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公判
平出修

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隆《たか》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)所謂|狭長式《けふちやうしき》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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 これは某年某月某日、ある裁判所に起つた出来事である。

 正面には裁判長が二人の陪席とともに衣冠を正して控へて居た。向つて左には検事、右には書記、判事席のうしろの窓下には三人の試補が背広服で見習の為め傍聴をして居る。冬の日の曇つた光は窓を通して僅に法廷の半程にしか届かない。ずつと下の被告や弁護人の席はもう薄ぐらく、その後方に設けてある傍聴人席は殆どたそがれどきのやうに陰気臭い。編笠を脱がせられて、手錠をとかれて、看守の指図通り、極めて従順なる被告人は、書記席の下の桝の中へ、目白押しに二列になつて押しこめられた。数は六人である。弁護人は一人も出て居ない。
 裁判長は書記から廻された記録の二三を取つてその中から一つを選み出した。最初に審理すべき事案をそれと定めたからである。
「××××。」裁判長は書類と被告席とを等分に見てから名前を呼んだ。呼ばれた被告は立ち上つて、
「はい」と云つて恐る恐るお辞儀をした。十四、五人の傍聴人の視線は等しくこの者の方に集つた。
 被告はまだ二十一、二の若者である。
 この被告の外貌は見る人にいい感じを与へる処が一つもない。かかる被告には通有とも云うべく皮膚は粗硬で色沢がない。眼窩は落ち込んで目はどんよりして居る。頬の皮はたるんで口を締めると縦に太い線が左右に這ふ。もとより口元に締りがなくつて下頤は長くやや突き出て居る。鼻の隆《たか》くしかも翼孔の小さいのと前額の広いのとだけは幾分此者の顔面の違常性を調和して居るが、短く刈つた毛髪の下からすぐ看取することの出来る頭の形は又直にその不均斉を思はせる。彼の頭は所謂|狭長式《けふちやうしき》である。そして如何にも脆さうである。つかんだらぐにやりと潰《つぶ》れやしまいかとさへ思はれる。全体は痩せて居て、縞目も判らぬ素綿入《すわたいれ》を着た肩は長い襟筋から両方に分れてだらりと下《さが》つた見すぼらしいものである。
 彼は押しこめられてある桝の縁へ、危《あぶ》なつかしさうに手をかけ、うつむいて判事の問を待つて居た。
「××××はお前か。」裁判長はこの白癡《ばか》らしい顔貌の持主に重ねて問うた。
「はい。」
「お前は一審で懲役一年に処せられたが、その判決が不服だと云ふので控訴したのか。」
「はい。」
「どこが不服だと云ふのだ。刑が重いと云ふのか。犯罪の事実が無いと云ふのか。」
「はい、あの私は切手を、切手をはぎとつたのでは………」
「よろしい。待て。」裁判長は記録を繰つてある頁《ぺえじ》の処に目をとめた。
「お前の生れはどこだ。」
「私の生れは…………」
「××県××郡名取村三百二十八番地だな」
「はい、いいえ、わとみ村であります。」
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(此被告発音頗る不明瞭なり、わとみとなとりとのききわけが出来ない程に不明瞭なり、此点一審の記録は既に誤りあり、今亦此裁判長も判別に苦しめり、此後とも被告の答弁に聞とれぬ発音多かるものと知るべし)
[#ここで字下げ終わり]
「なに、わとり村。」
「わとみ村であります。」
「わとみ、わは平和の和か。」
「はい。」
「とみは富《ふ》の字か。」
「はい。」
「和富村《わとみむら》三百二十八番地。よろしい。住所は」
「住所は…………」
「今ないのか。」
「はい。」
 裁判長は型の如く訊問を終へたがやがて又記録を繰つて一審判決の原本を見出した。
「一審判決によると、お前は××郵便局集配人として勤務中、第一、年月日××町××番地の郵便函の中より御大葬の絵葉書一組を竊取《せつしゆ》し、第二、年月日××町××番地の郵便函の中より封書に貼用《てふよう》しありたる三銭の郵便切手を一枚宛剥ぎ取り竊取し、第三に、年月日某取次所より某局へ集配すべき小包郵便物の中より軽便懐中電燈一個を同じく竊取したと云ふ事実である。之が不服だと云ふのだな。」
「はい。」
「どうして不服だと云ふのだ。盗んだことがないと云ふのか。」
「切手を…………切手をはぎとつたことなどはありません。」
「切手はとらない。そんな事があるか。お前は一審に自白して居るぢやないか。」
「私、はぎとつたなどと云はなかつた…………」
「云はない。お前は云つてるぢやないか。」
「切手がはげて居ました…………其日は大雨がふりまして…………」
「切手がはげて居た。どうして。」
「其日は大雨がふりまして…………」
「そんなお天気の事なんぞはどうでもいい。」
「はい。あの雨がふりまして、手紙がぬれて…………」
「手紙がぬれた。切手がはげて居たと云ふのか。馬鹿。いい加減にしろ。郵便を入れに行くのに、誰が手紙を雨に濡らして行くものか。取つたら取つたと明白に云つた方がいいのだ。馬鹿なことを云つて強情《がうじやう》を張ると損だぞ。」
「いいえ。雨が郵便函の口からしぶきこみました。」
「それがどうした。」
「手紙が一杯になつて、函の口元まで一杯になつて…………」
「そんなことはどうでもいい。要之《えうするに》切手ははげて居たと云ふのだな」
「はい。一枚は函の隅の中に…………」
「もう一枚は…………」
「私が袋にいれるとき手紙がぬれて居て、独りでにはげました。」
「それをどうした」
「私はそれをべつにして…………。」
 被告は極めて聞取り悪《にく》い土音《どおん》で裁判長の耳を困らした。事件の審理を出来得る限り簡明にしたいと云ふ念よりしかない裁判長には、此不明瞭な答弁が頗るもどかしいのであつた。いらいらして問へば、自ら詞も荒く調子も太くなる。被告は益益萎縮して益益しどろのことを云ひ立てる。被告の云はうとするところはかうである。その日は非常の大雨で、しかも郵便函には郵便物が一杯であつたから、その口元にある手紙の二三通は雨がしみ込んで濡れて居た。その為め取り出すときに一枚切手が剥げて居て函の中に落ちてあり、も一枚はかばんへうつすとき剥げた。そこでその二枚を別にしまつて――竊取すると云ふ考へもなしに――置いた…………(此先の事は被告は裁判長に遮られて説明をしなかつたから、作者が想像すると)そして局へ帰つて届けようと思つて居る間に時間が妙に過ぎて、しまひに届ける機会を失つてたうとう自分の私用に使つた。最初より切手を剥ぎとつて竊取したのではない。
 かう云つてそれが聞いてもらへたら、被告は自分の罪状がいくらか軽くなるであらうと思つたらしい。
 けれども裁判長にはそれが何の斟酌《しんしやく》にも値するものでないと思はれた。切手が剥げて居つたか、剥いで取つたか。そんな詳しい事まで取調べて居る暇がないと裁判長は思ふのであつた。それ故手紙が雨に濡れたと云ふ被告の弁解も一喝の下に之を却《しりぞ》けてしまつて聞入れない。郵便函に投入する人が雨で手紙をぬらして来たと被告が云ふのだと誤解して、そんな愚かな弁解はよせと被告を叱りつけた。そしてその誤解を解かうとせずに、即ち分らぬなりに審理を進行した。之れはしかし此国の裁判官としては普通の遣り口なのである。なぜと云ふに、此国の裁判官は犯罪の事実を簡単明快に決定すると云ふことの外、被告の利益などを取調ぶる必要がないと掟《おきて》られて居るからである。
 作者は日本語を使つて今茲に法廷の模様を写生しつつあるのだから、日本の裁判官の審理振を叙するものとして読者は迎へるかもしれないが、それは読者の早合点《はやがてん》である。日本は立憲国で、法治国で、文明国である、日本の裁判官は大方法学士である。進歩した刑法理論や刑事政策に通暁した裁判官である。無際の憐愍《れんみん》と同情とを以て、陛下の赤子に対し公明にして周到なる審判を為すことを理想として居る人人である。冤《えん》に泣く民の一人にても存在すると云ふことは聖代の歴史の一大汚辱なりとして恐懼自戒措く能はざる人人である。此人達は天皇の御名の下に裁判権を行ふ。天皇は此人達が天とし神として仰慕する処、もし裁判権の行使に粗鹵《そろ》と誤断とあらば、之れ天に背き神に背くの大罪人なりと思つて居る。此の如き敬虔にして厳粛なる日本の裁判官に、今作者が叙述する様な無作法極まる審理振が決してあるべき筈はない。外国語の駆使に堪へざる作者が日本語を以て日本の裁判所に於ての出来事らしく叙述するのは、蓋し止むを得ない処、読者は深く之を諒して此篇を読下せられたい。
 ある国の裁判官は斯の如き無作法な審理を日々に行《おこな》つて居る。只茲に例外の時がある。それは被告人に弁護人があつて、それが審理に立会《りつくわい》したときである。しかもその弁護人が摯悍《しかん》矯直《けうちよく》にして裁判官を面責することを恐れざる放胆を予《あらかじ》め示して置いたときである。かかる場合には裁判官は聊《いさゝ》か態度を慇懃《いんぎん》にし審理を鄭重にし成るべく被告の陳弁を静に聴いて居る。しかしそれはただ聴くだけである。聴いてそれを判断の資料に加へると云ふ考へがあると思つたら、その予期は見事に外れてしまふ。此人達は弁護人に対して敬意を表するに止まつてゐる。それが被告人の利益にも不利益にもならない。結局は聴いてくれないときと同じ結果になる。
 本論の被告人には弁護人はない。ないから被告人は心の十分の一も吐露することが出来ない。出来ないからつて、出来たからつて、それで裁判官の心が動かないとすれは、どうでもいいことである。けれども被告となつて見たら云ひたい丈のことを云ひたくもなるであらうし、云ひ尽した上の判決なら仮令《たとへ》判決が無理だと思つても諦めることが出来るであらう。只此国の裁判官にはそんな複雑な感情を働かして居る遑《いとま》がない。目の前にあるものはみんな罪人である。早く監獄へいれてしまへば始末がつく。之れだけを考へて裁判長は被告を訊問し、被告は此方針につれられて訊問をうけつつ審理は進んで行く。
「私はそれを別にして…………。」
「つまり取つてしまつたと云ふのだな。」
「はい。と…………と…………とつ………取つたけれど…………。」
「よし。」
 傍聴席にはいろいろの心が動いて居た。最前から彼等のすべては、海鼠《なまこ》のやうに心もとない被告の陳述と骨のやうに乾からびた裁判長の訊問とを聴くらべて居た。被告の云ふことを裁判長が聞取つてくれないで、雙方の意思が離れ離れになつて居るのを歯痒いとも思ひ合つた。「取つた」と云ふことを云ひたくない為に、三度云ひ淀《よど》んだ被告の態度は、ある者をして吹き出させやうとしたが、自分が今いかめしい法廷の中に居るのであると気がついたとき僅に笑を噛み殺した。被告に父母がないのであらうか。兄弟はどうであらう。何が苦しくて僅六銭の窃盗罪を犯したのであらう。日給がいくらで、くらしに何程あればよかつたのであらう。実際くらしがつかなかつたのであらうか。つかない程に手当が少かつたのであらうか。生きて行くことが出来る丈の手当すら与へないで、仕事は一人前を吩付《いひつ》けると云ふのは、隙さへあつたら盗《ぬすみ》でも騙《かたり》でもして命を維《つな》げと云ふにひとしいとも云ひ得る。労働の値は供給によつて定まるものだと云へば、その不十分の(生命を維ぐに)報酬に甘《あま》んじて居た被告は、甘んじて居たこと自体が間達つて居るのである。けれどもそれは仕方のない事である。この国の労働者にはそれでも甘んじて居たいと云ふ種類の人で満ちて居るのであるから。被告一人の力では労銀の上げ下げをどうすることも出来ない事であるのだから。しかし、この日の傍聴人にはこんな真面目な観察をしたものは一人《いちにん》もなかつた。彼等はただ被告と裁判長との応答をきき乍ら、そのこんぐらかつた話のゆきさつに興味をよせ、要之《えうするに》犯罪や裁判など云ふものは馬鹿馬鹿しいものであると考へたにすぎなかつた。
 裁判長は被告が「取つたんです」と云つた詞で満足した。
「取つたんですけれど…………。」と被告が云つたその「けれど…………」を全くないものにして「よし」と云つた。そして次の審問にかかつた。
「第一の事実………‥御大喪《ごたいさう》の絵はがきを窃取したことは間違ひないのだな。」と裁判長は問を改めた。
「はい。…………それは…………それは…………」
「それから懐中電燈も取つたんだな。」
「その…………その…………小包が切れて居まして…………。」
「取つたと云ふのだな。」
「はい。…………小包がきれて居まして、…………絵端書は…………。」
「お前は一体九月から集配人になつたんだな。」
「はい。見習を少ししまして。」
「そして本件の犯罪は九月十五日から十八日の間に犯して居る、」かう云つて裁判長は、ぐつと被告をねめつけた。
「お前は最初から泥棒をするつもりで雇はれたんだ。集配人になるとすぐぢやないか、本件の犯罪は。」
「いえさう云ふ訳ではありません。御大喪の絵はがきは…………。」
「もういいわ。証拠をよみきかせる。」[#底本は「」」を脱字]
 裁判長の読んだ証拠書類と云ふのは、悉く被告の犯罪事実を確定するに必要なものであつた。否犯罪事実を確定するものの外何にもなかつた。被告の利益になることは勿論、被告の主観性を窺ふに足るべき材料は一つもなかつた。もとより何等同情を寄すべき記述などがあらう筈はなかつた。
 半《なかば》目をとぢて怠屈《たいくつ》さうに椅子にもたれて居た検事は、立つて論告をした。被告の控訴は理由がないから棄却せられたしと云ふ丈のものであつた。
 之れで此被告の審理は終つた。
 此審理を粗雑だと云ふ人がもしあるならば、作者はかう云ふ人に云ひたいことがある。先づ此被告の窃取した財貨は合計三円程のものである。此三円の財貨を被告が不法に窃取したために、郵便局長が調べ、警察が調べ、検事局が調べ、一審裁判所が調べ、今又控訴裁判所が調べた。平均三十分宛としても二時間半の時間を奏任官以上の人の手間を費さしめて居る。それに書記から廷丁から、公判になれば立会検事も陪席判事も必要である。この被告は二ヶ月以上未決拘留になつて居て、一日十銭以上の給与を国家が支弁し、送迎には馬車もいる、看守もいる。被告が犯罪以来被告一人の為めに費した費用は百円を下るまい。しかも国家は労働者を一人失つて居る。これ丈の迷惑を誰が国家にかけたかと云へば、無論被告の不心得からである。斯の如きものに対して本来何を尊重し、何を保護してやらなければならないと云ふのか。作者は殆ど了解に苦しむものである。作者はかかる国家に対し、及びかかる裁判所に対し、並にこの愚なる仕事に対し、文明の有り難さを染染《しみじみ》感謝しなければならない。

「う、う。」裁判長なる判事は夢から醒めたやうにぽかりと目をひらいた。身体は仰向けになつて、両手を組合せてそれを枕の代りにして頭にしいて寝て居たのである。四時過ぎに役所から帰つて来て洋服の儘に机の前に坐つて居たが、妙に心気が苛立《いらだ》つのでいつのまにか倒れてしまつた。妻は姉が来て芝居へつれだしたとかで小女《こをんな》が独り留守をして居た。それが第一俺の気に入らなかつた始めであつた。彼はかう思ひ乍らも一度黙想を繰返した。
 俺は妻の仕打が面白くなかつた。もう帰る時刻だと云ふのに、留守の間に帰つたら俺がどんなに物足らなさを感ずるであらうかと云ふこと位は、彼も十分了解して居る筈である。一体あれを誘《おび》き出した牛込の姉が悪いんだ。靴を脱いで戸をあけると、部屋の空気がいやに冷たい。と見ると室ぢゆうの品品――机から、本箱から床の唐獅子からがけろりかんとして、「貴方はどなたです」と云つたやうな、俺とは全くなじみのない品物のやうであつた。俺はやけに風呂敷包を抛《はふ》り出して机の前に坐つて見た。火鉢の炭までが乱雑にくべられてある。「俺をこんな不愉快な目に遇はせて…………」と、俺は躍気《やくき》となつて妻と姉を呪つた。小女が「お着替《きかへ》なさいまし」と云つて来たとき、俺は「誰が着替なんぞするものか」と心の中で叫んで、あれの帰る迄此儘に居て、「これ見ろ」と見せつけてやらう。さうしたら幾分腹|癒《い》せになるであらう。こんなことを考へて居るうちに、俺は段段|悒欝《いううつ》な気分になつて来た。何でもかでも気掛《きがかり》になる様な心持がしてならない。妻が留守だと云ふことの不満の外に、より大きな不満や不安が俺の身辺を取捲いてる様にも感ぜられる。俺は意思で生きてゐる。感情には捉はれたことがない。俺は嘗て物に狂うたことがないと高言が出来る。いつもかう云つては居たもののそれは全く虚勢である。俺はかなり喜怒哀楽の変化の激しい人間である。ただ俺は法律を学んだ為に、秩序とか規律とか云ふものの精神を聊か知得した。それが俺の外行《よそゆき》のときの冠《かんむり》とも衣服ともなつて、とにかく見かけだけは正確らしい姿にもなる。今夕《こんゆふ》はもう心の上に被《はを》つたものは脱ぎすて、素つ裸になつて、盛んに感情をのみ動かして居た。自分で動かさうと思つて動かしたのではないけれど、押石《おもし》をとれば接木《つぎき》の枝が刎《は》ねかへる様に、俺の感情も押石の理智が除かれたから、自《おのづか》ら刎ねかへつて、その恣《ほしいまま》な活動を起して来たのである。俺は又それを押へようとはしないで、むしろ其|迸《ほとばし》るが儘に任せて、ぢつと結局を見つめてやらうと思つた。
「何がそんなに不満なんだい。」俺は自ら心に問うて見た。こんなことを問うたつて誰が答へるものか。今俺の感情は甚だしく乱調になつて居るのだ。何をどうしようかと云ふやうなことの、筋道がどうして立て得られるものか。俺は滅茶苦茶に不満なんだ。今日逢つた奴等の顔から始めみんな面白くないんだ。
 彼は起き上つた。机に頬杖して黙つて硝子越しに庭先を見入つた。八坪程しかない庭の片隅に小さい檜葉《ひば》に交つた一本の山茶花が、薄色に咲いていかにもはかなげな夕暗の寂しい気分を漂はせて居る。竹垣の直ぐ向《むかふ》は隣家の平家造の蔀《しとみ》のさびれた板にしきられて、眼界は極めて狭い不等辺三角形の隙から、遠い空中が覗《のぞ》かれる丈である。空には何の色もない。
 鷲のやうな目をした頤鬚の濃い同僚の一人を思ひ出した。「行政官はやはり早いですなあ。」かう云つてあの男は俺を見てにやりと笑つた。俺はその時官報を披《ひらい》いて見て居つた。それはあの男が見ろと云つて俺に指示した叙任欄のある箇所であつた。高井某が某省の局長となつた。俺と同窓であつたが、俺とは競争相手にもならなかつた男であつた。同じく卒業して同じく司法部へはいつたがあの男は検事を志望して早く行政部へ転じてしまつた。追追重く用ゐられるやうになつて今度の政変で一躍して局長に昇進した。
「俺はかうして何年も何年も同じ所に燻《くすぶ》つて居るんだ。そして昇級の宛《あて》もない。」俺はあの男の身の上を羨むと云ふのではないけれど、名利を慕ふ俺の本能は顫ひを感じた。その鼻先へ出て「行政官は早いですなあ」と俺の顔と官報とを一目で覗き分けをしつつ云つたあいつの顔は「この冷笑と侮蔑と憐憫とを君に捧げよう」と云はんばかりであつた。
「まだ少しも片付《かたつ》かないのでね」と高井は、俺を喜んで迎へた。一昨日の朝俺は彼の昇進を祝ふ為に彼の官邸を訪問したのである。九時前であるのに応接間には地方の有志家らしい人が一人もう行つて居た。
「失敬ぢやが、どうぞ、君。」彼は自ら暖爐の火を見たり椅子を直したりして、俺を引張るやうにしながら、腰を据ゑさせた。三間《さんげん》に七間程もあらうかと思はれる可なり細長い部屋の廻りは本箱やら、飾棚やらが不秩序に押し並んで居て、一一記憶に残る程の品物ではないが、雑然としてあちこちに置かれてある置物や豹の皮や、時計や花瓶《くわへい》などが、彼の交際範囲を説明するに十分参考になるものであつた。彼は先客の人に対して議会解散の予想などを喋喋《てふてふ》述べて居たが、「こんなへつぽこ役人ではね、」と云つて湧き上る様に笑つた。その得意さうな笑声を俺がどんな邪《そね》み根性で聞いて居たかと云ふことは、彼の顧慮する所では勿論ないらしかつた。
「それがなんだ」判事は屹《きつ》となつた。拳を握つて机の上を叩いて見た。一つの鈍い音と一しよに不規則に積んであつた机の上の洋書が一冊、すべりおちた。クロースの表紙が少しはだけて中から一通の手紙が出た。昨日来た伯母からの手紙である。判事はそれを取上げた。
 伯母は日本の女には珍らしい背の高い人で一見頑丈なつくりであるが、病気には極めて弱虫であつた。五十をこしてから空咳《からせき》がすると云つて寒い時節になると炬燵《こたつ》の中に跼《くぐま》つて居た。力のないそれで居て胴中から出る様な咳の音を聞くと、側に居るのが危険であると思はれるのである。同じ市中に居つても巣鴨と青山では往来がそれほど近くはなかつた。判事の方からは或は避けたいと思つたからでもあつたらしい。幼い時母に分れて此伯母の手に育てられたと云ふことは、それでも判事には幾分の親しみを残した。
「親類と云ふものは俺には手足纏ひだ。唯それだけだ。」伯母の病気が危篤だと云ふ代筆の手紙を手にして彼はかう呟《つぶや》いた。両肩が強《きつ》く骨立つて頸《くび》が益益長く見える、賤げな左の頬の黒子《ほくろ》と鍵の様に曲つた眼尻と、ひつくり返すやうな目付をして人を見る癖と、それから遇ひさへすれば口説《くどき》上手《じやうず》にくどくど云ふ口。小汚《こぎたな》い六畳の部屋で、せいせい云つて寝てゐる険相《けんさう》な顔付を考へると、何にもかも嫌になつてしまふ。
「それでも俺は金を送つた。行かなきやならんのではあるけれど、と云つて取り敢《あへ》ず、俺には大変な犠牲である弐拾円を今朝出したんだ。」
「之れ以上。…………。俺が顔を出した処で…………。俺は医者でない。病気は癒らない。金さへ見れば伯母は喜ぶんだ。」
 判事はあの欝陶《うつたう》しい部屋で、あの気色《きしよく》悪い人間の死を訪《おとづ》れることを避ける為には、少くない金をも吝《をし》まなかつた。婚礼と新築祝ならいつでも行くんだけれど、俺は病人や葬式は真平だ。彼はいつもかう云ふことを云つては家内に笑はれてゐたものである。
「伯母はきつと喜ぶだらう。」判事は自分の手紙を手にして、床から起き直つて、押しいただいて居る病人を想像してにつこと笑つた。
「もし届かなかつたら。」ふいと判事は気がかりなことを思ひ出した。脊髄のあたりがすこし疼《うづ》くやうな感じがした。書留にしなかつたからと云ふことが殊更不安を感じさせるのであつた。「僅か拾銭を倹約した為に」と思ふと、急に忌忌《いまいま》しくもなつてくる。もし届かないとなると俺はどうしたらいいだらう。も一度送らなければならないのか。送らなければ俺の心は通じない。送つたんだが盗まれたと云つた処で、伯母から見れば送らなかつたと同じである。俺が送る丈けの志はあつたんだと云ふことだけは、伯母も、その他の親戚も認めてくれるかもしれないが、認めて貰つたつて、やはり伯母の手には何もはいらない。俺は俺だけのことをしたのであるけれどそれが全く空《くう》に帰したとなると、俺の行為は結果を産《う》まない行為である。いや結果は産んだ。泥棒をして盗ませると云ふ結果だけは。そしてそれは俺が予期しない意外なものであるのだ。
「其日は大雨で…………。」とあいつが云つたと、判事は今日の公判廷に於ける郵便窃盗を思ひ起した。あの阿呆面《あはうづら》の男がよくも郵便物を盗んだものだ。人間の意思と云ふものはすべての動作の基礎を作るんだ。道徳、法律、其他人間の行為を批判する法則は、みんな此意思の発展の上に組み立てられてあるのだ。その重要な意思の伝達の機関として、国家自ら郵便制度を作つて、事業の経営を自らして居る。通信の安固と秘密。之がなくなつて誰か日本を文明と云はうぞ。あいつは文明を破壊する兇徒《しれもの》だ。
 判事は何と云ふことなしに身のまはりを顧みた。目は手釦《てボタン》の上にとまつた。留《と》めの方がとれかかつて釦がぶらりと下つて居た。あわててそれを篏《は》め直しながら、
「見ろこの釦は。七十五銭で買つてもう三年にもなる。あの弐十円さへあれば、二十箇以上を買ひ得るのだ。あいつがとつたばかりに…………。」
 彼はぢつと犯人のことを考へた。雨の日…………大雨の日。高い高い家が押しかぶさる様にならんでゐる。どれもどれも赤煉瓦だ。そして窓が一つもない。路はこの高い家に囲《かこま》れて僅に細い。雨がしぶく、横さまにしぶく。壁にぶつつかつて滝の様に水が落下する。道路の砂はすつかり流れてしまつて、小石が隆隆として突起してゐる。歩いたら足に喰ひ込むかもしれない。と見ると黒いものがばたばたと駈けて来た。そして小石の上をざくざく踏み散らして行つたと思ふと、曲り角ではたととまつた。そこには赤い郵便函《ポスト》が、鬼のやうな顔付をして立つて居る。黒服の怪物は中腰になつてその函をどうかしてゐるのであるが、幻はやがて彼の黒服を通して、且つは彼の肉体を通して、彼の手と函との関係を歴然《まざまざ》と透視させた。彼の手は溢れる許りに詰め込まれた函の手紙を一一とり出してゐる。五枚、十枚、二十枚。手当り次第に掴み出して手当り次第に抛り付けるやうであつた。二三度同じことを繰り返してゐるうちに、やつと取り出した一通の封書。「おおこれだ」と云はない許りに、期待も焦心も願望もそれ一通に籠つてゐるかのやうに、狂気じみた身悶えして、怪物はただ凝視した。「それが俺ののだ。」

 吃《どもり》の真似をすると終《しまひ》には吃になつて了ふ。気違の真似をすると終には気違になつて了ふ。俺もこんな妄想を拵《こしら》へてゐるうちに、或は本統に被害妄想狂になつて了ふかもしれない。全く愚なことだ。一体世の中の事は、斯《か》うなつて欲しいと思ふ願望が容易に実現しないものであると共に、斯うなつたら困ると思ふ杞憂《きいう》も案外に到来せずに済むものである。災害と云ふものは、むしろ思ひがけない方面から思ひがけない方面へと闖入《ちんにふ》して来るものだ。さう云ふときにじたばたしない修練は或は必要かもしれないが、さもないことで、神経の昂ぶるに任せて、目の前に見るやうな一幕ものの舞台を考へると云ふことなど、その光景から恐怖や欝憂《うついう》を握《つか》まされると云ふことなど、みんな意思の命ずる処ではないのだ。俺の生活は下らない感覚の顫動の為に攪乱《かうらん》されるやうな、そんな浮《うは》ついたものではない。
「被告は決して悪人ではありません。」よく法廷で弁護人が弁論する。
「被告は決して犯罪を犯す積りではありませんでした。只その時の被告の身の上には非常な災難が降りかかつてゐました。甲のこと。乙のこと。丙丁の関係。被告はどうすることも出来ない困迷の結果、本件犯罪事実の如き行為を敢てしたのであります。敢てしなければならない結果になつたのであります。被告は決して悪人ではありません。」
 かう云つてしまへば世の中に悪人は丸《まる》でないことになる。けれども俺は此弁明を直《ただち》に認容することは出来ない。人間に自由があると云ふことは空中の鳥の様な自由でない。社会組織によつて整理された自由である。之を制限された自由と云つてもいい。法律は人の行為の限界を定めて、動くべき場所と動くべからざる場所との区劃をつけて一本の縄を引いて居る。その縄張の一線が善悪の境界線である。そこまで来て一呼吸するかしないかが善悪の岐《わか》れる大切な処なのだ。其場合に或者は呼吸《いき》もつかずに飛び込んでしまふ。足が縄にからまつて、ばつたり倒れる。之が法廷に於ける被告の多数だ。之を悪意がないと云つても、法律は許さない。社会の秩序が許さない。中にも今日《こんにち》の郵便窃盗の如く、最初から隙を覘《ねら》つて居たものは論外である。此程の犯人は犯罪の計画自体が其一切である。予定の行動を予定の如く採つたと云ふべきものである。一国通信機関の秩序と信用とを破壊すると云ふ点に於て、彼には根強い悪性がある。斯の如き被告には同情もない、酌量すべき事情もない。重く罰しなければならない悪人だ。
 判事は机の下へ落ちた本を拾ひ上げた。そして頭を二三度振つて見た。少し重い、心《しん》が少し痛い。
「風邪でも引いたのかしらん。」
 判事はかう思つて又ぐたりと横になつた。

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註 本篇は素より作者の創作である。殊に後半は全然空想である。モデルの誰たるかを模索することの無意味なる事を、特に読者にお断《ことは》りしたい。[#地から1字上げ](大正二・一稿/「スバル」大正二・二/『畜生道』 所収)
[#ここで字下げ終わり]



底本:「定本 平出修集」春秋社
   1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、ルビをカタカナで表示してありますが、このファイルでは、外来語を除きひらがなに改めて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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