青空文庫アーカイブ
モルグ街の殺人事件(The Murders in the Rue Morgue)
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)
佐々木直次郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)謎《なぞ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)星雲宇宙|開闢《かいびゃく》論
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)トマス・ブラウン卿[#「トマス・ブラウン卿」は文末より2字上げ]
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サイレーンがどんな歌を歌ったか、またアキリースが女たちの間に身を隠したときどんな名を名のったかは、難問ではあるが、みなみな推量しかねることではない。
トマス・ブラウン卿[#「トマス・ブラウン卿」は文末より2字上げ]
分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない。そのなかでもわかっていることは、精神の諸作用を過分に身につけている人にとっては、これこそなによりも生き生きとした楽しみの源泉である、ということだ。ちょうど、強健な人が筋肉を働かせる運動を喜んで自分の肉体的能力を誇るのと同じように、分析家はものごとを解き明かす知的活動に熱中する。彼は、この才能を発揮できることなら、どんなつまらない仕事でも楽しんでやるのだ。彼は、謎《なぞ》や、難問や、象形文字が好きで、凡人の理解力では超自然とも見えるほどの明敏さで、それらを解き明かす。しかも、彼がありとあらゆる方法を尽して得た結論は、実のところ、まるで直観にしか見えないのだ。
分析の能力は数学の研究によって、おそらく大いに活躍させられるだろう。ことに、その最高の部門であって、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ。しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋《チェス》をさす人は、計算はするが、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりにつまらないチェスなどよりは、地味な碁《ドラフツ》のほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬《ごびゅう》だが)、なにか深奥なもののように誤られる。この場合、注意力[#「注意力」に傍点]こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスはますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。その反対にドラフツでは、動きが一様《ユニーク》で変化が少なく、しくじる率も少ないし、わりあいに注意力も働かされずにすむので、利益はすべて、どちらかの優れて明敏なほうが得ることになる。もっと具体的に言えば――ドラフツのゲームで、駒が盤面にキング四つだけとなった場合を想像してみよう。もうこうなれば、無論しくじりの起るはずはない。するとこの場合の勝負は(両方の競技者がまったく互角として)、知力を強く働かせた結果としての、念入り《ルシェルシェ》[#ルビは「念入り」にかかる]な駒の動かし方だけで決ることは明らかである。普通の手がみな尽きてしまうと、分析家は相手の心のなかに自身を投げこみ、すっかり相手の心になりきって、相手を誘ってしくじらせたり、せきたてて誤算させたりする唯一の方法(ときには実にばかばかしいほど簡単な手なのだが)を、一目で発見することがよくある。
ホイストは、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスをつまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイストほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりはただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手《じょうず》ということになると、心と心とがたたかうすべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたらすすべて[#「すべて」に傍点]のつぼ[#「つぼ」に傍点]を、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技《わざ》の完全な精通を意味するのである。これらのつぼ[#「つぼ」に傍点]は多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れたチェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイルの法則だって(それがゲームの単なるメカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣《ひけつ》だと一般に考えられている点である。ところが、分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする。それで、そうして得られた知識の範囲の違いは、推理の正しさよりも観察の質にあるのだ。必要な知識は、なに[#「なに」に傍点]を観察すべきかを知ることなのである。わが分析的競技者は決して自分だけの中に閉じこもることをしないし、またゲームが目的だからといって、ゲーム以外のものごとからの推定を拒んだりはしない。彼はまず味方の顔つきをよく見てから、それを敵方の一人一人の顔つきと念入りに比較する。一人一人の手にある骨牌《かるた》の揃《そろ》え方を考え、ときどき持主が一枚一枚を眺める眼つきから、一つ一つの切札や絵札を数える。彼は競技の進行中ずっと、顔のあらゆる変化に注意し、確信や、驚きや、勝利や、口惜《くや》しさなどの表情の違いから、思惟《しい》の材料を集める。うち出された札を集める様子から、その人がその組でもう一度やれるかどうかを判断する。テーブルの上に札を投げ出す態度から、いかさまの手などはすぐ見破ってしまう。ひょいと、うっかりしゃべったひと言、どうかして札を落したり、表を見せたりして、あわてて引っこめたり、平気でいたりする態度、または、札を数えることや、それを並べる様子、当惑したり、ためらったり、あせったり、あわてたり――といったすべてのことは、見たところ直覚のような彼の知覚能力に、ちゃんとことの真相を示しているのである。だから、初めの二、三回がすむと、彼は一人一人の手にある札をすっかり知ってしまい、あとは、まるで他の連中が持札の全部をさらしてでもいるみたいに、絶対的な確信をもって自分の札を切り出すのである。
分析力と、単なる工夫力とを、混同してはならない。なぜなら、分析家は工夫がうまいと決っているが、工夫のうまい人でも恐ろしく分析力のない人がときどきあるからである。この工夫力が普通あらわれるのは、構成力とか結合力によってであって、骨相学者たちはこの力を本源的能力と想像して別の器官をこれに割当てている(これは誤っていると私は信ずる)のであるが、この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、いままでにも倫理学者の間に広く注意をひいたくらいである。工夫力と分析力のあいだには、非常によく似通った性質のものではあるが、空想と想像のあいだの相違よりも、実にもっと大きな相違があるのである。
これから語す物語は、いままで語った命題の注釈のように、読者諸君には見えるであろう。
一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を挽回《ばんかい》しようとする元気もなくしてしまった。それでも、債権者たちの好意で、親ゆずりの財産の残りがまだ少しあったので、それから上がる収入でひどい節約をしながらどうかこうか生活の必需品を手に入れ、余分なもののことなど思いもしなかった。唯一の贅沢《ぜいたく》といえは、実に書物だけで、これはパリでたやすく手に入った。
我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書《きこうしょ》を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌《はつらつ》たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外《フォーブール》サン・ジェルマンの辺鄙《へんぴ》な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。
ここでの我々の日常生活が世間に知れたなら、我々は狂人と――もっともたぶん、害のない狂人と――思われたにちがいない。我々の隠遁《いんとん》は完全なものであった。訪問者は一人もよせつけなかった。実際、我々の隠れ家は私の以前の仲間たちには注意深く秘密にしておいたし、デュパンがパリで世間と交渉を絶ってからよほど年がたっていた。我々はただ二人だけで暮していた。
夜そのもののために夜を溺愛《できあい》するというのが、私の友の気まぐれな好み(というよりほかに何と言えよう?)であった。そしてこの奇癖《ビザルリー》にも、他のすべての彼の癖と同様に、私はいつの間にか陥って、まったく投げやりに彼の気違いじみた気まぐれに身をまかせてしまった。漆黒の夜の女神はいつも我々と一緒に住んでいるというわけにはいかない。が、我々は彼女を模造することはできる。ほのぼのと夜が明けかかると、我々はその古い建物の重々しい鎧戸《よろいど》をみんなしめてしまい、強い香りの入った、無気味にほんのかすかな光を放つだけの蝋燭《ろうそく》を二本だけともす。その光で二人は読んだり、書いたり、話したりして――夢想にふけり、時計がほんとうの暗黒の来たことを知らせるまでそうしている。それから一緒に街へ出かけ、昼間の話を続けたり、夜更けるまで遠く歩きまわったりして、にぎやかな都会の奇《く》しき光と影とのあいだに、静かな観察が与えてくれる、無限の精神的興奮を求めるのであった。
そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな次中音《テナー》なのが最高音になり、発音が落ちついていてはっきりしていなかったら、まるで癇癪《かんしゃく》を起しているように聞えたろう。こんな気分になっている彼を見ていると、私はよく二重霊魂という昔の哲学について深く考えこみ、二重のデュパン――創造的なデュパンと分析的なデュパン――ということを考えて面白く思うのであった。
いま言ったことから、私がなにか神秘的なことを語ったり、なにかロマンスを書いたりしようとしているなどと思ってはならない。私がこのフランス人について語ったことは、単に興奮した、もしかすると一種の病的な知性の結果にすぎないのだ。だが、こんなときの彼の言葉の調子については、例を挙げるのがいちばんよくわかるだろう。
ある夜のこと、我々はパレ・ロワイヤール付近の、長い、きたない街をぶらぶら歩いていた。二人ともなにか考えこんでいたらしく、少なくとも十五分間はどちらからもひと言もものを言わなかった。と、まったく突然に、デュパンがこう話しかけた。
「いやまったく、あいつは小男さ。そりゃあ寄席《テアトル・デ・ヴァリエテ》のほうが向くだろうよ」
「たしかに、そのとおりだね」と、私は思わず返事をしたが、初めは私が心のなかで考えていたことに話し手がちゃんと調子を合わせていた不思議なやり方に気がつかなかった(それほど私は考えに夢中になっていたので)。それからすぐ我に返って、ひどくびっくりした。
「デュパン」と私は真面目に言った。「これは僕にはちっともわからないね。あっさり白状するが、僕はびっくりしたよ。自分の感覚が信じられないくらいだ。どうして君にわかったんだい? 僕の考えていたあの――」と、ここで私は、彼がほんとうに私の考えていた人間のことを知っているかどうかをはっきり確かめるために、ちょっと言葉を切った。
「――シャンティリのことだろう」と彼は言った。「なぜ君はあとを言わないんだ? 君はあの男は小柄で悲劇には不向きだと腹のなかで言っていたじゃないか」
これはまさしく私の考えていたことだった。シャンティリというのは、もとサン・ドニイ街の靴直しだったが、芝居気違いになり、クレビヨンの悲劇のクセルクセスの役《ロール》をやって、さんざん悪評を受けたのであった。
「どうか話してくれたまえ」と、私は大声で言った。「どんな方法で――もし方法があるならだよ――僕の心のなかを見抜くことができたのかということを」事実、私は口で言うよりももっとびっくりしていたのだ。
「あの果物屋さ」と友は答えた。「クセルクセスとか、すべてそういった役をするにはあの靴底直しでは寸が足りないという結論を、君にさせたのはね」
「果物屋だって! ――驚くねえ、――果物屋なんて僕は一人も知りやしないよ」
「僕たちがこの通りへ入ったときに君にぶっつかったあの男さ、――もう十五分も前だったろう」
そう言われて私は思い出した。いかにも、我々がC――街からこの通りへ曲ったときに、頭に大きな林檎籠《りんごかご》をのせた果物屋が、誤って危うく私を突き倒しそうになったのだった。だが、それがシャンティリとどんな関係があるのか、私にはどうしてもわからなかった。
デュパンの様子には法螺吹き《シャルラタヌリー》のようなところはちっともなかった。「じゃあ説明しよう」と彼が言った。「君にはっきりわかるように、まず、僕が君に話しかけたときから、あの果物屋と衝突したときまでの、君の考えの経路を逆にたどってみることにしよう。鎖の大きな輪はこう繋《つな》がる、――シャンティリ、オリオン星座、ニコルズ博士、エピキュロス、截石法《ステリオトミー》、往来の舗石、果物屋」
まあ自分の生涯のある時期に、自分の心がある結論に到達した道順をさかのぼってみることを、面白いと思わない人は、あまりないだろう。この仕事はときどき実に興味のあるもので、初めてそれを試みる人は、出発点と到着点とのあいだにちょっと見ると無限の距離と無連絡とのあることに驚くのだ。だから、このフランス人がいま言ったことを聞いて、それが真実であることを認めるほかなかったときの、私の驚きはどんなであったろう。彼はつづけて言った。
「もし僕の記憶がまちがってなければ、C――街を出るすぐ前に、僕たちは馬のことを話していたのだ。それが僕たちの最後の話題だったね。この通りへ曲ったとき、頭に大きな籠をのせた果物屋が急いで僕たちとすれちがって、歩道を修繕しているところに集めてあった舗石の積山の上に君を押しやった。君はそのばらばらの石ころを踏んで、すべり、踝《くるぶし》をちょっと挫《くじ》いたので、むかっとした不機嫌な様子で、ぶつぶつ言って、積んである石を振り向いて見たが、あとは黙って歩きだした。僕はなにも君のすることにとくに注意していたんじゃない。が、近ごろ、どうも観察ということがせずにはいられなくなっているんでね。
君はずっと地面に眼を落していた、――むっとした表情をしたまま、舗石の穴や轍《わだち》をちらりちらりと眺めながらね(だから君がまだ石のことを考えていることが僕にはわかったんだ)。そのうちに僕たちはあのラマルティーヌという小路へやって来た。そこには、重ねて目釘《めくぎ》を打った切石が試験的に敷いてあるのだ。ここへ来ると君の顔は晴れやかになった。そして君の唇が動いたので、きっと『截石法《ステリオトミー》』という言葉を呟《つぶや》いたのだなと僕は思った。これはこういった舗石にひどく気取って用いられる語だからね。君が『截石法《ステリオトミー》』と呟けばかならず原子《アトミー》のことを考え、ついでにエピキュロスの学説を考えるようになることを、僕は知っていた。そして、ついこのあいだ僕たちがこの学説について論じ合ったとき、僕が、この高貴なギリシャ人の漠然とした推測が、なんと奇妙にも、まあほとんど世人に注意されなかったが、近世の星雲宇宙|開闢《かいびゃく》論によって確かめられた、ということを君に話したから、君がきっとオリオン星座の大星雲を見上げるだろうと思って、予期していたんだ。すると、はたして君は見上げた。で、僕は、自分が今まで君の考えにちゃんと正しくついてきたことを確信したのだ。ところできのうの『ミュゼエ』に出たシャンティリに対する辛辣《しんらつ》な悪口のなかで、その風刺家は、靴直しが悲劇を演ずるために名前を変えたことを皮肉にあてつけて、僕たちがよく話していたラテン語の詩句を引用した。というのは、あの
"Perdidit antiquum litera prima sonum."(初めの文字は昔の音を失えり)
という詩句のことさ。これはもとウリオンと書いたのをいまではオリオンとなっていることを言ったものだと話したことがある。で、この説明に関したある辛辣な皮肉から、君がそれを忘れるはずがないのを僕は知っていた。だから、君がオリオンとシャンティリという二つの観念をかならず結びつけるだろうということは明らかだった。はたして君がそうしたということは、君の唇に浮んだ微笑の様子でわかった。君はあのかわいそうな靴直しがやっつけられたことを考えたのだ。それまでは君はこごんで歩いていたが、そのとき体をぐっと十分に伸ばした。そこで僕は君がシャンティリの小柄なことを考えたということを確信したよ。で、そのときに君の黙想をさえぎって、ほんとにあいつは――あのシャンティリは――小男だから、寄席のほうが向くだろう、と言ったのさ」
それからしばらくたったころ、『ガゼット・デ・トゥリビュノー』の夕刊に眼を通していると、次のような記事が我々の注意をひいたのである。
「奇怪なる殺人事件。――今暁三時ごろ、サン・ロック区の住民は、レスパネエ夫人とその娘カミイユ・レスパネエ嬢との居住する、モルグ街の一軒の家屋の四階より洩れたらしい、連続して聞える恐ろしい悲鳴のために、夢を破られた。通常の方法で入ろうとしたが不可能だったので少し遅れ、金梃《かなてこ》で門口を打ちこわして、近隣の者八、九人が二名の憲兵とともに入った。このときには叫び声はやんでいた。が一同が最初の階段を駆け上がっていたとき、はげしく争うような荒々しい声が二言三言聞きとれた。それは家の上の方から聞えたものらしかった。第二の踊場に着いたときには、この音もやんでしまい、あたりはまったく静かになった。一同は手分けして室から室へと走りまわった。四階の大きな裏側の部屋へ行くと(その扉は内側から鍵《かぎ》をかけてあったので、無理に押しあけたのだが)、そこに居合せた全員を驚愕《きょうがく》させるというよりも、むしろ戦慄《せんりつ》させる光景が現出したのである。
室内は実に乱雑を極め――家具は打ちこわされ四方に投げ散らされている。寝台はただ一個あるだけで、その寝具は取りのけられ、床の中央に投げだされていた。椅子の上には血にまみれた剃刀《かみそり》がある。炉の上にはやはり血に染まった、長い、ふさふさした人間の灰色の髪の毛が二束ばかり、根元から引き抜かれたものらしい。床の上にはナポレオン金貨四枚と、黄玉《トパーズ》の耳輪一個と、銀の大きなスプーン三個と、洋銀《メタル・ダルジェ》の小さなスプーン三個と、金貨約四千フラン入りの袋二個とがある。一隅にある箪笥《たんす》の引出しはあけてあって、たくさんの品物がなかに残ってはいるが、明らかにかすめ取られたらしい。鉄の小さな金庫が寝具[#「寝具」に傍点](寝台ではなく)の下に発見された。あけてあって、鍵はまだ錠前にさしたままになっている。なかには数通の古手紙と、あまり重要ではない書類とのほかには、なにも入っていなかった。
ここではレスパネエ夫人の姿は見えなかった。が、炉のなかに非常に多量の煤《すす》が認められたので、煙突のなかを探ってみると、(語るも恐ろしいことだが!)頭部を下にした娘の死体がそこから引き出された。そのせまい隙間にそうしてかなり上まで無理に押し上げられていたのである。体は十分温かだった。調べてみると、多くの擦り傷があったが、これはたしかに手荒く押しこんだり引き出したりしたためにできたものである。顔面にはひどい掻き傷が多数あり、咽喉《のど》にも黒ずんだ傷と、深い爪の痕《あと》とがあって、被害者は絞め殺されたようであった。
家のあらゆる部分をくまなく捜索したが、それ以上はなんの発見もなく、一同はこの建物の裏にある石敷きの小さな中庭へ出ると、そこに老婦人の死体が横たわっており、その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった。頭も胴もおそろしく切りさいなまれ、――胴のほうはほとんど人間のものとは見えないくらいであった。
この恐るべき怪事件には、いまのところ、まだ少しの手がかりもないようである」
翌日の新聞は、さらに、次のような詳報を付け加えた。
「モルグ街の惨劇。この最も奇怪な恐ろしい事件〔フランスでは『事件《アフエール》』という言葉はまだ我我の感ずるような軽々しい意味を持っていない〕に関しては多くの人々が取り調べられた。しかし、本件に光明を与えるようなことは、まだなに一つあらわれてこない。以下、陳述された重要な証言をすべて掲げることにする。
洗濯女、ポーリン・デュプールの証言。過去三年間、洗濯の御用を聞いていたので、被害者両人を知っていた。老婦人と娘との仲はよく、――互いに深く愛し合っていた。代金は滞りなく払ってくれた。二人の暮し方や暮し向きについては知らぬ。レスパネエ夫人は占いを業としていたと思う。金を貯《た》めているという噂《うわさ》だった。洗濯物を取りに行ったり持って行ったりするときに、その家で誰にも逢ったことがない。たしかに召使は一人も使っていなかった。その建物には四階のほかにはどこにも家具がないようであった。
煙草商、ピエール・モローの証言。いままで四年間、レスパネエ夫人に少量の煙草および嗅煙草《かぎたばこ》を売っていた。その付近で生れ、ずっとそこに住んでいる。夫人と娘とは、その死体の見出された家に六年以上住んでいた。もとは宝石商が住んでいて、上のほうの部屋をいろいろな人々に又貸ししていた。家はレスパネエ夫人の所有であった。彼女は借家の又貸しを嫌って、自らそこへ引き移り、どの部屋も貸さないことにした。老婦人は子供っぽかった。証人は六年間に娘を五、六回ほど見たことがあった。二人はいたって隠遁《いんとん》的な生活をしていて、――金を持っているという噂だった。近所の人たちの話ではレスパネエ夫人は占いをしているということだった。ほんとうだとは思わぬ。老婦人と娘、荷物運搬人が一、二回、医者が約八、九回のほかには、その家の内へ入ってゆく者を見たことがなかった。
近所の多くの人々も同様な意味の証言をなした。この家へしばしば出入りする者といっては一人もないということだった。レスパネエ夫人と娘との親戚で生きている者があるかどうかもわからなかった。表の窓の鎧戸はほとんど開かれたことがない。裏の窓の鎧戸は、四階の大きな裏側の室をのぞいて、いつもしめてあった。家はよい家で、あまり古くない。
憲兵、イジドル・ミュゼエの証言。朝の三時ごろその家へ呼ばれ、戸口のところに約二、三十人の人が入ろうとしているのを見た。ついに銃剣をもって――鉄梃ではなく――その戸口をこじあけた。二枚門つまり両開き門になっていて、下にも上にも閂《かんぬき》がかかっていないためあけるには大して困難はなかった。悲鳴は門が開くまでつづき、――それから突然やんだ。それは誰か一人の(あるいは数人の)人のはげしい苦悶《くもん》の叫び声らしく、――大声で長くて、短い早口ではなかった。証人がさきに立って二階へ上った。初めの踊場についたとき、声高くはげしく争うような二つの声が聞えた。一つは荒々しい声で、もう一つはもっと鋭い――非常に妙な声だった。荒々しい声のほうの数語は聞きとれた。それはフランス人の言葉だった。女の声ではないことは確かだ。『畜生《サクレ》』という言葉と『くそッ《ディアーブル》!』という言葉とを聞きとることができた。鋭い声は外国人の声だった。男の声だか女の声だか、はっきりわからなかった。なんと言ったのかも判じられなかったが、国語はスペイン語だと信ずる。この証人の述べた室内および死体の状態は、昨日、本紙のしるしたとおりである。
隣人、銀細工業、アンリ・デュヴァルの証言。初めにその家へ入った連中の一人であった。大体のところミュゼエの証言を確証する。彼らは家へ押し入るとすぐ、夜更けにもかかわらず、わっと集まってきた群集を入れないために扉をふたたび閉じた。鋭い声というのは、この証人はイタリア人の声だと思っている。フランス人の声でないことは確かだ。男の声だったかということは確かではない。女の声だったかもしれぬ。イタリア語には通じていない。言葉は聞きとれなかったが、音の抑揚で、言ったのはイタリア人だと確信する。レスパネエ夫人とその娘とを知っている。二人としばしば話し合ったことがある。その鋭い声はどちらの被害者の声でもないことは確かだ。
料理店業、オーデンハイメルの証言。この証人は自分から進んで証言した。フランス語を話せないので、通訳をとおして調べられた。アムステルダムの生れである。悲鳴の聞えたときにその家の前を通りかかった。悲鳴は数分――たしか十分くらい――の間つづいた。長くて、大声で、――実に恐ろしく、苦しげだった。その建物へ入った連中の一人である。一点をのぞいてすべての点で前にあげた証言を確証する。鋭い声は男の――フランス人の声であることは確かだ。言った言葉は聞きとれなかった。声高く、速くて、――高低があり、――明らかに怒りと恐れとから発せられたものであった。耳ざわりな声で―― 鋭いというよりも耳ざわりなものであった。鋭い声とは言えぬ。荒々しい声のほうは『畜生《サクレ》!』と『くそッ《ディアーブル》!』とをくりかえして言い、一度は『こらッ《モン・ディユ》!』と言った。
ドロレーヌ街ミニョー父子銀行の頭取、ジュール・ミニョー――老ミニョーの証言。レスパネエ夫人は多少の財産を持っていた。――年(八年前)の春から彼の銀行と取引を始めた。ときどき少額ずつ預け入れた。死亡の三日前までは少しも払い出したことはなかったが、その日彼女は自分でやって来て四〇〇〇フランの金額を引き出した。この額は金貨で支払われ、一人の行員が金を家まで届けた。
ミニョー父子銀行の行員、アドルフ・ル・ボンの証言。当日の正午ごろ、彼は四〇〇〇フランを二個の袋に入れてレスパネエ夫人とその住宅へ同行した。扉が開くとレスパネエ嬢があらわれて彼の手から一つの袋を受け取り、老婦人はもう一つを取ってくれた。彼はそれからお辞儀をして立ち去った。そのとき、路上には誰も見えなかった。裏通りで、――ひどく淋しいところである。
仕立屋、ウィリアム・バードの証言。その家へ入った者の一人であった。イギリス人で、パリに二年住んでいる。最初に階段をのぼった者の一人で、争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。数語わかったが、いま全部は思い出せない。『畜生《サクレ》!』と『こらッ《モン・ディユ》!』とははっきりと聞いた。そのとき、数人の人が格闘しているような音――ひっかいたりつかみ合ったりする音がした。鋭い声のほうは非常に高く――荒々しい声よりも高かった。イギリス人の声ではないことは確かだ。ドイツ人の声らしかった。女の声だったかもしれぬ。ドイツ語はわからない。
以上の証人のうち四名は当時を思い出して、さらに証言した。レスパネエ嬢の死体の見つかった室の扉は、一同がそこへ着いたときには、内側から錠が下りていた。まったくひっそりしていて、――呻《うめ》き声もなんの物音も聞えなかった。扉をこじあけたときには、誰もいなかった。裏の部屋も表の部屋も窓が下りていて内側からしっかりしまっていた。その二つの部屋のあいだの扉はしまっていたが、錠はかかっていなかった。表の部屋から廊下へ通ずる扉は錠がかかっていて、鍵は内側にあった。四階の廊下のつき当りにある表側の小さな部屋は開かれていて、扉が少しあいていた。この部屋には古い寝台や、箱や、その他のものが詰めこんであった。これらは念入りに取りのけられ捜索された。家じゅう残るくまなく丹念に捜索された。煙突のなかは『煙突掃除器』で上げ下げした。家は屋根裏部屋(マンサルド)のある四階建であった。屋根の引窓はきわめて固く釘《くぎ》づけにされ、――幾年も開かれなかったように見えた。争う声の聞えたときと部屋の扉を押しあけたときとのあいだの時間については、証人らの陳述はさまざまであった。ある者は三分しかたたぬと言い、ある者は五分もたっていたと言った。扉はようようのことで開いた。
葬儀屋、アルフォンゾ・ガルシオの証言。モルグ街に住んでいる。スペイン生れで、家へ入った者の一人であった。階上へは上がらなかった。神経質なので、興奮の影響を気づかったのである。争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。なんと言ったのか聞きとれなかった。鋭い声のほうはイギリス人の声であった、――これは確かだ。英語はわからないが、音の抑揚でそうと判断する。
菓子製造人、アルベルト・モンターニの証言。最初に階段をのぼったなかの一人であった。例の声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。いくらか聞きとれた。声の主はたしなめているようだった。鋭い声の言葉はわからなかった。早くて乱れた調子でしゃべっていた。ロシア人の声だと思う。一同の証言を確証する。この証人はイタリア人で、ロシア人と話したことはない。
再び呼び出された数人の証言したところによれば四階のあらゆる部屋の煙突は、せまくて人間は通れない。『煙突掃除器』というのは、煙突掃除人たちの使うような円筒形の掃除ブラッシのことである。このブラッシを家じゅうのあらゆる煙穴《けむあな》に上げ下げした。一同が階段をのぼってゆくあいだに、人の降りて行けるような通り路は、裏には一つもない。レスパネエ嬢の体は、四、五人が力を合わせなければ引き下ろすことができなかったほど、煙突のなかに強く押しこんであった。
医師、ポール・デュマの証言。夜明けごろ死体を検視するために呼ばれて行った。そのとき死体は二つとも、レスパネエ嬢の見つかった室の寝台の麻布の上に横たわっていた。若い婦人の死体はひどい打撲傷と擦り傷がついていた。煙突のなかへ突き上げられたために、そんなふうになったものにちがいない。咽喉はひどく擦りむけていた。頤《おとがい》のすぐ下にはいくつかの深い掻き傷があって、明らかに指の痕である鉛色の斑点《はんてん》が一続きに並んでいた。顔面はもの凄《すご》く変色し、眼球は突き出ていた。舌は一部分|噛《か》み切られていた。鳩尾《みぞおち》に、膝《ひざ》を押しつけたためにできたらしい大きな打撲傷が発見された。デュマ氏の鑑定によれば、レスパネエ嬢は誰か一人あるいは数人によって絞殺されたのである。母のほうの死体はおそろしく切りさいなまれていた。右の脚と腕との骨はどれも多少とも砕かれていた。左の脛骨《けいこつ》と左側の全|肋骨《ろっこつ》はひどく折れていた。全身がおそろしく傷つけられ変色していた。この傷害がどうして加えられたかはわからない。木製の重い棍棒《こんぼう》、あるいは鉄製の広い棒――椅子――なにか大きな、重い、鈍い形の凶器を、もし非常な大力の男の手で使ったなら、このような結果が起きたかもしれない。女ではどんな凶器を用いてもこういう危害を加えることはできない。被害者の頭部は、証人の見たときには、すっかり胴から離れて、これもひどく砕かれていた。咽喉は明らかに、なにかたいへん鋭利な刃物で――たぶん剃刀で――切られていた。
外科医、アレクサンドル・エティエンヌは死体を検視するためにデュマ氏とともに呼ばれた。デュマ氏の証言と鑑定を確証する。
そのほか数名の者が調べられたが、以上のほかに重要なことはなにも得られなかった。すべての点でこんな不思議な、こんな不可解な殺人事件――まあかりに、ほんとの殺人が行われたものとしてだが――はパリではいままで行われたことがなかった。警察はまったく途方に暮れている。――この種の事件では珍しい出来事である。しかも手がかりらしいものの影もない」
同紙の夕刊は、サン・ロック区ではまだ大騒ぎがつづいていること、――犯罪の行われた家がふたたび念入りに探索されたこと、改めて証人を呼び出して取り調べたが、なんの得るところもなかったこと、を報じた。しかし、付記として、アドルフ・ル・ボンが、既報の事実以上になにも有罪とすべきところがないにもかかわらず、逮捕されて収容されたことがしるしてあった。
デュパンはこの事件の進展に奇妙なくらい興味を感じているらしかった。――彼はなにも批評めいたことは言わなかったが、少なくとも私はその態度からそう判断した。彼がこの殺人事件について私の意見を尋ねたのは、ル・ボンが収容されたという報道があってからのちのことだった。
この事件を解きがたい怪事件と考える点で、私はパリ市民と同じ意見であるにすぎなかった。殺人犯人を探り出す手段は、私には少しもわからなかった。
「こんな見せかけだけの調査で、手段を判断してはならない」とデュパンが言った。「パリの警察は明敏だと褒められているが、ただ小利口なだけなんだよ。彼らのやり方には、ゆきあたりばったりの方法以上に、方法というものがない。彼らは手段をたくさん見せびらかすが、それがときによるとその目的にうまく合っていないのでね。例のジュールダンどのが、音楽をもっとよく聴くために《プール・ミュウ・ザンタンドル・ラ・ミュジィク》[#ルビは「音楽をもっとよく聴くために」にかかる]――部屋着《ローブ・ド・シャンブル》を持ってこいと言ったことを思い出させるよ。彼らの達した結果には、ときには驚くべきものがある。が、その大部分は単なる勤勉と活動とで得たものなんだ。この二つが役に立たないときには、彼らの計画は失敗する。たとえば、ヴィドックは推量がうまくて、根気強い男だった。しかし、考えに教養がなくて、いつも調査に熱心すぎるためにしくじっていた。彼は物をあまり近くへ持ってくるので視力を減じたのだ。一、二の点はたぶん非常にはっきり見えたかもしれん。が、そのためにどうしてもものごとを全体として見失うんだね。こういうわけで、あまり考えが深すぎるということがあるものだ。真理は必ずしも井戸のなかにはない。事実、重要なほうの知識となると、それはいつも表面《うわべ》にあるものだと僕は信じる。深さは、真理を探し求める渓谷にあるのであって、その真理が見出される山巓《さんてん》にあるのではない。こういった誤謬の典型は、天体を観察するときのことでよくわかる。星をちらりと見ることが――網膜の外側を(そこは内側よりも弱い光線を感じやすいのだ)星の方へ向けて横目で見ることが、星をはっきり見ることになる、――星の輝きがいちばんよくわかるのだ。その輝きは眼を星に十分に[#「十分に」に傍点]真正面に向けるにつれてぼんやりしてゆく。そりゃああとの場合には実際たくさん光線が眼に入るさ。が前の場合にはもっと安全な感受能力があるのだ。過度の深さは考えを惑わし力を弱める。あまり長く、一心に、あるいはまともに、じっと見ていれば、金星だって大空から消えて見えなくなるかもしれんよ。
この殺人事件について言えばだ、それについての僕たちの意見を立てる前に、僕たち自身で少し調べてみようじゃないか。調査は僕たちを楽しませてくれるだろうよ。〔楽しみというのはこんな場合に用いるには妙な言葉だと思ったが、私は何も言わなかった〕それにまた、ル・ボンには前に世話になったことがあって、僕はその恩を忘れてはいない。出かけて行って、僕たち自身の眼でその家を調べてみよう。僕は警視総監のG――を知っているから、必要な許可をとるのは簡単だろう」
許可が得られたので、我々はさっそくモルグ街へと出かけた。そこはリシュリュー街とサン・ロック街との間にあるみすぼらしい通りである。この区域は我々の住んでいた区域とずっと離れているので、そこへ着いたのは午後遅くであった。家はすぐわかった。まだ大勢の人が、べつに目的もないのに好奇心から、しまっている鎧戸を往来の向う側から見上げていたからだ。普通のパリ風の家で、門があり、その片側にガラス窓のついた番小屋があって、窓に一つすべり戸がついていて門番小屋《ロジュ・ド・コンシェルジュ》と記してあった。家へ入る前に我々はその街を通りすぎて行き、横町へ曲り、それからまた曲ってその建物の裏へ出た。――その間、デュパンはその家ばかりではなくあたり全体を実に細かな注意で調べていたが、どんな目的なのか私には見当がつかなかった。
あと戻りして、――我々はふたたび家の前へ来て、ベルを鳴らし、証明書を見せて、管理人に入れてもらった。二人は階段をのぼり、――レスパネエ嬢の死体の見つかった、被害者二人がまだ横たわっている室へ行った、例のとおり、部屋の乱雑さはそのままにしてあった。私には『ガゼット・デ・トゥリビュノー』に報ぜられていた以上のことはなにも見えなかった。デュパンはなにからなにまで、被害者の死体をも、精細に調べた。我々はそれから他の部屋部屋を歩きまわったり、中庭へ行ったりした。一人の憲兵がずっと付きそってきた。調査は暗くなるまでかかり、それから我々はひき上げた。家へ帰る途中で、私の連れはある新聞社へちょっと立ちよった。
前に言ったように、友にはさまざまなむら気があって、Je les menageais[#最初のeにアクサン(´)が付く](私は逆らわないでそっとしておいた)――英語にはこの文句にちょうど当るものがない――であった。ところが今度は、翌日の午《ひる》ごろまでは、この殺人事件に関する会話はいっさいしたくないというのが彼の気分なのであった。その時になると、彼は突然に、凶行の現場にどんなことでも変った[#「変った」に傍点]ことを認めはしなかったかと私に尋ねた。
「変った」という言葉に力を入れた彼の様子には、なぜか知らないがなにか私をぞっとさせるものがあった。
「いいや、変った[#「変った」に傍点]ことってなにもなかったよ」と私は言った。「少なくとも、僕たち二人が新聞で見たこと以上にはなにもね」
「あの『ガゼット』はこの事件の異常な恐ろしさを理解していないようだよ」と彼が答えた。「しかしあんな新聞のくだらん意見なんぞは相手にせずにおこう。この怪事件は解決が容易だと思われるのだが、そう思われる理由のために――つまり、その外観が異様な性質なので――かえって不可解だと考えられている、と僕には思われるのだ。警察は、動機がわからないために――殺人そのものよりも、殺人があまりに凶暴なために当惑している。また、彼らは、あの争っているように聞えた声と、階上には殺されたレスパネエ嬢のほかに誰も見あたらず、また階段をのぼってゆく一行の者に気づかれないで逃げる手段がないという事実との、辻褄《つじつま》を合わせることができないことでも途方に暮れている。部屋がひどく乱雑になっていたこと、死体が頭を下にして煙突のなかに突き上げてあったこと、老夫人の体がむごたらしく切りさいなまれていたこと、などの事実や、さっき言ったこと、それから僕がわざわざ言うまでもない他の事実などは、警察ご自慢の明敏さを完全に参らせてしまって、力をすっかり麻痺《まひ》させてしまったのだね。彼らは、異常なことと難解なこととを混同するという、あの大きな、しかしよくある誤ちに陥っているんだ。だが、かりに理性が真相を探してゆくとすれは、ありきたりの面から離れている点こそ問題なんだよ。我々がいまやっているような調査では、『どんなことが起ったか』ということよりも、『在ったことのなかで、いままでにまったく起ったことのないのはどんなことか』と尋ねなけれはならない。要するにだ、僕はこの怪事件をやがて解決するだろうが、いや、もう解決してしまっているんだが、その手軽さは、警察の連中の眼に解決不可能と見えるのとちょうど正比例しているんだね」
私はびっくりして黙ったまま彼を見つめた。
「僕はいま待っているのだ」と彼は、部屋の扉の方に眼をやりながら、言葉をつづけた。――「僕はいま、たぶんこの凶行の犯人ではなかろうが、その犯行にいくらか関わっているにちがいない一人の人間を待っているのだ。この犯罪のもっとも凶悪な部分には、おそらくその男は関係がないだろう。この推定があたっていればいいがと思う。というのは、僕はこの謎《なぞ》全体をこの推定の上に立って解こうとしているんだからね。僕はここで――この部屋で――その男の来るのを今か今かと待ちかまえている。ことによったらその男は来ないかもしれない。が多分来るだろうよ。もしやって来たら、ひきとめなければならない。ここにピストルがある。必要なときには、これをどう使うかということは二人とも知っているはずだ」
私はピストルを手にしたが、自分のしたことにまるで気もつかず、また自分の聞いたことも信じられなかった。そのあいだにデュパンはまるで独言《ひとりごと》を言っているように話しつづけた。こういうときの彼の放心したような様子については、すでに語ったとおりである。彼は私に話しかけているのだった。が、その声は、決して高くはなかったけれど、誰かずっと遠いところにいる者に話しているときのような抑揚があった。眼は、なんの表情もなくて、ただ壁だけをじっと眺めているのだった。
「階段の上にいた連中の聞いた争うような声が」と彼は言った。「あの二人の女の声ではないということは、証言によって十分に証明された。だから、母親のほうが初めに娘を殺し、そのあとで自殺をしたのではなかろうかという疑いは、いっさいなくなるわけだ。僕は殺人の手段ということのために、この点を話しておくんだよ。レスパネエ夫人の力では、娘の死体をあんなふうに煙突のなかに突き上げるなんてことはとてもできまいし、また彼女自身の体についている傷の性質から言っても、自殺などという考えをぜんぜん許さないものなんだからね。とすると、殺人は誰か第三者がやったのだ。そしてこの第三者の声が、争っているように聞えた声だったのだ。今度は、――この声についての証言全体ではなく――その証言のなかの特異な[#「特異な」に傍点]点を、注意してみようじゃないか。君はそれについて何か妙なことに気づかなかったかね?」
私は荒々しい声をフランス人の声だと推定することにはすべての証人の意見が一致しているのに、あの鋭い、あるいは一人の証人の言うところによれば耳ざわりな、声に関してはひどい意見の相違がある、ということを言った。
「それは証言そのものなんだ」とデュパンが言った。「だが証言の特異な点じゃない。君は特殊なことはなにも気づかなかったんだね。しかし何か気づくべきものがたしかにあった[#「あった」に傍点]のだ。君の言うとおり、証人たちは荒々しい声については意見が一致していた。この点では彼らは一人残らず異議がなかった。けれども鋭いほうの声に関しては、その特異な点は、――彼らの意見が異なっていたということではなくて――イタリア人と、イギリス人と、スペイン人と、オランダ人と、フランス人とがそれを説明しようとしているのに、めいめいがみんなそれを外国人[#「外国人」に傍点]の声だと言っていることなのだ。一人一人がみんな自分の国の者の声ではなかったと信じている。みんながそれを――自分がその国語を知っている国の人の声と思わないで――その反対に思っている。フランス人はスペイン人の声だと思い、『自分がスペイン語を知っていたなら[#「自分がスペイン語を知っていたなら」に傍点]いくつか言葉を聞きとれたかもしれない』などと言っている。オランダ人はフランス人の声だと言っているが、『フランス語がわからないので、この証人は通訳をとおして調べられた[#「フランス語がわからないので、この証人は通訳をとおして調べられた」に傍点]』と書いてある。イギリス人はドイツ人の声だと考えているが、『ドイツ語はわからない[#「ドイツ語はわからない」に傍点]』のだ。スペイン人はイギリス人の声であることは『確かだ』と思っているが、『彼は英語を少しも知らないので[#「彼は英語を少しも知らないので」に傍点]』、ぜんぜん『音の抑揚で判断する』のだ。イタリア人はロシア人の声と信じているが、『ロシア人と話したことはない[#「ロシア人と話したことはない」に傍点]』のだ。そのうえ、もう一人のフランス人は、前のフランス人と違って、その声をイタリア人の声だと思いこんでいるが、その国語を知らないので[#「その国語を知らないので」に傍点]、スペイン人と同様に『音の抑揚で確信』しているのだ。さて、こういう証言の得られる[#「れる」に傍点]声というのは、ほんとうに実に奇妙なただならぬものだったにちがいないね! ――その声の調子[#「調子」に傍点]には、ヨーロッパの五大国の人間にさえ聞きなれたところが少しもなかったんだぜ! 君はアジア人の――アフリカ人の声だったかもしれんと言うだろう。アジア人もアフリカ人もパリにはたくさんいない。が、その推定を否定しないで、僕は単に今、三つの点を君に注意してもらいたい。その声を一人の証人は『鋭いというよりも耳ざわりな』ものと言っている。他の二人は『速くて高低のある[#「高低のある」に傍点]』ものであったと言っている。どの証人も、言葉――言葉に似た音――を聞きとれたとは言っていない」
「僕がこれまで」とデュパンはつづけて言った。「君の理解力にどんな印象を与えたかは知らない。が僕は、証言のこの部分――あの荒々しい声と鋭い声とについての部分――だけからの正しい推定でも、この怪事件の調査の今後いっさいの進展に一つの方向を与える十分な手がかりになると、はっきり言いきれるね。いま『正しい推定』と言ったが、これでは僕の言いたいところは十分に言いあらわせない。僕は、その推定は唯一の[#「唯一の」に傍点]正しい推定であるということ、また、その手がかりはそのただ一つの結果としてそれから必ず[#「必ず」に傍点]起ってくるものであるということ、を言いたかったのだ。だが、その手がかりというのがどんなものかは、今すぐは言わないでおこう。ただ、それは僕にとっては、あの室内での僕の調査に、ある一定の形――ある確実な傾向――を与えるに足りるほど力のあるものだった、ということを心にとめてもらいたい。
いま、かりに、二人があの部屋へ行くとしてみよう。第一に僕たちはそこでなにを探すだろう? 殺人犯人の逃走した手段さ。僕たち二人とも超自然的なことなど信じはしないのだ。レスパネエ夫人親子は幽霊に殺されたんじゃない。殺人をやった者は実体のあるもので、その実体で逃げたんだ。ではどうしてか? 幸いにも、この点については唯一の推理の方法があって、その方法がある一定の結論に導いてくれるにちがいない[#「ちがいない」に傍点]。――逃走できる手段を一つ一つ調べてみようじゃないか。一同が階段をのぼっていたとき、レスパネエ嬢の見出された室か、少なくともその隣の室に、加害者がいたことは明らかだ。とすると、出口を探さなければならんのはこの二つの部屋だけだね。警察は床や、天井や、璧の石を、四方八方はいでみた。どんな秘密の[#「秘密の」に傍点]出口があっても彼らの眼にとまらぬはずはない。しかし、僕は彼らの[#「彼らの」に傍点]眼に頼らないで、自分自身の眼で調べてみた。と、ほんとに秘密の出口なんぞは一つもなかった[#「なかった」に傍点]。部屋から廊下へ出る扉は二つとも、しっかり錠がかかっていて、鍵が内側にあった。今度は煙突を見ようじゃないか。これは炉の上八、九フィートばかりは普通の広さだが、それから先はずっと、猫でも大きいのは通れはしないだろう。いままで言った手段で逃げ出ることの不可能なのはこれで確実だから、もう残っているのは窓だけになる。表の部屋の窓からは、誰だって通りにいる群集の眼にとまらないで逃げることができるはずがない。とすると、犯人は裏の部屋の窓から出たにちがいない[#「ちがいない」に傍点]のだ。さて、この断定に、こういうはっきりした方法で来たからには、それが一見不可能に見えるという理由でしりぞけるということは、僕たち推理家のすべきことではない。この一見『不可能』らしく見えることが実際はそうではないということを証明することが、僕たちに残されているだけなんだ。
あの室には窓が二つある。一つは家具などの邪魔がなくて、すっかり見える。もう一つの窓は、かさばった寝台の頭がそれにぴったり押しつけてあるために、下の方が隠れて見えなくなっている。初めに言った窓は内からしっかりとしめてあった。それを上げようとした人たちが全力を出してみたが上がらなかった。窓枠《まどわく》の左の方に大きな錐穴《きりあな》があけてあって、非常に太い釘がほとんど頭のところまで打ちこんであった。もう一つの窓を調べると、同様な釘が同様に打ちこんであった。そしてこの窓枠を力をこめて上げようとしてみたが、やっぱり駄目だった。そこで警察の連中はもうこの方面から出たのではないとすっかり思いこんでしまったのだ。だから[#「だから」に傍点]釘を抜いて窓をあけてみることは余計なことだと考えたんだよ。
僕自身の調査はもう少し念入りだった。それはさっき言ったような理由から念入りにやったのさ。――つまり、一見不可能らしく見えるすべてのことが実際はそうでないということを証明しなければならん[#「しなければならん」に傍点]のは、この点にあるのだ、ということを僕は知っていたんだから。
僕はこんなふうに――帰納的《ア・ポステリオリ》に――考えを進めた。犯人はこの二つの窓のどちらからか逃げたに決っている[#「決っている」に傍点]。そうだとすれば、窓は内側からふたたびあのようにしめることはできなかったはずだ。――こいつが、それが実に明瞭であるために、警察がこの方面の調査をやめにしたわけなんだがね。それだのに窓枠はしまっていた[#「いた」に傍点]。とすると、窓にはひとりでしまる力がなけれはならん[#「なければならん」に傍点]ことになる。この断定には逃げ道がないのだ。僕は邪魔のないほうの窓のところへ歩いて行って、ちょっと骨を折って釘を引き抜き、それから窓枠を上げようとしてみた。一所懸命にやってみたが、僕の予想していたとおり、それは上がらなかった。そこで僕は隠し弾機《ばね》があるにちがいないと気がついた。そしてまたこんなふうに自分の考えが確かめられてきたので、僕は、釘に関する事情がまだどんなに不思議に見えても、少なくとも僕の前提が正しいということがわかってきた。念入りに探してみると、すぐに隠し弾機が見つかった。僕はそれを押してみて、この発見に満足して、窓をあけることはしなかった。
そこで今度は、釘をもとのとおりにさして、それを注意ぶかく眺めた。この窓から出た人間は窓をまたしめたかもしれない、そして弾機はかかったろう、――が釘はどうしてももとのとおりさせるはずがない。この断定は明らかで、ふたたび僕の調査の範囲はせばまった。加害者はもう一つの窓から逃げたにちがいない[#「ちがいない」に傍点]のだ。そこで、両方の窓枠についている弾機が同じだと想像すれば、両方の釘に、あるいは少なくともその釘のさしこみ方に、相違がなければならん[#「なければならん」に傍点]わけだ。僕は寝台の麻布の上へ上がって、その頭板の上から第二の窓を丹念に調べてみた。板のうしろへ手を下ろしてみると、すぐ弾機が見つかったので、押してみたが、想像していたとおり、その弾機は第一の窓についていたのと同じ性質のものだった。今度は釘を見た。それは前のと同じく丈夫なもので、見たところ、同じようなぐあいに――ほとんど頭のところまで――打ちこんであった。
僕が途方に暮れたろうと、君は言うだろう。が、もしそう考えるなら、君は帰納的推理ということの性質を誤解しているにちがいない。猟の言葉を用いて言うなら、僕は一度も『嗅《か》ぎそこない』はしなかったのだ。臭跡《においあと》がちょっとの間も失わなかったんだ。鎖の環《わ》は一つも切れていないのだぜ。僕はこの秘密をとことんの結果までたどって行った。――そしてその結果というのは、その釘[#「その釘」に傍点]なのだ。それは実際あらゆる点で第一の窓にあるのと同じ様子をしていた。が、この事実なんぞは、(決定的なものに見えるかもしれないが)ここで、この点で、手がかりが終っているという事情と比べればぜんぜん無力なものだよ。『釘になにか変ったことがあるにちがいない[#「ちがいない」に傍点]』と僕は言った。僕はそれにさわってみた。すると、その頭のほうが、四分の一インチほどの釘身《ていしん》がついたまま、ぼろりと取れて僕の指に残った。釘身の残りは錐穴のなかにあって、折れたままになっていた。折れたのは古くのことで(というわけは先がすっかり錆《さ》びていたからだ)、鉄鎚《かなづち》で打ちこまれたときにそうなったらしい。その鉄鎚で、釘の頭の部分は下の窓枠の上にいくらか入ったのだ。今度はこの頭の部分をもとの穴へ注意深くはめてみた。するとまったく完全な釘と見え、――折れ目は見えなくなった。僕は弾機を押して、窓枠をそっと二、三インチ上げてみた。釘の頭は、しっかりその穴にはまったまま、それと一緒に上がった。窓をしめると、また完全な一本の釘のように見えた。
謎はここまではもう解けたのだ。加害者は寝台に面している窓から逃げたんだよ。彼が出ると窓はひとりでに落ちて(あるいはわざとしめたのかもしれんが)、弾機でしっかりしまってしまった。そして、この弾機でしまっているのを警察は釘でしまっているのだと思い違いをして、――それ以上調査することは不必要だと考えた、というわけさ。
つぎの問題は下へ降りる方法だ。この点については、僕は君と一緒にあの建物のまわりを歩いているあいだにわかっていた。例の窓から五フィート半ばかり離れたところに避雷針が通っている。この避雷針から窓へ直接手をかけることは誰にだってできないだろう。入ることは言うまでもない。だが、僕は、あの四階の鎧戸がパリの大工がフェラードと言っている特殊な種類のものであることに眼をとめた。――いまではめったに用いられないが、リヨンやボルドーなどのごく古い屋敷によく見られる種類のものだね。普通の扉(両開き扉ではなくて一枚扉)のようになっていて、ただ違うのは上半分が格子造り、すなわち格子細工になっていることだ。――だから手をかけるにすこぶる都合がいい。さていまの場合では、この鎧戸は幅がたっぷり三フィート半もある。僕たちが家のうしろから見たときには、この鎧戸は二つとも半分ほど開いていた。――つまり、壁と直角になっていた。警察の連中も僕と同様に家のうしろを調べたろう。が、それにしても、このフェラードを正面から見たので(そうにちがいない)、彼らはあの幅の大きいことに気がつかなかったか、なんにしてもそれを考えに入れなかったのだ。実際、この方面から逃げ出たはずがないといったん思いこんでしまったので、自然ここはざっとしか調べなかったんだろうな。しかし僕には、寝台の頭のほうの窓にある鎧戸を十分に壁の方へ押し開けば、避雷針から二フィート以内のところまでとどく、ということは明らかだった。また、ごく並外れた勇気と活動力とがあれば、避雷針からこうして窓の内へ入ることができたかもしれない、ということも明らかだった。――二フィート半も手をのばせば(いまその鎧戸がすっかり開いていると想像して)、強盗は格子細工のところをしっかり掴むことができたろう。それから、避雷針をはなし、足をしっかり壁にかけて踏んばり、思いきってそれを蹴《け》ると、鎧戸はあおりをくってばっとしまるだろう。そして、そのとき窓があいていたと想像すれば、部屋のなかへまで跳びこむことができるのだ。
こういうきわどい、こういうむずかしい離れわざをうまくやってのけるには、ごく[#「ごく」に傍点]並外れた活動力が要る、と僕が言ったのを特に覚えていてもらいたい。第一には、そんなこともやれたかもしれんということを君に示すのが僕の意図だ。――が、第二には、そしてこのほうが主なんだが[#「主なんだが」に傍点]、そんなことをやる敏捷さはごく異常な[#「敏捷さはごく異常な」に傍点]――ほとんど超自然的な性質のものだということを君によくわかってもらいたいのだ。
君はきっと、法律の術語を使って、『自己の陳述を立証する』ためには、この事件に要せられた活動力を十分に評価するよりも、むしろそれを低く評価すべきではないか、と言うだろう。法律の慣例ではそうかもしれんが、理論ではそうはいかない。僕の最後の目的は真実だけだ。で、さしあたっての目的は、いま言ったそのごく並外れた[#「並外れた」に傍点]活動力と、どこの国の言葉か一人一人の意見がみなまちまちで、ひと言も聞きわけられなかった、あのごく特異な[#「ごく特異な」に傍点]鋭い(あるいは耳ざわりな)、高低のある[#「高低のある」に傍点]声とを、君に考え合せてもらいたいことなんだよ」
こう言われると、デュパンの言っていることの意味の、おぼろげな、いくらか形をなした概念が、私の心をかすめた。私は今にもわかりかけているようで、わからなかった。――ちょうど人がときどき、いまにも思い出せそうで、結局は思い出せないといったことがあるように。友は話をつづけた。
「僕が問題を、逃げ出す手段から」と彼が言った。「入りこむ手段に移したことは、君にはわかっているだろう。出るのも入るのも、同じ場所から、同じ手段で、やったのだということを暗示したかったのだ。今度は部屋のなかへ戻ってみよう。そこの有様を調べてみようじゃないか。箪笥《たんす》の引出しは、たくさんの衣類がなかに残ってはいるが、かすめ取られていたとのことだね。この断定はおかしい。これは単なる推測だ、――まったくばかげた推測だ、――それ以上のものじゃない。そのとき引出しのなかに入っていたものが初めから引出しのなかにあったものの全部ではないということが、どうしてわかるか? レスパネエ夫人とその娘とはごくひっそりと生活をしていた。――客もなかったし、――めったに出かけなかったし、――たくさんの着替えの衣装もいらなかった。あのなかにあったものは、この女たちの持っていそうなもののなかではいちばん上等な質《たち》のものだった。もし泥坊がなにかを取って行ったとしたならなぜいちばんいいのを取って行かなかったか――なぜみんな取って行かなかったか? 要するに、なぜひとかかえの衣類なんぞに手を出して、四千フランの金貨を残しておいて行ったか? 金貨は残しておいてあった[#「あった」に傍点]んだぜ。銀行家のミニョー氏の言ったほとんど全額が、袋に入ったまま床の上にあったんだぜ。だから、家の扉のところで金が渡されたという証言のために警察の連中の頭のなかに浮んだ、動機[#「動機」に傍点]についてのまちがった考えなんぞは、君には振りすててもらいたいね。こんなこと(金が渡されて、それを受け取った者がそれから三日以内に殺されたということ)などよりも十倍も不思議な暗合が、僕たちみんなに、生涯の毎時間ごとに、ほんのちょっとした注意もひかないで、起っているのだ。一般に暗合というものは、蓋然性《プロパビリティ》の理論――人間の研究のもっとも輝かしい対象にもっとも輝かしい例証を与えているあの理論――を少しも知らないように教育された思索家たちには大きな障害物なんだ。今度の場合では、もし金がなくなっていたのなら、三日前にそれを渡したという事実は、暗合以上のあるものとなったかもしれない。動機についての例の考えを確実にするものであったかもしれない。しかし、今度の場合のほんとうの事情の下では、金がこの凶行の動機だと考えるならば、僕たちはその犯人を、金も動機も一緒に投げすててしまうような、ぐうたらな馬鹿者だと思わなければならないことになるわけだよ。
今度は、僕がいままで君の注意をひいた点――あの特異な声と、あの並外れた敏捷《びんしょう》さと、こんなに珍しく残忍な殺人にまるで動機がないという驚くべき事実と――をしっかり心にとめておいて、凶行そのものをざっと見てみようじゃないか。一人の女が腕力で絞め殺されて、頭を下にして煙突に突き上げられている。普通の殺人犯はこんな殺し方はしないね。ことに、殺した人間をこんなふうに始末することはないよ。死体を煙突へ突き上げるというやり方には、なにかひどく[#「ひどく」に傍点]異様《ウトレ》なところ――たとえそれをやった奴が人間のなかでもっとも凶悪な奴と想像してみても、なにか人間業という普通の考え方とはまるで相容《あいい》れないもの――があることを、君は認めるだろう。また、四、五人もの人間が力を合わせてやっと引きおろす[#「おろす」に傍点]ことができたほど、その隙間にそんなに強く死体を突き上げた[#「上げた」に傍点]力というのはなんと大したものか! ということを考えてみたまえ。
今度は、実に驚くべき力を用いた証拠がもう一つあるのを見よう。炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の髪の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。――まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ。老夫人の咽喉はただ切られていただけではなく、頭が胴からすっかり離れてしまっていた。道具はただの剃刀なんだぜ。このやり方の獣的な[#「獣的な」に傍点]残忍性も見てもらいたい。レスパネエ夫人の体にある打撲傷のことは僕は言わない。デュマ氏と、その助手のエティエンヌ氏とは、それはなにか鈍い形の道具でやったものだと言っている。そこまではこの方々の説はまことに正しい。鈍い形の道具というのは明らかに中庭の舗石なのだ。被害者は寝台の上にあるほうのあの窓からそこへ落ちたのだよ。この考えは、いまから見ればどんなに単純なものに見えようとも、鎧戸の幅に気がつかなかったと同じ理由で、警察の連中には気がつかなかったのだ。――なぜかと言えば、釘があんなふうになっていたので、彼らは窓があけられたかもしれんということなどはまるで考えなかったんだからね。
いまもし君が、こういうようなすべての事がらに加えて、部屋がへんに乱雑になっていたことを正しく考えてみるなら、僕たちはいよいよ、驚くべき敏捷さ、超人間的な力、獣的な残忍性、動機のない惨殺、まったく人間離れのした恐ろしい奇怪な行為、いろんな国の人たちの耳にも聞き慣れない調子の、はっきり理解できる言葉がひと言も聞きとれなかったという声、などの観念を結びつけるところまできたのだ。とすると、どんな結果になるかね? 君の想像に僕はどんな印象を与えたかね?」
デュパンがこう尋ねたとき、私は思わずぞっとしたのだった。「狂人がやったんだね」と私は言った。「――誰か近所の癲狂院《メゾン・ド・サンテ》から逃げ出した狂躁《きょうそう》性の気違いが」
「ある点では」と彼が答えた。「君の考えは見当違いじゃないよ。だが、狂人の声は発作のもっともはげしいときでも、階段のところで聞えたあの変な声と決して符合するものではないね。狂人だってどこかの国の人間だし、その言葉は、たとえ一語一語がどんなに切れ切れでも、音節はいつもちゃんとくっついているはずだよ。そのうえに、狂人の髪の毛は僕がいまこの手に持っているようなこんなものじゃあない。僕はこの少しの束を、レスパネエ夫人の固くつかんでいた指からほどいたんだ。君はこれを何だと思う?」
「デュパン!」と、私はすっかりびくついて言った。「この髪の毛はとても変だね、――これは人間の毛[#「人間の毛」に傍点]じゃないよ」
「僕も人間の毛だとは言っちゃいないのだ」と彼が言った。「しかし、この点をきめる前に、この紙にここに僕が描いておいた小さな見取図をちょっと見てもらいたいな。これは、証言のある部分にレスパネエ嬢の咽喉にある『黒ずんだ傷と、深い爪の痕』と記されてあり、また他の部分に(デュマとエティエンヌとの両氏によって)『明らかに指の痕である一つづきの鉛色の斑点』と書かれているものの模写なんだ」
「君も気づくだろうが」と友は、テーブルの上に、二人の前へその紙をひろげながら、つづけて言った。「この図を見ると、固くしっかりとつかんだことがわかる。指のすべった[#「すべった」に傍点]様子もない。一本一本の指が、初めにつかんだとおりに、――おそらく相手の死ぬまで――ぎゅっとつかんだままだったのだ。今度は、これに描いてある一つ一つの跡に、君の指をみんな、同時に、あててみたまえ」
私はやってみたが駄目だった。
「それではまだほんとに試したんじゃないかもしれないな」と彼は言った。「この紙は平面になってひろがっている。が人間の咽喉は円筒形だ。ここに咽喉くらいの太さの棒切れがある。その図をこいつに巻いて、もう一度やってみたまえ」
私は言われたとおりにやってみた。ができないことは前よりもいっそうはっきりした。「こりゃあ人間の指の痕じゃないよ」と私は言った。
「じゃあ今度は」とデュパンが答えた。「キュヴィエのこの章を読んでみたまえ」
それは東インド諸島に棲《す》む黄褐色の大猩々《おおしょうじょう》を解剖学的に、叙述的に、詳しく書いた記事であった。この動物の巨大な身長や、非常な膂力《りょりょく》と活動力や、凶猛な残忍性や、模倣性などは、すべての人によく知られているところである。私はあの殺人が凄惨を極めているわけをすぐに悟った。
「指について書いてあることは」と、私は読み終えると言った。「この図とぴったり一致しているね。なるほど、ここに書いてある種の猩々でなけれは、君の描いたような痕はつけられまい。この朽葉色の髪の毛の束も、キュヴィエの書いている獣のと同じ性質のものだ。しかし、僕にはとてもこの恐ろしい怪事件の細かいところはわからないね。そのうえ、争っていたような声が二つ[#「二つ」に傍点]聞えて、一つはたしかにフランス人の声だったと言うんだからねえ」
「そうさ。それから君は、この声について証言がほとんどみんな一致してあげている言葉――あの『こらッ《モン・ディユ》!』という言葉を覚えているだろう。証人の一人(菓子製造人のモンターニ)がこれをたしなめる、または諫《いさ》める言葉だと言っているが、それはこの場合もっともなんだ。そこで、僕は謎を完全に解く自分の見込みを、この二つの言葉の上に主として立てているんだよ。一人のフランス人がこの殺人を知っていたのだ。彼はその凶行には少しも加わっていないということはありうる。――いやおそらくたしかにそうだろう。猩々はその男のところから逃げたのかもしれない。彼はそのあとを追ってあの部屋のところへまで行ったのかもしれない。が、その後のあの騒ぎのために、とうとう捕えることができなかったのだ。猩々はまだつかまらないでいるのだ。こういう推測――それ以上のものだという権利は僕にはないからね――を僕はこのうえつづけないことにする。なぜなら、この推測の基礎になっているぼんやりした考察は、僕自身の理知で認めることのできるほどの深さを持ってはいないのだし、また、それを他人に理解させようなんて、できることとは思えないからね。だから、それをただ推測と見なして、推測として話すことにしよう。もし、そのフランス人が僕の想像どおり実際この凶行に関係がないとするなら、昨晩、僕が帰りに『ル・モンド』(これは海運業専門の新聞で、水夫たちのよく読むものだ)社へ頼んでおいたこの広告を見て、その男はきっとこの家へやって来るだろうよ」
彼は私に一枚の新聞を渡した。それには次のように書いてあった。
[#引用文、本文より1字下げ]
「捕獲。――ボルネオ種のたいそう大きい黄褐色の猩々一匹。本月――日早朝〔殺人事件のあった朝〕、ボア・ド・ブローニュにて。所有者(マルタ島船舶の船員なりと判明した)は、自己の所有なることを十分に証明し、その捕獲および保管に要した若干の費用を支払われるならば、その動物を受け取ることができる。郭外《フォーブール》サン・ジェルマン――街――番地四階へ来訪されたし」
[#引用文、ここまで]
「どうしてその男が船員で、マルタ島船舶の乗組員だということが、君にわかったかね?」と私は尋ねた。
「僕にはわかっていない[#「いない」に傍点]のだ」とデュパンが言った。「僕もたしかには[#「たしかには」に傍点]知らないのさ。が、ここにリボンのきれっぱしがある。この形や、脂じみているところなどから見ると、明らかにあの水夫たちの好んでやる長い辮髪《べんぱつ》を結わえるのに使っていたものだよ。そのうえ、この結び方は船乗り以外の者にはめったに結わえないものだし、またマルタ人独得のものなんだ。僕はこのリボンを避雷針の下で拾ったんだ。被害者のどちらかのものであるはずはない。ところで、もしこのリボンから僕がそのフランス人をマルタ島船舶の乗組員だと推理したことがまちがっているとしてもだ、広告にああ書いても少しも差支えはないよ。もしまちがっているなら、彼はただ僕が何かの事情で考え違いをしたのだと思って、それについて詮議《せんぎ》したりなどしないだろう。ところが、もしそれが当っているなら、大きな利益が得られるというものだ。そのフランス人は、殺人には無関係だが、それを知っているので、当然、その広告に応ずることを――猩々を受け取りに来ることを――ためらうだろう。彼はこう考えるだろう、――『己《おれ》には罪はない。己は貧乏だ。己の猩々は大した値打ちのものだ、――己のような身分の者には、あれだけでりっぱな財産なんだ、――危険だなんてくだらん懸念のために、あれをなくしてたまるものかい? あれはいますぐ己の手に入るところにあるのだ。あの凶行の場所からずっと離れた――ボア・ド・ブローニュで見つかったんだ。知恵もない畜生があんなことをしようとは、どうして思われよう? 警察は途方に暮れているのだ。――少しの手がかりもつかめないのだ。あの獣のやったことを探り出したにしたところで、己があの人殺しを知っていることの証拠は挙げられまいし、また知っていたからって己を罪に巻きこむことはできまい。ことに、己のことは、わかっているのだ[#「己のことは、わかっているのだ」に傍点]。広告主は己をあの獣の所有者だと言っている。彼がどのくらいのところまで知っているのか、己にはわからない。己のものだとわかっている、あんな大きな値打ちの持物をもらいに行かなかったら、少なくとも猩々に嫌疑がかかりやすくなるだろう。己にでも猩々にでも注意をひくということは利口なことじゃない。広告に応じて、猩々をもらってきて、この事件が鎮まってしまうまで、あいつを隠しておくことにしよう』というふうにね」
このとき、階段をのぼってくる足音が聞えた。
「ピストルを用意したまえ」とデュパンが言った。「しかし僕が合図をするまでは撃ったり見せたりしちゃあいけないぜ」
家の玄関の扉はあけっ放しになっていたので、その訪問者はベルを鳴らさないで入り、階段を数歩のぼってきた。しかし、そこでためらっているようだった。やがて、その男が降りてゆくのが聞えた。デュパンは急いで扉のところへ歩みよったが、そのときふたたびのぼってくる音が聞えた。今度はあと戻りせず、しっかりした足どりでのぼってきて、我々の部屋の扉をとんとんと叩いた。
「お入りなさい」と、デュパンが快活な親しみのある調子で言った。
一人の男が入ってきた。まちがいもなく水夫だ。――背の高い、頑丈な、力のありそうな男で、どこか向う見ずな顔つきをしているが、まんざら無愛想な顔でもない。ひどく日焦《ひや》けしたその顔は、半分以上、頬髯《ほおひげ》や口髭《くちひげ》に隠れている。大きな樫《かし》の棍棒をたずさえていたが、そのほかには何も武器は持っていないらしい。彼はぎごちなくお辞儀をして、「こんばんは」と挨拶した。そのフランス語の調子は、多少ヌーフシャテル訛《なま》りがあったが、それでもりっぱにパリ生れであることを示すものだった。
「やあ、おかけなさい」とデュパンが言った。「あなたは猩々のことでお訪ねになったのでしょうな。いや、たしかに、あれを持っておられるのは羨《うらや》ましいくらいだ。実にりっぱなものだし、無論ずいぶん高価なものにちがいない。あれは何歳くらいだと思いますかね?」
その水夫は、なにか重荷を下ろしたといったような様子で、長い溜息《ためいき》をつき、それからしっかりした調子で答えた。
「わたしにはわからないんです、――が、せいぜい四歳か五歳くらいでしょう。ここに置いてくだすったんですか?」
「いやいや、ここにはあれを入れるに都合のいいところがありません。すぐ近所のデュブール街の貸廐《かしうまや》に置いてあるのです。あすの朝お渡ししましょう。もちろん、あなたは自分のものだということの証明はできるでしょうな?」
「ええ、できますとも」
「私はあれを手放すのが惜しいような気がしますよ」とデュパンが言った。
「あなたにいろいろこんなお手数をおかけして、なんのお礼もしないというようなつもりはありません」とその男は言った。「そんなことは思いもよらなかったことです。あれを見つけてくだすったお礼は――相当のことならなんでも――喜んでするつもりです」
「なるほど」と友は答えた。「それはいかにもたいそう結構です。こうっと! ――なにをいただこうかな? おお! そうだ。お礼はこういうことにしてもらおう。あのモルグ街の殺人事件について、君の知っているだけのことを、一つ残らずみんな話してくれたまえ」
デュパンはこのあとのほうの言葉を、非常に低い調子で、非常に静かに言った。また、同じように静かに扉の方へ歩いて行って、それに錠を下ろし、その鍵をポケットに入れた。それから彼は懐中からピストルを出し、まったく落ちつき払ってそれをテーブルの上に置いた。
水夫の顔は、ちょうど窒息しかけて苦しんでいるかのように、赤くなった。彼はすっくと立ち上がって、棍棒を握った。しかし次の瞬間には椅子にどっかと腰を下ろし、がたがた震えて、まるで死人のような顔色になってしまった。彼はひと言も口を利かなかった。私は心の底からこの男をかわいそうに思った。
「ねえ、君」と、デュパンは親切な調子で言った。「君は必要もないのにびくついているんだ、――まったくさ。僕たちはなにも悪気《わるぎ》があってするのじゃない。僕たちが君になんの危害を加えるつもりもないことを私は紳士としての、またフランス人としての名誉にかけて誓う。君があのモルグ街の凶行について罪のないことは私はよく知っている。しかし、君があれにいくらか関係があるということを否定するのはよくない。いま言ったことから、私がこの事件について知る手段を持っていたことは、君にはわかるはずだ、――君には夢にも思えない手段だがね。いま、問題はこんなことになっているのだ。君は避けうることは何もしなかったし、――またたしかに罪になるようなことは何もしなかった。君は罪にならずに盗めるときに、盗みの罪さえ犯さなかったのだ。君にはなにも隠すことはない。隠す理由もない。一方、君はぜひとも君の知っているだけのことをみんな白状する義務がある。一人の罪のない男がいま牢《ろう》に入れられているのだが、その男に負わされた罪の下手人を君は指し示すことができるのだ」
デュパンがこう言っているあいだに、水夫はよほど落ちつきを取りもどしてきた。しかし、彼の初めの大胆な態度はもうまるでなくなってしまった。
「じゃあ、ほんとうに」と、しばらくたってから彼は言った。「あの事件についてわたしの知っていることをすっかりお話ししましょう[#「しましょう」に傍点]。――だが、わたしの言うことの半分でもあんたが信じてくださろうとは思いません。――そんなことを思うなら、それこそわたしは馬鹿です。でも、わたしには罪はないのです[#「のです」に傍点]。だから、殺されたっていいから、残らずうち明けましょう」
この男の述べたことは大体こうであった。彼は近ごろインド群島へ航海してきた。彼の加わっていた一行が、ボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びの旅行で入って行った。そのとき、彼と一人の仲間とが猩々を捕えたのだ。この仲間の男が死んだので、その動物は彼一人のものになった。そいつの手に負えない獰猛《どうもう》さのために、帰りの航海のあいだじゅう彼はずいぶん困ったが、とうとうパリの自分の家に無事に入れてしまうことができた。そして近所の人々が自分に不愉快な好奇心を向けないように、猩々が船中で、木片で傷つけた足の傷が癒《なお》るまで、注意深くかくまっておいた。それを売ろうというのが、彼の最後の目的だったのだ。
あの殺人のあった夜、いや、もっと正確に言えばあの朝、彼は船乗りたちの遊びから帰ってくると、その獣が、厳重に閉じこめておいたと思っていた隣の小部屋から、自分の寝室の中へ入りこんでいるのを見つけたのだった。猩々は剃刀を手に持ち、石鹸泡《せっけんあわ》を一面に塗って、鏡の前に坐って顔を剃《そ》ろうとしていた。前に主人のやるのを小部屋の鍵穴からのぞいていたものにちがいない。そんな危険な凶器が、そんな凶猛な、しかもそれをよく使うことのできる獣の手にあるのを見て度胆を抜かれてしまい、その男はしばらくはどうしていいか途方に暮れた。しかし、彼はそいつがどんなに荒れ狂っているときでも、鞭《むち》を使って鎮めるのに慣れていたので、今度もそれをやってみようとした。その鞭を見ると猩々はたちまち部屋の扉から跳び出し、階段を駆けおり、それから運わるく開いていた一つの窓から街路へと跳び出したのであった。
そのフランス人は絶望しながらもあとを追った。猩々はなおも剃刀を手にしたまま、ときどき立ち止って振りかえり、ほとんど追いつかれそうになるまで、手まねをして見せた。それからまた逃げ出した。こんなふうにして追跡は長いあいだ続いた。かれこれ朝の三時ごろのことであったから、街路はひっそりと静まりかえっていた。モルグ街の裏の小路へ通りかかったとき、レスパネエ夫人の家の四階の部屋の開いた窓から洩れる明りに、猩々は注意をひかれた。その家の方へ走りより、避雷針を眼にとめると、想像もつかぬほどのすばやさでよじ登り、壁のところまですっかり押し開かれていた鎧戸をつかみ、その鎧戸で寝台の頭板のところへじかに跳びついた。これだけの離れわざが一分もかからなかったのだ。鎧戸は猩々が部屋へ入ったとき蹴かえされてふたたび開いた。
その間、水夫は喜びもしたが、当惑もした。猩々の跳びこんでいった罠《わな》からは避雷針のほかには逃げ路はほとんどないのだし、その避雷針を降りてくれば取り押えることができようから、彼は今度こそつかまえられるという強い希望を持った。また一方では、家のなかでなにをするかという心配が多分にあった。この後のほうの考えから彼はなおも猩々のあとを追った。避雷針は造作なくのぼれるし、ことに船乗りにはなんでもない。だが、彼が左方ずっと離れたところにある窓の高さまで行きつくと、それから先は進めなかった。せいぜいできることは、身を伸ばして部屋のなかをちらりと覗《のぞ》くことだけだった。そうして覗くと、彼はあまりの怖ろしさに、つかまっている手を危うく放しそうになった。モルグ街の住民の夢を破ったあの恐ろしい悲鳴が夜の静寂のなかに響きわたったのは、このときのことであった。寝衣《ねまき》を着たレスパネエ夫人と娘とは、部屋の真ん中に引き出してある、前に述べたあの鉄の箱のなかのなにかの書類を整理していたらしい。それはあけてあって、なかの物はその側の床の上に置いてあった。被害者たちは窓の方へ背を向けて坐っていたにちがいない。そして猩々の入りこんだのと、悲鳴のしたのとのあいだに経過した時間から考えると、すぐには猩々に気がつかなかったらしい。鎧戸のばたばたした音はきっと風の音だと思われたのであろう。
水夫が覗きこんだとき、その巨大な動物はレスパネエ夫人の髪の毛(ちょうど梳《す》いていたので解いてあった)をつかんで、床屋の手ぶりをまねて、彼女の顔のあたりに剃刀を振りまわしていた。娘は倒れていて身動きもしない。気絶していたのだ。老夫人が悲鳴をあげ、身もだえしたので(その間に髪の毛が頭からむしり取られたのだが)、猩々のたぶん穏やかな気持がすっかり憤怒の気持に変った。その力強い腕で思いきり一ふりすると、彼女の頭を胴体からほとんど切り離してしまった。血を見ると猩々の怒りは狂気のようになった。歯を食いしばり、両眼から炎を放って、娘の体に跳びかかり、その恐ろしい爪を咽喉へ突き立てて彼女の息が絶えてしまうまで放さなかった。猩々のきょろきょろした血ばしった眼つきが、このときふと寝台の頭の方へ落ちると、その向うに、恐怖のために硬《こわ》ばった主人の顔がちょっと見えた。たしかにあの恐ろしい鞭をまだ覚えていた猩々は、怒りがたちまち今度は恐怖に変った。罰を受けるようなことをしたと悟って、自分のやった凶行を隠そうと思ったらしく、ひどくそわそわして部屋じゅうをとびまわり、そのたびに家具をひっくり返したりこわしたりし、また寝台から寝具をひきずり落したりした。とうとう、まず娘の死体をつかんで、のちに見つけられたように、煙突のなかへ突き上げ、それから老夫人の死体をつかんで、すぐ窓から真っ逆さまに投げだした。
猩々がその切りさいなんだ死体をかかえて窓へ近づいてきたとき、水夫は胆をつぶして避雷針の方に身をすくめ、その避雷針を這《は》い降りるというよりもむしろ辷《すべ》り降りて、一目散に家へ逃げ帰った、――その凶行の結果を恐れ、また恐怖のあまり猩々の運命についてのいっさいの懸念をすっかり棄ててしまって。階段の上で人々の聞いた言葉というのは、猩々の悪鬼のような声とまじった、そのフランス人の恐怖と驚愕《きょうがく》との叫び声であったのだ。
もうこの上につけ加えることはほとんどない。猩々は、扉がうち破られるすぐ前に、避雷針を伝って部屋から逃げ出したにちがいない。窓はそこから出るときにしめて行ったのだろう。その後、猩々は持主自身に捕えられ、植物園《ジャルダン・デ・プラント》に非常な大金で売られた。ル・ボンは、我々が警視庁へ行って(デュパンの多少の注釈とともに)事情を述べると、すぐに釈放された。警視総監は、私の友に好意を持っていたけれども、事件のこの転回を見て自分の口惜《くや》しさをまったく隠しきれなくて、人はみんな自分自分のことをかまっていればいいものだ、というような厭味《いやみ》を一つ二つ言うよりほかにしようがなかった。
「なんとでも言わしておくさ」べつに返事をする必要もないと思っていたデュパンはこう言った。「勝手にしゃべらせておくさ。それでご自分の気が安まるだろうよ。僕は奴《やっこ》さんの城内で奴さんをうち負かしてやったのだから満足だ。だが、あの男がこの怪事件を解決するのにしくじったということは、決して彼自身が思っているような不思議な事がらじゃない。なにしろ、実際、わが友人の総監は少々ずるすぎて考え深くないからね。彼の知恵[#「知恵」に傍点]には雄蕊[#「雄蕊」に傍点]がないのだ。女神ラヴェルナの絵みたいに、頭ばかりで胴がない。――あるいは、せいぜい鱈《たら》みたいに頭と肩ばかりなんだ。しかしまああの男はいい人間だよ。僕はことに、あの男が利口そうな口を利くことに妙を得ているところが好きなんだ。そのおかげで奴さんは俊敏という名声を得ているんだがね。奴さんのやり口というのは『あるものを否定し、ないものを説明する《ド・ニエ・ス・キ・エ・エ・デクスプリケ・ス・キ・ネ・パ》』(原注)というのさ」
原注 ルソーの"Nouvella Heloises[#最初の「e」にアクサン(´)が付く]"
底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年8月15日発行
1977(昭和52)年5月10日40刷改版
1997(平成9)年12月25日77刷
底本の親本:「エドガア・アラン・ポオ小説全集」第一書房
1931(昭和6)年〜1933(昭和8)年
入力:大野晋
校正:j.utiyama
1999年7月6日公開
2000年9月13日修正
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