青空文庫アーカイブ

西洋の唐茄子
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孫太郎《まごたろ》むし

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一間|巾《はば》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、231-1]《まるじゅう》芋屋の
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 青葉の影を「柳の虫」の呼び声が、細く長く、いき[#「いき」に傍点]な節に流れてゆく。
  ――孫太郎《まごたろ》むしや、赤蛙《あかがえる》……
 ゆっくりとした足どりで、影を踏むように、汚れのない黒の脚絆《きゃはん》と草鞋《わらじ》が動く――小《ち》いさな引出しつきの木箱を肩から小腋《こわき》にかけて、薄藍色の手拭《てぬぐい》を吉原かむりにしている。新道にはまだ片かげがあって打水《うちみず》に地面がしっとりとしている。
  ――しもたや[#「しもたや」に傍点]のくせに店をもっている家――そうではなかったのかも知れない――閑散な店なのだったのかも知れないが、あんぽんたんはその家の、二間の障子がすぐはまっている店口《みせぐち》に腰をかけて、まばらに通る往来《ゆきき》の人を眺めていた。その家は一間|巾《はば》位の中庭があったので、天窓《ひきまど》からのような光線が上から投げかけられ、そこに植《うわ》った植木だけが青々と光っていて、かえって店の中の方が薄っ暗かった。天井から番傘がつるしてあるだけを覚えている。眉毛《まゆげ》をとった中年増《ちゅうどしま》の女房《おかみ》さんと、その妹だという女《ひと》と、妹の方の子らしい、青い痩《や》せた小さな男の子とがいた。
 学校の行きかえりにその家の前を通ると、白い障子を細目にあけて外を覗《のぞ》いているものがあったが、声をかけられたのはその近くだった。はじめは何処《どこ》のお子さんと訊《き》いたりして、姉妹で私の肩上げをつまんだり袂《たもと》の振りを揃えて見たりしていたが、段々に馴染《なじ》んで先方《むこう》でも大っぴらに表の障子を明け開《ひろ》げて、店口に座って私の帰りを待っていてくれるようになった。山吹きの枝のシンを巧く長くだしてくれて、根がけにしてくれたのもその人たちだった。
 鼠《ねずみ》とり薬を売る「石見《いわみ》銀山」は日中か夕方に通った。蝙蝠《こうもり》が飛び出して、あっちこっちで長い竹棹《ものほしざお》を持ちだして騒ぐ黄昏《たそがれ》どきに、とぼとぼと、汚れた白木綿に鼠の描いてある長い旗を担《か》ついで、白い脚絆、菅笠《すげがさ》をかぶってゆく老人の姿は妙に陰気くさくいやだった。日中《ひなか》でも、
 ――いたずらものはいないかな……
という声をきくと、鼠でなくても、子供でも首をひっこめた。
 この家の女姉妹は、なんとなく女子供がいじって見たかったと見えて、私の髪を結ばせてくれといった。宅《うち》ではあんまりよろこばなかったが、彼女たちは私の短かい毛をひっぱって、練油《ねりあぶら》と色元結でくくりつけるのを悦《よろこ》んだ――あたしは店さきに腰をかけて、足をブランブランさせたり、片っぽ飛ばした下駄を足さぐりしたりして、首だけ凝《じっ》と据えている。
 青葉がもめ[#「もめ」に傍点]て、風がすっと通ってゆき、うすい埃《ほこ》りがたつと、しんとした正午近くは、「稗蒔《ひえま》き」が来る。苗売りが来る、金魚やがくる、風鈴やが来る。ほおずき売りが来る。汗ばんで来たなと思うころには、カタカタと音をさせて、定斎屋《じょさいや》がくる、甘酒売りがくる。虫売りがくる――定斎屋と甘酒やだけが真夏になればなるほど日中炎天をお練りでゆくが、その他は小かげをえらんで荷をおろす。丁度その家の隣りが堀越角次郎という、唐物問屋《とうぶつどんや》の荷蔵の裏になって、ずっと高い蔵つづきの日かげなので、稗蒔屋はのどかになたまめ煙管《キセル》をくわえ、風鈴屋はチロリン、チロリンと微風《そよかぜ》に客をよばせている。そんな時あたしのおたばこぼんが出来上ると、中に赤や青や金色の小さな瓢箪《ひょうたん》か、役者の写真の浮いている水玉のかんざしを、そこの姉妹が買ってさしてくれたり、腰にギヤマンの瓢箪をさげさせたりした。私のために大きな稗蒔きの鉢をかって、柴橋《しばばし》をかけさせたり、白鷺《しらさぎ》をおかせたり釣師の人形を水ぎわにおくために金魚も入れたり、白帆船をうかせたりしてくれた。
 けれどあんぽんたんには親しめない家だった。店口より上へ、あがった事がなかったので、いつの間にか私の妹の、人なつこいお丸ちゃんが、代りに抱いたり、かかえられたりするようになった。
 その家の右隣りの古板塀が、村上という漢方医者だった。その隣りが滝床《たきどこ》――滝床といっても理髪店《とこや》ではない。小さな酒屋だ。店の向って右手に、石で袖をした中に大きな水桶があって、貧乏徳久利が洗ってあり、正面に盛切《もっき》りの台が拭きこんであって、真白な塩がパイスケに山盛りになって、二ツ三ツの酒樽《さかだる》と横に角樽《つのだる》が飾ってある店だ。赤ら顔の頭の禿《は》げた滝床は、大通りの大店をもっている廻り髪結さんだったのだ。だから酒屋さんの店にいるときはすけない。たまに店にいる時は、ずっと店の前の方へ腰かけをもちだして、お客に白いきれをかけて斬髪《ざんぱつ》をしているその道具が、菊五郎のおはこ[#「おはこ」に傍点]の『梅雨小袖昔八丈《つゆこそでむかしはちじょう》』の髪結|新三《しんざ》が持ってくるのとそっくりそのままのをつかっている。滝床親方は、ずんぐりした体にめくらじま[#「めくらじま」に傍点]のやや裾みじかな着附《きつ》けでニコニコ洋鋏《はさみ》をつかっていたが、お得意なのは土鉢に植えた青い、赤い実のなっているトマトだった。
 尤《もっと》もトマトなんて、知っているものもすけなければ、食べることなどはなおさらだったであろうが、細竹でささえて、二尺五寸ばかりに伸びたそれは、葉が茂って赤い実が美しく、斬髪の客の傍におかれてあった。
「この実のなってるのなんだね?」
「西洋の唐茄子だということで――」
「へえ? 珍らしいものだが、西洋の唐茄子って、ばかに細《こま》っかいもんだな。」
 その一軒おいてとなりに紙屑屋《かみくずや》のおもんちゃんの家《うち》があった。おもんちゃんの家は表はせまくって、紙屑で一ぱいだったが――紙屑やといっても問屋だったのだ――裏には空地があって、糸瓜《へちま》の棚が田舎めかしかった。その後に空瓶の小屋があった。空地では子供角力が夏になると催うされた。
 おもんちゃんは疳《かん》の高い子だったので、みんなから狂気《きちがい》あつかいにされて、ある日大門通りの四ツ角で、いたずら子供たちにとりまかれ、肌ぬぎになって折れた鉄物《かなもの》を振って悪童を追いかけていた。花井お梅の刃傷《にんじょう》の評判が高かったので「花井お梅、花井お梅」と、はやしたてられていた。
 その隣家《となり》が小川湯、そうして三、四軒おいておあぐさんの家であった。その向い側で面白い家をあげれば、角が土蔵から煙筒の出ている※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、231-1]《まるじゅう》芋屋の横腹、金物問屋|金星《かねぼし》の庭口、仕立屋井阪さん、その隣りも大丸の仕立屋さん、猫ばあさんのいた露路口、井阪さんが丁字髷《ちょんまげ》で、ここの親方はへッつい[#「へッつい」に傍点]という髪《あたま》の見本を見せておいてくれた鍛冶屋《かじや》さん――表に大きな船板の水槽があって、丸子や琉金《りゅうきん》の美事なのが沢山飼養されていた。鍛冶屋の店さきには、よくこうした水箱があったがあれはなんのためだろうか、刀鍛冶などの流れの末とでもいうしるしなのかどうか。その隣りが芝居や、講談などにある、芝日影町の古着屋で、嫁入着物に糊附《のりづ》けものを売ったため、嫁御寮《よめごりょう》の変死から、その母親が怨みの呪《のろ》い「め」と書いては焼火箸《やけひばし》をつきさしていたという、怪談ばなしの本家江島屋の、後家になった娘のすんでいた格子戸づくり、それからどこかの荷蔵があって、丁度滝床の向うが、吾平さんという馬具屋であった。
 吾平さんは顔の大きな、鼻も大きな、眼のちいさい人で、たっぷりした白髪をなでつけ、大きな鼈甲《べっこう》ぶちの眼鏡《めがね》を鼻の上にのせて、紫に葵《あおい》を白くぬいた和鞍《わぐら》や、朱房《しゅぶさ》の馬連《ばれん》や染革《そめかわ》の手甲《てっこう》などをいじっていた。鞭《むち》とか、馬びしゃくとかいったものは一かたまりずつになって沢山上から釣してあった。漸《ようや》く一間半位の間口だったが、賑やかな見あきない店で職人もせわしく働いていた。前を通るとニカワを煮る匂いがした。
 村上という医者の家が一番変っていた。どんな時、誰がどんな病気でも、あんぽんたんが薬をもらってくる時、変だなあとおもうのは、練薬と膏薬《こうやく》の二種《ふたいろ》だけだった。練薬は曲物《まげもの》に入れ、膏薬は貝殻《かいがら》に入れて渡した。
 敷石を二、三段上って古板塀の板戸を明け一足はいると、真四角な、かなりの広さの地所へ隅の方に焼け蔵が一戸前《ひととまえ》あるだけで、観音開きの蔵前を二、三段上ると、網戸に白紙《かみ》が張ってある。くぐりをあけてはいると、ハイカラにいえば二階はあるが一間の家で、入口の横に薬の名を書いた白紙を張りつけた、引出しの沢山ある薬だんすがおいてあった。薄暗い中に、紋附きの羽織を着た、斬髪の伸びた村上先生がいた。御新《ごしん》さんは庭で――空地で、粗末な土《ど》べっついで御飯を焚《た》いている。その近所に、ショボショボと竹が生えているばかり、大きい方の娘さんは盥《たらい》で洗濯をしていた。入口の塀の近くに、さすが井戸だけはある。下の娘も黄色い顔で、外にもあんまり出なかった。
 このお医者さんは、外科はまるでだめだったと見えて、女中の足の指も腐らせてしまったが、あんぽんたんの父の手の外傷《きず》も例の膏薬で破傷風《はしょうふう》にしてしまった。がまん強い父が悪熱《おねつ》にふるえて、腕まで紫色に腫《は》れ上ってしまっても、彼は貝殻の膏薬を貼《は》りちらした。木魚のおじいさんが吃驚《びっくり》して、医の方で自分の先生のような木下さんという、旗本上りの顎髯《あごひげ》の長いお爺さんを連れて来て手術をした。妙なところへ東洋風の豪傑と江戸っ子の負け惜しみをもつ父は、かなりな大手術であったであろうに、わざわざ病室から離れまで出張して――枕も上らなかったように思えたのに、八端《はったん》のねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]を引っかけて、曲※[#「碌」のつくり、第3水準1-84-27]《きょくろく》によりかかり、高脚《コップ》のお酒を飲みながら腕を裂かれていた。
 木魚のおじいさんが助手で、膿盤《のうばん》は幾個もとりかえられた。強い消毒薬のかざは流れてきたが父の苦痛はすこしも洩《も》れず、よく堪《こら》えている様子だった。私はハラハラした。障子の硝子《ガラス》の隅から細く覗《のぞ》いたが、父の姿は見えず、向うの欄間にかけてある、誰が描いた古画か、関羽《かんう》が碁盤を見つめている唐画が眼に来た。父のこの大|怪我《けが》もばからしい強がりから、爪でひっかかれたのだった。それも猫でも子供でもなく、父の部下のような若い代言人たちだった。鴎洲館とかいう、蔵前代地の、お船蔵近くの大きな貸席で、代言人の大会があった時、意見があわないとて、父の立つ演壇へ大勢が飛上って来て、真鍮《しんちゅう》の燭台で打ちかかるものや飛附いてくるものを、父は黒骨の扇――丁度他家からおくられた、熊谷直実《くまがいなおざね》の軍扇を摸したのだという、銀地に七ツ星だか月だかがついていたものだ――をもっていて身をふせいだのを、撃剣《げっけん》の方の手がきいているので鉄扇《てっせん》をもっているのかと思い、死《しに》もの狂いで噛《か》みついたりひっかいたのであった。
 騒ぎのあった翌日、その狼藉《ろうぜき》者一党が揃って詑《わ》びにきたが、その時、父はすこし寒気《さむけ》がするといっていたが、左の手の甲が紫色に腫《は》れてるだけだった。対手《あいて》の幾人かは頭に鉢巻したり、腕を結わえていたりした。そしていった。
「ばかな真似をしてしまって、あれが刀だったら僕の頭は真二ツに割られているところだ。とても歩けはしないが、ぜひ詑《わ》びにゆけと皆に抱えてこられた。眼が廻るほどピンピンする。」
「一度診察させるのだ、何しろ鉄扇だから、どこか裂けるか、折れるかしてると思う。」
「ばか言え、鉄扇なんて、そんなおだやかでないものを持ってゆくものか、弁論の自由を尊重しながら、そんな野蛮な――でも、じゃないよ、見ろ、この扇だ。」
 みんな変な顔をしていた。元気な父は村上さんに膏薬を貼らせながら一人の手を見ていった。
「や、その爪か! 汚ねえのだなあ。」
 対手の人も、鷹《たか》の爪のようにのびて、しかも真黒な爪|垢《あか》がたまっている自分の五つの爪を眺めた。他の者たちも呆《あき》れた。だが、当然驚かなければならない医者が平然としていた。
 父はお玉ヶ池の千葉について剣を学び、初期の自由党に参加した血の気が、まだおさまらなかったのであろう。友達たちも自然荒武者だった。その中に、親友であって法律の先生である村田電造という人があった。神田|猿楽町《さるがくちょう》に住んでいた。黄八丈の着物に白ちりめんの帯をしめて、女の穿《は》く吾妻下駄《あずまげた》に似た畳附きの下駄へ、白なめし[#「白なめし」に傍点]の太い鼻緒のすがったのを穿いていた。四角い顔の才槌頭《さいづちあたま》だった。静かにお茶を飲んだり、御酒をのんだりしてはなしていた。
 ある時、あんぽんたんが六才か七才だったろう、初夏に、このおじさんと父との真ン中に手をひかれて、鎧橋《よろいばし》のたもとの吾妻亭[#「吾妻亭」に傍点]という洋食やへいった。おさな心に残っているのは皎々《こうこう》たるらんぷと、杉の葉と、白い卓《テーブル》クロースだった。杉の葉は日本風の家を何か装飾したものであったろう、ブランデーをかけて火を燃すオムレツも珍らしかったが、私の眼に今も鮮かにくるのは赤いツブツブのある奇麗な小さな丸《まあ》るいものだった。たしか一つぶしかついていなかったが、あたしが凝《じっ》と眺めていると、父が気がついて、自分のお皿の中からとって、あたしの白いお皿の、青いものの上にのせてくれた。すると、村田さんもおなじように、近眼鏡を近よせて、転がさないようにナイフの上に乗せてよこした。
 それがあたしの、苺《いちご》のみはじめだったのだ。食べはしなかったが、その赤さは充分に私を悦《よろ》こばせ、最後までそのお皿をとりかえさせなかった。
「おかしな奴だ、気にいったら見ているばかりで、他のものも食わなくなっちゃった。」
 父は帰ってからそういった。その癖がついて、洋食は大きくなるまで食べないで、手をつけないで、きらいではない習慣をもった。
 赤大根を知ったのもそれに似よっている。十ばかりの時、クリスチャンの伯母夫婦――台湾のおじさん――が、神田|南校《なんこ》の原《はら》の向う邸《やしき》の中にいた時分、官員だったので洋室の食堂をもっていて、泊りにゆくと洋食が出た。従弟《いとこ》と私の妹おまっちゃんと三人で、赤大根を見た時、お皿の上で、葉をつまんで独楽《こま》のように廻した。黒い立派な大きな門をもったこの邸の構内には、藤島さんという、伯父には長官にあたる造幣局のお役人のお宅があった。竹柏園《ちくはくえん》佐佐木信綱《ささきのぶつな》先生の夫人《おくさま》がそこのお嬢さんだった方だ。伯母の家の前、門のきわの竹の垣根に朝顔が咲いている家からはいい音がきこえていた、琴のこともあればヴィオリンの時もあった。幸田さんという、女でも偉い方で、一生懸命に勉強してお出なさるのだと、伯母はそのお家の前で鬼ごっこなんぞしていると叱っていった。あの有名な音楽家である幸田延子女史と、安藤幸子女史御姉妹のお若いころのことであった。
 南校《なんこ》の原《はら》とは、大学南校のあった跡だと後に知った。草ぼうぼうとして、ある宵《よい》、小川町の五十稲荷《ごとおいなり》というのへ連れてってもらった帰りに、原で人魂《ひとだま》というのを見た。
 外国人の大きな曲馬団が来て、天幕を張り、夜になると太い薪《まき》を積みあげて炎をたてるのが、下町そだちの子供に、どんなにエキゾチックな興趣《おもむき》を教えこんだであろう。私は曲馬を見るよりは、その天幕ばり全部を見るのを楽しんだ。父が来て、伯母の一家みんなと見物にゆこうとしても、私は外景を眺めているといってみんなを困らせた。でも、原っぱのそこかしこに、馬が繋《つな》いであったり、ある場所には象がいたり、かしこい犬がいたり、人間にしても、美くしい白人少女もいれば、黒んぼもいる。その人たちが惜げもなく腕や肩を出して、焚火《たきび》のかがりの廻りにいたり、朝、原っぱを歩いていたりする景色は、とても楽しい生きた画であった。それにこの伯母の家にいると、牛《うし》が淵《ふち》へおたまじゃくしを掬《すく》いにゆけたり、駿河台《するがだい》のニコライ会堂の建築場へもゆけるので、あきなかった。御飯のときにみんなが十字をきるのも私の眼を丸くさせた。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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