士の最も重んずるところは節義である。その立つやこれに仗《よ》り、その動くやこれに基づき、その進むやこれに嚮《むか》う。節義の存するところ、水火を踏んで辞せず、節義の欠くるところ、王侯の威も屈する能わず、猗頓《いとん》の富も誘うべからずして、甫《はじ》めてもって士と称するに足るのである。学者は実に士中の士である。未発《みはつ》の真理を説いて一世の知識を誘導するものは学者である。学理の蘊奥《うんのう》を講じて、天下の人材を養成するものは学者である。堂々たる正論、政治家に施政の方針を示し、諤々《がくがく》たる※[#「※」は「言+黨」、第4水準2-88-84、21-7]議《とうぎ》、万衆に処世の大道を教うるは、皆これ学者の任務ではないか。学者をもって自ら任ずる者は、学理のためには一命を抛《なげう》つの覚悟なくして、何をもってこの大任に堪えられよう。学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ。学理の存するところは即ち節義の存するところである。
ローマの昔、カラカラ皇帝|故《ゆえ》なくして弟ゲータを殺し、直ちに当時の大法律家パピニアーヌス(Papinianus)を召して、命じて曰く、
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朕、今ゲータに死を賜えり。汝宜しくその理由を案出して罪案を起草すべし。
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と、声色共に※[#「※」は「勵−力」、第3水準1-14-84、22-4]《はげ》しく、迅雷《じんらい》まさに来らんとして風雲大いに動くの概があった。これを聴いたパピニアーヌスは儼然《げんぜん》として容《かたち》を正した。
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既に無辜《むこ》の人を殺してなお足れりとせず、更にこれに罪悪を誣《し》いんとす。これ実に第二の謀殺を行うもの。殺親罪を弁護するはこれを犯すより難し。陛下もし臣の筆をこの大悪に涜《けが》さしめんと欲し給わば、須《すべか》らくまず臣に死を賜わるべし。
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と答え終って、神色自若。満廷の群臣色を喪《うしな》い汗を握る暇もなく、皇帝震怒、万雷一時に激発した。
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咄《とつ》、汝|腐儒《ふじゅ》。朕汝が望を許さん。
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暴君の一令、秋霜烈日の如し。白刃一閃、絶世の高士身首その処を異にした。
パピニアーヌスは実にローマ法律家の巨擘《きょはく》であった。テオドシウス帝の「引用法」(レキス・キタチオニス)にも、パピニアーヌス、パウルス、ウルピアーヌス、ガーイウス、モデスチーヌスの五大法律家の学説は法律の効力ありと定め、一問題起るごとに、その多数説に依ってこれを決し、もし疑義あるか、学説同数に分れる時は、パピニアーヌスの説に従うべしと定めたのを見ても、当時の法曹中彼が占めたる卓然たる地歩を知ることが出来よう。しかしながら、吾人が彼を尊崇する所以《ゆえん》は、独り学識の上にのみ存するのではない。その毅然たる節義あって甫《はじ》めて吾人の尊敬に値するのである。碩学の人は求め得べし、しかれども兼ぬるに高節をもってする人は決して獲易《えやす》くはない。西に、正義を踏んで恐れず、学理のためには身首処を異にするを辞せざりしパピニアーヌスあり。東に、筆を燕《えん》王|成祖《せいそ》の前に抛《なげう》って、「死せば即ち死せんのみ、詔や草すべからず」と絶叫したる明朝の碩儒|方孝孺《ほうこうじゅ》がある。いささかもって吾人の意を強くするに足るのである。吾人はキュージャスとともに「法律の保護神」「万世の法律教師」なる讃辞をこの大法律家の前に捧げたいと思う。ギボンは「ローマ帝国衰亡史」に左の如く書いた。
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“That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure and unsullied from the intrigues of courts, the habits of business, and the arts of his profession, reflects more lustre on the memory of Papinian, than all his great employment, his numerous writings, and the superior reputation as a lawyer, which he has preserved through every age of the Roman jurisprudence.(Gibbon's the Decline and Fall of the Roman Empire.)
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国王の璽《じ》は重要なる君意を公証するものであるから、これを尚蔵する者の責任の大なることは言を待たぬところである。故に御璽《ぎょじ》を保管する内大臣に相当する官職は、いずれの国においても至高の要職となっており、英国においては掌璽《しょうじ》大臣に“Keeper of the King's Conscience”「国王の良心の守護者」の称がある位であるから、いやしくも君主が違憲の詔書、勅書などを発せんとする場合には、これを諫止《かんし》すべき職責を有するものである。フランスにおいて、掌璽大臣に関する次の如き二つの美談がある。
フランスのシャール七世、或時殺人罪を犯した一|寵臣《ちょうしん》の死刑を特赦しようとして、掌璽大臣モールヴィーエー(Morvilliers)を召して、その勅赦状に王璽を※[#「※」は「金+今」、第3水準1-93-5、27-9]《きん》せしめようとした。モールヴィーエーはその赦免を不法なりとして、これを肯《がえ》んぜなかったが、王は怒って、「王璽は朕の物である」と言って、これを大臣の手より奪って親《みずか》ら勅赦状に※[#「※」は「金+今」、第3水準1-93-5、27-11]したる後《の》ち、これをモールヴィーエーに返された。ところがモールヴィーエーはこれを受けず、儼然として次の如く奏してその職を辞した。「陛下、この王璽は臣に二度の至大なる光栄を与えました。その第一回は臣がかつてこれを陛下より受けた時であります。その第二回は臣が今これを陛下より受けざる時であります。」
ルイ十四世が嬖臣《へいしん》たる一貴族の重罪を特赦しようとした時、掌璽大臣ヴォアザン(Voisin)は言葉を尽して諫争《かんそう》したが、王はどうしても聴き容れず、強いて大璽を持ち来らしめて、手ずからこれを赦書に※[#「※」は「金+今」、第3水準1-93-5、28-7]して大臣に返された。ヴォアザンは声色共に激しく「陛下、この大璽は既に汚れております。臣は汚れたる大璽の寄託を受けることは出来ません」と言い放ち、卓上の大璽を突き戻して断然辞職の決意を示した。王は「頑固な男だ」と言いながら、赦免の勅書を火中に投ぜられたが、ヴォアザンはこれを見て、その色を和《やわら》げ、奏して言いけるよう、「陛下、火は諸《もろもろ》の穢《けがれ》を清めると申します。大璽も再び清潔になりましたから、臣は再びこれを尚蔵いたしますでございましょう。」
ヴォアザンの如きは真にその君を堯舜《ぎょうしゅん》たらしめる者というべきである。
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明治二年、新律編修局を刑法官(今の司法省)内に設け、水本保太郎(成美)、長野文炳、鶴田弥太郎(皓)、村田虎之助(保)に新律取調を命ぜられた。かくて委員諸氏は大宝律令、唐《とう》律、明《みん》律、清《しん》律などを参酌して立案し、同年八、九月の頃に至ってその草案は出来上ったが、当時の参議|副島種臣《そえじまたねおみ》氏はこれを閲読して、草案「賊盗律」中に謀反《むほん》、大逆の条《くだり》あるを発見して、忽ち慨然大喝し、「本邦の如き、国体万国に卓越し、皇統連綿として古来かつて社稷《しゃしょく》を覬覦《きゆ》したる者なき国においては、かくの如き不祥の条規は全然不必要である。速に削除せよ」と命じた。依って委員はこれに関する条規を悉《ことごと》く草案より除き去り、同年十二月[#岩波文庫の注は「翌三年十二月の誤り」とする]に「新律綱領」と題して頒布せられた。昔ギリシアのアテネにおいて、何人もその父母を殺すが如き大罪を犯すことはあるまじき事であるというので、親殺の罪を設けなかったのも、けだし同じ趣旨に出たものであろう(Manby v. Scot, Smith's Leading Cases.)。またヘロドーツスの歴史によれば、古代のペルシアにおいては、真正の親を殺す者のあるはずがないとし、偶《たまた》ま親を殺す者があっても、その者は私生児であるとしたということである。
明治六年五月に頒布せられた「改定律例」にも、やはり謀反、大逆の罪に関する箇条《かじょう》は載せられなかった。その後《の》ち、仏国人ボアソナード氏が大木司法卿の命を受けて立案した刑法草案は、明治十年十月に脱稿したが、同年十二月、元老院内に刑法草案審査局を置いて、伊藤博文氏を総裁とし、審査委員を任命して、その草案を審議せしめることとなった。
しかるに、その草案中、第二編第一章に、天皇の身体に対する罪、第二章に、内乱に関する罪の箇条があったので、その存否は委員中の重大問題となったが、竟《つい》にその処置に付き委員より政府に上申して決裁を乞うに至った。しかるに、翌十一年二月二十七日、伊藤総裁は審査局に出頭し、内閣より上奏を経て、皇室に対する罪および内乱に関する罪は、これを存置することに決定したる旨を口達せられた。依って明治十三年発布の刑法以来、皇室に対する罪および国事犯に関する条規を刑典中に見るに至った。
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神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾《なんじ》らの実の母となすことなし。
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これは「コーラン」の一節である。何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している(Sales, The Koran, ch. xxxiii[#「xxxiii」は33を表すローマ数字の小文字]. The Confederates. p. 321.)。
結ぶということがあれば、解くということもあるのは、数の免れざるところであって、結婚がある以上、離婚なる不祥事もしばしば生ずるのは、古今|易《かわ》りなき現象である。しかるに、妻を去るも、その妻の帰るべき家が無いことがある。また男の中には、夫婦の縁は絶ちたいが、その妻が家を出て他家に再※[#「※」は「酉+焦」、第4水準2-90-41、78-9]《さいしょう》するのは面白くないという、未練至極な考えを持っている者もあって、折々新聞の三面に材料を供することであるが、古代のアラビア人にも、この類《たぐい》の男が多かったと見え、実に奇抜な離婚方法を発明した。即ち妻に向って「あなたは今日より私の御母さんで御座います」という宣言をするのである。夫妻の関係はこの宣言とともに全く絶えて、昨日の妻は今日の母となり、爾後は一切の関係皆実母としてこれに奉事せねばならぬのであるが、実際は御隠居様として敬して遠ざけて置くのである。
かくの如き慣習は、余りに自分勝手な、婦人を馬鹿にし過ぎたもので、その弊害に堪えぬからして、さすがはモハメット、右の一句をもって断然この奇習を廃したのである。
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アイスランドは、中世紀頃北欧において一時勢力を逞《たくま》しうした「北人」(Northmen)が、西暦第九世紀頃に発見移住した北海中の一孤島であるが、既に法律生活に馴れた北人が新たにこの無人島に移住して、漸次政治的社会を建設するようになったのであるから、その発見当時の歴史は、吾人に大なる教訓と興味とを与えるのである。ジェームス・ブライス氏(James Bryce)がその著「歴史および法律学の研究」(Studies in History and Jurisprudence)の中に載せている幽霊に対する裁判の話の如きはその一例である。
昔アイスランドの西岸ブレイジフイルズ郷のフローザーという処に、トロッド(Thorodd)と称する酋長がおった。或日海上で破船の厄《やく》に遭《あ》い、同船の部下の者らとともに溺死を遂げた。その後《の》ち船は海浜へ打上げられたが、溺死者の死骸は終に発見することが出来なかった。依って、この酋長の寡婦スリッズと長子キャルタンとは、その地方の慣習に従って、近隣の人々を招いて葬宴を催したが、その第一日のことである、日が暮れて暖炉に火を点ずるや否や、トロッドおよびその部下の者が、全身水に濡れたまま忽然と立ち現れ、暖炉の廻わりに着席したので、その室に集っていた客人らは、この幽霊を歓待した。それは昔から死人が自身の葬宴に列するのは、彼らが大海の女神ラーンの処で幸福なる状態にいるということを示すものであると信ぜられていたからである。しかし、これらの黄泉《よみ》よりの客人らは、一向人々の挨拶に応ずることもなく、ただ黙々として炉辺に坐っていたが、やがて火が消えると忽然として立ち去ってしまった。
翌晩にもまた彼らは同じ刻限に出現して同じ挙動を演じたが、かかる事は啻《ただ》に連夜の葬宴の際に起ったばかりでなく、それが終って後《の》ちまでも、やはり毎夜打続いたのであった。それで、終には召使の者どもが恐怖を抱き、誰一人暖炉のある部屋に入ろうとする者がないようになって、忽ち炊事に差支えるという事になった。それは火を焚《た》くと直ちにトロッドの一行が出現して、その火を取巻くからである。そこでキャルタンは毎晩幽霊専用のために、大きな火を別室に焚くこととして、炊事には差支えないようになったが、しかしそれからというものは、家内に不幸が続出して、寡婦スリッズは病床に就き、死人さえ生ずるに至ったので、キャルタンは大いに困って、その伯父にあたる有名な法律家スノルリ(Snorri)という人に相談し、その助言に依って、この幽霊に対して訴訟を起すこととした。即ちキャルタンその他七人の者が原告となり、トロッドおよびその部下の幽霊に対して家宅侵入および致死の訴訟を提起し、いわゆる戸前裁判所(Dyradomr[#oにアクサン(´)付き])の開廷を請求し、トロッドの一行は不法にも他人の家宅に侵入して、その結果家内に死人病人を生ずるようになったから、戸前裁判所の開廷を乞うて彼らを召喚する旨を高声に申し立てた。ここにおいて、裁判官は通常の訴訟と少しも異なることなく、証拠調、弁論などの手続を経て、幽霊どもに一々判決を言い渡したところ、その言渡を受けた者は、一々起立して立去り、その後ち再び出現しなかったということである。
この話が荒唐無稽《こうとうむけい》の作り話であることは勿論であるが、これが我国古代の作り話であったならば、必ず祈祷「まじない」などで怨霊《おんりょう》退散という結末であろうのに、結局法律の救済を求めたということになっているのは、頗《すこぶ》る面白い。けだし北人は幽霊の葬宴に列するを信ずる如き知識の程度であったにもかかわらず、比較的法律思想に富んでおり、殊に烏合《うごう》の衆が新しき土地に社会を建設する初めに当っては、法律生活の必要、法的秩序の重んずべきことが切に感ぜられるところから、かくの如き作り話も生じたのであろう。そして古代絶海の一孤島における幽霊ですら、なおかくの如く法を重んじ裁判に服従すべきことを知っておったのに、現今の文明法治国に生活する者にして、動《やや》もすれば法を蔑《ないがしろ》にする者があるのは、この作り話以上の不可思議といわねばならぬ。
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判事総長ガスコイン(Chief Justice Gascoigne)が太子ヘンリー親王を禁錮に処した事は、古代の記録にも残っており、また往々英米の小学読本などにも載っている最も有名な話である。
英帝ヘンリー第五世がまだ太子であった頃、或るとき親王の寵臣某が偶《たまた》ま罪あって捕えられ、遂に「王座裁判所」(King's Bench)において公判を開かれることとなった。
年少気鋭なる親王はこれを聴いて大いに怒り、すぐさま自ら法廷に赴いて「直ちに被告を釈放せよ」と声も荒らかに裁判官に命ぜられた。法廷に並びいる者はこれを見て愕然としてただ互に顔を見合せるのみであったが、裁判長ガスコインは徐《しず》かに太子に向って、「殿下―私は殿下が彼の近臣の王国の法律に依って処分せらるることに御満足あらせられんことを希望致します。しかしながら、もし法律または裁判にして余りに酷なりと思召すこともあるならば、父君なる皇帝陛下に特赦の御請願を遊ばさるるが宜しう御座いましょう」と丁寧に言上した。親王はこの諫《いさめ》を耳にも掛けず、自ら被告の手を執ってこれを連れ去ろうとせられたから、ガスコインはこれを制止し、大喝一声、親王に向って退廷を命じた。親王はこれを聴いて烈火の如く怒り、剣の柄《つか》に手を掛けて驀然《ばくぜん》判事席に駆け寄り、あわや判事に打ち懸《かか》らんず気色《けしき》に見えた。判事総長は泰然自若、皇太子に向って励声《れいせい》一番した。「殿下、本官は今皇帝陛下の御座を占めつつあることを御記憶あらせられよ。皇帝陛下は実に殿下の父君にしてまた君主にておわします。故に殿下は二重に服従の義務を負い給うものではありませぬか。本官は今陛下の名をもって殿下にこの不法なる暴行を禁じ、且つ将来殿下の臣民たるべき者に対して法律|遵奉《じゅんぽう》の模範を殿下自ら御示しあらんことを勧告いたします。殿下は既に法廷侮辱の罪を犯されたのであります。故に本官はこれに対して殿下を王座裁判所の獄に禁錮し、もって皇帝陛下の勅命を待たんとするものでございます。」
この儼然犯すべからざる法官の態度に打たれて、さすがの親王もしばらくの間は茫然として佇立《ちょりつ》しておられたが、忽ち悟るところあるが如く、手に持った剣を抛《なげう》ち、法官に一礼の後《の》ち、踵《きびす》を回《めぐ》らして自ら裁判所の拘留室へ赴かれた。
この事の顛末《てんまつ》を聴かれた皇帝は歓喜極りなく、天を仰いで神に拝謝し、「朕《ちん》はここに畏くも我上帝が、正義を行って懼《おそ》れざる法官と、恥辱を忍んで法に遵《したが》う皇儲《こうちょ》とを与えられたる至大の恩恵を感謝し奉る」と叫ばれたという事である。
右の皇帝の言葉は、近頃の書物には通常左の如く書いてある。
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“Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.”
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しかるに、右の親王が位を継いでヘンリー五世となり、その後ち崩御された直ぐ後にサー・トマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)の著わしたThe Governorという書には左の如くある。
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“O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can suffre semblably, and obey justyce!”
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右に掲げた話は同書中の記事に拠ったのである。
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三五 “He shakes his head, but there is nothing in it!”
カランの法術について思い出した事がある。明治十三年、スウィスの首都ベルンの国会議事堂において国際法の万国会議が開かれた時、丁度その頃、我輩はドイツに留学中であったので、日本における治外法権廃止の提議をなさんがために同会に出席したことがあった。イギリスからは公使森有礼君、法学士西川鉄次郎君、オーストリヤからは書記官河島醇君も出席した。
この会において最も議論のやかましかったのは、国際版権問題で、就中《なかんずく》イギリスの議員は版権の国際的効力を保障する条約の必要を主張し、アメリカの議員は烈しくこれに反対した。
ニューヨルクの弁護士某氏は、熱弁を掉《ふる》ってイギリスの前国会議員某氏の国際条約必要論を駁撃し、「真理は人類の公有物である。これを発見し、これを説明する者は、その人類に与うる公益と、これに伴う名誉とをもって満足すべきである。何ぞ必ずしも利を貪《むさぼ》って、真理普及の阻止せらるるを欲すべきものならんや。諸君、請う学者と書籍製造販売者とを混ずること勿《なか》れ」という調子で滔々《とうとう》と述べ立てると、前国会議員の某は、頻《しき》りに頭を左右に掉《ふ》って不同意の態度を示した。すると直ちにその頭を指さして、
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“He shakes his head, but there is nothing in it!”
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と叫んだ。これは素《もと》より「彼は頭を掉っているが、それには何も意味のある訳ではない」という意味であるが、また「彼は頭を掉っているが、しかしあの頭の中は無一物である」とも解せられる。前議員某氏は激怒の相を現わし、その禿頭より赤光を放射した。他の会員は思わず失笑する者もあり、顰蹙《ひんしゅく》する者もあった。痛烈骨を刺す皮肉、巧みは則ち巧みであるが、かかる場所柄、少しひど過ぎると、我輩はその時に思うた。
かくてその後も、右は同弁護士の機智に出でたる米国式の論弁法であると思って、人にも話した事であったが、爾来三十余年を経過して、大正四年の夏に至り、カランの逸話を読んでいると、偶然にも左の一項に遭遇した。
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或時カランが陪審官に対《むか》ってその論旨を説明していると、裁判官が頻りにその頭を掉った。するとカランの言うには、「諸君、余は判事閣下の頭の動くのを見る。これを観る者は、あるいは閣下の御説が余輩の所説と異なっていることを示すものであると想うかも知れない。けれども、あれは偶然の事です。」
“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
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これに依って観ると、我輩がさきにアメリカ式と思うたのは、実はアイルランド式であって、かの某弁護士は、あるいは我輩より数十年前に既にカラン伝を読んでおったのかも知れない。
我輩はこのカランの逸話を読んで、三十年来の誤信を覚《さと》ったとき、つくづく吾人の知識の恃《たの》み難きものなることを嘆じ、更に自疑反省の必要の大なること感じた。
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刑事裁判がその源を復讐に発していることは争うべからざる事実であるが、その最も著明な証跡とも見るべきは、刑事訴訟の起訴者が現今は国家であるが、往昔《おうせき》にあっては私人であったことである。即ち被害者またはその親戚らより起訴して、原被両告の対審となることは、民事訴訟と同一であった。英国の中世には、この規則が行われておって、ことに殺人に関する私訴(Appeal of Murder)が最も著名であった。しかもこの古風な訴訟に関して、なお一層古風な慣習が行われた。それは決闘裁判(Trial by battle)である。被告は原告と決闘して正邪を決せんことを請求することが出来る。手袋を投げるのがその請求の儀式であった。
この決闘裁判は久しく行われたことがなかった。一七七〇年および一七七四年の議会には、その廃止案が提出せられたが、元来保守的で旧慣を変ずることの大嫌いな英国の事とて、実際に決闘を請求する者もない今日、わざわざ廃止案を出すにも及ぶまい位のことで、そのまま決議に至らずにしまった。かくてこの危険なる法律をば、廃止したともなく、忘れておった世人は、それより四十年後に至って、端《はし》なくも覚醒の機運に逢着した。
一八一七年アッシフォード対ソーントン事件(Ashford v. Thornton)なる訴訟が起った。即ちアブラハム・ソーントンなる者がメリー・アッシフォードという少女を溺死せしめんとしたとて、メリーの兄弟からいわゆる「殺人私訴」を起したのであった。いよいよ裁判の当日となって、被告の答弁が求めらるるや、彼は決然として起ち上り、「無罪なり。余は敢えて身をもってこれを争わんと欲す」と叫んで、手袋を投じた。これ正に決闘裁判請求の形式である。この恐しき叫びは、久しく決闘を忘れたる世人の耳朶《じだ》を驚し、陪席判事は皆その請求の容《いる》るべからざるを主張し、決闘裁判に関する古法律は形式上は未だ廃止されてはおらぬが、古代の蛮法であって、数百年間行われなかったのであるから、事実上効力を失うたものであると論じた。しかしながら、その法律の儼然として未だ廃せられざるものがあったから、判事エレンボロー卿(Lord Ellenborough)は、「これ国法なり」(It is the law of the land)の一言をもって衆議を圧し、決闘の請求に許可を与えた。しかし決闘は実際には行われなかったが、被告の見幕に恐れをなして、原告は訴訟を取下げてしまったのである。
かくてこの事件も無事に治ったが、さて治らぬのは輿論《よろん》の沸騰である。決闘裁判の如き蛮習を絶つには、須《すべか》らく復讐を根本思想とせる「殺人私訴」を廃すべきであるとの議論が盛んに主張せられ、一八一九年の議会において、二対六十四の大多数をもって、「殺人私訴法」(Appeal of Murder Act)を議決した。これによって殺人その他重罪の私訴は廃せられ、その結果、決闘裁判の請求もソーントンをもって最後とすることとなった。
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しかるに第二十世紀の法律史はまた前代未聞の大発見をもって始まったのである。それは一九〇一年の十二月から一九〇二年の一月にわたってペルシアの古都スザの廃址においてフランス政府の派遣した探検隊がジョセフ・ド・モルガン(J. de Morgan)氏の主宰の下に、世界最古の法律とも称すべきハムムラビの石柱法を発掘したことである。この発見は独り法律学の上のみならず、史学、人類学、社会学、博言学、政治学、宗教学などに大影響を及ぼすものであって、大いに学者の注意を惹き、その法文は諸国の語に翻訳せられ且つ近頃に至っては、これに関する学者の考証研究なども大いに進み、種々の著書が出るようになって来た。世に骨董家などが期せずして得た珍奇な品物を「掘出し物」というが、この石柱法こそ実に古今無双の「掘出し物」といわねばならぬ。
フランス政府は、この重要なる発見を広く学界に伝えんとし、先ずシェイル(Scheil)に命じてこれを仏語に翻訳させ、且つその法文を写真版として出版した。Textes Elamitiques Semitiques. par V.Scheil.O.P.(Paris,1902.), Memoires de la Delegation en Perse. tome IV.[#「Semi-」「Memo-」「Dele-」の「e」はアクサン(´)付き、「IV」はローマ数字の4]は即ちその書である。
世界の至宝たるこのハムムラビの石柱法は、今はルーブルの博物館に陳列せられている。
三 発見の予言
今を距《へだた》ること約四十年前、即ち一八七四年に、英人ジョージ・スミスがニネベおよびバビロンの遺址を発掘して数多の粘土板の記録を得たが、これに依ってバイブルの旧約全書中の世界創造および大洪水などの伝説は、モーゼの時より数百年前既にバビロンに存しておった記録に基づいて作られたものではないかとの疑問が起って、歴史家宗教家の間の一大争議を惹き起した。その後ちアッシリア王アスールバニパル(Asurbanipal, 668-626 B.C.)の図書館が発掘され、その中にあった粘土記録の破片数個はブリチシ・ミュージアムに陳列されてあるが、アッシリア学者は、この記録はアスールバニパル王の法典の一部であるとしておった。しかるにマイスネル博士(Dr. Meissner)はこの破片を精密に研究した結果、この破片の法文はその文体より推すも古バビロン時代に属するものなることを知り、一八九八年にその説を発表して、この破片の本体たる法典はアスールバニパル時代のものに非ずして、バビロン王統の初期に属するものであろうと言うた。その翌年に至ってデリッチ博士(Dr. Delitzsch)は、マイスネルの考証に賛成し、さらに一歩を進めて該法典はバビロン建国第一期時代の英主ハムムラビ王が当時の法律を集めて編纂したものであろうとの推測をなし(Delitzsch, Zur juristischen Literatur Babiloniens-Beitraege. Zur Assyriologie. Bd IV S.80.)[#「IV」はローマ数字の4]、コード・ナポレオンの称呼に倣って、コード・ハムムラビという名称をさえ定め用い、他日必ずバビロンの遺址中においてその全部を発見する時があるに違いないと予期しておった。しかるにデリッチがその説を発表した後ち未《いま》だ僅に三年を経ざる内に、その予期に違《たが》わず、この法典の全部を発見し、且つそのハムムラビ法典なりとの予言も的中したのは、実に感歎すべき事実である。
この発見は、これより半世紀以前に、ルヴリエール(Leverieres)が天王星の軌道の変態を観て、必ず数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予言し、その予言が果して的中して、予測されたる天空の一度内において海王星が発見せられたのとほぼその趣を同じうしている。そしてハムムラビ法典の発見の法学におけるは、海王星の発見の星学におけると、その重要なる点において毫《ごう》も異なる所はないのである。
ハムムラビ法典の発見後、比較法学上種々の新問題を惹起《ひきおこ》したが、その中で最も重要なものは、ハムムラビ法典とモーゼの法律との関係である。或はモーゼの法律は直接にハムムラビ法典を継受したものであるといい(直接継受説)、或は間接にアラビヤ人を通じて継受したものであるといい(間接継受説)、或はまた両法共にアラビヤ古法より来ったものであるといい(共同法源説)、また或はこの二法の類似は往々古代法において観るところの暗合に過ぎぬと言うておる者もある(暗合説)。その他前挙四種の説中にも種々の異論があって、未だ学者の説が一致してはおらぬが、多数の学者はこの二法の間には本末または共源の関係があることを認めているようである。
この二法典の関係を論定するは、一般の法学の知識の外、特にセミチック語、旧約全書の歴史などに通ぜねば出来ぬ事であるし、且つこの夜話の目的としては余り精微の点に入り過ぎるから、ここにはその論点を紹介することを略するが、この問題の詳細を知らんとする者は、左の諸書に就いて見るがよかろう。
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Johannes Jeremias, Moses und Hammurabi. 1903.
S. Orelli, Das Gesetz Hammurabis und die Thora Israels. 1903.
Dav. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis und ihr Verhaltniss[「a」はウムラウト(¨)付き] zur Mosaischen Gesetzgebung etc. 1903.
Hubert Grimme, Das Gesetz Chammurabis und Moses. 1903.
S. A. Cook, The Laws of Moses and the Code of Hammurabi. 1903.
中田薫博士「ハンムラビ法典とモーゼ法との比較研究」(『史学雑誌』第二四編第二号所載論文)
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九 ハムムラビ法典に関する書籍
ハムムラビ法典に関する書籍は、一九〇二年にシェール氏がその原文の写真版と翻訳とを出版して以来、諸国において出版されたものが極めて多いが、我輩の持っているものおよび知るところのものは、前に挙げたものの外、次の如くである。
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Scheil, Delegation en Perse. 1902.[#「Delegation」の2つの「e」はアクサン(`)付き]
H. Winckler, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
C. H. W. Johns, The Oldest Code of Laws in the World. 1903.
Georg Cohn, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis. 1903.
Robert Francis Harper, The Code of Hammurabi, King of Babylon. 1904.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Syrisch-Roemische Rechtsbuch und Hammurabi. 1905.
Chilperic Edwards, The Oldest Laws in the World. 1906.
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右に挙げた書名に依って見ても、一九〇三年に出来たものが最も多いことが分る。なおこの他にも諸国の学者の研究の結果がその後ち沢山公にせられたことであろうと思う。
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四三 ゴルチーンの石壁法
一 発見の前駆
ギリシアのクレート島はヨーロッパにおいて最も古く法制の備った所として有名である。ゴルチーンは、クノッセ、ソクトースと相並んで同島の三大都府の一と称せられた市府であって、古代は貴族政治が行われておって、一定の貴族が交代して政《まつりごと》を行い、立法権は市民議会に属し、司法権は同島を数個の裁判区に分って単独判事がこれを行っておったものである。
一八六三年、フランスのトノン氏(L'abbe Thenon)[#「L'abbe」の「e」はアクサン(´)付き]は、このクレート島において古文を彫刻してある一個の石片を獲たが、氏はその文を「考古学雑誌」(Revue archeologique)[#「arche-」の「e」はアクサン(´)付き]に掲載してこれを学界に紹介した。この石片は後ちにルーブル博物館に陳列せられたが、これに刻んである文辞は、断片的ではあるけれども、養子に関する法律の規定であって、多分有名なるゴルチーン法の一部であろうとの考証を与えられた。
しかるにこの後ち十七年を経て、アウッスーリエー氏(Haussoulier)もまた二個の石片を発見して、これを「ブュルタン・ド・コルルスポンダンス・エレニーク」(Bulletin de correspondance hellenique)[#「helle-」の2番目の「e」はアクサン(´)付き]誌上において公表した。この二片は甚だしく毀損しているが、その一片には婚約に関する規定を記し、他の一片は殆んど全部難読であるけれども、前後の関係から推せば、これには女戸主の財産に関する規定を記しているものらしく考えられる。
この前後二回の発見は、あたかもペルシアでアッスルバニパル王の図書館の遺跡を発掘した際に発見した石片が、ハムムラビ法典発見の先駆となった如くに、その後ち学者は必ずやどこかにおいてこの法律の全部を発見することが出来るに違いないとの希望を抱くようになった。
二 壁法の発見
一八八四年の夏、クレート島のハギオイ・デカ(Hagioi Deka)なるゴルチーン市の古址においてレートホイズ河から引いた水車溝の中に、偶然にも古文字の彫刻してある壁石が現われた。その石は大なる石壁の一部であるように見えたが、水車の持主のマノリス・エリヤキス(Manolis Eliakis)が、この由をフレデリコ・ハルブヘール博士(Dr. Frederico Halbherr)に話すと、博士は非常に悦んで、直ちにその壁の発掘およびその古文字の謄写に着手し、秋に至ってエルンスト・ファブリチウス博士(Dr. Ernst Fabricius)の協力を得て、竟《つい》にその石壁の全部の発掘を終り、また石壁に彫刻せられている法文の謄写を完了するに至った。しかのみならず、さきに発掘せられた数個の石片は、実にこの石壁の破片であって、トノンの発見した石片の文は、その法律の第五十八条乃至第六十条であり、アウッスーリエーの発見した二片は、第三十九条と第四十八条であるということが分ることとなった。しかしながら、この石壁中にはなお数個の石片の欠失しているものがある。それは、多分さきに水車溝を掘った時に取り除いて、その後に失われたものであろう。この欠損あるがために、法文の全部を回復することの出来ぬのは残念なことである。
この石壁法の法文を先ず世に公にした者はファブリチウス博士である。氏は「アテネ、ドイツ考古学雑誌記事」(Mitteilungen des deutschen archaologischen[二つ目の「a」はウムラウト(¨)付き] Instituts zu Athen.)にその法文を掲載したが、これに亜《つ》いでイタリヤのドメニコ・コムパレッチ教授(Prof. Domenico Comparetti)もまたハルブヘールおよびファブリチウス両氏と協議の上イタリヤにおいてこれを公にした。かくして、この石壁法は、爾来欧洲諸国の学者の研究の好題目となったが、ことにドイツにおいてはこれに関する有名な著書も多く現われた。その考証の結果は多少の異同はあるが、諸説の一致するところに依って、この石壁法の大体を述べてみれば、次の如きものである。
三 石壁法
発掘された石壁は、元《も》と直径三十三メートルばかりあった円形の大建築物の周囲壁であって、その内面に法文が牛歩状(bustrophedon)に彫り付けてあるのである。牛歩状とは右端より始めて横線に左へ走り、左端で旋回して右に進み、右端でまた旋回して左へ進む書き方をいうのであって(ダレストは左より右へ進むのであると言うておる。)(Dareste, La Loi de Gortyne)、あたかも牛が田の畦《あぜ》を鋤《す》くときの歩みのように書くことをいい、よほど古い書き方であるということである。
この彫刻の高さは一メートル七十二サンチで、ちょうど通常人が立って読むに都合のよい位であり、横幅は全体で九メートルばかりである。法文は壁石の合せ目にかかわらず彫刻してあって、全部を十二の縦欄に分ち、各欄毎に五十三乃至五十五行を刻し、各行毎に二十字乃至二十五字があって、文字には赤色の色彩を入れて明白に読めるようにしてある。
右の円館(Tholos)は他の大建築物の一部であったもののようであるが、その北側にも石壁に法律を彫り附けてあるものがある。しかしこれは後で建てたものらしい。当時は法律を銅板に彫り附けて公布する例があったが、この円館は裁判所であったから、その壁に法律を彫り附けてこれを公示してあったものである。
ゴルチーンの石壁法は、前にも言うた通り十二欄に分ってあるから、往々これを「ゴルチーン十二表法」と号する学者もある。この石壁法は一個の法典の如きものであるけれども、国法の全部または一種類の法律の全部を含んでいるものではない。この法律の内容は私法的規定であって、ことに親族法、相続法および奴隷法に関するものが多い。故に純刑法その他公法的規定が全く掲げられておらぬばかりでなく、私法さえもその一部に限られている。これは多分この法律が裁判所の壁法であるから、その裁判所の管轄に属している事件、即ちこの場合においては人事法だけを規定したものであろうということである。
かくの如く、石壁法は私法の一部だけを掲げたものであって、その他の部分は旧法をそのままに存したものであり、またこの石壁法中にも、旧法をそのままに成文法にしたものと、旧法を改めたものとがあることは、法文中にも現われている。
なおゴルチーン石壁法について悉《くわ》しく知ろうと思う者は、次の書に就いて読むがよかろう。
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Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き] und Zitelmann, Das Recht von Gortyn.
Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernhoft[「o」はウムラウト(¨)付き], Die Inschrift von Gortyn.
Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
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国際法の名称は西洋でも多くの沿革があって、始めは万民法(jus gentium)と混ぜられ、または自然法(jus naturale)の一部として論ぜられ、グローチゥスの「平戦法規論」が出た後ちまでもこの種類の法規に対する独立の名称はなかったのであるが、一六五○年にオクスフォールド大学教授のザウチ(Zouch)博士が jus inter gentes(国民間法)なる名称を附してから特別の名称が出来、仏国においても一七五七年にダゲッソー(D'Aguesseau)が Droit entre les nations または Droit entre les gens(国民間法)なる名称を用い、一七八九年にベンサムが International law なる新語を鋳造し、その後ち一般にこの語またはその訳語が行われるようになったのである。ドイツでは Internationales Recht なる訳語を用うることもあるが、通常は Voelkerrecht なる語を用いている。この語は何人が造ったのであるかは確かに知らぬが、あるいは一八二一年のクリューベルの「ヨーロッパ国際法」(Klueber, Europaisches[「a」はウムラウト(¨)付き] Voelkerrecht)などが最も古い例の一つではないかと思う。
我邦では始めは「万国公法」という名称が一般に行われた。これは米人|丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2-92-15、182-2]良《ウィリヤム・マーチン》(William Martin)がホウィートンの著書を支那語に翻訳してこれを「万国公法」と題し、同治三年(我元治元年)に出版したのに始まったのである。この書は翌慶応元年に東京大学の祖校なる開成所で翻刻出版せられたが、これまで鎖国独棲しておった我国民は、始めて各国の交通にも条規のあることを知ったのであるから、識者は争うてこの書を読むが如き有様であった。故にこの書は最も広く行われ、この書を註釈しまたは和訳した「和訳万国公法」「万国公法訳義」などの書も広く行われ、また開成所でも丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2-92-15、182-8]良の「万国公法」を翻刻したのであった。この翌年即ち慶応二年に、同校教授西周助(周)先生がヒツセリングの講義を訳して出版されたが、これも「万国公法」と題せられた。
かくの如く、初め支那において丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2-92-15、182-11]良が始めてホウィートンのインターナショナル・ローを「万国公法」と訳したのが本《もと》で、この名称は広く我邦にも行われるようになったのであるが、その後ち彼国においてはかえって単に「公法」と称するようになったのである。丁[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2-92-15、182-13]良が光緒三年(明治十年)にウールジー(Woolsey)のインターナショナル・ローを訳述した時には、さきに用いた「万国公法」なる名称を棄てて「公法便覧」と題し、書中にも「万国公法」なる語を用いずして総べて「公法」と称している。これは多分後に述べる如く我東京開成学校で「万国」の字を避けたと同一の理由で、ウールジーの書中にインターナショナル・ローは耶蘇教国間の通法であって万国共通の法ではないと書いてあるからであろう。訳文にも[#以下の「」内の、「レ一二」は返り点]「若レ謂二之万国公法一、尚未レ見二万国允従一」といい、また「現有之公法、則多出レ於二泰西奉レ教之国、相待而互認之例一」などあり、支那にもまだインターナショナル・ローは行われておらぬから、万国の語を用いなかったのではないかと思われる。その後ち光緒六年(明治十三年)に、同氏がブルンチュリーの Das moderne Voelkerrecht als Rechtsbuch を漢訳したときもこれを「公法会通」と題した。
明治二年出版の「外国交際公法」という書があるが、これは福地源一郎氏がマルテンスの「外交案内」(R. Martens, Diplomatic Guide)を訳したものであるから、この書の題を国際法の名称と見ることは出来ぬ。また明治三年二月に発布された「大学規則」および同年閏十月に定められたる「大学南校規則」にも「万国公法」とあるが、明治七年に東京帝国大学の祖校なる東京開成学校において法学の専門教育を始められた時の規則には「列国交際法」となっておる。当時我邦に舶来しておった国際法の書は殆どホウィートンとウールジーの二書に限っておったが、ウールジーの書は簡明な教科書であって、比較的に多く読まれ、しかもその始めにおいてインターナショナル・ローは耶蘇教以外に行われぬと書いてあるから「万国」の字を避け、これに代うるに「列国」をもってしたのであるとの事であった。それより東京開成学校が東京大学となった後ちも、やはり「列国交際法」となっておったが、明治十四年に学科改正を行うた時から「国際法」の語を用いるようにしたのである。
しからば「国際法」なる名称の創定者は何人《なんぴと》であるかというと、それは実に箕作麟祥博士である。博士は明治六年にウールジーのインターナショナル・ローを訳述せられたが、これを「国際法」と題された。その例言中に、「万国公法」なる名称は、丁[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2-92-15、184-11]良氏、西氏らの書行われて、「其名広ク世ニ伝布シテ恰《あたか》モ此書普通ノ称タルガ如シ、然レドモ仔細ニ原名ヲ考フル時ハ国際法ノ字|允当《いんとう》ナルニ近キガ故ニ、今改メテ国際法ト名ヅク」といい、なお先輩の命題を空《むなし》うせざらんがために「万国公法」の字を存してこの書の一名とする旨を附記せられたのである。博士の謙遜もさる事ながら、「国際」の語は最もインターナショナルの原語に適当しているから、その創案後殆ど十年の後ち、大学においても学科の公称としてこれを採用することとし、竟《つい》に一般に行わるるに至ったのである。この点においては箕作博士は我邦のベンサムである。
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経済学は、慶応三年四月に神田|孝平《たかひら》氏の訳述せられた「経済小学」という本があるが、これは英人イリスの「ポリチカル・エコノミー」を蘭書より重訳したものである。この後ち明治三年二月に定められた大学規則、および同年閏十月の大学南校規則には「利用厚生学」という名称が用いられている。
明治の初年にはウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland's Political Economy)が一般に行われ、その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあるので、一時「富学」という語を用いた人もあったが、これではいささか金儲けの学問と聞える弊《へい》があるとて、広くは行われず、異論はありながらも、やはり「経済学」と言うておったのである。
その後ちこの名称が久しく行われておったが、「経済」という語は、経国済民から出ておって、太宰春台の「経済録」などが適当の用法であることは勿論であるから、明治十四年の東京大学の規則には「理財学」と改められた。これはけだし「周易」の伝に[#以下の「」内の「レ一二」は返り点]「何以聚レ人、曰財、理レ財正レ辞、禁二民為一レ非、曰義」あるに拠ったものであろう。
しかしながら、字義の穿鑿《せんさく》はとにかく、世間では経済学という語は、神田氏以来久しく行われて、既に慣用語となっているし、原語の「ポリチカル・エコノミー」とても、本来充分にその意義を表している訳ではないから、やはり「経済学」という名称に復するのが好いという論が、金井・和田垣両教授などから出て、そこで明治二十六年九月の帝国大学法科大学の学科改正の時から、再び経済学という名称に復したのである。
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「法学協会雑誌」の初めて発行されたのは明治十七年の三月であるが、我輩はその第一号から引続いて「法律五大族の説」と題する論文を掲載した。この論文は自分が研究した結果を出したつもりであったが、間もなく「あれは西洋の何という学者の説ですか」との質問を諸方から受けたので、「あれは全く自分の説である」と言うても、なかなか信じてくれない。中にはその原書を見附けたなど言う人もあったそうだ。またこの分類を泰西の学者の説として引用する者もあり、その他当時我輩の説を引いて「西哲曰ク」などと言った者さえもあったので、我輩が戯れに「今後西哲タルノ光栄ヲ固辞セントス」などと書いた事もあった。
かような事は、今日からこれを観れば、まことに可笑《おか》しい事柄ではあるが、当時の我邦の学問界の有様では、これは決して怪しむに足らぬ事であったのである。我国人は維新以後始めて翻訳書に依って西洋の法律の事を知ったのであるが、法学教育としては、明治五年に司法省の明法寮《みょうほうりょう》で初めて法学教育を開始し、同七年に東京開成学校で法律科を置いたのであった。その後ちまだ僅に十年位しか立たない当時の事であって、当時東京大学でも、我輩もまだ英語で法律の講義をしておった時分で、いわば当時はまだ泰西法学の輪入の初期であったのであるから、我輩の言うこと書くことはことごとく西洋の学者の説の紹介であると思うのも、素《もと》より無理ならぬ事であるのみならず、また実際これが当時通常で且つ必要であったのである。
その後ち、我輩はまた比較法学研究法の便宜のために、なお法族説を完成しようと思うて、「法系」なる語を作り、同時に法律継受の系統を示すために「母法」および「子法」の語をも作って、法学通論および法理学の講義にはこれを用いた。これらの語も素より西洋の法律学語の翻訳であると思うている人が、今でも随分多いということである。
しかるに、これらの説を発表してから二十年も過ぎて後ち、明治三十七年に、アメリカのセント・ルイ世界博覧会の万国学芸大会から比較法学の講演者として招待せられた時、同会の比較法学部において、我輩は比較法学の新研究法として法系別比較法を採用すべきことを提議した。従来泰西の比較法学者の間には、国を比較の単位とするもの、即ち国別比較法と、人種を比較の単位とするもの、即ち人種別比較法との、二種の研究方法が行われておったのであるが、人類の交通が進むに従い、一国の法が他国に継受され、これに因って甲国の法と乙国の法との間に親族の如き関係(Kinship)が生ずるから、我輩はこれらの関係を示すために「母法(“Parental law”or“Mother law”)「子法(“Filial law”)なる新語を用い、またその系統を示すために「法系」(“Legal genealogy”)なる語を用い、法系に依りて諸国の法を「法族」(“Families of law”)に分つことを得べく、そしてその研究方法は「法系別研究法」(“Genealogical method”)と称すべしと提議したのである。その事はローヂャース博士の「万国学芸会議報告」第二巻(Howard J. Rogers, Congress of Arts and Science. vol. II[#「II」はローマ数字の2], pp. 376-378, 1906, Boston and New York, Houghton, Mifflin & Co. The University Press, Cambridge.)および拙著英文「日本新民法論」(The New Japanese Civil Code, pp. 29-35. 2nd ed.)中にも載せてある。後に聞くところに拠れば、ドイツには我輩より先に「母法」「子法」に相当する語を用いた者があるとの事であるが、通用の学語としては行われておらなかった。
また我輩が拙著「隠居論」の始めに隠居の起原を論じて、「隠居俗は食老俗、殺老俗、棄老俗とその社会的系統を同じうし、これらの蛮俗が進化変遷して竟に老人退隠の習俗を生ぜり」と述べたが、この説もその根本思想をドイツのヤコブ・グリムの説に得たものだという人がある。我輩はドイツでは老人を棄てる習俗が後世退隠俗を生じたというグリムの「ドイツ法律故事彙」中の記事を引用して、自説の支証とするつもりであったが、これもまた舶来説と思われたと見える。
これらの事は、我邦の学問は古来外国から輪入せられたもので、漢学時代においては支那の学者は特別にえらいものと思い、支那の故事を知り支那の学説を知るのが即ち学問であると考え、西洋の学問が渡ってからはまだ日も浅く、新学問においては彼は先進者であるから、万事彼の説に拠り、彼の説に倣うという有様であった結果に過ぎないのである。故に新学問の初期即ち明治二十年代位に至るまでは、西洋人の説とさえいえば、無暗《むやみ》にこれを有難がったものであった。例えば伊藤公が憲法取調のために洋行し、スタイン博士に諮詢《しじゅん》された以後数年間は、スタインが流行者で、同氏の説だと言えば当時の老大官連は直ちに感服したものであった。当時の川柳に「スタイン(石)で固い頭を敲《たた》き破《わ》り」というのがあった。舶来品といえば信用がある時代は、学問界においては残念ながらまだ全く脱してはいない。
我輩の友人に時計製作の大工場を持っている人がある。その工場で出来る時計は頗る精巧な物で、いわゆる舶来品に劣らぬものであるが、その製造品には社名が記し付けてない。我輩がその理由を尋ねると、その工場主は嘆息して「自分の社の名を出したいのは山々であるが、和製は即ち劣等品との世間の誤解が未だ去らぬため、銘を打てばあるいは劣等品と思われて売価が低落し、もしまた優等品と認められても、これは偽銘を打って売出すのではないかと疑われる恐があるので、世間に真価を認められるまで、遺憾ながら無銘にして置きます」と言われた。
また本年四月、我輩の故郷なる伊予の宇和島にて、旧藩主伊達家の就封三百年記念として、藩祖を祀った鶴島神社の大祭が行われたが、その時旧城の天主閣において、伊達家の重器展覧会が開かれた。その折り場内に陳列されたものの中に、旧幕時代に佐竹家より伊達家に嫁せられたその夫人の嫁入道具一切が陳列されてあったが、大小数百点の器物は、ことごとく皆精巧を極めたる同じ模様の金蒔絵であって、色彩|燦爛《さんらん》殆んど目を奪うばかりであった。多数の観覧人の中に、村落から出て来たと見える青年の一団があったが、その中の一人賢こげに同輩を顧みて曰く、「これはまことに見事な物じゃ。こんな物はとても日本で出来るはずはない。舶来であろう。」
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六四 グローチゥス夫人マリア
フーゴー・グローチゥス(Hugo Grotius)は、国際法の鼻祖であって、その著「平戦法規論」(De jure belli ac pacis)は国際法の源泉であることは、人の好く知るところである。
しかしながら、近世の文明世界が、国際法の基礎的経典とも称すべきこの「平戦法規論」という大文字の恩賚《おんらい》を受けて、永くその恵沢に浴することが出来るのは、全くグローチゥス夫人マリア(Maria)の賜物と言わざるを得ない。
フーゴー・グローチゥスはオランダの人で、一五八三年に生れた。幼時から穎悟《えいご》絶倫、神童と称せられ、九歳の時ラテン話で詩を作って、人々を驚嘆せしめ、十一歳にしてレイデン大学に入り、十五歳のとき既に書を著した。この年オランダの公使に伴われてフランスに赴いたが、国王アンリー第四世は、この少年の非凡なる天才を激賞して、黄金の頸飾をこれに授けて、「ここにオランダの奇蹟あり」(Voila le Miracle de la Holland!)と言われた事さえあった。十六歳のとき法学博士の学位を得、十七歳のとき弁護士となって、その得意の雄弁を法廷に振い、その名声は已に広く国内に喧伝した。二十歳を数えたとき、オランダ政府の国史編纂官に挙用され、二十四歳のとき、遂に検事総長の高官に任ぜられたが、かように迅速な立身はオランダにおいては前代未聞であると言いはやされたのである。
一六○八年、マリア・ファン・レイゲスベルグ嬢(Maria van Reigesberg)と結婚して、一家をなすこととなったが、前にも一言した如く、氏がこの好配偶を得たのは、実に国際法の起源史に重大なる関係を有する事になったのである。
一六一三年、氏はオランダ政府の命令を蒙って英国に使したが、その後ち帰国してみると、当時オランダにては、アルメニアン教徒とゴマリスト教徒との紛争激烈を極め、ために国内甚だ混乱の状態であった。
本来グローチゥスはアルメニアン派に属しておったが、当時オランダ総督たりしモーリス公は、ゴマリスト党に与《くみ》して、兵力をもって憲法を破毀し(Coup d' etat[#「etat」の「e」はアクサン(´)付き])、グローチゥスら反対派の人々を捕えて獄舎に下し、グローチゥスの財産は、ことごとくこれを没収して、氏をば終身禁錮の刑に処し、ゴルクム町より程遠からぬローフェスタイン城に幽閉してしまった。その幽閉中は、政府は食料として毎日僅に二十四スー(我四十五銭六厘ほど)を給与するに過ぎなかったが、氏の夫人マリアは、その夫が、自己の政敵にして且つ迫害者たる総督政府から供給を受けることを屑《いさぎよ》しとせずして、自らこれを差入れることとした。
グローチゥスの監禁は、始めの間は甚だ厳重であったから、その父といえども面会を許されなかったが、その後マリア夫人が面会を懇請するようになったとき、典獄は夫人に対《むか》って、もし一度び獄内に入るときは、再び外に出ることが出来ず、また一度び獄舎を出るときは再び帰獄することが出来ない。汝は夫と倶《とも》に一生を獄中で送ることを厭わぬかと聞いた。マリア夫人は、少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、直ちに右の条件を承諾し、自ら進んで囹圄《れいご》の人となり、それより我夫とともに、甘んじて一生涯を鉄窓の下に呻吟《しんぎん》しようとしたのであった。
当時グローチゥスは三十六歳であったが、終身禁錮の刑に処せられても、少しも失望することなく、その身は獄舎の中にありながらも、夫人マリアの慰藉と奨励とを受けつつ、一意専心思いを著述に潜めておった。かくて後には、典獄の許可を得て、ゴルクムなる友人たちに依頼して、一週に一度ずつ書籍を櫃《ひつ》に入れて交換出納し、また衣類などを洗濯のために送り出すことも許されるようになった。
夫人マリアが、その夫と獄中生活を共にするようになってから、もはや一年有半を経過した。その間、両人は、絶えず脱走の機会の到来するのを窺うておった。夫妻両人の毎週送り出す櫃は、何時も何時も獄吏どもには何らの興味をも与えない古本や、汚れた衣類ばかりであったので、歳月を経るに従って、これらの検査も次第に緩《ゆる》やかになって、終には櫃の蓋を開くことさえもせずに、これを通過させるようになった。
マリア夫人が、一日千秋の思いをして待っていた逃走の機会は、今や次第に近づいて来た。夫人はその機会のいよいよ熟したのを見て、夫に勧めて冒険なる脱獄を企てたのである。その方法として、夫人は監守兵の怠惰に乗じて、その夫を櫃の中に隠匿《いんとく》して、これを救い出すという画策を案出したのであるが、これを実行するのは、種々の困難と、多大の危険とが伴うことは言を俟《ま》たないことであるから、熟考の上にも熟考を要する次第で、軽々しく手を下すことが出来なかった。たとい平素は監守の任にある将卒の注意が緩んでいるとしても、もし一兵卒が櫃を怪しんだり、あるいは好奇心から偶然にもその蓋を開けて見るような事でもあるならば、折角の千辛万苦も、一朝水泡に帰して万事休するに至るは明瞭な事柄である。しかのみならず、その櫃は長さ僅に三尺五寸ばかりで、辛うじて身を容れるに過ぎないものである。故にローフェスタイン城からゴルクム町に達するまで、グローチゥスは窮屈なる位置姿勢で忍ばねばならず、もしまた運送の人夫が倒様《さかさま》に櫃を置いたり、あるいは投げ出しでもしたなら、それこそ大変、生命の危険にも立ち及ぶ虞《おそ》れがある。なおまた櫃の蓋を密閉するときは、窒息の禍を招かぬとも限らないのであった。
かような仕儀《しぎ》であるから、マリア夫人は種々苦心熟慮の末、かつて雇傭してその心を知り抜いている忠僕と忠婢に、予《あらかじ》め密計を語って、城外にてその櫃を受け取り、直ちにこれをゴルクム町の友人の家に護送する事を依頼した。またその櫃には小さい孔を穿《あ》けて、空気の流通を自由にし、しばしばグローチゥスをこれに入れて試験を行い、それからひたすら、好機会の到来を侍っておった。
偶《たまた》ま典獄なる司令官が公務のために他所へ旅行した事が分った。これこそ天の与えた好機会と、その不在中にマリア夫人は、夫グローチゥスが伝染病に罹ったと称して、監守兵らが両人の監房に出入するのを遠ざけ、且つ司令官の妻を訪問して、自分の夫は近頃病気に罹ったために、読書著述が出来なくなったから、一先ず書籍をゴルクム町へ送り返すことを乞うという趣を語って、その承諾を得、直ちに獄舎に帰り、予定通りに例の櫃の中にその夫を潜ませて、二人の監守兵をしてこれを運び出させようとした。しかるに、監守兵の一人はその櫃の平常よりも重いのを訝《いぶか》って、
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この中にはアルメニアン教徒が這入っているのではないか。
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と言った。これ実に発覚の危機、間髪を入れない刹那であった。この時に当り、もしマリアの機智胆略がなかったなら、文明世界が国際法の発達を観ることなお数十年の後になったかも知れぬ。マリア夫人は声色共に自若、微笑を含んで、
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さよう、アルメニアン教徒の書籍が這入っているのです。
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と答えた。それで兵卒らも終《つい》に蓋を開くことをせず、そのまま櫃を城門外に運び出した。
忠僕某は、マリア夫人の兼ねての命令の通りに、城外で櫃を受け取り、直ちにこれを船に乗せて、運河の便を借りて、ゴルクム町に運送しようという考案で、船頭に対《むか》って充分の注意を与え、櫃を倒置したり、投げ出したりすることを禁じて、丁寧にこれを取扱わしめた。やがてゴルクム町に到着したが、その時船頭は、その櫃を橇車《そり》に乗せて、行先へ送ろうとしたのを、かねてよりそこへ来て待ち設けていた忠婢某が出て来て、その中には破損しやすい物が這入っているのだから、自分が受け取って行くといって、櫃をば担架《たんか》に乗せて、それを夫人に命ぜられたグローチゥスの友人ダビット・ダヅレールの宅へ送り届けたのである。
自由を得たグローチゥスは、直ちに煉瓦職工に変装して、一|梃《ちょう》の鏝《こて》を持って逃走し、アントウェルプ府に赴き、それから国境を越えようとする時に、一書をオランダ議会に送って、その冤《えん》を訴えて脱獄の理由を弁明し、且つ自分は祖国より迫害されたけれども、祖国を愛するの心情は、これに依って毫末も影響せられないという事を陳述した。
グローチゥスは国境を越えて仏国に走り、翌月その首府パリーに到着した。これ実に一六二一年四月の事である。
慧智なる夫人マリアは、夫の脱獄後もなお獄中に留っておって、自分の夫は激烈なる伝染病に罹っていると偽って、監守兵の室内に入り来るを避け、かくして一瞬間でも発覚の時機を延ばすようにと苦心したが、夫が脱獄してから、已《すで》に多くの時日を経過し、最早や国境を越えたのであろうと思われる頃、始めて典獄に自首して、夫を脱走させた罪科を乞うた。典獄は、マリアを質として禁錮し、もしマリア夫人を夫の代りに何時までも獄に繋《つな》いで置いたならば、グローチゥスは必ず情に牽《ひ》かされて、帰獄するに違いないと思っていたが、数月の後ち、オランダ議会は、マリア夫人の貞操を義なりとして、遂にこれを放免することとなった。夫人は出獄すると直ぐ夫の後を追うてパリーの謫居《たくきょ》に赴き、再び窮乏艱苦の間に夫を慰めて、その著書の完成を奨励したのである。
当時、仏王ルイ第十三世は、グローチゥスの不遇を憐んで、年金三千フランを授ける事に定められたけれども、国庫はその支払をしてくれなかった。故にグローチゥス夫婦は、故郷の親戚より送ってくれる僅かの金員、衣服、食品などに依って、ようやくに日々の生活を支え、その困苦欠乏は決して少なくはなかったのであるが、グローチゥス夫婦は、毫もこれがためにその志を屈することなく、互に励み励まされてその著述を継続したのであった。
その後グローチゥスの大才は、漸く世人の認めるところとなり、宰相ダリヂールの奏請に依って年金の一部を支給せられることとなり、またジャック・ド・メームはその居城の一部を貸してこれに住ましめ、ド・ツーは、その書庫の使用を許してくれたので、その著述はますます進捗《しんちょく》し、遂に一六二五年に至って、二十年前より企てていた「平戦法規論」(De Jure Belli ac Pacis)の大著述は公刊せられることになったのである。
嗚呼、グローチゥスにして、もしこれを助くるに夫人マリアの貞操義烈をもってしなかったならば、可惜《あたら》非凡の天才も空しく獄裡の骨となりおわり、明教を垂れて万世を益することが出来なかったかも知れないのである。
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六五 ジョン・オースチン夫人サラー
ジョン・オースチン(John Austin)は分析法理学の始祖であって、今日に至るもなおイギリス派の法律学者の思想を支配している大家なることは、世人の熟知しているところである。
しかるに、その名著「法理学講義」(Lectures on Jurisprudence)は、氏の歿後に未亡人サラー(Sarah)が千辛万苦の結果出版したものであって、今もなお法学界にこの大著述が儼存して、吾人を裨益しているのは、偏《ひとえ》に夫人サラーの賜物といわなければならない。
オースチン夫人サラーは、一七九三年、英国ノリッチ(Norwich)州の名家ティロー家に生れた。資性温順の上に、天成の麗質であったが、厳粛なる家庭教育の下に人となり、ことに古文学および近世語に熟達しておった。一八二○年、当時弁護士であったジョン・オースチンに嫁してより後は、専ら家事にその心を尽したが、暇があれば、かねて好める古典や独仏語で書いてある有名な歴史詩文などを、翻訳することに従事しておった。故に、夫人の手になれる名高き著書もまた数種あったのである。
しかしながらサラー夫人の功績にして、最も広大に人類を裨益したものは、いうまでもなく、その夫オースチンの遺稿を整理編輯してこれを公にした一事である。
一八六七年八月十二日のタイムス新聞は、その紙上に夫人サラーの死亡を記すと同時に、その伝記を掲載して、その末尾に、「夫人がその齢|已《すで》に高く、しかも病苦と戦いながら、この法理学上の大産物を公刊したのは、吾人が夫人に対して深厚なる感謝を捧げざるを得ないところである。この挙たるや、真にサラー夫人が、その夫のために最も高貴なる記念碑を建立したものと言わねばならぬ」と記している。
この賢夫人サラーの生涯は、実に一立志伝である。しかのみならず、その夫の遺著に題した序文は、絶代の名文と称せられているものであって、我輩はこれを読むたびにひたすら感涙を催すのである。我輩は毎年大学における法理学の講壇にてオースチンの学説に説きおよび、この夫人サラーの功績を語る時には、毎《つね》にこの序文をもって、かの諸葛孔明の「出師表《すいしのひょう》」に比するのである。古人は、「出師表」を読んで泣かざる者は忠臣にあらずといったが、我輩はサラー夫人のこの序文を一読して感涙に咽《むせ》ばない人は、真の学者ではないと評したほどであった。故に、以下少しくこの貞操なる賢婦人の性行事業について、話してみようと思う。
サラー夫人はオースチンに嫁して後《の》ち、夫とともに居を首府ロンドンに移し、クヰーンス・スクェアー(Queen's Square)と称する町に寓しておったが、偶然かあるいは故意にか、その住宅は、かの有名なるベンサム(Bentham)およびゼームス・ミル(James Mill)両大家と軒を並べていたのであった。随ってオースチン夫妻は、この二|碩学《せきがく》およびゼームス・ミルの子なるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)らと親しく往来して、交を結んだ。オースチンおよびその夫人が、後年ベンサムの実利主義(Utilitarianism)をもって、その法理学の根底としたのも、その基づくところは、あるいはこの時の親密なる交際にあったかも知れないのである。その他当時いやしくも英国の大学者と称せられた者で、サラー夫人の才学を慕って、その家を訪ずれ、その客とならなかった人は稀であったということである。タイムス紙はこの事を記して、サラー夫人は当時有名なる文学者であったけれども、その性質は極めて貞淑恭謙で、自ら進んで名を求めるような事は一切これを避け、且つまた夫人の家は富裕でなかったから、その客室の什器の如きも、甚だ質素であって、室内に装飾と称し得るような物は、絶えてなかった。しかしながら夫人サラーの客間には、ロンドン府の如何なる貴顕富豪といえども、これを集めることの出来ない当世の大学者が常に会合していたのである。トーマス・カーライルなどもその中の一人であった。このような偉大にして且つ壮麗極りなき装飾を有している客間は、外になかったと言うておる。一夫人が名を求めずして、しかもタイムス紙の言うように、当時英国の大学者がことごとくここに集合するようになったのは、いわゆる「桃李|不レ言《ものいわず》、下自為レ蹊《しもおのずからけいをなす》」[#「」内の「レ」は返り点]である。
一八二六年、ロンドン大学が創立され、初めて法理学の講座が設けられることになった時、篤学なるオースチンは、聘せられてその講座を担任することとなった。しかし氏は極めて慎重な研究者であったから、その講義を始める前に、予めドイツの諸大学の法学教授法を調査しようと思い立って、夫人とともにドイツへ赴いた。しかるにドイツにおいても、サラー夫人の名は、ランケの「ローマ法王伝」や、ファルクの「ゲーテ人物論」やなどの、種々なる独逸書の翻訳によって、既に世界に喧伝されておったのである。この一事は、オースチンが、自分の取調をする上に、非常な便宜を与える事となって、ボン市においては史家ニーブル(Niebuhr)、文学者シュレーゲル(Schlegel)とか、哲学史家ブランヂス(Brandis)とか、愛国詩人アルント(Arndt)とか、考古学者ウェルケル(Welcker)とか、ローマ法学者マッケルデイ(Mackeldey)とか、国際法学者ヘフテルとか、その他当時ドイツにおける碩学と交を結ぶことが出来た。また調査その事についても、夫人の援助は莫大なるものであった。かくて、オースチン夫妻はドイツに逗留して、その法律研究法や教授法などの取調を行うこと一年余の後ちロンドンに帰り、オースチンはいよいよロンドン大学の講壇に立って、その多年|蘊蓄《うんちく》した学力を示すこととなった。
しかるに、初めの間は、満堂の聴講生があったけれども、その講義は、現今吾人が氏の著書に依っても知ることが出来るように、甚だ周密であって、普通の学生には、むしろ精細に過ぎるほどであったので、彼らはオースチンの講ずる卓越せる学理を到底|咀嚼《そしゃく》了解することが出来なかったために、聴講者は一人減り二人減り、講義が進行するに随って、その教室は漸々|寂寞《せきばく》を感ずるようになり、後には僅にその前列の机に、十人内外の熱心なる聴講生を遺すに過ぎないという有様になってしまったのである。しかしながら、これはいわゆる「大声不レ入二|俚耳《りじ》一」[#「」内の「レ一二」は返り点]で、通常の学生はオースチンの大才の真味を咀嚼することが出来なかったのであって、終局まで聴講した人々は、いずれも皆後年世界にその名を轟かした学者となった。いわゆる、偉人にあらずんば偉人を知ること能わずで、彼のジョン・スチュアート・ミルの如きは実に終局まで聴講した一人であった。
さて、前に述べたサラー夫人の序文は、その亡夫オースチンの性行を叙述し、その思想の高潔であったこと、その蘊蓄の深遠であったこと、その学を好む志の篤かったことなどを、情愛の涙を以て記載し且つその遺稿を公刊するに至った順序をも併せ記したものである。高潔婉麗の筆、高雅端壮の文、情義兼ね至り、読者をして或は粛然|襟《えり》を正さしめ、或は同情の涙を催さしめ、また或は一読三歎、案《つくえ》を打って快哉《かいさい》を叫ばしむるところもある。
今その一、二の例を挙《あ》げてみると、夫人サラーは、その夫が非凡の大才を抱きながら、生涯を貧困の中に終り、また高貴の地位をも得ることが出来なかったことを記すに際して、かかる事柄を記載するのは、決して世間に対しまたは夫に対して、不満の情を叙《の》べるのではないという事を明らかにするために、自分は、夫の学識は、世俗の尊重する冠冕《かんべん》爵位にも優って、なお偉大な物であると信じているという意見を仄《ほの》めかしている。
夫人はまたさきにオースチンが夫人に結婚を申し込んだ時の手紙の中には、氏は世の高貴なる栄達を希《ねが》わないという意を明瞭に記してあったのを、自分は承知して結婚を諾したのであって見れば、今に至って如何にしてこれに対して、不足がましき事が言えようかと記している。その文章は実に千古の名文であって、これを翻訳するよりは、むしろその原文を誦読する方が、麗瑰流暢《れいかいりゅうちょう》なる記述の真味を知ることが出来ようかと思う。依って今その一節を左に抄出する事にした。
[#ここから2字下げ]
……Even in the days when hope is most flattering, he never took a bright view of the future; nor (let me here add) did he ever attempt to excite brilliant anticipations in the person whom he invited to share that future with him. With admirable sincerity, from the very first, he made her the confidant of his forebodings. Four years before his marriage, he concluded a letter thus; ――‘ ……and may God, above all, strengthen us to bear up under those privations and disappointments with which it is but too probable we are destined to contend !’The person to whom such language as this was addressed has, therefore, as little right as she has inclination to complain of a destiny distinctly put before her and deliberately accepted. Nor has she ever been able to imagine one so consonant to her ambition, or so gratifying to her pride, as that which rendered her the sharer in his honourable poverty.”
[#ここで字下げ終わり]
また夫人が夫オースチンの遺書を出版するに至った次第を記した文章は、実に情義並び至っておって、一方においては婦女子の謙徳を現わし、他方においては凛乎《りんこ》たる貞烈の思想を示すものである。夫人は、夫オースチンが多年その心血を傾注した著作が、未だ完成するに至らずして世を去った事を悲み、先ずこれを公刊すべきや否やという問題について自己の胸中に生じ来った疑惑と煩悶とを叙述した。彼の丁寧周密、一|些事《さじ》たりとも粗略にしなかった夫の気質を熟知している夫人の胸中には、次の如き思想が往来した。学者がその生前において未だ不完全なりとして公にしなかった草稿を、その妻が出版するということは、その夫に対する敬順の義務を破るものではあるまいか。自己の余生を亡き夫の遺業の完成のために委《ゆだ》ねるは、なお在《い》ます夫に事《つか》うる如き心地がして、この上もない楽しみではあるけれども、これはあるいは我慰安を求めて夫の遺志に違《たが》うものではあるまいか。かく煩悶した結果、夫人はいっそ夫の事業を我骨とともに永久に埋めて仕舞おうとまで決心したこともあったが、しかしながら、また翻って考えてみると、かくの如き偉人の事業を湮滅《いんめつ》せしめるのは、人類に対する義務にも反するものかと思われる。夫がなお不完全なりとして公刊しなかったのは、主としてその形式体裁の未だ整わなかったためであって、その学説については牢乎《ろうこ》たる確信を持っておった事は明らかであるから、もし夫の生前において未だ広く容れられなかった学説が、その妻たる自分の尽力に依って、夫の死後に至って認められ、また後進をも益するようになったならば、彼世における夫の満足は果して幾干《いくばく》であろうぞなど、かく考え直した結果、夫人は遂に故人の友人、門弟らの勧告に同意して、その遺稿を出版することに決意したのであった。
既に出版と決した上は、次にその遺稿を整理編纂する任に当る者は何人《なんぴと》であるかの問題を決せねばならぬ。オースチンは前にも述べた通り、非常に緻密な思想家であって、物ごとに念の入り過ぎる方であったから、その草稿の如きも周密を極めたものであることは勿論、幾たびかこれを書き直してなお意に満たざりしものの如きものもあった。また毎葉に夥《おびただ》しき追加、抹消、挿入あるのみならず、或は連続を示す符号があり、或は縦横に転置の線が引いてあるなど、これを読むには殆んど迷園を辿るが如きもの極めて多く、またオースチンの癖として、自己の新理論を読者の脳中に深く刻み込もうと思う熱心の余りに、重複をも厭《いと》わず、同一事を幾度も繰り返し、或はイタリック字形を用うること多きに過ぐるなどの弊もあって、これを整理編纂するには、非常な学識と手腕とを有するは勿論、平素オースチンの思想、性癖を熟知しておった者でなくては、到底出来難い事業であった。さりとてオースチン夫人は、自身でこの事に当ることは好まなかったのである。如何に重複が多ければとて、如何にイタリックの多きがために体裁を損ずるが如く思わるればとて、夫が或る主義のためにかく為《な》したるものを、その妻としてこれを改めることは到底忍び難きことである。他日何人かこの書を出版することある場合に、この目障《めざわり》を除くことあっても、それは彼らの勝手である。彼らは自分が守らなければならぬような敬順の義務には束縛せられてはおらぬ“Future editors may, if they will, remove this eye-sore. They will not be bound by the deference which must govern me.”と言うておる。
しかるにオースチンの友人、門弟らの説はぜひその遺稿を出版すべしとの事に一致し、且つその草稿が極めて複雑であり、断片的なるところもあり、不必要なる重複もあるから、その出版者は最も深く著者の名誉を重んじ、その遺稿に対し厚き敬虔《けいけん》の念を有し、刻苦精励これに当る人でなくては、到底この事業を完成することは出来ぬという事にも一致した。そこで彼らは言葉を尽して夫人にその校正出版の事を勧めた。或時親友の一人が、断片的で且つ半ば読み難い草稿の積み累《かさ》ねてあるのを見ておったが、やがて夫人を顧みて、「これは至難の大事業であります。けれども、もしあなたがこれをなさいませんければ、永劫出来ることはありません」と言った。この一言で夫人は遂に決心したのであるが、夫人はこの事を次の如く記している。
[#ここから2字下げ]
“One of them, who spoke with the authority of a life-long friendship, said, after looking over a mass of detached and half-legible papers, ‘It will be a great and difficult labour; but if you do not do it, it will never be done.’ This decided me.”
[#ここで字下げ終わり]
夫人はいよいよこの大事業に当る決心をしてからこう思うた。この事業は勿論非常な困難な事である。しかし四十年間最も親愛なる生涯を共にし、常に夫の心より光明と真理とを得たることあたかも活ける泉を汲むが如くあった自分であるから、その心を充たしておった思想を辿る事の出来ないはずはない。情愛の心をもってこれを考うれば、不明の文字もその意の解せられぬことはあるまい。情愛の眼をもってこれを見れば、他人の読めない文字も読めないはずはあるまい。思えば長いこの年月の間、足らわぬ我身の心尽しの助力をも受けて下さったのみならず、法学上の問題などについては、常に話もし文章を読み聞かせもして下さったのである。またこれらの問題は皆常に彼君の心を充たしておった事柄であるから、聴く自分に取っても真に無限の興味があったのである。かような次第で遂に自ら心を励ましてその事に当るに至ったのであると夫人は記している。
右の叙情文は、とても適当に訳出することが出来ぬから、次に原文を抄出することとする。
[#ここから2字下げ]
“I have gathered some courage from the thought that forty years of the most intimate communion could not have left me entirely without the means of following trains of thought which constantly occupied the mind whence my own drew light and truth, as from a living fountain; of guessing at half-expressed meanings, or of deciphering words illegible to others. During all these years he had condescended to accept such small assistance as I could render; and even to read and talk to me on the subjects which engrossed his mind, and which were, for the reason, profoundly interesting to me.”[#「for the reason」はイタリック体]
[#ここで字下げ終わり]
学者の妻にして、この文を読み、同情の涙に咽《むせ》ばぬ者があろうか。
回顧すれば既に十有余年の昔となったが、明治三十八年、我輩がアメリカのハーヴァード大学を訪《おとの》うた時、同大学の法科大学の大教場に、このオースチン夫人サラーの肖像を掲げてあるのを見た。これは英国オックスフォールド大学教授マークベイ(Markby)氏の寄贈したものだということであるが、我輩はこれに対して、深厚なる敬意を表するを禁《とど》めることが出来なかった。
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六六 歴史法学比較法学の始祖ライブニッツ
ライブニッツ(Leibnitz)は博覧強記の点において古今その比を見ない人と言ってよかろう。ギボンは彼を評して「世界併呑の鴻図《こうと》を懐き偉業未だ成らずして中道にして崩じたる古代の英主の如し」といっておる。「ファウスト」に、
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Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerei, und Medicin,
Und, leider! auch Theologie,
Durchaus studiert, mit heissem Bemuhn[「u」はウムラウト(¨)付き].
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ、文字のポイント下げる]
はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
(ゲーテ作 森鴎外訳『ファウスト』岩波文庫、上、二三頁)
[#ここで字下げ終わり]
とあるように、哲学・理学・医学・神学・数学・法学など、当時いやしくも一科をなしていた学問は、何一つとしてその蘊奥《うんのう》を極めないものはなく、英王ウィリアム三世は氏を渾名《あだな》して「歩行辞書」(Walking Dictionary)といい、ドイツ、イギリス、ロシヤなどの王室は、終身年金を贈っていずれもこの碩学を優遇した。
ライブニッツは年二十歳の時、ライプチヒ大学に赴いて法学博士の学位試験を受けたいという請求をしたところが、氏が未だ未成年であるとの理由をもって大学はこれを拒絶した。氏笑って言うよう、「年齢と学識と如何なる関係があるか。」去ってアルドルフ大学に一篇の学位請求論文を提出した。題して「法学教習新論」(Methodus nova do cendae discendaeque jurisprudentiae Methodi Novae discendae docendae que Jurisprudentiae. 1667.)[#「Novae」「discendae」「docendae」および「Jurisprudentiae」のそれぞれの末尾「ae」は、「a」と「e」の合字]という。一片の小冊子に過ぎないけれども、その内容に至っては、実に法学上の一新時期を作り出すべき大議論である。第十八世紀以降の法学革命を百年以前に早くも予言したる大著述である。曰く「各国の法律には、内史・外史の別がある。歴史法学は須《すべか》らく法学中特別の一科たるべきものである」と。また曰く、
[#ここから2字下げ]
余は上帝の冥助《めいじょ》に依り、古今各国の法律を蒐集し、その法規を対照類別して、法律全図(Theatrun legale)を描き出さんことを異日に期す。
[#ここで字下げ終わり]
と。後世歴史法学の始祖といえばサヴィニー、比較法学の始祖といえばモンテスキューと誰しも言うが、この二学派の開祖たる名誉は、当《まさ》にライブニッツに冠せしむべきではあるまいか。
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六七 べンサムの崇拝
ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)がまだ十五歳の少年であった時、或日公判を傍聴して、当代の名判官マンスフィールド伯を見た。威儀堂々たる伯の風采は、あたかも英雄崇拝時代にあるベンサム少年の心を捉えて、彼は忽ち熱心なる伯の崇拝者となった。そこで、友人マーテンなるものから伯の肖像を請い受けて、壁上高く掲げ、間《ま》がな隙《ひま》がな仰ぎ視《み》ていたが、これでもなお満足出来ず、折々伯の散歩場たるケーン・ウードを徘徊《はいかい》して、その威風に接するのを楽しみとし、何時《いつ》か伯と言葉を交すべき機会もがなと、根気よく附け覘《ねら》っておった。かく日々に切なる渇仰《かつごう》の念は、竟《つい》に彼を駆って伯を頌《しょう》する詩を作ることを思い立たしめた。一気呵成、起句は先ず口を衝《つ》いて出た。
[#ここから2字下げ]
Hail, noble Mansfield, chief among the just,
The bad man's terror, and the good man's trust.
[#ここで字下げ終わり]
起し得て妙なりと手を拍って自ら喜び、更に二の句を次ごうと試みたが、どうしても出ない。出ないはずである。起句が余りに荘厳であるから、如何なる名句をもってこれに次ぐも、到底竜頭蛇尾たるを免れないのである。千思万考、推敲《すいこう》百遍、竟《つい》に一辞をも見出す能わずしてその筆を投じてしまった。
[#改ページ]
六八 筆記せざる聴講生
ブラックストーン(Blackstone)が英国空前の大法律家と称せられてその名声|嘖々《さくさく》たりし当時の事であるが、その講筵《こうえん》をオックスフォールド大学に開いた時、聴講の学生は千をもって数え、満堂|立錐《りっすい》の地なく、崇仰の感に打たれたる学生は、滔々として説き来り説き去る師の講演を、片言隻語も漏らさじと、筆を飛ばしておった。この時聴衆の中に一人の年若き学生がいた。手を拱《こまね》き、頭を垂れ、眼を閉じて睡《ねむ》れるが如く、遂にこの名講義の一言半句をも筆記せずして講堂を辞し去った。その友人がこれを怪しんで試にこれに問うて見ると、かの青年は次の如くに対《こた》えた。
[#ここから2字下げ]
余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。
[#ここで字下げ終わり]
「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の碩学《せきがく》たる未来を語ったものである。他日Fragment on Governmentを著し、ブラックストーンの陳腐説を打破して英国の法理学を一新し、出藍《しゅつらん》の誉を後世に残したベンサムは、実にこの筆記せざる聴講生その人であった。
[#改ページ]
六九 何人にも知られざる或人
ベンサムが「フラグメント・オン・ガヴァーンメント」の第一版を出した時、故《ことさ》らに匿名を用いて出版した。しかるに、今まで法律家の金科玉条と仰がれたブラックストーンの学説を縦横無尽に駁撃し、万世不易の真理とまで信ぜられていた自然法主義および天賦人権説に対《むか》って反対の第一矢を放ったる耳新しき実利主義と、この卓抜なる思想にふさわしい流麗雄渾なる行文とは、忽《たちまち》にして世人の視線を聚《あつ》め、未だ読まざるものはもって恥となし、一度読みたるものは嘖々《さくさく》その美を嘆賞し、洛陽の紙価これがために貴しという盛況を呈した。そしてこの書の名声と倶《とも》に高まったものは、そもそもこの無名の論客は果して何人《なんぴと》であるかという疑問の声であった。好奇心深き世人は、恣《ほしいまま》に当代の諸名士を捉え来って、この書の著者に擬したので、バーク(Edmond Burke)、ダンニング(Dunning)、マンスフィールド卿(Lord mansfield)、カムデン卿(Lord Camden)等の諸大家は、代る代るにこの空しき光栄を担《にな》わしめられたのであった。
かくの如き成功に接して、最も歓喜した者は、ベンサムの父であった。子に叱られた事までも吹聴して歩きたいのは親心の常であるから、当然我が愛子の頭を飾るべき桂冠が、あらぬ方へのみ落ちようとするもどかしさに、とても堪え切れず、我子との固き約束をも打忘れて、遂に自ら発行|書肆《しょし》を訪ねて、第二版には必ずジェレミー・ベンサム著と題してくれよと頼んだ。書肆はなかなか応じない。この書がかく売行の多いのは全く匿名の故である。余り高名ならざる御子息の名を載せたが最後、忽ち人気が落ち声価の減ずるは眼《ま》のあたりの事と、すげなくもこれを拒絶したのであった。しかるに、この事が忽ち世上に伝わると、如何なる大家の説かと思えば、そのような青二才の著作であったかと、世人の失望は一方ならず、書肆の予言は見事に的中して、第二版の準備も終に中止となってしまった。
ベンサムは後に自らこの事を記して、「我父約を守らざりしがために、この書の著者は何人にも知られざる或人」(Somebody unknown to nobody)なりと知れ渡るや否や、書肆の門前は忽ち雀羅《じゃくら》を張れりといっている。けだし「年少何の罪ぞ、白髪何の尊ぞ」の感慨禁じ難きものがあったであろう。さるにても、世人書を買わずして名を買う者の多きことよ。
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七〇 ベンサムの功績
天はベンサムに幸いして、これに仮すに八十四歳の高寿をもってしたのであるが、彼はこの長年月を最も有益に費して、この天寵を空しくはしなかった。彼の哲学の主眼は、有名なる「最大数の最大幸福」なる実利主義であったが、彼自身が実にこの主義の忠僕であった。その著書大小六十三巻、氏の歿後、友人ボーリング博士は、手簡および小伝とともにこれを一部に編纂して刊行した。今、世に行わるる「ベンサム全集」は即ちこれである。
ベンサムが始めて実利主義を唱えて法律改善を説いた時には、旧慣古制に執着深き英国人士は、皆その論の奇抜大胆なのに喫驚《きっきょう》せざるを得なかった。曰く過激論、曰く腐儒の空論、曰く捕風握雲の妄説、これらは皆彼の説の上に注ぎかけられた嘲罵の声であった。しかしながら彼は毫も屈しなかった。直言※[#「※」は「言+黨」、第4水準2-88-84、256-10]議《ちょくげんとうぎ》、諱《い》まず憚《はばか》らず、時には国王の逆鱗《げきりん》に触れるほどの危きをも冒し、ますます筆鋒を鋭くして、死に至るまで実利主義のために進路の荊棘《けいきょく》を攘《はら》った。由来、学者の所説は常に社会の進歩に先だって趨《はし》るものである。彼の法律制度改正案は無慮幾百であったが、彼が八十五歳の長寿を保ったに係らず、その生前に行われたものは比較的少数であった。しかしながら、学者の説はそのままにて直ちに実行されるものは少ないのである。必ずや、時務に通じたる実際家が社会の需要に応じてその理論を実行するのを待たねばならぬ。ベンサムにはその薫陶を受けたる政治家にピット、マッキントッシ、ブローム、ロミリー等の諸名士があって、彼の遺志を継ぎ、彼の所論を実現すべき人を欠かなかったために、その死後未だ数十年を出でずして、その案の実行せられ、その論の是認せられたものは、実に無数であった。ミルがこの事を評して次の如く言っておる。
[#ここから2字下げ]
“It was not Bentham, by his own writings, it was Bentham through the minds. and pens which those writings fed, through the men in more direct contact with the world, into whom his spirit passed.”――Mill, Dissertations and Discussions.
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法制上においては、刑法の改正、獄制の改良、流刑の廃止、訴訟税の廃止、負債者禁錮の廃止、救貧院の設置、郵便税の減少、郵便為替の設定、地方裁判所の設立、議員選挙法の改正、公訴官の設置、出産結婚および死亡登記法、海員登記法、海上法の制定、利息制限法の廃止、証拠法の大改良などがあり、法理上においては、国際法(International Law)なる名称の創始、主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など、枚挙するに遑《いとま》がない。なおまた彼の所論中、まさに行われんとしつつあるものは、刑法成典の編纂であって、その未だ全く行わるべき運命に到着しないものは、法典編纂論を始めとして、なお多々存している。そのうち、将来に実行を見るものも、決して少なくはないことであろう。
ベンサム死して既に半世紀、余威|殷々《いんいん》、今に至って漸《ようや》く熾《さか》んである。偉人は死すとも死せず。我輩はベンサムにおいて法律界の大偉人を見る。ミルの讃評に曰く、ベンサムは「混沌たる法学を承けて整然たる法学を遺せり」と。“He found the philosophy of law a chaos, and left it a science.”
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ジェレミー・ベンサムは近世における法典編纂論の始祖とも称すべき人であるが、氏が欧米諸国の政府または国民に書を送って、その法典編纂の委嘱または諮詢《しじゅん》を勧請した事は、法律史上、ことに氏の伝記中において、異彩を放つ事実の一つに属するといわなければならぬ。
一八一四年五月、ベンサムは当時ロシアにおいて法典編纂の挙ある由を聞いて、一書をアレキサンドル帝に上《たてまつ》って、自ら法典立案の任に当りたいという事を請うた。その書面は頗《すこぶ》る長文であって、ここにその全文を引用することは出来ないが、今その首尾を訳載して、氏の熱心の一斑を示すこととしよう。
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外臣ジェレミー・ベンサム謹んで書を皇帝陛下に上り、立法事業に関して、陛下に奏請するところあらんとす。臣年既に六十六歳、その中五十有余年は潜心して専ら法制事業を攻究せり。今や齢|已《すで》に高し。もし陛下の統治し給う大帝国の立法事業改良のために、臣の残躯を用い、臣をして敢えて法典編纂のために微力を尽すを得しめ給わば、臣が畢生《ひっせい》の望はこれを充たすになお余りありというべし。(中略)
今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり。陛下もし臣に賜うに数行の詔勅をもってし給わば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし。陛下もし幸いにこの大事業を臣に命じ給わば、その重任を負うの栄誉と、これに伴う満足とは、これ陛下が臣に賜うところの無二の賞典なり。臣|豈《あ》に敢えて他に求むるところあらんや。(下略)
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しかるに翌年の四月アレキサンドル帝はオーストリヤのヴィーン市より手簡をベンサムに贈ってその厚意を謝し、且つ「朕はさきに任じたる法典編纂委員に対して、もし疑義あらばこれを先生の高識に質すべき事を命ずべし云々」と言い、併せてその厚意を謝する記念として高価なる指輪を贈与せられた。ベンサムは再び長文の書を上《たてまつ》って、いやしくも金銭上の価格を有する恩賜は自分の受くるを欲せぬところであるといってこれを返戻し、且つ委員らは必ず氏の意見を聴くことを屑《いさぎよ》しとせざるが故に、帝の命令はただ氏に対する礼遇たるに止まるべきことを予言し、更にまた詳細に法典編纂の主義手続などを説明して、再びその任に当りたいということを奏請したけれども、遂に露帝の容るるところとならずして止んでしまった。
これより先き、一八一一年、ベンサムは書を合衆国大統領マヂソンに贈って、合衆国法典編纂の必要を論じ、且つ自ら進んでその立案の任に当りたいということを請うたが、マヂソン氏はその後ち五年を経て返書を送り、「方今欧洲において法典編纂の事業に適任なるは先生をもって第一とすと言えるロールド・ブローム(Lord Brougham)の説は余の悦んで同意するところである。しかしながら、奈何《いかん》せん合衆国においては、法典編纂の挙に対する種々の故障があって、今や容易にこれを実行すべき見込がない」と言ってこれを謝絶するに至った。けれどもベンサムの法典編纂に対する熱心は、固より一回の蹉跌《さてつ》をもって冷却するものではなかった。氏はその目的の容易に達し難きを観るや、諸方に意見書を贈って法典立案の委嘱を需《もと》めた。一八一四年、書をペンシルバニヤ州の知事に送り、無報酬にて法典立案の業に従事したいということを請うたが容れられなかった。しかるに氏はなお進んで合衆国の諸州の知事に書を送って、自ら法典立案の任に当らんことを望む旨を述べ、更に英人ジェレミー・ベンサムより合衆国人民に贈る書と題する一冊子を公刊して、法典編纂の必要を力説し、いやしくも愛国の士は、挙《こぞ》ってこの事業を賛成しなければならないことを痛論し、且つその書の末尾に、「余は暫《しばら》くここに親愛なる諸君と訣別す。諸君もし他日余にこの事業を委託することあらば、余は諸君の嘱望に負《そむ》かざる忠僕たるを誤らざるべし、ジェレミー・ベンサム」と記した。けれども合衆国諸州の人民および政府は、一もベンサムの勧請に応じなかったのである。
一八二二年、ベンサムは齢既に七十五の高齢に達したが、その畢生《ひっせい》の力を法典編纂の業に尽そうと欲する熱望は毫《ごう》も屈することなく、老いてますます熾《さか》んなる有様であった。そこで、遂に一国に対して法典編纂を提議することを止めて、更に、
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「改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議」(Codification Proposal addressed by Jeremy Bentham to All Nations professing Liberal Opinion.)
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と題する一書を著して、文明諸国に対《むか》って法典編纂を勧告し、且つ外国人を法典草案の起草者となすの利を説いて、「外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く党派もしくは種族などに関する偏見なければなり。外国人立案の法典は精完なり、何となれば衆目の検鑿《けんさく》甚だ厳なればなり。ただ外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありといえども、法典の組織は各国大抵その基礎を同じうするものなるをもって、敢てこれをもって欠点となすに足らず。いわんやその細則に至りては、これを内国の法律家に謀《はか》るを得るをや」と言い、終りに臨んで、博《ひろ》くその委嘱に応ずべき由を公言した。
氏はまた書を欧洲諸国の立法議院に寄せて、法典立案の必要を説き、且つその委託を勧請したけれども、ただギリシア革命政府、ポルトガルなどの一、二国が氏の意見を諮詢したのみに止《とど》まって、法典立案の事に至っては、几案寂然《きあんせきぜん》、遂に一紙の聘托《へいたく》をも得ずして、その生涯を終ってしまったのである。
ベンサムの博学宏才をもって心を法典編纂に委《ゆだ》ぬること五十有余年、当時彼の著書は既に各国語に翻訳せられ、彼の学説は既に一世を風靡《ふうび》し、雷名|轟々《ごうごう》、天下何人といえども彼の名を知らぬ者はなかったのである。
しかも、この碩学にしてその素志の天下に容れられなかったのは何故であるか。これ他なし。法典の編纂は一国立法上の大事業なるが故に、これを外国人に委託するは、その国法律家の大いに愧ずるところであって、且つ国民的自重心を傷つくること甚だ大であるからである。明治二十三年の第一回帝国議会において、商法実施延期問題が貴族院の議に上ったとき、我輩は同院で延期改修論を主張したが、上に述べた如き例を引いて、国民行為の典範たる諸法典を外国人に作ってもらうのは国の恥であると述べたのは、幾分か議員を動かしたように見えた。ベンサムにはこれらの国民的感情は少しも了解することが出来なんだのである。しかも彼が再三再四各国政府に書を寄せ、また各国人民に勧告し、その度ごとに失敗して毫もその志を屈せず、ますます老豪の精神を振うて世界の人民に対《むか》ってその抱懐するところを訴え、遂にこれを容れられざるに至って、なおその原因を悟らなかったのは、これけだしベンサム氏の気宇濶大、世界を家とし、人類を友とし、かつて国民的感情などの存することを知らなかったのに由るものである。故に彼は、外国人をして法典を立案せしめることは、これを内国人に委託するよりは優っているとの論に附加して、各国の立法議会においても外国人を議員たらしむるの利あるを説き、例えばイスパニャの如き国においては、英、仏、露、伊、葡諸国の人民各一二名をその国会議員に加えることが有利であると論じている(Bentham's Works IV, p. 563.[#「IV」はローマ数字の4])。もってベンサムの眼中に国境なきことを推知することが出来る。人あるいはこの論を読んでベンサムの迂《う》を嗤《わら》う者もあらん。しかれども、ベンサムのベンサムたる所以はけだしこの点にありと謂わねばならぬ。
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サー・トマス・ムーア(Sir Thomas Moore)がロンドン府裁判所判事長の職にあった時、部下の一判事に、甚だ片意地な男があった。窃盗|掏摸《すり》などの事件を断ずる場合に、彼は加害者を詰責せずして、かえって被害者を叱り付け、この災害は汝自身の不注意から自ら招いたものであるから、今更誰を怨むべきようもないと罵って、自ら得たりとしておった。ムーア判事長は大いにこれを片腹痛きことに思い、折もあらば懲らしめてくれようと待ち構えておった。
或時、有名な掏摸の名人が捕われたことがあった。裁判の前日、ムーアは密《ひそか》に彼に会って密計を授けた。明くれば裁判の当日である。かの判事は、例の如く先ず大喝一声被害者を叱り飛ばし、さて犯人の訊問に移った。犯人は神妙気に述べていう、「かくなる上は何事をか包みましょう。さりながら、ここに一つ何とあっても公言致し難い秘密がございます。これだけは何とぞ閣下の御耳に就いて申し述べさせて頂きたい」と、頻《しきり》に願うので、判事はこの危険なる被告を身近く召し寄せて、何事をか聴き取った。
かくてこの日の裁判も終ったので、裁判官は一同休憩室に入って、四方八方《よもやま》の話に耽《ふけ》った。ムーアは突然例の判事に向って、「目下何々慈善事業のために義金募集の挙があって、我輩も既に寸志を投じたが、君にも御志があるならば御取次致そう」と言い出した。判事は早速承諾の意を表し、「それでは何分願います」と、ポケットに手を差し入れたが、忽ち周章の色を顕《あらわ》して、頻にあちこち掻《か》き捜している。ムーアは、さもこそと打笑って、「君の懐中物は先ほどの耳打の際に既に被告の手に渡りました。これ君の不注意が自ら招いた禍であって、今更誰を咎《とが》めん途もありません」と言うたので、一座は且つ驚き且つ笑った。さすがの判事も茫然自失、一言をも出さなかったが、それより以後は、決して再び被害者を叱らなかったとかいうことである。
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七七 盗人の慧眼
法官サー・ジョン・シルベスター(Sir John Sylbester)が、或時窃盗事件の審問をした。その審問中、法官の手はしばしば動いて、ポケットを探っている。覓《もと》むる物あって得ざるの様子であった。かくてこの裁判は、証拠不充分放免という宣告に終り、被告は直ちに自由の身となった。
さてその日の事務を終えて、シルベスターが家に帰ると、家人迎えて言う、「今日は、時計を御忘れになったので、如何ばかりか御不便な事であろうと御噂をしておりましたところへ、裁判所から使の者を取りに遣わされました故、その者に渡しました。」
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古代の刑法が酷刑に富むことはいうまでもないが、ローマの古法も、けだしその例に漏れぬものであろう。かのユスチニアーヌス帝の「法学提要」(Institutiones)に拠れば、「レックス・ポムペイア・デ・パリシディース」(Lex Pompeia de Parricidiis)なる法律があって、殺親罪に当つるに他の類なき奇異なる刑罰をもってしている。この殺親罪(Parricidium)なる罪名の下には、親以外の近親に対する殺人罪をも包含しておったようであるが、これらの犯人は、実に天人|倶《とも》に容れざる大罪人であって、「法学提要」の語を仮りていわば、「刑するに剣をもってせず、火をもってせず、その他通常の刑に処することなく、一犬、一鶏、一蛇、一猿と共に皮袋の中に縫い込み、この恐るべき牢獄のまま、土地の状況により海中または河中に投じ、その生存中より既に一切の生活原素の供与を絶ち、生前においては空気を奪われ、死後においては土を拒まるべし」と。ユスチニアーヌス帝のディゲスタ法典に拠れば、もし近辺に河海なきときは、猛獣に委《わた》してその身体を裂かしむとある。
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国法の原始状態は現今の国際法に似ている点があるようである。その主要な類似点を挙げてみれば、(一)立法者なくして慣例または約束に依って法律関係が定まること、(二)その法律関係は家もしくは氏族の如き団体相互間の関係なること、(三)その団体間に争議あるときは、自力制裁なる族戦(feud)に依ってこれを決するか、(四)または他の団体などの仲裁に依ってその解決を試みることなどである。しかしこれら根本論は暫く措《お》き、原始的国法に「家界」なる制度があって、それが国際法の領海制度に酷似しているのは、甚だ面白い現象である。
今日の欧洲諸国の物権法においては、不動産所有権の主たる目的物は土地であって、家屋はむしろ土地の構成分子と見る観念も存するのであるが、古代にあっては、この関係は全く反対であったようである。古代農業の未だ発達せざる時に当っては、土地の所有権は重きを置かれず、庭園などの所有地も、他人の自由通行に委せられていたが、ただ家屋のみは不可侵界であって、
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「各人の家は彼の城なり」(Every man's house is his castle.)
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という法諺《ほうげん》も存したほどである。朝鮮では、最近まで家の所有権はあって土地の所有権はなかったとのことであるが、我国の「屋敷」なる語も、土地をもって家屋の附属物とする観念に基づくものかとも思われる。要するに、国法の原始状態において、国際法の領土に比すべきものは、土地ではなくして家屋であったのである。
しかしながら、家屋の不可侵を保全するには、その周囲一帯の地域の安寧が必要である。即ち家の周囲の土地については、家の所有主は各特別の利害関係を有する。古代において、家の周囲一定の距離を限界して、これをその家の「家界」(Precinct)とする習俗が存したのはそのためであって、イギリス古法のツーン(Tun[#「u」の上に「^」がつく])、アイルランド古法(ブレホン法)のマイギン(Maighin)などがこれである。そして、この家界内の安寧は、特別に保護せられるのであって、例えば英国のエセルレッド王(King Aethelred)の法は、国王のツーン内において人を殺す者は五十シルリングの賠償金、伯爵《アール》のツーン内において人を殺す者は十二シルリングの賠償金を払うべし云々とある。即ちこの家界なるものは、国際法の領海と酷似しているではないか。
そして、ここに最も面白いのは、この家界の測定法、則ち家の周囲|幾何《いくばく》の距離までを家界とするかの定め方である。アイルランドのブレホンは、投槍距離(Lance-shot)をもって家界測定の基準とした。即ち尖頭より石突に至るまでの長さ十二フィスト(即ち我国でいわば十二束)の槍を、家の戸口より投げ、その到達点を基準として劃した圏内をもって家界の単位とし、身分に応じて二ランス・ショット、三ランス・ショットという如く、次第にその乗数を増すのであって、国王の宮殿の家界は六十四ランス・ショットであったという。国際法の領海の測定法を弾着距離(Canon-shot)を基準としておったのと、全く同一観念であることは、深く説明を要せぬところであって、両々対比し来って、無限の興趣を覚えるのである。
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九一 断食居催促
アイルランドの古法センカス・モア(Senchus Mor)に拠れば、債務不履行の場合には、債権者は催告(Notice)に次いで財産の差押(Distress)を行うことが許されておった。しかし債務者が高位の人であるか、または目上の人である場合には、直ちにその家に踏み込んで差押を行うのは、余り穏かならぬ次第でもあり、また実行し難い事情もあろう。かくの如き場合に対して、センカス・モアは断食居催促(Fasting upon him)なる奇法を設けている。即ち、債権者は債務者の門前に座を占めて居催促をなし、債務が弁済されるか、担保が提供されるまでは、一塊の麺麭《パン》、一杯の水をも口にしないで、餓死を待つのである。
現今の債務者には、この位の事では驚かない連中が多い。死にたければ勝手に死ねという調子で、平気なものであろう。また催促する方でも、腹が減ればやがて立ち去るのであろうが、古代の人間は中々真面目である。センカス・モアにも、断食居催促に対して担保を供せざる者は、神人共にこれを容れずと記し、僧侶(Druid)も、債権者を餓死せしめたる者は、死後天の冥罰を蒙るべきものなりと説き、人民も一般にかく信じておったのである。故にこの催促法は頗る効力のあったものと思われる。
しかるに殆んど同一の風習が、東洋にも存在していたのは、甚だ面白い現象である。インドの古法(Vyavahara Mayuka)にも、戸口の見張(Watching at the door)という催促法が載せてあるが、マヌ(Manu)その他の法典にはダールナ(Sitting dharna)なる弁済督促法が載せてある。これも同じく断食居催促の法であって、普通人が行っても効力があるが、特に婆羅門僧(Brahmin)がこれを行うと、一層の効果を奏するのであった。というのは、婆羅門《ばらもん》僧は、人も知る如く、インド民族の最上階級であって、その身体は神聖不可侵である。たとい間接にもせよ、婆羅門僧の死に原因を与えた者は、贖罪の途なき大罪人であって、永劫浮かむ瀬なきものと信ぜられている。故に死をもって債務者を威嚇するには、この上もない適任者である。その上都合の好いことには、彼らは難行苦行を積んでいるから、催促の武器たる断食などは御手の物である。彼らは毒薬または短刀などの自殺道具を携帯して、債務者の門前に静座し、何日間でも平気で断食する。もし家人がこれを追い退けようと試み、またはその封鎖を破って外出しようとするときには、直ちに毒薬または短刀を擬して、自殺をもって脅かす。自殺されては堪らぬから、家人は食物を買いに出ることも出来ず、全く封鎖の中に陥ってしまうのである。dharnaとは拘束(arrest)という意味で、Sitting dharnaとは、即ち居催促によって封鎖の状態に陥し入れることをいうのである。ここにおいて、債務者と僧侶との間に、断食の根気競べが始まるのであるが、この点において、天下婆羅門僧に敵するものはない。如何に頑強な債務者も、竟《つい》には閉口して、弁済または担保の提供によって、封鎖を解いてもらうより外はないのである。かく婆羅門僧の居催促は、偉大の効力があるところから、後には普通人が僧侶に依頼して催促をしてもらうことが始まり、遂に婆羅門僧は現今の執達吏のような事を常業とするに至った。インドが英領となり、裁判所も設けらるるに及んで、当局者は大いにこの蛮習の撲滅に苦心し、インド刑法にも禁止の明文を載せたが、多年の因襲は恐しいもので、十九世紀の半ば過ぎまでも、なお全くその迹を絶つには至らなかったということである。
しかるにまた、ペルシアでは、現今でも断食居催促の法が行われているということである。しかもその方法が頗る面白い。債権者は、先ず債務者の門前数尺の地に麦を蒔き、その中央にドッカと座り込む。これ即ちこの麦が成熟して食えるようになるまでは、断食して居催促するぞという、大決心を示す意味である。
以上の例は、いずれも法律の保護が不充分なる時代には、自己の権利を伸張せんがために、如何なる非常手段にまで出でねばならぬかということを示しているものである。吾人は実に平和穏便に自己の権利を主張し得られる聖代の民であることを感謝せざるを得ないではないか。
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九二 地位と収入
英のサグデン(Sir Edward Sugden)は、素《も》と卑賤に身を起し、後《の》ち大法官に挙げられ、貴族となって、ロード・セント・レオナルド(Lord St. Leonald)と号した人である。サグデンは学生時代に「売主買主の法律」(Laws of Vendors and Purchasers)という書を著わして名声を博し、大法官となった後ちも、数多の名判例を残し、英国法律家の尊崇する大法律家の一人であるが、この人、以前弁護士であった時分には、毎年一万五千|磅《ポンド》、即ち我が十五万円の収入があったが、その後名声大いに加わり、挙げられて判事となるに及んで、その歳入はかえって約三分の一に減じたということである。
地位と収入とが必ずしも相伴わぬことは、古今その揆《き》を一にするが、米の経済学者エリー(Richard T. Ely)の説明に曰く、「俸給の額は、勤労の価値によって決せられずして、地位職掌に必要なる費用によって決定せらるる傾向がある。裁判官の受くるところが、その弁護士時代の収入の三分の一または四分の一に過ぎないことがあるのは、この理由に基づくのである。」
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九三 盗賊ならざる宣誓
アングロ・サクソン王エドワード(Edward the Confesser)の法律に拠れば、人十二歳に達したるときは、十人組(Frankpledge)の面前にて、「余は盗賊にあらず、また盗賊と一味せざるべし」という宣誓をせねばならぬことであった。即ち社会の秩序は、当初はかくの如き人民の相互担保によって維持せられ、後に進んで国家によって担保せらるるに至ったものである。
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第十九世紀の末に我邦に起った法典実施延期戦は、あたかも同世紀の初めにドイツで起ったザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質を同じうしているということは、前にも述べたところである。
第十九世紀の初めにおいて、ドイツ諸国はナポレオンの馬蹄に蹂躙《じゅうりん》せられて、殆んどその独立を失おうとするに至ったが、この時局に慨して、当時ドイツの学者政治家の間には、ドイツの復興策として盛んに民族統一(Volkseinheit)の必要を唱導する者が多かったのである。その説くところに曰く、我らゼルマン民族は、欧洲大陸の中部に国を建て、しかもしばしば他国の侵略を蒙って、動《やや》もすればその独立の基礎を揺がされようとするのは、そもそも何故であるか。これ畢竟諸邦割拠して、民族の共同一致を欠くためではないか。故に、将来我らの独立を確実に維持すべき唯一の良策は、大いに民族的思想を発揮して、ゼルマン民族統一を図るより外はないというのであった。
一八一四年、ナポレオンがライプチヒの戦に敗れてその本国に潰走した時、当時ハイデルベルヒの大学教授であったティボー(Thibaut)は、ドイツ兵の同市を経て続々仏国に向って進軍する有様を看て、これ正に我ドイツ諸国の独立を回復すべき機運の到来したものであると歓喜し、すなわち筆を呵して堂々ドイツ復興策を論じ、僅々二週日にして一書を公にするに至った。このティボーの著書こそ実にドイツにおける普通民法の必要(Ueber die Nothwendigkeit eines allgemeinen buergerlichen Rechts fuer Deutschland.)と題する小冊子であって、これが即ち有名なる法典争議の発端となったものである。ティボーのこの著書における論旨の要点は、ゼルマン民族の一致合同を図り、内に国民の進歩を計り、外に侵略を防ごうとするには、須《すべか》らく先ずドイツ諸国に通ずる民法法典を制定し、全民族をして同一法律の下に棲息せしめ、同一の権利を享有せしめなければならない。実に民族の統一は法律の統一(Rechtseinheit)に依って得らるべきものであるというにあった。このティボーの説は、当時の学者政治家に大なる感動を与え、一時は法律統一をもってドイツ復興策中最も適切なるものと考えられるに至った。
しかるに当時ベルリン大学の教授であったザヴィニーは、これに対して「立法および法学における現時の要務」(Beruf unserer Zeit fuer Gesetzgebung und Rechtswissenschaft. 1814.)と題する一書を著わして、ティボーの法典編纂論を反駁した。その要領に曰く、法は発達するものであって、決して製作すべきものではない。一国に法律あるはあたかも国民に国語あるが如く、一国民は大字典の編纂に依ってその国民普通の言語を作ること能わざるが如く、如何なる国民といえども、単に普通法典を作成することに依ってその国民普通の権利を創製することの出来るものではない。法律は国民の精神(Volksgeist)の現われたもので、特に国民の権利の確信(Rechtsueberzeugung)より生ずるものである。法は国民の支体であって、衣服ではない。故にティボーの言うが如く、数年にしてこれを仕立て、これを着用せしめる訳には行かぬものである。故に我民族の法律的統一をなさんと欲せば、須《すべか》らく先ずゼルマン民族の権利確信を統一しなければならない。単に普通法典の編纂に依ってその目的を達しようとするが如きは、あたかも木に縁《よ》って魚を求むるが如きものであって、むしろ退いて網を結び、大いに法律学を起して国民精神を明確にし、徐《おもむ》ろに民族の権利思想の統一を待つには如かないのであると論じた。
これを要するに、ティボーは自然法学説を信じて、法は万世不変、万国普通なものであるから、法典は何時にても作り得べきものとしたのであるが、ザヴィニーはこれに反して、法は国民的、発達的なものであるとしたのであった。そしてこの法典争議は、素《もと》よりその起因は政治上の議論であったけれども、その根拠とする所は学理論にあったので、このザヴィニーの説からドイツの歴史法学派が起るに至ったのである。
ティボーの法典編纂論はザヴィニーの反対論のために当時は実行せられなんだけれども、その所論に促されて、爾後ドイツの民族統一運動も追々と行われ、この争議の後《の》ち半世紀を経て、ドイツ帝国は建設せられ、またその間に法律学も著しき進歩をなし、民法を始め各種の普通法典の編纂も行われ、竟《つい》に彼らが理想とせる「一民、一国、一法」(‘Ein Volk, ein Reich, ein Recht.’)の実を挙ぐるに至った。
ザヴィニー、ティボーの法典争議は、その学理上の論拠、論争の成敗の跡、及びその結局が法典の編纂に帰着したところなど、悉く我法典延期戦に酷似している。我延期戦の後ち両派が握手して法典編纂に努めた如く、ザヴィニー、ティボーの両大家も定めて半世紀の後ち地下において握手したことであろう。
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諺は長い経験から生じた短い言葉で、言わば「民智の粋」(A proverb is condensed popular wisdom)である。故に片言隻句の中にも深遠なる真理を含んでいるものが少なくない。「諺は神の声なり」(Proverbs are the language of the gods)という諺があるが、むしろ「民の声」(vox populi)と言うた方が適切であって、民性に依って諺の種類性質などもそれぞれ異なっているものである。その一例を言えば、法律に関する諺は、西洋にはその数非常に多くあるけれども、日本などには殊に少ないようである。西洋諸国では、法は人民中に自治的に発達したもので、いわゆる「民族法」をなしたものであるから、法律に関する諺も自然に民間に多く行われるようになって来たものである。これに反して、東洋においては、法は神または君の作ったもので、人民はかれこれ喙《くちばし》を容れるべきものでないとなっておったから、法に関する諺が自《おの》ずから人民間には出来なかったものであろう。
西洋においては、法律に関する諺の中に、主として専門家中に行われる「法諺」(Rechtssprichworter[#「o」はウムラウト(¨)付き])または「法律格言」(legal maxims)と称するものと、法律に関する純粋なる俚諺との二種があるが、いずれもその数は非常に多い。例えば、一八五七年にミュンヘン大学が懸賞して、第十三世紀および第十四世紀に行われた法諺を募集し、その後ちバイエルン王マキシミリアン二世の保護に依りブルンチュリおよびコンラード・マウレルの両大家の監督の下にその当選者グラーフ(Eduard Graf)、ディートヘール(Mathias Dietherr)の原稿を合せて一巻となして、王国学士院より出版した「ドイツ法諺」(Deutsche Rechtssprichworter[#「o」はウムラウト(¨)付き])という書があるが、これに載せてある法諺の数だけでも、三千六百九十八の大数に上っていることに依っても、その数の夥《おびただ》しいことが分る。しかし、これらは皆な法学または法術上の格言で、法律の原則を諺体《ことわざてい》の短句としたものであって、広く通常人民の間に行われる法の俚諺ではなかった。今、この種に属する格言的法諺の例を挙ぐれば左の如きものである。
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Ignorantia juris non excusat.
法の不識は免《ゆる》さず。
Abus n'est pas coutume.
悪弊は慣習に非ず。
Gesetz muss Gesetz brechen.
法律を破るは法律を要す。
The king never dies.
国王は死せず。
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しかしこれら第一種の法諺は通常法律書にも載っており、その重《おも》なるものは皆な法律家のよく知っているところであるから、ここにはただ一、二を例示するに止めて置く。
第二種の法諺即ち俚諺もその数は極めて多いものである。これは法学または法術上の原則を言い表わした短句ではなく、何人が作ったともなく、自然に民間に行われるようになったものもあり、あるいは聖賢の語が俚諺となったものもあって、その中には真面目なものもあり、諷刺的、詼謔《かいぎゃく》的なものもある。今ここに最も普通に行われている諸国の俚諺を英語に訳したものを挙げてみよう。
一 一般に法律については、
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For the upright there are no laws.(ドイツ)
正直者に法なし。
Strict law is often great injustice.
(Summum jus, summa injuria.)(キケロの語)
最厳正の法は最不正の法なり。
本邦「理の高じたるは非の一倍」に近し。
Like king, like law; like law, like people.(ポルトガル)
君が君なら法も法、法が法なら民も民。
Laws are not made for the good.(ソクラテースの語)
法は善人のために作られたるものに非ず。
Laws were made for the rogue.(イタリア)
法は悪人のために作られたるものなり。
Nothing is law that is not reason.(判事パウェル〔Powell〕の語)
理に非ざるものは法に非ず。
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二 法律の効力に付ては、
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Better no law than law not enforced.(デンマルク)
行われざる法あるは法なきに如かず。
He who makes a law should keep it.(イスパニア)
法を作る者は法を守らざるべからず。
New laws, new roguery.(ドイツ)
新法定って新罪生ず。
The more laws, the more offenders.(ドイツ)
法多ければ賊多し。
When law ends, tyranny begins.(イギリス)
法の終るところ、虐政の始まるところ。
The law has a nose of wax; one can twist it as the will.(ドイツ)
法は臘細工の鼻を持つ、故に勝手に曲げることが出来る。
The law helps those who help themselves.(ドイツ)
法は自ら助くる者を助く。
Law cannot persuade where it cannot punish.(イギリス)
罰することの出来ぬ法は勧めることも出来ぬ。
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三 裁判については、
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Justice is never angry.(ベン・ジョンソン)
正義は怒ることなし。
A person ought not to be a judge in his own cause.(イギリス)
自己の訴訟に裁判官たること勿《なか》れ。
No one is a good judge in his own cause.
自己の訴訟に善い裁判官となれる者はない。
Don't hear one and judge two.
一方を聴いて双方を裁判するな。
(「片口聴いて公事《くじ》をわくるな」に同じ)
Judges should have two ears both alike.(ドイツ)
裁判官は左右同じ耳を持たねばならぬ。
(「両方聞いて下知をなせ」に近し。「史記」に「凡聴レ訟者必須二両辞一可三以定二是非一、偏信二一言一折レ獄者、乃吏職之短才也」[#「一言」の「一」をのぞいて「レ一二三」は返り点]とあり)
Well to judge depends on well to hear.(イタリア)
善い裁判は善い審問による。
You cannot judge of the wine by the barrel.(イギリス)
樽で酒を判断してはならぬ。
Justice oft leans to the side where the purse hangs.(デンマルク)
正義の秤は財布の乗った方へ傾きやすい。
Law's delay.(シェークスペーア)
法の遅滞。
(「公事三年」に同じ)
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四 訴訟については、
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No man may be both accuser and judge.(プルータルク)
何人《なんぴと》も訴人と判官とを兼ぬる能わず。
Possession is nine points of the law.(イギリス)
占有には九分の勝味あり。
Possession is as good as a title.(イギリス)
占有は権証に等し。
By lawsuit no one has become rich.(ドイツ)
訴訟に依って富める者なし。
Fond of lawsuits, little wealth; fond of doctors little health.(イギリス)
訴を好む者は財産少なく、医を好む者は健康少なし。
Lawsuits make the parties lean, the lawyers fat.(ドイツ)
訴訟は原被告を瘠《や》せさせ、弁護士を肥らせる。
(「公事訴訟は代言肥やし」に同じ)
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五 刑法および犯罪については、
[#ここから2字下げ、「レ一二三」は返り点]
Better ten guilty escape than one innocent suffer.(イギリス)
一人の冤罪者あらんよりは十人の逃罪者あらしめよ。
(「与三其殺二不辜一、寧失二不経一」に同じ)
Little thieves have iron chains, great thieves gold ones.(オランダ)
小盗は鉄鎖、大盗は金鎖。
(「窃レ財者盗、窃レ国者王」に同じ)
Petty crimes are punished, great, rewarded.(ベン・ジョンソン)
小罪は罰せられ、大罪は賞せらる。
(「窃レ鉤者誅、窃レ国者為二諸侯一」に同じ)
Successful crime is called virtue.(セネカ)
成功せる犯罪は徳義と称せらる。
Opportunity makes the thief.(イギリス)
機会は盗を作る。
The hole invites the thief.(イギリス)
穴は賊を招く。
Set a thief to catch a thief.(イギリス)
賊を捕うるに賊をもってす。
Show me a liar and I will show you a thief.(イギリス)
嘘つきを出せ、泥棒を見せてやろう。
All are not thieves whom the dogs bark at.(ドイツ)
犬に吠えられる者は必らず泥棒と極ってはおらぬ。
A thief thinks every man steals.(デンマルク)
泥棒は誰れでも盗みをするものじゃと思うている。
He that steals can hide.(イギリス)
盗む者は隠すことが出来る。
You are a fool to steal, if you can't conceal.(イギリス)
隠すことを知らずして盗む者は愚人なり。
No receiver, no thief.(イギリス)
受贓者なければ盗賊なし。
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六 弁護士については、
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Lawyers are men who hire out their words and anger.(マーシャル)
弁護士とは言語と憤怒とを賃貸する人をいう。
A good lawyer is a bad neighbour.(イギリス)
善き法律家は悪しき隣人なり。
The more lawyers, the more processes.(イギリス)
弁護士多ければ訴訟多し。
Fools and obstinate men make lawyers rich.(イギリス)
馬鹿と剛情者が弁護士を富ます。
Lawyers' houses are built of fools' heads.(イギリス)
弁護士の家は馬鹿の頭で建てられる。
He who is his own lawyer has a fool for his client.(イギリス)
自分で弁護する訴訟の本人は馬鹿者である。
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その他弁護士に関する諺は随分沢山あるが、概《おおむ》ね皆な素人《しろうと》が拵《こしら》えた悪口であって、ちょうど我邦の川柳に医者の悪口が多いのと同様である。独り最後に掲げた諺はその例外で、次の如き逸話が残っている。
クリーヴ(Cleave)という有名な弁護士が或時被告となって自分で弁護をしたが、最後の弁論を次の如く始めた。
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閣下、余は今《い》ま自己の訴訟を自ら弁護せんとするに当り、あるいは彼の“He who acts as his own counsel has a fool for his client.”なる諺の適例を示さんことを恐れるのであります……
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裁判長ロールド・リンダルスト(Lord Lyndhurst)は彼を遮《さえぎ》って、
[#ここから2字下げ]
クリーヴ君、御心配には及びません。あの諺は、あなた方弁護士諸君が作られたのであります。
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[#改ページ]
跋
本書の第三版を印行するに当って、我輩は本書第一版以下を閲読して懇切なる批評と指教とを与えられたる友人各位、就中《なかんずく》男爵菊池大麓博士、織田萬博士および船山曄智君の好意に対して深厚なる謝意を表せねばならぬ。本版において、第一版に存したる幾多の誤記誤植を訂正することを得たのは、主として上記三君の賜である。我輩はまた「国家学会雑誌」において本書中に記せる母法、子法なる熟語について詳細なる指教を賜った中田薫博士に対しても、特に深厚なる謝意を表せねばならぬ。「母法」「子法」なる学語は、我輩これを新案したと思い、セント・ルイにおける万国学芸大会の比較法学部においても“Parental Law”or“Mother Law”および“Filial Law”なる英語に訳して講演中に用いたが、中田博士の指示に依って、始めて我輩より以前、既にドイツにおいてこの種の熟語を用いた学者があったことを知り、これ畢竟我輩の浅見寡聞のいたすところと、深く慚愧《ざんき》に堪えぬ次第である。依って本版においては、この語の新案らしく聞える文字を改め、この誤謬を正すことを得たのは、全く同博士の高教に負うのである。勿論ドイツ語の、“Mutterrecht”“Tochterrecht”は母法、子法に符合する熟語であるが、普通に学語としては行われておらなかったし、殊に Mutterrecht なる語は、一八六一年にバハオーフェン(J. J. Bachofen)が有名なる母権制論を発表した名著 Das Mutterrecht 出でて以来、母権制に対する学語として社会学者、法律学者中に一般に用いられているので、我輩がその他の意義に用いた人のあったのを知らなんだのは甚だ恥かしい事である。
これはちょうど、本書の第三十五節 He shakes his head, but there is nothing in it. の部に記したのと好一対の誤信である。しかるに、この頃また一つ新たなる先存事件を発見した。それは第五十七節「スタチスチックス」の訳名の事である。我輩は太政官に政表課があり、また津田真道先生が政表学なる語を用いられた事を記し、岡松径君は「統計集誌」上に政表なる訳字は杉享二先生の選定せられたもので、文書に見えたのは、明治三年同先生が民部省へ提出された答申書を始めとすと記された。しかるに、この頃我輩が古本屋の店をあさっていると、偶然「万国政表」という書を発見した。同書は万延元年の出版で、岡本約[#「約」は小さめの文字]博卿という人がオランダ人プ・ア・デ・ヨングの著せる「スタチスチセ・ターフル・ファン・アルレ・ランデン・デル・アアルデ」を訳したもので、「福沢子囲閲」とある。子囲とは福沢諭吉先生の若年の頃の号で、先生は晩年には、支那人の真似をして字《あざな》、号などを附けるのを嫌われ、時々「雪池」と書かれたのも、洒落に過ぎなかったのであるが、当時は、漢学者流の号を用いられておったものと見える。同書の「凡例」に拠れば、始め福沢先生が同書の翻訳に着手されたが、「訳稿未ダ半ニ及バズシテ忽チ米利堅《メリケン》ノ行アリ、因テ約ニ命ジテ続訳セシム……茲ニ先生ノ栄帰ヲ待テ点閲ヲ乞ヒ」云々とあるから、この「政表」なる訳語は多分福沢先生が渡米前、即ち安政年間に新案されたものではあるまいかと思われる。とにかく、岡本博卿氏が万延元年にこの訳語を用いられたもので、少なくとも杉先生の答申書より十年前にこの訳語を用いた書が出版されておったという事は明らかである。
このような例は学問史上には少なからぬ事で、新発見、新学説などが同時または相先後して異所に現われ、しかも両者の間に何ら因果の関係がないことは最も多い。太陽系の起原に関する星雲説は独のカント、仏のラプラース(Laplace)、英のヘルシェル(Herschel)相前後してこれを唱え、始めは三国各々自国の発明の如く誇っておったが、後にはいずれも独立の創見であるという事が分った。また第四十二節に記した如く、海王星の発見においても、仏のルヴェリエーが天王星の軌道の歪みを観て、数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予断してその位置を測定したが、英国においては、殆どこれと同時にアダムス(Adams)が同一の意見を発表した。またこの推測に基づいてドイツではガルレ博士(Dr. Galle)、イギリスではチャリス教授(Prof. Challis)が、相前後してその惑星(海王星)を発見したために、この理論的測定については英仏の間に、またその事実的発見については英独の間に、各々その先発見の功を争うことになったが、しかし後に至っていずれも独立の事業であったということが明らかになったのである。なおこの他、数学上にても微分法に関するニュートン、ライブニッツの発明、進化論の基礎となった自然淘汰の原理に関するダルウィン、ウォレースの発見などを始めとし、発見、発明、新説などにして、相前後して現われ、しかも前者後者没交渉なる事例は枚挙するに遑《いとま》ないのである。故に学者は自家独立の研究に因る学説発見などでも、直ちにこれをもって第一創見なりと考えるのは甚だ危険な事である。純然たる独立創見は滅多にないものである。海王星の発見もそれ以前に数学、力学、星学および望遠鏡の製作などが、最早《もはや》海王星を見付けねばならぬ程度にまで進んでおったから、二星学者をして各々独立して同時に同一の推測をなし、同一の発見をなさしめて、二十八億|哩《マイル》以外における空間の物塊を二国の人民が奪い合ったような事も出来たのである。故に学者たるものは、常にこの点に留意して自己の所説をもって容易に創見なりと断ずることを慎まねばならぬ。またこれと同時に、他人の学説に対しても、論理学の誤謬論法の範例として挙げらるる「前事は後事の因にして、後事は前事の果なり」(“Post hoc, propter hoc”)との断定を容易に下すことを避けねばならぬ。書を著わし、文を草して、しばしばこの種の誤謬に陥ることあるに鑑み、ここにこれを書して自ら戒めるのである。
大正五年五月五日[#20字下げて、地より3字上げで]陳 重 追 記