいでぬ

人気《ひとけ》なき夜《よ》の事務室に
けたたましく
電話の鈴《りん》の鳴りて止みたり

目さまして
ややありて耳に入《い》り来《きた》る
真夜中すぎの話声かな

見てをれば時計とまれり
吸はるるごと
心はまたもさびしさに行《ゆ》く

朝朝 《あさあさ》の
うがひの料《しろ》の水薬《すゐやく》の
罎《びん》がつめたき秋となりにけり

夷《なだら》かに麦の青める
丘の根の
小径《こみち》に赤き小櫛《をぐし》ひろへり

裏山の杉生《すぎふ》のなかに
斑《まだら》なる日影這《ひかげは》ひ入 《い》る
秋のひるすぎ

港町
とろろと鳴きて輪を描く鳶《とび》を 圧《あつ》せる
潮 《しほ》ぐもりかな

小春日《こはるび》の曇硝子《くもりガラス》にうつりたる
鳥影《とりかげ》を見て
すずろに思ふ

ひとならび泳げるごとき
家家《いへいへ》の高低《たかひく》の軒《のき》に
冬の日の舞ふ

京橋の滝山町《たきやまちやう》の
新聞社
灯《ひ》ともる頃のいそがしさかな

よく怒《いか》る人にてありしわが父の
日ごろ怒 《いか》らず
怒れと思ふ

あさ風が電車のなかに吹き入《い》れし
柳《やなぎ》のひと葉
手にとりて見る

ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ傷《いた》みてたへがたき日に

たひらなる海につかれて
そむけたる
目をかきみだす赤き帯《おび》かな

今日逢《あ》ひし町の女の
どれもどれも
恋いにやぶれて帰るごとき日

汽車の旅
とある野中《のなか》の停車場の
夏草の香《か》のなつかしかりき

朝まだき
やっと間《ま》に合《あ》ひし初秋《はつあき》の旅出《たびで》の汽車の
堅 《かた》き麺麭《ぱん》かな

かの旅の夜汽車の窓に
おもひたる
我がゆくすゑのかなしかりしかな

ふと見れば
とある林の停車場の時計とまれリ
雨の夜《よ》の汽車

わかれ来《き》て
燈火小暗《あかりをぐら》き夜の汽車の窓に弄《もてあそ》ぶ
青き林檎《りんご》よ

いつも来《く》る
この酒肆《さかみせ》のかなしさよ
ゆふ日赤赤《あかあか》と酒に射《さ》し入《い》る

白き蓮沼《はすぬま》に咲くごとく
かなしみが
酔《ゑ》ひのあひだにはっきりと浮く

壁《かべ》ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の蚊帳《かや》かな

取りいでし去年《こぞ》の袷《あはせ》の
なつかしきにほひ身に沁《し》む
初秋《はつあき》の朝

気にしたる左の膝《ひざ》の痛みなど
いつか癒《なほ》りて
秋の風吹く

売り売りて
手垢《てあか》きたなきドイツ語の辞書のみ残る
夏の末かな

ゆゑもなく憎《にく》みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく

赤紙《あかがみ》の表紙手擦《てず》れし
国禁《こくきん》の
書《ふみ》を行李《かうり》の底にさがす日

売ることを差し止《と》められし
本の著者に
路《みち》にて会へる秋の朝かな

今日よりは
我も酒など 呷《あふ》らむと思へる日より
秋の風吹く

大海《たいかい》の
その片隅《かたすみ》につらなれる島島《しまじま》の上に
秋の風吹く

うるみたる目と
目の下の黒子《ほくろ》のみ
いつも目につく友の妻かな

いつ見ても
毛糸の玉をころがして
韈《くつした》を編《あ》む女なりしが

葡萄色《えびいろ》の
長椅子《ながいす》の上に眠りたる猫ほの白《じろ》き
秋のゆふぐれ

ほそぼそと
其処《そこ》ら此処《ここ》らに虫の鳴く
昼の野に来て読む手紙かな

夜《よる》おそく戸を繰《く》りをれば
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ

夜の二時の窓の硝子《ガラス》を
うす紅《あか》く
染めて音なき火事の色かな

あはれなる恋かなと
ひとり呟《つぶや》きて
夜半《よは》の火桶《ひをけ》に炭添《すみそ》へにけり

真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ》に
手をあてて
寒き夜にする物思ひかな

水のごと
身体《からだ》をひたすかなしみに
葱《ねぎ》の香《か》などのまじれる夕《ゆふべ》

時ありて
猫のまねなどして笑ふ
三十路《みそぢ》の友のひとり住《ず》みかな

気弱《きよわ》なる斥候《せきこう》のごとく
おそれつつ
深夜の街を一人散歩す

皮膚《ひふ》がみな耳にてありき
しんとして眠れる街《まち》の
重き靴音

夜《よる》おそく停車場に入《い》り
立ち坐《すわ》り
やがて出《い》でゆきぬ帽《ぼう》なき男

気がつけば
しっとりと夜霧下《お》りて居《を》り
ながくも街をさまよへるかな

若《も》しあらば煙草恵《たばこめぐ》めと
寄りて来《く》る
あとなし人《びと》と深夜に語る

曠野《あらの》より帰るごとくに
帰り来《き》ぬ
東京の夜《よ》をひとりあゆみて

銀行の窓の下なる
舗石《しきいし》の霜《しも》にこぼれし
青インクかな

ちょんちょんと
とある小藪《やぶ》に頬白《ほほじろ》の遊ぶを眺む
雪の野《や》の路《みち》

十月の朝の空気に
あたらしく
息吸《す》ひそめし赤坊《あかんぼ》のあり

十月の産病院の
しめりたる
長き廊下のゆきかへりかな

むらさきの袖垂《そでた》れて
空を見上げゐる支那《しな》人ありき
公園の午後

孩児《をさなご》の手ざはりのごとき
思ひあり
公園に来てひとり歩《あゆ》めば


ひさしぶりに公園に来て
友に会ひ
堅《かた》く手握り口疾《くちど》に語る

公園の木《こ》の間《ま》に
小鳥あそべるを
ながめてしばし憩《いこ》ひけるかな

暗れし日の公園に来て
あゆみつつ
わがこのごろの衰《おとろ》へを知る

思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタヌの葉の散りて触《ふ》れしを

公園の隅《すみ》のベンチに
二度ばかり見かけし男
このごろ見えず

公園のかなしみよ
君の嫁《とつ》ぎてより
すでに七月来《ななつきき》しこともなし

公園のとある木蔭《こかげ》の捨椅子《すていす》に
思ひあまりて
身をば寄せたる

忘られぬ顔なりしかな
今日街《まち》に
捕吏《ほり》にひかれて笑《ゑ》める男は

マチ擦《す》れば
二反ばかりの明るさの
中をよぎれる白き蛾《が》のあり

目をとぢて
口笛かすかに吹きてみぬ
寐《ね》られぬ夜の窓にもたれて

わが友は
今日も母なき子を負ひて
かの城址《しろあと》にさまよへるかな

夜《よる》おそく
つとめ先よりかへり来 《き》て
今死にしてふ児《こ》を抱 《だ》けるかな

二三《ふたみ》こゑ
いまはのきはに微《かす》かにも泣きしといふに
なみだ誘《さそ》はる

真白《ましろ》なる大根の根の肥《こ》ゆる頃
うまれて
やがて死にし児《こ》のあり

おそ秋の空気を
三尺四方《さんじやくしはう》ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな

死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心

底知れぬ謎《なぞ》に対《むか》ひてあるごとし
死児《しじ》のひたひに
またも手をやる

かなしみのつよくいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷《ひ》えてゆけども

かなしくも
夜明《よあ》くるまでは残りゐぬ
息《いき》きれし児の肌《はだ》のぬくもり



底本:「日本文学全集12 国木田独歩・石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版発行
   1972(昭和47)年9月10日9版発行
入力:j.utiyama
校正:浜野智
1998年8月11日公開
2001年12月11日修正
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