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大島行
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)咋夜《ゆうべ》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|徒爾《たいくつ》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「すりばち」に傍点]
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一信
思ひたつた旅ながら船出した咋夜《ゆうべ》から今朝にかけて、風雨激しく、まぢかく大島の火の山が見えてゐながら上陸が仲々困難でした。本當は、夜明けの五時頃にはもう上陸が出來るはずなのに、十時頃までも風力の激しい甲板の上に立つて、只ぢつと島裾を噛んで行く、白い波煙を見てゐるより仕方もありませんでした。
遠くから見るとまるで洗つたすりばち[#「すりばち」に傍点]を伏せて、横つちよに葱でも植ゑてあるやうな、そんなひどく味氣ない島です。――上陸出來たのが晝近かくで、雨はあがつてゐましたが、風足が速く島へあがるなり宿へ着いてしまひました。
大島と云へば、椿だの、娘《アンコ》だの、牛だのが連想されて來る程、何となく淡い美しさを心に描いてゐたのですが、來て見ればあとかたなしで、港の元村《もとむら》は、さう大した風景でもありません。
菊丸の船の中で御一緒になつた、東京灣汽船の林專務の話では、此島をやがては家族連れの遊山地にしたい心組だと云ふ事でありましたが、いゝ意味での遊山地にするには、仲々前途遼遠な事でせう。
大島と云へば、此頃はすつかり自殺者で有名になつてしまつたのですが、全く埒もない事です。「元村に着いたら煙草一ツも買はないで、波浮《はぶ》へ越してゐらつしやい」と船の中の旅びとに聞いたのですが、かう風が強くては、お山を越して波浮へ出る勇氣もなく、元村で一日休息する事にしました。
宿は三原館と云ふのですが、通された部屋が行燈部屋みたいで、眠つてゐると猫でも甞めに來さうな陰氣な部屋です。で、仕方がないので、二階の友人の部屋でお晝飯を共にしました。日歸へりのかういふところは、一人旅よりも、四人も五人もの連れで一部屋を占領してくれるのがいいらしく、そはそはして落ちつけないところです。
晝過ぎ、二階の二人の男の方達と、お山へ登る仕度を始めたのですが、空は曇つたり晴れたりです。
山路へさしかゝると、さすがに南の島らしく、椿の花盛りですし、山櫻が新らしい綿のやうに咲いてゐました。野生の椿と云ふものを始めて見たのですが、どんな山陰にも、點々と椿の花が盛りで鶯なぞがしきりに啼いてゐます。途中、私は足弱なので、連れの方達に別れて、見晴し茶屋からひとりで驢馬に乘る事にした。
「此驢馬はどこから來たんですか」
たづな[#「たづな」に傍点]を引つぱつてくれる島の娘《アンコ》さんに訊くと、「遠いモウコと云ふ國から來たんだが、日に二囘も三囘も行くで可哀想には可哀想だ」と云ひます。私の後からは、姉弟らしい十七八の娘さんと、十四五の少年が驢馬に乘つてトコトコ登つて來てゐました。後から來る驢馬の鈴がカラカラと鳴ると、私の驢馬も元氣づいて、トコトコ山を登つてくれる。何だか、此小さなモウコから來た驢馬が可哀さうでなりませんでした。
元村から御神火までは三十一丁位だとありましたが、本當は煙の噴いてゐるところまでは一里位はありませう。三原山外輪山の瓦色の黒ずんだ沙漠に出ると、横なぐりの大風で、遠くを歩いてゐるラクダのたてがみが、火の粉のやうに見えて寒く、一望の墨黒色の沙漠を見ただけでも體が固く冷えてしまひそうです。風が強くあんまり寒いので、驢馬のたづなを引く娘に、「唄でもうたつて聞かして下さいな」と云へば、鼻をあかくして大きい聲を張りあげて歌つてくれました。
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お江戸離れて南へ三十里
潮の花咲く椿島
野増村から戀人《こびと》の手紙
ゆかぢやなるまい一とまづは
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歌ひ終ると、「聲が惡るいからね」とけんそん[#「けんそん」に傍点]してゐましたが、澄んだ素朴な聲でした。驢馬を降りて、内輪山への壁をよぢのぼり、紅殼土の針のやうにヂクザクした丘の上へ出ると、四五人の東京の娘らしいのが、遠くの火口をめがけて石を投げてゐました。私は麓の見晴し茶屋で買つた杖をついて、釘のやうに突き出た岩の上を一足一足ふみしめながら、煙が屏風のやうな火口へ行つてみました。
地の中から吐き出る煙を見て、何だか此まゝ心の變つて行くやうな氣持ちにでもなれば、今の私に大變幸福なのですが、飛び込みたい氣持ちもおこらず、かへつて、こんなところで死ねる人達を不思議に考へる位でした。樹も草も水もない、ロマンチックに云へば、只、雲だけが流れてゐる。ガラガラ土の間から、モクモクと煙が出てゐるきり、全く死にたいとは思ひませぬ。「おゝ厭な事だ」あとがへりすると、暗くなつた崖の下で、林檎を噛りながら話してゐる二人の青年がゐました。ひどく孤獨さうな樣子でしたが、私は早足で御神火茶屋にかけ上りラクダを頼みました。――こんなところで、ラクダなんぞに乘つたり、驢馬に乘つたりするのは嫌らひなのですが暮れかけてゐるので仕方なくラクダへ乘る。四人乘れるのですが、外輪山をつゝきつて一人が五拾錢です。ところで、此外輪山は風が強いので、外套がまるで吹きちぎられるやうでした。
――三原山の火口の話なのですが、あの山も、今では隨分底の方まで冷えて行つてゐると云ふ事です。飛び込んだとしても、途中の岩にミヂンとなつて死んでしまへれば兎に角、どこかの岩底に飛び降りて、死ねもしないで、ウロウロしてゐなければならないとなると、一寸考へただけでも悲慘でせう。息苦しくない程度の空氣が、隨分火口の底の方まであると云ふ事を何かの本でみましたが、途中の岩角なんかに、上に登る事も出來ず、只、餓死を待つばかりの自殺者が、ウロウロしてゐる姿を空想してみて下さい、心の中まで冷たくなる氣持です。燒けもしないで白骨になりかけたのなぞもあつたらなぞ、偶《ふ》とそんな事を考へると、私は山を振り返へつてみる勇氣もありませんでした。
二信
夜の元村は只波の音だけの靜けさで、これだけは大變いゝ。まだ村の百姓家では洋燈《ランプ》に灯を入れてゐるところなぞもありました。
港近くには、小さな寫眞屋や、呉服屋や、床屋なぞがあつて、昔の東京場末のやうな感じもします。
明日は亦雨なのでせう。風が水氣をふくんで障子に當ります。靴で山を走るやうに下つて來たので、まるで脚が棒のやうでした。
朝。
ざんざ降りです。これでは何としても動きやうがないので、障子を開けてみるのですが、犬小屋があるきり、椿も山櫻も咲きゝつてゐるのでせうが、座敷からは、庭の土が見えるだけなので箱火鉢のそばに地圖を擴げて東へ一里二十丁程ある岡田村へ行く計畫をたてゝみました。雨が小降りになるまでと、二階の方達と五目並べなぞしてゐると、丁度|徒爾《たいくつ》で困つてゐる三人連れの中年の御婦人があつたので、その三人の女の方を誘つて、岡田村まで大きな箱自動車で出掛けました。
三人共銀行家の奧さんとかで中年の方達だけにひどくくだけてしまつて、岡田村のつかのもと[#「つかのもと」に傍点]と云ふ終點に着いた時、ざんざ降りの雨の中を此三人の女のひとたちは尻からげになつて、何丁かぽくぽく私といつしよに歩いてきました。
こゝは、實に素朴な風景です。村へ降りて行く石の段々の上に立つて、村の屋根を見てゐるとナポリの漁師町と似たところがあつて、とても、心愉しいものでした。
太格子《ふとがうし》の障子の裏からは眠たげな女の聲で大島節が聞えて來て、雨の中ながら、四人ともたちどまつて聽いたものです。
「こゝには繪描きさんがよく見えます」と運轉手が云つてゐましたが、晴天の日の此岡田村の風景を空想したゞけでも描きたくなりませう。
一泊のつもりならば、元村なぞに泊るよりも長驅して此岡田村に來た方がいゝと思ひます。
マチィスの描いたやうななぎさ[#「なぎさ」に傍点]のきはに、岡田[#「岡田」に傍点]と云ふ宿屋があります。二階の雨戸をあけると眼の下が海と砂濱で、眉に迫つて乳ヶ崎の半島が突き出てゐて、こゝへ來て始めて大島へ來た感じでした。
「何でもいゝから御飯をたべさせて下さい」
わざと、元村で食事して來なかつたので、時間はづれの一人前の晝食を頼むと、「しけ[#「しけ」に傍点]で何にもないのですが」と云つて、それでも、島の宿らしい簡素な膳をとゝのへてくれました。珍らしく三杯もお變りして四拾錢。連れの女客連は、草餅を頼んで、火鉢で燒いて食べてゐました。此宿は階下が駄菓子屋で二階が宿屋なのでせう。小學校の先生でも下宿させてゐるのか便所の中に答辭の書き汚しの美濃紙が隨分澤山置いてあつて、偶と短い小説でも書きたくなる程長閑な氣持ちでした。
厭な雨だつたのも、かうして素朴な宿から見ると、今ではいくら降つてもいゝやうなすがすがしさです。汀に大粒の雨がしぶいてゐるのは、まるで齒にハッカ水が沁みてゐるやうでした。
「お餅の代なぞいりません」と云ふのを、私の晝食代四十錢入れて四人で壹圓置くと、宿の上さんは「アレマア」と氣の毒さうにして送つて出てくれました。
何度も云ふやうですが、岡田村は勉強でもするにいゝところでせう。歸へりは亦、野生の椿のトンネルをくぐつて、雨の中を元村へ歸りましたが、もう東京へ歸へる船が出てしまつたので、亦元村に一泊です。
同じ宿に泊るのもつまらないので、勘定を濟ませて、舶着場で宿を探がしてみました。
「どこか風景のいゝ海の見える宿はないでせうか」
土産物を賣る家で、五錢の牛乳を飮みながら話すと、
「どうもおひとり[#「ひとり」に傍点]では、部屋がふさがつてもうけ[#「もうけ」に傍点]にもならないのでこゝでは厭がりますが、少しお出しになればいゝでせう」
と云ふ事で、船着場近かくの海氣館と云ふのに泊る。三原館よりはましでせう。一望にして海が見えました。水が不自由なところなので、風呂も牛乳風呂とかで這入つて氣味が惡い。夕食は湯豆腐が出て驚いてしまひました。これで參圓五拾錢です。雨にたゝられたと云ふかたちです。樂しみがないので、按摩を呼んで貰つたのですが、これが八十歳とかになるお爺さんで、休みながら揉んでくれるのです。どうも應へないのですが、此爺さんの話はとても面白いので、途中何度か休んで煙草を吸つて貰らひながら揉んでもらひました。
「私は二十八の時、荷物船に乘つて、靜岡から出たので厶《ござ》いますが、二日目に嵐でもつてあなた途中房州の布良汐《めらじを》と云ふところに流されて、三日目にやつと、大島の元村へ着いたので厶いますよ。當世ぢやァお客樣ばつかり乘せる船が出て便利になつたもので厶いますねえ」
「便利は便利だけど、元村と云ふところは少し荒《す》さんでますよ」
「えゝもう進んだもので厶いますよ、電氣もついてゐるので厶いますから」
で、私は苦笑しながら、子供のやうな此お爺さんの生活を訊いてみますと、息子が東京にゐるのですが、住所も判らず、晝は各村々の官主か何かに頼まれ、夜は按摩をするのだと云つてゐました。
「官主をしながら按摩をすると云へばをかしゆう厶いますが、これでも人樣に迷惑をかけず、自活をしてをるので厶いますからへえ、百姓も少しはやつてをりますが、官主をしてをりますので下肥《しもごえ》だけはいらはない事にしてをります。……淋しいもンで厶いますよ……」
此按摩は繁太郎と云ふのださうです。生れて始めて私は此樣に長命な按摩さんに肩を揉んで貰つたので長生きするだらうと思つてをります。
三信
大島へ來て始めてカラリとした天氣、今日こそ歩けると、三日目の朝です。歪んだ机の上に地圖を擴げて色々な計畫をたてゝ見ました。
私の番に當つた、島の娘だと云ふ、お八重と云ふ女が「波浮はとてもいゝところです。是非お出でになつた方がいゝですわ」と云ふので、次手の事にと、亦乘合自動車に乘つて波浮への道を北側の汀を見ながら行きました。どこへ行つても椿です。血のやうな花がいつぱい盛りでキレイでした。此乘合自動車は、アワイ茶屋と云ふところまで行くのださうですが、昨日の大雨で崖が崩れて通れなく、手前のアジコノ原茶屋と云ふところまで行つてくれましたが、意地の惡い事には亦雨が降り出してしまひました。此茶店まで乘合で二十五錢です。掘立小屋のやうな茶店には繪描きのやうな青年《ひと》がひとりで雨宿りして牛乳を飮んでゐました。
自動車に乘つてゐる間は、それでも二三人の乘客があるので陽氣に話して來ましたが、ポツンと茶店に降りると、雨の中を二里近く歩くのがおつくうになつて妙に陰氣になつてしまひます。
牛乳を飮んで、乘り合はせた東京の小官吏らしい人と、トボトボ雨の中を歩いて、濱ぞひの道を行つたのですが、何もかもじめじめして、只砂道を行く私の運動靴だけが白く眼に沁みるきりです。
やつと、アワイ茶屋に着くと、お八重と云ふ女中が波浮へ電話でも掛けてくれたのか、港屋と云ふハッピを着た宿の若い番頭がむかへに來てくれてゐました。
さの[#「さの」に傍点]濱を通り間伏《まぶし》へ出ると、此邊から風景が雄大になつで來て、雨も上り陽が照つて來ました。
「波浮はとてものんびりしてゐて、人間が呆んやりいゝ氣持ちになつてしまひます」
番頭の言葉に訛りがあるので「どこなの」と訊いてみると「九州の佐賀です」と云つてゐましたが、
「とにかく島へをれば、食つてだけはゆけますので、東京へなぞ出たくありません」なぞとも云つてゐました。間伏からまた乘合自動車なのですが、客が仲々集らないので、道連れの小官吏と番頭と、三人で自動車を走らせて貰らひましたら、此官吏さんは、私の掌に乘合ひの三十錢だけをのせて差木地村で降りて行つてしまひました。差木地村は岡田村とはまた違つた鄙びた村で、眉の濃い子供達が、椿のトンネルの道で犬を追つて遊んでゐるのなぞ、ひどく自然な美しさです。
間伏から、波浮まで、自動車は借りきりで壹圓五十錢です。此道はかなり遠いと思ひました。波浮の港は瀬戸内海を小さくしたのに似てゐて、とても可憐な港です。大島では、こゝが港らしい港で、波浮は村と云ふよりも町と云つた感じ、家が揃つてしつかりしてゐました。
水産試驗所の前から渡しに乘つて、灣の向う側へ着きますと、町の上に港屋と云ふ宿がすぐ眼に這入ります。大島へ來て、始めて宿らしい宿で、中二階のやうな部屋では隱居らしいひとが襖の切り張りなぞをしてゐました。二階からひとめに波浮の港が見えます。商人町らしく、活氣のある町の風景で、中食に食べた野菜でも魚でも舌においしくて、遊山をする氣分のひとには樂しいところでせう。こんないゝ港に、東京からの便利な船が、這入らないのが不思議な位、美しい風景のところです。――夏になると便利な船が這入つて來るさうですが、灣の中には、昔風な黒船みたいな漁船や、近島通ひの和船がもやつてゐて、まるで小鳥が兩袖でかこまれてゐるやうにも見えました。岬の丘の上には肺病か何かの療養所があると云ふ事でした。大島へ出て、波浮に來たことは大變いゝ思ひ出ものです。
風呂から上つて、地酒を少し飮みました。何としても一人旅で話し相手もない故、此のやうなゼイタクも見逃し給へです。
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眼とぢたり
瞼ひらけば火となりて
涙吾れをば燒く憶ひなり
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食事の後、座蒲團を枕にごろりと寢ころぶと、何時のまにかうたゝねしてしまつて、偶と眼が覺めた時、こんな歌が出來ました。海邊の風が心に沁みたのか、何でもないのに涙が溢ふれて、死ぬのだつたら、あのやうな煙の中よりこんな港の美しいところがいゝなと、疲れてゐたのでせう、中々|現《うつつ》と夢のさかひがハッキリとしないで困つてしまひました。
氣が弱くなつてゐる時に歌と云ふものは出來るでせうか……三時頃、また渡し船に乘つて、元村へ歸へるのですが、もう間伏まで乘合で歸へつた時は夕暮れ近かくで、雨さへ降つて來ました。二里の砂道を歩くのが困難なので宿場に待ち合はせてゐた馬に乘る事にしました。丁度、關西の人だと云ふお母さんを連れた若い男のひとが道連れになつて、三匹の馬は、ポクポク、波の飛ぶ汀を歩いて行くのですが、急に高い馬の背に乘つたので、私は子供のやうに嬉しくなつてしまひました。馬と云ふものにも始めて乘つてみました。
海も美しいながら、山手の若葉は、佛蘭西の田舍で見た風景にも似てゐます。あゝあんな素直な仕事がしたい、あんな素直な女の心になりたいなんぞ、馬の背中の上からゼイタクな眺望をしながら、アワイ茶屋を越したのが、もう暮れ方の六時頃ででもありましたでせう。
四信
馬の賃金は二里半ばかりで壹圓五拾錢でした。天氣がよかつたら、實に歩くにいゝ道です。
再び大島へ來るやうな事があつたならば、元村へ早朝着くのでせうから、歩いて岡田村に行き二三泊したい心組です。だが、一日か二日の旅だつたら、無理にでも、着いたらすぐ御神火を越して波浮へ出て泊りたいと思ふ位でした。
疲れてヘトヘトになつて宿についた時の人情と云ふものは、中々身に應へるものですが去りぎはも亦、中々忘れがたいものです。
海氣館では八疊の部屋だつたのですが、二晩めには隣室の六疊にうつされて、今まで居た部屋には三人連れの新らしいお客樣で、中々やゝこしいやりくり[#「やりくり」に傍点]です。
此新らしい隣室のお客樣も、襖一重で、子供連れなせいか、すぐ子供達と仲よくなつてしまつて、夜更けまで、女の子たちと話に花が咲きました。トランクに五六册も詰めて來た本なぞも、一度も展いて見る事なく、只下着を着かへるだけで、亦々無駄な荷物になりさうです。
早朝五時には、下田へ行く東京灣汽船が出るので、次手に下田港へ行つてみるのもいゝだらうと、宿には宵の口に勘定を濟ませておきました。鑵へ這入つた椿油の小さいのを七ツ買つて來る。油屋のおしゆんさんと云ふのが美しい娘だから見てゐらつしやいと云はれたが、めんどくさくて船着き場の店で用をたしてしまひました。
早朝三時半頃には女中が下田へ行く客を起こしに來ます。雨戸を開けると、硝子玉のはいつた櫛のやうな汽船が沖に止つてゐて、汽笛を鳴らしてゐました、まだ暗いので、船の電氣がキラキラ波に光つて、まるでお月樣が落ちてゐるやうだと、隣室の子供達が云つてゐます。朝、牛乳だけと頼んでおいたのに、牛乳も忘れられて、兎に角波止場へ出ました。東京から來た客を、ハシケで一々運んでから、下田行きの客が乘るのですが、下田行きの客も仲々相當な行列をつくつてゐました。迎へと送りを兼ねて、宿々の客引きが提灯をさげてズラリと波止場へ並んでゐるのですが、會話が面白い。
「××屋で厶います。オヤ素通りか」
「東京の客人は、宵越しの辨當を持つて山へ登るんだから、ガツチリしてゐるよ」
あんなザツパクな人情では、むしろ宵越しの辨當でも持つて御神火を越した方が、よつぽどケンメイだと思ひます。島へ來て、三圓も四圓も出して湯豆腐を食べさせられるに至つてはあきれてしまうより仕方がない。――かうしてふつと憶ひ出してみると、我々にはやつぱり岡田村が素朴でよかつた。村は竹が澤山出來るのか、竹屋さんがかなり澤山ありました。石の段々の途中にコンクリートの雨水を貯めるところがあつて、そんなのも、ひどくナポリに似てゐる。ヴヱスビオの山の煙のやうに雄大でもないが、貧しいながらも、此岡田村から見る御神火は私の小ナポリです。
これから下田です。
船は、宿屋よりも居心地がよくて、門司と下關との連絡船によく似てゐます。大島の元村から二時間で下田の港です。晴天でしたので、下田の町をポツポツ歩きましたが、軒が底く、白い土塀の多い古風なところです。
お吉が奉公してゐたと云ふ家も見ましたが、細い格子のはまつた、二階建てで倉なぞもありました。いまは空家なのか、人が住んでゐる樣子も見えません。港から、岬の裏がはの大浦の方に歩いてみました。よどむだやうな小さな河があつて、その河添ひには、簪のやうにきやしやな櫻の木が植つてもう花が散りかけてゐました。その河に添つて、なまめかしい格子の家が並んでゐて、夜になつたら、美しい女のひとがチラホラするのでせう、まことに情緒のある町です。
大浦の海岸では、保養館と云ふ宿で休みました。伊勢海老と、あはびが中食に出たのですが、こゝでは自慢なのでせう。有島生馬氏が泊つてゐられたと云つて上さんが、宿の主の肖像なんぞを出して見せてくれました。――子供達と一緒にモータアボートに乘せて貰つて、下田の沖を走つたのですが、春の逝きかけた淺緑の山の手前を、波を蹴つて飛んで行くのは實に愉快です。吉田松陰と澁木松太郎が、黒船に乘る機會を長い間うかゞつてゐたと云ふ岬の岩穴も海の上から見ました。偶と、
「泣かんか愚人の如く、笑はんか惡漢の如し」と云つたと云ふ松陰の言葉をおもひ出します。
海の上から見る山は美しい。中でも、女の寢たやうな寢姿山は、下田の町と妙にしつくりしてゐて、慰さめられる風景でした。ひどく海に飽いてしまつたのか、こゝでは休息だけにして、下田から東京までの切符を買つてしまひました。修善寺まで連絡の乘合自動車ですが、大變乘り心地のいゝものです。
自動車はまるで、馬車屋さんのやうに、古風な喇叭をつけてゐて、大きな體で下田の町を拔けて行きます。
寺の入口に地藏樣が並んやゐたり、生の椎茸が河ツぷちに干してあつたり、金色に光つた笹藪なぞが多く、下田の町はづれは、汽車が通じてゐないだけに、温く優さしいところで、旅人らしいくつろぎも、こんなところでこそ休めたいなど考へられます。
下田から、修善寺まで三時間もあるのですが、此途中の風景は山峽の道だけに實に素晴らしく隨分いまゝでに色々な風景も見ましたけれど、此樣に美しい山峽をいまだかつて知りません。
下田の町を出て、湯ヶ野を越すあたりから、山の屋根が濶達になつて、山肌一面山櫻の谷があつたり、瀧を眼近く眺めたりしました。自動車道は、割合廣いので、乘物にも乘れないなぐれ[#「なぐれ」に傍点]た旅びとなぞが、トンネルの入口なぞから、ひよいと出て來たりして愕かせる時があります。
伊豆の此旅は、同じ伊豆の中でありながら、大島の青葉とくらべて、瞼に緑が沁みると沁みないだけの違ひのやうです。湯ヶ野から湯ヶ島へかけての谷間の樹のしたみちは、顏も手も染まりさうに薄い緑で、笹藪のこんもりしたのなぞは、全く青春を包んだ喪の小屋のやうで、あの中を覗いたら、火花のやうなかげろふ[#「かげろふ」に傍点]が散りさうです。私は、此樣に小説的な風景を見た事がありません。
栂や栗、柳、松、櫻、杏、桃、梅、椎の木や楡《にれ》の木、そんなのが何でもあるのでせうが、山を越えても越えても美しい樹が續いてゐます。
五信
まるで、何かを追ひ求めてゐるやうに、東京にも歸へらず、途中の湯ヶ島で乘合自動車を降りてしまひました。此青葉の風景に醉つてしまつたのでせう。――湯ヶ島は谷底に家があつて、カジカでもゐさうな落合川が、谷の峽《あひだ》を白く流れてゐます。
落合樓と云ふのに泊りました。こゝでは始めて灯の下に本を出して讀みたい氣持ちになりました。――温泉が豐富で人氣のない夜更けの風呂場に伸々と體を沈めてゐると、生きてゐる愉しさが、まるで風のやうに吹きあがつて來ます。あんなボコボコ石の煙の中へは、どんな考へで死に行くひとが多いのか、今日の新聞を見てゐると、三原山に飛びこんだ青年の事が出てゐますが、全く不思議な事だ。せめて死ぬときだけでも風景の美しいところに身を置きたいものです。
溪流の音が、しみじみ山里へ來てゐる感じです。夜更けて珊瑚集を一册讀了しました。詩集の讀めるやうな風景と云ふものは、中々に得難く、眠るのがをしいので、枕元にヱハガキなぞを並べて子供のやうに愉しむのです。
私は旅へ出ると、夜は早々に眠れるのですが、此樣に眠るのがをしいと思へるのは、あんまり靜かで落ちついてゐるからでせう。
旅果てと云つた氣持ちです。もうこれでおしまひと云つた感じで、夜明けも早々に起きて、温泉に這入りに行きます。誰もまだ眠つてゐる時に、呆んやり湯につかつてゐられる、あのひつそりした氣持ちが好きです。悔いなくつかひ果した氣持ちで、大島で修學旅行のやうにあわただしかつた氣持も、此、伊豆の温泉に來てさつぱりしてしまひました。
下田から、東京までの自動車の連絡があつて五圓あまりです。十二三里の山峽を、自動車で走つて行くのですが、風景のいゝのは湯ヶ野から湯ヶ島の間でせう。
修善寺へ這入れば、もう風景とは云へなくなる。温泉宿のつくつた町の姿です。
初夏の頃は素晴らしいと女中が云つてゐました。こゝの女中は大變しとやかでした。大きくても小さくても、宿屋の女中は素朴で口數のあまりたつしやでないのがいゝ。今だに、岡田村の宿屋の上さんのもてなしが、心いつぱいであつた事に、旅人らしい滿足をするのです。ポコポコした疊や、汐つぱい戸障子ながら、岡田村のあの宿へはもういちど行つても惡るくはない氣持ちです。
朝食が濟むと、湯ヶ島の街道を歩いてみました。川端氏の小説にある、伊豆の踊り子のやうな旅藝人が、三味線を肩にして、二三人ポクポク下田の方へ歩いて行きます。十一里の道は、一日には仲々困難な事です。こゝも生椎茸やわさびが名産なのでせう。小さな自動車待合所に、そんなものがごたごた並べてありました。
街道が、峽《はざま》の上にあるので、谷底の家並がひとめです。朝のせいか、湯煙りが川にたちこめてゐて、山の温泉らしさうです。
下賀茂、蓮臺寺、河内などもいゝ温泉だと聞きました。本當は、こつとりこつとり歩きながら、此樣な地を探ぐつたら面白いだらうと思ひます。
湯ヶ島は、元村の宿にくらべると、宿料も安い位だと思ひました。それに何も彼もが清潔です。
[#ここから2字下げ]
たそがれて
峽のまちを吾が自動車《くるま》
ひたに走りぬ愉しかりけり
山鳩の啼く谷道の
土ほこり
花火と散りてわれなつゝみそ
[#ここで字下げ終わり]
このやうな歌二ツ出來たのですが、下手ながら、歌はずにはゐられないやうないゝ風景です。――今夜はいよいよ東京です。修善寺の驛へ出て、古ぼけた地圖を見てゐますと、「大島は再び行きたいところでもない」と云つた氣持ちです。
それ程、下田から湯ヶ島へかけて、私の心をとらへてしまつたのでせう。ところで、驛で新聞を買つてみると、亦、大島での自殺の記事ですが、ひどく心を寒くします。もうあのやうな流行なぞは早く根をたつて、林專務の云つてゐられた、家族連れの小樂園が早く出來るといゝと思ひます。だが、お天氣のいゝ日の、一家族の天城越えなぞは、どんなに雄大で、愉しい思ひ出になるでせうか。
夏には植物の採集なんかに、氣樂に天城の山に遊びたいなんぞ心に浮びます。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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