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万福追想
葉山嘉樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ハッパ穴を穿《く》つてゐるのだつた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)梃[#原文は「挺」、397-下7]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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渓流は胡桃の実や栗の実などを、出水の流れにつれて持つて来た。水の引きが早いので、それを岩の間や流木の根に残して行く。
工事場の子供たちは、薪木にする為に、晒されて骨のやうになつた流木や、自分たちのお八つにする為に、胡桃や栗の実を拾ひ集めるのだつた。
胡桃の実も栗も、黒くなつてゐて、石の間や流木の間に挾まつてゐると、なか/\見つけるのに骨が折れたが、子供たちは大人よりも上手に見つけて、懐に入れたり、ポケットに入れたりして、それを膨らませてゐた。
小さな渓流で、それにかかつてゐる橋は、長さ三間位もあつただらうか。出水の時は、恐ろしく大きな音をたてて、玉石などを本流に転がし込むのだつたが、ふだんは子供たちのいい遊び場であつた。
清水の湧き出す処などを、うまく見付けて掘ると沢蟹の小さいのを、一升も二升も捕ることさへあつた。それは天ぷらにしても、煮つけても美味かつた。
その渓流の一部分に、トロッコの線を敷かねばならなかつた。
電車の線路工事に必要な、コンクリ材料の砂やバラス、玉石などを、本流の川原からウインチで捲き上げようと云ふ段取りなのであつた。
線路を敷きかけて見ると、方々に岩盤の出つ張りや、文字通り梃[#原文は「挺」、397-下7]でも動かない大きな玉石などがあつた。それはハッパをかけて取り除かねばならなかつた。
A橋と云ふ三間位の橋の袂には、農家が一軒、天竜の断崖とA川とに足を突つ張るやうにして立つてゐた。その農家に楔でも打ち込んだやうに、小さな飯場が一つ建つてゐた。
飯場は水の便利のいい所を選んで建てられるので、その下流よりにも沢山飯場が建てられてゐた。
飯場があると必ず子供たちが沢山ゐるのだつた。
だからハッパをかけたりする時は、その渓流で米を磨いだり、洗濯をしたり、胡桃を拾つたり薪を拾つたりする、飯場の女房連や子供たちに、危険を知らせ、上下流の工事場を往来する人々に、ハッパを知らせる為に、ベルを振つて、ハッパだあ、ハッパだあ、と、ハッパの済むまで怒鳴り続ける必要があつた。
十一月中旬の麗かな一日であつた。
天竜川中流の、峻嶮極まる峡谷地帯で一日中日照時間が三時間だとか四時間だとか云ふ地帯にも、こんないい日があるかと思はれるやうな、人の心も清々しくなるやうな一日であつた。
A橋の十間ばかり下流、殆ど天竜川本流への流入口近くで、冴えたセットの音が、チーン、チーンと聞えて来た。
梃[#原文は「挺」、398-上5]でも動かない玉石へ、ハッパ穴を穿《く》つてゐるのだつた。タガネとセットとの、二つの鋼鉄から出る音は、澄んだ浸み透るやうな音楽的な音を立てて、山の空気を震はし、川瀬の音と和して、いい気持に人々を誘ひ込んだ。
それは百姓屋とそれに食ひ込んだやうな飯場の真下あたりの処だつた。
ハッパの破片は、主として石に穿られた穴の方向に飛ぶものなので、太田は天竜川の方から上流の方を向けて穴を穿つてゐた。
天竜川の方に石が飛ぶのならば、危険は割合に少なかつたからであつた。
尤も全然危険がない訳ではなかつた。
一度などは、二十数本もの導火線がシューシュー煙を吐き出してゐるのに、川舟が上流から勢よく下つて来たのには驚いた。
天竜の川舟は、予定地に着けそくなつたら最後五丁も十丁も下流まで流れる位であつた。だから、陸からどのやうな権威を持つた人間が「止れ」と云つたところで、止まる訳には行かなかつた。
その時などは、天竜の本流の岸に、トロッコの線を敷くためのハッパだつたので、十メートル前のトーチカ陣地から、機関銃が火を吐く、と云ふ形容だつて決して過ぎてはゐなかつた。
私は気が狂つたやうに岸から叫んだ。
「向つ岸へ流してくれえ、ハッパ穴がそつちを向いとるぞう」
と、無茶苦茶にベルを振りながら怒鳴つた。
川舟の船頭も驚いた。舟を対岸の方へやるにしても、ハッパの破片は対岸深くまで飛んで行くのだつたから、完全に着弾距離外と云ふ訳には行かないのだつた。
四人の川舟船夫たちは、底の浅い川舟の中で大騒ぎしながら、竿や櫂で川底の石をつつぱつたり、水を掻いたりして、対岸の絶壁の淵の方へ川舟をやらうと努力してゐた。が、天竜川の三大難所の一つだつたそこは、船夫たちの努力で、僅かに舟の頭を対岸に向けたまま、急流に押し流された。
川舟がハッパを仕かけた辺から、二十間位も押し流された時、ハッパが鳴り始め、破岩が激流の河面にバラバラッと飛び込んだ。
大きい破片は抱き上げられない位のものもあり、小さいのは安全剃刀の刃位のものまでも、水面に射込んだ。
「良かつた」
と、私は、岩陰から川舟の行衛を隙間見しながら、ホッとしたことがあつた。
その日も、午前九時頃まで冴えたタガネの音がしてゐたが、それが止むと、暫くして、太田が上の方からA川に沿つて降りて来た。
手に導火線をブラ下げて、その下に大ダイが一つくつついてゐた。丁度、アケビの実を蔓ごとぶら下げたやうに見えた。
「大丈夫かい。穴はどつちを向いてるかい。さうかい、ふん、大ダイ一本ぢや詰め過ぎやしないかい、うん、大丈夫だね。頼むよ、この辺は危いからね、人通りがあるんだし、家が近いからね」
と、私は、太田がうるさがる程、念を押した。
太田がA川の合流点附近から、
「つけたぞ」
と怒鳴つた。私は、橋の袂にゐて、現場の導火線から煙が上るのを見て、ベルを振り、ハッパだ、ハッパだあ、と怒鳴りながら、上流の方へ駆け、人が来ないのを見届け、又、下流の方へ駆けた。
丁度現場の直ぐ側へ、栗や胡桃を拾ひに行つて、藪影でゴソゴソやつてゐた、太田の幼い弟たちや従弟たちも、火をつける前に見付けて、上の方の道路へ追ひ上げてあつた。
その子供たちを、百姓家の現場とは反対側の軒下に立たせて置いて、私はそれを監視しながらベルを振つてゐた。
パーンと云ふ風な、浅い音が現場で起つた。と同時に、パラパラッと破片が飛んで来た。その時、私の立つてゐる道に、私の直ぐ後ろ横に、下流の方から一人の子供が駆けて来た。
「危いッ」
と、幼い足音に、私は叫んだ。
見ると、その児の鼻の上に、破片が当つたと見えて、血が流れてゐる。
私と並んで立つてゐた太田は、その子供が自分の従弟だと見ると、抱きかかへて、
「馬鹿が、ハッパの処へ来るんぢやないと云つてあるのに」
と云ひながら、尻を引ッぱたいた。
「とにかく医者に早く連れて行かなけや駄目だ。見ろよ、大ダイ一本も入れるから、俺が危いつて云つたぢやないか」
だが、怪我をした以上は何もかも後の祭であつた。
麗らかな珍らしい秋の一日を、それまで楽しんでゐた私も、同様な気持であつただらう太田も、一度に深い憂鬱と気づかひに捕はれて、医者のゐる上流へ急いだ。
「おぢさん、何でもないよ。俺歩いて行くよ。見つともないよ」
と云ふのであらう、未だ海峡を渡つて、内地へ来て一年にもならない、その六つになる子は太田に云つた。
太田は幼い従弟を道に下した。
そこで、私たちは始めて子供の傷口をよく見たのだつた。
傷口は眉の間の所謂急所であつた。少し右の方に寄つてゐるかと思はれた。見たところ大した傷ではなく、血も、もう止つてゐた。
子供も、もう尻を引つぱたかれないでいいのだと云ふことが分つたのと、傷も大して痛くないと見えて、ニコニコしながら、可愛いい朝鮮の言葉で、太田に何か話しかけてゐた。
その子は全く可愛いい顔をしてゐた。殊にその下ぶくれの頬と、澄み切つた瞳とが、可愛いい上に聡明な印象を与へてゐた。
私は言葉は分らなかつたが、その子や、その子の友達たちと遊んだものだつた。さう云ふ時、両親について来てもう長くなる子だの、内地に来てから生れた子だのが通訳してくれるのだつた。それによると、その万福と云ふ子は、見たところ以上に聡明であつた。
私は「朝鮮人」と云ふ言葉を使はないやうにしてゐた。無論「鮮人」とは云はなかつた。が、悲しいことには、工事場には、さう云ふ言葉が、言葉そのものは仕方がないとしても、軽蔑や侮蔑の意味を含めて使はれることがあつた。私が、若い頃マドロスとして、印度あたりまで行つた時、欧米人などに、どことなく差別的に見られたりして「こいつはいけない」と思つてから、私はヨーロッパ人だから優越してゐるとも思はない代りに、インド人でもアフリカ人でも、支那人でも、朝鮮人でも、私よりも劣つてゐるなどとは思はなくなつてゐた。
医者に行つて、手当を受けた結果、
「傷は幸に、極く軽くて、一週間もすれば全癒するだらう」
と云ふことであつた。太田も私も心からホッとして、帰りには、その子供に菓子を買つてやり、冗談を云つてカラカつたりしたのだつた。
その後帳場で太田に会ふ毎に、私は万福の傷の経過を聞いた。太田も忙しいので、毎日見舞つてはゐないが、「悪くなつた」と云ふ話を聞かないから、きつと、「良くなつてゐるのだらう」と云ふことだつた。
一週間目に、私は万福の住んでゐる飯場を訪問した。
そこは、私たちの借りてゐる農家から上流四五丁の、川原の砂つ原に建つてゐた。発電所と電車との二つの工事の労働者が集まつてゐて、この峡谷の底に五千人から七千人位の労働者と、その家族がゐたので、一つのバラック街を形造つてゐた。
それは東京の郊外にある細民街とよく似た部落を形造つてゐた。その一部落の川岸寄りの、二番目か三番目の、通りとは名づけられないが、とにかく人の通り抜けるために出来た細長い、狭い空地に向つて、万福たちの飯場の、蓙を卸した三尺幅の出入口が開かれてあつた。
丁度、昼食後の休みの時間を利用して、私は行つたので、食事に戻つた労働者や、その機会を利用しての友達などの往来で、バラック街は頬張つたやうに膨れかへつてゐた。
蓙を上げて私は飯場に首をつつ込んだ。
「今日は」
と云つて置いて、それから私は入つて行つた。外はやはりうららかないい日であつたが、飯場の中は真暗であつた。窓が無かつたからであつた。
「今日は」
と答へがあつて、誰かが、暗い中から動いた気配がして、私の立つてゐる川砂の土間の方へ立つて来た。そして、私の立つてゐる傍を通り抜けて、私の後ろに垂れ下つてゐる入口の蓙を上げた。
そこで漸く、飯場の中が明るくなつた。
飯場の内部は、土間と、二つの部屋から出来てゐた。入口の方を向つて、石油箱だの、ビール箱だの、ダイナマイトの箱だのが、上手に按配して積み上げられてゐた。その各々は衣類箪笥だの、食器棚だのの役目を果してゐるのだつた。
「まあ、おかけなして」
と、立つて来た万福の父が、腰をかがめて信州訛りで私に言つた。
「御無沙汰しちまつて。万福ちやんの怪我はどうですか」
「へえ、お世話になりました。怪我はもう癒りましたが、あれから、飯が食へなくなりましてなあ」
私は床の低い部屋の上り口の、蒲呉座の上に腰を下しながら、不吉な予感に脅えた。
入口を入るまでは、私は万福が快癒し、元気に遊んでゐる姿を見て、私自身も一緒に喜べるだらう、都合によつたら、感謝の辞まで「せしめる」ことが出来るかも知れない、きつとさうだ。と思ひ込んでゐたのだつた。
無意識ではあつたが、もし、私が自分の心の中にもつと頭を突つ込んで、蚤取り眼で詮索したならば、「僕は決して君たちを軽蔑しないよ。だから君たちは僕を尊敬しなければならんぢやないか」と云ふ風な商取引きのやうな心理がなかつた、とは云へないのだ。いや、こんな心が、きつと、どこかにあつたのだらう、と私は思ふ。もしあつたとすれば、それはもう、蝦で鯛を釣るやうなものではないか。とにかく人から感謝されると云ふことは決して悪い気持ではないのだ。ハッキリ云へば、いい気持なのだ。いい気持になるなと私は自分に云つて聞かせてゐる訳ではない。いい気持になれば、それに越したことはないのだ。だが、いい気持になると云ふことは今の世の中では、さうたんとあるものではないのだ。
私はいつものくせで、その薄暗い飯場の中で考へ込まうとしてゐた。
万福の父は、矢張り腰をかがめたまま、私の腰を下した上り口を、斜になつて上に上つた。そして、私の眼の前に、その左足を投げ出して坐つた。
「どう云ふもんでがすかなあ、先生は傷は癒つたが胃が悪くなつた、と云はれるんですがな。ひよつとすると、傷の方から来た胃病かも知れんが、それはまだハッキリは分らんと云ふんです。おでこに怪我をして胃が悪くなるちうことがあるもんでがすかなあ。御免なさい。足を投げ出したりしてゐて。これもをかしな話でしてな、堰堤の方で働いてゐる時に、上の方の切り取りから、小さな石ころが一つ落つこつて来ましてね、わしの背中に当つたんでがすよ。それから今ではもう半年になりますが、その半年の間に、頭が痛んだり、腰が痛んだり、石の当つたところが痛んだり、方々、痛い処が出きよつたですが、今になつて足がうまいこと曲らんやうになつたですわい。それでもう、わしは半年遊んで弟の世話になつて食つとるんですが、そこへまた万福が怪我をしたちう訳です。弟は何も云ひませんよ。反つてニコニコして、わしや万福に心配させんやうにしとりますが、何しろあんた、弟とわしの家内とを合せると、十人の大世帯です。弟の稼ぎと、わしの傷害扶助の六十銭とぢやあ、どうしようもありません。だからわしは組に行つて、何とかしてくれと云ふんですが、組ぢやさつぱり受けつけませんのでな。弱つて居りますんぢや」
私は、ポケットからバットを出して火をつけ、万福の父の前にその箱を差し出した。
「どうぞ。それから万福ちやんは?」
「ここに寝て居ります。先生にはわしが背負つて行くんですが、おとなしい子でしてなあ、痛いとも辛いとも云ひませんよ。ただ、黙つて寝とつてくれますんぢや。が、何にも食つてくれんので心配でならんのですが」
さう云つて、投げ出した足を曳きずるやうにして、体をずらした。
万福は入口の右側の板壁に添つて、横になつてゐるやうだつた。
私は上つて万福の顔を見ようか、どうしようかと迷つた。傷口を見る。それは傷口は癒着してゐるかも知れない。「御飯を食べなけれやいけないね」と子供に向つて云ふことも出来る。「早く快くならうねえ」と云ふことも出来る。さう云つた方が、全つ切り黙つて出て行くよりも、慰さめにはなるだらうし、私の立場としても、余り不自然ではない。だが、私は医者でもないし、看護手でもないし、救護班でもなかつたし、慰問係でもなかつた。ただの土方兼帳付けであつて、外の何者でもなかつた。云はば、省線の踏み切りにある自動ベル見たいな機能しか持たないものだつた。だから私は、私の持つてゐる極めて稀薄な人間的要素をも持て余してゐた。
もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。
万福は殆んど、その中に人間――尤も子供ではあるが――が寝てゐるなどと思はれないやうに、一隅に寝てゐた。
私は、困つたことには、自動ベルであるべき筈なのに、感情を動かしてゐた。
地下足袋を脱いで、私は飯場の蒲呉座の上に膝で上り、万福の枕頭ににじり寄つて見た。
万福は眼を開けてゐて、さし寄せた私の顔を見てゐた。その眼は、迷ひ込んで来た小鳥の眼のやうに、元通り無邪気であつたが、何かにとまどひしてゐる風な表情があつた。
が、その下ぶくれの可愛いい頬は、まるで病監にゐる囚人のやうに、痩せこけてしまつてゐた。六つの子供とは思はれないやうに、頬骨も顎の骨も、露骨に突き出てゐた。
まだ六つの子供である、と云ふことを私は知り抜いてゐたが、眼の前にゐるこの子供の顔は、どうしても「子供の顔」とは思へなかつた。萎びてトゲトゲしてゐて、垢染みて、老人の、それも死に近い病人の顔に似てゐた。
――人間の顔と云ふものは、発育する途中では、旺盛な生命力を、目盛り見たいに表情の中に持つて居り、衰弱する場合には、死期までの目盛りを、その表情に持つてゐるものではあるまいか――
と、フト、万福の顔を見てゐるうちに、私は考へた。
私は万福の頭を、その為に殺したりなんかしては大変だと案じながら、静かに、静かに撫でた。
その軟かい頭髪は、埃にまみれてゐて、私の労働に荒れた掌の、筋目の中に食ひ込むやうに感じられた。
私はその時、悲しいとか、哀れだとか、気の毒だとか云ふ感じよりも、「困つた」と云ふ気持の方が多かつた。途方に暮れると云つた方が確かだつたであらう。
万福は今、私がどのやうにして見たところで、私には手がつけられない状態にあつた。万福の父も同様だつた。それ等を養つてゐる安東にも、私は手を貸すことが出来なかつたし、私自身さへも、その時、私の家族――子供たちから「帰らうよ、帰らうよ」と、せがまれてゐた。
私にはどこに「帰る」家があり、故郷があらう! 子供たちは自分の生れた処、又は、ここに来る以前の土地が故郷であつた。だが、その土地を喰み出された私たちではなかつたのか。
万福も、きつと、労働不能に陥つたその父に、「帰らうよ、帰らうよ」と云つてせがんだのではあるまいか。その母に、泣いて訴へたことがあつたのではあるまいか。
もし、万福がその父母に泣いて「帰らうよ」とせがまなかつたとしたら、どうだらう。そんな小さな子供にまで、「帰るところが無い」と、思ひ込ませるやうな日常の境涯に、この家族たちは置かれてゐたのだ。
私は放心したやうな状態で、豆とヒビだらけの掌で、無意識に、万福の頭を撫でてゐた。そろつと、そろつと。
そして私の出来ることは、ただ、それつ切りであつた。
私は、どの位の間、さう云ふ放心状態にあつたか、とにかく、万福の父は、私がフト気がつくと、私に話しかけてゐるのであつた。もう随分、長く、いろいろと話してゐるのだと見えて、話のつながりが分らなかつた。よしんば話のつながりが分つたところで、私にはどうすることも出来なかつた。
大体、私がフラフラの万福の容態を見舞ひに来たのは、万福の負傷や、その経過についての心づかひからだけではなかつたやうだつた。
私自身に力をつけるためもあつたやうだ。と云ふのは、人は貧困や、負傷やのドタン場に陥ると、死に近づいてゐることのために、かへつて生命の方に向つて、あらゆる努力で手をさし延ばすからであつた。
負傷者自身が、もう生命への気力が萎えてしまふと、今度は、側の者が、その人間になり代つても、何とか出来ないかと、夢中になるのであつた。それは理屈ではなかつた。同情や憐愍と云ふ言葉にも嵌り切らない、何か本能的のものであつた。
ジワジワと習慣的に貧困に慣れ、習慣的に栄養不良や、栄養不足から、生命を離れて、始終眠くて堪らないと云つた風な状態で、死の方に近づいて行く人々にとつても、他の人の臨終を見ると云ふことは、その眠む気に似たものを一瞬吹き飛ばし、燃えるやうな生命の力を電光のやうに感じさせる刹那なのであつた。
私はハッキリさう意識して、万福を訪問したのではなかつた。そんな功利的な気持ではなかつたが、……詮索すれば、人間の美しいとされてゐる行為にも、裏があるのだつた。
万福のトゲトゲした衰へた顔を、眼の焦点を合はせる訳でもなく見守つてゐた私は、生命と云ふものを考へた。
万福の生命は、万福と共にあるのだ。
「たうとう万福が死んだ」
と、太田が私に告げに来た。
私は松丸太の枕木の上に腰を下して、スパイクを抜いてゐた。太田は私と並んで腰を下して、投げ出すやうに云つた。
「可哀相なことをしたねえ。可愛いい子だつたが」
と、私は金棒(スパイク抜きの)を、足下に転がして、
「ぢやあ、とにかく、行かう」
「直ぐに行つてくれるかね」
「今からね。何にも尽すことは出来ないかもしれないが」
万福の飯場に行つて見ると、色紙をどこからか買つて来て、それを切り抜いてゐた。
万福の父や母の姿は見えないで、知らない近隣の人々であつた。
万福の、幼くして逝つたむくろは、いつか私が訪ねた時と同様に、布団の下に長くなつてゐた。
私は型の如く線香を立て、合掌して、黙つて飯場を出た。その日もやはり天気がよく、薄暗い飯場から出た私は眩しかつた。
陽は暖かく背中を照りつけた。
「どうする?」
と一緒に出て来た太田が云つた。
その意味が、私には分らなかつた。「どうする?」どうすることが出来るであらう。可哀相な万福は死んでしまつたのだ。どうして見たところで取りかへしはつかないのだつた。これからすることは、すべて生き残つた人たちの、死者に尽す礼だけなのだ。
「どうするつて、お葬式をしなければならないだらう」
「それはさうだ。が……」
と、私と向き合つて立つた太田は、地下足袋の先きで、川砂から砂利を掘り起こしたり、ひつくりかへしたりして、それを瞠めながら何か考へてゐた。
「万福のお父さんはどこへ行つたんだらうね」と、私は訊いた。
「医者に診断書をとりに行つたんだ」
とにかく、死人の父の意嚮に従つて葬式を出さねばならなかつたので、医者の待合室に待つてゐるだらう万福の父に相談して、それから川向ひの製材所に行つて、棺桶の板を持つて来よう、と云ふことにして、私たちは歩き出した。
飯場街で飼つてゐる豚だの、山羊だの、鶏だのは、平和に鳴いてゐた。
夏の大洪水で流された飯場の跡は、綺麗な砂浜になつてゐた。そこでは豚の児を引つ張り出して、万福位の、未だ学校に上らない年輩の子供たちが、その耳を掴んで、丸つこい背に乗つて遊んでゐた。豚の児が水溜りに入ると、子供たちは足を上げて水に濡らさないやうにしたり、水溜りから追ひ出すために、外の子たちが竹の棒でつつついたりしてゐた。
外の一群は山羊の仔と角力をとつてゐた。
山羊の仔は迷惑がつて、逃げようとするのだが、周りに一杯子供たちがゐるので、逃げることも出来ないで、のび上るやうに首を上げて、メーと鳴いたりするのだつた。
その砂浜は、幾度飯場を建てても、洪水の時に必ず流されて終ふので、今では、誰も諦めてしまつて、子供たちの運動場になつてゐた。
私たちは、そこを通りかかつた時、云ひ合はしたやうに、足を止めて、その戯れに眺め入つた。
子供たちの中には、太田を見付けて、
「おぢさん」と駆けて来て、半天の裾にブラ下るものもあつた。
太田は、子供にブラ下られると、その頭を撫でてやつた。そして、馬が蠅を追つぱらふ時のやうに首を振つた。
私もそのやうに首を振りたかつた。もし、万福の死の事が、そのために忘れられるのだつたら。
私たち二人は、そのことについて、一言も云ひはしなかつたが、万福の死について、申し訳が無い、と云ふことを、心の中に深く蔵ひ込んでゐた。それが直接の原因であらうと、全く関係がなからうと、とにかく、ハッパの石に当つて怪我をしたのだ。その後一月ばかりで「飯が食へなくなつて」死んだのであつた。
陽は汗ばむほど暖かかつた。
山羊と角力をとつてゐる子などは、汗をかいて、汚れた手で拭くので、真つ黒になつてゐるものもゐた。
いつまでも子等の遊びに見とれてゐる訳にも行かないので、川原から断崖の下の道に上つて、私達は上流に向つた。
飯場街と飯場街を繋ぐところに、やはりバラックの商店街があつた。
そこは停留場の真下三百尺位の、石崖の下で、発電所に近かつた。
そこで、私たちは太田の父に会つた。
太田の父は、何か憤つたやうな声で、太田に話しかけた。
私は一歩避けて、二人の話のすむのを待つてゐた。が、二人の話はなかなかすまないばかりでなく、まるで親子喧嘩でもしてゐるやうな声高になつて、その揚句には、私に構はず、二人でドンドン上流へ行くのだつた。
私は二人の後からついて急いで歩いた。
そこから直ぐ医者の家であつた。
道より一段低く、その玄関があつた。
待合室は患者でゴッタがへしてゐた。大抵は負傷者であつた。婦人科が専門のこの医師は工事場について歩いて、殆んど外科を専門にしてゐた。
太田は玄関に地下足袋を脱ぐ時、私に気がついたと見えて、
「この藪医者は怪しからんです。うちの親爺には、死亡の原因が負傷にあると云つたんださうだが、おぢ(万福の父)には胃が悪いと云つたんだ。それで、今まで、医者の前で、親爺とおぢと医者と三人で、喧嘩をしてゐたと云ふんです。あんたも立ち会つて話を聞いて下さい」
さう云つて、太田父子は、待合室を通り抜け、病室の廊下を通り抜けて、川を見晴らしてゐる医者の家の居間に入つて行つた。
その居間には、丸木の大きな火鉢があつて、川を背にして、医者とその養子と、こつち側に万福の父と、安東とが坐つてゐた。
なか/\話は片づかなかつた。
何故かと云へば、医師の診断は、死因が胃腸病にあつて、負傷にはなかつたが、その医師の留守に、養子の医学士が診断した時には負傷が原因で神経系統を害した、と明言したのであつた。
前者の診断は患者に都合が悪くて、会社や組には都合が良かつた。後者の診断はその逆であつた。
私は悲しい一つの死を繞つて、二つの立場があることを教へられた。
(昭和十三年一月)
底本:「筑摩現代文学大系36 葉山嘉樹集」筑摩書房
1979(昭和54)年2月25日 初版第一刷発行
入力:大野裕
校正:高橋真也
1999年10月2日公開
青空文庫作成ファイル:
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