青空文庫アーカイブ


池谷信三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溶《と》けていた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)非常|梯子《ばしご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)コクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28-上段-1]ーク
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     1

 人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活の流れの上に溶《と》けていた。

 黄昏《たそがれ》が街の灯火に光りを添《そ》えながら、露路の末まで浸みて行った。
 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のように瞬《またた》いていた。
 果物屋の店の中は一面に曇った硝子《ガラス》の壁にとり囲まれ、彼が毛糸の襟巻《えりまき》の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとったら、ひょっこり靄の中から蜜柑《みかん》とポンカンが現われた。女の笑顔が蜜柑の後ろで拗《す》ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつん[#「つん」に傍点]として、ナプキンの紙で拵《こしら》えた人形に燐寸《マッチ》の火をつけていた。人形は燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子《テーブル》の上に散らかっていた。

――遅かった。
――……
――どうかしたの?
――……
――クリイムがついていますよ、口の廻りに。
――そう?
――僕は窓を見ていると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗《うるわ》しい象徴だと思うのです。
――そう?
――今も人のうようよと吐《は》きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴《ベル》です自動車の頭灯《ヘッドライト》です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢《うごめ》く、ちょうど海の底の魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消えているのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思いがけない高い所に、たった一つ、灯がはいっているのです。あすこの事務室で、きっと残務をとっている人々なのでしょう。僕は、……
――まあ、お饒舌《しゃべ》りね、あんたは。どうかしてるんじゃない、今日?
――どうしてです。
――だって、だって眼にいっぱい涙をためて。
――霧ですよ。霧が睫毛《まつげ》にたまったのです。
――あなたは、もう私と会ってくださらないおつもりなの?
――だって君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れていってくれないんですもの。だから、……
 女はきゅうに黙ってしまった。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のように動いて行った。しばらくして、
――いらっしてもいいのよ。だけど、……いらっしゃらない方がいいわ。

 町の外《はず》れに橋があった。橋の向うはいつでも霧がかかっていた。女はその橋の袂《たもと》へ来ると、きまって、さよなら、と言った。そうして振り返りもせずに、さっさと橋を渡って帰って行った。彼はぼんやりと橋の袂の街灯に凭《よ》りかかって、靄の中に消えて行く女の後姿を見送っている。女が口吟《くちずさ》んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けている。それからくるりと踵《くびす》を返して、あの曲りくねった露路の中を野犬のようにしょんぼりと帰ってくるのだった。
 炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひっぱりながら、あの橋の向うの彼女を知ることが、最近の彼の憧憬になっていた。だけど、女が来いと言わないのに、彼がひとりで橋を渡って行くことは、彼にとって、負けた気がしてできなかった。女はいつも定った時間に、蜜柑の後ろで彼を待っていた。女はシイカと言っていた。それ以外の名も、またどう書くのかさえも、彼は知らなかった。どうして彼女と識り合ったのかさえ、もう彼には実感がなかった。

     2

 夜が都会を包んでいた。新聞社の屋上庭園には、夜風が葬式のように吹いていた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下していた。大通りに沿って、二条に続いた街灯の連りが、限りなく真直ぐに走って、自動車の頭灯《ヘッドライト》が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のように交錯していた。
 階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷《す》りだす、アルバート会社製の高速度輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥《おとしい》れながら、轟々《ごうごう》と廻転をし続けていた。
 油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差《まなざ》し、あるいはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会を地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然《ひょうぜん》とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎《とが》める人などありはしない。彼はシイカの事を考えていた。モーニングを着たらきっとあなたはよくお似合になるわよ、と言ったシイカの笑顔を。
 彼はそっとポケットから、クララ・ボウのプロマイドを取りだして眺めた。屋上に高く聳《そび》えた塔の廻りを、さっきから廻転している探海灯が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫でながら一閃《いっせん》するたびに、クララ・ボウの顔がさっと明るく微笑《ほほえ》んだが、暗くなるとまた、むっつりと暗闇の中で物を想いだした。彼女にはそういうところがあった。シイカには。
 彼女はいつも、会えば陽気にはしゃいでいるのだったが、マズルカを口吟《くちずさ》みながら、橋の向うへ消えて行く彼女の後姿は、――会っていない時の、彼の想い出の中に活《い》きている彼女は、シイカは、墓場へ向う路のように淋しく憂鬱《ゆううつ》だった。
 カリフォルニヤの明るい空の下で、溌溂《はつらつ》と動いている少女の姿が、世界じゅうの無数のスクリンの上で、果物と太陽の香りを発散した。東洋人独特の淑《しと》やかさはあり、それに髪は断《き》ってはいなかったが、シイカの面影にはどこかそのクララに似たところがあった。とりわけ彼女が、忘れものよ、と言って、心持首を傾《かし》げながら、彼の唇を求める時。シイカはどうしても写真をくれないので、――彼女は、人間が過去というものの中に存在していたという、たしかな証拠を残しておくことを、なぜかひどく嫌やがった。彼女はそれほど、瞬間の今の自分以外の存在を考えることを恐れていた。――だから、しかたなく彼はそのアメリカの女優のプロマイドを買ってきて、鼻のところを薄墨で少し低く直したのであった。
 彼がシイカといつものように果物屋の店で話をしていた時、Sunkist という字が話題に上った。彼はきっと、それは太陽《サン》に接吻《キッス》されたという意味だと主張した。カリフォルニヤはいつも明るい空の下に、果物がいっぱい実っている。あすこに君によく似たクララが、元気に、男の心の中に咲いた春の花片を散らしている。――貞操を置き忘れたカメレオンのように、陽気で憂鬱で、……
 すると、シイカがきゅうに、ちょうど食べていたネーブルを指さして、どうしてこれネーブルって言うか知ってて? と訊《き》いた。それは伊太利《イタリー》のナポリで、……と彼が言いかけると、いいえ違ってよ。これは英語の navel、お臍《へそ》って字から訛《なま》ってきたのよ。ほら、ここんとこが、お臍のようでしょう。英語の先生がそう言ったわよ、とシイカが笑った。アリストテレスが言ったじゃないの、万物は臍を有す、って。そして彼女の真紅な着物の薊《あざみ》の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒《ま》き散らしながら、揺れて揺れて、……こんなことを想いだしていたとてしかたがなかった。彼は何をしにこんな夜更《よふけ》、新聞社の屋上に上ってきたのだったか。
 彼はプロマイドを蔵《しま》うと、そっと歩きだした。鳩の家の扉を開けると、いきなり一羽の伝書鳩を捕えて、マントの下にかくした。

     3

 デパアトメントストオアには、あらゆる生活の断面が、ちょうど束になった葱《ねぎ》の切口のように眼に沁《し》みた。
 十本では指の足りない貴婦人が、二人の令嬢の指を借りて、ありったけの所有のダイヤを光らせていた。若い会社員は妻の購買意識を散漫にするために、いろいろと食物の話を持ちだしていた。母親は、まるでお聟さんでも選ぶように、あちらこちらから娘の嫌やだと言う半襟ばかり選りだしていた。娘はじつをいうと、自分にひどく気に入ったのがあるのだが、母親に叱られそうなので、顔を赤くして困っていた。孫に好かれたい一心で、玩具《おもちゃ》の喇叭《らっぱ》を万引しているお爺さんがいた。若いタイピストは眼鏡を買っていた。これでもう、接吻をしない時でも男の顔がはっきり見えると喜びながら。告示板を利用して女優が自分の名前を宣伝していた。妹が見合をするのに、もうお嫁に行った姉さんの方が、よけい胸を躍《おど》らせていた。主義者がパラソルの色合いの錯覚を利用して、尾行の刑事を撒いていた。同性愛に陥った二人の女学生は、手をつなぎ合せながら、可憐《いじら》しそうに、お揃いの肩掛を買っていた。エレベーターがちょうど定員になったので、若夫婦にとり残された母親が、ふいと自分の年を想いだして、きゅうに淋しそうに次のを待っていた。独身者が外套のハネ[#「ハネ」に傍点]を落す刷毛《ブラシ》を買っていた。ラジオがこの人混みの中で、静かな小夜曲《セレナーデ》を奏していた。若い女中が奥さんの眼をかすめて、そっと高砂の式台の定価札をひっくり返してみた。屋上庭園では失恋者が猿にからかっていた。喫煙室では地所の売買が行われていた。待ち呆けを喰わされた男が、時計売場の前で、しきりと時間を気にしていたが、気の毒なことに、そこに飾られた無数の時計は、世界じゅうのあらゆる都市の時間を示していた。…………
 三階の洋服売場の前へひょっこりと彼が現れた。
――モーニングが欲しいんだが。
――はあ、お誂《あつら》えで?
――今晩ぜひ要るのだが。
――それは、……
 困った、といった顔つきで店員が彼の身長をメートル法に換算した。彼は背伸びをしたら、紐育《ニューヨーク》の自由の女神が見えはすまいかというような感じだった。しばらく考えていた店員は、何か気がついたらしく、そうそう、と昔なら膝を打って、一着のモーニングをとりだしてきた。じつはこれはこの間やりました世界風俗展で、巴里《パリ》の人形が着ていたのですが、と言った。
 すっかり着こむと、彼は見違えるほどシャン[#「シャン」に傍点]として、気持が、その粗《あら》い縞のズボンのように明るくなってしまった。階下にいる家内にちょっと見せてくる、と彼が言った。いかにも自然なその言いぶりや挙動で、店員は別に怪しみもしなかった。では、この御洋服は箱にお入れして、出口のお買上品引渡所へお廻しいたしておきますから、……
 ところが、エレベーターはそのまま、すうっと一番下まで下りてしまった。無数の人に交って、ゆっくりと彼は街に吐きだされて行った。
 もう灯の入った夕暮の街を歩きながら彼は考えた。俺は会社で一日八時間、この国の生産を人口で割っただけの仕事は充分すぎるほどしている。だから、この国の贅沢を人口で割っただけの事をしてもいいわけだ。電車の中の公衆道徳が、個人の実行によって完成されて行くように、俺のモーニングも、……それから、彼はぽかんとして、シイカがいつもハンケチを、左の手首のところに巻きつけていることを考えていた。
 今日はホテルで会う約束だった。シイカが部屋をとっといてくれる約束だった。

――蒸《む》すわね、スチイムが。
 そう言ってシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の灯火が溶けている街の風景を見下しながら、彼女がいつものマズルカを口吟《くちずさ》んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のように、彼女の口を漏《も》れてくると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだった。ことに橋を渡って行くあの別離の時に。
――このマズルカには悲しい想い出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にしたことがあった。
――黒鉛ダンスって知ってて?
 いきなりシイカが振り向いた。
――いいえ。
――チアレストンよりもっと新らしいのよ。
――僕はああいうダァティ・ダンスは嫌いです。
――まあ、おかしい。ホホホホホ。
 このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たった二人で向い合っている時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残してきていようなどとはどうして思えようか。彼女は春の芝生のように明るく笑い、マクラメ・レースの手提袋から、コンパクトをとりだして、ひととおり顔を直すと、いきなりポンと彼の鼻のところへ白粉《おしろい》をつけたりした。
――私のお友だちにこんな女《ひと》があるのよ。靴下止めのところに、いつも銀の小鈴を結《ゆわ》えつけて、歩くたびにそれがカラカラと鳴るの。ああやっていつでも自分の存在をはっきりさせておきたいのね。女優さんなんて、皆んなそうかしら。
――君に女優さんの友だちがあるんですか?
――そりゃあるわよ。
――君は橋の向うで何をしてるの?
――そんなこと、訊かないって約束よ。
――だって、……
――私は親孝行をしてやろうかと思ってるの。
――お母さんやお父さんといっしょにいるんですか?
――いいえ。
――じゃ?
――どうだっていいじゃないの、そんなこと。
――僕と結婚して欲しいんだが。
 シイカは不意に黙ってしまった。やがてまた、マズルカがリラリラと、かすかに彼女の唇を漏れてきた。
――だめですか?
――……
――え?
――おかしいわ。おかしな方ね、あんたは。
 そして彼女はいつものとおり、真紅な着物の薊《あざみ》の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺れて揺れて、笑ったが、彼女の瞳からは、涙が勝手に溢れていた。

 しばらくすると、シイカは想いだしたように、卓子《テーブル》の上の紙包みを解《ほど》いた。その中から、美しい白耳義《ベルギー》産の切子硝子《カットグラス》の菓子鉢を取りだした。それを高く捧げてみた。電灯の光がその無数の断面に七色の虹を描きだして、彼女はうっとりと見入っていた。
 彼女の一重瞼をこんなに気高いと思ったことはない。彼女の襟足をこんなに白いと感じたことはない。彼女の胸をこんなに柔かいと思ったことはない。
 切子硝子がかすかな音を立てて、絨氈《じゅうたん》の敷物の上に砕け散った。大事そうに捧げていた彼女の両手がだらりと下った。彼女は二十年もそうしていた肩の凝りを感じた。何かしらほっとしたような気安い気持になって、いきなり男の胸に顔を埋めてしまった。
 彼女の薬指にオニックスの指輪の跡が、赤く押されてしまった。新調のモーニングに白粉の粉がついてしまった。貞操の破片が絨氈の上でキラキラと光っていた。

 卓上電話がけたたましく鳴った。
――火事です。三階から火が出たのです。早く、早く、非常口へ!
 廊下には、開けられた無数の部屋の中から、けたたましい電鈴《りん》の音。続いてちょうど泊り合せていた露西亜《ロシア》の歌劇団の女優連が、寝間着姿のしどけないなり[#「なり」に傍点]で、青い瞳に憂鬱な恐怖を浮べ、まるでソドムの美姫のように、赤い電灯の点いた非常口へ殺到した。ソプラノの悲鳴が、不思議な斉唱を響かせて。……彼女たちは、この力強い効果的な和声《ハアモニイ》が、チァイコフスキイのでもなく、またリムスキイ・コルサコフのでもなく、まったく自分たちの新らしいものであることに驚いた。部屋の戸口に、新婚の夫婦の靴が、互いにしっかりと寄り添うようにして、睦《むつま》しげに取り残されていた。
 ZIG・ZAGに急な角度で建物の壁に取りつけられた非常|梯子《ばしご》を伝って、彼は夢中でシイカを抱いたまま走り下りた。シイカの裾が梯子の釘にひっかかって、ビリビリと裂けてしまった。見下した往来には、無数の人があちこちと、虫のように蠢《うごめ》いていた。裂かれた裾の下にはっきりと意識される彼女の肢《あし》の曲線を、溶けてしまうように固く腕に抱きしめながら、彼は夢中で人混みの中へ飛び下りた。

――裾が裂けてしまったわ。私はもうあなたのものね。
 橋の袂でシイカが言った。

     4

 暗闇の中で伝書鳩がけたたましい羽搏《はばた》きをし続けた。
 彼はじいっと眠られない夜を、シイカの事を考え明すのだった。彼はシイカとそれから二三人の男が交って、いっしょにポオカアをやった晩の事を考えていた。自分の手札をかくし、お互いに他人の手札に探りを入れるようなこの骨牌《かるた》のゲームには、絶対に無表情な、仮面のような、平気で嘘をつける顔つきが必要だった。この特別の顔つきを Poker-face と言っていた。――シイカがこんな巧みなポオカア・フェスを作れるとは、彼は実際びっくりしてしまったのだった。
 お互いに信じ合い、恋し合っている男女が、一遍このポオカアのゲームをしてみるがいい。忍びこんだメフィストの笑いのように、暗い疑惑の戦慄が、男の全身に沁みて行くであろうから。
 あの仮面の下の彼女。何んと巧みな白々しい彼女のポオカア・フェス!――橋の向うの彼女を知ろうとする激しい欲望が、嵐のように彼を襲《おそ》ってきたのは、あの晩からであった。もちろん彼女は大勝ちで、マクラメの手提袋の中へ無雑作に紙幣《さつ》束をおし込むと、晴やかに微笑みながら、白い腕をなよなよと彼の首に捲きつけたのだったが、彼は石のように無言のまま、彼女と別れてきたのだった。橋の所まで送って行く気力もなく、川岸へ出る露路の角で別れてしまった。
 シイカはちょっと振り返ると、訴えるような暗い眼差しを、ちらっと彼に投げかけたきり、くるりと向うを向いて、だらだらと下った露路の坂を、風に吹かれた秋の落葉のように下りて行った。……
 彼はそっと起き上って蝋燭《ろうそく》をつけた。真直ぐに立上っていく焔を凝視《みつめ》ているうちに、彼の眼の前に、大きな部屋が現れた。氷《こお》ったようなその部屋の中に、シイカと夫と彼らの子とが、何年も何年も口一つきかずに、おのおの憂鬱な眼差しを投げ合って坐っていた。――そうだ、ことによると彼女はもう結婚しているのではないかしら?
 すると、今度は暗い露路に面した劇場の楽屋口が、その部屋の情景にかぶさってダブ[#「ダブ」に傍点]ってきた。――そこをこっそり出てくるシイカの姿が現れた。ぐでんぐでんに酔払った紳士が、彼女を抱えるようにして自動車に乗せる。車はそのままいずれへともなく暗の中に消えて行く。……
 彼の頭がだんだんいらだってきた。ちょうど仮装舞踏会のように、自分と踊っている女が、その無表情な仮面の下で、何を考えているのか。もしそっとその仮面を、いきなり外してみたならば、女の顔の上に、どんな淫蕩《いんとう》な多情が、章魚《たこ》の肢のように揺れていることか。あるいはまた、どんな純情が、夢を見た赤子の唇のようにも無邪気に、蒼白く浮んでいることか。シイカが橋を渡るまでけっして外したことのない仮面が、仄《ほ》の明りの中で、薄気味悪い無表情を示して、ほんのりと浮び上っていた。
 彼は絶間ない幻聴に襲われた。幻聴の中では、彼の誠意を嗤《わら》うシイカの蝙蝠《こうもり》のような笑声を聞いた。かと思うと、何か悶々《もんもん》として彼に訴える、清らかな哀音を耳にした。
 蝋涙《ろうるい》が彼の心の影を浮べて、この部屋のたった一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝って、音もなく流れて行った。彼の空想が唇のように乾いてしまったころ、嗚咽《おえつ》がかすかに彼の咽喉《のど》につまってきた。

     5

――私は、ただお金持ちの家に生れたというだけの事で、そりゃ不当な侮蔑《ぶべつ》を受けているのよ。私たちが生活の事を考えるのは、もっと貧しい人たちが贅沢の事を考えるのと同じように空想で、必然性がないことなのよ。それに、家名だとか、エチケットだとか、そういう無意義な重荷を打ち壊す、強い意志を育ててくれる、何らの機会も環境も、私たちには与えられていなかったの。私たちが、持て余した一日を退屈と戦いながら、刺繍の針を動かしていることが、どんな消極的な罪悪であるかということを、誰も教えてくれる人なんかありはしない。私たちは自分でさえ迷惑に思っている歪《ゆが》められた幸運のために、あらゆる他から同情を遮られているの。私、別に同情なんかされたくはないけど、ただ不当に憎まれたり、蔑《さげす》まれたりしたくはないわ。
――君の家はそんなにお金持なの?
――ええ、そりゃお金持なのよ。銀行が取付けになるたびに、お父さまの心臓はトラックに積まれた荷物のように飛び上るの。
――ほう。
――この間、いっしょに女学校を出たお友だちに会ったのよ。その方は学校を出るとすぐ、ある社会問題の雑誌にお入りになって、その方で活動してらっしゃるの。私がやっぱりこの話を持ちだしたら、笑いながらこう言うの。自分たちはキリストと違って、すべての人類を救おうとは思っていない。共通な悩みに悩んでいる同志を救うんだ、って。あなた方はあなた方同志で救い合ったらどう? って。だから、私がそう言ったの。私たちには自分だけを救う力さえありゃしない。そんなら亡んでしまうがいい、ってそう言うのよ、その女《ひと》は。それが自然の法則だ。自分たちは自分たちだけで血みどろだ、って。だから、私が共通な悩みっていえば、人間は、ちょうど地球自身と同じように、この世の中は、階級という大きな公転を続けながら、その中に、父子、兄弟、夫婦、朋友、その他あらゆる無数の私転関係の悩みが悩まれつつ動いて行くのじゃないの、って言うと、そんな小っぽけな悩みなんか踏み越えて行ってしまうんだ。自分たちは小ブルジョア階級のあげる悲鳴なんかに対して、断然感傷的になってはいられない。だけど、あなたにはお友だち甲斐《がい》によいことを教えてあげるわ。――恋をしなさい。あなた方が恋をすれば、それこそ、あらゆる倦怠と閑暇《ひま》を利用して、清らかに恋し合えるじゃないの。あらゆる悩みなんか、皆んなその中に熔かしこんでしまうようにね。そこへ行くと自分たちは主義の仕事が精力の九割を割《さ》いている。後の一割でしか恋愛に力を別たれない。だから、自分たちは一人の恋人なんかを守り続けてはいられない。それに一人の恋人を守るということは、一つの偶像を作ることだ。一つの概念を作ることだ。それは主義の最大の敵だ。だから、……そんなことを言うのよ。私、何んだか、心のありかが解らないような、頼りない気がしてきて、……
――君はそんなに悩み事があるの?
――私は母が違うの。ほんとのお母さんは私が二つの時に死んでしまったの。
――え?
――私は何んとも思っていないのに、今のお継母《かあ》さんは、私がまだ三つか四つのころ、まだ意識がやっと牛乳の罎《びん》から離れたころから、もう、自分を見る眼つきの中に、限りない憎悪《にくしみ》の光が宿っているって、そう言っては父を困らしたんですって。お継母さんはこう言うのよ。つまり私を生んだ母親が、生前、自分の夫が愛情を感ずるあらゆる女性に対して懐《いだ》いていた憎悪の感情が、私の身体の中に、蒼白い潜在意識となって潜んでいて、それがまだあどけない私の瞳の底に、無意識的に、暗の中の黒猫の眼のように光っているんだ、ってそう言うのよ。私が何かにつけて、物事を僻《ひが》んでいやしないかと、しょっちゅうそれを向うで僻んでいるの。父は継母《はは》に気兼ねして、私の事は何んにも口に出して言わないの。継母は早く私を不幸な結婚に追いやってしまおうとしているの。そしてどんな男が私を一番不幸にするか、それはよく知っているのよ。継母は自分を苦しめた私を、私はちょっともお継母《かあ》さんを苦しめたことなんかありはしないのに、私が自分より幸福になることをひどく嫌がっているらしいの。そんなにまで人間は人間を憎しめるものかしら。……中で、私を一番不幸にしそうなのは、ある銀行家の息子なの。ヴァイオリンが上手で、困ったことに私を愛しているのよ。この間、仲人《なこうど》の人がぜひその男のヴァイオリンを聞けと言って、私に電話口で聞かせるのよ。お継母さんがどうしても聞けって言うんですもの。後でお継母さんが出て、大変けっこうですね、今、娘が大変喜んでおりました、なんて言うの。私その次に会った時、この間の軍隊行進曲《マーチ》はずいぶんよかったわね、ってそ言ってやったわ。ほんとはマスネエの逝く春を惜しむ悲歌《エレジイ》を弾いたんだったけど。皮肉っていや、そりゃ皮肉なのよ、その人は。いつだったかいっしょに芝居へ行こうと思ったら、髭も剃っていないの。そう言ってやったら、すました顔をして、いや一遍剃ったんですが、あなたのお化粧を待っているうちに、また伸びてしまったんですよ。どうも近代の男は、女が他の男のために化粧しているのを、ぽかんとして待っていなければならない義務があるんですからね、まったく、……って、こうなのよ。女を軽蔑することが自慢なんでしょう。軽蔑病にかかっているのよ。何んでも他のものを軽蔑しさえすれば、それで自分が偉くなったような気がするのね。近代の一番悪い世紀病にとっつかれているんだわ。今度会ったら紹介してあげるわね。
――君は、その人と結婚するつもり?
 シイカは突然黙ってしまった。
――君は、その男が好きなんじゃないの?
 シイカはじっと下唇を噛んでいた。一歩ごとに振動が唇に痛く響いて行った。
――え?
 彼が追っかけるように訊いた。
――ええ、好きかもしれないわ。あなたは私たちの結婚式に何を送ってくださること?
 突然彼女がポロポロと涙を零《こぼ》した。
 彼の突き詰めた空想の糸が、そこでぽつりと切れてしまい、彼女の姿はまた、橋の向うの靄の中に消えてしまった。彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮《しょうりょ》と情熱が、まるでコクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28-上段-1]ークのように攪《か》き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張りだした。
 川沿いの並木道が長く続いていた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでいた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。
――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。
――女優?
――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優じゃないわ。女が瞬間に考えついたすばらしい無邪気な空想を、いちいちほんとに頭に刻みこんでいたら、あなたは今に狂人になってしまってよ。
――僕はもう狂人です。こら、このとおり。
 彼はそう言いながら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに駈けだして行ってしまった。
 シイカはそれをしばらく見送ってから、深い溜息をして、無表情な顔を懶《ものう》げに立てなおすと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のように、とぼとぼと橋の方へ向って歩きだした。
 彼女の唇をかすかに漏れてくる吐息とともに、落葉を踏む跫音《あしおと》のように、……

  君は幸《さち》あふれ、
  われは、なみだあふる。

     6

 いつもの果物屋で、彼がもう三十分も待ち呆けを喰わされていた時、電話が彼にかかってきた。
――あなた? ごめんなさい。私、今日はそっちへ行けないのよ。……どうかしたの?
――いいえ。
――だって黙ってしまって、……怒ってるの?
――今日の君の声はなんて冷たいのかしら。
――だって、雪が電線に重たく積っているんですもの。
――どこにいるの、今?
――帝劇にいるの。あなた、いらっしゃらないこと? ……この間話したあの人といっしょなのよ。紹介してあげるわ。……今晩はチァイコフスキイよ。オニエギン、……
――オニエギン?
――ええ。……来ない?
――行きます。
 その時彼は電話をとおして、低い男の笑声を聞いた。彼は受話器をかけるといきなり帽子を握った。頬っぺたをはたかれたハルレキンのような顔をして、彼は頭の中の積木細工が、不意に崩れて行くかすかな音を聞いた。

 街には雪が蒼白く積っていた。街を長く走っている電線に、無数の感情がこんがらかって軋《きし》んで行く気味の悪い響が、この人通りの少い裏通りに轟々《ごうごう》と響いていた。彼は耳を掩《おお》うように深く外套の襟を立てて、前屈《まえかが》みに蹌踉《ある》いて行った。眼筋が働きを止めてしまった視界の中に、重なり合った男の足跡、女の足跡。ここにも感情が縺《もつ》れ合ったまま、冷えきった燃えさしのように棄てられてあった。
 いきなり街が明るく光りだした。劇場の飾灯が、雪解けの靄《もや》に七色の虹を反射させていた。入口にシイカの顔が微笑んでいた。鶸色《ひわいろ》の紋織の羽織に、鶴の模様が一面に絞《しぼ》り染めになっていた。彼女の後ろに身長《せい》の高い紳士が、エチケットの本のように、淑《しと》やかに立っていた。
 二階の正面に三人は並んで腰をかけた。シイカを真中に。……彼はまた頭の中の積木細工を一生懸命で積み始めた。
 幕が開いた。チァイコフスキイの朗《ほが》らかに憂鬱な曲が、静かにオーケストラ・ボックスを漏れてきた。指揮者のバトンが彼の胸をコトン、コトン! と叩いた。
 舞台一面の雪である。その中にたった二つの黒い点、オニエギンとレンスキイが、真黒な二羽の鴉《からす》のように、不吉な嘴《くちばし》を向き合せていた。
 彼は万年筆をとりだすと、プログラムの端へ急いで書きつけた。
(失礼ですが、あなたはシイカをほんとに愛しておいでですか?)
 プログラムはそっと対手《あいて》の男の手に渡された。男はちょっと顔を近寄せて、すかすようにしてそれを読んでから、同じように万年筆をとりだした。
(シイカは愛されないことが愛されたことなのです。)
――まあ、何? 二人で何を陰謀をたくらんでいるの?
 シイカがクツクツと笑った。プログラムは彼女の膝の上を右へ左へ動いた。
(そんな無意義なパラドックスで僕を愚弄《ぐろう》しないでください。僕は奮慨しているんですよ。)
(僕の方がよっぽど奮慨してるんですよ。)
(あなたはシイカを幸福にしてやれると思ってますか。)
(シイカを幸福にできるのは、僕でもなければ、またあなたでもありません。幸福は彼女のそばへ近づくと皆んな仮面を冠ってしまうのです。)
(あなたからシイカの事を説明していただくのは、お断りしたいと思うのですが。)
(あなたもまた、彼女を愛している一人なのですか。)
――うるさいわよ。
 シイカがいきなりプログラムを丸めてしまった。舞台の上では轟然たる一発の銃声。レンスキイの身体が枯木のように雪の中に倒れ伏した。
――立て!
 いきなり彼が呶鳴った。対手の男はぎく[#「ぎく」に傍点]として、筋を引いた蛙の肢のように立上った。シイカはオペラグラスを膝の上に落した。彼はいきなり男の腰を力|任《ま》かせに突いた。男の身体はゆらゆらと蹌踉《よろ》めいたと思ったら、そのまま欄干を越えて、どさりと一階の客席の真中に墜落してしまった。わーっ! という叫び声。一時に立上る観客の頭、無数の瞳が上を見上げた。舞台では、今死んだはずのレンスキイがむっくりと飛び上った。音楽がはたと止った。客席のシャンドリエに灯火が入った。叫び声!
 シャンドリエの光が大きく彼の眼の中で揺れ始めた。いきなり力強い腕が彼の肩を掴んだ。ピントの外れた彼の瞳の中に、真蒼なシイカの顔が浮んでいた。広く瞠《みひら》いた瞳の中から、彼女の感情が皆んな消えて行ってしまったように、無表情な彼女の顔。白々しい仮面のような彼女の顔。――彼はただ、彼女が、今、観客席の床の上に一箇所の斑点のように、圧しつぶされてしまったあの男に対して、何んらの感情も持ってはいなかったことを知った。そして、彼女のために人を殺したこの自分に対して、憎悪さえも感じていない彼女を見た。

     7

 街路樹の新芽が眼に見えて青くなり、都会の空に香《かぐ》わしい春の匂いが漂ってきた。松の花粉を浴びた女学生の一群が、ゆえもなく興奮しきって、大きな邸宅の塀の下を、明るく笑いながら帰って行った。もう春だわね、と言ってそのうちの一人が、ダルクローズのように思いきって両手を上げ、深呼吸をした拍子に、空中に幾万となく数知れず浮游していた蚊を、鼻の中に吸いこんでしまった。彼女は顰《しか》め面《つら》をして鼻を鳴らし始めた。明るい陽差しが、軒に出された風露草《グラニヤ》の植木鉢に、恵み多い光りの箭《や》をそそいでいた。
 取調べは二月ほどかかった。スプリング・スーツに着更えた予審判事は、彼の犯行に特種の興味を感じていたので、今朝も早くから、友人の若い医学士といっしょに、ごく懇談的な自由な取調べや、智能調査、精神鑑定を行った。以下に書きつけられた会話筆記は、その中から適宜《てきぎ》に取りだした断片的の覚書である。

問。被告は感情に何かひどい刺戟《しげき》を受けたことはないか?
答。橋の向うの彼女を知ろうとする激しい慾求が、日夜私の感情をいらだたせていました。
問。それを知ったら、被告は幸福になれると確信していたのか?
答。かえって不幸になるに違いないと思っていました。
問。人間は自分を不幸にすることのために、努力するものではないと思うが。
答。不確実の幸福は確実な不幸より、もっと不幸であろうと思います。
問。被告の知っている範囲で、その女はどんな性格を持っていたか?
答。巧みなポオカア・フェスができる女でした。だが、それは意識的な悪意から来るのではないのです。彼女は瞬間以外の自分の性格、生活に対しては、何んらの実在性を感じないのです。彼女は自分の唇の紅がついたハンケチさえ、私の手もとに残すことを恐れていました。だから、彼女がすばらしい嘘をつくとしても、それは彼女自身にとっては確実なイメエヂなのです。彼女が自分を女優だと言う時、事実彼女は、どこかの舞台の上で、華やかな花束に囲まれたことがあるのです。令嬢だと言えば、彼女は寝床も上げたことのない懶《ものう》い良家の子女なのです。それが彼女の強い主観なのです。
問。そう解っていれば、被告は何もいらいら彼女を探ることはなかったのではないか。
答。人間は他人の主観の中に、けっして安息していられるものではありません。あらゆる事実に冷やかな客観性を与えたがるものなのです。太陽が地球の廻りを巡っている事実だけでは満足しないのです。自分の眼を飛行機に乗せたがるのです。
問。その女は、被告のいわゆる橋の向うの彼女について、多く語ったことがあるか?
答。よく喋《しゃべ》ることもあります。ですが、それは今言ったとおり、おそらくはその瞬間に彼女の空想に映じた、限りない嘘言の連りだったと思います。もしこっちから推理的に質問を続けて行けば、彼女はすぐと、水を離れた貝のように口を噤《つぐ》んでしまうのです。一時間でも二時間でも、まるで彼女は、鍵のかかった抽斗《ひきだし》のように黙りこんでいるのです。
問。そんな時、被告はどんな態度をとるのか?
答。黙って爪を剪《き》っていたり、百人一首の歌を一つ一つ想いだしてみたり、……それに私は工場のような女が嫌いなのです。
問。被告は自分自身の精神状態について、異常を認めるような気のしたことはないか?
答。私を狂人だと思う人があったなら、その人は、ガリレオを罵《ののし》ったピザの学徒のような譏《そし》りを受けるでしょう。
問。被告は、女が被告以外の男を愛している事実にぶつかって、それで激したのか。
答。反対です。私は彼女が何人の恋人を持とうと、何人の男に失恋を感じようと、そんなことはかまいません。なぜならば彼女が私と会っている瞬間、彼女はいつも私を愛していたのですから。そして、瞬間以外の彼女は、彼女にとって実在しないのですから。ただ、彼女が愛している男ではなく、彼女を愛している男が、私以外にあるということが、堪えられない心の重荷なのです。
問。被告が突き落した男が、彼女を愛していたということは、どうして解ったか?
答。それは、彼がちょうど私と同じように、私が彼女を愛しているかどうかを気にしたからです。
問。彼女の貞操観念に対して被告はどういう解釈を下すか。
答。もし彼女が貞操を守るとしたら、それは善悪の批判からではなく、一種の潔癖、買いたてのハンケチを汚すまいとする気持からなのです。持っているもの[#「もの」に傍点]を壊すまいとする慾望からです。彼女にとって、貞操は一つの切子硝子《カットグラス》の菓子皿なのです。何んかの拍子に、ひょっと落して破《わ》ってしまえば、もうその破片に対して何んの未練もないのです。……それに彼女は、精神と肉体を完全に遊離する術《すべ》を知っています。だから、たとえ彼女が、私はあなたのものよ、と言ったところで、それが彼女の純情だとは言えないのです。彼女は最も嫌悪する男に、たやすく身を任せたかもしれません。そしてまた、最も愛する男と無人島にいて、清らかな交際を続けて行くかもしれません。
問。判決が下れば、監獄は橋の向うにあるのだが、被告は控訴する口実を考えているか?
答。私は喜んで橋を渡って行きましょう。私はそこで静かに観音経を読みましょう。それから、心行くまで、シイカの幻を愛し続けましょう。
問。何か願い事はないか?
答。彼女に私の形見として、私の部屋にある鳩の籠を渡してやってください。それから、彼女に早くお嫁に行くようにすすめてください。彼女の幸福を遮《さえぎ》る者があったなら、私は脱獄をして、何人でも人殺しをしてやると、そう言っていたことを伝えてください。
問。もし何年かの後、出獄してきて、そして街でひょっこり、彼女が仇し男の子供を連れているのに出遇ったら、被告はどうするか。
答。私はその時、ウォタア・ロオリイ卿のように叮嚀《ていねい》にお辞儀をしようと思います。それからしゃっとこ[#「しゃっとこ」に傍点]立ちをして街を歩いてやろうかと思っています。
問。被告のその気持は諦めという思想なのか。
答。いいえ違います。私は彼女をまだ初恋のように恋しています。彼女は私のたった一人の恋人です。外国の話しにこんなのがあります。二人の相愛の恋人が、山登りをして、女が足を滑らせ、底知れぬ氷河の割目に落ちこんでしまったのです。男は無限の憂愁と誠意を黒い衣に包んで、その氷河の尽きる山の麓の寒村に、小屋を立てて、一生をそこで暮したということです。氷河は一日三尺くらいの速力で、目に見えず流れているのだそうです。男がそこに、昔のままの十八の少女の姿をした彼女を発見するまでには、少なくも三四十年の永い歳月が要るのです。その間、女の幻を懐いて、嵐の夜もじっと山合いの小屋の中に、彼女を待ち続けたというのです。たとえシイカが、百人の恋人を港のように巡りつつ、愛する術を忘れた寂寥を忘れに、この人生の氷河の下を流れて行っても、私はいつまでもいつまでも、彼女のために最後の食卓を用意して、秋の落葉が窓を叩く、落漠たる孤独の小屋に、彼女をあてもなく待ち続けて行きましょう。
 それから若い医学士は、被告の意識、学力、記憶力、聯想観念、注意力、判断力、感情興奮性等に関して、いろいろ細かい精神鑑定を行った。
 女を一番愛した男は? ショペンハウエル。Mの字のつく世界的音楽家は? ムゥソルグスキイ、モツァルト、宮城道雄。断髪の美点は? 風吹けば動的美を表す。寝沈まった都会の夜を見ると何を聯想するか? ある時は、鳴り止まったピアノを。ある時は、秋の空に、無数につるんでいる赤蜻蛉《あかとんぼ》を。等々々、……

     8

 シイカは川岸へ出るいつもの露路の坂を、ひとり下って行った。空には星が冷やかな無関心を象徴していた。彼女にはあの坂の向うの空に光っている北斗七星が、ああやって、いつものとおりの形を持していることが不自然だった。自分の身に今、これだけの気持の変化が起っているのに天体が昨日と同じ永劫《えいごう》の運行を続け、人生がまた同じ歩みを歩んで行くことが、なぜか彼女にとって、ひどく排他的な意地悪るさを感じさせた。彼女は今、自分が残してきた巷《ちまた》の上に、どんよりと感じられる都会のどよめきへ、ほのかな意識を移していた。
 だが、彼女の気持に変化を与え、彼女を憂愁の闇でとざしてしまった事実というのは、劇場の二階から突き落されて、一枚の熊の毛皮のように圧しつぶされてしまった、あのヴァイオリンを弾く銀行家の息子ではなかった。また、彼女のために、殺人まで犯した男の純情でもなかった。では?……
 彼女が籠に入れられた一羽の伝書鳩を受け取り、彼に、さよなら、とつめたい一語を残してあのガランとした裁判所の入口から出てきた時、ホテルへ向うアスファルトの舗道を、音もなく走って行った一台のダイアナであった。行き過ぎなりに、チラと見た男の顔。幸福を盛ったアラバスタアの盃のように輝かしく、角《つの》かくしをした美しい花嫁を側に坐らせて。……
 彼女の行いがどうであろうと、彼女の食慾がどうであろうと、けっして汚されはしない、たった一つの想い出が、暗い霧の中に遠ざかって行く哀愁であった。
 心を唱う最後の歌を、せめて、自分を知らない誰かに聞いてもらいたい慾望が、彼女のか弱い肉体の中に、生を繋ぐただ一本の銀の糸となって、シイカは小脇に抱えた籠の中の鳩に、優しい瞳を落したのだった。

     9

 一台の馬車が、朗かな朝の中を走って行った。中には彼ともう一人、女優のように華手《はで》なシャルムーズを着た女が坐っていた。馬車は大きな音を立てながら、橋を渡って揺れて行った。彼の心は奇妙と明るかった。橋の袂に立っている花売の少女が、不思議そうな顔をして、このおかしな馬車を見送っていた。チュウリップとフリイヂヤの匂いが、緑色の春の陽差しに溶けこんで、金網を張った小いさな窓から、爽かに流れこんできた。
 何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋している。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行ったとて、この金網の小窓からは、何がいったい見られよう。……
 三階建の洋館が平屋の連りに変って行った。空地がそこここに見えだした。花園、並木、灰色の道。――たった一つのこの路が、長く長く馬車の行方に続いていた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のように、巍然《ぎぜん》として聳《そび》えていた。彼はそれを監獄だと信じていた。
 やがて馬車は入口に近づいた。だが、門の表札には刑務所という字は見つからなかった。同乗の女がいきなり大声に笑いだした。年老った門番の老人が、悲しそうな顔をして、静かに門を開けた。錆びついた鉄の掛金がギイと鳴った。老人はやはりこの建物の中で、花瓶にさした一輪の椿《つばき》の花のように死んでしまった自分の娘の事を考えていた。男の手紙を枕の下に入れたまま、老人が臨終の枕頭へ行くと、とろんとした暗い瞳を動かして、その手を握り、男の名前を呼び続けながら死んで行った、まだ年若い彼のたった一人の娘の事を。最後に呼んだ名前が、親の自分の名ではなく、見も知らない男の名前だった悲しい事実を考えていた。

     10

 シイカは朝起きると、縁側へ出てぼんやりと空を眺めた。彼女はそれから、小筥《こばこ》の中からそっと取りだした一枚の紙片を、鳩の足に結《ゆわ》えつけると、庭へ出て、一度強く鳩を胸に抱き締《し》めながら、頬をつけてから手を離した。鳩は一遍グルリと空に環を描き、今度はきゅうに南の方へ向って、糸の切れた紙鳶《たこ》のように飛んで行った。
 シイカは蓋《ふた》を開けられた鳥籠を見た。彼女の春がそこから逃げて行ってしまったのを感じた。彼女は青葉を固く噛《か》みしめながら、芝生の上に身を投げだしてしまった。彼女の瞳が涙よりも濡れて、明るい太陽が彼女の睫毛《まつげ》に、可憐な虹を描いていた。

 新聞社の屋根でたった一人、紫色の仕事着を着た給仕の少女が、襟にさし忘れた縫針の先でぼんやり欄干《らんかん》を突っつきながら、お嫁入だとか、電気局だとかいうことを考えていた。見下した都会の底に、いろいろの形をした建物が、海の底の貝殻のように光っていた。
 無数の伝書鳩の群れが、澄みきった青空の下に大きく環を描いて、新聞社の建物の上を散歩していた。そのたびに黒い影が窓硝子をかすめて行った。少女はふと、その群から離れて、一羽の鳩が、すぐ側の欄干にとまっているのを見つけた。可愛い嘴《くちばし》を時々開き、真丸な目をぱちぱちさせながら、じっとそこにとまっていた。あすこの群の方へははいらずに、まるで永い間里へやられていた里子のように、一羽しょんぼりと離れている様子が、少女には何か愛くるしく可憐《いじら》しかった。彼女が近づいて行っても、鳩は逃げようともせずにじっとしていた。少女はふとその足のところに結えつけられている紙片に気がついた。

     11

 四月になったら、ふっくらと広い寝台を据《す》え、黒い、九官鳥の籠を吊《つる》そうと思っています。
 私は、寝台の上に腹這い、頬杖をつきながら、鳥に言葉を教えこもうとおもうのです。

  君は幸あふれ、
  われは、なみだあふる。

 もしも彼女が、嘴の重みで、のめりそうになるほど嘲笑しても、私は、もう一度言いなおそう。

  さいはひは、あふるべきところにあふれ、
  なみだ、また――

 それでもガラガラわらったら、私はいっそあの皺枯れ声に、

  あたしゃね、おっかさんがね、
  お嫁入りにやるんだとさ、

 と、おぼえさせようとおもっています。

     12

 明るい街を、碧《あお》い眼をした三人の尼さんが、真白の帽子、黒の法衣《ほうえ》の裾をつまみ、黒い洋傘《こうもり》を日傘の代りにさして、ゆっくりと歩いて行った。穏やかな会話が微風《そよかぜ》のように彼女たちの唇を漏れてきた。
――もう春ですわね。
――ほんとに。春になると、私はいつも故国《くに》の景色を想いだします。この異国に来てからもう七度の春が巡ってきました。
――どこの国も同んなじですわね、世界じゅう。
――私の妹も、もう長い裾の洋服を着せられたことでしょう。
――カスタニイの並木路を、母とよく歩いて行ったものです。
――神様が、妹に、立派な恋人をお授《さず》けくださいますように!
―― Amen!
―― Amen!
 (11に挿入した句章は作者F・Oの承諾による)



底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社
   1970(昭和45)年1月25日発行
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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