青空文庫アーカイブ

鬼眼鏡と鉄屑ぶとり
続旧聞日本橋・その三
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堀留《ほりどめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大伝馬町二丁目|後《うしろ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「∴」の下に「ノ」、屋号を示す記号、395-13]
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 堀留《ほりどめ》――現今《いま》では堀留町となっているが、日本橋区内の、人形町通りの、大伝馬町二丁目|後《うしろ》の、横にはいった一角が堀留で、小網町|河岸《かし》の方からの堀留なのか、近い小舟町にゆかりがあるのか、子供だったわたしに地の理はよく分らなかったが、あの辺一帯を杉の森とあたしたちは呼んでいた。
 土一升、金一升の土地に、杉の森という名はおかしいようだが、杉の森|稲荷《いなり》の境内は、なかなか広く、表通りは木綿問屋の大店《おおだな》にかこまれて、社はひっそりしていた。そのかみの東国、武蔵の国の、浅草川の河尻《かわじり》の洲《す》のなかでも、この一角はもとからの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。
 社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶《なま》めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路《こうじ》を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前《もと》の葺屋《ふきや》町、堺町の芝居小屋《さんざ》への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保《きょうほう》のころ、芝居でする『恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじょう》』や『梅雨小袖昔八丈《つゆこそでむかしはちじょう》』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川|木場《きば》の材木堀のように、材木を溜《た》めておく置場にもなっていたのかもしれない。
 こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門《そうままさかど》威を東国に振い、藤原|秀郷《ひでさと》朝敵|誅伐《ちゅうばつ》の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡《ほろぼ》したので、この地にいたり、喬々《きょうきょう》たる杉の森に、神像を崇《あが》め祀《まつ》ったのだとある。
 そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞《くそ》と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行《はやり》ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁《ゆえん》はあるが、廂《ひさし》をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。
 それは寛正の頃、東国|大《おおい》に旱魃《かんばつ》、太田道灌《おおたどうかん》江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷《いの》りをした験《しるし》があって雨降り、百穀大に登《みの》る。依《よっ》て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請《かんじょう》したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌《どうかん》が祷ったという神の名も記してない。秀郷祀るところの御本体も置いてない。だが、附記にも、昔杉の木立いと深かりしなりとある。あたしも子供の時分、四月十六日のお祭奠《まつり》に、杉の木へ寄りかかって神楽《かぐら》を見た覚えもあざやかに残っているし、小僧が木の幹にしがみついて、登って見ていたのも覚えているから、幾本かは、幾度かの江戸の大火にも、焼け残って芽をふいていたものと思われる。
 堀留は、地名辞書によると、堀江、または堀留江、伊勢町堀ともいう、日本橋川の一支、北にほり入ること四、五町ばかりとある。
 前置きは長くなったが、そのほとりの大店《おおだな》は、夕方早くから店の格子を入れてしまう。この格子は特長のあるいいものだった。一、二寸角の、荒目の格子で、どっしりとした黒光りの蔵造りの、間口の広い店は、壮重なものにさえ見えた。灯《とも》し火がつけば下の方だけの大戸が下りて、出入口は、引き戸へ潜《くぐ》り口のついたのが一枚おりている。上の方は、暑中でなければ油障子がおろされ、家の中からの灯が赤く、重ったくうつって、墨で描いた屋号の印《しる》しが大きくうきあがっている。譬《たと》えば、※[#「∴」の下に「ノ」、屋号を示す記号、395-13]丁字星だとか、それが三つ組んでいるのが丁吟《ちょうぎん》だとか丁甚《ちょうじん》だとか――丁字屋甚兵衛を略してよぶ――※[#「仝」の「工」に代えて「二」、屋号を示す記号、395-14]《やまに》だとか、※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、395-14]《さつま》だとかいうのだった。そうした大店の棟《むね》つづきで、たてならべた門松などが、師走末の寒月に、霜に冴《さ》えかえって黒々と見える時は、深山のように町は静まりかえって、いにしえの、杉の森の寒夜もかくばかりかと思うほど、竦毛《おぞけ》の立つひそまりかただった。
 いま、ここに、ちょっと出てくる杉本八重さんも、そうした大店のお嫁さんだったのだ。あいにく、幼少《ちいさ》かったわたしは、美しかったお嫁さんのお八重さんの方を見ないでしまって、憎らしいおばあさんの方を見たことがあるが、そのお姑《しゅうと》さんの方も顔にハッキリした記憶が残らないで、話の方が多く頭のお皿のなかに残されている。尤《もっと》も、ほんとの主題は、この二人の方でなくて別にあるのだから、どうでもよいというものの、事実は決してつくりごとではない。しかも一つ家に姉妹とよばれた人が、お八重さんに同情してよく繰りかえして話してくれたことで、おばあさんの方の話は、その当時あまり有名で、子供のあたしたちは聞くのも煩《うるさ》いものに思っていたほどであった。
 明治二十一年ごろ、東京の芝居は、大劇場に、京橋区|新富《しんとみ》町の新富座、浅草鳥越の中村座、浅草馬道の市村座。歌舞伎座が廿二年に出来るまでは、そのほかに中《ちゅう》芝居に、本所の寿《ことぶき》座と本郷の春木座、日本橋|蠣殻《かきがら》町の中島《なかじま》座と、後に明治座になった喜昇《きしょう》座だけだった。劇場《こや》はちいさくとも中島座や寿座の方が、喜昇座より格がよいかにさえ見えた。浅草公園の宮戸座や、駒形の浅草座などは、あとから出来たもので、数はすけなかった。
 そのころの中島座には、現今《いま》の左団次の伯父さんの中村|寿三郎《じゅさぶろう》や、吉右衛門《きちえもん》のお父さんの時蔵や、昨年死んだ仁左衛門《にざえもん》が我当《がとう》のころや、現今《いま》の仁左衛門のお父さんの我童《がどう》や、猿之助《えんのすけ》のお父さんの右田作《うたさく》時代、みんな、芸も、顔もよい、揃って覇気《はき》のある、若い役者の大役を演じるところだった。そこに、後に工左衛門となった、市川|鬼丸《きがん》という上方《かみがた》くだりの若い役者がいて、唐茄子屋《とうなすや》という、落語にもよくある、若旦那やつしが、馴れぬ唐茄子売をする狂言が当って、人気が登って来たが、坊主頭の女隠居がついているというので、大変やかましい取り沙汰になった。その当時、そうしたみだらごとで、女隠居の名が新聞に出るということなどは、この物堅い大店町では、実際たいした内面暴露なのであったが、ものに動じない女隠居は、資産《かね》のあるにまかせて、堀留から蠣殻町まで、最も殷賑《いんしん》な人形町通りを、取りまき出入りの者を引きしたがえて、廓《くるわ》のなかを、大尽《だいじん》客がそぞめかすように、日ごとの芝居茶屋通いで、世間のものを瞠目《どうもく》させたのだった。男|妾《めかけ》――いやな字だが、そんなふうにも書かれた。男地獄《おじごく》――そんなふうにも言われた。だが、幼いものには、なんのことだかわからないが、憎々しい坊主女だとは思った。
 このお婆さんが、人もなげな振舞いを、当主がどうして諫《いさ》められないのかといえば、実子ではなかったのだ。二人生んだ子を、二人まで死なせてしまって、養子をしたのではあり、このおばあさんと、死んだ連合《つれあい》とが、前にいった大長者格の呉服問屋、丁吟《ちょうぎん》からのれん[#「のれん」に傍点]を貰って、幕末明治のはじめに唐物屋を開いたのが大当りにあたって、問屋まちに肩をならべ、しかも斬新《ざんしん》な商業だけに、横浜の取引、外国人との接触などで、派手であり暮しむきも傍若無人な、金づかいのあらいものだったのだ。
 おばあさんは頭のおさえ手がなく、鼻息のあらいのは、その辺の御内儀とちがって、成上り者だったのだ。この女は、生れたのが葺屋《ふきや》町――昔の芝居座の気分の残る、芸人の住居も多く、芳《よし》町は、ずっとそのまま花柳《かりゅう》明暗の土地であり、もっと前はもとの吉原もあった場処ではあり、葺屋町は殷賑なところで、そこの古着屋の娘に生れた、おつやというのがそのおばあさんの名だったが、役者買いと嫁いじめで、人よんで「鬼眼鏡」と綽名《あだな》した。
 その女が若い盛りに、杉の森の裏小路で、長唄のお師匠さんをしていた時分、若い衆であったお店《たな》の人甚兵衛さんが思いついて夫婦になり、当時の開港場横浜取引の唐物屋になったのだ。この鬼眼鏡に睨《にら》まれて、三十歳になるかならずで、明治廿二、三年ごろに死んだお八重さんは、神田ッ子だった。下駄《げた》の甲羅問屋の娘さんで、美しいので評判な娘だったのを、鬼眼鏡が好んでもらったのだが、実家にいては継母《ままはは》で苦労し、そこでは鬼眼鏡に睨み殺された。と、いうと、おだやかでないが、陰気で、しなやかに撓《たわ》む、クニャクニャした気象の女《ひと》だったら、どうか我慢も出来たであろうが、お八重さんが、サックリした短所も長所も、江戸ッ子丸出しの気性《さが》だったのだから、その嫁と姑のやっさもっさ[#「やっさもっさ」に傍点]が、何処《どこ》やら、今から見ると時代ばなれがしている。
 鬼眼鏡おばあさんのおつや、世間でやかましい鬼丸との評判を、嫁にきかせまいとするので、嫁の外出はすっかりとめて、しかも嫁いじめの手は、雪が降る日には、店の者も奥の者も、みんな、およそ雇人《やといにん》と名のつくものは一人残らず中島座の見物にやり、土間(客席のこと)の桝《ます》を埋めさせる。そのあとで、風呂にはいりたいといいだす。それも、折角だから、雪風呂にはいりたいといって、雪を嫁さんに掻《か》きあつめさせて沸《わ》かさせる。今日のようにガスや、石炭などはない、薪《まき》で燃す時分にである。
 だから、お八重さんは、勝気な血がどうしても鎮《しず》まらないと、生《いき》の好い鰹《かつお》を一本買って腸《わた》をぬかせ、丸で煮て、ちょっと箸《はし》をつけたのを、下の者へさげたりする。あるときは、大丸(有名な呉服店)へ、明石の単衣《ひとえ》物を誂《あつら》えて出来上ってくると、すぐさま、たとう紙から引出して素肌に引っかけ、鬼眼鏡の目をぬすんで、戸棚の中へはいって昼寝をする。一度でも、好みの衣類に手を通したよろこび――それで堪能《たんのう》していたのだった。

 唐物屋は――小売店の唐物屋は、舶来化粧品から雑貨類すべてを揃えて、西洋小間物雑貨商などのだが、問屋はその他、金巾《かなきん》やフランネルの布地《きれじ》も主《おも》であり、その頃の、どの店でも見ない、大きな、木箱に、ハガネのベルトをした太鋲《ふとびょう》のうってある、火の番小屋ほどもあるかと思われる容積の荷箱が運びこまれて、棟の高い納屋を広く持ち、空函《あきばこ》をあつかう箱屋までがあって、早くから瓦斯《ガス》やアーク燈を、荷揚げ、荷おろしの広場に紫っぽく輝かしたりした。構えも大きく広やかだった。
 それにつづいて、見かけは唐物問屋ほど派手ではないが、鉄物――古鉄もあつかう問屋がめざましく、揚々《ようよう》としていた。洋銀《ドル》相場での儲《もう》けは、商業とともに投機的で、鉄物屋の方が肌合が荒かったかともおもわれる。いってみれば唐物屋はインテリくさく、鉄商は鉄火だった。
 この、鬼眼鏡おつやを学ぶのが、鉄屑肥《かなくそぶと》りの大内儀《おおかみ》さんであったのだ。
 前承のおおかめさんは、たしかに鬼眼鏡の有名な遊興によって、発奮したといってもよいのは、彼女も八丁堀の古着やの娘であったし、俺も働いて資産《しんだい》をつくったのだという威張りと、亭主が、横浜まで裸で、通し駕籠《かご》にのって往来《ゆきき》したというほど野蛮で、相場上手だったので運をつかんだのだが、理想が鬼眼鏡だから、自分もそうした人気者を贔屓《ひいき》にしようとした。

「おい、この子は、どこの娘《こ》だ。」
「あたいの娘だよ。」
「嘘《うそ》言え、手めえの面にきいてみろ。」
「ほんだよ、末の娘だあね。」
「ごらんじゃい、まあ! あんまり乱暴におはなし遊ばすので、このお娘《こ》が、はは様のお顔を、びっくりしてごろうじる――」
 まったくわたしは吃驚《びっくり》して! 母などとは、きくもいまわしい、汚ない、黒いダブダブ女を※[#「目+登」、第3水準1-88-91]《みつ》めていた。
 ここで、わたしという、あんぽんたん女史|十歳《とお》か十一歳の、ぼんやりした映像をお目にかける。厳しい祖母の家庭訓に、こんな会話の場所へ連れだされても、みじろぎもしないで坐っているのだったが、鉄屑《かなくそ》ぶとりのおおかみさんの死んだ末っ子と、おなじ年齢《とし》だというので、ちょっと遊んだこともあったので、思い出してしかたがないから、浅草|観音様《かんのんさま》への参詣《おまいり》にお連れ申したい、かしてくれと申込まれて、いやいやながら、親のいいつけにより伴われて来たのだが、そこは観音様ではなく、芝居がえりの、料理屋の座敷だった。
 あたしたちが座蒲団に乗ると、すぐ間もなく、テラテラした、金壺眼《かなつぼまなこ》で、すこしお出額《でこ》の、黒赤い顔の男――子供には、女も男も老人に見えたが、中年人だったのかもしれない――柔らかい袴《はかま》を穿《は》いて、黒い手|提《さ》げ袋をさげてはいってくると、座蒲団の上に突ったったまま、あんぽんたんを見てそういったのだった。
 と、大女房《おおかめ》さんが、衣紋《えもん》をつきあげながら甘ったれて言ったのだ。あたいの娘だと――
 あんぽんたんの憤懣《ふんまん》は、それっきり、ものを食べなくなってしまったのだが、大人《おとな》はそんな感情がわかるほど、しっとりとしていなかった。乾ききった人たちだった。
 青黄ろい、横皺の多い、小さな体で、顔が、ばかに大きく長目な、背中をわざと丸くするような姿態《しな》をする、髪の毛が一本ならべて嘗《な》めたような、おおかめさんのお供をしてきた大番頭の細君は、御殿づとめをしたという、大家の女房さんたちのするような、ごらんじゃい言葉で、ねちねちとものをいって、その場をとりなすのだった。
「ほんとにおめえの娘なら、亭主の子じゃあねえな、おれんとこへよこしな、みっちり芸をしこんで――」
「芸者に売るんだろう。」
「まあまあ、何をおっしゃるやら、以前《いぜん》のようには、茂々《しげしげ》お目にかかれませぬに――」
 そういう大番頭夫人の顔を、いつぞや、見世ものでみた、※[#「けものへん+非」、402-14]々《ひひ》のような顔だと、あんぽんたんは見ているうちに気味が悪くなった。
「しげしげお目にかかるんじゃあ、おらあ、生きてるより死んだ方がいい。」
「あんな、もう、憎《にく》て口を――」
 大番頭夫人は口で憎がるが、おおかめさんは機嫌よくお杯口《ちょく》を重ねて、お酌をしたり、してもらったりしている。
「次の狂言には、何をやるのさ、お前さん。」
「八百屋の婆《ばば》あだよ。」
「まあね、さぞ、およろしかろうね。」
 大番頭夫人は、小さな丸髷《まるまげ》とはつりあわない、四分玉の珊瑚珠《さんごじゅ》の金脚で、髷の根を掻《か》きながらいった。
「厭味《いやみ》な婆あにすりゃあいいんだから、よくなくってどうするんだ。手近に、そのままのがいるじゃあねえか。そっくりそのまま真似ときゃあ、すむんだ。」
 ぼんやりと憤っているあんぽんたんの顔を見て、あごで[#「あごで」に傍点]、そら、そこにね、というふうにおおかめさんの方を、しゃくって示しながら、その男は上機嫌に笑った。もの言いより賤《いや》しくない態度で、鋭い毒舌だった。
「おい、おさつさん、八百屋が出るようだったら、衣類《きもの》をかりるぜ、今着ているのを、そのままでいいや。」
と、猪首《いくび》で、抜き衣紋《えもん》をするかたちを、真似て見せた。
 あたしは、この肥《ふと》っちょのおおかめさんに、おさつさんという名があるのを、不思議な気もちできいていた。
 ――この、不思議な会話を、後日思出したときに、幼いころの、この謎《なぞ》のようなことばが、やっと解けたのだった。八百屋の婆とは『心中宵庚申《しんじゅうよいごうしん》』の八百屋半兵衛の養母の役でいろぶかい姑婆《しゅうとばば》あのことであったのだ。その時の、袴《はかま》をはいた、色の黒い中年男は、中村勘五郎といった皮肉屋で、浅草今戸に書画や骨董《こっとう》の店を、後になって出したりした、秀鶴仲蔵《しゅうかくなかぞう》を継ぐはずの俳優《やくしゃ》だった。彼は、贔屓《ひいき》の女客を反《そ》らさないようにしながらも、なかなか傲岸《ごうがん》で、しゃれのめしていたのだった。
 もし、この女客――八百屋半兵衛の養母の拵《こし》らえ、着附けを、すこし委《くわ》しく述べるとすると、黒|繻子《じゅす》の襟のかかった南部ちりめん、もしくは、そのころは小紋更紗《こもんサラサ》も流行《はや》っていた。友禅の長|襦袢《じゅばん》のこともあったが、売出されたばかりの、ごく薄手の上等の英ネルの赤いのを胴にした半じゅばんへ水色っぽい友禅ちりめんの袖をつけて、袷《あわせ》仕立にした腰巻き――塵《ちり》よけともいうが、白や、水浅黄《みずあさぎ》のゴリゴリした浜ちりめんの、湯巻きのこともある。黒ちりめん三つ紋の羽織、紋は今日日《きょうび》とおなじ七|卜《ぶ》位だった。そのあとで、女でも一寸一卜《いっすんいちぶ》位まで大きくなって、またあともどりしたのだ。しかし、そのまた前まで、ずっと昔から大きいのがつづいていたのだったようだ。
 おおかめさんの体重《めかた》は、年をとっていたから、十八、九貫ぐらいだったろうが、そのかわり皮膚が拡《ひろ》がって、どたり[#「どたり」に傍点]としていたから、お腹《なか》の幅や、長く垂れた乳房《ちぶさ》の容積などは、それはたいしたものだった。鼠《ねずみ》ちりめんへ宝づくしを細かく縫にしたじゅばんの半襟は、一ぱいにひろがって藤色の裏襟が外をのぞいている。その間からお酒に胸《むな》焼けのしている皮がはみだすのを、招き猫のような手附きで話をしながら、時々その手で、衣紋《えもん》を押上げるのだった。羽織の紐《ひも》が閂《かんぬき》のように、一文字に胸を渡っていた。
 おおかめさんの顔で目立つのは、額と頬っぺたの広々とした面積で、高く盛上っている。口も反《そ》って分厚な、大きな唇をもっていた。そのかわりに、謙遜《けんそん》すぎるのが鼻と眼だった。眼は小いさいばかりでなく、睫毛《まつげ》が、まくれこんでいるので――トラホームだったのかもしれない――小いさいばかりでなく、白っぽく、光りがなくて、そのくせ怖かった。まわりからくる体つきの愛嬌《あいきょう》で、ニコニコしているように見えたが、眼は決して笑っていなかったその眼の無愛想《ぶあいそう》をおぎなって、鼻が親しみぶかかった。お団子を半分にして、それを拇指《おやゆび》でおしつけたように、押しつけたところがピタンとしている。大きな鼻の穴が、竪《たて》に二つ柿《かき》のたねをならべたように上をむいている。
 頭は、薄い毛の鬢《びん》を張って、細く前髪をとって――この時分、年配者は結上げてから前髪の元結《もとゆい》をきってしまって、鬢《びん》の毛と一緒に束髪みたいに掻《か》いていたのだが――鼈甲《べっこう》の櫛《くし》、丸髷《まるまげ》の手がらは、水色のこともあれば藍《あい》色のこともあった。プラチナの細い上へ、大きく紫っぽいダイヤが、総彫刻の金指輪のとなりにあって、そぐわない手の上で、迷惑そうに光っていた。
 小紋更紗といえば、この、中村勘五郎の息子に、銀之助という少年役者が、その日、芝居の見物をしていた桟敷《さじき》の裏へ挨拶に来ていた。そのころの劇場は、当今《いま》の一階椅子席――一等席から二等席の方へかけて、ずっと細長く、竪に半間はばよりすこしゆるめに、長い長い溝になっていて、畳がずっと敷きつめてある。それが両|花道《はなみち》のきわまでつづき、またそれを一コマずつに、細い桟木《さんぎ》で仕切っていって、一コマが、およそ一間の四分の一に仕切られて、その中に四つ、または五枚の座蒲団《ざぶとん》が敷いてある。これが芝居道でいう一間《いっけん》――一桝《ひとます》なので、場席《ばせき》を一間とってくれ、二間《にけん》ほしいなどというのだった。二間三間と陣《じん》どって、ゆっくりはいりたければ、代金さえ支払えば定員だけはいらなくともよいのだし、そのかわりに子供も交《ま》ぜて六人はいっている窮屈なのもある。それを一桝とれとか二桝ともいった。桟木《ませ》は――ツマリ仕切りは、出方《でかた》――劇場員によって取りはずしてくれるから、連れであることは桝を見ればわかるのだった。役者の連中は、この長い竪《たて》の溝を貫ぬいて幾本もとるのと、夏なぞは、その役者の揃いの浴衣を着て、役者の紋のついている団扇《うちわ》を一人ひとりが持っているので、華《はな》やかでもあり、宣伝としても効果的だった。花道の外になる両側は三段、もしくは四段の雛段《ひなだん》式に場席がなっていて、一桝くぎりはおなじだが、これは舞台へ斜めにむかう工合《ぐあい》で、おなじ竪に流れていながら横にならんでいる感じでならび、一段ごとに緋《ひ》の毛氈《もうせん》がかかっていた。もとより、その雛段にも連中は並《なら》んだから、魚河岸《うおがし》とか新場とか、大根河岸《だいこんがし》とか、吉原や、各地の盛り場の連中見物、その他、水魚連《すいぎょれん》とか、六二連《ろくにれん》、見連《けんれん》といった、見巧者《みごうしゃ》、芝居ずきの集まった、権威ある連中の来た時など、祝儀をもらった出方《でかた》が、花道に並んでその連中に見物の礼を述べたり、手打《てうち》をしたりして賑わしかった。
 この雛段を、下から、新高《しんだか》、高土間《たかどま》、桟敷《さじき》ととなえ、二階にあるのは二階|桟敷《さじき》、正面桟敷といった。そこにも緋のもうせんがかかっている。「助六《すけろく》」の狂言の時などは、この二階桟敷の頭の上と、下の桟敷の頭の上に、花のれんがさがり、提灯《ちょうちん》がつるされるので、劇場内は、ぐるりと一目《ひとめ》に、舞台の場面とおなじ調子をつくりだすので、見ている観客までがその場の、一場景につかわれる見物人にもなるので、浮立ってくる心理が、とても、こく[#「こく」に傍点]のある甘さとなって、演じる役者もみるものも、とうぜんと酔っぱらったのではないかと思うし、昔の芝居のおもしろさは、こんなところにあったのだなということが、今になって思われるのだった。
 そうした桟敷の後の板戸を、そっと引き開けるものがあった。舞台に夢中になっている女たちは気がつかなかったが、ちいさな、あんぽんたんは、透間風《すきまかぜ》が、おかっぱのまんなかにあけた、ちいさな中剃《なかず》りや、じじっ毛のある頸筋《くびすじ》に冷たくあたったので振りかえると、つくなんでいた男が、手のついた青い籠《かご》の上へ、手拭《てぬぐい》袋包をのせ、手拭と菓子籠の間へ、ヒラヒラと、巾《はば》一、二厘の、丈《たけ》五|卜《ぶ》ばかりの赤や青のピラピラのさがった楽屋簪《がくやかんざし》を十本ばかりはさんだのを、桟敷の中へ押入れるようにしていた。
 と、おとなたちも気がついて、振返えると、また二、三寸板戸の開きがひろげられて、そこへ、他の男衆《おとこしゅう》を供につれた銀之助が来たのだった。あの黒い、眼の鋭い、お出額《でこ》の役者の子だとあとできいたのだが、この子は葱《ねぎ》のような青白さで、あんぽんたんが覚えているのは、薄青い若草色の羽織と、薄|柿《かき》色の着もので、羽織とおなじ色の下着を二枚重ねて着ていた。あたしが家《うち》へおくられて帰るときに、その青籠入のお菓子と、手拭と、楽屋かんざしをそっくりつけてよこしたので、家《うち》のものがいろいろその日の様子をきいたおり、その葱のような役者が、この贈りものをもってきたのだといったらば、それが中村銀之助という子役だと、母たちがいっていた。
 簪《かんざし》は鶴がついているのと、銀杏《いちょう》の葉とのがあって、ピラピラに、舞鶴《まいづる》や、と役者の屋号を書いたのと、勘五郎としたのと、銀之助と書いたのとが交《まざ》っていた。手拭袋のもようと色とが、銀之助が着ていた着物とおなじなので、思いだして話すと、これは、鶴菱《つるびし》というので、舞鶴屋の紋でもあると祖母がおしえてくれた。そしてその着物のことを、染めさせた小紋であろうといっていたので覚えてしまったのだった。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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