青空文庫アーカイブ

罪過論
石橋忍月

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)知らず/\
-------------------------------------------------------

 罪過の語はアリストテレスが、之を悲哀戯曲論中に用ひしより起原せるものにして、独逸語の所謂「シウルド」是なり。日本語に之を重訳して罪過と謂ふは稍々穏当ならざるが如しと雖も、世にアイデアル、リアルを訳して理想的、実写的とさへ言ふことあれば、是れ亦差して咎むべきにあらず。
 吾人をして若し罪過の定義を下さしめば、簡明に左の如く謂はんと欲す。曰く、
 罪過とは悲哀戯曲中の人物を悲惨の境界に淪落せしむる動力(源因)なり
と。此動力(源因)は即ち術語の罪過にして、世俗の所謂過失及び刑法の所謂犯罪等と混同すべからず。例之ば茲に曲中の人物が数奇不過不幸惨憺の境界に終ることありと仮定せよ。其境界に迫るまでには其間必ずやソレ相応の動力なかるべからず。語を変へて之を言へば闘争、欝屈、不平、短気、迷想、剛直、高踏、逆俗等ありて数奇不遇不幸惨憺の境界に誘ふに足る源因なかるべからず。罪過は即ち結果に対する源因を言ふなり、末路に対する伏線を言ふなり。此伏線此源因は如何にして発表せしむべきや。言ふまでもなく主人公其人と客観的の気運との争ひを写すに在り。此争ひの為めに主人公知らず/\自然の法則に背反することもあるべし。国家の秩序に抵触することもあるべし。蹉跌苦吟自己の驥足を伸ばし能はざることもあるべし。零落不平素志を達せずして終に道徳上世に容れられざる人となることもあるべし)憤懣短慮終に自己の名誉を墜すこともあるべし。曾つて之を争ひしが為めにワルレンスタインは悲苦の境界に沈淪したり。マクベスは間接に道徳に抵触したる所業をしたり。天神記の松王は我愛子を殺したり。娘節用の小三は義利の刀に斃れたり。信長の本能寺に弑せらるゝ、光秀の小栗栖に刺さるゝ、義貞の敗績に於ける、義経の東走に於ける、皆罪過なくんばあらず。吾人は断言せんと欲す、曰く、世に罪過なくして不幸の末路に終るものは之れなしと。人或は曰はん、キリストは罪過なくして無惨の死を遂げたりと。然れども吾人詩学的の眼を以つて之を視るときは、キリストと雖も明白なる罪過あるなり。彼はユダヤ人の気風習慣に逆ひ、時俗に投ぜざる、時人の信服を買ふ能はざる説を吐けり。是れ彼が無惨の死に終りし動力なり、源因なり、伏線なり。別言すれば彼は術語の罪過を犯せしものなり。孔子の饑餓に苦められしことあるも、孟子が轗軻不遇に終りしも、帰する所は同一理なり。
 吾人が悲哀戯曲に対するの意見此の如し。若し世間に罪過は悲哀戯曲に不必要なりと言ふ者あらば、吾人は其暴論に驚かずんばあらず。又罪過は戯曲のみにあるべきものにして決して小説にあるべからずと言ふ者あらば、吾人は別論として猶ほ其誤謬を駁せんと欲するなり。
 鴎外漁史は曾つてS・S・S・社を代表して「しがらみ艸紙」の本領を論ぜしことあり。中に言へるあり、曰く、
 伝奇の精髄を論じてアリストテレスの罪過論を唯一の規則とするは既に偏聴の誚を免れず、況んやこれを小説に応用せんとするをや
云々と。又医学士山口寅太郎氏も「しがらみ艸紙」第四号の舞姫評中に言へるあり、曰く、
 忍月居士がアリストテレスの罪過説を引て小説を論ずるが如きものは豈其正を得たるものならんや
云々と。吾人は先づ順を追ふて二氏の論の当否を判定せんと欲す。二氏共に罪過論は偏曲なり、又は小説に応用すべからずと断定せしのみにして、毫も其理由を言はず。素より他を論議するのついでに此言を附加せしものなれば、二氏も冗長をさけて其理由を言はざりしものならん。然れども吾人は其理由を聞かずんば其説に承服する能ざるなり。素より戯曲には種々の規則あり、罪過を以つて唯一の規則となすは不可なるべしと雖も、之が為めに罪過は不用なりと言ふあらば亦た大に不可なるが如し。何となれば人物は動力(源因)なくして偶然不幸悲惨の境界に陥るものなければなり。歴史家が偶然の出来事は世に存在せずと言ふも是れ吾人と同一の意見に出づるものならん。故に吾人は罪過を以ツて重要なる戯曲規則の一に数へんと欲す。
 戯曲は啻に不幸悲惨に終るもののみならず、又素志を全うして幸福嬉楽に終る者もあり。然るにアリストテレスは何が故に只罪過をのみ説いて歓喜戯曲の「歓喜に終る源因」に就て説くことなかりしや。是れ大なる由縁あり。当時希臘に於ては悲哀戯曲のみを貴重し、トラゲヂーと言へばあらゆる戯曲の別名の如くなりをりて、悲哀戯曲外に戯曲なしと思惟するの傾向ありたり。故にアリストテレスが戯曲論を立つるも専ぱら悲哀戯曲に就て言へるなり。若し彼をして歓喜戯曲、通常戯曲等も悲哀戯曲と同じく尊重せらるゝ現代に在らしめば、彼は決ツして悲哀戯曲のみに通用する「罪過」の語を用ひずして、必ず一般に通用する他語を用ひしに相違なし。故に近世の詩学家は罪過の語の代りに衝突「コンフリクト」の語を用ふ。而して曰ふ、トラゲヂーの出来事は人物が其力量識見徳行の他に超抜するにも係はらず、不幸の末路に終へしむる所の衝突を有し、コムメヂーの出来事は素志を全うし幸福嬉楽の境に赴かしむる所の衝突を有すと。アヽ世に人物に対する衝突なきの出来事ある乎。若し之れありとせば、ソは最早出来事とは称すべからざるなり。是を以つて之を視れば、罪過も衝突も行為結果の動力を意味するに至つては同一なり。只意義に広狭の差あるのみ。されば罪過説を排斥するものは衝突説をも排斥するものなり。アリストテレスの罪過を広意に敷延すれば即ち結果に対する原因なり、末路に対する伏線なり(復た其不幸に終ると幸福に終るとを問はず)。試みに鴎外漁史に問はん、漁史は結果のみを写して原因を写さざる戯曲を称して猶ほ良好なるものと謂ふ乎、原因に注目する者を称して猶ほ偏聴の誚を免れざるものとなす乎。
 又飜つて小説を見るに、苟くも小説の名を下し得べき小説は如何なるものと雖も、悉く人物の意思と気質とに出づる行為、及び其結果より成立せざるはなし。人物の一枯一栄一窮一達は総て其行為の結果なり。故に行為は結果に対する源因となるなり。禍に罹るも福を招くも其源を尋ぬれば、行為は明然之が因をなす。別言すれば結果は源因の写影たるに外ならず。此源因は即ち広意に於ける罪過と同一意義なり。(以下に用ふる罪過の語は衝突と同一なりと思ひ玉ヘ)世に偶然の出来事なし、豈に罪過なきの結果あらんや。手を相場に下して一攫千金の利を得るも、志士仁人が不幸数奇なることあるも、悪人栄えて善人亡ぶることあるも、尊氏が征夷大将軍となるも、正成が湊川に戦死するも、総て何処にか罪過なくんばあらず。罪過なくんば結果なし。結果なくんば行為なし。行為なくんば意思なし気質なし。意志なく気質なくんば既に人物なし。人物なくして誰か小説を作るを得ん。鴎外、山口の二学士が小説に罪過説を応用すべからずと云ふは、横から見るも縦から見るも解すべからざる謬見と謂はざるを得ず。何となれば二学士は行為なき、人物なきの小説を作れと言ふものと一般なればなり。否らざれば二氏は木偶泥塑を以ツて完全なる小説を作れと命ずる者と一般なり。吾人は二氏が難きを人に責るの酷なるに驚く。
 二氏は如何にして此の如き謬見を抱きしや。吾人熟々二氏の意の在る処を察して稍々其由来を知るを得たり。蓋し二氏は罪過説に拘泥する時は命数戯曲、命数小説の弊に陥るを憂ふる者ならん。何となれば罪過なる者は主人公其人と運命(運命の極弊は命数)との争ひを以て発表する者なればなり。若し果して然らば二氏は運命を適当に解釈するを知らざる者なり。運命とは神意に出るものにもあらず、天命にもあらず、怪異にもあらず。古昔希臘人は以為らく、人智の得て思議すべからざる者是れ則ち運命なりと。故に英雄豪傑の不幸に淪落するは、其人の心、之を然らしむるにはあらずして、皆な天奇神意に出づるものなりと。又、ゾホクレス、ヲイリピデス等の戯曲は多く此傾きあるが如し。思ふに二氏が運命を解釈するは是と同一ならん。然れども是れ古昔陳腐の解にして近世詩学家の採らざる所なり。吾人は運命を以つて「都て人の意思と気質とに出づる行為の結果なり」と解釈するものなり。シエクスピーヤの傑作も近松の傑作も皆な此解釈に基くが如し。又レッシングの「ガロッチー」シルレルの「ワルレンスタイン」も亦た皆な然らざるはなし。是を以つて知る、縦令罪過に拘泥するも、運命の解釈さへ誤ることなければ、決つして命数の弊に陥るの憂なきを。
 近く例を探らんに、春のやの妹と背鏡、細君、美妙斎の胡蝶、紅葉の色懺悔及び鴎外の舞姫等皆な罪過あるなり。然れども皆な小説たるの体裁を失はず。只其間に彼此優劣の差あるは、一に罪過の発生、成長の光景を写すに巧拙あるが故なり。要するに罪過なきの小説は小説にあらざるなり。罪過なきの戯曲は戯曲にあらざるなり。罪過の発生、成長を巧みに写すこと能はざるものは、拙劣の作者なり。
 アヽ罪過が戯曲、小説に於ける地位、斯の如く重要なり。敢て罪過論を艸して世上の非罪過論者に質す。
(明治二十三年四月一、二、三日)



底本:「現代日本文學大系96文藝評論集」筑摩書房
   1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:八巻美恵
1998年3月18日公開
2000年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ