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幼年時代
堀辰雄
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無花果《いちじく》のある家
私は自分の幼年時代の思い出の中から、これまで何度も何度もそれを思い出したおかげで、いつか自分の現在の気もちと綯《な》い交ぜになってしまっているようなものばかりを主として、書いてゆくつもりだ。そして私はそれらの幼年時代のすべてを、単なるなつかしい思い出としては取り扱うまい。まあ言ってみれば、私はそこに自分の人生の本質のようなものを見出《みいだ》したい。
私は四つか五つの時分まで、父というものを知らずに、或る土手下の小さな家で、母とおばあさんの手だけで育てられた。しかし、その土手下の小さな家については、私は殆《ほとん》ど何んの記憶ももっていない。
唯《ただ》一つ、こういう記憶だけが私には妙にはっきりと残っている。――或る晩、母が私を背中におぶって、土手の上に出た。そこには人々が集って、空を眺《なが》めていた。母が言った。
「ほら、花火だよ、綺麗《きれい》だねえ……」みんなの眺めている空の一角に、ときどき目のさめるような美しい光が蜘蛛手《くもで》にぱあっと弾《はじ》けては、又ぱあっと消えてゆくのを見ながら、私はわけも分からずに母の腕のなかで小躍《こおど》りしていた。……
それと同じ時だったのか、それとも又、別の時だったのか、どうしても私には分からない。が、それと同じような人込みの中で、私は同じように母の背中におぶさっていた。私はしかしこんどは何かに脅かされてでもいるように泣きじゃくっていた。私達だけが、向うから流れてくる人波に抗《さか》らって、反対の方へ行こうとしていた。ときどき私達を脅かしているものの方へ押し戻されそうになりながら。そしてその夢の中のようなもどかしさが私を一層泣きじゃくらせているように見えた。――それは自家が火事になって、母が私を背負って、着のみ着のままで逃げてゆく途中であったのだ。……
その当時には、まだその土手下のあたりには茅葺屋根《かやぶきやね》の家がところどころ残っていたが、或る日、花火がその屋根の一つに落ちて、それがもとで火事になったのである。――ずっと後になって、私はそんなことを誰に聞かされるともなく聞いて、それをいつか自分でもうろ覚えに覚えているような気もちになっていたと見える。しかし私はそれを誰にも確かめたわけではないから、ことによると、唯《ただ》そんな気がしているだけかも知れないのだ。一体、私はそういう自分の幼時のことを人に訊《き》いたりするのは何んだか面映《おもは》ゆいような気がして、自分からは一遍も人に訊いたことはない。そして私はそれらの思い出がそれ自身の力でひとりでに浮び上がってくるがままに任せておくきりなのだ。
そんな私のことだから、その頃のことは他には殆ど何一つ自分の記憶には残っていない。そういう中で、唯一つ、前述の記憶だけが妙にはっきりと私に残っているというのは、その火事の話が事実でないとすれば、恐らく昼間のさまざまな経験が寄り集って一つの夢になるように、自分のまだ意識下の二つの強烈な印象が、その他の無数の小さな印象を打ち消しながら、そうやって一つの記憶の中に微妙に融《と》け合ってしまっているのかも知れない。(註一)
私の意識上の人生は、突然私の父があらわれて、そんな佗住《わびずま》いをしていた母や私を迎えることになった、曳舟通《ひきふねどお》りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家のなかでようやく始っている。そこに私達は五年ばかり住まっていたけれど、その家のことも、ほんの切れ切れにしか、いまの私には思い出せない。が、その頃の事は、その家ばかりではなく、私に思い出されるすべてのものはいずれも切れ切れなものとして、そしてそのために反《かえ》ってその局所局所は一層鮮かに、それらを取りかこんだ曖昧糢糊《あいまいもこ》とした背景から浮み上がって来るのである。
私のごく幼い頃の、父の姿も、母の姿もあんなによく見慣れていた癖に、少しもはっきりと思い出せない。しかし、そのころ皆で一しょに撮《と》った何枚かの写真の中の彼|等《ら》の姿だけは、ときおりしかそれを取り出して見なかったせいか、いまでも私の裡《うち》にくっきりと――それだけ一層実在の人物から遠ざかりながら――蘇《よみがえ》ってくるのである。震災で何もかも焼いてしまったそれらの写真には、大概、椅子に腰かけた母と、その椅子の背にちょっと手をかけながら立っている父との間に、小さな私はいつも口をきっと結んで、ちょこんと立っている。青い天鵞絨《びろうど》の帽子をかぶらないで、それを唯しっかりと手に握りながら。(その大好きな帽子なしには私は決して写真を撮らせなかった……)
それらのアルバムの中に、それだけ何んだか他のとは不調和なような気のする、一枚の小さな写真があった。それは私の母の若いときのだという、花を手にした、痩《や》せぎすの女の肖像だった。おひきずりの着物をきて、坐ったまま、花活《はない》けを膝《ひざ》近く置いて、梅の花かなんか手にしている。……それが母の二十ぐらいのときのだという。が、小さな私にはどうしてもその写真の人が私の母だとはおもえなかった。そしてそれからずっと後までも、私はそういう若い女の姿で自分の母を考えることは何か気恥しくって出来ずにいた。
そういう父や母の姿にひきかえて、おばあさんの姿は、その懐《なつ》かしい顔の一つ一つの線から皺枯《しわが》れた声まで、私の裡に生き生きと残っている。母が父と一しょの家に住まうようになってから、おばあさんはずっと私達のところに居きっきりではなしに、ときおりしか姿を見せなくなったから、反ってそうなのかも知れない。おばあさんはそうやって私達の家に一月位ずつ泊っていては、又いつか私の知らない裡に其処《そこ》から居なくなっているのだった。――何かの拍子に、そのおばあさんの居ないことをしみじみと感じると、私はときどき彼女を無性に恋しがって泣いた。私は誰よりもおばあさんに甘えていたせいばかりではなかった。私には年とった彼女が私達の居心地《いごこち》のいい家にいないで、何処《どこ》かよその家に行っているのが、何んだかかわいそうな気がしてならないのだった。そうやって私が彼女のために泣き、彼女を恋しがっていると、或る日またひょっくりとおばあさんは私の前に現れるのだった。
おばあさんは私の家にくると、いつも私のお守《も》りばかりしていた。そうしておばあさんは大抵私を数町先きの「牛の御前《ごぜん》」へ連れて行ってくれた。そこの神社の境内の奥まったところに、赤い涎《よだれ》かけをかけた石の牛が一ぴき臥《ね》ていた。私はそのどこかメランコリックな目《まな》ざしをした牛が大へん好きだった。「まあ何んて可愛《かわ》いい目んめをして!」なんぞと、幼い私はその牛に向って、いつもおとなの人が私に向って言ったり、したりするような事を、すっかり見よう見真似《みまね》で繰り返しながら、何度も何度もその冷い鼻を撫《な》でてやっていた。その石の鼻は子供たちが絶えずそうやって撫でるものだから、光ってつるつるとしていた。それがまた私に何んともいえない滑《なめ》らかな快い感触を与えたものらしかった。……
その神社の裏は、すぐ土手になっていて、その向うには大川が流れていた。おばあさんはその土手の上まで私の手を引いて連れていってくれることはあっても、もしかして私が川へでも落ちたらと気づかって、いつも土手のこちらから、私にその川を眺めさせているきりだった。そうしていても、葦《あし》の生《お》い茂った間から、ときどき白帆や鴎《かもめ》の飛ぶのが見えた……
子供の私はそれだけで満足していた。そして決して他の子供たちのようにおばあさんの手をふりほどいて、もっと川のふちへ行きたがったりして、おばあさんを困らせるような事は一度もしなかった。子供たちの持つすべての未知のものに対するはげしい好奇心は私にも無くはなかったが、内気な私はそのためにおばあさんを苦しめるような事までしようとはしなかった。二人は互にやさしく愛し合っていた。そして私はいつもおばあさんが木蔭《こかげ》などにしゃがんだまま、物静かに、何か漠《ばく》とした思い出に耽《ふけ》っているそばで、おとなしく鴎の飛ぶのを見たり、石の牛を撫でたりしていた。
その頃私達の住んでいた家のことを思い出そうとすると、前にも書いたように、それはごく切れ切れに――例《たと》えば、秋になるとおいしい果実を子供たちに与えてくれた一本の無花果の木や、そのほかは名前を知らないような木が二三本植わっていた小さな庭だとか、いつも日あたりのいい縁側だとか、そこから廊下つづきになった硝子張《ガラスば》りの細工場《さいくば》だとかが、――一つ一つ別々に浮んでくるきりである。そしてそういうものよりも一層はっきりと蘇ってきて、その頃のとりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせるものは、私の小さいブランコの吊《つる》してあった、その無花果の木の或る枝の変にくねった枝ぶりだとか、あるときの庭土の香《かお》りだとか、或いはまた金屑《かなくず》のにおいだとか、そういった一層つまらないものばかりだ。……
私の父は彫金師《ほりものし》だった。しかし、主《おも》にゴム人形だとか石鹸《せっけん》などの原型を彫刻していた。父がいつも二三人の弟子《でし》を相手に仕事をしている細工場へ私は好んで遊びに行った。「また坊主か。」父は私を見ると、いつもにっこりして、金屑だらけになった膝の上に乗せてくれ、しばらくは父の押木《おしぎ》の上に一ぱいに散らかっている鉄槌《かなづち》だの、鏨《たがね》だの、鑢《やすり》だのを私にいじらせてくれた。が、それを好いことにして、私がだんだん父の膝を離れて、他の弟子たちの前まで出かけて行き、そこいらの押木の上に乱雑に積んであるものなどを手あたり次第にいじくり出していると、「こら、坊主……」とこんどは父に叱《しか》られて、すぐ私はその細工場から追い出されてしまうのだった。が、その細工場じゅうに何処とはなしに漂っていた金屑のにおいなしには、もはや自分の幼時を思い出せない位、私はいつかそれ等のにおいを身につけてしまっていたのだった。
が、あんまりちょいちょいその細工場へ行ったりすると、私はしまいには其処にあるものをいじくらないように、見本にきている綺麗な外国製のゴム人形などをあてがわれた。しかしそんなちゃんとしたものよりも、いま父のこしらえかけている、まだ目も鼻もついていないような、そっけない人形の原型の方が、ずっとかわいらしくて好きだった。が、私はそれが自分の力ではなかなか持ち上がらないことを知ると、こんどはその人形をただ自分の手で撫でてやっているだけで満足した。しばらくそうやって撫でてかわいがってやっていると、その異様に冷たかったものが、ほんの少しずつ温かみを帯びてくる。そのほのかな温かみが――私自身の生《いのち》の温かみのようなものが――子供の私にもなぜとも知れずに愉《たの》しかった。……
父と子
客などがあってにぎやかに食事をしている間などに、私はもう眠くなりかけて、母の胸がそろそろ恋しくなり出しているところへ「お父ちゃんとお母ちゃんとどっちが好き?」などと皆の前で父に訊かれる位、子供心にも当惑することはなかった。そんなときに父は大抵酒気を帯びていた。そしてふだんとは異《ちが》って、しつっこく、私がいかにもてれ臭いような顔をするのを面白がって、いつまでも問いつめているようなことがあった。私は最初のうちは何んとかかとか云い逃《のが》れをしているが、そのうちに返事に窮してくると、もう溜《た》まらなくなったように母の腕の中にとびこんで、その胸に私の顔を隠した。
「それはお母ちゃんの方が好きね?」とその母にまでそう揶揄《からか》うようにいわれると、私は急に怒ったようにはげしく首を横にふるのだった。しかしその顔を一そう強く母の何処まで広いか分からないような胸に押しつけながら……
そして私はしばらくそうやっている裡に、いつかすやすやと寝入ってしまうのだった。
そうやって一度寝入ってしまうと、もうめったに目をさましたことがなかったが、ただ五六遍だけ、私は夜なかにぽっかりと目をあけた。気がついてみると、まっ暗な中に私はただ一人きりで寝かされている。そのうちにあかりの洩《も》れてくる次ぎの茶の間から、父と母とが何かしきりに言い合っているらしいのが次第に耳にはいってくる。何をいさかっているのか分からないが、ときおり母が溜まりかねたように声を鋭くする。父はそれを何かに笑いまぎらわせようとしている。私はゆめうつつにそれを耳に入れながら、最初は母と一しょになって訣《わけ》もわからず胸を一ぱいにしている。が、そのいさかいがだんだん昂《こう》じて、しまいにはそれまで皆の目を覚《さ》まさせまいとして互に小声で言い合っていたらしいのが、つい我を忘れたように声を高くしてくる。……突然、私はまっ暗ななかで一人でしくしくと泣き出す。父に訴えるのでも、母のために一緒に泣くのでもない、ただもうそれより他《ほか》にしようがなくって、泣くのを我慢しいしい泣いている。そのうちにやっと母がそれに気づいて、私をあやしに来てくれる。酒臭い父もそのあとから私のそばにやってくる。そして、父はよく枕《まくら》もとでお鮨《すし》の折などをひらきながら、「そんなことをするの、お止《よ》しなさいてば。……」と母が止めるのもきかずに、機嫌《きげん》よさそうに私の口のなかへ、海苔巻《のりまき》なんぞを無理に詰めこむのだった。そうすると私は反って泣いていたのを見つかったことをてれ臭そうにして、すぐもう半ば眠ったふりをしながら、でも口だけは仕方なしにいつまでももぐもぐやっていた。……
私の知った最初の悲しみであった、そういう父母のいさかいが、どうかするとその翌朝になってもまだ続いていることがあった。
そういうときなど、私はすぐ胸を一ぱいにして、彼等のそばを離れ、こっそりと庭へ抜け出していった。そしてその一番|隅《すみ》にある、やっとその中に自分の小さな体がすっぽりとはいれるような灌木《かんぼく》のかげに身をひそめて、誰にも見られぬようにしながら、一人で悲しんでいた。私はそうやって自分ひとりで悲しんでいれば、すべてが好くなると、なぜかしら思い込んでいた。そうしてそのために其処へ身をひそめただけで、もう目頭《めがしら》が一ぱいになって来るのを、やっと怺《こら》えながら、垣根の向うの、一面に雑草の茂った空地を、何か果てしなく遠いところのものを見ているかのように見ていたりした。或る日なんぞは、そういう自分の目の前に女の子のもつ手毬《てまり》くらいの大きさの紫いろの花がぽっかりと咲いているのに気がついたが、すぐそれへは手を出さずに、ひとしきり泣いたあとで、漸《ようや》っと許されたように、それをおずおずと掌《てのひら》にのせて弄《もてあそ》んだりしていたこともある。(註二)
そうやって私が庭の一隅にいつまでも身をひそめていると、そのうちに漸っとおばあさんが私を捜しに来た。いつもの私の隠れ場をよく知り抜いているくせに、おばあさんはわざとそういう私に気がつかないようなふりをして、何度も私の名を呼びながら、私の方へ近づいてきた。そうして私と隠れん坊でもしていたかのように、彼女のすぐ目の前に私を見つけて、わざとびっくりして見せた。それからもうそんな遊戯が終ったとでも云うように、「さあ、もうおうちん中へはいろうね」とおばあさんは私にやさしく言葉をかけて、私の手を無理にとった。私はちょっと抗《さから》って見せたが、自分が頑張《がんば》っていればおばあさんの力ではどうにもならないのを知っているものだから、身ぶりだけで抵抗しいしい、おばあさんの手に引っ張って行かれるがままになっていた。自分の悲しみがすべてを好いほうに向わせたらしいことに、一種の自負に近いものを感じながら……
おばあさんは私の家に泊りにきていないときは、いつも私の母の妹や弟たちの家へ行っているのだということを私はいつか知るようになった。小梅の、尼寺のすぐ近所にはずっと前から一人のおばさんが住んでいた。その家へは私もときどき母に手を引かれて家に遊びにいった。そうしていつとはなしに自分の家からその家へ行く道すじを覚えてしまっていたものと見える。(註三)
或る日、私の父が、私のために小さな竜を彫った真鍮《しんちゅう》の迷子札《まいごふだ》を手ずからこしらえてくれた。それが私にはいかにも嬉《うれ》しかったのだろう。私はその日の暮れがた近くぷいと誰にも知らさないで家を出た。もうこれからは一人で何処へだって行ける。そんな得意な気もちになってしまって、私はまっ先きにおばあさんのいる小梅のおばさんのところへ一人で行ってみようとおもった。最初は元気よく歩いていった。へんに曲りくねった裏道をすこしも間違えないでずんずん歩いていった。が、そのうちに、大きな屋敷や藪《やぶ》ばかりが続いているところへ出た。そこまで来ると、私は急に何んだか心細く、どうしたらいいか分からなくなってしまった。私はただもう泣き出したくなるようなのをやっと我慢しながら、真鍮の迷子札をしっかりと握りしめて、無我夢中になって歩いて行った。しまいには殆ど走るようにして行った。そうしたらやっとのことでおばさんの家が見え出した。その垣根の中では、おばあさんが丁度干し物を取り込んでいた。
おばあさんは私が一人なのを見ると、びっくりして飛んできた。「まあどうしたんだい、一人でなんぞ……」そういわれると、私はもう何も言わない先きから、わあと声をあげて泣き出した。ただ自分の兵児帯《へこおび》にぶらさげたその迷子札をしきりに引っ張っておばあさんに教えながら……
そんな仲好しのおばあさんが居なくなって、茶の間で忙しそうにしている母にうるさくまつわりついては一人でぐずぐず言っているような時など、
「坊や、一しょに散歩に行こう。」と父が言ってくれた。
「あんまり遠くへはいらっしゃらないで。」母はいつも心配そうに言うのだった。
私は父と出かけることも好きだった。しかし、父は先《ま》ず、曳舟通りなんぞにある護謨《ゴム》会社や石鹸工場のなかへ私を連れてはいり、しばらく用談をしている間、私を事務所の入口に一人で待たせておいた。その間、私はすぐ目の前の工場の中できいきいと今にも歯の浮きそうな位|軋《きし》っている機械の音だの、汗みどろになって大きな荷を運んでいる人々だの、或《ある》事務所の入口近くにいつも出来ている水溜《みずたま》りの中に石油が虹《にじ》のようにぎらぎら光っているのなどを、いかにも不安そうに、じっと何か怺《こら》えている様子で、見守っていなければならなかった。
それから父は私の手をひいて、曳舟通りをぶらぶらしながら、その頃出来たばかりの業平橋《なりひらばし》駅の方へ連れていってくれた。それが私の忍耐の報酬だった。私はその新らしい駅が何んということもなしに好きだった。私はとりわけ、誰もいなくて、空《から》っぽ過ぎるくらい空っぽで、その向うに白い雲のうかんでいるようなプラットフォオムが好きだった。そのうち空《から》の汽車が徐《しず》かに後戻りして来ながらそれに横づけになって、何んにも見えなくなってしまう。やがて、プラットフォオムの上には人々の姿がちらつき出し、見る見るそれが人々で一ぱいになる。が、その汽車が何度も汽笛を鳴らしながら出ていってしまうと、あとは又以前のように空っぽになってしまう。そしてその向うにはまた白い雲のうかんでいるのが見える。そんなすべての変化が面白くってならなかった。――私がそうやって一人で改札口の柵《さく》にかじりついて、倦《あ》かずにそれらの光景に見入っている間、父は構内のベンチに腰を下ろしながら、売店で買った夕刊なんぞ読んでいた。
赤ままの花
私の若い頃の友人だった、一詩人が、彼自身もっと若くて、もっと元気のよかったとき、
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お前は歌ふな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな
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と高らかに歌った。その頃、私はその「歌」と題せられた詩の冒頭の二行に妙に心をひかれていた。それは、非常に逞《たく》ましい意志をもち、しかもその意志の蔭に人一倍に繊細な神経をひそめていた、その独自の詩人が自分自身にも向って彼の「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところ」を歌ったのにちがいがなかった。その勇敢な人生の闘士は、そういう路傍に生《は》えて、ともすれば人を幼年時代の幸福な追憶に誘いがちな、それらの可憐《かれん》な小さな花を敢《あ》えて踏みにじって、まっしぐらに彼のめざす厳《きび》しい人生に向って歩いて行こうとしていた。……
その素朴な詩句は、しかしながら私の裡《うち》に、云いしれず複雑な感動をよび起した。私はその僅《わず》かな二行の裡にもその詩人の不幸な宿命をいつか見出《みいだ》していた。何故なら、その二行をもって始められるその詩独特の美しさは、それは決してその詩人が赤まんまの花や何かを歌い棄《す》てたからではなく、いわばそれを歌い棄てようと決意しているところに、……かえってこれを最後にと赤まんまの花やその他いじらしいものをとり入れているために――そこにパラドクシカルな、悲痛な美しさを生じさせているのにちがいないのだった。若しそれらを彼が本当にその詩を書いたのち綺麗《きれい》さっぱりと撥《のぞ》き去ってしまったなら、その詩人はひょっとしたらその詩をきっかけに、だんだん詩なんぞは書かなくなるのではないか、という気が私にされぬでもなかった。
それほど、私はより高い人生のためにそれらの小さなものが棄て去られることには半ば同意しながら、しかしその一方これこそわれわれの人生の――少くとも人生の詩の――最も本質的なものではないかと思わずにはいられない幼年時代のささやかな幸福、――それをこの赤まんまの花たちはつつましく、控目《ひかえめ》に、しかし見る人によっては殆《ほとん》ど完全な姿で代表しているのだ。……
「それはそうと、赤まんまの花って、いつ頃咲いたかしら? 夏だったかしら? それとも……」と私は自分のうちの幼時の自分に訊《き》く。その少年はしかしそれにはすぐ答えられなかった。そう、赤まんまの花なんて、お前ぐらいの年頃には、年がら年じゅうあっちにもこっちにも咲いていたような気がするね。……
いわばそれほど、季節季節によってまるでお祭りのように咲く、他の派手な花々に比べれば、それらの地味な花はいつ咲いたのか誰にも気づかれないほどの、そして子供たちをしてそれがままごと[#「ままごと」に傍点]に入用なときにはいつでも咲いているかのような――実はその小さな花を路傍などで見つけて、誰か一人がふいと手にしてきたのが彼|等《ら》にそんな遊戯を思いつかせるのだが――心もちにさせる、いかにも日常生活的な、珍らしくもない雑草だった。
しかしながら、その「赤まんま」というなつかしい仇名《あだな》とともに、あの赤い、粒々とした花とはちょっと云いがたい位、何か本当に食べられそうに見える小さな花の姿を思い浮べると、いまだに私には一人の目のきつい、横から見ると男の子のような顔をした少女の姿がくっきりと浮ぶ。それから、もう一人の色つやの悪い、痩《や》せた、貧相な女の子の姿が、その傍《かたわ》らに色褪《いろあ》せて、ぼおっと浮ぶ。それからその幼時の私のたった二人っきりの遊び相手だった彼女たちと、庭の無花果《いちじく》の木かげに一枚の花莚《はなむしろ》を敷いて、その上でそれ等の赤まんまの花なんぞでままごとをしながら、肢体《したい》に殆どじかに感じていた土の凹凸《おうとつ》や、何んともいえない土の軟《やわら》か味のある一種の弾性や、あるときの土の香《かお》りなどまでが……
そうして私はそういうとき、自分の前に、或《ある》時はすっかり冬枯れて、ごつごつした木の枝を地中の根のように空へ張っていた、――或時は円い大きな緑の木蔭を落して、その下で小さい私達を遊ばせていた、一本の無花果の木をありありと蘇《よみがえ》らせる。――「私にとって、おお無花果の木よ、お前は長いこと意味深かった。お前は殆ど全くお前の花を隠していた……」とリルケの詩にも歌われている、この無花果の木こそ、現在では私もまた喜んで自分の幼年時代をそれへ寄せたいと思っている木だ。あたかも丁度私の幼年時代もまたその木と同じく、殆ど花らしいものを人目につかせずに、しかもこうやっていつか私に愉《たの》しい生《いのち》の果実を育《はぐ》くんでいてくれているとでも云うように……
一人の少女は、お竜《りゅう》ちゃんといった。ちょうど私とおない年だった。きつい目つきをした、横から見ると、まるで男の子のような顔をした少女だった。どうかすると、ときどき私をそのきつい目でじっと見つめていた。――その目《まな》ざしを私はいまだによく覚えている。本当に覚えているのはその印象的な目ざしきりだが、――しかしそれだけを思い浮べただけで、もう忘れてしまっている顔の他の部分までが、何んとなくぼおっと浮んでくるような気さえされる位だ。……
私の家の生籬《いけがき》の前に、そこいらの路地の中ではまあ少しばかり広い空地があったので、夕方など、よく女の子たちが其処《そこ》へ連れ立ってきて、輪をつくっては遊んでいた。
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ひらいた。ひらいた。何んの花ひらいた。
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そういう女の子たちの歌声がそこから聞えて来ると、一人虫の私は、そっと生籬の中に出て、八ツ手の葉かげから、彼女たちの遊びを見ていた。大抵は余所《よそ》から遊びに来たらしい、私なんぞよりすこし年上の、知らない女の子たちばかりで、唯《ただ》、その輪の中にはいつも顔見知りのお竜ちゃんがはいっていた。お竜ちゃんはときどき輪の中から、八ツ手の葉かげの私の方をこわい目つきでじっと見つめては、急にみんなに手を引っぱられて、一しょに
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つぼんだ。つぼんだ。何んの花つぼんだ。
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と少ししゃがれたような声で歌いながら、どうでもいい事をしているように輪をつぼめていったりしていた。そんな他の女の子たちとは異《ちが》った、どこか冷淡なような感じのする、そのお竜ちゃんの様子が、どういうものか、妙に私の心をひいた。
そんな夕方のように、他の女の子たちと一しょでないと、よくその生籬のところで、お竜ちゃんは私と二人きりで遊んで行くようになった。どんなきっかけからだったかは忘れた。私はしかし、女の子の好んでするような遊びは何も知らなかったし、又気まりを悪がってその真似《まね》さえしようともしなかったので、お竜ちゃんは私がぽかんと見ている前で、よく一人でお手玉を突いたり何かして遊んでいたが、それに倦《あ》きると、「又、こんどね」といって、お手玉を袂《たもと》に入れて帰って行った。そのあとで、私はいつも仲好く一しょに何もしないのでお竜ちゃんに嫌《きら》われはしまいかと思った。
或る日、お竜ちゃんが真面目《まじめ》そうに私にいった。
「こんどみんなが蓮華《れんげ》の花をするとき、一しょにおはいりなさいな?」
私は気まり悪そうに首をふった。
「だって、何も知らないんだもの。」
「誰にだってじき覚えられるわよ、ね、一しょにしない?」
「…………」私はとても駄目そうに、首をふっているきりだった。
お竜ちゃんは、それにもかまわずに、その遊びの手つきをしながら、一人で「ひらいた、ひらいた、ひらいたと思ったら見るまにつぼんだ」と例の少ししゃがれたような声で歌い出していたが、私がそれに少しもついて行こうとしないで、ただ熱心に見つづけていると、ふいと彼女は冷淡な様子をして止《や》めてしまった。
が、その次ぎにみんなが又その生籬のところに来て、蓮華の花をやり出したとき、私が八ツ手の葉かげから見ていても、お竜ちゃんはみんなと手をつなぎ合ったまま、ときどき私の方をちらっちらっと見るきりで、知らん顔をして、みんなと遊びを続けていた。それに私だって、たとえお竜ちゃんが私を仲間に誘いに来ても、なかなかその遊びに加わろうとはしなかったろうが、それにもかかわらず、仲間はずれにされたように、私はいかにも淋《さび》しい、うつけたような顔をして、みんなの遊んでいるのをぼんやりと見ていた。……
そんなときの私の幼い顔つきを、――その後、大きくなってからも、ときどき何かのはずみに――丁度そんな幼時の自分の場合に似て、半ば自ら好んでだが、一人きりみんなから仲間はずれにされているような場合に、――私はふいに自分がそんな幼い顔つきをしているのを感ずることがある。そういう場合に、すっかり大人寂《おとなさ》びた私にまで、何んとなく無性に悲しいような、それでいて何んともいえずなつかしい、誰かに甘え切りたいような気のされるのは、思えば、それはこういう自分の幼時に屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》経験された、切ない感情の思いがけない生れ変りに過ぎないのだということが、いま漸《ようや》く、私にはっきりと分かって来る。……
そういうちょっと誰にともつかず拗《す》ねたような気もちになっていたあとで、私はよく何も知らない母やおばあさんに、何んということもなしに、甘えられるだけ甘えて、いつまでもむずかっているより他《ほか》はしようのない自分自身を見出すのだった。しかし彼女たちだって、私の訴えるものを解せないので更にどうしようもなく、又そういう自分の心が何物によっても癒《いや》されないということが幼い私にも予覚せられていたのだったけれど、ただそうやっていつまでもむずかり、甘えていられる対象が自分の身近かにあるというだけで、それだけでもう少年には好かったのだった。
お竜ちゃんは私と友達になったように、誰とでもすぐ友達になった。そうやってときどき一人でこっそりと私のところへ遊びに来ているかと思うと、急にまたちっとも来なくなってしまった。そうしてどこか余所でもって他の男の子や女の子たちと平気で遊んでいた。……私は自分と一番仲好しになって貰《もら》おうと思って、お竜ちゃんとうちの庭で遊ぶことを母に許して貰ったり、ままごと道具なんぞをいくつもいくつも買って貰ったりして、それとなくお竜ちゃんの機嫌《きげん》をとることを覚え出した。庭の一隅にある大きな無花果の木かげを、私はお竜ちゃんと二人でままごとなどして遊ぶ場所に決めていた。そうしてお竜ちゃんの来ないときも、いつもそこへ花莚を敷かせて、お竜ちゃんの来るのを心待ちにしながら、一人で遊んでいた。……お竜ちゃんの家には私の嫌いな腕白《わんぱく》の兄や弟たちがいるので、私は決して自分の方から彼女を呼びに行こうとはしなかった。そうしていつかやって来るにちがいない彼女のために新しく買ったままごと道具はそのまま別にして置いて、私は自分自身は古いので我慢して、それをいつもお竜ちゃんのする通りに花莚の隅《すみ》に並べたりしていた。……
或る日、私がそうやって一人で無花果の木かげで余念なく遊んでいると、私の母が何処《どこ》からか、一人の見かけない女の子を連れて来た。
「この子と遊んでやって頂戴《ちょうだい》ね。」そう母はその子にいって、私の傍に彼女を置いていった。その女の子は、痩せた、顔色のわるい、しかしその黒味がちな目にしっとりと美しい艶《つや》をもった子だった。そうして粗末な、つぎはぎだらけな着物をきていた。私はまだその女の子とは言葉も交《か》わさないうちから、その子に対してはもう半分馬鹿にしたような態度をとり出した。その女の子は、そんな私をすこし持て余すようにしていたが、おとなしい性質と見え、何をしても私のするがままになっていた。しかし、同じままごと遊びをするにしても、お竜ちゃんだったら何をしても私の気に入るように出来たのに、その女の子と来たら、一所懸命に私のために何をやっても、私の気に入るようには出来なかった。
私はお竜ちゃんのために大事にとってある上等な道具はその子と遊ぶときには使わない事にして、もうさんざ使い古した、そして半端《はんぱ》になったような、ちぐはぐな皿や茶碗《ちゃわん》でばかり遊んだ。そうして庭の隅っこに咲いている赤まんまの花なんぞも、私は立派なのは残しておいて、すこし萎《しお》れかけたようなのや、いじけたようなのばかり採って来た。
それでもその女の子は始終おずおずしたような微笑を浮べながら、おとなしく私について遊んでいた。そうやって私は自分勝手なことばかりやって、まるで相手を眼中に置かぬようにして遊んでいるうちに、何か急にその女の子と遊ぶのが厭《いや》になると、ぷいと立って、その子を無花果の木の下に残したまま、自分だけ家のなかへはいってしまったりした。すると、その女の子は何もしないで、一人でいつまでも、花莚の上に坐ったまま、私を待っていた。縁側で縫物をしていた母は、それに気がつくと、何か小声で私を叱《しか》りながら、お菓子を紙につつんで、その女の子のところへ持っていってやりながら、「又遊びに来てね」といって、その女の子を帰らせた。私はそれを見ながら、知らん顔をして、一人で何か他の玩具を手にして遊んでいた。
そのもう一人の少女は、たかちゃんといった。本当に気立てのやさしい子で、私の母のお気に入りだったが、たかちゃんがそういう子であればあるだけ、私はいよいよ好い気になって意地悪ばかりをしつづけた。しかしたかちゃんは私にそうされる事は当り前であるかのように、すこしも気にしないで、毎日のように遊びにきた。そのうちに又ひょっくり、機嫌買いのお竜ちゃんも遊びにくるようになった。そうやって三人で遊び合うようになってからだっても、お竜ちゃんはますますその本領を発揮した。しかしおとなしいたかちゃんは私にばかりでなく、そういう利《き》かん気のお竜ちゃんに対しても、すべて控え目にしていた。そのために殆ど仲違《なかたが》いもせずに、三人で仲好く遊びつづけていられた。尤《もっと》も、ときどき女の子同志で小さな諍《いさか》いをし合っても、いつも私がお竜ちゃんの味方をするので、すぐそれはおしまいになった。それは初夏の日々だった。いまは厚い大きな葉を簇《むら》がらせた無花果の木が、私達に恰好《かっこう》のよい木蔭をつくっていてくれた。私達はときどき花莚の上に三人ともごろりと寝そべって、じっとその下に冷たい土の肌《はだ》ざわりを感じ合ったりしていた。それは私達に睡気《ねむけ》を誘うほど気もちがよかった。
ときどき四つ目垣の向うの、或《あるい》は高く或は低く絶えずかちかちと鉄槌《かなづち》の音を響かせている細工場の中から、(父は屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》留守だった……)、よく頓狂《とんきょう》な奴だとみんなから叱られてばかりいた佐吉という小僧が、何かの用に立ったりしたついでに、私達をからかったりした。それをきくと、お竜ちゃんは本気になって怒って、それに何か云いかえしたりした。たかちゃんの方は黙って気まり悪そうに下を向いたきりでいた。私ははじめは知らん顔をしていたが、お竜ちゃんがあんまり口惜《くや》しがったりすると、家のなかではこわいもの知らずの私は、「水ピストル」を手にして、向う見ずに細工場の方へ飛び込んでいって、それを佐吉にさしつけながら、頭から水をぶっかけた。佐吉は前掛けを頭からかぶって逃げまどいながら、しまいには頓狂な声をあげて、降参の真似をした。
それから私が得意そうに、二人の少女が小気味よげにそれを見ている木蔭へ戻って行こうとすると、又佐吉が性懲りもなく、背後から、
「弘《ひろし》さんったら、女の子の加勢ばかりしていらあ。おかしいですぜ」とひやかした。それをきくと、私はかあと耳のつけ根まで真っ赤になって、こんどは自分でも何をするのだか無我夢中に、無花果の木の下にいる、その女の子たちの方へその「水ピストル」を向けながら突進して行った。お竜ちゃんは無頓着《むとんじゃく》そうな、きつい目つきで、何をするのかといった風に、私の方を見つめていた。そういう私を見て、おどおどしながら庭の隅っこへ逃げていったのは、たかちゃん一人だった。
細工場の方からみんなが面白そうに見ているものだから、私は騎虎《きこ》のいきおいでどうしようもなく、私の前に平気で立っているお竜ちゃんには、ほんの少し水をひっかける真似《まね》をしたきりで、あとは逃げていくたかちゃんを追っかけて、厠《かわや》の前まで迫いつめながら、頭から水をひっかけた。たかちゃんは、もう観念したように、両手で顔だけ掩《おお》いながら、私に水をかけられるままになっていた。
無花果の木の下では、ほんのちょっと私に肩のあたりへ水をかけられた位の、お竜ちゃんが、いかにも口惜しそうに声を立てて、泣き出していた。……
入道雲
一月《ひとつき》のうちには一遍ぐらいこんなことがある。……
もう夜になって、少年がそろそろ睡《ねむ》くなりかける時分から、見知らないお客たちが四五人きては、みんな奥の間にはいって、しばらく父や母をまじえて、あかるい、らちのない笑い声を立てているが、そのうちきまって急にひっそりとしてしまう。それからはときおり思い出したように、ぴしゃりぴしゃりと花札のかすかな音がするだけになるのだった。……
それがはじまると、私は妙に神経が立って、いつまでも茶の間でおばあさんの傍《そば》などにむずかって、寝間着を着せられたまま、碁石などを弄《もてあそ》びながら起きていた。ときどき母がお茶などを淹《い》れに来たりすることがあっても、私はそっちを振り向こうともしないで、こわい目つきをして自分の遊びに夢中になっているようなふりをしていた。が、そのうち私はとうとう睡たさに圧《お》しつぶされて、茶の間に仮りに敷いてある蒲団《ふとん》に碁石なんぞを手にしたまま、うつ伏してしまうのが常だった。そんな場合には私は大抵もう一度夜なかに目を覚《さ》ましたが、それはもうお客たちが帰っていったあとで、丁度それまで寝入っていた私が、奥の寝床に移されかけているところなのであった。……
そんな或る晩、おばあさんの傍でいつのまにか愚図りながら寝込んでしまっていた私は、夜なかのいつもの時分になって、ふいと目を覚ました。いつもとは大へん異《ちが》って騒々しいような気がしたが、丁度みんなが帰りかけているところらしく、唯《ただ》、おかしい事には、見かけない姿の人が混ざっていたり、私の父や母までがその人達と一しょに出ていってしまったようだった。……それに、いつになく、そのあとにはおばあさんや細工場の者たちがうろうろ出たり入ったりして、私が目を覚ましたことなんぞには一向気がつかないらしかった。私はやっと一人で起き上がると、しぶしぶと目をこすりながら、奥の間にはいっていった。いつもならもうちゃんと蒲団がとってある筈《はず》だのに、そこには誰もいないばかりでなく、明るい洋燈の光を空《むな》しく浴びながら、何もかもが散らかり放題になっていた。私は寝呆《ねぼ》けたように、その真ん中に坐ると、急に怒ったように、そこいらに散らばっていた花札を一つずつ襖《ふすま》の方へ投げつけ出した。……
おばあさんはそんな私にやっと気がつくと、別に小言もいわず黙ってその花札を取り上げた。それからしばらくすると、私は半分睡ったまま、佐吉の背中におぶせられて、おばあさんと三人きりでおもてへ出た。それから私達は、おばあさんの手にした小さな提灯《ちょうちん》のあかりで、真っ暗な夜道を歩き出した。ところどころ風立った藪《やぶ》のそばなんぞを通り過ぎてゆくらしかった。私はときどき薄目をあけてはそういうものを見とがめ、一々それをおばあさんに訊《き》いたような気がする。すると、おばあさんはそれに二言三言返事をしてくれた。なにを言うたやらも私には分からなかったが、何か私の気を休めるのに一番好いことを言うてくれたと見え、私はすぐまた佐吉の肩にしがみついたまま、すやすやと寝入ってしまうのだった。……
あくる朝、私が目を覚ましたのは、あの小梅の、尼寺にちかい、おばさんの家だった。私は一日じゅう元気がなく、しょんぼりとしていた。そして父や母のことさえ、なぜか、なんにも訊かなかった。午後になってから、おばあさんが私を近所の三囲《みめぐり》さまへ連れ出しても、その石碑の多い境内や蓮池《はすいけ》のほとりで他の子供たちが面白そうに遊んでいるのを、私はぼんやりと見守っているきりだった。
夕方、私は佐吉が来たのを見ると、急にはしゃぎ出した。佐吉は何か二言三言おばさんやおばあさんに言っていた。すべてが片づき、佐吉は果して私を迎えに来てくれたのだった。そのときも私は甘えた気もちで、自分から佐吉におぶって貰《もら》って、家に帰った。家に着くと、父も、母も、ちっともふだんと変らない様子で、いかにも何事もなさそうに私を迎えた。私は何が何んだかよく分からないながら、子供特有の順応性で、そういうすべてのものをそのまま何んの躊躇《ちゅうちょ》もせずに受け入れた。そうして私は、そんな出来事のあったことさえ、若しもその結果として私のまわりに何んの変化も起さなかったならば数日のうちには忘れ去ったかもしれなかった。……
ただ小さな私にもすぐ気のついたのは、そんな事があってから私のところへぱったりと誰も来なくなった事だった。最初のうちは、まだ私が家に帰って来ていないと思って遊びに来ないのだろうと思っていた。が、二日立ち、三日立ちしても、誰も一向やって来そうにもなかったので、私はやっぱり自分の留守の間に何か変った事があったのだろう位に思い出した。しかし、はにかみやの私はそんな事を人に訊くのは何かばつが悪いような気がして何も訊かずにいた。が、或る日、私は父に連れ出されて、ひさしぶりで業平橋《なりひらばし》の方まで行き、そこの駅の中で、ぴかぴか光った汽車が何処《どこ》か遠くのほうに向って出発するのをひととき見送ってから、いかにも満足した気もちになって、家の方に帰ってきたとき、路地の奥にいた二三人の子供たちが私たち父子を見ると急いで物蔭にかくれるのを私は認めた。その中の一人は確かにお竜ちゃんにちがいなかった。――私はやっとそれですべてが分かったような気がしたが、父には何もいわないで、ただ急に気の抜けたように、それまで父の手をしっかりと握っていた自分の手を心もち弛《ゆる》めた。……
私はそれから当分の間誰れの顔を見るのもこちらから避けるようにしていた。お客などがあると、私は急いで庭の隅《すみ》へ逃げていって、そこで一人で遊んでいた。私はもうお竜ちゃんやたかちゃんの事なんぞはどうだって好いと思いながら、自分がそれまで彼女|等《ら》から受け取っていたすべてのものを、自分の大好きなあの無花果《いちじく》の木に――それだけがまだそっくり以前のまま私のまえに残されている一本の無花果の木に、求めようとし出していた。
「お母あさん」と或る日私は庭の中に母と二人きりでいるとき問うた。「おうちの無花果はいつ実《み》がなるの?」
「もうじきだよ……ほら、あんなにお乳が大きくなってきたろう……」といって、母はその枝にだいぶ目立つようになった、まだ青い実を私に指さして示した。
「早く食べられるようになるといいね。」私は母に同情を求めるように、いくぶん甘えながら言うのだった。
みんなで楽しみにしていたその実がいくらたんと熟《な》っても、残らず自分一人で食べてしまうから。誰にだって分けてやりあしない。――そんな仕返しが私には、お竜ちゃんや、たかちゃんに対して、まあどうやら満足のできるような仕返しのように思えていた。
その日々、私は、その無花果の木かげに花莚《はなむしろ》だけは前と同じように敷かせて、一人で寝そべりながら、そんな実の出来工合なんぞ見上げていたが、ときどき思い出したように跳《と》び起きて、見真似《みまね》で、その木へ手をかけて攀《よ》じ上がろうとしては、すぐ力が足りなくなって落ちてばかりいた。が、少しずつ手の痛さを我慢できるようになって、それから上へは攀じのぼれないまでも、だんだん一と所の幹にじっとしがみついていられるようになった。或る日、縁側から、母がそういう私らしくない乱暴な木登りを見ていた。いつもならすぐ私がそんな真似をするのを止《や》めさせる母は、そのときはぼんやりした顔をして、私がそんなあぶないことをするがままにさせていた。……
或る日、母が又たかちゃんの手をとるようにして、私のところに連れてきてくれた。たかちゃんはしばらく逢《あ》わなかったので、すこし気まり悪そうな顔をしていたが、しかし私に対する昔の従順な態度を少しも変えていなかった。それが私に「どうして来なかったの?」と思い切って彼女に訊かさせた。と、たかちゃんはなぜか暖昧《あいまい》に「来ないって、お竜ちゃんと約束したんだもの」とだけ返事をした。私はなんだか悔しいような気がしたが、「どうして?」って、それ以上は訊こうともしなかった。そしてただ相手がたかちゃんだけでは何んだか物足りなさそうにしながらも、しかし何処かへ打棄《うっちゃ》らかしておいた、小さな皿や茶碗《ちゃわん》などを一所懸命に掻《か》き集めて、前と同じようなままごとを二人だけでしはじめた。それは大人たちの又かと思うような、いかにも単純な遊びだが、小さな子供というものは、それはときには目先きの変ったことを求めもするが、それにはすぐ倦《あ》いてしまって、またもとの、いつまで繰り返していても倦きることのないような、家常茶飯《かじょうさはん》的な遊びに立ち返っていくことを好むものだ。
「何かもっと他《ほか》のことでもして遊んだらどうなの? いつも同じことばかりしていないで……」母さえそういう私達を見ながら言うのだった。
それが私を多少|羞《は》じらわせ、そんな女の子のような遊びを続けることを幾分ためらわせた。が、私はすぐ強情を張って、
「これがいいんだい……」とぶっきら棒に答えて、ねえ、たかちゃんと言うように相手の少女の方を見た。
「…………」たかちゃんは何か気まり悪そうに私の母の方を見上げ、ちらっと微笑《ほほえ》んで、それから私に同意をした。
たかちゃんはそれから又毎日のように遊びにきた。たかちゃんは私と二人きりだけだと、いつも小さな母親のように私の世話を焼いたりするのが好きだった。最初はそういうおせっかいなやり方が、私には小うるさくて、気に入らなかったが、そのうち不意に、そういうたかちゃんに、これまで自分の母にしつけて来たが、そんなこともいまはちょっと出来にくくなったような幼い日の仕草を再び繰りかえす事に、――そういう事をもいかにも自然に行わせてくれる二人きりのままごと遊びに、妙な魅力のようなものを私は感じはじめた。小さな私がそんな自分よりももっと幼い子の真似《まね》をして、花莚にくるまって寝ていると、たかちゃんは小さな母親のように、上手《じょうず》にいろいろとあやしたり、赤まんまなどを食べさせる真似をしてくれたりするのだった。……
そうやって母と子の真似をしあって遊んでいる私達を、いまは殆《ほとん》ど隠すばかりになった無花果の木の、厚い葉かげには、漸《ようや》っと大きくなった果実がだんだんと目立ち出していた。ときどき虫の食った、まだ青い果実がぽつんと一つ、鈍い音をさせて落ちてきた。それを手で無理に裂いてみると、白い乳のようなものを吐いた。私はそれをたかちゃんのおっぱいだといって、何か気ちがいのようにきゃっきゃっといってふざけながら、その乳汁を方々へこすりつけたりした。
そんな夏ももう終ろうとする或る午後だった。それまで無花果の木かげで遊びにふけっていたたかちゃんと私とは、家じゅうのものが午睡をしだす頃を見はからって、そっと諜《しめ》し合わせて、私の家を抜け出していった。
私達は誰にも気《け》どられずに路地を抜け出そうとする間ぎわ、向うからきょうはお竜ちゃんが一人きりでぶらっとくるのを認めて、大いそぎで物蔭へかくれた。お竜ちゃんはそういう私達には少しも気がつかないで、何んだかつまんなさそうな、つんとした、男の子のような顔つきをして、私達の前を通り過ぎていった。……私はなんだか胸が一ぱいになった。そうして何か隠れん坊でもしているように私の背後にかじりついているたかちゃんにふいと冷淡な気もちを感じて、いっそのことその物蔭からお竜ちゃんの方へわあっと云って飛び出してみたいようになるのを、やっとのことでじっと怺《こら》えていた。……
が、まんまと曳舟通《ひきふねどお》りまで私達が出てしまうと、急に私は機嫌《きげん》をなおした。そうして、自分の方から、たかちゃんの手を引張るくらいはしゃいで、その掘割に沿うて、いつも父と散歩にいくのとは反対の方へ――殆どまだ一ぺんも行ったことのない場末の方へずんずん歩き出していた。案内役のたかちゃんの方が、かえって不安そうについて来る位だった。見知らない、小さな木橋を二つ三つ過ぎると、もう掘割沿いの工場や倉庫なんかもずっと数少なになって、そこいらには海のような野原が拡《ひろ》がり出していた。
そういう野原の真ん中に、大きな、赤い煙突のある、一つの工場が見えかくれしていた。それがたかちゃんの父親の働いている硝子《ガラス》工場だった。彼女の話では毎日、彼女の父はその工場で、火の玉をぷうっと吹いては、さまざまな恰好《かっこう》をした硝子の壜《びん》を次から次へと作っているということだった。何べんもその工場へ父に会いにいったことのあるたかちゃんは、そういう父の超人的な仕事ぶりを、あたかも彼女の知っている唯一のお伽噺《とぎばなし》かなんぞのように繰りかえし繰りかえし私に話して聞かせたのだった。そうしてしまいには私はどうしてもそれを自分でも見ずにはすまされない程になって、数日前からそれを誰にも云わずにこっそりと見にいく約束をし合っていたのだった。
が、それは小さな私達にはすこしばかり冒険すぎた。近道をしようとして、私達があとさきの考えもなく飛び込んでいったところは、あちらこちらに自然に水溜《みずたま》りが出来ているような湿地にちかいものだった。が、そういう水溜りをあっちへ避けこっちへ避けながら歩いていると、いくら行っても、依然として遠くに見えている、その魔法のかかったような工場の方へ、私達がだんだん心細くなりながら、それでもどうにかこうにか漸っと近づき出したときは、――それまでそうやって私達を殆ど向う見ずに歩かせていたところの、私達の裡《うち》の何物かへのはげしい好奇心そのものはもうどこかへ行ってしまっていた。それほど、そうやって歩いていることだけに小さな私達は全力を出し尽してしまっていたのだ。
やっとのことで私達はその大きな硝子工場の前まで辿《たど》りついた。私は急にいじけて、たかちゃんのあとへ小さくなって附いていった。やがて、遠くから見るとその内側が一めんに火だらけになって見えるような作業場の中から、てかてか光るような菜っ葉服をきた、彼女の父親らしいものが姿をあらわした。たかちゃんがその傍に走っていって、何かしきりに話し出した。
その菜っ葉服をきた人は、その立ち話の間に、私の方を一ぺんじろりと見たようだった。それからまた少女の云うのを聞いているようだったが、そのうち急にその少女の方へ真黒に光った顔をむけて、二言三言何か乱暴そうに答え、もう私の方なんぞ目もくれないで、少女をそこへ一人残したまま、さっさと又火の中へはいっていってしまった。
少女はその場にいつまでも立ちすくんだようになっていた。私は門のそばに不安そうに立ったまま、もうどうなったって好いような気もちにさえなって、まだ何か未練がましくしている彼女の方を、まるで怒ったような目つきで見ていた。とうとう彼女は首をうなだれて私の方に向ってきた。
私は彼女に何も訊かないで、そこにいつまでも彼女が泣き顔をしたまま居残っていそうに見えるのを、無理に引っぱり出すようにして、二人して工場の門から出た。そうして、来るときは殆ど駈《か》けっこをするようにして突切って来た広い野を、こんどは二人並んでしょんぼりと歩き出した。ところどころにある水溜りがきらきらと西日に赫《かがや》いていた。相手の顔がときどきその反射でちらちらと照らされたりするのを、私達はさも不思議そうに、しかし何んにも言いあわずに見かわした。……
ようやっと私達は、さっきそれを渡った覚えのある木の橋に近づき出した。……
それまで互に口も利《き》き合わずに、ひたすら帰りをいそいでいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえっていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不機嫌《ふきげん》にさせていた、不幸な少女の方だった。
「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そうおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、少女はそっちの方を振りかえって見た。
「ああ、ぼくも見た……」私もやっと自分自身にかえったように、急に元気よく言った。
そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になって歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえった。野の上には、二人の過《よ》ぎってきた途中の水たまりが、いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大きな入道雲が浮び出していた。(実はさっき野原を横切っているときから二人には気になっていたのだった……)それが、いま、極《きわ》めて無気味な恰好に拡がって、もうずっと遠くになった硝子工場の真上に覆《おお》いかぶさろうとしているところだった。さっきから二人を脅かしつづけていたもの、やっとのことで二人がその兇手《きょうしゅ》から逃《のが》れ出してきたものが、いまや、もう二人が追いつきようのないほど遠ざかってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体を現し、そんな凄《すさま》じい異形《いぎょう》をそこでし出してでもいるかのように、二人には見えるのであった。……
洪水
そういう夏が終って、雨の多い季節になった。
毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人で硝子戸《ガラスど》に顔をくっつけて、つまらなそうに雲のたたずまいを眺《なが》めていた。それを眺めているうちに、いつか自分の呼吸《いき》で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともつかないような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描いては、それを拭《ぬぐ》わずにそのままにして、又ほかの硝子戸にいって雨を眺めていた。
そんな硝子の模様は、あたかも私自身のいる温かい室内の幸福を証明しているかのように、いつまでも残り、それに反して、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡《ぬ》れになった無花果《いちじく》の木をば、一層つめたく、気持わるそうに私に思わせていた。その無花果の木は、漸《ようや》っと大きく実らせた果《み》を、私達に与える前に、すでに腐らせ出していた。……
そういうほどにまで雨が小止《おや》みもなしに降りつづいたあげく、或る日、それにはげしい風さえ加わり出した。風は殆《ほとん》ど終日その雨を横なぐりに硝子戸に吹きつけて、ざわめいている戸外をよくも見させず、家のなかの私達まで怯《おび》やかしていたが、夕方、漸っとその長い雨は何処《どこ》かへ吹き払ってしまってくれた。そうしてからもまだ風だけは、そのまま闇《やみ》の中にしばらく残っていた。
そんな夜ふけに、私はふと目を覚《さ》まして、自分の傍に父も母もいないことに気がつくと、寝間着のまま、みんなの話し声のしている縁側まで出ていった。そうして私はみんなの背後から、寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら、その縁側の下まで一ぱいに押し寄せてきている濁った水が、父の手にした蝋燭《ろうそく》の光で照らされながら揺らめいているのを、びっくりして覗《のぞ》いていた。その蝋燭の光の届かない、家のすぐ裏手を、誰だかじゃぶじゃぶ音をさせて水の中を歩いていた。ときどき、暗やみの中で、何やら叫んでいる者がいた。……
そうやって皆と一しょになって、何が何だか分からずに、寧《むし》ろ面白そうにしている私に気がつくと、母は私を寝間に連れていって、「心配しないでおいで。この位の洪水《みず》はいつもの事なんだからね」そう繰り返し繰り返し云って私を宥《なだ》めながら、無理やりに私を寝かしつけた。……が、明け方になって再び私が目をさましたときは、家の中は只《ただ》ならず騒々しくなっていた。私はゆうべ夢の中でのように見たかずかずの事を思い出し、縁側に飛んでいって見た。ゆうべまざまざと見た濁った水は、いまその縁と殆どすれすれ位のところにまで押しよせて来ていた。
父は弟子《でし》たちに手伝わせて、細工場の方に棚《たな》のようなものを作っていた。それはもう半ば出来かかっていた。母は縁側に出ている私を見ると、着物を手ばやく着換《きか》えさせ、「あぶないから、あんまり水のそばに行くんじゃないよ」と言ったきりで、すぐ又向うへ行って、忙しそうに皆を指図《さしず》していた。
私はそこに一人ぼっちにされていた。そのあいだ、小さな私は、自分の前に起っている自然の異常な現象をまだよく判断する力もないのに、それに対してただ一人ぎりで立ち向わせられていたのだった。そのとき、その縁先きまで押しよせてきている黝《くろ》い水や、その上に漂っているさまざまな芥《あくた》の間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたものは、こないだ買って貰《もら》ったばかりの新しい玉網だった。そんな小さな魚や昆虫がそういう得体の知れないような黝い水の上をも、まるで水溜りかなんぞのように、いかにも何気なさそうに泳いでいるのを見ているうちに、それら小さな魚や昆虫のもっている周囲への無関心さとほとんど同様のものが私のうちにも自然と生じてきたのかも知れない。……私はふとそれを思いつくと、どこからか自分でその玉網を捜し出してきて、縁先きにしゃがんで、いかにも無心に、それでもって小さな魚を追いまわしていた
何処かで半鐘が、間を隔《お》いては、鳴っていた。
細工場の方の棚は漸っと出来上ったらしかった。箪笥《たんす》や何かが次ぎ次ぎにその上に移されていった。その次ぎはもう、そこで水籠《みずごも》りをすることになった父たちを残して、私と母とが神田の方へ避難するばかりだった。近所の水の様子を見にやらされた弟子の佐吉は、膝《ひざ》の上まで水に浸ってじゃぶじゃぶやりながら、外へ出ていった。
その間に母は私にすっかり避難をする支度《したく》をさせた。最後まで私が手離さないでいた玉網も、とうとう父に取り上げられた。そうやって父や母などに一しょにいだすと、一人でいたときはあれほど平気でいられた私は、俄《にわ》かにわけの分からない恐怖のなかへ引きずり込まれてしまった。そうして一度無性に怯《おび》え出してしまうと、幼い私のなかの、大人の恐怖は、もう私一人だけでは手に負えなかった。
一方、いままではちゃんと間を隔《お》いて鳴っていた近所の半鐘の方も、そのとき突然自分の立てつづけている音に怯え出しでもしたかのように、急に物狂おしく鳴り出していた。
それを聞いて一層私が怯えるので、最初は父は溝《みぞ》の多い路地を抜けたところまで私達に附添ってくる積りだったのに、とうとう母と、佐吉に背負われた私とについて、全く水の無くなる土手上まで来なければならなかった。土手の上は、私達のような避難者で一ぱいだった。父は大川端《おおかわばた》へ行って、狂おしいように流れている水の様子を眺めてから、再び一人で水漬《みずつ》いた家々の方へ引っ返していった。
私達は、その土手の混雑のなかで、同じように女子供だけで何処かへ避難しようとしているお竜ちゃんの一家のものにひょっくり出会った。本当にひさしぶりでまともに顔を見合わせたお竜ちゃんと私とは、そういう思いがけない邂逅《かいこう》に、思わず二人ともにっこりともしないで、怒ったように真面目《まじめ》に見つめ合った。母たち同志が二言三言立ち話をし合っている間、水の中を自分で歩いてきたらしいお竜ちゃんは、佐吉におぶさっている私の傍にきて、そんな恰好《かっこう》をしているところを見られて一人で羞《はずか》しがっている私を、しかし何とも思わないように、只なつかしそうに見上げながら、
「弘ちゃんたちは何処へ行くの?」ときいた。
「…………」私ははにかんで、口もきかれなかった。
「神田の方ですよ」いつもお竜ちゃんと仲の悪い佐吉が、私に代って突慳貪《つっけんどん》な返事をした。
「…………」お竜ちゃんはそんな佐吉の方を憎そうに見かえして、それから、「ほんとう?」ときくように私の方を見上げた。
私はただ首肯《うなず》いて見せた。
「私たちは王子へ行くの……ずいぶん遠いのよ……」お竜ちゃんは何か私に同情されたいように云った。
それきりで私達は別れなければならなかった。
が、こういうような出来事のおかげで、お竜ちゃんとこうやって思いがけず仲直りのできたのが、私には本当に嬉《うれ》しかった。逢《あ》ったのがたかちゃんの方でなくってよかった、そんなことまで私は子供らしい身勝手さで考えた位だった。それもただお竜ちゃんに逢えただけではない、このまますぐ別れるのでなかったら再び昔のように仲好くなれそうになった事で、私は小さな胸を一ぱいにさせていた。そのためそんないつまた逢えるかも知れない別離そのものさえ、殆ど私を悲しませなかったほどだった。
私達の避難したのは、神田の或《ある》裏通りにある「きんやさん」という、父の懇意にしていた、大きな問屋だった。
その昔風の、問屋がまえの、大きな家は、昼間から薄暗かった。細い櫺子《れんじ》の窓からだけ明りを採り入れている部屋部屋の、ずっと奥まった中の間のような所に、私達は寝泊りしていた。そうして私達はいつもおおぜい人のいる店の方へはめったに行かないで、狭い路地にひらかれている、裏の小さなくぐり戸から出這入《ではい》りしていた。そういう商家のすべての有様が少年にはいかにも異様だった。……
そこに私達が何日ぐらい、或《あるい》は何箇月ぐらい泊っていたか、覚えていない。それからその家の主人の、「きんやさん」といつも私の父母が親しそうにしていた大旦那《おおだんな》のことも、それから私達の世話をよくしてくれたそのお内儀《かみ》さんのことも、殆ど私の記憶から失われている。それからもう一人、――たとえ偶然からとはいえ、私が自分の人生の或物をその人に負うているのに、いつか私の記憶から逸せられようとして、あやうくその縁に踏み止《とど》まっているといったようなのは、その日々私をたいへん可愛がってくれた店の若衆の一人だった。よくお昼休みなどに、彼は私をその頃まだ私には珍らしかった自転車に乗せて、賑《にぎ》やかな電車通りまで連れていってくれた。そこの広場には、はじめて私の見る怪物のような、大きな銅像が立っていた。その近くにはまた一軒の絵双紙屋があった。その絵双紙屋で、彼は私のためにその一冊を何気なく買ってくれたりした。……
恐らく私は他の誰かに他の本を与えられたかも知れなかった。それはそれでも好かったろう、――が、ともかくも、はじめて自分に与えられた一冊の絵双紙くらい、少年の心にとってなつかしいものはない。――さて、私に与えられたその絵双紙というのは、その或一枚には、大雪のなかに、異様な服装をした大ぜいの義士たちが赤い門の前にむらがって、いまにも中へ討ち入ろうとしている絵が描かれてあった。又他の一枚には、雪の庭の大きな池にかかった橋の上に、数人の者が入り乱れて闘っていた、そしてそのうちの若い義士の一人は、刀を握ったまま池の中に真逆様《まっさかさま》に落ちつつあった。……それらの闘っている人々は、いずれも、日頃私が現実の人々の上に見かけたことのないような、何んとも云えず美しい顔をしていた。私はそれがどういうドラマチックな要素をもった美しさであるかを知らない内から、その異常な美しさそのものに惹《ひ》かれ出していた。後年、私は何度となくそれと類似の絵双紙を見、それを愛した。そうして私もだんだん大きくなり、それの劇的要素が分かるようになりだした頃には、そのときはもう私は、――それが何んの物語を描いた絵だかもさっぱり分からずに見入りながら、しかも一種の興奮を感ぜずにはいられなかった、――そういうはじめてそれを手にしたときの幼時の自分に対するなつかしさなしには、その物語を味《あじわ》われなくなっていた。たとえば、はじめて物語の世界、いわば全然別箇の世界を私に啓示するきっかけとなった、それらの雪の日の絵だけを例にとって云えば、私はその絵を見る度毎《たびごと》に、それをはじめて母の膝下《ひざもと》でひもといた、或古い家のなんとなく薄暗い雰囲気《ふんいき》を、知らず識《し》らずの裡《うち》に思い出さずにはいられないのだ。――そうしてまた同時にその思い出の生じさせる一種の切なさにちがいないのだ、私がいつもその雪の絵を見るたびに感ずる何処か遠いところから来る云い知れぬ感動のようなものは……
その絵双紙に次いで、もっと他の絵双紙が私のまわりにだんだん集って来て、私の前に現実の世界に対抗できるほどの新しい見事な世界を形づくり出したのは、しかし、その神田の家を立ち去ってからであった。
私の父は、向島の水漬いた家からときどき私達に会いに来た。一時は軒下までも来た水ももうすっかり去ったが、そのあとの目もあてられない程にひどくなっていることを話し、何処かにしばらく一時借住いしなけれはならない家の相談などを母たちとし合ったりしていた。
幼い私は、父が来てそんな話をしていく度毎に、そんなわが家のことなどは思わず、唯《ただ》、ながいこと可哀そうに水につかっていた無花果の木のことだの、どこかへ流れ去っただろう玉網のことだの、それから其処《そこ》から引越してしまえば、もう会えなくなってしまうだろうお竜ちゃんのことだの、それから少し、たかちゃんのことだのを、切なく思い出していた。
芒《すすき》の中
「ほら、見てごらん」と父はその家の壁のなかほどについている水の痕《あと》を私達に示しながら、「ここいらはこの辺までしか水が来なかったのだよ。前の家の方はお父さんの身丈《みたけ》も立たない位だったからね。……」
その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島《むこうじま》のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍《わざわ》いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家《や》ばかりだったから、ずっと物静かだった。
引越した当時は、私の家の裏手はまだ一めんの芒原《すすきはら》になっていて、大きな溝《みぞ》を隔てて、すぐその向うが華族のお屋敷になっていた。こちら側には低い生籬《いけがき》がめぐらされているだけだったので、自分より身丈の高い芒の中を掻《か》き分けて、その溝の縁まで行くと、立木の多い、芝生《しばふ》や池などのある、美しいお屋敷のなかは殆《ほとん》ど手にとるように見えるのだった。ときおりその一家の人達がその庭園の中に逍《さまよ》ったり、その花の世話をしたりしているのを見かけると、私の胸には何とも云いようのない寂しい気もちと、それから生ずる一種のとりとめのない憧憬《どうけい》の心とが湧《わ》いてきた。
そういう自分たちのいる世界とは全く別の世界があるという発見は、もう一つの物語の世界の発見と相俟って、他のいかなる大きな現実の出来事よりも、私の小さな人生の上にその影響を徐々に目立たせて行った。
父はその芒の生《は》えていた空地の一部を借りて、そこへ細工場を建て増すことになった。それは私がいつもこっそりと一人でさまざまな事を夢みていた隠れ場所を早くも狭《せば》めることになった。しかし、そういう子供たちの隠れ場所というものは、それが狭ければ狭いほど、ますます見つかりにくく、そして子供たちにますます愛せられるのだった。
その裏の大きな溝に、私は或る日、どこの家の所有だか分からない、古い一艘《いっそう》の小舟が繋留《けいりゅう》せられずにあるのを見出した。その日からそれに気をつけて見ていると、それは毎日のように、流れのままに漂って、あっちへ行ったりこっちへ流れよったりしているのだった。私はその小舟をいつか愛し出していた。若し私がそれに乗れたら、その日頃私の夢みていたすべての望みが、何もかも不思議に果たされそうな気がされてならなかった。……
幼稚園
桜並木のある堤の下の、或《ある》小さな路地の奥に、その幼稚園はあった。――その堤の上からも、よく晴れた午前などには、その路地の突きあたりに、いつも明け放たれた白い門の向うに、青葉に埋もれたような小さな運動場が見え、みんな五つ六つぐらいの男の子や女の子が入れ雑《ま》じって、笑ったり、わめいたりしながら、遊戯なんぞをしていた。ぶらんこが光り、オルガンが愉《たの》しげに聴《きこ》えていた。……、
屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》、その堤へおばあさんに伴われて散歩に来るときなど、私はよく桜の木の下に立ち止まって、彼等の遊戯に見入っていた。ことにそのオルガンの音が私には何んとも言うに言われず魅惑的だった。そんな私を待ちくたびれて、ぼつぼつと歩き出していたおばあさんが、いつかもうずっと先きの方まで行ってしまっているのに気がつくと、私は漸《ようや》っとその場を立ち去るのだった。
或る日、母が私に言った。
「お前、幼稚園へ行きたいの?」
「…………」私は羞《はず》かしそうに、頭を振るばかりだった。
しかし、私はそこの幼稚園へ入れられることに決められた。或る午後、私は母に連れられて、その土手下の幼稚園のなかへ這入《はい》っていった。生徒たちはもういないで、園内はすっかり建物の影になっていた。そんな園内を歩きながら、一人の、庇髪《ひさしがみ》の、胸高に海老茶《えびちゃ》の袴《はかま》をつけた、若い女の人が私の母に何やら話していた。それがいつも愉しそうにオルガンを弾《ひ》いている人であることが私には自然に分かった。その見知らぬ女の人は私の手をとって、いろんな運動器具に乗せてくれたりした。何もかも私には少しこわかった。……
最初の朝、金の総《ふさ》のついた帽子をかぶせられて、おばあさんに伴われながら、私はその幼稚園の門の前まで行った。が、私達よりか先きに来て、仲好さそうに運動場で遊んでいる数人の子供たちを見ると、私は急に気まり悪くなって、どうしてもその門の中へはいれず、おばあさんの手を無理に引張って、そのまま帰って来てしまった。
それから二三日、私は、幼稚園へはいるというので父に買って貰《もら》ったその金の総のついた帽子を、家の中でかぶって、一人で絵本ばかり見ながら遊んでいた。或る日、見おぼえのある海老茶の袴をつけた、若い女の人が訪れてきた。私は宥《なだ》めすかされて、又次ぎの日から幼稚園に行くことになった。
翌日、私は再びおばあさんに伴われて、こんどは三十分ほども前から、まだ誰もいない園内にはいって、皆の集ってくるのを、先きまわりして待っていた。最初は唱歌の時間だった。みんな一緒になって同じ唱歌を何べんも繰りかえして唱《うた》っていた。しかし私だけはいつまでも一緒にそれを唱えなかった。しまいには私は火のような頬《ほお》をして、じっと下を向いたきりでいた。あんなに私の好きだったオルガンまで、その時間中、私には意地悪な音ばかり立てているように見えた。次ぎの遊戯の時間になると、他のオルガンが運動場の真ん中に持ち出された。戸外では、オルガンはそんな意地悪をしないのに決まっている。果してそれはいつもの単純な、機嫌《きげん》のいい音を立て出した。みんなはそのオルガンのまわりに、手と手とつなぎながら、環《わ》を描いた。私だけは、ぶらんこの傍《そば》で待っているおばあさんのところに行って、その環の中には加わらずにいた。そうしてみんなが愉しそうに手をあげ足を動かし出すのを側から眺《なが》めていることに、その環の中に加わっては私には反《かえ》って一緒に味《あじわ》えない、みんなとそっくり同じな愉しさを見出していた。
そういう私を、ときどきみんなを見廻しながらオルガンを弾いていた若い女の先生がとうとう見つけて、無理やりにその環の中に加わらせた。遊戯がはじまって、自分がどう動作したらいいのか分からなくなると、私はオルガンを弾いている先生の方を見ないで、遠く離れたおばあさんの方へ困ったような顔を向けた。そうやってちょっとでも私が足を止めようとすると、私のすぐ隣りにいた私よりか背の高い、目の大きな、ちぢれ毛の、異人さんのような少女が、手を上げたり下ろしたりする拍子に、私を横柄《おうへい》そうにこづいた。そのたびに、私は振り向いて、その高慢そうな少女に対《むか》って、なぜかしら、それまでは誰にもしたことのないような反抗の様子を示した。
それからお午《ひる》の時間になった。小さな生徒たちは教室にはいるなり、先生のお許しも待たずに、きゃっきゃっと言いながら、お弁当をひろげ出した。その目の大きな、異人さんのような少女は、私から少ししか離れない席についていた。みんながその少女だけ特別扱いにするのを変だと思っていたら、それはその幼稚園にゆく途中にある、或る大きなお屋敷のお嬢さんだった。その少女のところへは、お屋敷から大きな重箱が届いていた。そうして附添の小間使いが二人がかりでその少女のお弁当の面倒を見ていた。私はそういう様子をちらりと目にすると、それきりそっぽを向いてしまった。
「食べんの、厭《いや》……」私はおばあさんが私の傍で小さなアルミニウムのお弁当箱をあけようとするのを邪慳《じゃけん》に遮《さえぎ》った。
「食べないのかい……」おばあさんは又私がいつもの我儘《わがまま》をお言いだなとでも云うような、困った様子で、「……ほら、お前の好きな玉子焼だよ。……ね、一口でもお食べ……」
「……」私は黙って首を振った。
他の生徒たちは私と同じような小さなアルミニウムのお弁当箱をひろげて、きゃっきゃっと言いながら食べ出していた。例の少女のところでは、二人の小間使いが代る代る立ったり腰を下ろしたりして何かと面倒を見ていた。おばあさんは私にすっかり手を焼いて、それ等《ら》の光景を上気したような顔をして見ていた。私の隣席にいた、雀斑《そばかす》のある、痩《や》せた少女が私に目くばせをして、そのちぢれ毛の少女に対する彼女の反感へ私を引き込もうとしていた。が、私がそれにも知らん顔をしていたので、彼女はしまいには私にも顔をしかめて見せた。
私はとうとう強情に自分の小さなお弁当箱をひらかずにしまった。
午後からは折り紙のお稽古《けいこ》があった。例の少女のところでは、小間使いが一緒になって、大きな鶴《つる》をいく羽もいく羽も折っていた。私には折り紙なんぞはいくらやっても出来そうもないので、おばあさんにみんな代りに折って貰《もら》いながら、私は何かをじっと怺《こら》えているような様子をして、自分の机の上ばかり見つめていた。
その日行ったきりで、翌日から又私は、こんどはまるでお弁当の事からみたいに、幼稚園を休んでしまった。
しかし、その一ぺん見たっきりの、その異人のような、目の大きい、ちぢれ毛の少女は、他の優しい少女たちとはまるで異《ちが》った風に、いかにも高慢そうな様子をして、私がいくら彼女に対して無関心を示しても、いつまでも私の記憶の裡《うち》に残っていた。……
口|髭《ひげ》
子供の私は口髭を生《は》やした人に何んとなく好意を感じていた。
私の父は無髭だった。それからまた私のおじさん達の中には、誰一人、口髭なんぞを生やしている者はなかった。彼|等《ら》は勿論《もちろん》、例外だった。――若し彼等の中で一人でも口髭なんぞ生やしている者があったら、反《かえ》って何かそぐわないような気がされ、子供の私にもおかしく見えたろう。――それに反して、うちへ来る客のなかで、私の特に好意をもった人々は、みんな口髭を生やしていた。その真面目《まじめ》な口髭が私には何んとなくその人に対する温かな信頼のようなものを起させた。この人になら安心していいと云った気もちになれるのだった。――どういうところからそれが来るかは、勿論、私は知りようもなかった。
その頃、私はよく両親に伴われて、すぐ川向うの、浅草公園へ行った。そうして寄席《よせ》へ連れて行かれたり、活動写真を見て来たりした。又、おばあさんとだけやらされるときもあったが、そんなときには私はいつも球乗《たまの》りや花屋敷などへ彼女を引っぱって行った。(それらの事はまた他の機会にも書けるだろう。――)しかし一番、母だけに連れられて行くことが多かったが、そういう折にはいつも観音《かんのん》様とその裏の六地蔵様とにお詣《まい》りするだけで、帰りには大抵|並木町《なみきちょう》にある母方のおばさん(其処《そこ》のおじさんはきん朝さんという噺《はな》し家《か》だった。……)の家に寄ったり、それからそのおなじ裏通りの、もう少し厩橋《うまやばし》よりにある、或る小さな煙草屋の前まで私を連れて行った。その頃その煙草屋の二階に、皆がおよんちゃんといっている、一番小さなおばさんが一人で間借りをしていた。母は、私をすこし離れたところに待たせて、決して上へはあがらずに、そのおよんちゃんを外へ呼び出して、暫《しばら》く夕やみの中で何か立ち話をし合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋《あずまばし》の袂《たもと》から俥《くるま》をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝《ひざ》の上に乗せられるのが好きだった。……
母がまだ父と一緒にならないうちに、向島《むこうじま》の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出《みいだ》す幸福という幸福のすべてが、いかにそれらの子供らしい悲しみにまんべんなく裏打ちされていることか!……)
そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみち、駒形《こまがた》の四つ辻まで来ると、ある薬屋の上に、大きな仁丹《じんたん》の看板の立っているのが目《ま》のあたりに見えた。私はその看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をかぶり、口髭をぴんと立てた、或《ある》えらい人の胸像が描かれているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこのよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計に好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることが、そうやっておばさん達のところへ母に連立って行くときの、私のひそかな悦《よろこ》びになってもいた。
その後、私はそのおよんちゃんという人が、目の上に大きな黒子《ほくろ》のある、年をとったおじいさんみたいな人と連れ立って歩いているところを二度ばかり見かけた。一度は私が父と一しょに浅草の仲見世《なかみせ》を歩いているときだった。それからもう一度は、並木のおばさんの病気見舞に行って母と一しょに出て来たとき、入れちがいに向うから二人づれでやって来るところをぱったりと行き逢《あ》った。その目の上に大きな黒子のあるおじいさんみたいな人は、母とは丁寧な他人行儀の挨拶《あいさつ》を交《か》わしていたが、私には何んとなく人の好い、親切そうな人柄のように見えた。
小学生
とうとう幼稚園へはあれっきり行かずに、それから約一年後、私はすぐ小学校へはいった。
その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにまだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだったので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、その町内から五六人ずつ連れ立っていく男の子や女の子たちとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうして学校へ着いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人ぼっちに取残されることを怖《おそ》れ、授業の終るまで、母に教室のそとで待っていて貰《もら》った。最初のうちは、そういう生徒に附き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、だんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになった。
まだ授業のはじまらない前の、何んとなくざわめき立った教室の中で、私は隣りの意地悪い生徒にわざとしかめ面《つら》なぞをされながら、半ば開いた硝子窓《ガラスまど》ごしに、廊下に立ったままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような目で見た。やっと頭の禿《は》げた、ちょぼ髭《ひげ》の、人の好さそうな受持の先生が来て、こんどは出欠を調べるために、生徒の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬような苦しみだった。自分の苗字《みょうじ》が呼ばれても、私は一ぺんでもってそれに返事をした事はなかった。私はどういうわけか、父とは異《ちが》った苗字で呼ばれることになったので、その新しい苗字を忘れまいとすればするほど、いざと云う時になってそれをけろりと忘れていた。そんなとき、私はふいと窓のそとの母の方を見ると、母がはらはらしながら、私に手ぶりで合図をしている。私はやっと先生が同じ名を何度も繰り返しながら、自分の方を見下ろしているのに気がつき、はじめてはっとしてそれにおずおずと返事をするのだった。
学校からの帰りみち、母と子とはよくこんな会話をし合った。
「もう明日からは一人で学校へお出《いで》……」
「うん」
「……いいかい、お前の苗字を忘れるんじゃないよ……」
「うん……」私は自分にどうしてそんな父とは異った苗字がついているのか訊《き》こうともせずに、まるで自分の運命そのもののように、それをそのまま鵜呑《うの》みにしようと努力していた。
そんな或る日、きょうは学校の前までで好いからと言って附いて来て貰った母と一緒に、私は運動場の入口に近いところで、始業の鐘のなるまで、皆がわあわあ云いながら追っかけごっこをしたり、環《わ》になって遊んでいるのを、ただもう上気したようになって見ていた。
そのとき、数人の少女たちがその入口の方へ笑いさざめきながら、互に肩に手をかけあって、走って来た。そうして走りながら、みんなでくっくっと云って笑っていた。そのなかの少女の一人が、ふと彼女たちの前にいる私の母に気がつくと、急にその群から離れて、母のそばへ来て娘らしいお辞儀をした。それはおもいがけずお竜ちゃんだった。彼女はまだ何処《どこ》か笑いに揺すぶられているような少女らしい身ぶりで、母と立ち話をしていた。その話の間、一遍だけちらっと私のいる方をふり向いたが、――それに気がついて私がほほ笑《え》みかけようか、どうしようかと迷っているうちに、にこりともしないで、再び母の方へ向いて、話しつづけていた。……
「お竜ちゃん、早くいらっしゃいな……」皆に呼ばれて、お竜ちゃんは母に慌《あわ》ててお辞儀をして、私の方は見ずに、皆のところへ帰って行った。それからまた前のように、肩に手をかけあって一緒に走り出してから、暫《しばら》く立ったのち、彼女たちは一どに私の方を振り返ったかと思うと、どっと笑いくずれた。……
その翌日から、私はやっと一人で学校へ通い出した。そうして毎朝、誰よりも先きに行って、まだ締まっている学校の門が小使の手で開かれるのを待っている、几帳面《きちょうめん》な数名の生徒たちの一人になった。
そのうちにだんだん一人で通学することにも慣れ、頭の禿げた、ちょぼ髭の先生にも自分が特別に目をかけられていることを知るようになった時分には、それまでどうかすると内気なために他の者から劣り勝ちだった学課の上にも、急に著しい進歩を見せ出した。大抵の学課では、他の生徒たちにあまり負けないようになった。どういうものか算術が一番得意で、読方、書方がそれに次ぎ、唱歌と手工だけは相変らず不得手だった。
これはやや後の話だが、私のあまり得意でない図画の時間に、その先生が皆にめいめいの好きな人物を描いてみろと云って描かせた絵の中で、私の描いた海軍士官の絵だけが、ながいこと教室に張り出されていた事さえある。その絵が決して上手《じょうず》ではないこと、――ことに私が丹念《たんねん》に描き過ぎた立派な口髭のために、反《かえ》って変てこな顔になってしまっていることは、私自身も知っていた。しかし、その先生にはその絵がひどく気に入っていたらしかった。それは私がその海軍士官の腕に、私以外には誰もそれを思いつかなかった、黒い喪章をちょっと添えただけの事のためらしかった。(それは明治大帝がおかくれになってから間もない事だったからである。……)
さて、私がお竜ちゃんとおもいがけず再会して、それからほどもなかった、或る日の出来事に戻ろう。――屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》、受持の先生たちが相談して、男の組と女の組とを互に競い合わせるために男の組の半分を女の教室へやり、女の組の半分を男の教室に入り雑《まじ》らせて、一緒に授業を受けさせることがあった。或る日、そういう目的で女の組のものが這入《はい》ってきたとき、私はその中にお竜ちゃんのいるのをすぐ認めた。その上、順ぐりに席に着きながら、私の隣りに坐らせられたのは、そのお竜ちゃんだったのである。
お竜ちゃんは、しかし、私を空気かなんぞのように見ながら、澄まして、寧《むし》ろつんとしたような顔をして、私の隣りに坐った。私は心臓をどきどきさせながら、一人でどうしてよいか分からず、机の蓋《ふた》を開けたり閉めたりしていた。
それは私の得意な算術の時間だった。どんなに上《うわ》ずったような気もちの中でも、私は与えられる間題はそばから簡単に解いていた。そういう私とは反対に、お竜ちゃんには計算がちっとも出来ないらしかった。そうして帳面の上に、小さな、いじけたような数字を、いかにも自信なさそうに書き並べているのを、私はときどきちらっと横目で見ていた。しかし、お竜ちゃんは、大きな、無恰好《ぶかっこう》な数字が一めんに躍《おど》っているような私の帳面の方は偸見《ぬすみみ》さえもしようとはしなかった。
突然、私は鉛筆の心《しん》を折った。他の鉛筆もみんな心が折れたり先きがなくなっているので、私は小刀でその鉛筆をけずり出した。しかしいそげばいそぐほど、私は下手糞《へたくそ》になって、それをけずり上げない先きに折ってしまった。
お竜ちゃんは、そんな私をも見ているのだか見ていないのだか分からない位にしていたが、そのとき彼女の千代紙を張った鉛筆箱をあけるなり、誰にも気づかれないような素ばしっこさで、その中の短かい一本を私の方にそっと押しやった。
私も私で、黙ってその鉛筆を受取った。その鉛筆は、よくまあこんなに短かくなるまで、こんなに細くけずれたものだと思ったほど、短かくしかも尖《とが》っていた。私はそれがいかにもお竜ちゃんらしい気がした。私はすこし顔を赤らめながら、そんな先きの尖った短かい鉛筆で、いまにもそれを折りはしないかと思って、こわごわ数字を並べているうちに、だんだん自分の描いている数字までが何処かお竜ちゃんの数字みたいに小さな、顫《ふる》えているような数字になりだしているのを認めた。……
やっと授業が終ったとき、私は「有難う」ともいわずに、その鉛筆をそっとお竜ちゃんの方へ返しかけた。しかし、その鉛筆は私の置き方が悪かったので、すぐころころと私の方へころがって来てしまった。――そのときは、みんなはもう先生に礼をするために起立し出していた。私もその鉛筆を握ったまま立ち上がった。礼がすむと、女の生徒たちは急にがやがや騒ぎ出しながら、教室から出て行った。お竜ちゃんは他の生徒たちの手前、最後まで私を知らない風に押し通してしまった。そのため、彼女の貸してくれた使い古しの短かい鉛筆は、そのまま私の手に残された。
エピロオグ
私は、自分の最初の幼時を過ごした、一本の無花果《いちじく》の木のあった、昔の家を、洪水のために立退《たちの》いてしまってから、その後、ついぞ一ぺんも行って見たことがなかった。
私は、いま、この幼年時代について思い出すがままに書きちらした帳面を一先《ひとま》ず閉じるために、私がもう十二三になってから、本当に思い設けずに、その昔の小さな家を偶然見ることになった一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《そうわ》を此処《ここ》に付け加えておきたい。
その頃私たちの同級生に、緒方《おがた》という、母親のいない少年がいた。級中で一番体が大きかったが、また一番成績の悪い少年だった。学校が終ると、いつも数名連れ立って帰ってくる私達に、ときどきその緒方という少年は何処《どこ》までも一しょにくっついてきて、自分の家へは帰ろうともせずに、夕方遅くまで私達と石蹴《いしけ》りやベイごま[#「ベイごま」に傍点]などをして遊んでいた。相当腕力も強かったので、彼を自分たちの仲間にしておこうとして、私達は何かと彼の機嫌《きげん》をとるようにしていた。それにまた、そういうベイなどの遊びにかけては彼は誰よりも上手だったのだ。――或る日、私は横浜から父の買ってきてくれた立派なナイフをもっているところをその緒方に見つかった。緒方はそれをいかにも欲しそうにし、しまいに、彼の持っているベイ全部と交換してくれと言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私は返事をした。そんな分《ぶ》の悪い交換に私が同意したのは、腕力の強い緒方を怖《おそ》れたばかりではなかった。私の裡《うち》には何かそういう彼をひそかに憐憫《れんびん》するような気もちもいくらかはあったのだ。
それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすことにし、私は自分で好きなベイを選ぶことになって、はじめて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしに、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝《みぞ》を越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私が最初の幼時を過ごした家のある横丁かも知れないと思い出した。私は急に胸をしめつけられるような気もちになって、しかしなんにも言わずに彼についていった。二三度狭苦しい路次を曲った。と、急に一つの荒れ果てた空地を背後にした物置小屋に近い小さな家の前に連れ出された。私はその殆《ほとん》ど昔のままの荒れ果てた空地を見ると、突然何もかもを思い出した。――彼が自分の家だといって私に示したのは、それは昔私の家の離れになっていた、小さな細工場をそれだけ別に独立させたものにちがいなかった。その一間きりらしい家の中では、老父が一人きり、私達を見ても無言のまま、せっせと自分の仕事に向っていた。それは履物《はきもの》に畳表を一枚々々つける仕事だった。――その家というのもほんの名ばかりのような小屋から、もと私達の住んでいた母屋《おもや》とその庭は、高い板塀《いたべい》に遮《さえぎ》られて殆ど何も見えなかった。唯《ただ》、その板塀の上から、すっかり葉の落ちつくした、ごつごつした枝先をのぞかせているのは、恐らくあの私の大好きだった無花果の木かも知れなかった。いまの私達の家に引越すとき、他の小さな植木類は大抵移し植えたが、その無花果の木だけはそのままに残してきた筈《はず》だった。――
私はその老人が何も言わずに気むずかしげに仕事をしつづけているのに気がねしながら、縁側に倚《よ》りかかって、緒方の出してきた袋の中から自分のもらうベイを選んでいる間も、絶えず隣りの家に気をとられていた。そのときの私のおずおずした目にも、それはまあ何んとうす汚《よご》れて、みじめに見えたことか。それは私が緒方にさえもその家が昔の自分の家だったことを口に出せずにいた位だった。
「お隣りは何んだい?」私は漸《ようや》っとためらいがちに訊《き》いてみた
「ふふ……」緒方はいかにも早熟《ませ》たような薄笑いをした。
それから彼はちらりと自分の老父の方を偸《ぬす》み見ながら、私にそっと耳打ちをした。
「お妾《めかけ》さんの家だ。」
私はその思いがけない言葉をきくと、不意と、何か悲しい目つきをした若い女の人の姿を浮べた。それは私の方でも大へん好きになれそうだし、向うでも私のことを蔭ではかわいがってくれているのに、その境遇のために何とはなしに私に近づけないでいる、あのおよんちゃんという小さなおばさんに似た、それよりももっともっと美しい人だった。……私は何かもう居ても立ってもいられないような、切ない気がしだしていた。しかし私は、いかにも何気なさそうな風をして、ベイを選ぶのはいつか緒方自身に任せながら、目の前の、枯れた無花果の木のごつごつした枝ぶりを食い入るようにして見入っていた。
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註一 火事があったのは丁度私の四歳の五月の節句のときで、隣家から発したもので、私の家はほんの一部を焼いただけですんだ由。しかし、その火事で私は五月|幟《のぼり》も五月人形もみんな焼いてしまったりして、その火事の恐怖が私には甚《はなは》だ強い衝動を与えたために、それまでのすべてのいろんな記憶は跡かたもなく消されてしまったらしい。そののちは端午の節句になっても、私のためにはただ一枚の鍾馗《しょうき》の絵が飾られたきりであった。
花火から茅葺《かやぶき》屋根に火がうつって火事になったのは、三囲稲荷のほとりの、其角堂《きかくどう》であった。そしてそれは全然別のときのことであった。
註二 数年後、私達が引越して行った水戸さまの裏の家の植込みにも、それと同じ木があり、夏になるといつもぽっかりと円い紫の花を咲かせているのを毎年何気なく見過ごしていたが、それが最初の家から移し植えたものであり、また紫陽花《あじさい》という名であるのを知ったのは、私がもう十二三になってからだった。それまでながい間、私はその花の咲いているのを見ていると、どうしてこうも自分の裡《うち》に何ともいえずなつかしいような悲しみが湧《わ》いてくるのだか分からないでいた。
註三 「掘割づたいに曳舟通《ひきふねどおり》から直《す》ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂回《うかい》した小径《こみち》が三囲稲荷の横手を巡《めぐ》って土手へと通じている。小径に沿うては田圃《たんぼ》を埋立てた空地《あきち》に、新しい貸長屋がまだ空家のままに立並んだ処《ところ》もある。広々とした構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎《いなか》らしい茅葺の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それ等《ら》の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった。……」
これは荷風の『すみだ川』の一節であるが、全集を見ると明治四十二年作とあるから、まだ私が五つか六つの頃である。それだから、私の記憶はこれほどはっきりとはしていないが、ここに描かれてある小径は、ことによると、曳舟通りに近かった私の家から尼寺の近所のおばさんの家へ行くときにいつも通っていた小径と同じであるかも知れない。
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底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年8月5日発行
1970(昭和45)年1月30日16刷改版
1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:「むらさき」
1938(昭和13)年9月号、10月号、11月号
1939(昭和14)年1月号、3月号、4月号
初収単行本:「燃ゆる頬」新潮社
1939(昭和14)年5月22日
※初出情報は、「堀辰雄全集第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
※底本には、複数の作品の註がまとめて掲載してありましたが、ここでは、本作品に対するもののみを、ファイル末におきました。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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